●フェイズ07「建国アスガルド帝国」

 アスガルド歴605年(西暦1655年)7月4日、ミシシッピ川中流域の要地エリクソン市で「アスガルド帝国」の建国が宣言される。
 エリクソン市は反乱軍指導者となっていたシグルトの領地ステイグリム辺境伯領ではなく、シグルトの妻となったばかりのショーズヒルドの父クヌーズソン伯オーラヴが治める伯爵領の中心都市であり、西暦1654年頃から反乱軍最大の拠点となっている場所でもあった。当然だが、総人口30万を有するクヌーズソン伯領も反乱軍に加わっていた。
 新国家の国号は「王国」ではなく「帝国」とされ、「国王」ではなく「皇帝」が統治者とされたのは、最初からあまりにも多くの辺境貴族や地域が国に参加しているというのが実質面での理由だった。また名目としては、王国より上位にあるという事を新たな国民に分かりやすく説明するためであり、またノルド王国に対しての挑戦的意味合いが込められていた。このため、帝国という名を冠しているからと言って、別に膨張的だったり侵略的ではなかった。むしろ防衛的な国家であり、帝国という名も複数の国が統合された国という文化人類学上での言葉本来の意味に近かかった。
 そして新たな国と皇帝の元で属する貴族の序列も大きく変更され、貴族階級、戦士階級の位、平民の扱いについてノルド王国から完全に決別する事になる。これまでの戦闘などで武功や功績のあった者は取り立てられ、平民でも戦士階級や貴族に列せられることもあった。帝国宰相となったシモン・コルベインも、元の出自は単なる下級戦士階級だが、一気に侯爵に叙せられている。
 そして「一旗揚げたければ」という気風が、建国頃のアスガルド帝国に強くあったため、アスガルド世界で燻っていた多くの人材が帝国の元に集う事になる。
 腕一つで渡り歩く傭兵、一攫千金を狙う独立商人、腕に覚えのある鍛冶屋、上司に嫌気がさした学者の卵、神殿の停滞と腐敗を憂う神官や巫女、南の海を荒らし回っていた海賊、王国に恨みを持つ様々な階層の人々、玉の輿を狙う娼婦、自作農になることを夢見る小作農民、スクレーリングの解放奴隷、さらにはノルド王国本土を裏切って参じた貴族など、様々な人々が新たに出来た旗の下へと集った。中には、アジアからの船でアスガルドに渡った日本人の戦士(武士)や、ヨーロッパで魔女とされて故郷を追われた女性の姿まであった。日本人武士の中には、現政権の徳川政権と最後の戦い(大坂の陣)を経験したという老武士もいたと言われる。ヨーロッパからも、三十年戦争の終了で職にあぶれた傭兵達の姿もあったという。
 集った中には山師や詐欺師、扇動家、寄生虫もいたが、度を過ぎない限りは出来る限り容認され、度が過ぎた者は果断な時代を反映して容赦なく粛正もされていった。
 アスガルド世界の多くの者が、ノルド王国以外の新たな可能性に賭けたのだ。
 なお当然ではあるが、初代皇帝にはシグルト・ステイグリムがステイグリム朝の初代皇帝シグルト一世として即位した。若干二十歳の皇帝誕生だった。これをアスガルド帝国側についた現地に根ざす神官や巫女達が、新たな権威を神々の名の下に保証した。特に辺境一の賢者と謳われていたユリウス大神官の帝国への参加は、辺境のみならずアスガルド世界全体を揺るがすほどだった。
 このためラグナ教も、二つの勢力に大きく分裂することになり、アスガルド帝国は「神官総会」という最高機関を新たに設置した。
 当然、王都ヴァルハラにあるラグナ教「神殿総本部」は強く反発したが、軍事的に断絶した辺境に対して実質的に神殿が出来る事は限られていた。ヨーロッパでのキリスト教会とは違い、所詮は権力の下部組織、民衆の慰撫機関であったためだ。
 また辺境の民の心もノルド中央の神殿は汲むことが出来てなく、そうした溝と格差が当時ノルド王国本土と辺境の間に広がっていた何よりの証拠だった。そしてこの時離反した神殿の多くが、地方や辺境にあるが故に住民との繋がりが深く、権威的な中央や都市部との対立が深まっていた事も、決別に大きく影響している。

