■Case 05-02「ナチスとアドルフ・ヒトラー」

 1934年のナチス・ヒトラー政権の成立は、当時の世界情勢の縮図を体言したものであった。

 当時、「ヴァイマル憲法」と言う世界で有数の進歩的な憲法を基本とする民主国家での総選挙で、大勢の人々の拍手と喝采に包まれて第一党となったのは、議会を否定する政党だった。
 これは、当時のドイツ国民がいかに不景気に喘いでいたかを現すもので、また不景気の影に共産主義ありと言われるように、共産主義に言いしれぬ脅威を感じていた感情の裏返しとも言える行動だった。

 世界で初めての総力戦、第一次世界大戦で敗戦国となり、それまでの常識からは考えられない多額の賠償金を科せられたドイツは、国内では深刻なインフレと青天井の失業者の増大に悩まされていた。
 大戦後のドイツには、「ヴァイマル憲法」のもと普通選挙権や社会権を保障した高度な民主主義体制が表面上築かれていたが、大戦前まで皇帝の強権により国家運営されていた国で強力な政党が突如出現する筈もなく、各政党はドイツ経済を立て直す抜本的な政策を打ち出すことができず、だからといって当時隆盛していた共産主義という得体の知れないものに自らを委ねることも出来ず、人々の政治に対する失望や無力感が募っていった。

 そうした中から、当時としては斬新なスタイルを見せる政党が出現した。その政党の最も目立った点は、派手な大衆運動とその過激な主張にあり、これは当時不景気に喘いでいたドイツ国民にとってこれ以上ない歓喜をもたらす媚薬として効果を発揮した。
 そしてその政党こそがナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)である。ナチスはやがて総選挙で大勝利を収め、党首ヒトラーはその後合法的に独裁制を実現させた。
 そして第一党となったナチス党は、共産党による国会焼き討ち事件を契機として、ナチス以外の政党の活動は禁じて独裁体制を強化し、「ドイツの復活」、後には「レーベンス・ラウム(生存圏)」の確立をスローガンとした挙国一致体制を確立する。
 そして、これ以後のドイツの政権運営の基本は、ナチス指導による官僚主導の統制経済という「国家社会主義」にあり、この統制経済が国内の失業問題を一気に、たった数年で解決し、さらには国民にはレジャーを楽しむ時間までも与えてしまう。
 余談だが、今のドイツ人の旅行好きは、この頃生み出された流れの延長なのではないかと思う。

 なお、ナチスの特徴の一つとして「宣伝省」の存在があるのはあまりにも有名だが、ドイツ国内にあるほとんどのマス・メディアがこの宣伝省の統制下におかれ、宣伝省は映画や音楽などを使って大衆を扇動することに成功した点は、功罪はともかく時代を反映したと言えるのではないだろうか。
 ゲッベルス博士やリーフェンシュタール監督の名をご存じの方も多い事だろう。

 初期のナチス政権に対する評価はどういうものだろうか。人によって異なると思うが、少なくとも初期においては当時の欧州政治から一歩抜きん出たものだったとされた。
 ただし、初期のナチス政権は確かにドイツの再生を目指して様々な政策を成功させ、ドイツ産業を復活させたが、徐々にそれまで単に政治的な言葉に過ぎなかった政策を実行に移し、これが諸外国に大きな懸念を与え、やがて戦争への道を歩むことになる。
 これを現す有名な言葉に、詩人ハイネの「本を焼く者はやがて人を焼くようになる」という言葉がある。
 では、ここではその戦争について採り上げる前に、ナチスとヒトラーが達成した、様々な成果について一つずつスポットを当てておこう。

 彼を賞賛する人、その全く逆の人もその多くが、「ともかく1938年までは偉大な人物だった。」という言葉に強く反対する事は難しいだろう。
 しかも彼は、独裁者として有名ながら、ソ連の独裁者のように競争相手を非合法な手段で追い落としたり、自国民の大粛正の上に君臨した独裁者ではなく、当時のドイツ国民から圧倒的な信頼と支持を受けて、合法的・民主的手続きを経て首相に就任し(1933年1月30日)、政権の座についた存在だと言う事は無視できない。
 では、その合法的独裁者の政治を順に見ていこう。

