■フェイズ04「銀の国ジパング」

 ヨーロッパでは、アスガルド世界から間接的に流れてくる銀、アジア各地での収奪や掠奪、さらには日本や明から貿易で得られる銀により、徐々に銀の価値の下落つまり物価の高騰が起きて、貨幣流通量の拡大によって商業の大幅な発展が見られるようになっていた。これがヨーロッパにおける、「価格革命」だった。豊富な銀が、商業の発展と貨幣経済の発達を促していたのだ。
 そうした中心にあったのが、キリスト教世界で世界の海の優先的使用権を実力によって持っていたイスパニアであり、彼らは新大陸で得られる筈だったと彼らが考えているものの代わりをアジアに求めた。
 そして、当時世界の銀の半分近くを産出する岩見などの銀山を持つ日本との関係を作り上げることが、16世紀半ば以後にアジアを目指すヨーロピアンの一つの目的となっていた。
(※神の視点より:メキシコのサカテカス銀山はアスガルド人が有するが、アンデス山脈のポトシ銀山はこの頃まだ見つかっていない。インカ帝国が本格的膨張期に入る前にアスガルド人のもたらした疫病で衰退、さらには侵略を受けて滅亡した影響とする。ポトシ銀山の発見はもう少し先。)

 当時日本列島は、「戦国時代」と呼ばれる一世紀以上続いた大規模な戦乱期(内乱期)にあり、日本列島内の険しい地形障害を挟んだ各所に、それぞれ大きな勢力を持つ戦国大名と呼ばれる諸侯が乱立していた。当時日本列島の総人口は1500万人程度だったと言われているので、ヨーロッパの大国一国分程度による内乱であったが、食糧供給能力の高い米を主食としている事など様々な要素が重なっているため、年中行事のように大規模な戦闘が行われつつも、地域全体では経済発展が促されるという状況が、日本列島で行われていた。
 そうした「悪魔的」な日本列島にポルトガル人、スペイン人、そして少し遅れてアスガルド人がやって来た時、日本人達が興味を示したのは彼らが持っていた優れた文明の文物だった。特に新兵器である鉄砲(火縄式マスケット銃)には極めて強い興味を示し、アスガルド人よりも短い時間で量産化を行い、半世紀後には世界で最も多数の鉄砲が保有されるまでに急拡大していく。日本人も、ヨーロピアンに負けず劣らず騒がしい人種だった。
 そして戦乱に明け暮れる日本において、ポルトガル人は商売を念頭に動いた。イスパニア人は、より高いレベルでの商売、最終的には植民地化による収奪を画策していた。実際、日本に近いフィリピンと名付けた大きな諸島への侵略を、日本への商業進出の傍ら現在進行形で行っていた。日本ではなくフィリピンが選ばれたのは、現地に国家と呼べるものがなくて制圧しやすかった事と、日本だけでなく中華帝国(明朝)との貿易も想定していたためだった。一方ポルトガルは明朝からマカオを得て、東アジアの橋頭堡としていた。
 他にも、大東洋を押し渡り少し遅れて日本へと至ったアスガルド人が、自分たちにとっての世界の裏側からキリスト教徒の国に襲われる可能性を阻止するべく、別の邪教徒であるアジアの人々との取りあえずの連携を模索しようとした。
 なお、アスガルド人が広大な大東洋を渡りきって最初に到達したのは琉球諸島で、彼らの言葉を聞いて周辺で最も武力を持つ地域という日本へと至っている。この時琉球の民が中華地域を示さなかったのは、自分たちの貿易を少しでも邪魔されたくなかったからからだと言われている。
 もっとも、当時ヨーロッパから最も遠く、アスガルドからも辺境に至った上に世界で最も巨大な海洋を渡らねばならない地域への進出は、常に限定的とならざるを得なかった。
 アスガルド人による最初の航海(大東洋横断)でも、西暦1573年に4隻の船でパナマ地峡を越えた大東洋側の港湾拠点ノーアトゥーンを出発するも、三ヶ月後に琉球まで到着したのは3隻。その後1576年にアスガルドに戻れたのは2隻だった。
 両者にとっての例外は宗教で、イエズス会によるキリスト教の布教は、当時の日本人社会に蔓延っていた急進的かつ政治的な仏教(※主に「一向宗」)の打破という目的もあって各領主の庇護を受けられたため広まった。遅れてアスガルド人が持ち込んだラグナ教も、日本人の多神教に受け入れられやすく、他の宗教勢力を衰退させるという目的のため一部で広がることになった。だが例外は宗教ぐらいで、ほとんどが日本人の都合で戦国時代は進んでいくことになる。
 日本での戦乱は、鉄砲を得たことでさらに加速及び拡大したが、外国からの影響が直接戦乱に影響する事はほとんどなかった。
 天下統一つまり日本統一に最初に最も接近したのは織田信長だったが、彼は1582年にクーデターにより呆気なく倒された。織田信長の事業を引き継ぐ形なった元家臣の豊臣秀吉(羽柴秀吉)が日本統一を成し遂げるも、彼には後継者が不足し、当人も政権が安定するまで生きながらえる事が出来なかった。そして最終的に日本統一を達成したのは、1600年の関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康となった。
 革新的過ぎる前者二人よりもやや保守的な人物が勝者となったのは、実に日本らしいと言うべきなのだろう。

