■フェイズ05「新旧対立と三十年戦争」

 16世紀が始まって四半世紀を過ぎた頃から、白人社会は大きく「二つと二つ」に分裂していた。
 ヨーロッパとアスガルド、カトリックとプロテスタントのそれぞれ二つにである。(※18世紀に入るまでのロシアは、ヨーロッパの辺境のとるに足らない勢力でしかない。)
 ヨーロッパ世界は、ルネサンスを経て中世のまどろみから目覚めたが、それが「二つと二つ」を作り出した。
 特に航海技術と船の製造方法が発達しなければ、ヨーロピアンが再び新大陸に至ることは無かった。ヨーロピアンが来なければ、自ら断絶した白人社会を形成したアスガルド人は、依然として中世のまどろみ中にあった可能性は極めて高い。また中世の悪夢から覚めなければ、ヨーロッパにおいてプロテスタントが興る事もなかったかもしれない。ある意味、禁断の扉を開けてしまったわけだ。
 そしてそれぞれ時代の変化が求めた結果であり、ヨーロピアン達にとっては次なる過酷な時代の始まりでもあった。

 15世紀末にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見して以後、一見ヨーロピアンによるアジア進出と収奪、ヨーロッパへの富の集積は順調に見えた。イスパニアやポルトガルは、アジア各地に植民地も建設した。ヨーロッパの一部の町並みも、アジアからの収奪によって随分と立派になった。そうした一部は、ヨーロッパでは地震が少ないこともあって、当時の景観を今に伝えている。イスパニアやポルトガルの一部の瀟洒な町並みは、アジアからの収奪が無ければかなり違った形になっていたかもしれない。統計的に見たヨーロッパ世界の富みの全体も、この時期に確かに大きな上昇曲線を描いていた。
 だが、もしグリーンランドのヴァイキング達が新大陸に到達していなかったり、グリーンランドで死に絶えたりしていたら、という感情が当時のヨーロピアンの間に強くあった。新大陸にあった原住民による国家を倒し、莫大と言う言葉すら不足する巨大な富を得たのは、かつてヨーロッパで最も辺境に住んでいたヴァイキングの末裔だったからだ。富と栄光を得るのが自分たちでない事への不満がかなりのものだったことが、当時の文献などから伺い知ることが出来る。ヨーロピアンがアスガルドを憎むのは、単に宗教上の事だけではなかったのだ。
 しかも、簡単に莫大な富が得られなかったばかりか、せっかく見つけた新大陸に行くことすら叶わないという状況は、ヨーロピアンにとって大きな不満だった。アスガルドの大地を占めるのが元はヨーロピアンなのに、古い神話を奉じる邪教徒となれば尚更だった。しかも彼らの外見は、単に白人であるだけでなく金髪碧眼で大柄という特徴を示すことが多く、そうした点もヨーロピアンの負の感情を増幅させていた。
 当時、世界の銀の一大産地を持つアスガルドがヨーロッパの別世界に属している事は、それほどヨーロピアンに負の感情をもたらしていた。また、アスガルドと日本という当時の銀の最大の産地が自分たちの影響により強い軍事力を有するに至ったことも、予想すらできなかった大きな誤算だった。アスガルドの大艦隊が目の前に現れるまで、ヨーロピアンの多くはアスガルドという相手を、衰退したヴァイキングの亜流で所詮は弱小勢力でしかないと思いこんでいたからだ。
 そして何より、新大陸以外の他の地域で同じような事がほとんど起きていないだけに、ヨーロピアンに富を渡すことを良しとしない何らかの力が働いているかのように思えた。

