■フェイズ03「新旧大陸進出競争」

 15世紀前半頃のアスガルド人達は、新大陸にやって来るヨーロピアンに対して、現状では数の優位を活かして圧倒できるが、文明レベルが劣っていることを痛感していた。西暦1492年(アスガルド歴442年)の「コロンブス襲来事件」は、極めて大きな衝撃となっていた。
 コロンブス以後のヨーロピアンの襲来(探検)によって、かなりの先端技術を得て実用化することはできたが、それだけでは不足だった。革新的な技術を用いた帆船の建造は何とか模倣できたが、帆船に使われていた滑車や帆布などの大量生産の為に越えるべき技術の壁は高く、コロンブス襲来から10年ほどは失敗と試行錯誤の連続だった。またアスガルド世界そのものが、文明程度、人口規模、社会資本、どれをとってもヨーロッパに対して劣勢だった。特に知的財産の蓄積では、勝負にならないほど不足していた。押収したガラスなど工業製品製品一つとっても、何もかもが劣っていることを実感させられるだけだった。それが、アスガルドが文明をほぼ最初から再構築した事、小さな世界に住んでいた結果による弊害だった。
 そして、ヨーロピアンが数を揃えてアスガルドに来たら、最悪の事態も容易く想像できた。何しろアスガルドの大地には、キリスト教が存在しなかった。中世ヨーロッパの暗黒を知るアスガルド人にとって、キリスト教の持つ極度の排他性は悪夢でしかなかった。

 しかし15世紀の最初の四半世紀のうちは、ヨーロピアンは積極的にアスガルドの大地にやって来る事はなく、アスガルド人の警戒は半ば杞憂に終わった。また散発的にやって来る船と人間を新たに捕獲して、当面必要な程度の技術向上を図ることはできた。捕虜とした船員の中には、キリスト教を棄てて協力的になる者もいた。アスガルド人も、旧大陸の最新技術を得るためそうした人々を優遇した。
 そして何とか帆船(※この当時は、ガレオン船の前身である、カラック船やキャラベル船で、1492年以前のアスガルド船は、ヨーロッパで言うところのコグ船やクナール船に当たる)の模倣と改良型の生産にまでこぎ着けた意味は、極めて大きかった。これでアスガルド人達が、ヨーロピアンと同様に大西洋の中心部を横断していく事が可能となるからだ。つまり、自分たちが比較的容易くヨーロッパに再び行けることを意味していた。海上で使うための球形状の仕掛けを持つ方位磁石(=羅針盤)も、仕掛けさえ分かってしまえばアスガルド世界でも生産は十分に可能だった。
 武器の方も、数十年の努力の末に鉄砲、大砲の製造が可能となった。鉄砲(火縄式のマスケット銃)、青銅製の大砲の生産なら、アスガルド人達が有している冶金、鍛冶技術の応用でも何とかなったからだ。ただし16世紀前半頃は、青銅製の大砲、完全な模倣のマスケット銃の製造が精一杯だった。グリーンランドの頃に比べて飛躍的に社会が大きくなったとはいえ、500万人の人間が出来ることは限られていた。
 このため船で旧大陸に自ら行けるようになると、アスガルド内で有り余る蛮族から得た金銀を用いる事を思い至る。宗教も人種も新旧大陸の差も、そして人の心も金銀の前には全て霞んでしまうからだ。
 加えて、16世紀に入ってからの捕虜から得たヨーロッパ最新事情は、アスガルド人にとっては好ましい状況が到来しつつあることを教えていた。16世紀前半頃からバルト海沿岸ではキリスト教自体の分裂が起きて、南からはイスラム勢力の侵略が拡大していたからだ。
 そしてイスラム勢力からと、ヨーロッパでの宗派による激しい対立、スカンディナビアの人々を利用することで、ヨーロッパの様々な技術や知識の吸収と獲得に躍起になった。そうしなければ短期間はともかく、長期間は生き残れない事を、この頃のアスガルド人達は熟知していた。民族存亡の危機感が、この頃のアスガルド人達を突き動かしていた。

