■フェイズ06「アスガルドの分裂」

 西暦1600年代中頃(アスガルド歴600年代初頭)、北アスガルド大陸の商工業地域は戦争景気に湧き、産業規模自体も大きく拡大していた。
 ヨーロッパ中原での「三十年戦争」に際して、武器や弾薬、軍艦などの輸出が積極的に行われていたからだ。このため、五大湖沿岸で成長しつつあった商工業都市群が大きく発展した。
 しかし当時アスガルド唯一の国家であった大ノルド王国は、繁栄しているとは言い難かった。
 主な理由は、北アスガルドでの戦争景気が、ノルド王国の出費で賄われていたからだ。無論北ヨーロッパ諸国やネーデルランドからの直接の発注もあったが、相手との距離の問題、相手側財力の問題から常に限られていた。そしてカトリック教国のイスパニアの国力を殺ぐという戦略目的をのため、ノルド王国が豊富な銀を主な財源として、熱心に北ヨーロッパのプロテスタント諸国を支援していた。
 しかし戦争が長引くと、ノルド王国の支援も徐々に苦しくなった。自らがヨーロッパに銀を注ぎ込んだ影響で、アスガルドとヨーロッパの銀の価格差も縮まった。三十年戦争の主な期間、貿易を含めて毎年銀貨300万枚(ターレル銀貨1枚=35g・合計105トン)以上の銀がヨーロッパに投じられたと言われている。ヨーロッパで価格革命が本当に進んだのも、三十年戦争の間だと言われるほどだ。
 そして圧倒的資金力によって新教国を支援したおかげで、最も強大なカトリック教国のイスパニアの国力を大きく殺ぐことに成功したのだが、自らも大きく疲弊してしまう事になる。当然と言えば当然だろう。
 このためノルド王国は、自らの赤字を埋めるためスクレーリング奴隷を大量投入した鉱山での銀の増産だけでは足りなくなり、新大陸での大規模な増税を実施した。主な増税対象として、ミシシッピ川中流域の辺境諸侯領と五大湖沿岸の商工業都市群が選ばれた。どちらも地方自治の強い諸侯たちが実質的な支配者で、そこからの税金は上がってきていたものの額は常に小さくなり、税制面ではノルド王国の直接支配下とはいえないためだ。また、商工業都市群は急速な発展のために自由都市や自治都市が多く、ミシシッピ川中流域もここ100年ほどで急速に発展した入植地群だった。

 なお、この頃のアスガルド世界は、もはや一つの国家、一つの王国とは言えなくなっていた。
 北東部沿岸を中心に大ノルド王国が存在し、これが唯一国王を君主とした国家だった。ヨーロッパなど世界各地の交易や交流も、唯一の国家である大ノルド王国が行っていた。またアスガルド大陸に存在する全ての土地、人、物は、最終的に大ノルド王国とラグナ神殿に帰属するとされていた。王都ヴァルハラ中心部にある王宮や神殿も、建国頃に比べると見違えるほど立派になっていた。建国初期の巨大建造物といえば歴代王の墳墓ぐらいだったが、この頃にはヨーロッパに負けない規模で各種建造物が建設されるようになっていた。王都ヴァルハラの町並みも、煉瓦や瓦を用いた建造物や石畳の道が当たり前となるなど、ヨーロッパの主要都市を凌ぐほど立派になった。
 そして、国が小さいうちは中世国家規模の国家経営でも問題なかったが、15世紀末で400万人、16世紀末で1500万人の人口を擁する世界、しかも大きく二つの大陸に広がる世界が、一つの中世的国家の下で統治されるには無理が出ていた。人口の拡大に伴い場当たり的に役人の数は増やしていたが、統治機構そのものが旧態依然としていたため、突発的な問題には対処できなくなっていた。国家システム的には、100万程度の人口を抱える国のものしか持っていなかったのだ。キリスト教会の統治システムを持っていれば少しは違ったかもしれないが、アスガルドの人々はキリスト教を棄てた人々だった。
