■Case 03-05「ケース・パープル」

 1949年5月15日から始まった、何度目かとなるロシア人との戦いはそれなりに順調だった。
 もちろん、我々ゲルマン民族にとってである。
 だが、全ての面でうまく行っているワケではなかった。

 確かに進撃速度そのものは、スケジュール表の上から確認する限り、当初一週間続いた激しい攻防戦を除くなら比較的順調だと言えただろう。
 「ウラル軍集団」、「ボルガ軍集団」、「カスピ軍集団」と3つに分割された鋼鉄の濁流は、ロシア人達が数年かけて築き上げた停戦ライン上に広がる重厚な野戦築城線を突破して後は、ボルガ川を渡ってウラル山脈目指して進撃を続けており、各地でロシア軍の前線を突破・蹂躙しているように見えていた。
 それは、1941年のバルバロッサの再現のようだと「狼の巣」では激賞され、たいした戦果を挙げなくても進撃速度が目覚ましければ、その部隊や兵士に鉄十字章が授与される事も希ではなかった。それは、数年ぶりの戦争ということを考慮した士気高揚の一手段と思えなくもないが、違和感のあるものだった。
 そして我々が違和感を感じたように、前線にいる我々にとって今度のロシアは首を傾げる事の多い戦場だった。正直に言って伍長殿がそうだと信じているであろう、かつての東部戦線とは明らかに質の異なる戦場だった。
 何しろ今回のイワン達は、かつてのような無意味な突撃をしてこない上に、本当の意味での死守部隊以外で包囲殲滅できる敵戦力は僅かなもので、大部隊を包囲したとされる戦場の多くは、数年の時間をかけてロシア人が都市要塞と化した都市ばかりで、そのほとんどがボルガ河に面しているおかげでいまだ我々が掴み切れていない複雑な河川や運河から補給すら続けられており、包囲から1ヶ月以上たった今も陥落していないところも多かった。
 当然そこに係り切りになった歩兵部隊は多く、そして予想を遙かに上回る消耗をしていた。
 それでいて進撃が停滞していないのは、こちら側が包囲した都市を迂回して補給線を延ばしているからで、そう言う意味で進撃が順調な事は決して明るい材料とは言えなかった。
 もちろん我々が手を抜いていたワケではない。

 各軍集団は、1個軍の装甲部隊(装甲師団と装甲擲弾兵師団ばかりで編成)を先鋒にして2個軍の歩兵軍(歩兵師団の集合体)を基幹とした20〜30個師団から構成された大部隊で、歩兵部隊の半数近くが外国軍部隊だという事を加味しても十分な兵力と考えられていた。
 何しろ歩兵部隊の過半も、かつてのような駄馬による旧態依然たる歩兵部隊ではなく、最低でも半自動車化されているのだから尚更だった。
 ようやく我々は、十年前にグーデリアン御大が望んだ装備・編成をもって戦争に挑んでいたのだ。
 また、イワンの都市や重厚な野戦築城に寄った戦い方を予見して、各部隊には爆薬や火焔放射器が多めに配備され、市街戦を専門に行うための戦闘工兵大隊も軍団直属レベルで多数配備されていたし、師団や軍団に属する重砲兵部隊も、かつての我々から考えると贅沢すぎるレベルにあり、航空戦力についてもロクな生産設備の残っていないロシア人相手なら十分な数が用意されていた筈で、それらをささえる補給部隊やその上のレベルの兵站も可能な限り準備が行われてから作戦が開始されている。進撃路上に延々と続く自動車両の車列、広々とした平原にくさび形の陣形を組む戦車の群がそれを証明していた。
 ロシア人相手の戦争で手抜きなどあり得なかった。
 しかも、投入された兵器の質はさらなる向上が図られており、「パンター・ツヴァイ」や「Me-262」に代表されるような新兵器も、ドイツ工業界が本当の意味で戦時態勢にない事を思えば、それなりの数が前線で見られる程努力されていた。
 これはドイツの現状を思えば、これ以上はないといえる兵力量であり、「狼の巣」ばかりか参謀本部ですら十分な兵力と見ていた程だ。
 もちろんイワン以外が気になる海軍や空軍の中には、これとは異なる意見の者も多数いたが、多くのドイツ人にとってロシア人との戦いに出来うる限りの努力を傾けるのは民族感情的に自然であり、反対する彼らも多くの努力をウラル正面に割いており(海軍は物理的に協力が難しかったが)、それを思えば贅沢とすら言える状況と考えなければならないだろう。
 だが、進撃開始から100kmも進まないうちに、その考えを新たにせねばならないと実感させたのが、この時のロシア戦線だった。
 確かに守りに入ったイワンは強く、ロシアの大地はあまりにも広い。これは弱音でも誇張でもなく、世界中の人々がごく一般的に感じるであろう認識で、ロシアの大地を踏んだ者ならナポレオンが敗北したのも当たり前だと納得させられる光景が眼前に入りきらないほど広がっている。
 事実、かつてこの広大な大地を征服したのは、モンゴル人(タタール)をおいて他にはなく、これすら中世の出来事で、近代においてこれをなし得た我がドイツ第三帝国の偉大さは、正当に評価されこそすれ評価が落ちる事はないだろう。
 そしてそこでの栄光と教訓を踏まえて、イワンにとどめを刺すべくこの度の戦いが始まったのだが、やはり相手に抵抗の準備をする時間を与えた上での侵攻がどういうものかを、全ての前線の兵士が思い知る事になった、というのがその全ての要約だろうか。