 ヨーロピアンによる世界進出は、アフリカやアジア沿岸の文明進歩の後れた地域では比較的うまくいっていたが、物理的限界もあってアジアへの進出は常に限られていた。何しろアジアは、遠い上に人が多すぎた。ポルトガルが得た植民地も、ごく限られた都市などだけでしかなかった。
 アフリカに対しても、沿岸部はともかく奥地はヨーロピアンを襲う恐ろしい疫病や厳しい自然環境のため、事実上進出するのが不可能だった。北アフリカは若干の例外だが、当地域の多くはイスラム教との勢力圏で、さらには強大なオスマン朝トルコの支配領域だった。イスパニアが勢力を伸ばせるのは、西地中海沿岸の一部港湾都市に限られていた。それ以上は依然として強力なイスラム教徒のため、コスト面で長期的支配が不可能だったからだ。大砲や鉄砲は、ヨーロピアンの専売特許ではなかったのだ。
 アフリカの西部、中西部の沿岸では武器や鉄の道具、衣類などの加工品を売ることでボロ儲けできたが、彼らの持っている金銀はたいした期間をおかずに魅力ある分量ではなくなっていた。文明発祥以来の金の採掘により、既に多くが尽きていたからだし、現地の人々は砂漠を横断するイスラム教徒との繋がりも続けていたからだ。
 そしてヨーロピアンの工業製品との主な対価は、限られた量の金を除くと、当時の最重要品目の一つだった砂漠の奥地で取れる岩塩と、一部の希少品や珍しい現地の物産となっていた。現地での部族抗争の過程で発生する奴隷も、商品の一部として受け取る事は出来るが使い道も限られていたし、黒人をヨーロッパの農場で奴隷として使おうとは流石のヨーロピアンも考えなかった。
 それでも当時小国(※総人口は100万人程度)だったポルトガルにとっては、アフリカ沿岸やアジアで得られる富は莫大であり、これがポルトガルがアジア、イスパニアが新大陸と勢力圏が分かれていれば問題も少なかっただろう。アフリカ沿岸はともかく、人の溢れるアジアは富みも溢れていた。それにアジアでは、ヨーロッパで希少な胡椒やナツメグなどの香辛料を安価に得ることができた。
 しかしヨーロピアンには、喜望峰を通る海の道しか使うことができなかった。地中海から紅海、インド洋へと抜ける海の道は、依然として強大なオスマン朝トルコが押さえていた。また不用意に新大陸に向かうことは、アスガルド人が決して許してくれなかった。ポルトガル人が16世紀初頭にブラジルと名付けた南の新大陸の一角も、既にアスガルド人が警戒の目を光らせていた。それでも短期的に南アスガルド大陸に行くことは出来るが、アスガルド側が常に警戒しているため、長期間となると極めて難しいのが現状だった。
 そして当時ヨーロッパ随一の大国だったイスパニアにとって、アジアで得られる限定的な富では、帝国の拡大どころかヨーロッパでの領土維持にすら足りていなかった。イスパニアの歴史上で最大級の繁栄を達成したと言われるフェリペ二世の時代でも、イスパニアは何度も債務不履行を出している程だ。
 しかも時代が下ると、アスガルド人が新大陸のエーギル海の島々で大量生産するようになった砂糖が、北ヨーロッパやイスラム世界を経由してヨーロッパに輸出されたため、ヨーロッパから銀がアスガルドに流れることになっていた。アスガルドからヨーロッパに流れた銀が、環流しているに過ぎない状態だった。一時期は北欧経由でアスガルド人によく売れたガラス製品を始めとする高度な加工品、工業製品も徐々に売れなくなっていったため、ヨーロッパでの銀(貨幣)の流通量は徐々に停滞を余儀なくされた。そうした状況は、早くも17世紀初め頃に現れ始めていた。