 ヒトラー政権が第一に行った事は、ドイツ国民の暮らしを安定させる事だった。
 彼が政権を手にした当時、ドイツは第一次世界大戦から続く未曾有の不景気に加えて、1929年に始まった世界経済恐慌に痛めつけられ(ドイツへの融資先・出資先の主力のひとつがアメリカだった事も原因していた)、工業生産は30年前の水準にまで落ち込み、失業率も30%を越えていた。ヒトラーは、全くのマヒ状態にあったドイツ経済と600万人の失業者をかかえて、その政治をスタートさせなければならなかったのだ。
 だが、ヒトラーは就任わずか4年で、ドイツ国内の失業者を激減させ(600万人→50万人)、1940年にはその総生産力は世界の総生産力の11%に相当するまでに復活させ、アメリカに次いで世界第2位の経済大国にのしあがらせた。
 確かに、彼による失業対策は、ユダヤなど彼らが劣等人種とした民族に対する弾圧による資産調達、徴兵制の復活による労働人口の吸収や、軍用の輸送道路や臨時の滑走路となる大規模なアウトバーン(高速道路)の建設、国民車(後のフォルクス・ワーゲン)製作による戦時の自動車両生産力の向上、軍需生産の復活など軍国主義的、独裁国家的な政策が中心だったと言われているが、果たしてそれだけで巨大な工業力を内包するドイツ経済を復活できたのだろうか。

 この時のヒトラーの経済復興は、当時専門家からは全否定と言えるほど批判が大きいものだった。
 統制経済や軍需優先が理由ではない。それは彼が経済再建の柱としたのが、社会保障と福祉を中心にした、生産力の拡大と完全雇用をめざした失業抑制政策だったからだ。この点、アメリカの従来型の公共投資だけを中心としたより全体主義的な「ニューディール政策」と対比する意見と、大きく食い違う点だろう。ニューディールは単なる巨大な公共投資型経済に過ぎず、単なる公共投資型経済は最終的に失敗するのが常で、少なくともこの時のドイツの不況対策は大きな成功を収めている。
 このヒトラーの閃き的と言われる政策は、後の経済学者によって半世紀近く時代を先取りした政策だったと言わしめると同時に、彼自身が理論的にそれを理解して行ったとは考えられないと結論させるに至る。
 つまり、典型的な「天才的閃き」だったという事だ。 
 だが、天才的であるだけにその効果は劇薬のように大きく、たった数年でドイツを復活させたとも言えるだろう。
 そしてこのヒトラーの政策により、ドイツ国民はそれまで劣悪だった労働条件から解放され、他国に先んじて現代的な生活へ大きく踏み出していく事ができたのだ。

 また、ヒトラーが時代を先取りしていたとされる政策は、労働問題だけではなかった。
 彼は、国民の健康と環境衛生の向上にも、大きく力を注いでいた。
 これにより、幼児死亡率は大幅に低下し、結核その他の疾病は目に見えて減少し、しかも生活の安定は犯罪の異常な低下をもたらし、少なくともドイツ国民として認定された人々にとって、「理想の国」とでも形容すべき国家がたった数年で突如出現した事になる。そう思えば、当時のドイツ国民がナチス・ヒトラー政権を熱烈に歓迎した理由も理解できるだろう。
 国民とは、常に自らにパンを与える為政者を歓迎するものだ。
 しかも彼は、公衆衛生の一環として公害防止にも熱心で、工場の排出する煤煙と汚染水に対してこれの除去を奨励して各種装置を設置させ、新たに進められた都市計画では、自動化された地下駐車場や、車両通行禁止の広場、無数の公園、緑地などを設けて、大気汚染が厳重に規制された。
 これは、現在にまで続く低公害大国ドイツの流れを作り上げた最初の政策になり、今我々が住む先進諸国で一般的となっている事ばかりで、これを1930年代に実現させた彼の手腕を評価せざるを得ない。
 たとえそれが、官僚達により考え出された事だとしても、それを実現させた政治力の巨大さは否定する事はできないだろう。

