■フェイズ02「アスガルド大陸」

 ヴァイキング達の次にヨーロッパ人がやって来る西暦1492年までに、新大陸にはヨーロッパとは違った道を進み始めたヨーロピアンによる社会と文明、そして国家が形成されることになる。
 新天地でのヴァイキング達による国家の建設は、西暦1352年の事だった。
 グリーンランドの壊滅はこの四半世紀ほど後のことだったが、建国の事実は当時のグリーンランドには伏せられ、当然だがヨーロッパの人々が知ることはなかった。
 知らされなかったのは、新たな国家を作り上げた人々が、キリスト教社会、ヨーロッパ世界からの決別を意味し、そして新大陸の人々に国家という新たなよりどころを与えるためのものであった。加えて言えば、ヨーロッパから、どんな言いがかりや、場合によっては侵略を受けるかもしれないという恐怖心があった。場合によっては、全員が異端や悪魔の使いなどとして、滅ぼされる可能性すら真剣に考えられていた。中世ヨーロッパのキリスト教には、それだけの恐怖心を植え付けるだけの面があった。加えて言えば、ヴァイキング達が最後にヨーロッパに行ったとき、その帰りにペスト菌のキャリアーとなる鼠が乗船した事も、ヨーロッパ世界との決別と国家の建設を決意させた。何しろヴァイキング達も、ほぼ瞬間的に総人口の三分の一が失われていた。ヨーロッパ世界に対する恐怖による決別と、疫病に対する混乱終息のための国家体制の強化は14世紀後半は急務と考えられていた。
 そして最初の国家建設の時、再度入植した年、つまり西暦1050年を自分たちの紀元とする事もある。この場合「アスガルド歴」と呼ばれ、西暦1950年には900年祭、2000年には950年祭が盛大に行われている。

 建国王はトールソン家のハーラル。正式にはハーラル・アフルレード・トールソンという名を持つ。アフルレードはケルトの言葉で「妖精の王」を意味し、トールソンとはノルドの言葉で、雷神トール(ソール)の息子という意味になる。
 ハーラルという名はノルド系ではありきたりな名で、ノルウェー王にも同じ名が何度も登場するが、改名することもなくそのまま「ハーラル一世」と称した。彼は再びヴィンランドに至った最初の52人の末裔の一人で、その後ヴァルハラ入植地を最初に切り開いた人物の子孫に当たる。建国を行い自ら国王なるほどの人物ながら、武勇についての勇名は形ばかりしか残されていないが、人間的魅力と今で言うところの高い経営手腕の持ち主だった。
 国の名は「大ノルド王国」。ノルドとは彼らの発祥であるノルウェー地域の事を指し、単に「北」とか「北部」のような言葉から派生したのだが、彼ら本来の名といえる。ヴァイキングという言葉は「襲撃者」という言葉が若干変化したもので、彼らがヨーロッパ世界から恐ろしい海賊として見られていた何よりの名残であった。
 新たな国の首都は、新大陸東海岸の北寄りにあるヴァルハラ。神話の都の名を与えられた街は、港湾都市であると同時に北東部牧畜地帯の中核都市として栄えていた。
 総人口は、建国時点で50万人程度。王都ヴァルハラの人口も、都市規模から3万人ほどあったと考えられている。建国時の王宮や神殿は、お世辞にも立派とは言えなかった。だが夢は大きく、それを可能とするだけの豊かな大地が、未開拓のまま彼らの眼前に広がっていた。
 その後も東部沿岸では、サンネス、ノウム・ガルザル、フヴァルセーなどの入植地は次々に周辺部を拡大し、当時最も南に位置したフヴァルセーの内陸部一帯は、穀倉地帯として開拓が進められていった。ヴァイキング達が小麦栽培を本格的に始めたのも、フヴァルセー辺りからだった。沿岸部の開発に平行して、ノルン川を遡った五大湖地帯の開拓も進められ、後に交通の要衝となるミーミルヘイムの入植地も開かれた。そうして彼らが国土とする地域は、既に彼らの先祖が旅立ってきたスカンディナビア半島に匹敵するほどとなった。
 これほど早く開発が進んだのは、彼らの進出先に原住民が極端に少なかったからだ。しかも一部の地域では原住民が開発して、謎の人口崩壊(疫病)で放棄された開拓済みの土地が残されていた事も、ヴァイキング達の進出を容易なものとした。
 そしてヴァイキング達は、そこで新大陸唯一の多産穀物である「トウモロコシ」に出会う。出会いは13世紀末と言われ、栽培が始められたのは14世紀に入ってからだと言われている。このためヨーロッパに最初に紹介されたのも、ヴァイキング達がまだグリーンランドに住んでいた時代の末期だと言われることもある。だが、新大陸の秘密が漏洩する事を恐れたヴァイキング達がそのような危険を冒したとも考えられず、新大陸以外がトウモロコシを知るのはまだ先の事だった。だがトウモロコシが、ヴァイキング達の新たな食料源となるのは早かったと考えられている。文献にも14世紀に入ると頻繁に見られるよになっている。そしてヴァイキング達は、ヨーロッパと連続性のない穀物をとても喜び、豊穣の神「フレイの穀物」とも名付けて、特にトウモロコシの酒を多く造ったとされる。今でも、羊や牛の乳製品とトウモロコシの酒といえば、というほどの定番だ。