 そして、17世紀中頃のアスガルド全域の総人口は、既に3000万人に迫っていた。これを一つの国家として見た場合、当時の白人世界では最大級の人口を抱えていると言っていいだろう。3000万人という数字は、当時のヨーロッパ世界の三分の一にも達する。そうした国が、中世ヨーロッパ的な古くさい統治機構しか持っていなかったのだ。
 北アスガルド大陸の中原には、開拓地、入植地にできる無尽蔵の良好な土地が手つかずであるため、土地を開いた分だけ人の数が増えていった。このため、国王を皇帝、地方の公爵や辺境伯をそれぞれの地域の国王と考える方が、規模としてはヨーロッパ的となる。中世を引きずったままの国の統治体制自体(中央官僚団の貧弱)が、そうした地方に権限を持たせる形での統治しか行えなかったからだ。アスガルド世界では、辺境伯爵領という存在は、当たり前のように転がっていた。
 加えて、人口地帯の多くは既に内陸部の穀倉地帯へと移りつつあり、五大湖沿岸の商工業都市の発展と拡大を特需以外で継続的に支えていたのも、ミシシッピ川中原の広大なトウモロコシの穀倉地帯の農作物と大人口だった。トウモロコシとトウモロコシを飼料とした豚は、中原の人々の力の原動力だった。

 これに対して、大ノルド王国の存在する北東部沿岸は牧草地を使った牧畜にはとても向いていたが、あまり穀物栽培に向いた土地ではなかった。穀物栽培の主体も、大麦やライ麦といったヴァイキング達にとってなじみ深く北ヨーロッパでよく栽培されていた収穫率、栄養価の低い、寒冷地向きの穀物類が主軸だった。主食は相変わらず乳製品のため、農村地帯の人口密度は、低いまま推移した。
 ノルド王国自体の中心も北部から南下して、16世紀に入る頃にはノウム・ガルザルなどの南部沿岸都市群が国家経済の中枢となっていた。そしてその頃から急速に内陸部、ミシシッピ川流域の入植と開発が進められた。このため人口拡大を支えていたのは、間違いなくミシシッピ川中流域の新たな入植地、辺境領群となっていた。そうした辺境では、子供や若い世代ばかりで中年や老人の姿は少なく、豊富な労働力を投じることで次々に開拓地を増やしていた。文字通りの幾何級数的拡大、産めよ増やせよ地に満ちよという状態だった。
 一方で、グリーンランド島から最後にアスガルド大陸に逃れてきた人々が中心になってノウム・グリーンランドを形成し、五大湖北部を中心に広く静かに勢力を広げていた。現地は一部を除いて穀物栽培が難しいが、ヴァイキング伝統の牧草による牧畜を中心にした農業に向いた土地が多かったため、かつての暮らしを維持したいと考えた人々が多く住み着いた。そして先にアスガルド大陸に来た人々の子孫達が暖かい土地を好んだため、特に争いもなく棲み分けが進んだ。15世紀中頃には、ノウム・グリーンランド改め「エイリーク辺境伯爵領群」が作られ、様々な人々が新たに貴族に列せられた。人口と領域がさらに拡大した17世紀には、ノルド王族から人を迎え入れたエイリーク公を中心にして公爵領に格上げされた。
 同地域の一部では、早くも北海沿岸地域で発明された混合農業が土地ごとに改良されて取り入れられ、農業生産量と人口の拡大を行っていた。これが同地域の自立を早め、さらにアスガルド全体にヨーロッパでの革新的農業が広がる契機にもなっていた。土地を自ら運営する貴族とは名ばかりの地主達は、自らの生産力拡大、領民の暮らしの向上に積極的だった。そうした方が、自分たちがより豊かになることを体感的、伝統的に知っているからだ。アスガルドの貴族は、もとが開拓民であるため在地領主が非常に多く、自らの農地を大切にすることが伝統となっている影響だった。