 ただし、ヒトラー政権を否定的に捉える人が必ず触れる点に、反ユダヤ政策が挙げられ、ここでの非道こそがナチスとヒトラー政権の本質だと断言される事が多い。
 果たしてどうだったのだろうか。
 確かにヒトラー政権のユダヤ政策は、どうひいき目に見ても行きすぎた面もあるのは確かだ。だがこれには、それまで欧州を覆っていた一つの価値観もしくは感情があった事を思わねばならないだろう。つまり、歴史的に欧州世界においてユダヤ人は好まれていない、という事だ。これは、当時の欧州を知る人であれば誰であっても否定できない事実であり、もはや欧州人にとっての常識ですらあった。ベニスの商人など、文学作品にすら影響を与えているのがその証だ。
 またユダヤ人は、欧州の宗教観や歴史的経緯、民族性から金融や経済、法律に精通する者が多く、欧州経済や弁護士などの知的職業の多くを占有して社会的に大きな影響力を保持する一方、ロマ(ジプシー)のような半流浪的な生活をおくる階層も多く、しかもユダヤ人はキリスト教世界においては主を殺した子孫とされるだけでなく、ユダヤ教という排他的な宗教を信奉し、自ら欧州一般の価値観の外にいた事が欧州一般の人から阻害された大きなファクターであり、この時のヒトラーの政策を呼び込んだ温床だろう。
 なぜなら、ヒトラー政権が国民に求めていたのは、「ドイツの団結」、「ドイツ民族の結束」であり、ドイツ経済の再建のみならず、ドイツ社会の再生そのものであり、しかも公衆衛生の改善や犯罪の撲滅などに及んでいたからだ。
 これに邪魔な存在が「ドイツ人」の外に位置するユダヤ教徒の存在であり、国家持たない流民に近い生活程度の低い低所得ユダヤ人階層の存在だったと言えるのではないだろうか。
 また、アメリカなど一部の国家では、ナチスのユダヤ人に対する仕打ちばかりを強調するが、ユダヤ人と似たような生活習慣を持っていたロマ(ジプシー)に対しても、ヒトラー政権は同様の態度で望んでおり、社会の不安定をもたらすだけの共産主義者に対しては、それ以上の強い態度で臨んでいた事を忘れてはならないだろう。
 また、ユダヤ人に対しても、書類上と社会表面上でユダヤ人を捨てドイツ人となる道を残しており(裏で今までの状態を維持する事は黙認していたとされる)、ヒトラー政権がユダヤ人に全て否定的だったわけではなく、むしろ当初は積極的に彼らを「ドイツ人」として受け入れようとしていたと考えるのが妥当であり、事実ヒトラー政権下でのユダヤ人人口は減少しており、現在の状況がそれを肯定していると思う。
 だが、「ゲットー」と呼ばれる存在に代表されるように、当時は互いに妥協が少なかった事が、ユダヤ人に対するヒトラー政権の段階的な強い態度となったと言えるだろう。
 そして、ドイツ第三帝国が英国を除く欧州全土を支配下に治めて以後、ユダヤ人の恭順が強くなり、その後欧州でユダヤ人人口の激減に繋がった事を考えれば、推しては図るべしと言うことろだろうか。

 一方、内政で様々なドラスティックな政策の数々を実現したが、外交においてもそうだったかと言えば疑問を投げかけざるを得ない。
 世界史を学べば、近代史で必ず触れるドイツの膨脹外交とその延長にある第二次世界大戦への道のりが全ての回答となるだろう。
 しかも彼の政策は、多分に賭博的要素が大きなもので、それだけに成功すれば効果も大きく、綱渡り以上に危険に思われる彼の外交での成功は、彼にさらなる自信を与えた。
 しかも始末の悪いことに、彼の政策は第一次世界大戦の敗戦国としてベルサイユ平和条約の過酷な条件に屈辱感を抱き続けてきた国民を熱狂させ、ドイツが官民一体となった状態のまま、この時の世界史を一人牽引させる事になる。
 これは、同時期に太平洋戦争での戦勝と、その後始まった高度経済成長に後押しされた日本人による、民族自決と王道楽土の建設という、ある種脳天気な「正義の戦い」を肯定した日本国民と当時の政府の姿に近いかもしれない。

 ヒトラーは1933年10月、国際連盟と軍縮会議から脱退する。これが第二次世界大戦への道のりの、最初の道標となった。
 なお、同時期に極東で発生した「満州事変」と重ね合わせる研究者も多いが、これとヒトラーの政策は偶然時期が重なっただけで、別物と判断してよいだろう。

 彼は言った。「いかなる権利も平等も持たないこのような機構の一員として名を連ねることは、名誉を重んじる6500万人の国民とその政府にとって、耐え難い屈辱である」と。
 そして彼はその勢いのまま、1935年春にはそれまで国際連盟の管理下にあったザール地方を、住民投票で91%の賛成を得てドイツに復帰させる。しかもそれだけに止まらず、翌年には英仏の干渉はあり得ないと周りの反対を押し切り、非武装地帯のラインラントの無血占領に成功。そして1938年には、オーストリア国民の圧倒的支持を受けて、歴とした独立国だったオーストリア合併にすら成功して、そしてその半年後に、当時チェコスロヴァキア領だったズデーテン地方を併合するに至った。
 こうしてヒトラーは、わずか3年のうちに、ヨーロッパのドイツ語圏の全ての地域を手に入れてしまったのだ。しかもその領土拡大は、背後に常に戦争の危険をはらみながら、全く無血のうちに行なわれた。フランスやイギリスは、専門家の誰もが予想した武力介入を一切行なわず、むしろ暗黙の了解を与えてしまったのである。
 そして、ここでの魔法のような成功と、そこで膨れあがった自信がそのままポーランドに向けられ、1939年9月1日の第二次世界大戦勃発へと繋がる。

 Case 05-03「第二次世界大戦と
         ドイツの戦後統治」