 なお、アスガルド商人にして貴族であったシモン・ロキソンが、アスガルド人として初めて日本人に仕えた人物である。すみれ色の瞳を持つ大柄なアスガルド人は、三人の覇者それぞれに仕える事で、当時の日本事情をアスガルド世界に伝える役割を果たしている。また彼は、日本で最初のアスガルド語(ルーン語)を教える学校を開いた人物でもあり、日本語を巧みに操り、アスガルド語の和訳辞書を最初に作った人物としても知られている。日本では紫の目の茶人としても知られ、日本のお茶など様々な文物をアスガルド大陸に伝えたのも彼だと言われる。また彼は、約30年間、安土城完成の頃から江戸築城の頃まで日本各地に客人や相談役、そして商取引や外交の窓口として滞在した。そして日本語では紫紋鹿尊と称し、日本人女性との間に子孫も残した。
 なお彼も、先に紹介したトルコに行ったロキソン侯爵家の系譜に連なる人物で、ロキソン侯爵家は16世紀から17世紀にかけて商人貴族、航海貴族として一族の多くが活躍している。日本に、トウモロコシ、パタタ芋、カモテ芋、カカオ、煙草、チリ、バニラなど、新大陸の物産を最初伝えたのも、主に彼と彼の一族である。

 ちなみにアスガルド人の名前だが、15世紀頃からヨーロッパ一般と同じく「名+姓」となっている。元々北ヨーロッパ系の名前の付け方は、二番目の名前に父親の名に息子又は娘を表す言葉を付ける形だった。父の名がトールなら、トールソンやトールディースとなる。そうすることで、自らの出自を分かりやすくしていた。
 だがアスガルド世界で人口が大幅に拡大すると、名前の種類が元々少ない上にキリスト教系の名前もほぼ全て棄てられたため、似たような名前が並び不便になった。そこで14世紀頃から、貴族から民衆に至るまで名+姓という形に変化していった。名+姓の形が上流階層以外にも早くから普及したのは、世界でもアスガルドは早い方である。
 しかし今度は、名前から先祖や系図の流れが追いにくくなったので、系図や系譜を記録することが必要になり、神殿がその機能を担うようになって民衆に広く浸透するようにもなっている。
 また、名前にも連動する身分階級だが、王族=貴族=戦士=民という形に一応はなっていた。しかし全ての者の出自は、突き詰めてしまえば全員開拓民となる事を誰もが知っていた。建国話に出てくる「赤毛のエイリーク」やレイブ・エイリークスソン、トール・エリークスソンは、昔話として誰もが知っていた。
 このため身分階級も、特に王国初期においては特権や称号よりは役職の向きが強かった。このためヨーロッパでの、「ド」「フォン」などの出身地を示す冠詞は生まれず、姓名の間に戦士や貴族の階級を表す言葉を直接入れる事が一般的となっている。皇族だと、称号としてのカイザー(※皇帝又は皇族を示す)の言葉が入る事になる。また、貴族の階位そのものは、ヨーロッパとほぼ同じだった。少し違うのは「騎士」と「戦士」の違いで、船に乗ることの多いノルド系民族だったため、馬に乗る事が特別ではなく、死後「戦いの野」に召し上げられる事を望む高貴な人々という意味で、武装階級を「戦士(ヘリム)」と呼ぶようになっている。ただし、ヨーロッパでは敢えて騎士と翻訳されている。

