■Case 05-03「第二次世界大戦とドイツの戦後統治」

 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻した事で第二次世界大戦が勃発する。
 その後あしかけ5年間(4年2ヶ月)続いた第二次世界大戦は、1943年10月25日に講和が成立し、翌1944年1月15日から開始された「ニューヨーク講和会議」によってその総決算が行われた。

 だが、この戦争が前の大戦と大きく違う点が存在した。それは、連合国や同盟国というような図式で二大勢力が激突するという形でなく、しかも純粋な国家利益よりも、イデオロギーの皮を被った国家利益が、国家の全ての力をかけてぶつかり合った事だろう。
 このため、「イデオロギー大戦」と呼ぶ事もある。
 「レーベンス・ラウム(生存圏)」の確立と欧州の新秩序を目指すドイツ第三帝国(Das Dritte Reich(ダス・ドリッテ・ライヒ))、大東亜共栄圏の確立と民族自決、植民地解放を旗印とする大日本帝國、理想的共産主義拡大を大きな目標とするソヴィエト連邦、自由(貿易)主義を掲げたアメリカ合衆国、そして旧来の欧州世界全てを守る羽目になった英連合王國(United Kingdam(ユナイテッド・キングダム))がその代表だ。
 そして、英仏蘭ソなど欧州列強が参集した連合国に対して、それぞれ個々に挑戦したドイツと日本は、その政治姿勢の違いから講和会議においてまで連携する事は遂になく(反対に敵の敵は味方的な考えと地理的環境もあって反発もしなかったが)、また経済的妥協で日本の片棒を担いだ形になったアメリカは、最後まで戦争に直接参加する事はなく(ペルシャ湾派兵も日本の植民地解放戦争に対する「義勇軍」に過ぎない)、ソ連を言う異物を抱え込んでまで戦争を継続した連合国側とは、大きな食い違いを見せている。
 このため、形振り構わない戦争をした連合国よりも、自らの正義に邁進したドイツや日本の国際的評価はむしろ高まり、以後の世界政治に大きな影響を与えるに至っている。
 しかも、ドイツによる初戦の矢継ぎ早の侵攻と、その後なし崩しに開始された日本軍によるアジア解放が結果として連携して、旧世界の盟主たる英国の継戦能力を奪い、英国を軸としていた連合国を事実上の崩壊に導いてしまい、最終的に「ニューヨーク講和会議」にて、日本とドイツの一方的勝利という結末を迎えるに至っていた。

 では、ここではこの講和会議にて列強として生き残る事に成功した、ドイツ、日本、英国、アメリカの四つの第二次世界大戦での政治的側面と結果について見ていこう。

 まず、第三帝國(Das Dritte Reich(ダス・ドリッテ・ライヒ))だが、「レーベンス・ラウム(生存圏)」こそが戦争目的であり、これはドイツにとっての市場と資源供給地帯、そして新たな植民地の獲得がその目的とあり、欧州随一の工業力を持つドイツ経済そのものを維持、拡大するのが最終的な目的と短期的には要約でき、こう考えると別段他の国と目的に大きな違いは存在しない事になる。
 ただし、ドイツが手を広げるべき地域は、広義には文明的に高度に発達した欧州地域の全域が含まれ、狭義においても東欧と欧州ロシアがその対象となり、これを実現するには軍事力を用いた他国本土の侵略を以てしか不可能だった。
 もっともヒトラー総統自身は、1939年のポーランド侵攻を行っても英仏が宣戦布告する事はなく、その後の東欧地域の事実上の併合も問題なく進むと考えていたと見られ、東欧全域を軍門に下して後、数年の準備期間をおいて宿敵たるソ連との全面対決を考えていたものと思われる。
 これこそが、彼の掲げたとされる政策に沿う、ドイツ拡大のスケジュールだろう。
 しかしこれは、英仏の宣戦布告によりスケジュールが大きく狂ってしまい、1940年の西欧大侵攻と英本土決戦を経て、早くも1941年の対ソ開戦を迎え、ソ連側の後手後手の戦争対応に助けられ自らの大目的を達成する。
 そして彼らは目的を達成すると、政治目的に重点を置いた対英戦を継続して、ついには英国政府を講和テーブルに座らせ、欧州大陸の支配権を確立するに至る。
 しかも、予想外の大戦争に勝利した結果、当初の目標としていた東欧と欧州ロシア獲得に止まらず、西はピレネー山脈から東はウラル山脈、北は北極圏から南は中東地域に至る広大な領域の支配権を握り、レーベンス・ラウムの確立どころか、事実上の欧州帝国、新たなローマ帝国を自らの手で出現させる結果を残した。
 アドルフ・ヒトラーとナチスが伝説となった瞬間だ。
 ただし、欧州の全てを手にしたと言う事は、同地域が内包していた全ての負の財産も同時に抱え込むもので、講和会議終了以後5年間ドイツを中心とする欧州は、戦争のリバウンド(戦争債務と戦災)を含めて停滞を余儀なくされ、これを打破するためにドラスティックな世界政策を決意させる事になったと言えるだろう。