 一方、自分たちがキリスト教を完全に棄てたという点は、不利益ばかりをもたらさなかった。キリスト教だけが、世界の宗教ではないからだ。特にアスガルド人達にとって価値があったのが、16世紀に入り東地中海を支配するようになった強大なイスラム教世界だった。イスラム教世界は、中世ヨーロッパの頃から地中海世界、アラブ世界で強大な国家と文明を作り上げた。ルネサンス、十字軍の遠征を経たヨーロッパが文明的な発展が出来たのも、イスラムの偉大な知的財産を強引に得ることに成功したからだった。
 そして16世紀、当時のイスラム教徒達は強大で勤勉で、商売にも長けていた。国力面では、18世紀までイスラム世界の方が圧倒的に優勢で、知識や技術もヨーロッパ世界には負けていなかった。そして何より、イスラム教世界はキリスト教世界と対立していた。
 アスガルド人達が、これを利用しない手はなかった。自分たちのラグナ教は、キリスト教からは異端や異教どころか邪教とされていたが、そうであるなら対応策を採るまでだ、という開き直りにも似た行動だった。
 アスガルド人達の大ノルド王国の使節が、大西洋を押し渡ってオスマン朝トルコの都イスタンブールへ赴いたのは、早くも16世紀中頃の事だった。アスガルド人達は、自分たちが大西洋を押し渡れるようになると、すぐにも大西洋横断に乗り出した。そしてその一部が北アフリカ西部でイスラム商人と最初に接触を持ち、小規模ながら交易を開始。持ち込んだ大量の銀と交換でユーラシア大陸の優れた文物を手に入れつつ、支配層への献上品、賄賂を増やしてオスマン朝トルコへと近づいた。
 そして時のオスマン皇帝スレイマン1世は、海の彼方のキリスト教を信奉しない白人の存在を知ると、アスガルド人との謁見を求める。これに大ノルド王国も即座に反応を示し、莫大な献上品と国書を携えた使節団を編成。ヨーロピアンの妨害に備え、大ノルド王国建国以来の遠征艦隊を仕立てて、一路イスタンブールを目指した。
 当然とばかりにイスパニアが妨害に出たが、当時の地中海の半分以上はオスマン朝のものだった。基本的にイスラム世界の勢力圏は東地中海だが、大ノルド王国の船団が北アフリカ西部のモロッコ近辺に近づくのに呼応して、イスラム系の海賊が活動を非常に活発化。さらにオスマンの大艦隊が、地中海側のモロッコ近辺にまで接近。陸でも、北アフリカ西部の部族が、北アフリカ側のイスパニアの拠点を攻撃。陸海双方からジブラルタル海峡でも攻撃を行い、この混乱に乗じて大ノルド王国の船団が地中海入りを果たす。
 そして1561年、大ノルド王国は当時ユーラシア西部で最強を誇っていた強大な帝国、オスマン朝トルコとの正式な交流を持つことに成功する。
 大ノルド王国側の特使には王族にも連なるホーコン・ロキソン侯爵が立ち、スレイマン1世の謁見に望む。ここで大ノルド王国は、オスマン朝トルコに莫大な献上品を納め(※膨大な金銀と共に、この時初めてユーラシア大陸に煙草とカカオ、チリがもたらされた。)、オスマン側も返礼のための使節と船団を派遣したいと提案。既に晩年にさしかかっていたスレイマン1世は、大ノルド王国の使節のために盛大な饗宴を催した。この時、オスマン朝の軍楽隊を見たアスガルド人は、自分たちにも斬新な軍楽隊を取りれるようになる。その他、料理や衣服など、アスガルド人がこの頃のオスマン朝トルコに受けた影響は大きい。
 その後謁見や重要人物との会議が一ヶ月以上の期間にわたって続き、双方の交流の促進、特にアスガルドの金銀とユーラシアの知的財産や技術の貿易を行う約束が交わされる。この中で大ノルド王国がオスマン朝に渡せるものは、金銀以外だと新大陸の珍しい物産ぐらいしかなかった。しかし、意外なものもスレイマン1世は入り用としていた。それは大西洋での航海技術だ。