 話しを戻そう。
 内乱終了後の日本では、徳川家康によって新たな幕府(=政府又は王朝)が開かれた。そうして新たな統一国家ができた日本では、国内での急進的キリスト教徒への対処の苦慮、キリスト教を先兵としたイスパニアの侵略という虚像に怯え、侵略の阻止と内政安定の手段としての鎖国へと動いていた。貿易統制、外貨流出の阻止、そして内政安定のための鎖国政策は、東アジア世界ではよくある事だった。
 そしてイスパニアによるキリスト教を利用した侵略という点に大きく注目したのが、アスガルド人による大ノルド王国だった。
 アスガルド人は、日本の中央政府(当時は豊臣政権)が最初にキリスト教を禁じた1587年(伴天連追放令)に、時の支配者である豊臣秀吉に全面的な協力を行うことを約束した。1589年に日本のキリスト教宣教師追放を知ったノルド王国は、早くも1592年に特使を送り届けている。
 実際この頃、アスガルド人はイスパニアを攻撃し、フィリピン侵略を実施してもいた。
 この事を時の日本の権力者達も知っており、アスガルド人に様々な交渉や取引を持ちかけている。
 アスガルド人との接触期間が比較的短かった織田信長は、アスガルド人と何を行ったのかよく分かっていないが、貿易の促進、ラグナ教の布教の許可、そして帆船技術の供与について話したと言われる。実際、その後定期的にアスガルド船が、日本にやって来るようになっている。織田信長が保護したキリスト教についても、アスガルド人との間に何らかの合意があったと考えられている。
 豊臣秀吉が天下統一する前後に、ノルド王国がイスパニアとの間にフィリピンでの戦いを始めると、フィリピンでの戦いに際してアスガルド船への補給と支援を実施し、ノルド王国との交易を深める文書をかわし、半ば見返りとして外洋帆船の技術供与を求めている。
 ただし帆船は、日本の侵略戦争には間に合わなかった。
 アスガルド人から帆船の技術供与は行われたのだが、日本で最初の外洋型の帆船が完成したのは1595年の事で、豊臣秀吉による朝鮮出兵の最後の頃に若干数の外洋船舶が軍用船として使用されたに止まっている。二度目の朝鮮出兵ではかなりの数の外洋帆船が急ぎ建造され、外洋帆船の技術で多数の船が改良されたのだが、海上輸送や海上交通防衛で力を発揮するも、時の豊臣政府が朝鮮半島という帆船が無くてもよい場所に固執したため、あってもなくても大した違いがなかった。しかも当時の朝鮮水軍は、日本以上に沿岸海軍のため沖に出たくても出られず、狭い海で帆船を使いこなすほど当時の日本人も熟練していなかった為、使うべき場所が限られてもいた。豊臣秀吉が、直接明朝に侵攻しなかったのも、船員の習熟不足が一番の原因といわれる。
 その後日本では商船として帆船の普及が進むのだが、技術と戦争が伴われないと言う事例の典型例だったと言えるだろう。
 しかも海外進出の手段を得たのに、日本では政権が豊臣から徳川へと移り、日本は海外進出どころか鎖国へと動いていた。
 そしてアスガルド人は、徳川家康とその系譜の人々とその後長く交流を持つことになる。

