■Case 03-04「サーヴァント・ソルジャー」

 西暦1949年5月15日、「ケース・パープル」と呼ばれるナチス・ドイツによる対ロシア作戦が開始されたのだが、侵略者となったドイツ人とその従属国家以外の国々の対応は表面上冷淡なものだった。
 何しろそれは、いまだ正式に終了していないドイツとソ連(1945年以後はロシア)の戦争に過ぎず、まともな政治的理由で文句を言える国がほとんどなかったからだ。
 反対にロシア人に殴りかかった側の欧州諸国はやる気満々で、自らの旗を誇らしげに前線にまで持ってくる国も一つや二つではなく、ベルリンでの彼らの「祭り」を収録したニュース映画で様々な三色旗に混ざって、多数の派手やかな十字旗が立つ様を見た中央アジア系のベテラン兵が、「向こうはクルセイダー気取りだ」とつぶやいた言葉が、その全てを要約していると言いたげな状況だった。
 だが、ロシア人が全くの孤立無援かと言えばそうでもなく、東洋の諺にあるように、出過ぎた存在は疎まれるのが常で、様々な地域に住むアングロ・サクソンや東洋の端っこで気が付いたら大国になっていた東洋人達は、数年前とはまるで違った態度をロシア人に見せるようになっていた。
 私自身、彼らとロシア人たちが楽しげにウォッカやバーボン、セイシュを酌み交わす情景を見たことも一度や二度ではない。
 そうした流れは1942年以後、年を追うごとに増えていき、特にドイツの態度が急変した1949年を迎えた辺りから急速に拡大していた。
 隣国満州の工場の多くが事実上の24時間操業状態に入ったのも1948年のクリスマスを越えた頃からで、ハルビンで怪しげな仲介商をしていた亡命ロシア人、いわゆる「白系」と呼ばれる人々に属する事になる私の羽振りが急によくなったのもこの頃からで、気が付いたらロシア向けの傭兵団体のスポンサーのような立場にまでなっていた。
 もっとも私は、帝政ロシア末期にドイツ東部から特殊技術者として招聘され移民した歴としたプロイセン出身のユンカーの末裔で、ご先祖様にならいウォッカよりもシュナプスをこよなく愛する習慣を持っており、日本とドイツの関係が悪化したおかげで、東洋の果てでシュナプスの価格が高騰したことを嘆いているごく少数派の一人だ。このため今も日本製の少し変わったシュナップスを飲む羽目になっているのだから、私の出自を疑うものは少ない筈だ。

 この度のドイツとロシアの本格的戦闘が始まった時、私はウラル山脈南端のオルスクの街の郊外にまで付いてきて、自分がスポンサーを務める形になっている、くだんの「傭兵団」と共に欧州ロシアとシベリアと中央アジアの境目にあった。
 私の「傭兵団」は、特別編成の装甲列車(高射砲や機関砲を多数備えた重防空列車)を満州からしたてた破格の待遇で現地入りし、一週間ほどかけてシベリアを渡りきって当地にまで至った。
 なお「傭兵団」は、満州国が商売のためのショーウィンドーとして作り上げた教導戦車部隊を背骨として、これに全ての兵科を複合した単独の戦力単位としての価値を持っているものが標準的な編成で、ロシア人がすぐにも使える新型戦車部隊を欲しがった事からロシア軍の一部として「雇い入れる」形で派遣された。しかも、このような部隊は満州の親玉である日本やアメリカ、なぜか中華民国など様々な国からも派遣されており、それぞれ自分たちで「八旗兵」、「遣露義勇軍」、「騎兵隊」などと呼びながら、そのどれもがほぼ似たような編成を持っていた。どの国も自国の兵器ビジネスと戦訓を持った兵士を確保すべく積極的な姿勢を示していたと言うことだろう。まあ、中華民国などの場合は純粋に外貨を欲しかっただけという噂がしきりだったが。そういえば、チャイナと似たような連中に味気ない幾何学的な文字を使う連中もいたように思う。
 そしてそれらの中でも変わり種は、欧州から亡命してきていたユダヤ系兵士で構成された「シオン」達で、傭兵団・義勇軍としては最大規模の勢力を誇っており、ロシア系ユダヤ人以外のユダヤ人を兵士として、世界中から集めた資金、物資、武器によって軍団規模の部隊を2つも構成し、ダビデの聖印である六芒星を縁取ったエンブレムを描いていた。
 また、私も抱えている事になっている「双頭鷲」と呼ばれた白系ロシアの戦闘団も時代背景を考えれば特異な存在と言え、ソ連が無くなった事からロシアへの帰還を望んだ人々に対して、現ロシア政府が従軍を復帰の条件にしたため、その受け皿として作られた組織で、私の戦車団以外にも多数の部隊があり、数としては比較的多い傭兵団が形成されている。
 なお、私が「保有」する事になる部隊は、この「双頭鷲」の一つで、当然白系ロシア人傭兵の主力として編成された重機械化旅団だ。