 農業の事はともかく、同地域は五大湖からノルン川を経て大西洋に出るルートに存在するため、徐々に五大湖商工業都市群との関係も深めた。一方では、アスガルド人より保守的な人々のため、民族的温度差とでも呼ぶべき心理的隔たりが、ノルド王国との距離を年々開けさせることになる。

 北アスガルドのミシシッピ中流域以西は、依然として原住民(=スクレーリング)の領域で、西に進むほど樹木が少なく草原ばかりとなるため、農業に向いた地域とも考えられない遠くの大平原においては、一度野生化した馬などの家畜を糧とした一種の原始的な騎馬民族的国家の形成が進んでいた。この事は、原住民が初期のパンデミックの打撃から立ち直り、新大陸にいなかった動物(家畜)とのつき合いを自分たちも取り入れた証だった。
 北アスガルドの大東洋側では、南部の開けた平原の一角に「アールヴヘイム(妖精の国)」と名付けられた入植地が開かれていたが、遠い場所でもあるため開発はまだかなり限定されたままだった。当然ではあるが、アジアから大東洋を渡って移住してくる人の姿はまだなかった。故にアスガルド人も、比較的のんびりしていたと言えるだろう。
 また両大陸の間にあるエーギル海には、16世紀後半からユーラシア大陸から伝搬したサトウキビのプランテーションが各地に建設され、スクレーリング同士の対立を利用した奴隷貿易によって得られた労働力を活用した資本主義的単品農業が行われていた。13世紀から14世紀頃に主に疫病によって壊滅した北アスガルドの原住民人口は、その程度には回復していた。そして生産された大量の砂糖は、多くが北アスガルド各地に供給され、余剰の一部が北ヨーロッパへと流れていた。
 なお、エーギル海、ソルフルーメン川以北のメヒコ地域から北は全てノルド王国直轄の植民地とされ、北アスガルド地域の同族を遙かに上回る過酷な支配が行われ、アスガルド人の繁栄を支えていた。例外は、アルゼンチン(ラテン語で「銀(アルゲンンティン)」を意味する)地域の温帯平原に開かれたアスガルド人による新たな入植地ぐらいだった。現地ではヨーロッパ由来の農業や牧畜が可能なため、16世紀中頃から大きな国家の統治を嫌う自由アスガルド人の移民が少しずつ進んでいた。特に17世紀序盤が終わり北アスガルドのミシシッピ中流域での人口爆発が起きると、ノルド王国領内で余剰した人々の移住が増えていった。

 以上の状況を住んでいる人でごく簡単に分けると、権威的な東部沿岸のノルド王国、自由闊達な中部の五大湖、開拓心に富んだ中西部のミシシッピ中流域辺境部、やや保守的で少数派の北部のエイリーク公爵領と言うことになるだろう。
 北アスガルド大陸内では、原住民(スクレーリング)が南部湿原や北部森林地帯、そして西部大平原に依然としてかなりの数が住んでいたが、それは白い肌を持つアスガルド人にとっては、奴隷供給地、もしくはいずれは征服する予定の取るに足らない勢力でしかなかった。攻め込まないのも、奴隷供給を維持するためと、土地の多くがアスガルド人の好む農業に向いていないからだった。
 そうした中でアスガルド人の中で問題となったのが、北東部沿岸の権力者達が各地のアスガルド人に課した重税だった。
 古来より重税による搾取が国家の根幹を揺るがす例が見られたが、この時も例外ではなかった。しかも大多数となる入植地での生活を始めた人々は自主自立の精神が強く、商工業者については言うまでもない。そうした人々が権力の横暴に反感を持ち、為政者側が行きすぎた場合反旗を翻すのは古今東西どこでも見られた光景だった。
