■Case 03-06「冬将軍再び?」

 「秋まで耐えろ」それがドイツ人と戦う全ての人々にとってのスローガンだった。10月になれば防戦に長けた偉大な将軍の一人がやってきて、さらに11月になれば今度は冬の全てを司る偉大な将軍が我々の援軍のためにやってくるからだ。
 そしてこれは神の恩寵よりも確実で即物的なだけに、寒気の到来と共に兵士たちの士気も大きく向上した。
 それほど偉大な将軍が援軍に現れるのに、数年前のロシア人たちが彼らに応えられなかったのは、指導部の稚拙な戦争指導と、さらに数年間に遡ってのグルジアの髭野郎の利己意識と自己保存に根ざした無定見な粛正に主な原因を求める事ができるだろう。
 度を超した独裁者ほど国家に害悪をもたらすものはない。

 5月15日に開始されたゲルマンスキーによる攻撃は、開戦当初から彼らの予定表から考えるとかなり遅いものになっている筈で、進撃開始から平均して200kmを進撃したあたりからその速度が急速に鈍るようになっていた。戦区によってはほとんど前進が停止している場所もあるほどだった。
 彼らは補給と兵站維持に大きな支障をきたすようになっていた何よりの証拠だ。そしてそれは、ロシア人たちがそうなるように努力を傾けていたからだ。

 それまで1ヶ月平均で50〜100kmを維持していたドイツ人に率いられた欧州軍の進撃速度は、ロシア特有の冷たい秋風が吹こうかという頃、当初の10分の1にまで低下していた。しかも、今度の戦争で彼らが進むべき行程は最低でも300kmあり、遠いものではその二倍もの距離を進撃しなくてはならなかった。母なるボルガ河から進撃を開始したとしても、欧州の終着点のウラルは遠く彼方なのだ。
 もっともチョビ髭の伍長が陣取る「狼の巣」は、600kmの距離などワルシャワ=スモレンスク間よりも短いと地図の上だけで簡単に判断しているらしく、前線部隊の兵士たちが肌で感じているであろう漠然とした不安と、現実的な脅威は主観的なものに過ぎず、大戦略レベルにおいて問題はほとんどないと楽観していたらしかった。
 だが、進撃速度の低調というのが現状であり、特に侵攻から三ヶ月して部隊の疲弊が無視できなくなった8月を越えて以降の状況は、予定の半分も消化できないという事が常態となっていた。しかもかつての戦いと違って、ロシア側の無意味な突撃や戦場での捕虜はほとんどいなかった。
 もちろんこうなった事には、理由はいくつかあるだろう。

