■Case 05-01「ドイツ略史」
ドイツの起こりは、いったいいつになるだろう。 ドイツ人は民族的には「ゲルマン民族」と言われ、紀元前のローマが隆盛するまは、中欧から東欧でいまだ石器時代的な狩猟民族として暮らしており、ローマが全ヨーロッパに広がった頃に傭兵として欧州各地に足跡を記したのが、彼らが今居住している地域への最初の進出になるのだろうか。 この時代のことについては、ローマ帝国の文献以外頼るものもなく不確かな点が多いが、ドイツ=軍隊という図式で捉えるのなら、ローマ帝国の傭兵としての出現が、彼らが歴史にその名を刻んだ最初の例になると言えるのではないだろうか。 そして、フン族(現在のフィン族(フィンランド人)の先祖)の移動を契機として始まったとされる「ゲルマン民族の大移動(AD375)」によって、歴史を大きく揺り動かす事になる。
この頃ローマは、そのあまりにも広大な領土統治の方便として東西に分裂しており、軍事国家であるが故に軍事力の安易な行使により自ら衰退を招き、金鉱の枯渇によって財政が傾き、傭兵に頼り切る貧弱な軍事力を主な原因として崩壊過程にあった。これに折からの「ゲルマン民族の大移動」によるローマ人から見たら蛮族でしかない人々の帝国領内への侵入(侵略)がトドメを刺し、彼らの大移動開始から約100年を以て西ローマ帝国は崩壊する(AD476)。もちろん、東ローマ帝国と呼ばれたビザンツ帝国は、歴史年表を見れば分かる通りその後約1000年の長きに渡り存続し、オスマン・トルコ帝国が軍船を山越えで金角湾へ侵入させるまでその栄光を維持し続け、貧弱な都市国家に過ぎなかった時代から数えて実に2000年もの長きにわたる気の遠くなるような帝国の歴史を作り上げる事になる。 一方、西ローマを滅ぼした欧州平原各地の人達は、その後欧州各地で様々な原始的封建国家を建国しては滅亡すると言う、ローマの栄光から数百年も文明的に後退した流れを繰り返したが、西暦486年にクロービスによって成立したフランク王国が徐々に勢力を拡大し、西暦768年に国王となったカール大帝(ここではドイツ語表記とする)が西暦800年に大帝戴冠を果たし、さらには「皇帝」として西ローマ帝国の正当な後継者となる事で一つの結末を迎える。 しかしカール大帝没後のフランク王国は、中世ヨーロッパ社会全般の国家の統治能力の低さ(国家としてはローマから数百年後退した初期的な封建国家で、中央の軍事力と政治的影響力が低く、官僚制度なども未熟で広大な領域の支配は不可能だった。何より自らの帝国全土を統治できる国力(財力)がなかった)もあって早期に分裂し、西欧一帯を版図とした筈のフランク王国は、西、東、南の三つに分裂し、それぞれ後にフランス、ドイツ、イタリアの源流を作り上げる。 つまりは、ローマでなくフランク王国こそがヨーロッパの源流、と言うことになるだろう。 そして、843年に成立した「東フランク王国(カロリング朝東フランク王国)」こそがドイツ地方に成立した新たな王朝であり、これが911年に滅亡して新たに「ドイツ王国」成立となる。 これがドイツの実質的な始まりだ。 なお、この頃のドイツとはライン川流域を中心として勃興しており、現在の首都であるベルリンを中心とする東プロイセン地方は、ドイツと言うよりもポーランドに含まれ、当時としても欧州地域の後進地域でしかなく、ドイツ系騎士団や貴族による東方防衛のための植民地域でしかなかった。
936年にドイツ国王に即位したオットー1世(〜973)が、962年「神聖ローマ帝国(〜1806)」を建国し、ここに正式にローマ帝国の後継者となる事を宣言し、以後欧州の中核地域で混沌とした繁栄と衰退を繰り返す事になる。 なお、この地域は、西欧、東欧、南欧、北欧、全ての地域に通じる地理的環境、いわゆる欧州のハート・ランドにあたり、また精神的重心のローマのあるイタリア半島に対して繋がる地域であった事が、この時の神聖ローマ帝国成立を導いたのであり、ここが欧州の中心で、ここを統治するには常に強大な軍事力を持っていなくてはならず、これも他の地域よりもローマ皇帝としての権威を欲した理由だろう。 そして、ローマ・カトリック教のくびきが欧州を黒く覆い続けた欧州暗黒時代において、政治的にも常に欧州の中心に位置し続け、十字軍の遠征(1096〜)、カノッサの屈辱(1077)、モンゴルの侵略(1241)、度重なるペストの蔓延、大空位時代(1256〜1273)などの大事件をはらみつつ、この時代を欧州の中心として何とか乗り切っていく。 