 その後もアスガルド人は、徳川幕府によるキリスト教禁止政策を強く支持した。キリスト教とヨーロッパ社会の危険性を理を以て批判し、様々な文物を用いて自らの日本での立場を強めていった。大ノルド王国自身も何度も使節を派遣して、江戸幕府との対キリスト教の共闘すら約束している。
 同時に大ノルド王国は、東アジアでのイスパニアの拠点も攻撃、そして占領していった。侵略開始は1591年の事で、まずはノーアトゥーンを出発した十数隻の大艦隊と1万の兵士が大東洋を押し渡った。そして到着先の琉球に滞在していた先発隊から情報と補給を受けた後、体制を整えた上でマニラに侵攻。現地に駐留するイスパニア艦隊と駐留軍を撃破。最初の一撃で、フィリピンのイスパニア勢力に大打撃を与え、自らの橋頭堡を確保した。当時イスパニアは、マニラに数隻の軍艦と2000名程度の兵士しか駐留させていなかったため、アスガルド人の攻撃は過剰ですらあった。
 その後もノルド王国は、採算に目をつぶってでも続々と艦隊と兵士を送り込んだ。そして、本国から増援を送り込むなど積極的な反撃に出たイスパニア軍を海と陸双方で撃破。常にイスパニアを上回る戦力を用いて、イスパニアに多くの損害を与えt北東アジア進出を阻止している。
 このためフィリピンと名付けられた地域は、17世紀に入る頃には大ノルド王国の支配下に移っていた。アスガルド大陸のパナマ基地、メヒコ大東洋側最大の拠点であるノーアトゥーンには、次々に巨大船が建造又は回航された。最終的に数十隻、3万もの軍勢がフィリピンへと押し掛け、イスパニアが具体的行動を取る前に勝負を決めてしまっていた。イスパニア側は、ノルド王国の初動を精々海賊活動と見誤り、また現地からの報告が遅く、さらには現地駐留軍が少なすぎたため、実質的に本国が動く前にケリが付いてしまったのだった。
 ノルド王国によるフィリピン侵攻は、単にヨーロピアンを大東洋の反対側から追い出すのが目的ではなかった。大東洋航路を確保するための拠点獲得と、自国で産出する銀を用いた東アジアでの交易が目的だった。
 そしてアスガルドと日本の銀が、当時貨幣金属(=銀)が不足していた中華地域に大量に輸出され、中華地域の絹が日本に流れるようになる。フィリピンの名も、当時のノルド国王の名(フレイソン二世)を取ってフレニアと改められた。そしてフィリピンを失ったイスパニアは、積極的に日本に手出しする事もできなくなり、宣教師が日本に渡ることが難しくなった事も重なって、日本でのキリスト教の影響力も急速に低下していった。