 依然としてドイツを始めとする欧州人達が、陸上での戦いで欧州一般での近代戦のセオリーである鉄道重視の体制から抜けきってなく、ロシアの大動脈と言うべき河川の利用には依然として無頓着で、しかもモスクワより西の地域は鉄道は言うに及ばず道路も発展途上のものがほとんどで、西欧地域に比べると比較にならないほど密度も貧弱なのに、彼らが面として制圧しなくてはならない地域はそれまで占領したロシアの大地とほぼ同じというのだから、進撃速度が低下するのも当然と言えば当然だろう。兵站・補給の増大ほど進撃に悪影響を与えるものは存在しない。
 そう、常に我が母なる大地は、ロシアの民の味方なのだ。
 また、無定見な侵略戦争の連続により、世界の嫌われ者となったナチスを嫌う外国が多いというのも、ロシア人の有利に働くようになっていた。
 開戦時にロシア軍が有していた兵器の数々がその代表だろう。
 1941年から自らの苦しい台所事情を無視するかのように援助物資を送り届けているジョンブル達は、第二次世界大戦後も依然として海峡を挟んでナチと睨み合いをしているにも関わらず様々な物資を届けていた。しかも北極に面したムルマンスクやアルハンゲリスクがドイツの手に落ちてからも、カナダ経由で太平洋側から援助を継続していた。そして彼らの届けるものの中では、特に第二次大戦中のロシアにとって無線機やRDFなどの電子機器がありがたかったと言われた。何しろもともとロシアは電子技術が低く、さらに工業地帯が一度壊滅したロシア人の手でそれらのものを量産する事が非常に難しいからだ。
 また、私達のような新たな慈善家や商売人たちも、彼らと深く接触するようになっていた。もっとも主な役割を果たしているのは、巨大な資本をバックにしたアメリカ人と日本人達だ。
 武器、弾薬、食料、被服の類は言うに及ばず、ウラル山脈にまで私といっしょに営業に来ていたアメリカン人などは、その軽薄な口で「トイレット・ペーパーからストラテジー・ボマーまで、ご用命があれば何でもすぐにお届けにあがります。もちろん騎兵隊の長期レンタルもお望みとあれば承ります」とセールスに熱心で、その言葉通りに無尽蔵とも言える物資をウラジオストクや満州の港に陸揚げし、その見返りとしてウラルやシベリアから掘り出された様々な資源を帰りの船で持ち帰っていた。だが、それらの物資を内陸に輸送するため、鉄道資材や自動車両まで自前のものを持ち込み、あまつさえ鉄道や道路工事まで格安価格で請け負っているのところに、彼らの商売熱心さを見て取ることができるだろう。さすが資本主義の寵児、金儲けのためならば地獄にでも線路を引くのだ。
 一方、商売に関してはヤポンスキー達も似たり寄ったりで、彼らのちっぽけな島々で製造される様々な製品を送り届けるだけでは飽きたらず、私が本拠を構える満州の大地そのものを巨大な産業拠点に作り替えるほどの努力をしてまで、ロシアの豊富資源を吸い取ることに懸命だった。
 また、日本の傀儡国家とドイツなどから言われる満州は、去年の秋頃からフル操業状態で全ての工場が稼働しており、しかも距離感を疑わせる程の巨人工場の数は増加の一途を辿り、その工場のかなりが日米本土から部品を輸送して後に行われる最終生産工程の組立工場が多いとしても(自重の大きい戦車の製造は、完成後運んだ際の海上輸送の手間を考えると、これはこれで効率が良い)、その様は我ながらあきれかえったものだ。
 しかもそこで生産される最新兵器のいくつかについては、もはや恐怖すら感じさせるものがあった。
 「タイプ9」と日本国内で言われた「Pz49」がその代表で、これは「Pz47」の改良発展型に属するのだが、エンジンと足回りをさらに強化した「Pz47」の小柄なシャーシからは信じられない程の屈強な体に、新たな剣とさらなる鎧を備えた鋼鉄の騎士で、私が密かに「ワルキューレの槍」と呼んだ異常に巨大な127mm戦車砲は、地上のいかなる者だろうとも砕いてしまえるだろうと思わせるほど強烈なインパクトを放っていた。
 この主砲には、視察に来ていた南部訛りのアメリカ軍の将軍もいたく感銘を受けたらしく、「こいつぁいい、まさに鉄をも切り裂くエクスカリバーだな」とご機嫌に砲身を叩いていたものだ。
 そして中空装甲と増加装甲、多数の機関銃、対人地雷など対歩兵用のデコレーションにより、地上の悪魔そのもののような外見に変化した「Pz47」の後継者の姿についての凶悪さは、戦場での活躍を見るまでもなくその姿で明らかだった。純白の冬期迷彩などではなく、漆黒や深紅に塗装すれば、それを見ただけでヨーロッパ人は腰を抜かすか裸足で逃げ出すだろう。

 この車両は、1949年夏頃に増加試作車両が100両単位で日本国内の造兵廠で製造されると、すぐにも日本の勢力圏の工場のいくつかで無理矢理生産ラインを変更してまでして量産に移され、私がオーナーを務める新規建設された工場では、それ専用のラインを最初から組み込み、数百両の単位での大量生産が秋に入る頃には実行に移された。冬には実戦部隊のいくつかかが装備の改変を済ませるだろう。
 そして、これを監督するためもあって、私はウラルから満州に戻らねばならなかったのだ。