 しかもノルド王国の権力者達は、長い間一つの国家以外に選択肢がないという「伝統」に縛られすぎ、一方の辺境の人々は世界が一つではない事を知っていた。
 北東部沿岸都市群と辺境農業地帯の距離が1000キロメートル以上離れているという物理的要素も、そうした心の乖離を大きくしていた。当時の距離感や交通手段からすると、五大湖沿岸はともかくミシシッピ中流域は東海岸からあまりにも遠かった。東部から五大湖沿岸に行くにも河川と運河を使うのが一般的で、陸路は選択肢として副次的だった。ミシシッピ中流域に向かうにも、五大湖から陸路と小規模河川を経てオハイオ川に入り、そこからミシシッピ川流域各地に船で行くのが一般的だった。大型船をミシシッピ川に入れる場合などは、海をぐるっと回ってミシシッピ川を遡航した。
 無論、各地で馬が大量に飼育され、農耕、運搬、移動に活用されてはいたが、馬車が大量に往来することの出来るほど整備された道路は、東部沿岸、五大湖沿岸の一部、そして東部沿岸北部と五大湖東部を進む主要街道ぐらいしかなかった。
 北アスガルド大陸が本格的に開発されるようになって、まだ200年から300年程度しか経過していないため、ヨーロッパ中央部のような進んだ交通網にはまだ到達していなかった。状況としては、中世ヨーロッパの中部ヨーロッパ地域や同時代のロシア地域が近かった。土地の多くは、いまだ動物たちの住む深い原生林であり、人は森の主人ではなく狼や熊が支配する世界だった。場合によっては、獣より人の方が弱者となる地域すら見られた。
 こうした距離や環境の違いと問題があったため、同じ地域、同じ国という認識を持つことが世界の広がりに伴って年々難しくなっており、北東部沿岸の人々と生涯海を見ない人々の価値観、考え方は離れていった。
 そうしたところに莫大な増税とその運搬の話しが権威的な役人の来訪と共に舞い込み、一気に反発がまき起こった。

 17世紀中頃起きた辺境での反発を、当初ノルド王国の中枢は一時的なものだと考えて軽視した。自分たち以外に頼る権力と権威がない以上、いずれ従うと考えていたからだ。しかし余剰食糧すら生産できるようになっていた地域の人々は、足りない道具は五大湖商工業都市群から得れば良いと考えていた。不当な税を納める気も無く、生まれてこの方見たこともない王都に住む権力者に従うことに飽きていた。
 そして王国中枢が把握し切れていないほど爆発的に伸びていた辺境部の人口に対して、王国の政策は後手後手にまわり、事態は悪化の一途を辿った。遂には軍隊の投入による徴税という手段が取られるが、ここでも問題が発生した。
 当時アスガルド人にとっての身近な敵とは、大陸各地のスクレーリング(蛮族=原住民)だった。ヨーロッパのキリスト教徒を敵視して軍艦を多数建造しているのは、ノルド王国中枢の北東部沿岸と一部五大湖の商工業都市だけだった。しかも実際に敵を見たり敵と戦うのは、船乗りと遠くヨーロッパに派遣されるごく限られた兵士だけだった。
 一方で辺境の入植地に住む人々は、攻撃的なスクレーリングに対向するため基本的に屯田兵であり、ほぼ村々の単位で独自の武力を持っていた。辺境の村と言えば、丸太の壁で囲んで鉄砲用の狭間と物見櫓を持っているものだった。辺境伯、公爵などといった領土がわざわざ設定されていたのも、蛮族の襲撃にいち早く対応するべく作られた軍事システムとしての側面が強かった。村を治める領主も、基本的には「戦士(ヘリム)」と呼ばれる中世ヨーロッパでの騎士や日本の土豪武士に当たる責任階級だった。辺境の統治者は、人々を守る(指揮する)ことで一定の特権を享受することを住民から許された存在だった。そして開拓地域では、そうした状況が名目ではなく実質面で機能していた。多少の例外は五大湖近くの牧畜地帯で、現地では馬の数に比例して男達が騎兵となって戦う伝統が見られるようになっていた。また戦士や貴族以外の庶民も、スクレーリング以外にもどう猛な獣から身を守り、日々の生活のため狩猟を行うため、銃の扱い、馬の扱いに慣れている場合が多かった。辺境になればなるほど、その傾向は強まった。