 オスマン朝というよりイスラム世界の船舶建造技術は、当時のヨーロッパ世界に比べて劣ったままだった。地中海では特に必要がないためと言えばそれまでだが、大西洋の荒波を越えるための帆船は、少なくともオスマン朝はほとんど有していなかった。
 これは死にものぐるいで技術を奪ったアスガルド人達からすれば、イスラムのとんだ怠慢であると同時に、自分たちが売りに出せる「商品」が存在することを意味していた。
 そしてアスガルド人達にとって何より重要だったのは、イスラム世界の盟主と反キリスト教で連携する約束が交わされた事だった。距離の問題があるので連携は難しいが、何も知らないままヨーロッパ世界に個々で対応するよりも効果があると考えられた。

 この後の交流は、イスパニアの妨害が強くなったため、北アフリカの大西洋側から一度陸路でオスマン朝の勢力圏に入るルートが主に使われたが、交流自体は交易を中心に活発化した。金銀を欲しがらない者はなく、特産品の煙草とカカオはオスマン世界でも非常に珍重された。生きた七面鳥がユーラシア大陸に持ち込まれたのも、16世紀後半の事だった。
 そしてオスマン朝ではスレイマン1世が世を去り、1571年にスペイン・ヴェネツィア連合艦隊に「レパントの戦い」で敗北すると、自らの側からアスガルド人達との交流積極化を望むようになる。オスマン皇帝はセリム2世に代わっていたが、アスガルド人達との関係はますます深まった。オスマン朝は、イスラム世界の北アフリカ西部の拡大も積極化して、ジブラルタル、モロッコ近辺ではイスパニアとの衝突も増えた。西地中海のイスパニアやヴェネツィアの拠点の幾つかも無理を押して奪回され、アスガルド商人がもたらす、金銀や新大陸の物産入手に力が入れられた。サハラ砂漠を東西に貫く通商ルートも、いっそう整備された。
 またイスラム以外では、スカンディナビア地域に最初のアスガルド船が訪れたのは、早くも西暦1536年の事だった。赴いた先は、アスガルド人の出発点でもあるノルウェー。当初、大砲で武装したアスガルド船を警戒したノルウェー側だったが、取りあえず言葉がある程度通じるので交渉を行うと、態度を大きく変えるようになる。アスガルド船が、多くの銀を持ち込み交易を求めたからだった。銀の効果は絶大で、当初は密貿易が主体ながら貿易は拡大の一途を辿った。
 キリスト教とラグナ教という違いについては、お互い見なかったことにして、取りあえず同じ言葉を話すという点だけを重視して交易が行われ、交易相手は新教(プロテスタント)国の北ヨーロッパ各国に広がっていった。そして莫大な銀の流れができ、多くの賄賂が教会にももたらされると、アスガルドとの半ば公然の貿易ですら黙認されるようになる。逆に、アスガルド船が大量の銀を持つというので海賊も多く出現したのだが、流氷の危険の多い北の海で活動したがる海賊は小数派で、またヨーロッパに来るアスガルド船は武装しているのが常のため、初期の頃はあまり海賊も活発ではなかった。
 こうしてアスガルド人達は、人材はともかく即物的なヨーロッパとイスラムの知識、技術を急速かつ広く取り入れる事になる。特に書物の収集には力が入れられ、キリスト教関連の書物であっても大切に扱われた。そうした書物のルーン語への翻訳、ヨーロッパ、イスラム言語の専門家の育成にも力が入れられた。アスガルドに最初の図書館と大学が誕生したのは16世紀中頃で、以後急速に教育の拡大も行われていくことになる。
 またキリスト教と切っても切れない文明の利器として、アスガルドでも非常に重宝されたのが三大発明の一つ活版印刷術だった。印刷技術の向上は知識の広範な普及に不可欠であり、文明を中世から近世へと誘う重要な道具だったからだ。16世紀の後半になると羊皮紙は完全に廃れ、アスガルド文字(ルーン文字の派生語)で書かれた書物が大量に生産されるようになっていく。