 アスガルド帝国の建国から一年以内に、ミシシッピ川流域のいまだノルド王国軍の支配が及んでいない殆どの地域が帝国に参加していった。無論全てではなく、保守的な領主、ノルド王国と繋がりの強い領主は、反発したり明らかにノルド王国側に組みする者もあった。東にいくほど王国側と呼ぶべき領主も多く、全体として自治領主、独立領主の4割近くに上ると考えられている。しかしそうした多くの領主は、民衆と心が離れている事が多かった。このため帝国軍となった反乱軍の攻撃を受けて滅ぼされたり、領地から逃げ出してノルド勢力圏に逃れたりした。また、帝国軍が脅しただけで屈する領主も少なくなかった。
 そうした混乱も、アスガルド帝国が大きな武力を持っていると分かると、最初は渋っていた領主も率先して従うようになる場合がかなり見られた。アスガルド帝国が「勝ち馬」だと目に見える形で分かってきた何よりの証拠だった。
 さらには、五大湖西部のミシガン湖近辺にあるシカゴ市などの商工業都市も、最初から帝国に加わっていた。他の五大湖商工業都市も、ノルド王国の支配が及んでいなくても協力や帰属を鮮明にするところが多く、これで北アスガルド大陸のヴァイキングの末裔達は勢力を完全に二分することになる。
 西暦1656年(アスガルド歴606年)春の時点での勢力を人口で見ると、大ノルド王国が総人口約1000万人、アスガルド帝国が約1600万人、中立状態の五大湖商工業都市群とエイリーク公爵領が合わせて約100万となる。その他、どちらの陣営にも参加できない中間地帯やアスガルド帝国に参加するのも難しい辺境、大陸西海岸のアールヴヘイム、南アスガルド大陸などに、合わせて約300万人が居住していると考えられている。スクレーリングについては、南部のチェロキー族が50万程度、西部大平原の各スー族を合わせて30万程度で、この二つが人口的な最大勢力だったが、アスガルド人の影響でようやく原始的な国家を作り始めた頃だった。
 つまり戦争はアスガルド人の数こそが全てであり、軍事技術が同程度の場合、人口の多い方が基本的に有利だった。そしてこの時点で、既に大ノルド王国が占領した辺境地域も多いし辺境のほとんどが親アスガルド帝国のため、国民として数えられる数字はアスガルド帝国が本来二倍以上の優位があった計算になる。
 しかし当時のノルド王国中枢は、辺境や内陸部の人口について詳しく把握しておらず、実数の半分程度と見ていた。これは辺境各地が、かなり前から人口を過少に報告して中央に納める税金を誤魔化していた事も影響しているが、ノルド王国の統治体制そのものが劣化している何よりの証拠でもあった。
 また、アスガルド帝国に参加した多くの地域が、入植から一世紀を経ていない地域や開拓村ばかりで、土地開発程度や社会資本の整備など、富の蓄積という点を比べると三倍以上も大ノルド王国が有利だった。工業(※手工業)生産力も、大ノルド王国が大きく勝っている。
 そうした違いは、一般的支配階層の住む家で端的に表現できた。ノルド王国の都市に住む中間層以上は、焼き煉瓦や石、瓦屋根で作った丈夫で高価な家に住んだが、アスガルド帝国は都市部の富裕層でも多くが低層の木造住宅住まいで、辺境では丸太小屋(ログハウス)という場合も多く見られた。開拓村らしい、砦内の粗末な建物に居住している事も多かった。当時から行われるようになっていた軍隊の衣装も統一される事はなく、質はともかく見た目が質素な場合が多かった。鉄砲以外の装備も刀剣よりは斧や鎚、各種槍が多かった。生産単価が刀剣よりも安いからだ。鉄砲も、軍用ではなく猟銃が主体だった。
 鎧の方は、既に金の掛かる全身甲冑を付ける時代はマスケット銃の普及で過ぎていたが、胸甲や兜など鋼鉄の立派なものを持っているのは、ほとんどの場合ノルド王国兵だった。アスガルド兵の多くは皮の衣服程度で、鎧を付けても部分的に鉄を付けた皮の鎧程度に止まっていた。マスケット銃と小剣だけをもった猟師のような格好がアスガルド帝国軍の多くを占めていた事は、当時の絵画などでも伝えられている。ノルド王国戦士の、白銀の甲冑に絹のマントと対比した姿が良く使われてもいる。