 そうした中、ヨーロッパ辺境のイングランドが16世紀中頃に注目したのが、北大西洋海流を使って北ヨーロッパ諸国にやって来るアスガルド人の船だった。アスガルド人の船は、北ヨーロッパやイスラム教徒、つまり異教徒と邪教徒ととの取引のため、船には砂糖や煙草などの商品と共に、大量の銀を積載していることが多かった。この銀を奪って短期的に国力増大を図ろうというのが、当時裕福とは言えない国だったイングランド王国の構想だった。
 イングランドでは、アジアから帰ってくるイスパニアの船を狙う事も行われたが、距離の問題、密度の問題、そしてアスガルド人を攻撃してもヨーロピアンからは殆ど文句が出ないという政治的理由から、16世紀中頃からアスガルド人が攻撃対象とされた。
 そしてある程度の頻度でアスガルド船の襲撃に成功するも、イングランドはアスガルド人の激しい怒りを買い、アスガルドからは主に洋上で激しい攻撃を受けるようになった。陸地でも、アーサー王伝説の地とも言われる西部のコーンワル半島やウェールズの一部沿岸は、一時期酷く荒れ果てた。1588年には、数十隻ものアスガルド人の大艦隊がイングランドに襲来し、テームズ川を遡上して首都ロンドンに火を放って大火をもたらした。
 それ以外にも、往年のヴァイキングのように何度かブリテン島を荒らし回った。イングランドも船の扱いには長けていたが、かつてヨーロッパ最強を誇ったヴァイキングの末裔達も、同等かそれ以上に船の扱いには長けていた。
 また、北ヨーロッパの国々からも、かなりの恨みを買うことになった。何しろ、間接的に彼らの富を奪っているのがイングランドだからだ。このためアスガルド人以外から攻撃を受けることも以前より増えるようになった。
 イングランド側も果敢に反撃したが、アスガルド大陸にまで本格的に攻め込む力はなく、エーギル海での小規模な海賊活動が精一杯だった。一時期英雄とされたドレーク提督も、エーギル海でノルド王国海軍に追いつめられ敗死している。イングランド近海以外での戦い以外となると、アスガルド人の植民地となったアイスランドへの嫌がらせ程度の攻撃が精一杯だった。イングランド単独で見た場合、アスガルド人の方が既に十分強大な相手となっていたからだった。
 おかげでイングランド王国は、奪った以上の富がブリテン島から失われたとも言われた。それでも、その後もイングランドはアスガルド船襲撃をしぶとく継続し、相応の成果を得ることができた。イングランド以外の他の国も、私掠船や海賊でアスガルド船の襲撃は行ったが、アスガルド側の個々の戦力が強いため危険も多く、そしてこの頃アスガルド人が主に北大西洋の北側を利用した事から、ヨーロピアン優位とまではいかなかった。船の航行が比較的容易い春から秋までの北大西洋航路は、流氷以外で危険に満ちた海となった。
 なおアスガルド人は、自らが主に北ヨーロッパに赴くときの帰り道として、ゆっくりと北太平洋北部を戻る以外に、スコットランド、アイルランドを経由して、イベリア半島沖を通過してイスラム勢力圏の北アフリカに入る海の道を、特に冬の間使っていた。各地を経由するのは、そうしなければ自分たちがカトリック系キリスト教国から一方的叩かれてしまうからだ。
 このため、アスガルド人の血にケルト民族の血が若干入っていることを表向きの理由として、ノルド王国はスコットランド王国、アイルランド王国への援助を行っていた。武器や資金の援助が主で、ブリテン島主要部を占めるイングランド王国が勢力を付けるのを阻止していた。
 このためイングランドは、ヨーロッパ大陸の旧教国と新大陸の双方から叩かれたため、ヨーロッパ世界でも早い段階での農業改革(大規模集約農業や第一次囲い込み)や毛織物産業での成功で作り上げた経済的成功を過剰なほど国防に費やさざるを得ず、また周辺部に対する勢力拡大も抑制され、長らく低迷を続ける事になる。
 一方大きく隆盛しつつあったのが、ブリテン島のほぼ対岸に位置するネーデルランド地域だった。