(※製紙方は、完全な決別前の14世紀に入手されていたが、これまではあまり普及していなかった。)

 しかし、それだけではまだ不足だった。
 ユーラシア世界との接触を深めれば深めるほど、自分たちとヨーロッパの差を思い知らされるだけだった。
 このため、イスパニアなどが行っている大航海を自分たちも実施する事で、さらなる味方や友邦、市場や植民地の獲得も急ぎ行われた。多くは南北アスガルド大陸各所への探検と入植の実施だが、うち幾つかは国家が支援した大規模な探検事業となった。この時期に開かれた新たな入植地や拠点も多い。同時に、ヨーロピアンがアスガルド人に隠れて建設していた拠点も、見付け私大文字通り殲滅されている。
 既にパナマ地峡から大東洋に出ていた人々は、まずは大東洋側の陸地に拠点を建設。そこに造船所を設けて船を建造した。南方特有の疫病が彼らの進出を妨害したが、幾つかの失敗を経てもくじけることなく続けられた。そうして拠点と船を造り、北アスガルド大陸の大東洋側を海流に逆らって風だけを使いひたすら北上する探検隊を編成し、かつて住んでいたグリーンランドに似た北の大地に至った。これが現在のアラスカだった。
 南北アスガルド大陸の沿岸と行ける限りの河川を隈無く探し回った探検隊もあった。南アスガルドのムスペルヘイムの大密林では何度も遭難をしたが、それでも探検隊は何度も出された。もっとも、調査は主に気候が比較的穏やかな地域を中心に行われ、ミシシッピ川の支流について詳細な事が分かったのも、北アスガルド大陸内陸部に探検のための拠点や入植地が作られたのもこの時期になる。そうした地域では蛮族と接触し、友好、敵対双方はあったが交流を持つことになる。そして他の場所と同様に、相応の期間滞在した場所では、ユーラシア原産の凶悪な疫病を広めてまわる事にもなった。
 そしてさらに、大胆な行動にも出る船団もあった。
 パナマ地峡から海流と風に乗って危険な大航海に出た冒険的な探検隊は、途中大東洋各地の小さな島々を見つけつつ、ついにアジアの東端に到達する。西暦にして1573年の事で、また新たな南蛮人の渡来に現地の日本人達を驚かせた。
 他方ヨーロッパに対しては、彼らの故郷にして始まりの地である極寒の地グリーンランドに約200年ぶりに進出して、入植ではなく軍事を目的とした拠点が建設された。当時のグリーンランドはかつての自然破壊の爪痕がまだ残り、また気候も厳しい状況が続いているため、豊富な備蓄食糧と燃料を持ち込んだ軍隊以外が逗留できる場所ではなかった。
 さらにその先のアイスランドには、数千の軍勢を含んだ艦隊を派遣して武力によって自分たちの勢力下に置き、北ヨーロッパ諸国との連絡路を確保すると共にヨーロッパ列強を監視するようになる。アイスランドの制圧は、1576年の事だった。
 ヨーロッパ世界も、しばらくして邪教徒(アスガルド人)がアイスランドに進出した事を掴んだが、極北の地に対する興味の薄さ、航海での危険の多さからキリスト教徒による奪回という話しにまではならなかった。近隣となるイングランドは強い警戒感を持ったが、当時のイングランドではアスガルド人に対して強く何かが出来る国力も軍事力もなかった。
 こうして、かつての海の道を使って北欧諸国にまで航路が開かれ、16世紀後半になると定期的にアスガルド人たちの側から北ヨーロッパに赴くようになった。夏以外は氷山のある北の海は、ヴァイキングとその末裔である自分たち以外では、利用することのできない海であることを利用したのだ。
 その上、ユーラシア大陸(ヨーロッパ)からアスガルド大陸に戻る経済的な航路を設定するため、アフリカ大陸西岸にもかなり進出が行われた。そしてアフリカではイスラム教徒(オスマン朝の場合もあった)と協力して拠点を確保し、北大西洋の経済的な周回航路を作り上げた。