 そうしてヴァイキング達の人口はペストなどの疫病による一時的な停滞を除けば順調な拡大を続け、ヨーロピアンが彼らの大陸にやって来る頃には、原住民を含めて300万人に達していた。
 一般にヴァイキング達は北の民だと言われるが、中世ヨーロッパ時代のヴァイキング達の最盛時には地中海にも広がっている。北アフリカに足跡を記してもいる。この事からも進出の障害として寒暖は特に関係はなく、新世界に進出した人々も段階的ではあったが順次南へと船を向け、そして新たな世界の探索と開発を続けた。そうして時には戦うこともあったが、鉄の武具を持つ彼らはどこに行っても無敵の戦闘集団だった。無論ワーストコンタクトばかりではなく、出会った先の原住民と物々交換での交易も行われている。南の内海の島嶼群では、保存の利くタンパク質食料として固形の乳製品や各所保存肉が非常に珍重され、現地にある多くの貴重品をヴァイキング達にもたした。そしてその時の記憶がヴァイキング達に欲望を抱かせ、一層の南部進出へとつながっている。

 そうして広がっていった15世紀末頃の王国単体での領域は、北の新大陸の東半分と、中央内海(=エーギル海)をほぼ勢力圏におさめていた。しかも勢力圏内には、大ノルド王国以外にも自治独立地帯があった。これらは、初期の頃は単なる入植地だった場所から発展したもので、国家の制度が整うに従って単なる入植地ではなく、切り開いた代表者の領地として貴族の領土として発展していったものだった。そうした新たな土地は、特に新たな命名基準がなかったため、名称の訳そのものは侯爵領、辺境伯爵領とされた。しかしヨーロッパでの階級社会と違い、ヴァイキング達の作り出した貴族や特権階級は土地の管理者、代表者、そして守り手であり、支配者や所有者とは言えない存在だった。古い時代での豪族や血縁集団の代表に近い。東洋で封建世界を作った日本を例とした場合での、名主や農村領主にも近似値を求めることが出来るかも知れない。国家の制度自体も、国と王が領地を保証はしても与える形ではなかった。開いた土地は開いた者のものであり、それを権威を以て保証するのが国家や王であり、その保証代金として税を納める形になっていた。これは常に膨張する開拓国家であるから出来たことだと言えるだろう。
 そうした広大な森林の中に浮かぶ少しばかり開拓された農地にすぎない場所が多い侯爵領、辺境伯爵領だったが、そうした中世ヨーロッパに近い領土形態の自治領や開拓地、入植地が各地に散在し、全てを合わせた人口は400万人に達していたと見られている。
 中には、ヴァイキング達と共に生きる原住民の部族(※ヴァイキング到達以前から農耕を行っていたイロコロ族の一部など)もあった。
 このためこの頃の社会規模は、ヨーロピアンと再接触する頃には既にヨーロッパ世界全体に対して、二十分の一程度にまで拡大していた事になる。国家単体でも、イングランドに匹敵する人口規模(=300万人)だった。