 ネーデルランドの隆盛は、北海のニシン(鰊)が産卵場所をネーデルランド近辺の沖合に移した事で始まると言われる。
 キリスト教を中心として動くヨーロッパ社会では、イエス・キリストが荒野で絶食した故事に習って、復活祭前の40日間は獣肉を食べない習慣があった。この時期は、主にタラ(鱈)やニシンが大量に塩漬けされてヨーロッパ中で食べられる。魚の保存用に使われる塩の量も膨大で、中世からルネサンス期は塩(岩塩)の取引が商人の最も大きな商売だったほどだ。
 そして莫大な富を産むニシンたちは、地球が温暖な間はデンマークのあるユトランド半島近辺で産卵したため、これを捕らえるデンマーク王国が大きく経済力を上げ、北ドイツのハンザ同盟が繁栄した。しかし15世紀なると、ニシンたちは北海の沖合に産卵場所を移動し、これを捕まえる船を建造するライン川河口部つまりネーデルランドの経済発展が始まる。また海水温の変化によって、タラが生息地を変えていった事もネーデルランドには有利に働いた。
 初期はアントウェルペン(アントワープ)、後にアムステルダムがネーデルランドの経済の中心地となり、近在が毛織物産業の中心地であったこともあって、ヨーロッパ経済の中心となっていった。加えて、ヨーロッパ世界で先駆けた農業改革の進展が、ネーデルランド経済をさらに拡大させた。
 そしてこのネーデルランドはイスパニア=ハプスブルグ領であり、イスパニア経済と国家戦略の重要な一翼を占めていた。しかし経済的成功を掴んだ人は自由を求めるようになり、これに宗教改革が加わり、独立への動きが出来上がる。
 実際16世紀中頃に入ると独立戦争が開始され、40年近く戦った後に事実上の独立を勝ち取る事に成功する。ヨーロッパ随一となった経済力と合理的な社会、そして合理性が産み出した新たな軍隊が勝利をもたらしたのだった。
 しかしそのネーデルランドには、大きく二つの懸念あった。
 一つは、宗主国のイスパニアが、16世紀末の当時ではヨーロッパ最強の国家だった事だ。余程イスパニアが衰えるか窮地に陥らない限り、イスパニアからの干渉の排除と完全な独立は難しいだろうと考えられていた。しかしイスパニア本国は財政基盤が強いとは言えず、アジアから得られる限定された富みだけではネーデルランドと戦うための戦費を賄えず、ヨーロッパ経済の中枢を牛耳るネーデルランド人は、事実上の独立を勝ち取ることができた。だがそれでもイスパニアは強大であり、依然としてヨーロッパ世界の盟主であった。そしてネーデルランドは、そのイスパニアに刃向かう勢力だったので懸念が大きいのは当然だろう。

 もう一つの懸念は、新大陸のアスガルド人が、民族的繋がりを理由として北ヨーロッパ諸国との関係を深めた事だった。
 地球規模での寒冷化以後低迷が続く北ヨーロッパ諸国は、プロテスタントに国ごと改めた事により国家、経済など多くの面で合理性を実現しようとしていた。本来なら、同じプロテスタント国家のネーデルランドと連携できる筈なのだが、彼らは民族的繋がりを理由として、実際は経済的利益を得るために新大陸で古い邪教を復活させたアスガルド人との繋がりを深めた。何しろアスガルド人は、うなるほどの銀を持っていた。
 デンマークの首都コペンハーゲン、ノルウェーの首都オスロにやって来るノルド王国船に乗り込んだアスガルド人達は、当面自分たちが作れない加工製品、工業製品と交換するため、大量の銀と共に新大陸の物産として大量の銀と砂糖や煙草を持ち込んでいた。このため、豊富な銀と贅沢の象徴である甘味、新たな嗜好品に吸い寄せられたヨーロッパの物産と銀の多くが北ヨーロッパ諸国に流れ、必然的にコペンハーゲンやオスロは経済的に発展した。そしてアスガルド人が持ち込んだ大量の銀と他の物産での売り上げで、ヨーロッパやイスラム世界の優れた文物、書物、技術を買いあさった。それ以外にも、アスガルド大陸で不足する希少価値の高いものを積み込んで、アスガルドへと帰っていった。
 そして巨大な取引のため、ヨーロッパ中の商人達が宗教対立を少しばかり見なかった事にして北の港町へと足を運んだ。
 このお陰でコペンハーゲンは、ニシンの群で溢れかえっていた頃の繁栄を取り戻す事ができた。