 次にドイツ同様巨大な勝利を収めた大日本帝國(Great Japan)だが、彼らは列強唯一の有色人種国家であり、それだけに近代化達成以後、欧米列強から理不尽な扱いをされる事も多く、これが彼らに自国本意の富国強兵を達成した後に、(有色人種の)民族自決と(欧米)植民地解放の基本外交方針を取らせ、英国との連携ではこの達成は不可能として袂を分かち、最終的に自らを中心とした新たな秩序である「大東亜共栄圏」の確立という政策を持たせるに至る。
 また、1934年に行われた太平洋戦争での、大国アメリカに対する一方的な戦勝が、この国と国民に大きな気分を持たせ、同時期に始まった自ら戦乱に巻き込まれつつの高度経済成長が良性に絡み合った結果、日本にこの戦争を発起、継続せしめたと判断できるだろう。
 なお、この戦争で日本帝国は、強大な常備戦力を主に用いて戦争を継続し、遂に本格的な国家規模の総動員を発令する事はなく、部分的な動員だけで乗り切っており、当然他国に比べて戦費は少なく、これも戦中、戦後の日本のアクティブな行動に繋がっている。
 そして、ドイツの初戦の勝利に便乗する形で、自らに近い順で欧州植民地を解放していく。
 インドシナ、マレー、インドネシア、ビルマ、セイロン、インド本土と進み、ついにはペルシャ湾にまでその足跡を印し、同盟国でもないのにアメリカ義勇軍と肩を並べて戦い、クウェートでドイツ軍と握手するという、当初日本政府が予測もしなかった程の勢力圏拡大を彼らに経験させ、戦後アジア全てを内包した「大東亜共栄圏」という巨大な国際組織を誕生させ、その政治的影響力を武器に、他列強と互角に対抗していく事になる。
 なお、日本政府にとっては当初、自らの影響力拡大のための政治的スローガンや方便に過ぎない数々の政策だったが、方便であるだけに日本政府は解放各地に対してその約束を守る姿勢を貫いて各地での信用を勝ち取る事に腐心し、さらにはこれを大きく宣伝する事で、政府が予想した以上の宣伝効果を発揮し、遂には無邪気に解放を喜ぶ植民地の人々だけでなく、日本国民全てに「正義の味方」としての自分たちの姿に熱狂させ、国民・政府を挙げて本気で「正義の戦争」を行うという、実に奇妙な状態を作り上げていく。

 そして、この日本の幼稚な民衆の態度に便乗したのがアメリカ合衆国で、大恐慌、太平洋戦争の敗戦など国内の暗い要素を、日本政府の政策を国内で宣伝し、これをアメリカの掲げる「自由主義の拡大」という表面的スローガンにかぶせてしまう事で、日本との協調姿勢を作り上げて覆い隠し、日本政府に対しては、太平洋戦争以後の親日姿勢と日本政府との経済的妥協により出来た関係を急速に親密化し、さらには戦争に対する様々な援助と、事実上の参戦である中東方面への義勇軍派遣と言う流れを作り上げた。
 このアメリカの姿勢にとまどう日本政府も、まだまだ貧弱な経済力しか持たない自国経済の現状と、戦後ドイツとの対立が決定的だと感じていた恐怖心が、アメリカを受け入れる姿勢を作り上げ、ここにかつての宿敵同士が握手をし、共に正義の味方となって悪漢との解放戦争を行うという、政治的には失笑を誘うしかない状態を作り上げてしまう。
 なお、当然と言うべきかアメリカの親日姿勢は、ニューヨーク講和会議以後も継続し、日米はアジア・太平洋圏の旧欧州列強の植民地解放をさらに進め、自由と尊厳に満ちた新たな世界を作り上げると宣言させるに至り(「太平洋憲章」)、日本人を表に出す事で旧植民地地域の反抗的感情を排除しつつ、その利権にだけ食い込む戦後アメリカの姿勢を強くしていく事になる。
 「正義は日本と市民に、実りはステイツに」と要約したある政治家の言葉が全てを表しているだろう。
 しかしここに、国内の人種差別問題から、アメリカ合衆国が経済問題以上にアジアに食い込めなかったという厳然たる理由があることも忘れてはならないだろう。