 そこに住む主な人々は、白い肌を持ち青い目をした北ヨーロッパ系、より厳密にはスカンディナビア系ヨーロピアンの末裔、つまりノルド人だった。白人の典型と言われる金髪碧眼という場合も、大本の出身地がそうであったようにかなりの割合で見られた。しかしヨーロッパの人々と違い、古ノルド語の派生言語を話し、ノルド系ルーン文字を改良したものを使い、北欧神話とも言われる神話(ラグナ教)とその神々を敬った。
 銃など火薬を使う武器は持たなかったが、鉄の武器、鉄の防具など様々な鉄の武具を有していた。鉄以外の銅、青銅も使いこなしていた。金銀については、言うまでもない。建築技術も、決別した頃のヨーロッパの技術まではほぼ持ち込まれていた。一部には、独自に発展を見た技術や様式も、既に見られるようになっていた。数百万の人口を内包する社会だからこそ出来たことだ。火薬、羅針盤、活版印刷術については、決別前のイスラム社会から一定割合の知識は入手されており、道具として広く使われないまでも無知ではなかった。
 生活面でも、牛、馬、豚、羊、山羊など元々ヨーロッパにしかいない様々な家畜を持ち、大麦、ライ麦、オート麦を中心としたヨーロッパから持ち込んだ作物も育てた(※元々の生存圏の関係から、かなりの時期まで小麦は重視されていなかった)。さらには、原住民によって栽培されていたトウモロコシなど様々な現地の穀物や作物も栽培するようになり、七面鳥と呼ばれる見た目は醜いが非常に美味な鳥も飼っていた。現地に生えていたヒマワリは、荒れ地でも逞しく育つため貴重な植物油を提供した。新大陸独自の様々な野菜も育て、北の大陸南部で見つかった落花生は栄養価が高いため携帯食や副食としても珍重された。落花生は携帯に便利なこともあり、戦士の食べ物と言われたりもした。
 最高の甘味を与えてくれるミツバチはいなかったが、蜜楓の樹液が彼らの一番の甘味となった。なお、蜜楓から採取される樹液の糖度は天然の糖分としては世界で最も高く、「森の滴」「森の蜜」として珍重された。今日でも蜜楓は、エイリーク王国の国の樹木として愛されている。またヴァイキング達が樹木に対しても精霊崇拝の名残を残していたので、樹木を敬う感情を高める要素ともなっていた。

 そしてヴァイキング達は、人口の拡大と共に新大陸北東部を中心にヨーロッパ文明由来の技術の延長である様式と技術を用いた都市を築き、街道を整備して馬で行き交い、彼らの誇るヴァイキング船で海と川を越えていった。
 文明程度は15世紀末のヨーロッパ中心部には劣っていたが、中世ヨーロッパからある程度独自の発展が見られていたため、大きく劣るという事はなかった。あえて比較するなら、一部最新技術に欠けた東欧又はロシア西部地域とかなり類似していた。
 しかし彼らの前に天敵と言えるほどの脅威がないため彼らの探索と拡大は続き、彼らが独自に次のステップへと移行しつつあった頃、大きな変化が海の彼方からやって来る。

