■フェイズ01「フロンティア再び」

 10世紀末、赤毛のエイリーク(Eirik Raude 950年頃 - 1003年頃)として伝えられるヴァイキングとその一族など小数の人々が、グリーンランドの南東部に入植した。
 だが、最も気候が温暖な場所でも、グリーンランドの自然は人が住むには厳しい場所だった。しかしフィヨルドの奥まった日当たりの良い場所にだけ、羊の放牧を中心とした農業が可能な土地があったので、ヴァイキング達は新たな入植地を築いた。その場所は、既に人口が飽和しつつあり自然破壊が進んでいたアイスランドよりも住み良い場所だった。冬は厳しかったが、夏になれば牧草が一面を覆い、発見された頃は北の大地での貴重な燃料資源となる低木の柳が生い茂っていた。また獲物も豊富で、先住者もいなかった。
 海賊として知られている彼らだが、生活の基本は牧畜にあり、新たな入植地であるグリーンランドにおいても牛や羊、できれば豚の牧畜業と各種狩猟、漁業で生計を立てるようになった。そして当時人口拡大期にあったヴァイキング達は、人口密度が過剰になり人の手による自然破壊も進んでいたアイスランドなどからも入植者が集まり、グリーンランドにも一定の社会が築かれていった。
 しかしそこはヨーロッパ文明の最前線であると同時に、最も辺境に位置する場所だった。そしてヴァイキング達は、そのすぐ先にある陸地が未知の新大陸である事も、グリーンランドを探索する際にある程度把握していた。
 このためすぐにも木材資源獲得を主な目的とした探索が開始され、「ヴィン」つまりブドウが自生する土地、「ヴィンランド」を発見するに至る。そこは新大陸に隣接する島(現在のヴィンランド島)の一部であり、その場に拠点を設けるまでにも新大陸の陸地にも上陸を果たしていた。そうして赤毛のエイリークの息子であるレイヴ・エリークスソンは仲間達を連れ、十数隻のヴァイキング船で新大陸入植の第一歩を記した。
 だがヴィンランドには、ヴァイキング達を阻む最大の障害があった。先住民の存在だ。ヴァイキング達は先住民とのファーストコンタクトに失敗したこともあり、自分たちの数の少なさと人や物資の補充の難しさなどのため、新たに築いた拠点を十年ほどで放棄しなければならなかった。
 いっぽうグリーンランドでの入植は順調に拡大し、しばらくすると膨張への熱意が低下した事もあってより遠い場所への入植は棚上げ状態となっていった。

 ・ ・ ・

 そうしてグリーンランドにヨーロッパ世界を発祥とする人々が住み始め、半世紀ほどの時が流れた。
 ある年を始まりとしてその後数年間、グリーンランドは酷い冷害など様々な自然災害に見舞われた。この地域特有の気象ではあったが、寒さに慣れている筈のヴァイキングの想像を超えており、遅い春の到来などのため厳しい飢饉に直面していた。
 そして寒冷な気候の始まりから数年後の夏、グリーンランドにない材木などの入手のため、再びヴィンランドを訪れることになった。
 そして男達は、かつてそこに住んでいた原住民たちとその痕跡が異常なほど減少している事を知る。ヴィンランドに赴かなくても、その手前にあるマルクランド(マルクランド半島)で通常は木材の入手や大量の木材(木炭)を消費する製鉄を行うのだが、有益な文物を得ようとする挑戦がその発見をもたらした。
 ヴァイキング達が理由を知ることはなかったが、その答えは新大陸にいない筈の動物である牛達が後世の研究者達に回答を教えることになる。
 最初の入植実験の頃に数えるほどしか持ち込まれず、原住民との戦いの間に逃げ出したり撤退の際に放棄せざるを得なかった牛達が、その後勝手に繁殖して彼らが新大陸には存在しない強力な疫病である「天然痘」の保菌者として新大陸に存在しない細菌をはぐくんだ。そして原住民達が、数の増えた見慣れぬ大きな獣(牛)の活用を考えようと村に連れ帰った時に、牛達が持っていた天然痘が人に感染。その後天然痘は爆発的に地域一帯の原住民に広がり、ヴァイキング達が再び現地を訪れたちょうどその頃、原住民のほぼ全てを一度死滅させたところだった。
 時期は11世紀中頃。
 ヨーロッパ世界は、まだまだ中世のまどろみの中にあった。