 そして、なし崩しの総力戦により全てを奪われた英連合王國(United Kingdam)だが、連合国そのものは自ら以外の全てがドイツの軍門に下った事で事実上崩壊したのが一番の原因で、自らの完敗が敗北に直結したわけではない。
 そして、自らはアジアを失った上で講和テーブルに着いた形の英国だったが、英国そのものが全てを失ったたかと言うとそうでもなく、講和会議以後もそれなりの国際的影響力を保持するだけの勢力守りきり、ここに英国外交のしぶとさを見る事ができる。
 もちろんこれは、フランスやソ連などドイツとの戦争に完敗を喫した国に比べればと言うことで、「パックス・ブリタニカ」とまで言われたそれまでの繁栄に比べれば大きな勢力減退を示しており、講和会議において英国が世界帝国から滑り落ちた事が世界中からも確認される。
 また、ドイツの軍門に下り、自由政府という形で抗戦を続けていた欧州のその他の国々の多くは、ニューヨークの会議で本土が完全にドイツの衛星国となった事実を受け入れざるを得ず、その多くが瓦解し、日本の手により唯一の植民地までも失ったオランダのように、王族が本国に復帰して事実を受け入れるような行動を多く取らせる事になる。
 欧州での唯一の例外は、ウラル山脈にまで押し込まれた旧ソヴィエト連邦で、この国は度重なる大敗と領土の喪失を原因として、1943年にそれまでの独裁者だったスターリンによる独裁体制が崩壊し、ニューヨーク講和会議にて数年の準備期間を経てロシア共和国として再生する事がロシア人の意志によらず決まったのだが、ドイツが制圧した欧州ロシア地域が、ドイツの衛星国として全ての共和国(バルト三国、ベラルーシ、ウクライナ)を内包したロシア連邦共和国として新たに成立する事も同時に決まり、以後西ロシアと東ロシアと呼ばれ完全な分裂状態になり、親独の西ロシアと反独の東ロシアとして深い対立状態に移行していく。

 また、欧州での最大の問題の一つとしてドイツが採り上げた、欧州ユダヤ人問題については、政治的衝撃度の低いマダガスカル島の三分の一がユダヤ人の入植地として国際的にも認知され、以後欧州全土に広がるドイツ親衛隊のネットワークを使い、極めて効率的な強制移住が実行に移され、5年間で200万人もの移住が行われ、これに対し移住を押し進めたドイツよりもそれ以外の国々、アメリカ、英国、日本が様々な援助を行っている事でこれが肯定された。
 なお、ユダヤ人自身がそれまでに進めていた、近東パレスチナ地方でのユダヤ人国家成立が見送られた背景には、ドイツと日本(+米)の大規模な軍事力が中東地域に展開しており、これがユダヤ人とパレスチナ人による武力衝突が確実な同地域への移民を日独が拒絶したという背景がある。つまり不均衡な世界で、だれもが新たな火薬庫をわざわざ抱えたくなかったという事だ。
 また、日本が自らの政策(民族自決)に従い、満州地域の一部にユダヤ人の自治地域を作るという方針を示したが、これに対してはロシア地域のユダヤ人を迎え入れるという方向が作られ、二つのユダヤ系コミュニティがその後誕生するという奇妙な歴史を生み出す事になる。
 もちろん、日本人達は自らの外交方針に従い真面目にこれを提案したのだが、ユダヤ人問題に苦慮していたドイツを始めとする欧州が既に一定の回答を示した以上、これに関しては余計なお節介と言うべきだろう。
 もっとも、日本的倫理観に基づいた余計なお節介は、彼らの幼稚な民族性の発露とも言え、その皮肉故今日に至るも数々の功績と問題を作り上げているのだから、今更否定しても始まらないのかもしれない。

 Case 05-04「戦後の国際秩序」