 ただし日本製品や満州製品は、アメリカンスキーよりもやや値段が安いのが利点なのだが耐久性や能力が若干劣るものが多かった。だが、満州という地続きの生産拠点という利点は魅力的で、開戦時に前線にあった兵器の多くが満州からもたらされた事を考えると一定の評価はすべきだろう。
 だからこそ私の懐も豊かなものとなり、様々な商売に手を広げることができ、そしてその象徴が西シベリアの泥の大地をものともせず疾走している新鋭戦車の群だった。
 またこれら二つの国は、ナチスの脅威を防ぐためという彼ら自身の目的とお題目があるので、足元を見た法外な値段で取引するという事はなく、むしろ安価で様々な物品を送り込み、挙げ句の果てには様々な手練を使って義勇兵付きの完全編成の戦車部隊まで寄越しているのだから、何をか言わんや、というところだろう。
 もちろん戦争で肥え太ったブルジョワ達に対して、シベリアで耐えているロシア人達が思うところがないわけではないだろうが、太平洋の国々がもたらした様々な工業製品や食料がゲルマンスキーの進撃を防ぐことに大きく貢献しているのだから文句を言うのは筋違いというものだろうし、何より北の大地に押し込められた同胞達が飢えや寒さ、病気から逃れられている最大の原因が、太平洋に面する二つの国家がもたらす食料や被服、医薬品などの無尽蔵な物資にある事を思えば、シベリアの大地を高級なビジネス・スーツで忙しげに闊歩する彼らの姿も、光り輝く大天使様に見えてくるというものだ、と皮肉混じりにロシア人達は語ってくれたりもした。
 そして皮肉な事に、彼らのもたらす膨大な物資によってソヴィエト時代よりもロシアの民の生活程度は大きく向上したと言われたのだから、その物量が伺いしれるだろう。
 確かに、真冬でも餓死者が出ないとのは実に素晴らしいものだ。それは戦争前にロシアを何度も襲った飢饉を知っていれば、誰でも思う事だろう。

 とにもかくにも、滅亡の縁まで追いつめられたロシア人たちがここまで持ち直したのは、こうした海外からの手助けなくしてありえないものだったが、もちろんロシアの民そのものの粘りがなければそれも適わなかっただろう。
 ヨーロッパ・ロシアを失い、実質的なソヴィエト体制が崩壊して以後の約6年間は、国際的に忍耐力の強いとされる我々にとっても辛い忍従の時間だった。
 かつてソヴィエトと名乗った中央政府は、1943年夏のモスクワ陥落とそこからの脱出の間に統制を失い、その政府首班だった鉄の男と名乗ったグルジアの髭野郎は、戦争前に行った自らの所行に相応しい末路を辿ったのがせめてもの慰めだったが、その代わりにババリア出身のチョビ髭が半壊したクレムリン宮殿に来て戦勝パレードまで行った事は、ロシア人全てにとって屈辱以上の出来事だったし、その二人の髭野郎のために死んだロシアの民数千万人の事を思うと到底やり切れない気持ちにもなった。白系ロシアと呼ばれた亡命ロシア人にとってもそれは同じ思いだ。
 一説には、第一次世界大戦、スペイン風邪、ロシア革命、計画経済の導入、スターリンの粛正、第一次祖国戦争に至る四半世紀の間に死んだロシアの民の数の総数は5000万人に達するとすら言われた程で、悲しいことにその数字は中華大陸と違ってそれ程誇張は含んでいなかった。
 だが、我々はその全ての悲劇に屈することなく、捲土重来を期してウラル山脈へと後退して、政府、軍、民衆の生活、それら全ての再構築を開始した。
 この過程でソヴィエト社会主義共和国連邦という奇怪な人工国家は消滅し、ロシア社会主義連邦共和国という少しだけ新しくなった新たな革袋が作られ、そこに新鮮なワインを注ぎ込む作業が根気強く行われる。
 まあ、ヴォルシェビキ体制の全てが崩壊したわけではなかったが(政権母体の一つは依然として共産党のままだ)、少なくとも政治将校などというクソ野郎(失礼)が一掃された事は、前線に勤務する兵士たちにとって何か明るい兆しにも思えただろう。
 しかし、それまでにロシアの民が失った物は遙かに大きく、再建にはなお多くの努力が行われなければならなかった。だからこそ海外からの形振り構わない物資調達が必要だった。
 だがそれでも足りないものは多い。
 中でも急務だったのは、軍の再編成だった。
 新たな中央政府を作り上げた男たちは、敗戦のスケープゴートとして髭親父とロリコン外道を抹殺し、権力に寄生する輩を追放して風通りをよくしたので何とか機能していたし、民衆の生活は生産の多くを海外とのバーター取引によって当面何とかなりそうだった。
 だが、グルジアとババリアの二人の髭野郎がもたらした軍隊の疲弊、特に将校の消耗はいささか大雑把なところのあるロシア人としても、何とかなる、何とかしろという無責任な言葉で済まされる問題ではなかった。
 何しろ人を育てるのには、それ相応の手間と暇がかかるのは古今東西、何時如何なる時代だろうとも同じだからだ。
 そして、皮肉にも軍隊の再建で最も威力を発揮したのが、ナチス政権下で前大戦末期にドイツで行われた軍の編成方法の応用で、我が国の保有する操作性の高い様々な兵器の効果と相まって、短期間で多数の兵員を機関銃の十字砲火の前に突撃することしかできないデク人形の群から、敵の軍団と戦えるだけの統制の取れた戦士の集団に変化させていった。
 もちろんこれらの新たなロシア軍主力を構成するする軍団は、集団としてはともかく個人として見ると兵士の訓練度は全般的に低くなるのはどうにもならず、同数でドイツの兵器と対等に戦える武器、兵器の幾つかに習熟した者、特に熟練した戦車兵と航空機パイロット、特にそれらを手足のごとく操る士官・将校クラスを揃えるのには苦労が伴われた。
 これが武器輸出国側の思惑と合致して、外国人傭兵の大量受け入れと満州を中心にした外国での兵員育成につながり、1949年にドイツ人がウラルに向けて進撃を開始した頃、どうにか満足しうる国防態勢を整えるまでに至っていた。