 ・ ・ ・

 その後、グリーンランドのヴァイキング達の一部は、かつて失敗したヴィンランドへの再度の入植を決める。前回は原住民との争いによって失敗に追いやられたが、今度は何故か先住民がいないし当面の食料となる牛達までが自然繁殖で住むようになっているとあっては、寒冷なグリーンランドに固執するより、新天地に新たな活路と生活を求める者が大勢現れた。
 当時のグリーランドの人口は、レイヴ・エリークスソンが最初にヴィンランドへの移住を試みた頃より大きく増えていた。このため、早くも人の手による自然破壊が進んでおり、また人口が増えた事で開発できる場所は完全になくなっていた。こうした圧力が、人々を再び新大陸へと押し出させたのだ。
 だが、かつての記憶がまだ残っていたため慎重で、まずは調査隊として3隻の中型ヴァイキング船に僅か52名が乗り込んだ。
 再び新天地に旅立った最初の人々の長はトール・エリークスソンというノルド系ではありきたりな名前を持った人物だった。彼の素性ははっきりしておらず、名前でも分かるように残された系譜によれば赤毛のエイリークの傍系に属する事になっている。
 そして彼に率いられた最初の52人は、鍛冶、狩猟、建築、放牧に長けた屈強な男性の若者ばかりが選ばれており、可能な限り鉄製の武器と道具を持っていたので、武装移民団や調査隊という向きが強かった。百名以上の本格的な移民によって最初の女性が移民したのも、ヴィンランドで建造された船が戻ってきてからさらに数年経ってからだという記録が残されている。
 入植地の名はかつてと同様に「レイフスブディル(レイブの町)」と呼ばれ、地域全体を表す言葉は希望を込めて「ワインの国」を意味する「ヴィンランド」が使われた。ただし実際自生のブドウが実るのは、後にヴィンランド島と名付けられた現地の南部にごく一部、しかも温暖な気候の時期に見られただけだった。
 だが新天地は、原住民さえいなければグリーンランドよりも余程住みやすい土地だった。
 そうしてグリーンランドに大きく二カ所あった入植地では、その後も大きな苦境に陥ることもなく持ちこたえ、以後一世紀ほどはグリーンランドもしくはさらに東のアイスランドで溢れたヴァイキング達が、余剰人口が増えると共に豊かな大地が広がるヴィンランドを目指して入植していった。
 そのヴィンランドでは、気候が他のヴァイキング生存地域に比べて温暖な事から順調な発展を遂げ、現地で増えた人々はさらに南へと向かい、その地にも新たな入植地を築いた。