 西暦1492年、サンタ・マリア号を始め排水量120トンから150トン程度の小型の外航洋帆船3隻を用いて大西洋を横断して「インド」にたどり着いた人々は、驚天動地の事態に直面する。
 ヨーロッパ人(白人)が、インドもしくはインドの東にあるというジパングである筈の場所に多数住んでいたからだ。この時彼らは、現地で見つけた白人達がアフリカ周りかオスマン朝経由でインドに至った人だと勘違いしていた記録が、当時のヴァイキング達の文献から見つけることができる。
 しかしコロンブスは、「現地の白人達」とのファーストコンタクトに失敗する。これはコロンブス達が、恐らくは有利な商取引のため武器で相手を脅そうとしたからだと考えられている。
 そして武器を備えた船を見たヴァイキング達は、コロンブス達を「敵」と認識した。そして数日間ノラリクラリとコロンブス達の相手をしている間に、周辺部から集められるだけの船と男達を集め、周到に包囲し、奇襲攻撃を行った。そして一部を情報収集のための捕虜とした以外、残らず全滅させてしまう。コロンブスも捕虜とされ、その後は生涯ヴァイキング達に情報を提供させられたと考えられている。
 ヴァイキング達は、自分たちがキリスト教を棄てたため、いつの日にかヨーロッパから討伐や改宗を求める人々がやって来るのではないかと疑っていたのだ。
 このためヴァイキング達は、原住民と戦いつつも武力を蓄える努力を重ね、人口を増やすための努力を行っていた。
 またヴァイキング達は、近いうちにヨーロッパから本格的な探査艦隊が来ることをコロンブスが来る前から予見していた。

 15世紀になると、ヨーロッパのイングランドやバスク地方の漁民達が、鱈(タラ)を追いかけて大西洋の沖合に出て、ヴィンランド島沖合の海域(ヴィンランド堆)にまで出没するようになっていたからだった。同海域はヴァイキング達にとっても重要な鱈の漁場であり、必然的に接触と衝突が起きた。そこで現地のヴァイキング達は、自分たちの秘密の漁場を知らせるという漁民のタブーを犯してでも国にこの重大事を伝えた。国は、急ぎ多数の軍艦を派遣してヨーロッパから来た漁民達を駆逐し、一部の船を拿捕した。
 そして拿捕した船から技術の抽出を実施し、自分たちの使う船の性能向上を図った。これによってヴァイキング達の船も、外板を作って後で内部から補強するのではなく、骨組みを作ってから外板を付ける形に構造が変化し、単に船の強度が増すばかりでなく、修理、補修の簡便化を取り入れることができた。また、甲板を設けるようにもなり、大型船になると船内に何層もの階層を設けるようにもなる。
 こうして船の能力を向上させたヴァイキング達は、15世紀中頃になると活動範囲を一層広げることが出来るようになり、エーギル海や南の新大陸への進出を容易なものとしていた。
 なお、イングランドやバスクの漁民達は、未知の白人勢力から攻撃を受けたことを、ヨーロッパの権力者や他の者に伝えることはなかった。これは、漁民とは自分たちの利益のために秘密主義が強い事が原因しており、他の人々も犠牲の多さを単に気象の厳しい遠方に赴いている影響だろうとしか考えなかった。だからこそコロンブス達は、全く無知のままヴァイキング達と接触することになったのだ。