 こうしたアスガルド人の海外展開を可能としたのが、自分たちのヴァイキング船を大幅に改良した外航用の帆船だった。この船は、バスクの漁民の船やコロンブスの帆船を始めとして新大陸に到達したヨーロッパの船を模倣したものが始まりだった。もともとガレオン船、カラック船が北欧系列の船の長所を多く取り入れているため、アスガルド人達が模倣や改良を施すのも他の技術に比べれば比較的容易かった。造船は、手先の器用なノルドの民にとって、基本的技能の一つだった。
 また銃や大砲に使う火薬については、存在そのものはヨーロッパと一度断絶する前にイスラム商人から知識として得ていた。そこに、南アスガルド大陸の大東洋南岸を探検中に大規模な硝石鉱山が半ば偶然発見されていたため、ヨーロッパ船からの知識による利用法の模倣は、基礎的な技術の消化さえ終わってしまえばかなり容易だった。コスト面での有利は、疑うべくもなかった。
 無論、鉄砲や大砲、帆船に使われている滑車や金具などの製造に苦難は伴われたが、アスガルド人達はもともとはヨーロピアンの一派だった。しかも、中世の時代におけるヴァイキング達は最も器用な民族の一つであり、そうした血をアスガルド人も十分に引き継いでいた。
 その上、基礎となった技術のかなりをもとから持ったままだった上に、アスガルド人の社会が一定レベルの人口を要し、知識人、技術者、職人が既に豊富だったため乗り越えることもできた。そして経験と時間の差を原因とする知識不足、技術不足を、交流再開と共に猛烈な勢いで実施しており、少なくとも表面上の技術格差については補えるようになっていった。
 またアスガルド社会全体は、14世紀頃から人口の大幅な拡大期に入っていた。北アスガルド中部の肥沃な土地で収穫率の高いトウモロコシと、トウモロコシを飼料とした家畜群を主食とすることで、爆発的な人口拡大が数百年間続いていた。主食の一つとなる動物の肉も、ヴァイキング時代から最も好まれていた豚へと変化していた。しかも新作物としては、15世紀中頃に荒れ地でも簡単に育つアステカのカモテ、インカのパタタという二種類の異なるイモ類を入手していたので、北部の開拓、荒れ地の開拓、そして新天地の開拓も遙かに容易となっていた。もともとヴァイキングだった頃住んでいた地域に比べ、気候が温暖なアスガルドの大地では羊や牛、豚などの家畜の飼育と繁殖も簡単であり、膨大な食料がアスガルド人の人口爆発を促し続けた。
 しかも近世における最大の膨張時期が、15世紀末から以後二世紀の間だった。ヨーロッパ世界と再接触した15世紀末に約400万人だったアスガルド社会(大ノルド王国社会)の人口は、僅か一世紀で4倍近くの1500万人に膨れあがっていた。当時地球全土で寒冷化、小氷期が本格化しようとしていたが、もともと寒い時期に進出を始めたため、アスガルドでは特に悪い影響は見られなかった。
 アスガルドの大地には、手つかずの森に覆われた肥沃な平地が幾らでも余っているので、倍々ゲームのように新たな入植地が開かれた。各地で生産される豊富な食料が出生率を引き上げて死亡率を引き下げ、病気にかかる可能性も下げた。医療が現代のように発達していない時代において、いかなる薬や治療法よりも豊富な食料と高カロリー食品こそが人口拡大と長寿に直結していた。
 アスガルド人が達成した数字は、16世紀末に約1億人程度だったヨーロッパ全体の総人口から比較してもかなり大きな人口だった。ユーラシア大陸からの技術導入による革新的な技術発展も重なっており、産業の発展と拡大も急速だった。加えて、ヨーロッパ社会という新たな敵を得たことで目標が生まれたため人々の意識も向上し、拡大と発展に拍車がかかっていた。
 しかもアスガルド人による勢力圏の拡大と、北アスガルドを中心にした農地の開拓、人口爆発は、さらなる拡大傾向を見せていた。北アスガルド大陸内での勢力拡大にも、一層拍車がかかっていた。