 しかし新たな入植地には、大きな問題があった。
 ヨーロッパからあまりにも遠すぎるのだ。特に、最も近いグリーンランドとの間の距離がありすぎた。何しろ当時のヴァイキングの航海方法では、最長で6週間もかかった。グリーンランドのヴィンランドの直線距離は1500キロメートル程度なのだが、沿岸が見えるように海流に沿って航海することを常とする当時のヴァイキング達にとって、新天地への航路は直線距離の約二倍もあったのだ。
 これでは直接ヨーロッパに行くことは事実上不可能で、夏が短く流氷の多い年などは2年がかりで往復しなければならなかった。当然だが、ヨーロッパからの船、商船が近づくことはなかった。またヴァイキング達は、よそ者にヴィンランドの事は秘密にし続けていた。
 故に、何か文明の文物が欲しければ、ヴィンランドの人々は自分たちでグリーンランドやアイスランド、さらにはヨーロッパの策源地であるノルウェーに行かねばならなかった。
 その一方で当時のヴィンランド各地には、ヴァイキング達が必要とする全ての資源と条件が揃っていたため、彼らの側から特にヨーロッパとの連絡を保つ必要性もなかった。特に、ヴァイキング達が必要とする木材資源と鉄(+製鉄のために必要な木材)さえ豊富にあれば、彼らの生活は拡大の一途を辿った。何しろヴィンランドは獲物も豊富で、牧草も豊かだった。パンやビールを造るための麦(大麦又はライ麦、オート麦)も十分に育った。
 唯一必要なのはキリスト教会(特に司祭任命権を持つ司教)だが、新天地は別に神の恩寵がなくても暮らしていける場所だった。しかも税(教会への十分の一税)を納めなければならないともなると、距離の問題もあって恩寵に対する負担も大きかった。何より、彼らの直接の始祖となる赤毛のエイリークは生涯改宗していなかった。
 そして温暖な新天地に移住した人々の間では、徐々にグリーンランドでの厳しくそしてヨーロッパ世界に傾倒しすぎた生活への反動が出るようになる。グリーンランドで生きて行くには、どこかの農場に属した強固な集団生活以外で、ヴァイキング式の生存ができない過酷な場所だった。自分たちの生活基盤の脆弱さのため、精神的にキリスト教に頼り、ヨーロッパ世界の住人であるというアイデンティティーにすがる傾向も強かった。このためグリーンランドの人々は、生活に必要な鉄製品の輸入を削ってでも、キリスト教会に必要な貴重品を輸入し続けた。
 だが一方のヴィンランドでは、強固な集団生活を選択せずとも十分生存、いや生活が可能な場所だった。その気になれば、一人でも狩猟などで生計を立てることが可能だった。また河川には豊富なシャケやマスが遡上するのに、それを食べない手はなかった。そして何よりヴァイキング達の文明維持に必要な鉄資源、木材資源が豊富にあった。
 なおグリーンランドの人々は、身近に多数生息する魚を食料とせず、収穫される乳製品や家畜の肉以外では、主に狩猟で得られるシンリントナカイと味の悪いアザラシの肉を食べていた。特に貧しい人々の主食は、アザラシとなった。だがアザラシの肉は決して美味しい肉ではなく、場所がグリーンランドなどの極北の地でなければヨーロッパ出身の人々が食べるような食料ではなかった。これも近在のライバルである原住民(イヌイット)を蛮族と蔑み、自分たちがヨーロピアンであるという矜持によって作られた禁忌であり習慣の一つであった。
 そうして、生活、食料を始めとした様々な面での反動、またあまりにも保守的だった生活そのものへの反動が、物産の豊かな新天地で現れた。そして新天地に最初に再移住した人々は特にその傾向が強く、グリーンランドでの多くの行いを悪弊や害悪と捉え、その責任をグリーンランドに移ってから伝わってきたキリスト教の責任に転嫁する動きが見られるようになる。しかもヴィンランドには、司教どころか司祭すら一度も赴任してこなかった。
 当然キリスト教に対する信仰は衰えていった。
 そして神の名を唱えなくても、鉄の武器と防具さえあれば、ヴァイキングは数の少ない原住民に対して無敵だった。時には、神話に出てくる軍神のごとき活躍すら可能だった。木や石、骨しか道具のない原住民に対して、鉄の武具はそれだけの優位をヴァイキング達に与えたのだ。そして新天地の人々は、「蛮族」との戦いに際して、十字架ではなく自分たちの神話に出てくる戦いの神にして雷神でもあるトールの象徴である鎚を意匠化した装飾品をお守りとした。
 また保守的な生活への反動、豊かな新天地での新たな生活が、ヴィンランドの人々を再びヨーロピアン的な挑戦と好奇心の方向性に誘い、知恵と努力によって生活を改善し豊かにするようになる。豊かな大地が広がる新大陸は、新しいことを始めるのにはうってつけの実験場だった。