 一方でヴァイキング達は、国力と人口を増やすための努力の一環として、入植地の拡大、探検の実施などが精力的に行っていた。両大陸の間にある温暖なエーギル海への進出も、早くも14世紀後半に始められていた。ミシシッピ川流域に住んでいた初期的な農業文明を作りつつあった原住民もこの頃に疫病によって壊滅し、大陸随一の大河の流域もたいした苦労もなくヴァイキング達のものとなった。
 ヴァイキング達がもともと持っていた高い航海技術と船舶が、広大な大地を海伝い、川伝いでの進出を可能としていた。当然ながら、程なく南にある大陸、そして文明世界との接触も早かった。
 大陸南部のメヒコ地域にあったアステカ王国は、15世紀中頃に国家が発展を迎えようとしていた頃、周辺をウロウロしたヴァイキング達が伝えた形のヨーロッパ原産の強力な疫病によって壊滅的打撃を受けた。ファーストコンタクト自体は初期的な商取引であり、両者はなんとか戦闘を行うことなく互いに珍しい文物を得ることに成功した。記録によれば、ファーストコンタクトは西暦1453年だとされる。ここでヴァイキング達は、カカオ豆を初めて入手したと記録されている。
 そしてその後、ヴァイキング達はメヒコ地域に頻繁に訪れるようになり、彼らの体内にあった疫病を原住民に伝染させてしまう。
 伝染病は天然痘と麻疹の二つで、主にこの二つの病気の感染爆発によってメヒコの文明社会はほぼ一瞬で崩壊の危機に瀕し、疫病をもたらした者としてヴァイキング達は攻撃を受け、必然的に戦争へと発展した。
 大ノルド王国にとって、初めての国家同士の戦争だった。
 戦争は、大ノルド王国の圧倒的優位で進展した。本国から船で出撃した総勢1万の軍勢は、無数の艦隊を組んで短期間でアステカ帝国の沿岸部に上陸した。そして上陸した兵士は、鋼鉄の武具で武装した無敵の戦士達だった。彼らは栄誉を以て神話に出てくる「エインヘリャル」と称えられ、それまで未知の土地だった地域を、ラグナ教で言うところの「戦いの野」に変えていった。
 彼らは、500年ほど前に先祖達がヨーロッパで猛威を振るった以上の破壊と殺戮をメヒコの大地で再生産し、鉄どころか青銅すらまともに有していない文明しか持たなかったアステカ王国を一気に攻め滅ぼしてしまう。またアステカ王国だけでなく、時折同盟関係を結んだ周辺の原住民達に対しても攻撃を実施し、10年と立たずにメヒコ全土を占領した。またこの侵略の過程で、ヴァイキング達の間で小規模に流行したペストが、アステカ社会へのトドメとなった。疫病がなければ、これほど呆気なく総人口1000万人を越える国家と社会が崩壊することはなかっただろう。
 もっとも、ヴァイキング達も梅毒など現地の風土病に出会い、これらを悪霊、邪神の病気として恐れることになる。ヴァイキング達が、この頃中米ジャングル地帯にあまり進出しなかったのも、疫病を恐れていたからだった。

 そしてメヒコの大地は、大ノルド王国が有する広大な植民地となった。このためヴァイキング達は豊富な金銀と奴隷を有するようになり、数十年で十分な貨幣経済を構築しつつあった。
 ヴァイキング達の南下は前後して継続的に行われ、15世紀初頭にはパナマ地峡を越えて大東洋を発見し、アステカを滅ぼした15世紀中頃には南の新大陸へも足を踏み入れた。ジャングルへの進出は、南方特有の疫病がヴァイキング達の進出を阻んだが、海を使って移動するため南下の速度は早かった。
 南の大陸への初上陸は、1433年とされる。これはパナマ地峡から海沿いに南下したためで、陸路に踏み入らなければならないアステカ帝国との接触よりも若干早かった。
 そして南の大陸でも、ヴァイキング達が持ち込んだ疫病によって人口が激減して大混乱に陥り、ヴァイキング達の進出もしくは侵略を容易なものとした。同時期に、ユカタン半島の熱帯ジャングル内にあったマヤ文明も疫病が原因で崩壊している。
 南の新大陸山岳地帯(現:アンデス山脈)に隆盛しつつあったインカ帝国は、最盛期に向けた発展半ばで疫病による人口激減で大きく混乱した。このためインカ帝国の拡大は、面積の面で大きく進む皮肉をもたらしたのだが、大きな力による安定を求めざるを得ない混乱が現地を襲っていた証拠だった。だが、今日にも残る偉大な文明の遺産を作る頃には、馬に乗ったヴァイキングの大軍による侵略を受けることになった。それはインカの人々にとって、まさに怒れる神々の軍勢だった。