 新天地では、少しずつパンデミックから立ち直りつつあった原住民との衝突や戦闘が起きたが、鉄の刀剣や防具に加えて火薬を使う武器を得たことで、アスガルド人の武力はさらに大きく増し、原住民の駆逐と征服活動も勢いを大きく増していた。

 なおアスガルド人は、新大陸を始め各地に先住していた原住民のことを、古ノルド語で「愚劣な民」を意味する「スクレーリング」という言葉をそのまま使っている。その後ヨーロッパにも一般的に流布して、その後アスガルド大陸のほとんどの先住民全体を示す言葉として定着した。16世紀ぐらいにヨーロッパで使われた「アトランティス人」や「インド人」という意味の言葉は、すぐにも廃れていた。

 一方ヨーロピアン達は、17世紀に入っても新大陸にほとんど進出出来ていなかった。アスガルド人の大ノルド王国とは、慢性的な紛争状態だった事が一番の原因だった。しかもヨーロピアン達は、アスガルド人を謎の白人勢力と見られる向きが強く、長らく大ノルド王国の所在地すら正確には知らず、新大陸は謎に満ちた異教徒の世界、神の威光の届かない暗黒の世界だった。
 ヨーロピアン達が、アフリカ西岸から大西洋を押し渡って温かいエーギル海の僻地や南アスガルド大陸の北部沿岸などで密かに入植地や拠点を作っても、北アスガルド大陸を策源地とするアスガルド人がすぐにも押し寄せ、拠点ごと根絶やしに潰されるのが日常となっていた。当時は、経済的、技術的理由からヨーロッパから新大陸に出せる船の数が知れているので、新大陸では数と密度が違いすぎて勝負にならなかった。しかも新大陸の熱帯、亜熱帯地域は、ヨーロピアンが定住するには過酷な場合が多かった。加えて、秘密裏に拠点を設けてもアスガルド人に対して極秘の拠点のため、いっそう環境が悪い場合がほとんどだった。たとえ長期間見つからなくとも、定住するにはほど遠い状態が続いた。イスパニアが最初に築いた南アスガルド大陸南部に築かれた拠点(マゼラン由来)も、寒い気候に苦心惨憺して病人や病死者が絶えず、しかも十年とたたずにアスガルドの軍勢が押し寄せ、焼き払われ皆殺しにされてしまった。そうした時のアスガルド人達は、まさに狂戦士、神話に出てくるエインヘリヤル(バーサーカー)のごとき恐ろしさだったと伝えられている。
 無論ヨーロピアンも、黙ってやられていた訳ではない。富を産み出す場所を得たいという欲望も十分以上に持っていた。しかも、一方的にやられっぱなしでは、ヨーロッパ各国も民衆に対して示しがつかない。教会の権威も落ちてしまう。
 一度イスパニア・ポルトガルなど幾つかの国々がキリスト教会の調停を受けて連合を組んで、大型ガレオン船を中心にした30隻以上の大艦隊を編成して新大陸に赴き、大ノルド王国本土の攻撃を企てた。とにかく相手の概要すら分からないのでは、作戦の立てようがないからだ。
 「探索艦隊」と名付けられた彼らは、これまでの苦い経験を踏まえてアスガルド人を出し抜き、1568年に北アスガルド大陸東部沿岸へと進んだ。沿岸にも近づき、霧や闇夜を突いて短時間の上陸も行われた。そして新大陸に築かれた中世時代のヨーロッパの雰囲気を多分に残す町並みを見ることにも成功する。
 その間散発的な迎撃に出てきたアスガルドの軍艦、武装商船などを撃退し、士気も大いにあがった。だがアスガルド人の本国近くへの進出は大きな警戒と反発を招き、亡国の危機とばかりに動員された大ノルド王国の大艦隊を呼び寄せることになった。
 結局ヨーロピアンの艦隊は、長旅と散発的戦闘の連続で疲れていた事もあり、アスガルド人の主力艦隊の迎撃を受けて撃退され、目的を達する事は出来なかった。派遣された約30隻の艦隊も、半数以上がアスガルド近辺で沈み、ヨーロッパに戻れたのは全体の二割程度でしかなかった。戦死者の数も、全体の80%以上に上る事が文献には記されている。