 一方で新天地のヴァイキング達は、ヨーロッパとの連絡をだんだんと疎むようになっていった。そしてヴィンランドや、さらに南の広大な大地からグリーンランドに物資を供給する流れを作ると、グリーンランドでも教会への信仰の衰えが目立ち、古い神話が再び人々の心に根ざすようになっていく。
 12世紀初頭に作られた新たな入植地では、ついに教会が建設されることが新天地に移住した人々によって否定される。
 そして12世紀のある日、さらなる新天地へと旅だった人々は、新たな入植地の建設を決めた場所でノルド神話(北欧神話)を復活させ、同時にキリスト教を棄てることを宣言し、新天地を神話に出てくるヴァルハラと名付けた。
 この時復活した宗教としてのノルド神話(北欧神話)を、「ラグナ教」という。ラグナとはノルド神話で「偉大な神々」を意味する。
 そしてこのような古い神話を元にした多神教の復活は、世界的に見ても非常に希な例であった。ただし古代の神話とは違い、宗教としての側面は一部キリスト教が取り入れられており、完全に同じものではない。本来ノルド神話の信奉されていた世界では、神殿はほとんど建設されていないので、壮麗で巨大な神殿が造られるようになったのは、間違いなくキリスト教の影響だった。宗教建築物以外で天を目指すような高層建築が好まれたのも、キリスト教の影響だった。神殿での階層社会も、キリスト教から取り入れられたものが数多く見られた。
 なお、キリスト教とラグナ教の違いは、一神教か多神教の違いだけではなかった。王又は現地の統治者が宗教的権威を兼ねており、支配構造が一元化されている点が大きな違いだった。また教会はなく、それぞれの神々を祀る古代ローマのような神殿が信仰の主体だった。そして神殿には十字架は掲げられず、僧侶、司祭は神官、神官長という形になった。神官は権力者の下に属しており、実質的な政治的権力や領地はほとんど与えられていなかった。こうした点は、後のキリスト教の一部が採用した国家宗教としての形態に近いと言えるかもしれない。
 また、十字架の代わりとでも言える新たなシンボルとして、鳥の羽をモチーフにしたシンボルが作られている。

 新たな理(ことわり)のもとで暮らしを始めたヴィンランドの人々は、温暖な場所で順調に人口を増やしつつ勢力圏を拡大していった。グリーンランド社会も、現地を鉄や木材、船の供給源と考え、それらを取得させるための移住者を供給した。そしてヴィンランドの人々は、現地で鉄や木材を生産するためと、原住民と戦うために人手がいるとして、帰りの船にグリーンランドの人々を乗せていった。
 また、ヴィンランドからは鉄と木材、さらには船舶そのものが輸出されたが、ヴィンランドがグリーンランドに欲する物産はほぼゼロで、辛うじてセイウチの牙ぐらいだった。実際に欲しいものがあるとすれば、ヨーロッパ本土の最新の知識や技術、現地で農業を営むための家畜や種籾であり、そうした物産はヨーロッパからグリーンランドに来る商人から得ることが出来た。12世紀頃からは、ヴィンランドからグリーンランドを経由して、自分たちがヨーロッパに赴くことも増えた。このためグリーンランドそのものは、製品の代価として相手を満足させるだけの何かを支払わねばならなかった。この代価としてヴィンランドの人が求めたのが、現地で依然として不足していた女性だった。
 そしてグリーンランドでも、ヴィンランドである程度自活できる人口を構成させるために女性が必要だということを理解していたので、鉄や木材、船を「結納金」とした「結婚」という形での移民が行われた。
 ただし、ヴィンランドからグリーンランドに人が移住するという事はほとんどなく、またヨーロッパに伝えられるヴィンランドの情報は意図的に常に限られていた。また現地からヨーロッパに伝えられる話しも、ヴィンランドはグリーンランドより温暖だが外敵や害獣が多く、生活が過酷なことに変わりがないというものが多かった。ヴィンランドへの航路も、ヴァイキング達だけの秘密であり続けた。
 そして距離の問題もあるため、ヨーロッパ(ノルウェー)から赴任したキリスト教の司教や司祭は一人もなく、グリーンランドの司教が交易にきたヴィンランド入植地の人間から口伝で聞いた恐ろしげな話しや、ヴィンランドから来た船乗りの言葉だけがヨーロッパへと伝えられた。
 しかも話しの多くに誇張が含まれていると考えられ、新天地という場所が危険が多いが豊穣が約束された場所だという言葉のプラス面は大きな誇張があると考えられていた。
 このためグリーンランドの向こうにある土地は、「蛮族の地」や「悪魔の地」、「闇の世界」とも言われた。
 しかし実際は、狼などの野獣はグリーンランドよりずっと多いが別に脅威というほどではなく、何故か土地の豊かさに反して原住民が少ないため、ヴィンランドのヴァイキング達は年々大幅な拡大を続けていた。
(※原住民は天然痘や麻疹などの伝染病で壊滅していた。)