だが15世紀末に入り、イスラム教とを駆逐してレコンキスタを達成し国威の上がるスペイン、ポルトガルによる大航海時代が幕明けた時、農業を主産業とする神聖ローマ帝国は、領域の多くが経済的に完全な後進地域となっており、政治的にも軍事的にも後進地域に押しやられる事で不安定さを増し、これがマルチン=ルターの宗教改革(1517〜)によって巻き返しが図られる筈だったが、そうであるが故にさらに大きな悲劇を呼び込む。 カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)の対立が表面的な原因だった。
1618年に勃発した「三十年戦争(Thirty Years' War)1618年〜1648年」が、その後のドイツ地方にこれまでにない暗い影を投げかけた。 なお、「三十年戦争」とは、ドイツを中心に行われた一連の戦争の総称で、英仏百年戦争や日本の戦国時代同様に、単一の戦争が30年間続いたのではなく、30年の間に大きなものだけで13もの戦争が戦われ、10の平和条約が結ばれており、それらの総称として用いられているに過ぎない。 この戦乱には、神聖ローマ帝国を構成する各地の諸侯だけでなく、スペイン(ハプスブルグ家)、オーストリア(ハプスブルグ家)、フランス、スウェーデン、デンマークなど当時の欧州の過半に及んでおり、この戦争の総決算として行われた「ウェストファリア条約(1648年10月24日調印)」で「神聖ローマ帝国の死亡証明書」や「ドイツの死亡証明書」と言われたほど、この戦争は同地域に大きな惨禍をもたらした。 なお、この戦争でドイツ地域の受けた損害は莫大で、直接的な戦争による損害よりも、各勢力が雇った傭兵の手による凄まじい荒廃や、各種疫病の蔓延によるドイツ全体としての経済的・社会的・文化的損失の方が遙かに大きく、戦争の敗者と言われたスペインが受けた損害よりも、その損失は実に大きなものだった。 この結果、ドイツ西部地方のいくつかの港湾都市以外は大きく衰退する事になり、以後プロイセンの台頭までドイツ地域の停滞は続く事になる。 なお、この時ドイツ地域が受けた人口減少は、平均して3分の1に及ぶとされており、特にこの点でその回復には長い年月を要したのである。
「三十年戦争」は、「神聖ローマ帝国」の事実上の崩壊をもたらしたが、「プロイセン」というそれまで名も聞かなかった存在の隆盛をもたらし、以後「プロイセン」とそのライバルとなったオーストリアの間の関係が、ドイツの歴史を作り上げていく事になる。
「プロイセン」は、三十年戦争の後に勃発した「スペイン継承戦争」での活躍の結果、公国から王国への昇格を果たし、1701年にプロイセン王国となったのが、国家としての始まりと言えるだろう。そして、プロイセンは農村を拠点とする騎士(ユンカー)を中心に作られた国家であるだけに軍隊的な気風が強く、ドイツ=軍隊の図式を色濃くしていく事になる。
成立以後プロイセンは、優れた統治者に恵まれ発展していくが、この基礎を作り上げたのが「兵隊王」のニックネームを冠されたフリードリヒ=ヴィルヘルム1世(位1713〜40)だ。 彼は、そのあだ名の通り軍隊を強化して軍国主義的な国家建設を熱心にすすめ、とにかくプロイセン軍を強大にすることに熱中した。これは、人口200万人のプロイセンにおいて、8万人もの常備軍を作り上げた事からも見て取れるだろう。 しかも彼の徹底度合いは常軌を逸しており、欧州中から特に背の高い兵士を集めて「巨人軍」というものを作り閲兵して楽しんだり、宮殿の庭園をつぶして練兵場にしたくらいで、政治のための手段と言うより彼個人のためのものと言え、もはやマニアの域に達していると言っても良いだろうし、彼以上の兵隊王を探す事は、歴史上でも難しいだろう。ただし、三十年戦争での傭兵の行いに対する苦い活用経験が、プロイセンと彼に常備軍への傾倒をもたらしたと言えるかもしれない。 そして彼は、自ら作り上げた強大な軍事力によって欧州の軍制そのものを作り替えると同時に、10倍以上の国力を持つ相手との戦争で、歴史にその名を止める数々の勝利をおさめ、ドイツ史ばかりか欧州史、そして近代軍事史に不動の地位を築き上げた。 彼こそ、近世ドイツの父という名を冠するに相応しいだろう。