 それでもたどり着いた東部沿岸で、ヨーロッパほど密度は高くないが高度な文明社会が構築されているのを確認し、ヨーロッパ様式とは少し違った建造物を多数目撃し、その報告をヨーロッパにもたらした。様々な階層の捕虜と、道具などの文物も少しばかり持ち帰られた。
 彼らの見たヴァイキング最大の都市は、数万の人々が居住できるだけの規模を持ち、港には無数の船がたむろしていた。そして沿岸部の城塞には、数えられないほどの砲台が建設され、敵対者に容赦なく砲門を開いた。迎撃に出てきた艦隊も、以前より強大なものとなっていた。
 新大陸は悪魔の住む大地ではなかったが、キリスト教徒にとって悪意に満ちた大地であることが分かったのが最大の収穫だっただろう。その証拠の一つとして、キリスト教会の象徴である十字架は、どこにも見つけることが出来なかった。
 新大陸は「神々の地(アスガルド)」ではあっても、唯一の神の恩寵が得られる場所ではなかったのだ。

 一方では、アスガルド人が北ヨーロッパ地域に時折姿を現しているので、撃退したりアスガルド人を捕まえて相手の情報を引き出した。アスガルド人に対する海賊、私掠活動は、「神に対する善行」として教会からも奨励された。
 また、キリスト教会とカトリック教国が、金銀につられて徐々にアスガルド人と繋がりを深める北ヨーロッパ諸国を糾弾したりした。だが、それがかえって北ヨーロッパ諸国の団結を高めさせ、また外への膨張や新天地へ至ることを誘ってしまう。事実、16世紀末頃から、北ヨーロッパや貧しい土地のアイルランドからは、少しずつではあったが北アスガルド大陸に移民する流れが出来始めていた。北ヨーロッパ地域が、いち早くプロテスタントが普及した事からくるカトリックに対する反目もこれを助長した。
 スカンディナビア人などのアスガルド大陸への移民に際しては、キリスト教を棄てることが前提だったので数は少なかったが、自作農となる可能性を求めた人々が一念発起してアスガルド人が寄越した船に乗り込んでいった。15世紀から本格化した地球規模の寒冷な気候は、かつてのヴァイキングほどではないがヨーロッパを蝕んでいた証拠でもあった。
 ブリテン諸島でも、アスガルド人たちは自分たちの系譜に近いスコットランド王国やアイルランドの人々を援助しており、大西洋方面に進出を企て始めていたイングランドを押さえ込む行動を取った。かつてのヴァイキング達の体には、ノルド系以外にも若干ケルトの血も流れていたからだ。これに対してイングランドは、民族的に遠い上にかつてのヴァイキング達が作った王朝を打破しているので、十分に敵足り得ると考えられていた。そして北に位置するブリテン島などに行くことは容易く、また一部の場所は北ヨーロッパに至るまでの中継点ともなったので、アスガルド人は比較的頻繁に訪れた。場合によっては、かつて自分たちの同胞が国を作り、自分たちの系譜となる人々の末裔やケルト人が多く住むノルマンディー半島に赴く事もあった。
 そうしたケルトの人々の一部が、隠れ里などでキリスト教を拒んで生きながらえ、そしてアスガルドへと逃れた事も、アスガルド人がケルトに対する好感情を増やす原因となった。なおこの頃のケルトの移民が、アスガルドでケルト神話を復活させる事にもなる。
 そして当時のアスガルド人は、基本的に敵対するローマ教会(カトリック)以外なら、ほとんどの場合受け入れる姿勢を示していた。そうしなければ、自分たちが負けて滅ぼされてしまうかも知れないと考えていたからだ。ローマ・カトリック(キリスト教)に対する恐怖心や警戒心は、アスガルド人にとってもはやトラウマのようなものだった。