 さて、脈絡もない感情論ばかり先に書いてしまったが、私自身が個人レベルで見たレベルからもう少し見てみたい。
 私はその中で再編成された装甲師団に所属しており、この師団は「カスピ軍集団」の先鋒を仰せつかった親衛第六装甲軍に属していた。
 とは行っても、私の属する装甲師団は国防軍所属であり、もちろん私も国防軍に籍をおいており、直属の上級司令部が親衛隊という点がやや気に入らないとは言え、親衛隊の精鋭部隊に対抗するため国防軍の中でも優遇措置を受けることができ、本国での再編成の際に最新鋭の装備を定数一杯配備されたことは、新たな地獄に臨むにあたり実に心強いと、将兵一堂感じ入ったものだ。
 もちろん「大ドイツ」師団のような大規模編成にはなかったが、大型編成の2個戦車大隊を中核として、装甲擲弾兵連隊、装甲偵察大隊、戦車駆逐大隊を定数編成で持ち、「パンター・ツヴァイ」を中核に270両近い装甲装甲車両を持つ重編成の師団だった。しかも、我が師団が属する装甲軍団(2個装甲師団基幹)には、足回りとエンジンを改修して兵器としての完成度を高めた「ティーゲル・ツヴァイ」重戦車を定数一杯持つ独立重戦車大隊が臨時に組み込まれており、私の属する師団にも中隊単位で随時編入され事実上の先鋒を務めていた。
 だから正式な呼称ではないが、「重装甲師団」と言ってよい編成だろう。
 もっとも、これだけの装備を与えられたと言うことは、それだけ突破戦力として期待され、同時に激しい戦闘も経験しなければならない事を意味していた。いや、もしかしたら遮二無二突進する親衛隊の尻拭いのために、これだけの重装備を与えられたのかもしれない。
 そして、その予測というか予定は、全く裏切られる事なく数ヶ月後に現出する事になるのだが、そうであるからこそ、私を含めた前線の将兵が感じている危惧は、自軍の装備や編成ではなく敵の装備や編成にあったからだ。