 当時のノルド王国の年代記や文献、手記にも、アスガルド帝国軍を野蛮人の群や貧乏人の群と頻繁に呼んでいた事が残されている。加えて言えば、ノルド王国は和平が成立するまでアスガルド帝国軍を反乱軍と呼び続けていた。
 ただし、五大湖商工業都市がこの頃のアスガルド全体の工業生産(当然手工業)の中心を占めており、かなりがアスガルド帝国に協力しているため、アスガルド帝国が極端に不利と言うことはなかった。

 またアスガルド帝国が人口面で大きく有利だと言っても、本当の辺境部は開拓から日が浅い地域も多いため、人口がそのまま戦力につながるわけではなかった。また領域が広いため、兵士として使える数も限られていた。このためアスガルド帝国では、志願の見習い兵に限り満年齢で12才まで対象を下げて兵士を集めていた。少年兵の殆どが今で言う見習い兵や候補生で、後方支援を担当させる為の軍属扱いだったが、特に初期の頃は兵力が不足する場合が多かったため、成人前でもかなりの数が前線での戦いにも参加した。貴族や戦士階級では、特に少年兵の志願が多かったと言われてもいる。ノルド王国が「子供の軍隊」と蔑んで大いに侮った程だった。
 兵士の中には、責任階級がほとんどだったが、女性兵士(指揮官)の姿もあったという記録がアスガルド年代記には残されている。そうした女性兵士は、神話に出てくる戦士達を戦いの野へと導く死の妖精「ヴァルキュリヤ」に見立てられ、アスガルド兵の士気の鼓舞に使われたりもしたとされる。白馬に乗り白銀の鎧と羽根飾りの付いた兜をまとった女性戦士というお伽噺上のヴァルキュリヤの姿も、この頃に誕生したと言われる。また、勝利の祈祷のため前線に赴いた神官達に混ざって、神殿の巫女(=ヴォルヴァ)もいたという記録もある。限られているとはいえ女性が戦場に姿を見せたことから、それだけ初期のアスガルド帝国は人材が不足していたと見るべきだろう。
 だが一方では、鉄砲という新たな武器については、狩猟やスクレーリングとの小競り合いが日常的なアスガルド帝国人の方が遙かに扱いに長けていた。それに、辺境での生活そのものが過酷のため、徴募された場合の兵士の質はノルド王国の方が劣っていた。アスガルド帝国人は、女子供でも銃(猟銃)や馬に長けていることが多かった。そして銃という武器は、射撃時の反動さえ何とか出来れば、体の大きさに関係なく高い殺傷力を発揮できる兵器だった。しかも遠距離から相手を倒せるので、体力や体格の問題もあまり考えなくて良いのが大きな利点だった。ヨーロッパでは時代遅れとなりつつあった騎馬銃兵(龍騎兵やカラコール騎兵)は、広大な大地での遊撃戦に使われることで王国軍にとって常に脅威となった。
 また戦闘や運搬にも使える馬の数は、生活と密着している辺境の方がずっと数が多く、その気になれば非常に多くの軍用馬を用意できた。このため、牧草(干し草)と水さえ確保できる状況ならば、軍隊全体の機動性や遠距離行動能力が大きく向上し、騎兵の数も桁違いにアスガルド帝国側が多かった。
 アスガルド帝国がとかく不利だったと言われる火薬の原料調達についても、家畜の糞尿から取る技術(※土硝方)が広く用いられたため、少なくとも量において不利となる事はなかった。

 そして何より、初代皇帝となった若きシグルト一世は、戦争の天才と言える才能を持っていた。宰相のコルベインは、現代で言うところの経済を理解した優れた実務政治家だった。また二人は組織作りと運営が非常にうまく、寄席集まりに過ぎなかった反乱軍や初期のアスガルド帝国をたった数年で組織し、そして国家として機能するように作り替え、巨大な戦争を運営できるようにしていった。だからこそ、この二人が新たな国家の中心に立ったとも言える。