 ・ ・ ・

 その後ヴィンランドでは、グリーンランドからの移民と現地での大幅な人口増加により急速に拡大した。主にグリーンランドとアイスランドからは、合計2000人が半世紀の間に移住した。再入植から一世紀を経た西暦1150年頃の総人口は、1万人に達していたと見られている。一見少ないように見えるが、グリーンランドの最大人口包容数が5000人程度だったことを考えると、十分以上に大きな躍進だった。ヴィンランドでの資源の豊富さもあって、グリーンランドのと主従が逆転したのも12世紀後半だった。現在のレイブズ半島のトールヴィルの町に、最初の入植地が建設されたのもこの時期だった。
 アイスランドと比較しても、中世のアイスランドの最大人口が5万人程度なので、隔たれ過ぎている距離を考慮すると、アイスランドからではグリーンランドはおろかヴィンランドに影響を与えることはできなかった。さらにヨーロッパ本土のノルウェーでは、ヴィンランドは多少南にあるが木材ぐらいしか物産のない貧相な場所で、新天地というよりはグリーンランドの余剰人口の棄て場所や製鉄や造船を行う場所ぐらいだと見られていた。そして往復するだけでも危険な上に、住むには適さない敵意の多い場所だと考えられ続けた。
 だが事実は違っていた。ヴィンランドの人口は年々拡大し、入植地の数も順調に増えた。現地ヴァイキング達は、文明程度の差もあって圧倒的な存在だった。
 12世紀前半には、社会規模でアイスランドを上回るようになった。そして13世紀(西暦1200年代)初頭には初期の国家と呼ぶべき社会の形成も始まり、文明レベルや社会規模は直接の出発点となったグリーンランドを完全に凌駕するようになっていた。ヴィンランド島やレイブズ半島だけではなく大陸に次の入植地が作られ始め、ヴァルハラと名付けられた新たな始まりの入植地が、入植村から町に発展したのもこの頃になる。町を形成するだけの社会と産業が育ちつつあった何よりの証拠だった。ちなにみ、文化人類学的に総人口5万人という数字は、初期的な帝国(複雑な統治機構や階級社会を持った国家)が形成される人数でもある。
 その後も順調な人口の拡大と新たな入植地の建設は進み、ヨーロッパの人々が何も知らないうちに、白人の一派が新大陸へと静かに浸透していった。
 