 1941年6月に出会ったソ連赤軍は、将兵の質、特に将校の質の低さと層の薄さは、彼らの無尽蔵とも言える数を考えればもはや笑いたくなるほどのレベルだったのだが、いくつかの装備の点では見るべきものがあり、その象徴が「T-34/76」や「シュツルモビク」、「スターリンのオルガン」と言うことになるだろう。煮え湯を飲まされた事も一度や二度ではない。
 だが幸いにして、これらの兵器が前線で多数見受けられるようになる前に最初の戦争をドイツの勝利に導くことができ、我が軍がボルガ川にまで到達したため、イワン達は資源地帯と工業施設の多くを失い、その後のゲリラ戦においてもそれらの兵器やその後継者を見ることはむしろ珍しい状況になっていた。全てを失いかけているイワンたちは、戦争をするよりまず純粋な生存に多くの労力を投入しなければならなかったからだ。
 もちろん例外もあり、中でも「スターリンのオルガン」と呼ばれた対地ロケット砲は、その工作程度の簡易さからそれなりの数が常に戦場に姿を見せていたが、それですら当方の比較優位にあった制空権を以てすれば事前に対処可能な兵器と言え、モスクワを攻略して以後の我々は、弱体化したロシア人達と戦うことにいつしか馴れるようになっていた。
 だが、国を失う寸前にまで追いつめられた彼らは、その後形振り構わない努力を行い、数年の時間をかけて産業と軍事力の再構築に努力し、1948年頃よりその成果が前線でも現れるようになり、1949年夏に開戦したその時、ロシア人の軍隊は数年前の突撃するしか能のない雑兵の群から、ねばり強く防戦を行う近代的軍隊へと衣替えしていた。

 もっとも、今回の戦争で我々の前で数百キロメートルにもわたるねばり強い遅滞防御戦闘を行っている軍隊の装備は、もはやロシア軍とは呼べないものだった。
 かつての戦いにおいても、英国人が供与した装備や戦争当事者でない列強から買い漁った兵器が無いわけではなく、特に英国製の兵器は早くも1942年には多数を見ることができたわけだが、今眼前に展開しているロシア人達の持つ装備で純粋なロシア製と言える兵器は、彼ら自身の肉体を除けば、彼らの持つ操作が簡単で堅牢な事が取り柄の歩兵火器(これすら突撃銃のような新型が見受けられるという報告を開戦早々受けていた。)と「スターリンのオルガン」を始めとする野戦重砲群ぐらいのもので、ジェット飛行機さえいなければ圧倒的戦闘力を発揮する「シュツルモビク」ですら、その改良型と思われる機体はロシア的あか抜けなさを失っており、前年のクリスマスに現れ、我が軍に強い衝撃を与えた新型戦車に至っては、イワンの皮を被ったヤーパンやアミーが作り上げたものとしか言えないもとなっていた。
 しかも、ロシアが他国から技術供与を受けて開発・生産した兵器などまだマシな方で、ロシア側勢力圏上空を我が物顔で飛び交うロシア軍機のエンブレムを付けた過半は外国製の様々な機体であり(ロシアにジェット戦闘機を開発する能力などあるわけなかったから当然でもあるが)、ロシア産のマキシマム機関銃を急速に駆逐しつつあるM2ブローニング機関銃(口径が12.7ミリメートルもある、歩兵にとってのモンスターだ)に代表されるように、純然たる外国製兵器が大手を振ってロシア軍内で大量に運用され、ごく一部で遭遇例のあった恐るべき装甲部隊に至っては、兵器を操る人間まで純然たる外国製と言う有様だった。
 そして、ロシア軍の中でも奇妙な呼び出し符丁を持った中身まで外国製の部隊の一部は、時折姿を現してはロシア人にはまねの出来ないキレのある機動防御戦を演じて見せ、その一つが私の属する師団の斜め後ろを進撃していたフランス人の「機甲師団」が彼らの攻撃で一瞬で瓦解した例であり、この時は敵でありながら賞賛するしかないほど憎らしい戦闘を私の眼前で見せつけている。