 そしてアスガルド世界の武器や道具は、五大湖沿岸都市群が主に供給していたため、王国中枢部のある北東部沿岸とミシシッピ中流域の繋がりは低かった。16世紀に入る頃から、事実上のアスガルド人最強の陸上戦力を有するのは、ミシシッピ中流域の辺境諸侯達となっていた。
 しかも当時はヨーロッパ最新の軍事技術、軍制が、交易船などによって続々と流れ込んでいた。陸上戦力に敏感なミシシッピ中流域の人々は、現地の領主を筆頭として最新知識を積極的に軍備に取り入れていた。屯田兵の兵士としての訓練も、定期的に行われていた。大領主の中には、農閑期に領民を集めて鉄砲と槍を交えた兵団を編成して集団戦の訓練を行うものまでいた。そして大領主ともなれば、領内の人口が数十万人という場合もあり、そうした領主が動員する兵力は十分に軍隊や兵団と言えた。
 一方のノルド王国そのものは基本的に海軍重視で、ヨーロッパ最新の軍艦を熱心に建造・配備していた。また当時の帆船の規模ならば、世界一の流域面積を誇るミシシッピ川は、主流のミシシッピ川はもとよりオハイオ川など大きな支流まで入り込むことができた。このため、船に同乗する陸戦部隊の海兵こそ鍛えて揃えたが、遠征可能な陸上戦力そのものはおざなりのまま過ごしていた。王室の近衛兵ですら、基本的に海兵だったほどだ。
 加えて、王国本土は古い入植地が多く地域の開拓も進んでいるので、既に周辺には反抗的なスクレーリングが居ないことが、そうした状況に拍車をかけていた。ノルド王国本国にとっての陸軍とは、蛮族相手の辺境兵の仕事でしかなかった。
 そうした状況で、ノルド王国の徴税隊による横暴、そして厳罰として行われた拷問、私刑により死者が出ると、一気に反発が反乱へと傾いていった。
 反発は辺境の一体感を生みながら広がり、住民ばかりでなく各地の諸侯もノルド王国に対して力を用いた反発となり、当時辺境で最も多くの人口を抱えていたオハイオ侯爵領が中心となって、王国への翻意を力を用いてでも促すための運動が行われた。

 この運動に対してノルド王国中枢は、あり得ない反発だとして 強い焦りを見せ、王国への反乱だと定義して討伐軍を編成することを決定。当然ながら、王国領以外のさらなる反発と事実上の大量離反を招いた。
 そして西暦1652年、アスガルド暦602年、王国軍が東部沿岸から海を伝ってノルド川かミシシッピ川を遡上し、本国で編成された臨時の陸軍が中心となってオハイオ侯爵領へと入ると、反乱は一気に本格化する。
 「アスガルド戦争」もしくは「分裂戦争」の勃発だった。
 戦争は、当初大ノルド王国からは内乱だとされ、優れた軍艦で河川を押さえた王国軍の圧倒的有利で戦いは進んだ。というより、初期においては個々で戦う以上の力や組織を持たない辺境各地は、次々に撃破されるか戦う前に降伏や恭順を示した。侯爵や伯爵といっても、それぞれの人口は多くて30万人程度。辺境の開拓半ばの伯爵領となると数万人という事も多い。辺境最大と言われたオハイオ侯爵領でも、せいぜい50万人程度の領土となる。(※ノルウェーよりも多く、当時のアイルランドも総人口60万程度でしかないので、ヨーロッパ視点なら十分に大人口と言える。)