 西暦1300年を越えると、地球全体の温暖期は終わりを告げ始めるようになった。グリーンランドも例外ではなく、むしろ最初に厳しい自然の洗礼に見舞われた場所となった。
 寒冷化とは寒い地方から始まることが多く、グリーンランドでの温暖期の終了と寒冷期に移行する気候の乱れた時期は、早くも13世紀中頃に始まっていた。完全な寒冷化はまだ先の事だったが、13世紀中頃にはグリーンランド全体が以前よりも寒冷な気候となり、北の海には流氷や氷山が頻繁に姿を見せるようになった。流氷や氷結で海が航行できなくなる期間も増えた。
 当然、北の大地に住むヴァイキング達の生存は脅かされた。グリーンランドでの生活は年々辛くなり、彼らの主な食料源も主産業である筈の牧畜によって得られた各種乳製品ではなく、近隣に多数住んでいるアザラシの肉になっていった。それでも足りないので、百年以上の時間をかけてグリーンランドのヴァイキングの体格は徐々に小さくなっていった。
 また過酷な自然環境を読み切れなかった自然破壊が人々の生活を脅かし、さらに現地での人口増加が柔軟性を失わせた。初期にグリーンランドに入植した人々は500名ほどだったが、13世紀中頃の最盛期には十倍の5000名のヴァイキング達がグリーンランドに住んでいた。そして人口増加により脆弱だった自然の破壊は加速し、寒冷化がトドメをさした。グリーンランドは、神に見放された大地となっていったのだ。
 13世紀の末頃には、早くも廃棄されたり壊滅した農場が現れた。翌年春まで持たないことを見越した人々の多くが、その年の僅かに海が航行できる夏の時期に訪れたヴィンランドの船団に我が身を委ねた。
 グリーンランド南西部の二つあった入植地のうち、より北にあって人口規模の小さかった「西の入植地」は、1350年頃に窮地を迎えた。
 この事は、現地の教会からヨーロッパのノルウェーにある教会にも報告され、当時のグリーンランドでの生活がいかに過酷であるかを知ることができる。ただし、グリーンランド全体が既にヨーロッパ本土からは価値がないと見られており、報告はほとんど重視されなかった。ヨーロッパ社会にとってのグリーンランドとは、イスラム勢力の拡大により象牙が手に入りにくくなったため、その代替品としてのセイウチの牙にあった。しかし、十字軍の遠征以後再び象牙が得られれるようになると代替品にはほとんど価値はなくなり、当然関心も低下した。この頃のヨーロッパ世界にとってグリーンランド情勢は、「取るに足らないこと」に過ぎなかった。
 グリーンランド最後の司教は西暦1378年に現地で死去し、その後ヨーロッパから司教が赴任することは無かった。そしてヴァイキング達の策源地であるノルウェー王国自身がペストで人口が激減してデンマークに事実上併合されたこともあり、ヨーロッパ本土はグリーンランドへの興味を激減させた。このため、以後ヨーロッパがグリーンランドの情報を得ることは極めて難しくなる。そして司教に任命されなければ司祭は誕生できず、グリーンランドでキリスト教の祭祀を司る人々は減る一方になった。

 なお、西の植民地に最盛時1000名いた全ての者が、餓死や凍死で全滅したのではなかった。一部の者は東の入植地に逃れ、またそれよりも多い数が、ヴィンランドから大挙してやって来た「脱出船団」に乗り込み、新天地へと旅立っている。
 この情報は、かなりの期間東の入植地には伝えられなかった。閉鎖社会での抜け駆け行為に近いため、大きな怒りを買う恐れがあったためだ。しかし東の入植地でも大きな困難が始まっており、それまでにヴァイキング達が現地で行った各種自然破壊のしっぺ返しもあって、年々窮状は進んでいった。

 そして14世紀後半のある年(※記録では1381年とされる)、厳しい気象などのせいで10年以上間途絶えていた交易船が、10数年ぶりにノルウェーからグリーンランドに赴いた。だが、交易船兼徴税船が東の入植地に赴くも、そこには数年前までいた筈の数千人の人々の姿はなかった。
 いたのは蛮族とされた小数のイヌイットだけであり、入植地は建物こそある程度残されていたが、完全に破棄されていた。イヌイットを追い払ってある程度の調査をしたが、新しい墓が異常なほど増えていることが分かり、家屋からは多くのものが持ち去られたような痕跡が見られた。家畜の姿もなかった。あるのは、墓石と文字通り骨の髄まで食べ尽くされた動物の骨と、そして文明の廃墟だけだった。
 このためヨーロッパから来た人々は、グリーンランドのヴァイキング達が厳しい気候の中で生活を維持できなり全滅したのだろうと単純に考えた。無論全てが餓死したのではなく、勢力が著しく衰えたところを原住民の襲撃を受け、生き残りは全て殺され、残されていた全ての財産と家畜が奪われたのだと結論した。
 その証拠としたのが、ノルウェー本国同様の立派な石造りの聖堂を備えた教会が激しく破壊されていたからだった。
 無論、数千の人々が一度にしかも短期間に滅びる可能性については異論もあったが、異教徒の蛮族に滅ぼされたというのはかなりの説得力を持っていた。ヨーロッパに住む人々が知るグリーンランドのヴァイキング達は、同じヨーロピアンとは思えぬほど非常に貧しかったからだ。
 それでも一部の者は、グリーンランドのさらに遠方にあるヴィンランドという入植地に思い至ったが、グリーンランドの人間以外ではヴィンランドという入植地があることを、知識として知っているに過ぎなかった。それに、ヨーロッパ世界での辺境中の辺境とされるヴィンランドという場所は、グリーンランドというヨーロッパ世界との中継点を失っては到底長く生存できないだろうと推察された。
 そして探索するにしても手間がかかりすぎる事もあり、その先への道も知らない人々は、余裕もなかった事もあってそれ以上西もしくは北に進むこともなかった。
 そうしてグリーンランドとその先のヴィンランドと呼ばれていた地域の人々も全滅したと考えられ、ヨーロッパ世界から長らく忘れ去れる事になる。