 またアスガルド人が持ち込んだ新大陸の作物栽培が、16世紀後半から北ヨーロッパ各地で始まる。そして16世紀末頃になると国策によって栽培が普及し、貧しく寒い筈の北ヨーロッパ地域の人口が大きな上昇曲線を描くようになった。最初の栽培はアスガルド商人が借り上げた農地で行われ、人々に振る舞って普及促進に努められたりした。この人物がノルド王国の男爵位を持っていたため、当初作物の名前を隠語として「男爵」と呼んだりもした。
 そして「奇跡の作物」と言われたこの農産物こそが、カトリック教徒や正教徒、ユダヤ教徒に対して呪いがかけられていると宣伝されつつ新大陸から持ち込まれたパタタ芋だった。パタタ芋はカロリーが高く、寒冷な地や荒れ地でもよく育ち、地中に実を付けるため鳥害にも強く、しかも一年に何度も栽培と収穫が可能という夢の様な作物だった。しかも穀物ではなく野菜の一種のため、航海中に食べれば壊血病の予防にもなった。ついでに言えば、小麦ではないのでキリスト教世界での税の対象にもならない作物になる。
 芽に毒があったり、連作で地力が衰退すると病気にかかりやすいなどの欠点はあったが、作り方は既にアスガルド人がよく知っていたので、そうした欠点を補うことも十分可能だった。
 ただしパタタ芋は、古い邪教を信奉するアスガルド人がもたらした「悪魔の実」だと流布された。一方では、アスガルド人と同じ血を持つノルド系民族には無害だが、他の人種には有害な作物だという説も流布された。そして迷信と現実二つの要素による説がヨーロッパに広まったため、パタタ芋が北ヨーロッパ以外に広がるには、さらに1世紀以上の時間が必要だった。パタタ芋の威力を知るアスガルド人が仕掛けた策略が、見事に嵌った結果だった。
 そしてパタタ芋の栽培を精力的に進めた北ヨーロッパでは、目に見えた人口増加が短期間のうちでも見られ、当然国力の基礎を大きくすることになる。これにアスガルド人が持ち込んだ銀による経済の活性化が加わり、北ヨーロッパ中心部の発展へとつながっている。

 そうした中、17世紀に入って大きく隆盛した北ヨーロッパの国が、スウェーデン王国だった。
 西暦1611年に17才で王位についたグスタフ・アドルフと、アドルフによって即位の翌年宰相となったアクセル・オクセンシェルナの二人の天才によって、当時低迷した国だったスウェーデンは見違えるように強大化していく。当時弱兵だった軍の建て直しはアドルフ王自らが、内政は宰相オクセンシェルナが担当した。
 また17世紀初頭からノルウェー、デンマークなどと同様にパタタ芋の栽培が進んでいたため、北ヨーロッパの他の国より農業に向いていた事もあって人口の拡大が最も大きかった事も、スウェーデンの拡大を大きく助けた。
 1620年代には、アスガルド船もスウェーデンの王都ストックホルムにも頻繁に訪れるようになった。ストックホルムは環バルト交易の中心として栄え、スウェーデン自身もバルト海沿岸地域での勢力を拡大した。このため同時期にロマノフ王朝が成立した頃のロシア地域では、かつてヴァイキング達が作った国々(ノブゴロド王国など)の生き残りを集め、ドイツ騎士団領の残骸を併合して直接的領土を拡大し、当時成立して間もないプロイセン公国との間には姻戚関係を結んだ。同じプロテスタントを信奉する北ドイツ地域への進出も熱心に行われるようになり、次なる争乱が始まる頃にはスウェーデンはヨーロッパ北部のプロテスタント国家群の中心的役割を担うまでになっていた。
 それだけの経済力と国力を、スウェーデンが有するようになっていた何よりの証拠だった。