 中世ヨーロッパ的視点から見れば十分な人口を抱えているのだが、富の蓄積や開拓速度、辺境になると若年人口の多さのため、人口ほどの力はなかった。戦える男を根こそぎ動員しても、一人や二人の諸侯では動員できる軍事力は、王国軍に対して常に限られていた。当面の頭数が揃えられても、軍事組織がない上に、まともな武器が揃わないからだ。当然だが、巨大なミシシッピ川を遡上してきた強力な戦闘艦の一斉射撃に耐えられるような軍事施設も、初期の反抗者達は持たなかった。まともな金属手工業を持たないスクレーリングに対する防備では、それほど強固な砦や城、要塞は必要ないからだ。
 反旗を翻したとして王国の生け贄にされた形のオハイオ侯爵も、最初のうちは何度か小規模な王国軍を撃退するも、有機的に団結して戦うまでには至らなかった。当然というべきか、各領主がその場でバラバラに戦うため統率が取れなかった。そしてオハイオ侯爵は、ノルド王国中枢から「見せしめ」と考えられ、オハイオ川に本格的に押し寄せたノルド王国海軍の大艦隊と大軍を前に呆気なく敗退。領民保護を条件に降伏して、当主マグヌスは見せしめとして公開処刑されてしまう。戦争勃発からオハイオ公の敗退まで、一年もかからなかった。王国本土が事態を楽観していたのも、ある意味当然とも言える結果だった。

 しかし大規模河川から離れ場所の辺境領は、この初期の戦闘でさらに王国への反発を強める事になる。特に、納税のための距離もある西の奥地、辺境ほど反発は強かった。貨幣経済の浸透が未熟だった奥地では、一定の場所までトウモロコシや小麦などをそのまま税として納めねばならず、納める事も義務に含まれたため、納める側の負担が大きいからだ。
 オハイオ公マグヌスも、処刑されることで中原辺境の英雄に祭り上げられていた。オハイオ公の第一公子スヴェンも戦死したと偽られて奥地へと落ち延び、再起を図るべく活動に入った。初期の反乱に荷担した者達も、おのおの落ち延びてすぐにも活動を再開した。辺境の人々は、既に王国の一元的な支配に飽きており、一度の敗北程度で屈するつもりは毛頭なかった。
 そして艦船の入り込めない場所は、陸軍力の不足する王国軍も討伐に手を焼いた。当然王国軍の反応は過激になり、辺境の恨みはさらに増した。そして王国軍の横暴が各地に伝えられると辺境同士の結束も強まり、結束して戦うための組織編成も進んでいく。
 これをノルド王国軍は、権高に「反乱軍」と呼んだ。

 そうして反乱開始2年目の終わり頃、西部辺境の反乱軍に「核」ができるようになる。
 反乱軍の中で中心的役割を担ったのは、ステイグリム辺境伯領の若き領主シグルト・ステイグリムだった。彼は成人(※当時の成人は満15才)して余り時を経ていない17才で領地を引き継いだばかりだった。
 そして若さのまま反乱に荷担して敗北。辛くも生き残って再起を図っていた。だが、オハイオ侯爵領での初陣で、才能の一端を示して頭角を現していた。ノルド王国軍海兵達が、オハイオ領で反乱軍の多くを取り逃がしたのも、彼の差配(指揮)によるものだった。
 そしてその後、シグルト・ステイグリムは高い求心力と指導力を発揮していくようになる。さらに、彼の股肱の部下で伯爵領の宰相だったシモン・コルベインは、シグルトの父の代から仕える辺境一とすら言われた逸材で、辺境伯領の優れた統治で当時から名が知れ渡っていた。
 そうして、シグルトとコルベインらが中心となり、優れた部下や同士を集めて反乱軍の再編成と組織作りに努め、ノルド海軍の大型戦闘艦艇が入れない内陸部という地の利を活かして戦った。彼らが一定の力を持つようになる頃には、オハイオ公スヴェンも反乱軍に合流して旗振り頭の一人となった。