 彼らは、「露西亜派遣義勇軍」とでも呼ぶべき名称でロシア軍に属していたが、どこの国の言語だろうとそのような長たらしい正式名称を戦場で呼ぶものなどほとんどなく、彼らの間では呼び出し符丁の「セイバー」(傭兵間での通信は英語がスタンダード)と言われているらしく、そしてその名に恥じぬ勇猛ぶりをこの時見せつけた。
 まさに彼らの攻撃は刃のごとくだった。ロシア人もたまにはネーミングセンスを発揮するらしい。
 この時我々の属する第六親衛軍は、ロシア軍が数年かけて準備した装甲の濁流を押し止める何枚目かの分厚い防御線に突き当たり、そこにロシア軍が作り出した5層にわたるパック・フロントを、一枚一枚丁寧に根気強く平らげていた。そしてその後ろから戦線の穴を大きく広げ歩兵により地固めしていくべく、装甲師団を2個、歩兵師団を11個抱えた分厚い布陣の歩兵軍が続いていた。
 そして、私の属する師団は、数日間の突破戦闘で消耗したため一旦第二線に下がり、その斜め後ろを歩兵軍の先頭を進むフランス人の第二機甲師団が進撃していた。
 ただし、このフランス人の師団というのがもともと小さな編成で実質旅団程度の規模しかなく、この「機甲師団」もその例外ではなかった。「戦車連隊」とやらを2つもっていたがこれは実質的には規模の小さな大隊で、装甲戦闘車両の数など全てを合わせても130両ぐらいしかなかった。
 しかもフランス人は、いまだに自国でまともな戦車を生産する能力を回復していないため、我が国からの供与を受けており、その主力は「IV号-H」でわずかに「パンターG型」を持つ程度の二線級の装甲兵力でしかなかった。これが我々なら、この部隊に装甲擲弾兵連隊を組み入れるなど大幅なテコ入れをして、ようやく装甲擲弾兵師団と言うところだろう。
 そして、疲弊した我が装甲師団とフランス人の「機甲師団」が作り上げる戦線の境界線上に「セイバー」が深く切り込んできた。近くの森にでも潜んでいたか、方々のボックス陣地深くに分散して待機していたのだろうが、どこから現れたのかすら疑う程の素早さと言えるだろう。
 鮮やかなまでの機動防御だった。
 ここで我々のどちらかが撃破されてしまえば、付近の軽装備部隊が蹂躙されるだけでなく、前線と後方は一時的であれ遮断されて短期間の混乱がもたらされるのは確実で、突破戦闘を行っている攻撃側がそのような反撃を受けた場合待っているのは突撃衝力の減退で、それが何をもたらすのかはこれ以上語るまでもないだろう。

 そして彼らの先頭を突き進む「ハンター」ことPz47が、自らの纏う分厚い装甲をこちらの防御砲火で火花をちらせつつ突進してきたのだが、我々の眼前(側面・後方)には「セイバー」と一緒に突っ込んできたロシア人の平凡な独立戦車旅団が立ちふさがり、彼らが血と鉄で作り出したわずか数時間の間に「セイバー」たちはフランス人の機甲師団と正面から激突した。
 結果は一瞬だった。
 少し高い丘に陣取る観測所からの報告を総合すると、おおよそ3個大隊の「ハンター」を中心にしたと思われる鋼鉄の濁流は、突撃陣形を組んでいたフランス人の鎧を構成する戦車の群を引き裂くと、そのままの勢いで中心部の自走砲部隊にまで達し、彼らに反撃のいとまを与えない素早さのまま、前線にあった連隊本部を蹂躙してしまった。
 人間同士の戦いで言えば、巨大な剣が貧弱な鎧しか持たない騎士を、肩から袈裟切りしてそのまま片腕を叩き切ったようなものだろう。
 その証拠にフランス人の機甲師団は、文字通り片翼をもぎ取られた状態となってそのまま戦線を崩壊させ、その後も彼らの剣である「ハンター」達に一方的に引き裂かれ続け、付近にあった予備戦力が救援に駆けつけ、それを見た「セイバー」たちが悠々と後退していった後に残ったものは、鉄と血によって作られた醜悪なオブジェでしかなかった。
 キルレシオは考えたくもなかったが、1対10以上だろう。無数に燃えるトラックや自動車を合計すれば、その差は数十倍になるかもしれない。
 直接の被害者でない我々にとっても、その後の事を考えさせたくないと感じさせるに十分な破壊力だった。そしてそんな連中は他にもいるのだ。