 基本的にヴァイキング達は、原住民との接触は苦手だった。長い年月をかけて経験を少しずつ蓄積してはいたが、この頃はまだ簡単に暴力に訴える傾向を持っていた。また武器の圧倒的優位が、ヴァイキング達に安易な暴力を肯定させていた。
 そしてインカ帝国の持つ文明が、せいぜい青銅の棍棒と青銅を縫い込んだ防具程度で、ヴァイキング達の敵ではなかった。アステカほどではないが、程度の差でしかなかった。
 ヴァイキング達の持つ鋼鉄の剣や斧、槍は、まさに神々の武器のごとき威力を発揮し、鉄を組み込んだ防具はあらゆる攻撃を跳ね返し、兵士達は一騎当千の活躍を示した。鉄の武具により圧倒的優位に立ち、馬により相手の情報伝達力を奪い、河川を彼らの得意とする船で縦横に移動した。また、なまじインカ帝国が発展し、街道など高度な社会資本を作っていた事が、ヴァイキング達の侵略を容易なものとしていた。加えて、インカの侵略を快く思っていない周辺部族や地域が多かった事も、インカの崩壊を早めた。そしてここでも、ヴァイキング達の体内に保持されていた疫病が猛威を振るった。

 かくして、1492年に次なるヨーロピアンが新大陸に至る頃、南北新大陸はヴァイキング達のものとなっていた。
 新大陸の名も既に付けられており、自分たちの神話から取った「アスガルド」とヴァイキング達は呼んだ。つまり新大陸も北アスガルド大陸、南アスガルド大陸という名を持つことになる。もっとも、ヨーロピアン達が新大陸の名前を知るのは、もう少し先の事だった。
(※以後新大陸のヴァイキング達の事をアスガルド人と呼ぶ)

 クリストファー・コロンブスの航海の失敗により、その後約30年の間ヨーロピアンが新大陸の存在を確認することはなかった。コロンブスの失敗に対してヨーロッパでは、ごく単純に西からアジアに向かう航海は失敗したのだと考えていた。それでも冒険的な一部の者が再度の挑戦を行ったが、彼らもヨーロッパに戻ってくる事はなかった。運良く新大陸にたどり着いた者も、アスガルド人に見つかって皆殺しにされるか、運が良くても捕虜になっていたからだ。最初の接触以後、アスガルド人が警戒を強めたため簡単に見つかり、そして殲滅されていたのだ。鱈を探し求めるヨーロッパ北部の漁民達も、アスガルド人達に駆逐されつつも愚直に秘密主義を守りつつ魚を捕る以外の行動には出なかった。漁民にとっては、アスガルド人よりも、ヨーロッパの同業者の方が脅威だったからだ。
 このためヨーロッパでは、西からアジアに向かう航路は余程過酷なのだろうと考えられた。そしてイスパニア、ポルトガルは、共に喜望峰を迂回するルートを重視するようになり、大西洋の遠くへと出ることはなかった。