さらにその息子は、父の作り上げた強力な軍隊を利用して領土を拡張するなど、兵隊王の息子らしい側面を見せたと言えるが、彼は軍隊的過ぎた父への反発から「啓蒙専制君主」と呼ばれる当時フランスなどで盛んだった文化的思想の持ち主であり、その思想は欧州の後進地域だった東欧地域の王侯貴族に好評で、特に当時最大のライバルだったロシア皇帝が彼に心酔しており、それが最終的に彼に偉大な勝利をもたらしたのだから、世の中皮肉に満ちていると言えよう。
その後ドイツ地方は、プロイセン、オーストリアを政治的中心としてそれなりに順当な発展を続けるが、フランスでのナポレオン台頭により起こされた、実質的には第一次欧州大戦と呼ぶべき大戦乱で神聖ローマ帝国が呆気なく崩壊し(1806)、ライン同盟(〜1813)が建設され、さらにはナポレオンによる混乱の総決算として行われた「ウィーン会議(1814〜15)」が行われ、ドイツにとっても新たな道筋が作られる事になる。 もっともウィーン会議によって、ドイツはオーストリア、プロイセン以下35の君主国と4自由市から成るドイツ連邦として再編成された。この時のドイツ連邦の領域は、旧神聖ローマ帝国の領土を踏襲していたので、オーストリアは連邦内の領土よりその外にある領土の方が大きく、プロイセンも領土の約4分の1は連邦外にあって、ドイツとして統一国家になる事はなかった。 そして、この時プロイセンがドイツで産業的に最も発展していたライン地方を勝ち取った事で国力を増大させ、プロイセンを中心としたドイツ統一への流れが作られ、これが1871年のドイツ統一へと繋がっていく。 そしてこのドイツ統一に際しても、普墺戦争(1866)や普仏戦争(1870〜71)という二つの戦争で、ドイツ統一を邪魔する隣国を撃破する事で目的を達成しており、近代における軍隊国家ドイツのイメージを完全に確立するに至る。
もっともこの頃、ドイツ(プロイセン)の政治を事実上握っていたオットー・フォン・ビスマルクによる外交の基本は、いかにドイツ(プロイセン)の安全を作り上げ、ライバルのフランスを孤立させるかに集約されており、ドイツ統一のために行われた二度の戦争もその一つの手段に過ぎず、ドイツ統一後彼の手により作り上げられた欧州の安定は、「ビスマルク体制(1862〜1890)」や「ビスマルク時代」と呼ばれ、「パックス・ブリタニカ」と呼ばれた欧州にとって比較的平穏な時代を作り上げるのに、最も重要な役割を果たしている。「パックス・ブリタニカ」の後半は、大英帝国によってではなくビスマルクにより作られたのだ。 ただし、この勢力均衡による平和状態は、ビスマルクの天才によってのみ成立したと言っても過言ではなく、彼の力を評価しなかったドイツ帝国二代目皇帝の無能により欧州の混乱時代は幕を開け、結果として第一次世界大戦を呼び込む事になる。 彼がもしビスマルクを彼の晩年まで重用し続け、死後もその方針を守るように努力していれば、欧州の歴史は大きく変わっていた事だろう。少なくとも、第一次世界大戦の勃発は、10年以上遅れていた筈だ。
その第一次世界大戦においてドイツは、総力戦による戦時経済の逼迫から革命が発生して政治的に敗北する事となり、その後のベルサイユ講和会議において、異常なほどの軍備の制限と領土の割譲、そして天文学的な戦時賠償の支払いを戦勝国から命じられ、これによりドイツ国民の怒りは外国に対して強く向けられた。 何しろ、ドイツ軍はついに外国軍に敗北しなかったからだ(勝利もできなかったが)。 1918年の革命により皇帝が退位して後のドイツは、「ヴァイマル共和国」が成立して世界で最も進んだ憲法のもと共和制に移行したが、小党乱立により政局は不安定で、驚異的なインフレ(紙幣が額面価値でなく重さで評価される)など経て1931年には極端な民族主義を唱える国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が政権を握る一党独裁国家となった。 そしてナチス党党首だったアドルフ・ヒトラーが総統に就任し(1934)、彼の手による大規模公共投資と軍事力の復活によりドイツは再生したとされ、彼の手によるドイツ人居住地域の併合という膨脹外交がピークに達した段階で、これに強い脅威を感じた近隣諸国が軍事力に訴え、これを1943年中に全て退け、総決算として行われたニューヨーク講和会議において、ついにドイツは欧州全土を制覇するに至った。