 しかしヨーロッパ世界で最も辺境のヴァイキング達は、全滅したわけではなかった。
 グリーンランドの人々は、生き残りのほぼ全てがヴィンランドなど新大陸各地へと脱出的移住を実施し、ヨーロッパ世界から決別し自らを隔離してしまったのだ。何しろ寒冷化とペストでのたうち回っていた当時のヨーロッパに自分たちが逃げ込める場所はなく、彼らが生きていける場所は緑豊かな新天地しか選択肢がなかった。それにグリーンランドが自力で大量の脱出船を建造する事は、木材の枯渇という自然条件から不可能であり、命がけで船を出したのがヴィンランドの人々だったからだ。
 そしてグリーンランドからの集団移民、ある意味脱出行を行ったのは、再入植から200年近く経った新大陸の人々が計画的に行った事でもあった。特に中心になったのが、南の地のヴァルハラ入植地だった。
 ヴィンランドは、既に入植から150年が経過したヴァルハラを中心にして10万人以上の人々が暮らすようになっていたため、入植地と言うより小さな国といえるまで拡大していた。そしてヴィンランドより南にあるヴァルハラは、豊富な資源と食料、製鉄を始めとする産業もあったため、現地ヴァイキング達の中心的役割を担うようにもなっていたからだ。10万人といえば、ヨーロッパ本土でも中世なら十分小国としてやっていける規模であり、彼らが祖とするノルウェーもこの程度の人口で国家としての運営が行われていた。
 そして彼らは、自分たちの覇権をより確実なものとするためには、ヨーロッパから距離を置く事が必要だと考えた。寒冷な気候の到来に伴うグリーンランドの窮地は、渡りに船という状況だったのだ。
 ただし、自らヨーロッパとの交流を絶つ前(主に14世紀初頭から以後半世紀の間)に、ヨーロッパからは馬、豚などグリーランドでほとんど飼えなかった家畜とガチョウやアヒルなどの家禽、様々な農作物の種子、さらには様々な技術を自分たちのもとに持ち込んでいた。この中には、アラビア商人から手に入れた蒸留機(アランビク)と彼らの使うアラビア数字という当時の文明の最先端の文物もあり、合わせてかなりの数の書籍などの知識もあった。蒸留機で作られたアルコール度数の高い酒は、使用した穀物に関わらず「アクアビット(命の水)」と呼ばれ、彼らの活力源となると共に酒に目がない原住民の懐柔に大いに役立った。ヨーロッパ世界から新世界に持ち込まなかったのは「聖書と農奴だけ」と言われたほどだった。
 また知識の中には、12世紀にノルウェーやデンマークなどでまとめられた自分たちの神話(サガ)もあり、これが彼らに大きな影響を与えることになる。