 その後イスパニアは、北東アジア戦略を修正して明朝への進出を強化したが、海禁(鎖国)政策もあって限定的な商業進出以上は難しく、キリスト教の浸透は完全に失敗していた。商業的にも、大量の銀を有するアスガルド商人には太刀打ちできず、経費の問題もあって引き下がらざるを得なくなる。
 このためイスパニアは、ポルトガルとの同君連合の間に、セイロン島、マラッカ海峡、そして香料諸島のモルッカ諸島を自らの支配下または勢力下に置き、南アフリカのケープに入植地を初めての建設する。
 なおアスガルド人は、16世紀中頃に隆盛した新教(プロテスタント)に対しては一定の理解と妥協を示し、17世紀に入る頃には欧州世界の分断を目的として旧教(カトリック)攻撃へと変化していた。しかしこれは一時的な事で、18世紀にはいると今度は勢力を得た一部の新教国家への攻撃に転じている。それに、自らの利益のために援助や支援を行っただけで、キリスト教そのものを敵視する向きが変わったわけではなかった。事実、新教の一派であるイングランドの国教会に対しては、常に敵対的行動が取られていた。
 またアスガルド大陸では、徹底したキリスト教の禁教政策が実施され、キリスト教徒の密航も厳しく罰せられた。その苛烈さは、日本でのキリスト教徒弾圧よりも厳しかった。
 それでもアスガルド大陸に土地が有り余っているので移民は若干数受け入れられたが、人種的に北欧人種とケルト系は例外とした上で、キリスト教を棄てる白人だけを受け入れた。農地欲しさにキリスト教を棄てずにアスガルドに渡り、その後も影でキリスト教を信奉する者もあったが、これが露見すると改宗も許さずに即座に処刑もしくは奴隷とされた。
 また一方では、地中海や北アフリカ方面を中心にして、イスラム教と連携してヨーロッパを攻撃することも多く、あくまでもキリスト教勢力との対立姿勢を崩すことはなかった。こうした宗教に関する問題が、日本人とアスガルド人の長い友好関係の大きな基礎となっていることを忘れてはいけないだろう。アスガルド人が求めていたのは、常に反キリスト教、反ローマ教会だったのだ。
 なお、アスガルド人による宗教弾圧は国が主導して民が自主的に従い、神殿はそれほど大きな役割を果たしていないのが、アスガルドという世界とラグナ教の特殊性を現していると言えるだろう。形としては、キリスト教浸透前後のローマ帝国に近いのかもしれない。アスガルド世界でのラグナ教とは、民衆の慰撫機関であって思想機関ではなかった為だ。また「信じる」ものではなく、「敬う」ものだと理解すれば、日本人の宗教観との共通性を見付ける事もできるだろう。この辺りは、元となる北欧神話が原始宗教だった事と、日本の古代宗教である神道との類似性にも関連性を見ることが出来る。

 話しを日本に戻すが、結局日本の江戸幕府は鎖国にこそ至らなかったが、日本国内での外国向け開港場所を限り、キリスト教の布教に熱心なカトリック教国との交流を徐々に少なくしていく事になる。キリスト教を禁じる政策についても、18世紀になって国策上で無害と分かるまで継続されることになる。
 アスガルド人との関係でも、開港地を限って居留地を設けるという点では同じ扱いにされている。
 また日本の江戸幕府が貿易統制に向かいかけた一つの理由には、中華地域との絹取引での国内の銀の流出があった。この点は、国内産の絹の増産と高品質化を奨励、保護する事で代替とされ、その後の品質向上と増産によって絹は輸出にまで回されるようになっていく。
 そして日本は、自分たちの側からの海外交易はそのまま維持し、東南アジアへの進出はむしろ強化されていった。この背景には、ノルド王国による支援と連携があり、アスガルド人によるアジアからキリスト教徒を追い出す政策が強く影響していた。両者の関係も、反キリスト教という共通の目的があるため強くなり、大東洋航路での交易も相互乗り入れの形で進められるようになる。18世紀には、江戸幕府の側から親善使節を乗せた船をノルド王国などに出すようにすらなっている。
 そして両者の協力は、海外植民地獲得にも影響した。
 台湾島は、17世紀前半の明朝末期に明朝の許可を得る形で日本とアスガルドの共同管理地となる。当初は疫病に苦しめられたが、治水、灌漑を押し進める事で平野部での定住が徐々に進み、その後日本人が数多く移民して主にサトウキビ生産地として発展し、日本列島の砂糖供給基地となった。この台湾開発のおかげで、日本は砂糖による外貨流出を避けることができたのだ。
 一方、16世紀末頃から東南アジア各地に建設された日本人村(※うち幾つかには、後に江戸幕府の商館が設置される)でも、アスガルド人に対して相互貿易が認められるようになった。また、日本船、日本人がアスガルド大陸に来航することも許されるようになり、航路を教えられた日本商船が初めてアスガルド大陸(ノーアトゥーン市)に至ったのは1620年の事となった。初期の頃にアスガルドに渡った日本人の中には、商船の護衛などの名目で豊臣方の浪人、落ち武者がかなり含まれていたとも言われる。これは、東南アジアでの江戸幕府の勢力の広がりを知る上で、重要な要素と言えるだろう。
 なお、アスガルド人が自分たちの領域に白人ではない日本人を引き入れたのは、現地をヨーロッパ人たちに占有させないため、自分たちだけでは数が足りないので日本人を利用しようと言う意図があった。同じ事は中華地域の明朝や朝鮮王国、東南アジア各地に対しても実施されたのだが、効果があったのは結果として日本だけだった。中華の中央政府(明朝)は頑迷で、中華商人(華僑含む)は個々で勝手に動きすぎるのでアスガルド人の側から嫌われた。朝鮮王国は、門前払いされて話しにもならなかった。またアスガルド人は、現地のイスラム商人にはかなりの興味を示したが、17世紀以後のアスガルド人の方がキリスト教と同じ一神教であるイスラム教そのものを警戒するようになっていたため、彼らのアスガルド進出は行われなかった。そうした中で、江戸幕府の統制が効いている日本人は、御しやすい相手だった。日本人の宗教的結束が低いというのも、好ましい状況だった。
 また一方で、日本とアスガルド地域は、16世紀から18世紀にかけて世界で産出される銀の殆どを占めることになるので、世界経済のコントロールとして日本人とアスガルド人の連携が維持されたという側面があることも忘れてはならないだろう。世界の銀供給をコントロールする事で、ヨーロッパや中華地域、イスラム勢力など全ての有力勢力に対して常に優位に動けるようになるからだ。アスガルド人と日本人の海外進出が順調だった理由の一つには、そうした世界の銀操作があった事は心に止めて置くべきだろう。