 そうした我々の状態で始まった何度目かになるドイツ人との戦いだったが、我々が4ヶ月の長きにわたって夏の戦いを耐え抜いた頃、ようやく秋が大好きな偉大な将軍がふらりと現れ、一週間もたたないうちにドニエプル川からボルガ川に至る全てのロシアの大地を深い泥の海で満たしてしまう。
 これと共にドイツ人の足はほとんど止まってしまい、特に彼らが進撃を始めたラインから最前線に至る交通路は車列が連なった鋼鉄の蛇の列と化し、前線にあったドイツ軍はそれまでの精強が嘘のように沈黙していき、泥将軍の到来を予期していた一部の部隊は、たとえその部隊が前進を続けていても攻撃から防御へと自らの軍団の姿勢を変えているものも多かった。

 もちろん毎年同じような光景を目にしていたのだが、今回のそれは1941年の時を思い出させるものがあり、この一つからも彼らが十分な準備期間と物資をもって今回の戦争を始めたのでない事を雄弁に物語っていた。
 彼らは何らかの理由で、短期戦を想定して今回の戦いに及んでいたらしかった。恐らく短期戦で我々を屈服できると思い上がり、勝手に皮算用していたのだろう。
 なお、この場合の物資とは、単に砲弾や燃料、食料でなく道路を建設するための資材や人員など物流を支える社会資本建設や広義の意味での兵站に関してであり、基本的に文明地域での戦争しか前提にしていない彼らの欠点を露わにするものであったと言える。

 翻ってロシア軍を見ると、その動きに大きな混乱はなかった。もちろん我々も彼ら同様泥の海に放り出されたわけだが、我々にとってロシアの大地の恒例行事は生活の一部であり友人のようなもので、これに対する備えは万全という以前の問題で、さらに今回はアメリカや満州で製造された多数のトラックと建設機械が存在するのだから、少なくとも後方兵站に関してはドイツ軍より優位にあったのは間違いないだろう。
 西シベリアの大動脈の泥の海をものともしない重厚な幹線道路と複数の路線を持つ鉄路がその象徴だ。
 だが、さすがの我々も、泥で満たされた大地で高度なレベルを維持しつつ大軍を機動させることは大きな困難を伴うため、「泥将軍」の到来は我々にとって反撃のための準備期間という事になる。
 そして11月半ばを過ぎた頃、待ちに待った援軍が到来した。
 言うまでもないがロシアで最も偉大な将軍、「冬将軍」の到来だ。

 ■Case 03-07「攻勢限界点」