 ちなみに、西暦1050年頃に再びヴィンランドに入植したヴァイキング達は、12世紀に入る頃からほぼ20年に一度の割合で、南に新たな入植地を切り開いていた。20年という間隔は、人が生まれて結婚し子供を育て始める間隔からで、それだけ人口が拡大し続けている証拠だった。
 そうして半世紀もすると、ヴィンランドから出て新大陸の奥地へと進んでいった。入植地が再び開かれてから半世紀ほどはグリーンランドに対する鉄と木材の供給地という下の立場だったが、豊富な農作物が大人口を作り出し、勢力の逆転へとつながった。13世紀には、グリーンランドの主要な商品が、完全に移民する人間となっていたほどだった。
 そして数の多くなった人々は、新大陸の東海岸一帯を船で探して周り、北東部の入り江からノルン河を遡って五大湖へと至り、新たな大地が信じられないほど広大かつ肥沃で、しかも自分たちの勢力圏に近い地域は原住民の人口密度が極めて低い新天地であることを知る。
 そして12世紀からヨーロッパ人が再び新大陸にやって来る1492年までの約400年間の間に、ヴァイキングの末裔達は新大陸に強大な勢力圏を作り上げることに成功していた。移民と入植を半ば日常としていたヴァイキング達にとっては、豊富な森林資源と相応の鉄、銅などの鉱産資源さえがあれば、あとは家畜と作物の種だけで新たな生活を作り上げる事が可能だった。しかも新天地が温暖で肥沃、獲物も豊富とあれば言うことなしだった。
 その上、本来なら彼らの「邪魔」をしたであろう原住民達は、ユーラシア大陸からヴァイキング達が持ち込んた疫病(伝染病)の猛威によって数を激減させていた。全体的な比率だと、生き残ったのは最大で20%程度だと言われる。酷い場合は全体の僅か5%の20人に1人程度であり、原住民社会を根底から破壊していった。ヴィンランドのヴァイキング達がエーギル海と名付けた南の内海の島々では完全に全滅した例も見られた。天然痘、インフルエンザ、麻疹、百日咳、そしてペストなどに免疫を全く持たなかったが故の悲劇だった。
 しかもヴァイキング達が南進する四半世紀前に人口が激減もしくは全滅するという状況が多かったため、その地の主が自動的に入れ替わっていくという状況が新大陸各地で続いた。ヴァイキング達が広がるのに合わせての伝染病の広がりだが、保菌者が当のヴァイキングと彼らの家畜な影響だった。
 おかげでヴァイキング達の入植地は順調に数を増やし、南の温暖な地域での農業によって人口も激増した。そのヴァイキング達も、14世紀半ばにペストによって大打撃を受けたが、それでも死者の数は多く見ても全体の二割程度だったため、彼らの前進と拡大を止めるには至らなかった。新大陸でのヴァイキング達のペスト被害がヨーロッパより少なかったのは、都市の未発達、貧民の少なさが原因とされている。栄養が豊富で衛生状況が一定水準にあれば、疫病の罹患率が低下するのは道理だった。
 そしてヴァイキング達はあらゆる障害を押しのけて広がり、そして増えていった。グリーンランド時代の最大人口は5000人程度だったが、ヴィンランドではグリーンランドが寒冷化し始める1250年頃までに10万人近くにまで拡大していた。
 西暦1050年から400年間の間、新大陸での人口増加は平均して年率1.5〜2%を維持し続けた。とはいえグリーンランド入植地が壊滅する1380年頃までは、グリーンランドもしくはアイスランドの余剰人口が、ヴィンランドなど新大陸に流れていたので額面通り人口が増えたわけではない。
 また勢力圏内で生き残った原住民を、最初は奴隷として次に嫁として同化し、自分たちの社会に組み込む事も行われた。
 もともと北ヨーロッパ系のノルド人は、排他性が強く白人種以外との他民族との混血を嫌っているとされる。しかしヨーロッパ社会、キリスト教という二つの大きな要素から切り離された人々は、自らが生き残りそして繁栄するため、ある程度の寛容さを身につけていた。
 こうした変化は、ヴァイキング達がヴァイキングから別の存在へと変化している何よりの証だったと言えるだろう。

●フェイズ2「アスガルド大陸」