 そしてヨーロッパの人々にとって問題を大きくしたのが、北ヨーロッパ地域では16世紀の早い段階から宗教改革が進み、スカンディナビア半島からバルト海沿岸部一帯がプロテスタント地域になっていたことだった。
 17世紀序盤、ヨーロッパ世界はカトリック教国のイスパニアが最も強大な国家だった。同じカトリック教国のフランスは、国内のプロテスタントの弾圧と内戦(ユグノー戦争)を終えるも、国力の回復過程にあった。エリザベス女王のもとで国教会という独自の新教を作り出したイングランドは、ローマ教会からのくびきからは脱するも、いまだ近隣諸国やアスガルドとの小競り合いに終始し、国力の拡大や他の地域への進出はままならなかった。しかもイングランドは、経済面でもネーデルランド、北ヨーロッパ諸国に圧倒されていた。
 北ヨーロッパ諸国は、商業的成功と人口増加によって国力を大きく増していたが、スウェーデンはロマノフ朝へと変わったロシアとの対立を深めていたため、ヨーロッパ中央への影響力を高められないでいた。
 東欧の雄ポーランドとバルカン半島から東地中海を制覇するオスマン朝トルコは、いまだ広大な領土を有していたが、国内の停滞によって能動的に動けるだけの力を既に失っていた。
 そしてモザイク国家の神聖ローマ帝国は、新教と旧教の入り乱れた地域で、この頃のヨーロッパの「火薬庫」だった。
 そして新教と旧教の対立が、1618年に激発する。
 ドイツ地域での様々な規模での戦闘の連続はあしかけ30年間続いたため、後世「三十年戦争」と呼ばれる事になる。
 戦乱によりドイツ中原は壊滅的打撃を受け、地域によっては総人口の実に3分の2が何らかの理由で死んだとされる。
 戦争の基本は、北ヨーロッパ諸国とネーデルランド、北ドイツの新教(プロテスタント)勢力と、神聖ローマ帝国や他のドイツ諸侯とそのパトロンであるカトリック教国のイスパニアとオーストリア(=ハプスブルグ家)による戦争だった。つまりヨーロッパ世界で最大規模の宗教戦争だったのだ。
 長期間続いた戦争は錯綜したが、初期の頃は新教、旧教で分かれたドイツの小国同士による戦争だった。しかし後ろにイスパニア(ハプスブルグ家)とスウェーデン、ネーデルランドなどが着くことで戦乱は長引き拡大した。小国同士では大した戦争は出来ないのだが、戦費を色々な国が融通するためドイツには大量の傭兵が流入し、戦争期間以外で傭兵は食い詰めてしまうため、雇われない傭兵という人災がドイツの大地に酷い惨禍をもたらす事になる。
 1624年にフランスでリシュリューが宰相となると、彼は新旧対立ではなくフランスの国益の為に反ハプスブルグ的動きを行い、旧教国のフランスが新教側を後ろから支援するようになる。直接的に動いた最初の国は、デンマークだった。

 16世紀後半からの経済的成功で国力を増していたデンマーク王国は、欲をかいてフランスの支援をアテにしてドイツ国内に深入りしすぎ、大傭兵隊長ヴァレンシュタイン(アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン)によって散々にうち破られ敗北を喫した。このため一時的に旧教勢力がバルト海にまで勢力を拡大するが、これを格好の口実と捉えたスウェーデンがついに参戦。数年前までロシア人と睨み合っていた精兵を、一気に北ドイツ平原に進軍させた。
 そして時期を得た事、「北の獅子王」と謳われた勇猛なグスタフ王の手腕もあって、スウェーデン軍が戦争を有利に運んだ。
 しかしこれに危機感を覚えた旧教側の皇帝軍(神聖ローマ軍)は、一度は解雇した大傭兵隊長ヴァレンシュタインを再び雇い、傭兵達を集めてスウェーデン軍に対峙させた。
 だが、皇帝軍側の事実上の盟主であるハプスブルグ家及びイスパニアは、既に財政的に逼迫していた。対するスウェーデンは、自らの国力拡大に伴う経済力に加えて、アスガルドのノルド王国からの多額の支援もあって、ドイツ中原に大軍を展開していた。最大時には、現地傭兵だけで5万人いたとすら言われる。
 このため戦争全般は、スウェーデン優位で動いた。しかし今度は兵力が不足する皇帝軍が戦闘を避けるようになったため、グスタフ王は一計を案じる。
 軍を二つに分けたグスタフ=アドルフ王率いるスウェーデン軍は、一軍が戦争を決するべくウィーン包囲の動きを取り、王自ら率いる3万5000の軍が、ようやく戦場に出てきた天才的戦争手腕を持つ大傭兵隊長ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍との決戦を強要して、先の皇帝軍を蹴散らしたのと同様に新戦術によって粉砕した。
 この戦いが、戦争中盤の帰趨を事実上決したと言われる「リュッツェンの戦い」だった。
 スウェーデン軍の勝利は、統制の取れた大軍と優れた武器は、今までにない大人口と経済発展、そして遠く新大陸から援助するノルド王国のお陰だった。最盛時のスウェーデン軍は、合計10万もの大軍をドイツ各所に展開し、ネーデルランドに手を焼いたイスパニアが財政破綻にひた走るのを後目に勝利を積み重ねた。
 そして1634年、ドイツ南部のネルトリンゲンで和約が成立することで、スウェーデンがこの時点での勝利を決めてドイツに確固たる足場を築く。これで「北の大帝」と称えられたグスタフ王とスウェーデン軍のかなりが、祖国に一旦戻った。流石に戦費が苦しくなった事と、スウェーデンには、ポーランド・リトアニアという旧教国とロシア帝国という別の敵も存在したためだ。
 その間新教、旧教双方で錯綜する動きが出た。