 シグルト一世が戦争の天才だったのも、当人が軍略に優れていた事や可能な限り最前線に立った事よりも、優れた軍人、将軍、参謀、政治家、役人などを見つけだして適材適所につけ、彼らに縦横に手腕を振るわせたからだという説も多い。残された絵画や逸話とは裏腹に、シグルト一世が最前線で銃を撃ち剣を振るうことは実際皆無だったと言われる。彼は、近世という時代に合致した戦争指導者であり統治者だった。少なくとも、スウェーデンのグスタフ王のように、一人で馬を駈けたりはしなかった可能性が高い。
 なお、個人の能力や資質、能力とは関係ないのだが、後の世に伝わる肖像画や文章とは違い、シグルト一世の本当の姿は平凡だったと言われる事が多い。赤毛だったのは間違いないが、風にたなびく深紅の長髪はカツラか髪飾りだったと言われている。
 戯曲などでは、シグルト一世が硬派な美丈夫(美男子)でコルベインが怜悧な印象の秀才的人物とされるが、両人とも外見は取り立てて特徴がなかったと言われる。それに対してシグルト一世の妻となったショーズヒルドは、その後の皇帝家の系譜に容姿に秀でた者が多い事から、後世に伝わっている通りの見目麗しさだったと考えられている。

 一方ノルド王国だが、国王や大臣、将軍達が能力的に無能ということはなかった。本当に、後世に伝わるアスガルド帝国側の年代記やサガ通りの卑怯で無能揃いであるなら、もっと早く戦争は終結を見ていただろう。ノルド王国そのものが、滅びていたかもしれない。
 ノルド王国の苦境は、300年近く経過して権威主義的で腐敗した貴族社会と古い政治機構が主な原因だった。
 国王のエイリークソン六世は、標準的な知識と教養、見識を持つ為政者だと当時と後世双方で評価されている。無能ではないが凡庸と言われる事の多いノルド王国の将軍の中では、途中から戦争大臣に任じられたチュールソン子爵が秀でていた。彼は肥満体の中年男で、前線での武勇はほとんど無かったが、数字や経済に詳しい人物だった。彼の手腕と彼が戦争に引っ張り出した数学者、自然哲学者(科学者)、そして事務処理能力に長けた役人達無くして、ノルド王国がこの後起きる大規模な戦争を乗り切ることは出来なかっただろうと言われている。チュールソン子爵の戦争運営は、この当時のノルド王国のほとんどの人にとっては魔術や奇術に等しいほど不可思議なものだったが、戦争を運営しているのは確実に子爵達だった。国王も全幅の信頼を寄せて、子爵に多くの権限を与えている。
 このためチュールソン子爵は、迷信的な意味での魔術師だと考えられたほどだった。もっともこの場合は、キリスト教的な負の捉え方での魔術師ではない。ラグナ教もしくはノルド神話における主神といえるオーディンは、戦いの神であると同時に学者や魔法使いでもあり、魔術師という例えも政治や軍事で優れた人物に送られる一種の称号のようなものだった。そしてそうした言葉が出るほど、アスガルド戦争中盤以後は優れた戦争運営者を必要としたと言えるだろう。

 そして二つの国家又は陣営に分かれた全面戦争が本格的に始まるのだが、初期の頃は両者ともそれぞれの理由で準備不足だったため、小競り合いが主体となる。
 戦闘の規模が本格的に拡大するのは、戦争開始から6年が経過した1658年頃からとなる。その頃になると、ノルド王国が戦争にのめり込んで世界各地での勢力を減退させたため、ヨーロッパの国々がアスガルド情勢に干渉し始める。北ヨーロッパを例外として、殆どのヨーロッパ諸国にとってアスガルドは厄介で憎むべき相手だったからだ。
 異教や異端どころか古い邪教を信奉し、文字もラテン文字(アルファベット)ではなく言語も北ヨーロッパ系言語から派生した分かりにくい言葉を使っていた(※古ノルド系ルーン文字が変化したノウム・ルーン文字。言葉もノルド系言語からかなり離れていた)。それだけならまだしも、イスラム教徒並かそれ以上にカトリック系キリスト教を敵視しており、ヨーロッパ諸国による新大陸進出を常に妨害していた。世界進出でも邪魔をしており、おかげでイスパニアやポルトガルは、東アジアからも叩き出されていた。この時点では少なかったが、、海外において新教国のネーデルランドやイングランドの邪魔も頻繁に行うようになっていく。