 そしてアスガルド人は、日本人に対してユーラシア大陸北東部の進出も積極的に促していた。アスガルド人が、内陸のロシア人がユーラシア大陸北部を東にどんどん進んでいるという情報を、スウェーデン王国から得ていたためだった。
 そして情報得た日本人は、取りあえず探検隊を編成して調べ始める。時間で言うと西暦1608年が最初とされ、蝦夷、樺太、千島に船と探検隊が送り込まれた。そして調査の中で(北氷海沿岸部)で豊富な砂金が見つかったため、一気に日本人の中で北方進出の気運が生まれる。
 さらに、ヨーロピアンやアスガルドに北方で捕れる毛皮が高価で売れる事と、自国内で不足するようになった材木資源の供給地となる事から、ユーラシア大陸北東部での開発を熱心に行うようになる。しかも北方産の木材は、フレニアに植民地を構えるアスガルド人も求めたため、かなり早い段階から日本列島の蝦夷島への進出が行われ、その後樺太島、黒竜江、北氷海へと進んでいる。
 早くも1624年には、日本人材木問屋の蝦夷屋吉兵衛が、当時まだ女真族と名乗っていた満州族と黒竜江で最初の交渉を持っている。1630年代には日本製帆船が黒竜江を遡り、盛んに交易と進出を実施するようにまでなった。それだけ日本国内とアジアのアスガルド人が、北方の木材を必要としていたからだった。日本近在の蝦夷などは、僅か四半世紀で平原の原生林を伐採しつくしてすらいる。
 なおアスガルド人が日本人に対して情報や場合によっては技術すら安価で提供したのは、ヨーロピアンを決して大東洋に出さないためだった。本来ならアスガルド人が進出するべきだったが、距離や航路の問題から難しく、近在の日本人が利用された形になる。後には、清朝を立てた中華地域も一部利用されるようになる。それほど当時のアスガルド人は、キリスト教徒を嫌い、そして警戒していた何よりの証拠と言えるだろう。