 ヨーロピアンで新大陸を発見したのは、フェルディナンド・マゼランとなった。
 マゼランと彼の部下達は、再びに西に向かう航海を画策。新大陸は存在しないと言う前提のもとで航海計画を作り上げ、喜望峰周りより少しばかり短い旅程と想定した旅路へと出た。
 そして、香料諸島と呼ばれた東南アジアのモルッカ諸島を目的地とした世界一周旅行の最中に、西からインドに赴く際に、明らかにアジアとは違う大きな陸地が存在することを発見した。彼らは低緯度のモルッカ諸島を目標として南西方向に進んでいたためか、幸運にもアスガルド人達に見つかることもなく新大陸を迂回しきって、マゼランがパシフィックと名付けた大東洋に入る。
 そして3年の航海で5隻から1隻、265名から18名に激減してヨーロッパに生還した人々によって、世界が球体である事と同時に、大西洋とアジアの間に立ちふさがるように巨大な新大陸が存在することが判明した。
 そしてマゼランの航海から3年後の西暦1525年、明確に新大陸探索を目的とした大規模な探検隊がイスパニア(=スペイン)で組織される。探検隊は二ヶ月半近い航海の末に、再び新大陸のエーギル海の一角へとたどり着いた。
 そこで彼らは、自分たちの船によく似た船が何隻も浮かび、銃や鋼鉄の刀剣や防具で武装したヨーロピアンとしか思えない人々と出会うことになる。アスガルド人達は、コロンブスなどヨーロッパから来た船や道具、乗組員の生き残りから技術吸収を行い、すぐにも最新技術の模倣と再現を行っていたのだった。
 この時イスパニアから出た船団は、ヨーロッパの他の国に出し抜かれたのかと考え、とにかく交渉を行おうとした。しかし相手に言葉などのコミュニケーションは殆ど通じず、しかも最初から好戦的だった。加えて、見つかってから時間が経つと共に、大量の船が船団を取り囲むように集まってきた。そして一定数が集まると、すぐにも戦闘行動を開始する。
 事ここに至ってイスパニア側も戦闘を決意。必然的に戦闘に発展して、数に勝るアスガルド人が大型の大砲などまだ未開発な装備に苦戦しながらも勝利した。
 だが敗者となったイスパニアの船団は、5隻あった船団のうち3隻が犠牲になるも、自分たちの方が進んだ武力を持っていたこともあり何とか逃げ出すことに成功した。そしてヨーロッパに帰り着いた人々は、ヨーロッパに驚きの一報をもたらすことになる。
 「新大陸には、未知の白人文明社会あり」と。
 これが実質的な、ヴァイキングの末裔とヨーロッパのワーストコンタクトとなった。

 その後ヨーロッパでは、新大陸の事を一時アトランティス帝国、滅び去った筈の古代王国だとする説が流布した。このためヨーロッパでは、新大陸の事をかなりの間「アトランティス大陸」と呼ぶ事になる。
 しかし現地白人との会話内容などの聞き取りや相手の風体などから、スカンディナビア半島を発祥とするノルド系民族の末裔ではないかという説が、教会を中心に考えられるようになる。ヨーロッパでの、新大陸に対する驚きと探索への気運も大きく盛り上がった。
 しかし新大陸への旅そのものは、相手が敵対的である以上、利益よりも損害が大きいと考えられ、イスパニアによる新大陸の進出は一旦棚上げされた。このため次に新大陸に赴いたのは、キリスト教会とその声を受けた人々となった。
 ヨーロッパ世界中の情報を有するキリスト教会は、彼らがグリーンランドに住んでいた人々の末裔ではないかと考え、スカンディナビア地方や北大西洋の島嶼地域から情報を収集し、何とか友好的接触を実施しようとしたのだ。
 無論自分たちの勢力拡大のためであり、教会内の権力闘争や派閥争いに勝利するためにも、新たな信者と税収を得ることは彼らにとって非常に重要だと考えられた。
 しかもこの頃は、宗教改革が起き始めた頃でもあり、教会中枢の危機感はかなり高かった。また未知の白人がスカンディナビア系の白人なら、カトリックの教えを守っているのではないかという強い期待があった。
 そしてキリスト教の権威と権限を使って各国を動かし、何度か新大陸に船団を派遣した。この航海では通訳としてのノルウェー人やデーン人、スカンディナビア人、さらにはアイスランド人なども伴っており、とにかく交渉を行うことを前提にしたコンタクトが実施された。出会い頭に戦闘ばかりでは、文字通り話しにもならなかったからだ。