 新教側のイングランド王国は、イスパニアの制海覇権を衰えさせるべくネーデルランド連邦と共に主に海で戦ったが、イスパニアが事実上財政破綻して勢力が衰え、ヨーロッパ中原でスウェーデンが力を増してその力を海外進出にまで傾けるようになると、今度は露骨にスウェーデンと対立するようになった。そしてイングランドは、直接スウェーデンとは戦わずに、旧教勢力だとしてブリテン島北部のスコットランド王国と隣のアイルランド王国への攻撃を行い、北ヨーロッパの力の大きな部分を占めるアスガルド人の努力を、スコットランド、アイルランドに向けさせた。当然、ヨーロッパの勢力図は大きく動いた。
 そしてイングランドの変節が、遂にフランスを戦争の表舞台に立たせることになる。
 北ヨーロッパ諸国が財政面でヨーロッパ中原に大軍を送り込めない状態と、イスパニアが内実大きく衰退しているのを見て、自らの国益拡大のために新教側で参戦に転じたのだ。
 フランスの宰相リシュリューとスウェーデンの宰相オクセンシェルナ合同の脚本演出による、三十年戦争の総仕上げの始まりだった。
 フランスは、主に南ネーデルランドやフランシュ・コンテなど本国近辺のハプスブルグ領を攻撃した。ネーデルランドも、主に近隣のハプスブルグ領土を攻撃した。一方のスウェーデンは、プロテスタント諸侯を再び糾合して、ハイルブロン同盟を結成するなどの成果を挙げて緩んでいた体制を再構築して、皇帝軍やドイツ中原のハプスブルグ領を圧迫し続けた。
 そして四面楚歌となったイスパニアは、軍事的にもフランス軍に大敗を喫してしまう。ハプスブルグ家の領域全体も財政破綻を迎え、神聖ローマ帝国の皇帝側の実質的な敗北によって戦争は終わりを迎える。東や北でも、依然としてグスタフ王が陣頭に立つスウェーデン軍が、皇帝軍、一部ポーランドを含む旧教軍、さらには早くも蠢動していたロマノフ朝ロシアとの戦闘にも勝利を飾った。海でも、スウェーデン、ネーデルランド、フランスによる連合艦隊が、イングランド海軍を粉砕していた。
 西暦1648年に世界初の国際会議である「ヴェストファーレン条約」が結ばれ、ヨーロッパ世界は新たなステージへと向かうことになる。

 なお条約により、フランスはアルザス・ロレーヌ地方ばかりか、イスパニアより南ネーデルランドの半分を獲得した。正式独立を勝ち取ったネーデルランドは、戦争の最後に南ネーデルランドにフランスと呼吸を合わせて進軍して、南ネーデルランドの北半分を得ることに成功していた。この結果イスパニアは、ライン川地域の領土をほぼ全て失い、国力衰退がさらに進むことになる。この他、スイスも正式な独立を獲得しているが、最も大きな成果を得たのがスウェーデンだった。
 スウェーデンは、神聖ローマ帝国領のうちバルト海沿岸のほぼ全ての領有が認められた。既に姻戚関係が深まっていたプロイセン公爵領も、国力差からスウェーデンの属領と認められ、北ドイツ内陸に進んだブランデンブルグ地方の支配権も得た。さらに、ブレーメンなど北海に面した地域の多くの権利も獲得し、スウェーデンはデンマークを介することなく外洋(北海)に出る事ができるようにもなった。
 何より、ヨーロッパの大国としての地位を確立し、グスタフ王が没して後も長らく北ヨーロッパの盟主として活躍する地位を得ることになる。
 そしてその後のヨーロッパは、17世紀の間はフランスとネーデルランドの対立が強まり、ネーデルランドを支援したスウェーデンなどの新教勢力と、フランスなどの旧教勢力という形での戦争や競争が続くことになる。

●フェイズ06「アスガルドの分裂」