 その後日本人による経済的海外進出は強まり、特に人口希薄地帯だったユーラシア大陸北東端部、大東洋の北東部一帯への広がりは早かった。
 17世紀中頃までには夏川(レナ川)でロシア人に出会い、1637年には日本人狩猟団がロシア人猟師の一団と最初の交戦を記録している。そして戦闘に発展したため幕府は俄然力を入れるようになり、北方藩に命じて兵士を派遣し、アムール川河口部と北氷海深部に幕府の詰め所を開設。沿岸部と大型河川は船による調査が実施され、各所に標識を立てていく作業が行われるようになる。
 そうして18世紀には、ユーラシア大陸北東端部、大東洋の北東部一帯は日本人のテリトリーとなった。
 日本人の西に向けての進出はロシア人と出会うことで鈍るも、夏川(レナ川)からエニセイ川(北斗川)にかけた辺りで、日本のマタギとロシアのコサックが勢力入り乱れた状態となった。互いに毛皮を目的とした限られた数だった事、本国から遠い事から決定打に欠けていた為だった。
 満州族と名を改め清朝を起こした北方騎馬民族との間でも、狩猟、交易路、商取引などを原因とする問題から小競り合いが何度も起きるようになり、17世紀中頃のユーラシア大陸北東部は、日本人、ロシア人、満州族が入り乱れる係争地帯となる。
 この混乱は、1689年のネルチンスク条約によって解決を見ており、日本人は黒竜江北岸以北、夏川(レナ川)を囲む一帯の権利を得ることに成功する。黒竜江自体も、清朝との共同利用を取り決めた一種の国際河川とされた。また互いの交易拠点として、バイカル湖近辺への立ち入りの許可もロシア側から得ており、日本人商人の中にはシベリアを横断してロシア本土にまで出向いた者もいる。
 そして以後も黒竜江北岸と夏川(レナ川)を中心に開発が行われ、木材、毛皮の交易とそして金鉱によって日本経済圏の一翼を担うようになっていく。

 東南アジアでは、日本人とアスガルド人が協力する形で市場の獲得を行い、場合によってはイスパニアの植民地を攻撃した。このためスンダ諸島でも勢力図は年々塗り変わり、ヨーロピアンは再び胡椒を他国人から買うことになった。
 こうして東アジア・大東洋地域からはヨーロッパの影響はほぼ排除され、自分たちの背後からキリスト教徒を排除するというアスガルド人の意図は達成されることになる。
 ヨーロピアンによる東アジア進出の牙城だったマラッカ、ジャカルタも、気が付けば日本人が事実上の支配権を得ていた。日本の江戸幕府は対外戦争には消極的だったが、事が商売を絡んでくると意外にどん欲であり、キリスト教を禁じているという政治的要素が日本人による政府を相応に凶暴なものとしていた。イスパニア、ネーデルランドなどのヨーロピアンも、費用対効果を考えて日本人との衝突を最小限とするべく、結局東アジアへの進出を諦めることになる。
 そして江戸幕府は、時代と共にさらなる海外進出にも手を染めるようになる。
 18世紀にはいると日本列島内の人口が飽和状態になり、「棄民」としての海外移民政策を始めるようになった。
 17世紀半ば以後の移民場所としていた台湾島や蝦夷島など自国領の近辺では足りないので、まだヨーロッパが手を付けていない南の新大陸(豪州)への移民を始めるようになった。本来なら東南アジアが近いのだが、温帯地帯に住む日本人は南方で一般的な病気であるマラリア熱に対する耐性が低いため、別の温帯地帯にしか大規模に移住できなかったが故の選択だった。
 東南アジア各地に建設された日本人町も、ある程度日本人が住み着いていたが、ついに圧倒的多数になるには至っていない。それもこれもマラリア熱を始めとする、南方特有の疫病のためだった。
 これはアスガルド人にも言えることで、フレニアを植民地としたが、現地で根付いたアスガルド人は常に限られていた。現地で増えたのは、アスガルド人とフレニア人やモロ族の混血のミッドガルドであり、その後彼らがフレニアをアスガルド社会として運営していくようになる。

 なお、「大東洋」という呼び名はアスガルド人が交流を深めた日本人達が付けた名であり、アスガルド人は「西の大洋」などと色々と自分たちの呼び名を付けたりもしたが、結局オリエンティックと呼んだ。この名は、マゼランが名付けた太平洋とでも日本語訳すべきパシフィックというヨーロピアンの間での呼び名すら換えていく事になる。
 

●フェイズ05「新旧対立と三十年戦争」