 何度かの失敗の後、エーギル海の僻地で何とか交渉を持ったキリスト教会だったが、現地に赴いて無事生還した人々からの報告は大きな落胆をもたらした。
 新大陸にいたのは、プレスター・ジョンではなかった。
 新大陸に住んでいたのは、確かにかつてグリーンランドに入植していたヴァイキングの末裔だった。しかしヴァイキングの末裔達は、既に数百年前にキリスト教を棄てていたことが明らかになり、彼らは自らがキリスト教を棄てたことから教会そしてヨーロッパ世界から侵略や征伐を受けると考えキリスト教を敵視していた。
 このためキリスト教会側からの、悔い改めて改宗すれば許されるという言葉も信じず、交渉の際の方法と窓口だけを設けるという以上の譲歩は引き出せなかった。
 しかも、ヨーロッパ側からの新大陸到達点となるエーギル海でのヴァイキングの末裔の勢力は増しており、既に大砲を備えた軍船も一般的に見られるようになっていた。彼らがキリスト教、ヨーロッパに対して強い警戒心と敵意を持っているのは明らかだった。

 そして改宗や恭順が無理と分かると、表向きの怒り、内心の恐れと焦りがキリスト教会の原動力となり、イスパニアなどを動かして新大陸の異教徒討伐を実施させようとする。
 しかし16世紀前半のイスパニアとポルトガルは、競って喜望峰周りでのアジア進出を行っていた。新大陸に強大な武力を持つ敵対勢力が存在しているので、大きな利益が見込めないと判断したからだ。そして同じルートを取るためイスパニアとポルトガルの利害対立が発生して、険悪な状態になっていた。そして国力に大きく勝るイスパニアは、気候が比較的温暖な南アフリカにノヴァ・イスパニア入植地を建設し、力でポルトガルを押さえ込もうと動いた。一方のポルトガルは、イスパニアよりアジア進出で少し先んじていたため、いち早くインド、マラッカの要衝を押さえて対向した。そしてイスパニアは、マゼランの世界一周により南アスガルド大陸の南部に拠点を築き、マゼラン海峡と命名された地域も押さえて、逆ルートからアジアへ足を伸ばすようになる。
 ユーラシア大陸の東の果てにある日本に、最初に到達したヨーロッパ人もイスパニアだった。密度の差からポルトガルに対する追い上げは早く、イスパニアの日本到達はポルトガルに先んじる事十年早い1533年の事だった。

 このためキリスト教会は、まずはイスパニアとポルトガルの利害関係の調停を行い、その上で大ノルド王国を僭称する異教徒達は、新大陸で産する豊富な金銀を有していると宣伝した。
 この宣伝はいくらか効果があり、イスパニアは新大陸調査の再開を決め、航海技術の向上などもあって新大陸を目指す船も若干増えた。数年の調査の後に南アスガルドの南部に拠点を築いたイスパニアは、アスガルド人達がいない場所を確認しつつ少しずつ北上していった。
 だが大きな武力を伴ったイスパニア以外の生還率は低く、特に北の新大陸沿岸と中央部の内海での異教徒の攻撃が激しいことがはっきりした。初めてアスガルド人の捕虜が得られたのは16世紀中頃であり、スカンディナビアの人々の通訳などにより、彼らが作り上げた国家の概要がおぼろげながら見えるようになってきた。
 そして俄に、古代ノルド語、ノルド系ルーン文字の学問が活発となる。異教徒の事を学びうち勝つためだ。
 一方で動きを活発化させたのが、北ヨーロッパ諸国だった。
 同胞が苦難の時代を生き延びたばかりか、新大陸で巨大な勢力を作り上げているのだから、同族のよしみでその恩恵に与ろうという魂胆だった。また当時の北ヨーロッパ地域は、新教(プロテスタント)へ改宗したためバチカンを中心とする旧教(カトリック)から異端や異教として敵視されており、敵の敵は味方という理論で手が結べるとも考えての接近を実施する。

 かくして、ヨーロピアン同士による環大西洋全体を巻き込んだ混乱の時代が始まる。

●フェイズ03「新旧大陸進出競争」