 しかも先年は、三十年戦争に散々介入されたばかりだった。
 このため北ヨーロッパ諸国を除く海外進出能力を持つ殆どの国が、北アスガルド大陸で燃え広がりつつある巨大な戦乱に何らかの価値を見いだしていた。
 ある国は、アスガルド内を少しでも長く対立させることで、アスガルド人の海外進出を停滞させようと画策した。またある国は、アスガルド人の国力、経済力が衰えるなら、どのような手段でも講じる積もりだった。別の国は、純粋にノルド王国への恨み又は国益から、対向者であるアスガルド帝国を支援した。片方もしくは両国に援助することで、新大陸に拠点又は足がかりを得ようと動いた国もあった。商人の中には、見境無く武器や物資を売り歩いた者もいた。各教会勢力は、戦乱による荒廃こそが自分たちの教えを広める絶好の機会だと考え行動した。
 そしてヨーロピアン全体の内心としては、できるならアスガルド人そのものが大きく衰退したり、国が成り立たないぐらいの戦乱になってくれないかという思惑もあった。そうすれば、自分たちの新大陸進出がより容易になるからだ。しかしアスガルド人の人口、経済規模、そしてヨーロッパとアスガルドの距離を考えると、妄想に近いことを実感しなければならず、多くのヨーロピアンが現実的行動を選択した。
 そして事態は、三十年戦争を立場逆転したような形で推移するのだが、戦争そのものは三十年も続かなかった。
 戦争は西暦1665年(アスガルド歴615年)に決着が付き、ノルド王国がアスガルド帝国の独立を事実上認める形で決着がついた。戦争自体は西暦1652年勃発とされているので13年間続いた事になるが、激しく戦ったのは後半部分においてだった。

 戦争は、常に二つの勢力による戦いで、平原での戦闘が多く規模が徐々に大きくなっていったため、ヨーロッパ諸国はそのうちまともに支援が出来なくなった。漁夫の利を狙った干渉や出兵、さらには領土の獲得といった事は、北アスガルド大陸に対しては全くできなかった。若干数の傭兵や、北ヨーロッパから派遣された観戦武官、軍事顧問が海を渡った程度だった。物好きと言える者の中には、キリスト教世界を棄ててアスガルド帝国に参加した者もあった。
 戦乱の規模は、勃発当初は100名単位、大規模でも数千名単位での戦いが主体だった。これは主にアスガルド帝国が組織面で大軍運用能力に欠け、ノルド王国は海兵隊以外のまともな陸上戦力そのものがなかったためだった。加えて、両国の有する領土が広すぎるため、軍隊がいくらいても足りないと言う状況が横たわっていた。
 しかし、アスガルド帝国が辺境領土の寄り集まりから一つの国として運営されるようになってからは、1万人から3万人規模の軍勢を編成するようになる。陸軍力をおざなりにしていたノルド王国側も、徐々に陸軍の整備に力を入れ、ほぼ同規模で軍団の規模を拡大していった。そして似たような規模、質による戦闘が頻発するようになったため、一つの戦闘で勝ち負けが発生しても全体の結果としては影響は少なかった。この時期の軍隊規模に対して国家経済の戦争継続能力の方が高かった事と、戦争を行う領域そのものが各地に分散されていたため、毎月のようにどこかで戦闘が起きて、季節に一度は数万人単位の大規模な会戦が発生した。大規模な会戦では、ヨーロッパの三十年戦争同様の兵器と戦術が一般的に用いられ、方陣を組んだ巨大な兵団がぶつかり合った。
 そして戦争が大規模化した1658年頃からの戦いでは、片方の軍団の規模は10万人の単位に乗る事が毎年のように起きた。軍事組織、戦闘集団の規模が、ようやく国力と領土に追いついてきた結果だった。アスガルド帝国軍でも、1660年代になると統一された衣装が何とか支給されるようになっていた。