 さて、私が到着した時にはすでに戦争は開始されていたのだが、共産主義の衣を捨て去った新生ロシア政府の方針は首尾一貫していた。
 「ウラルを守ること」これに尽きていた。
 生産拠点は、西シベリアや極東への積極的移転をしていたが、ロシアを国家として、いや大国として存続させるにはこれ以上の後退は許されず、出来るならばボルガ河一帯も死守すべきだというのが本音だろうが、強大なドイツ軍を前にしてはそれが短期的に難しい事など最初から分かり切っており、すでに一度戦争を失った彼らに希望的観測や楽観主義は許されなかった。
 なお、西欧の大悪魔たるドイツ東方軍だが、「ウラル軍集団」、「ボルガ軍集団」、「カスピ軍集団」とそれぞれ呼ばれ、ボルガ河から続く縦深防御陣地地帯を突破して後は、ウラル山脈を半包囲するように進撃する経路を辿っていた。
 一方ロシア側は、「北」、「中央」、「南」と3つの軍集団を以てボルガ河東岸での防戦に務めており、ここ半年ほどで著しく強化された装備のおかげもあって、一週間は戦線を押し止める目処は立っていたが、それ以降は遅滞防御戦を展開しつつ消耗戦を戦うしかないだろうと判断されたため、無駄な犠牲を避けるべく当初から遅滞防御を主体とした気の長い機動縦深防御戦が行われる事になっていた。
 そして、ドイツ人達が攻勢限界に達するであろうウラル前面に達した時点で、ありったけの機甲打撃力を叩きつけて彼らの鼻面を叩き折り、以後は可能な限りの逆侵攻を行うという流れになるらしかった。典型的な後手の一撃というやつだ。
 まあ、そんな都合良くいかないだろうと見られたが、我々の役割はそのありったけの機甲打撃力の一角としてドイツ人の鼻面を叩き折る事だった。

 前線での戦闘開始から一ヶ月近くも経った頃、いまだ待機を続け腐りきっていた我々の駐屯地の隣りに、先に来て前線での機動防御戦に従事していた部隊が、反撃戦力への指定を受けたとの事で再編成を兼ねて下がってきた。
 やって来た部隊は「傭兵団」の中で最も堅苦しい名称を持った日本人たちのもので、規模は重編成の旅団規模らしかった。
 そう、下がってきたのは日本人の「傭兵団」だった。
 この部隊は、160両近い新型戦車を有する、ロシア人の基準からなら師団規模に近い戦力を持つ強力な戦車集団で、戦車大隊3個、機械化歩兵大隊1個を基幹戦力に、重捜索中隊(機甲偵察中隊)、砲戦車中隊(機甲猟兵中隊)、機械化砲兵大隊、機甲防空中隊などで編成されていたが、その全てが標準規格よりも大きな編成を持っており、合計200両近い装甲戦闘車両を持つ日本軍全体で見ても第一級の精鋭部隊だった。
 何でもこの部隊は、ここに下がる直前の戦闘でフランス軍の正規編成の機甲師団と激突する羽目になったそうで、その損害回復を兼ねての後退と教えられた。
 もっとも部隊に属する日本の兵士達(将校ではない)は、フランス軍はドイツのお下がりの旧式戦車ばかりだから楽でしたと控えめに答えてくれたが、どの戦車もハーケンクロイツの出来損ないのような撃破章を描いている事から推察するに、日本人達はフランス人の機甲師団を丸々一つ消滅させたのではとその時慄然とし、戦後の情報開示でそれがあながち間違いでないと思い知らされる事になる。
 さすがは、お国の精兵だけの事はあると言うことだろう。
 そして、我々の隣りに日本傭兵がやって来たように、反撃用の予備兵力に指定された部隊は、こういった傭兵たちの天国だった。
 車で数時間で行ける距離内に、アメリカ人や中国人、そして我が白系ロシア人傭兵など、戦車戦のエキスパートとして地上の地獄に送り込まれた傭兵の半分以上が鋼鉄の饗宴の時を待っていた。

 何が楽しいのか、土田山を背に原っぱを歌いながら駆け足で行進するアメリカ兵、所構わず個人的な商売を始める中国兵、可能な限りクリスチャン系の部隊と接触したがらないユダヤ兵、所構わず根拠の薄い自己主張を始めるコリアン兵、戦闘時の勇猛ぶりが信じれないほど大人しく集団で行動したがる日本兵など、そこは兵隊の博覧会のような場であり、特に随伴歩兵として派遣されていた兵士達の多彩ぶりには目を白黒したものだ。
 何でも、日本やアメリカは海兵隊や海軍陸戦隊に属する歩兵も派遣(出向という奇妙な表現を使う者もいたが)されているらしく、それが多彩さに輪をかけていたそうだ。そう言えばアメリカ兵や日本兵は二種類見かけたように思う。
 まあおかげで、様々なご当地料理や酒類にありつく事ができたのだから、一個人としては非常に有益な体験ができたと言えるので文句もないのだが。