 一方、アスガルド人がイベリア半島に手を付けることは難しく、主にイスパニアとの間にアスガルド大陸又はヨーロッパの北大西洋沿岸北部もしくはエーギル海での戦闘が頻発し、互いを強く意識するようになっていく。それぞれの地域の、敵対勢力に対する海賊行為は日常茶飯事だった。このため両者の商船は、経済効率を無視してでも武装を施して兵士を乗せるのが当たり前だった。船団を組むときには、最低でも1隻は護衛の高速武装商船か専門の軍艦を伴った。そして不意の遭遇の時などは、自らが優位と判断した側が即座に海賊となって相手を襲う事が非常に多かった。大西洋では、武装していない帆船に出会うことの方が難しいと言われたほどだった。
 なおアスガルド人達は、ヨーロッパの様々な場所にも進出を行っていた。多くは略奪的な交易活動で、相手が自分たちの事を邪教徒などと言って交渉を蹴ると容赦なく襲いかかり、洋上でもキリスト教徒の船を見つけると機を見て襲撃した。その姿は往年のヴァイキングを彷彿とさせ、大砲や鉄砲で武装した帆船で海賊活動を行う邪教徒の群、新時代のバイキングとしてヨーロッパの人々から恐れられた。こうした活動のため、フランス、イスパニアの沿岸も一時期かなり荒れることになった。
 またアスガルド人は、ヨーロッパとの対決姿勢をとっているイスラム勢力のオスマン朝との関係も年々深め、イスパニアの目を盗んで北アフリカの大西洋岸に到来する機会も増えた。モロッコなど北アフリカの大西洋岸に至り、そこからラクダや馬を使って陸路で進んで地中海に入るため規模は限られていたが、16世紀から17世紀にかけてのアスガルド人、オスマン朝双方にとって重要な繋がりとなった。
 一方イスパニアも、アスガルド大陸に押し渡ってアスガルド人への攻撃を行うことが徐々に増え、中にはアスガルド本土のノルド王国領内の沿岸部を砲撃したり、場合によっては上陸して破壊や掠奪を行うことも行われた。エーギル海には、何度も秘密の拠点が築かれ、アスガルド人との間に戦闘を起こした。
 当然両者の敵愾心は煽られ、北大西洋は十字軍遠征頃の地中海さながらの危険に満ちた海となった。ただ、オスマン朝を味方に、北ヨーロッパ諸国を友好的中立相手にしたアスガルド人の方が、ゲームを有利に運んだ。イスパニアが如何に努力しようとも、新大陸で彼らがまともな橋頭堡を得ることが出来なかった。何しろアスガルド大陸には、ヨーロピアンの味方となる勢力が存在しなかった。この差は大きいと言えるだろう。アスガルド人は、内輪もめをしていてもヨーロピアンに対しては全てを棚上げして立ち向かうという性質を持つのは、こうした経験が大きく影響している。

 そうしてアスガルド人は、北ヨーロッパとオスマン朝から自分たちに足りない技術や文物を持ち帰り、その見返りとして莫大な金銀や新大陸の珍しい物産を相手に渡した。場合によっては、人間もやり取りされた。
 二つの地域から新大陸で豊富に産出される銀が特に流入し、それらの銀が順次高度製品を産み出すヨーロッパに還元されたため、徐々に銀の価値下落が起きて、貨幣流通量の拡大によって商業の活性化を促した。
 そして北ヨーロッパからドイツ北部やネーデルランド地方への銀の大きな流れがあるため、ヨーロッパ世界は邪教徒と交流を持つ北ヨーロッパ諸国を切り離したり遮断することも出来なかった。しかも北ヨーロッパ諸国は、莫大な銀を用いて自らの商業発展を行い、新教の教えに従って商工業を保護育成したため、スカンディナビアとその対岸地域の商工業が大きく発展する事になる。これが新教と旧教の対立を激しくさせる一因ともなった。
 またオスマン朝も、アスガルドからの金銀の流れと交易により資金的に一息ついたため、ヨーロッパ世界の中枢が受ける圧力が増し、イスパニアも安易に新大陸に遠征している状況でもなかった。そして当時ヨーロッパ世界を背負っていると自負していたイスパニア(ハプスブルグ家)としては、自らの力を付けるためにアジアへの進出こそが第一に行うべき事となっていた。

●フェイズ04「銀の国ジパング」