 そして規模が大きくなると、国民の多くが屯田兵や入植者だったアスガルド側が、兵士の質の面としての優位を活用するようになる。戦争初期に少年兵だった者も、生き残った者は戦争最盛期にはちょうど良い年頃の熟練兵になった。抜擢人事が一般的だった建国頃のアスガルド帝国軍では、元の出自が貴族や豪族以外でも二十歳前後の将軍までが出現した。この戦争でのアスガルド帝国ほど、若い世代の軍指揮官が多かった事は希だろう。大貴族レイヴソン公爵家のロロ公子や、美丈夫でも知られたヴォルソン将軍などがその典型だろう。猛将を謳われたエイナール男爵(その後侯爵)家のマグヌス将軍も、講和時点で二十代後半でしかなかった。現代に比べて寿命が短い時代だったとは言え、やはり若い世代が非常に多かった。

 そして西暦1660年代に入ると、アスガルド帝国軍が各地の戦場で勝利する事が増えた。
 戦争前にノルド王国が占領した辺境領や入植地も次々に開放され、アスガルド帝国に参加した。この頃には、五大湖商工業都市の殆どがアスガルド帝国を支援するようになる。
 そして追い風を受けるアスガルド帝国は、戦争を行いつつ国家制度の整備を押し進めた。この中で遷都が実施され、首都エリクソンは「興りの都」として過去に置かれ、新たにミシガン湖南端のシカゴ市を改名し、「フリズスキャールヴ」と名付け新たな帝都とした。ちなみにフリズスキャールヴの語源は、ノルド神話(ラグナ教)での主神オーディンが座る椅子の事を指す。ノルド王国の王都ヴァルハラより上だという、背伸びした命名だったと言えるだろう。
 そして前向きな遷都で意気上がるアスガルド帝国軍はさらに攻勢を強め、戦争開始前にノルド王国軍の進入を受けた地域の多くを「奪回」した。実質的な始まりの地となったオハイオ侯爵領も、遂に全てが奪回された。つまりノルド王国は、「本国」しか残さないまでに追いつめられる事となる。兵力動員数も、完全にアスガルド帝国が上回るようになっていた。
 このため窮地に立ったノルド王国は、南部の有力なスクレーリングだった南部チェロキーの大部族と、技術供与と一部領土返還を条件とした同盟を結んで戦争を継続しようとした。
 これは数年前に北部のエイリーク公爵領が、事実上の中立宣言を出したことが影響していた。人口希薄な同地域をヨーロピアンから防衛するために、アスガルド人全体として必要な措置だったため両者から受け入れられたのだが、このため両国は北方から敵を迂回攻撃する事が事実上出来なくなった。
 そこでノルド王国は、南部からのアスガルドの攻撃に備えるため、もしくは南からの侵攻もしくは牽制を行うため、チェロキー族を使うことにしたのだ。思惑としては、後者の方が比重が大きかっただろう。
 だがこの頃のアスガルド帝国は既に2000万の人口を抱えるまでに拡大しており、軍隊の総数も後先を考えず根こそぎ動員を行えば、100万という当時としては途方もない数が見えていた。実際、30万人近い兵士がこの当時存在していた。半数近くがそれぞれの地域の防衛用だったが、残り半数は北アスガルドの大地を活発に歩き回っていた。総人口に対して兵員数が限られていたのは、黒土が広すぎることと、戦費が追いつかなくなっていたためだ。
 そしてノルド王国にとって苦肉の策だったチェロキー族懐柔だったが、当時のチェロキー族程度の人口規模では、巨大農業国家であるアスガルドの大人口に対向する事は既に不可能となっていた。牽制どころか防波堤の代わりにもならずに、ほとんど一撃で粉砕された。それまで中立だったから見逃されていたチェロキー族は、呆気なく蹂躙されることになった。そしてアスガルド帝国の大軍は、地形障害(湿地など)に苦労しながらもノルド王国の南部を囲むことに成功する。
 だが、アスガルド帝国軍は2年以上もチェロキー討伐と平定に時間を割かざるを得ず、ノルド王国側としては多少なりとも時間を稼いだので、それなりに評価された。原住民達は、巨大化した白人国家の犠牲者でしかなかった。