 なお、ロシア人達はこの傭兵部隊の呼び出し符丁として、昔ながらの武器や昔の兵科の名称を用いており、自分たちこそがこの大地での「主」で、外から来た者達は「主」の武器もしくは「従者」としての役割を果たせばよいのだと、暗に言っているようにも思えた。
 ちなみに部隊規模の大きな、「八旗兵」(満州国)、「遣露義勇軍」(日本軍)、「騎兵隊」(アメリカ)、「シオン」(ユダヤ系)、「双頭鷲」(白系ロシア)は、それぞれ英語で訳すと「ランサー」、「セイバー」、「ライダー」、「シールド」、「アーチャー」と呼ばれ、それぞれの国の特徴的な武装(中国=戟もしくは青竜刀?、日本=刀、アメリカ=騎兵隊)を武器の見た目を呼称にしたとされ、ユダヤ系は最大のスポンサーと言われるロスチャイルド家に掛けたものと言われ、我々白系ロシアが「弓」とされたのは、彼らなりの何かしらの皮肉らしかった。まあ、ロクな事を揶揄しているワケではないだろう。
 そして、それらの部隊に共通しているのは、そのどれもが贅沢な外国資本により鎧われた重武装集団と言うことであり、過半の部隊が新型戦車の「Pz-47」を主力とする、国家存亡の危機に立つロシア人達にとっての切り札の一つ、ジョーカーとなっていた。

 その後しばらく、隣の日本人たちの駐屯地には多数の車両が出入りして、戦車の補充(さらなる改良型らしかった)なども到着し旅団規模の部隊がいるとは思えないほど賑やかなものだったが、そこでも私がごく普通の戦場と信じる光景を裏切るものをいくつも目撃する事になる。
 アメリカ人や日本人達が、回転翼を持った航空部隊を自分たちの旅団の編成に組み込んだ事がその代表だろうか。
 偵察や連絡用に試験導入されたとの事だったが、日本兵達の方はどうやら少数の歩兵部隊を運用するための奇襲用としても考えているらしいと、ベテラン兵が教えてくれた。
 だが、最も私を裏切ったのはそうした勝手に未来に向かっているアメリカ人や日本人達ではなく、近くに布陣していたロシア兵達の方で、その最大級の驚きとなったのは、多数の女性兵士の存在だった。
 しかも後方勤務の医師や看護婦、通信兵、タイピストなどではなく、第一線に立つ歩兵(狙撃兵が多い)や戦車兵、航空機パイロットまでいて、特に「T-34/76」や日本から輸入された旧式戦車の戦車兵に女性兵が多いのには驚かされた。
 もともと「T-34/76」は人間工学を無視して工業製品的合理性を追い求めたため車体内空間が狭く、ロシア人の中でも小柄な者が選ばれる傾向が強く、それは日本人の体格に合わせて作られた日本の小型戦車が対象となっても結果は同様だった。
 これがドイツとの戦いで欧州ロシアを失った事で、ロシア軍全体に人的資源の著しい不足が、前線での兵士の不足をきたすようになり、これにソ連時代の男女平等の考えが、前線にまで女性兵士を出す習慣が一般化し、男子よりも小柄なのが常である女性兵士が、軽戦車、中戦車へと配属される流れが、「自然と」作られたのだそうだ。
 また、日本の旧式戦車は、日本人的凝り性のせいか作られた頃の工業水準の低さのせいか扱いが難しく、反対に「T-34/76」は木槌のハンマーがないと操縦が出来ないと言う大雑把さから、大味なロシアの大男よりは、多少は小柄な女性が適正があったのだろうとも言われていた。
 だが、そのようなロシアの事情を加味したとしても、第一線の戦場に女性兵士が多数存在するという事そのものは、徴兵された経験もない民間人であった私には大きな衝撃で、まだ10代や20代、ヘタをしたら中学生ぐらいかもしれない女性兵士達の普段の屈託ない笑顔を見せられると、何ともやり切れない気持ちになったものだ。
 そして彼女たちは、民間人である私が戦場となる当地を離れようとする時も普段と変わりなく過ごしており、そしてその多くが最後の別れとなった。

 屈強な傭兵と少女兵士が肩を並べて戦う戦場、それが戦車の楽園、つまり地上の地獄となったロシアの現実だった。

 Case 03-05「ケース・パープル」