 彼ら反乱軍が初期に取った戦法は、当時一般的な密集した軍隊による戦いではなく、一種の遊撃戦と散兵戦だった。当時の軍事常識としては破天荒で奇天烈で、兵士の多くが子供の頃から猟師や馬追(牧場経営)をしているからこそ選択できた戦法と言えるものだった。またノルド兵も、海兵であるが故に集団戦は不得意だったが、それ以上に広い土地での機動的な戦いには不慣れだった。
 ノルド兵との戦いも大規模な狩猟に似ており、ノルド兵はシグルトらが率いる一部反乱軍を、「狼の群」と呼んで恐れた。そして「狼の群」は急速に巨大化し、その「獲物」も大きくなっていった。
 反乱軍の前に辺境河川にまで派遣された海兵では対処出来なくなり、反乱軍の支配領域は急速に拡大。辺境の人々が次々に合流して、組織の中に組み込まれていった。そして一定の軍事力を有するようになると、反乱討伐のため河川の奥に入り込んできた中小艦艇を中心に捕獲艦艇を手に入れて「河軍」を編成するようになる。そうした上で、強大なノルド海軍の隙を付く形で世界最大級の流域面積を誇るミシシッピ流域の制河権も次々に奪い返していった。
 なお当時のノルド海軍は、アスガルドばかりかヨーロッパどころか世界全体を含めても最強と言えるほど強大で大きな規模を誇っていた。だが、ノルド王国自身が、基本的にヨーロッパ勢力と対峙しなければならなかった。海軍についても同様だ。加えて、ミシシッピの広大な流域に戦力を展開し続ける事が難しかった。船である以上拠点が必要だが、河川の奥深くではノルド海軍にとって安心できるだけの拠点がなかった。また、河川である以上、岸からの距離の問題から簡単に敵の接近を許すような地理環境が多く、本来海を根城とする彼らには非常に居心地の悪い場所だった。場合によっては、闇夜小舟で接近されて奇襲を受ける事すらある。そして地の利は、殆どの場合反乱軍にあった。

 シグルトら反乱軍は、自らの規模が大きくなるのに合わせて、戦い方も変えていった。狩猟のような遊撃戦は依然として行われていたが、状況によっては密集体形の歩兵や騎兵の群による集団戦そのものも取り入れるようになっていった。砲兵も奪ったものを中心に編成されるようになり、いつしか三兵編成(歩兵、騎兵、砲兵の三種類)の兵団も有するようになっていった。気が付いたら、五大湖商工業都市から辺境へと、農作物などと交換で最新の武器が渡されるようになっていた。
 ノルド王国に最終的に勝利するには、大規模集団戦で勝たなければならないからだ。
 そしてシグルトらが、幾つかの中小規模の戦闘で圧倒的勝利を飾ると、中立的態度を取っていた辺境伯や入植地が続々と反乱軍に合流するようになり、戦いに勝利するたびに領土と軍事力、組織規模が拡大した。
 特に、当時入植が始まってあまり時間の経過していないミシシッピ川西岸の辺境には、西部大平原の強大なスクレーリングに対向するための精強な屯田兵部隊が多数いた。
 彼らは、王国に対して反旗を掲げていた五大湖商工業都市からの武器や道具、中原からの農作物の供給の約束を取り付けると、好戦的なスクレーリングの大部族のスー族との一時休戦を成立させて反乱軍に合流した。特に周辺の騎兵部隊を統括していた騎行将軍のエイナール男爵は、役職名通り騎馬戦で反乱前からアスガルド中に勇名を馳せており、反乱軍の士気も大いに向上した。辺境の警備と防衛を辺境に任せる(負担させる)という、ノルド王国の内政が完全に裏目に出た形だった。また同時に、拡大を続ける領土に対して旧態依然とした放漫経営が過ぎたノルド王国中枢の内政失敗でもあった。
 そしてそのツケは、巨大な形で現実となる。

●フェイズ07「建国アスガルド帝国」