 もちろんそのような決して出会いたくない傭兵が戦場に現れるのはごく僅かで、過半はロシア人の平凡な部隊だったのだがこれも厄介な相手となっていた。
 ロシア軍全体として依然として歩兵主体の兵力構成だったが、彼らの多くが集束手榴弾や対戦車地雷に始まり、対戦車銃、対戦車砲など重火器を豊富に持つようになり、中でも我が軍のパンツァー・ファーストに似た対戦車ロケット砲や、煙突の筒のような形状を持った簡易ロケット砲など多数の歩兵用対装甲火器を有していることは大きな脅威で、これらが各種兵器に支援されながら、たくみに構築された陣地に依った防戦を行った場合、その面倒さはそれまでの比ではなかった。
 何しろ大型の簡易ロケット砲なら、攻撃が的確なら100mmの装甲すら貫通してしまい、小型の簡易ロケットでも飽和攻撃を浴びせれば、限定的な面制圧効果がのぞめるだけでなく、一点に集中できれば重戦車と言えど無事では済まず、そのような構造の簡易な兵器はロシア国内や日米などの工業国でなくても簡単に製造でき、実に様々な種類の簡易ロケット砲を戦場で見ることができたからだ。
 そしてイワン達は、自分たちの足の下にある資源を直接兵器と交換するという、実に彼ららしい大雑把な手法でそれらの兵器を大量に入手するようになっていた。

 つまり、我々の前に存在するロシア人達の軍隊は、欧州以外の列強による兵器の見本市会場のようなもので、我々が欧州を東方の脅威から守るための防衛戦争の延長に過ぎない思いこんでいた今回の戦いは、ロシア人はもちろん太平洋に面する国々にとってただの侵略戦争でしかなく、ロシア人を盾にしてこれを防ごうという行動に走らせていたという事にもなるだろう。
 要するに「これ以上するな」という他からのメッセージという事なのだろう。
 大きなお世話だ。

 また、外国製兵器で武装したロシア人達だが、それまでのゲリラ戦でも時折見せた通り、実にねばり強い軍隊に様変わりしていた。
 いや、スターリンの愚かな粛正により将校団が一時的に壊滅した時期のロシア軍こそが異常なのであり、今目の前にあるロシア人達こそが本来の姿の彼らで、ナポレオンを敗退させた兵たちなのだろう。
 そして外国製武器で武装し、ねばり強い防戦を行っていたロシア人達だったが、彼らは一部で頑強な死守戦を行う以外は、全戦線において遅滞防御戦闘を行うだけでまともな反撃をしてくることはなく、一部で反撃があったとしても、それは我々が大規模な包囲行動を起こした時の先鋒部隊やアキレス腱(部隊間の切れ目や前線補給部隊)に対しての機動防御戦に限られており、その規模も小さなものでしかなく、結果として我がドイツ軍の進撃は順調となっていた。
 もちろん前線部隊の将軍や将校の一部は、機甲打撃戦力の少なさと反撃密度の低さから、ロシア軍は伝統の後退戦術を行っているだけで、いずれ大規模な反撃があるからその備えを行い進撃速度の調整と戦線の整理を行うべきだと警鐘を鳴らしていたが、狼の巣にある大本営はさらなる増援を送り込むという約束をするだけでさらなる進撃を強要し、また外国軍を多数内包する事からくる統制の難しさと政治的要因により一見消極的に見える戦術を採用する事は許可される事はなく、我がドイツ軍を中心にした欧州連合軍は、ロシア人の息の根を止めるべく、彼らの最後の牙城が存在する筈の場所を目指し、ウラルへウラルへと性急な進撃を強行する事になる。

 そして、先鋒部隊がウラルを望もうかという頃、天空から冷たい雨が降りしきるようになる。
 最強の敵の一人が到来した瞬間だった。


 ■Case 03-06「冬将軍再び?」