 チェロキー壊滅後の西暦1664年9月、事実上最後の決戦となる「ラールステンの戦い」で、ノルド王国軍は決定的な戦いにおいて大敗を喫する。
 「ラールステンの戦い」では、帝国軍24万、王国軍17万と帝国軍が圧倒的に優勢だった。そしてこの大戦力が、双方の都の中間近く、ノルド王国領内に少し入った台地上の地形に展開した。ノルド王国にとっては、ここで負ければ国家の中枢である北東部沿岸都市が丸裸にされる。帝国軍は、既に戦費と動員が限界に達しており、ここで勝たなければ中途半端な講和を自ら求めなければならなかった。
 この戦いは、アスガルド帝国軍が誘う形で大軍を集めて進軍し、乗らざるを得ないノルド王国が集められる限りの兵士を集めた結果だった。故に、この戦いは「決戦」となった。
 戦場は、数十万の大軍が十分な機動を行うには不十分な地形で、北西には五大湖の一つエリー湖があり、南東部は森林の生い茂る広大な台地が広がっていた。しかも王国は本国手前の最後の防衛線のため、動くに動けなかった。
 このため戦いは、大軍同士の正面決戦となった。双方の総指揮官にも皇帝と国王が立ち、17世紀最大規模の戦闘となる。同種の戦いとして、日本の「関ヶ原の戦い」を持ち出す研究家もあるが、規模において2倍以上、鉄砲装備率は日本での方が多かったが大砲、騎兵の数ではアスガルドの戦いの方がずっと多く、規模を10倍にしたヨーロッパでの戦いの方が似ていると言える。
 この頃のアスガルドでの戦いは、総指揮官の大将軍(元帥)が戦場全体を統括して指示を与え、将軍などの各指揮官がそれぞれ軍団や兵団(数千から1万程度)を指揮する形を取っていた。通信伝達手段が馬と徒歩、遠距離を確認する手段が初期的な望遠鏡しかない時代では、一人の総指揮官が全てを指揮することは不可能だったからだ。このため両陣営は伝令網の整備に力を入れ、総指揮官は将軍達をいかに巧く使いこなすかが戦場では求められた。そして個性と能力ではアスガルド帝国軍が、統率と服従ではノルド王国軍が勝っていた。ここれはそのまま戦闘にも反映され、攻撃の帝国軍、防御の王国軍という事になる。

 そして両国の国家元首が大将軍となったこの戦いでは、戦闘開始当初は双方の前衛がぶつかり合う、ありきたりな戦いとなった。騎兵を迂回突破させる場所も地形もなく、砲兵を有利に展開できる場もなかったし、十万の規模同士となると砲兵の優位も局所以上の効果はなかった。この戦いでのアスガルド帝国軍など、各将軍が指揮する軍団の数だけで、30近くにも及んでいたのだ。
 戦闘は午前10時頃から始まるが、そのまま正面で双方合わせて十万人以上の戦力が銃と槍でただ潰し合う戦闘が3時間が経過するも、あまり変化はなかった。しかし徐々に兵力差が影響し、数に勝る帝国軍が押し始める。そこで帝国軍は、戦線中央部に対して予備兵力を投入。次は予備兵力の投入合戦となり、戦線中央は互いの大軍がひしめきあって完全に膠着。この時点で既に午後3時で、王国軍側には今日の戦闘はこのまま終わるという雰囲気が出始めていた。最初から戦っている将兵は、既に疲労困憊と言える状態だった。
 だが少しの油断から王国軍左翼にほころびが見え、ここに帝国軍は既に展開していた分に加えて予備の騎兵、しかも最精鋭の騎行兵団を投入。約1万3000騎もの大騎兵集団が、まずは防戦に出てきた目の前の大きく数の劣る王国軍騎兵を蹴散らし、そのまま王国軍左翼へと突進。その後一気に戦場を旋回して、王国軍主力部隊に対して突撃を敢行した。
 これで王国軍左翼が崩れ、混乱が波及した中央でも乱れが見えた。特に王国軍にとって痛かったのは、砲兵隊の一翼が騎兵への対応が遅れて完全に蹂躙された事だった。しかも遺棄された砲の半分以上がそのまま追いついたアスガルド兵(歩兵、砲兵)により運用され、自らの砲が王国軍に降り注いだ。
 この機に帝国軍は、さらなる予備兵力、中央部に待機していた近衛重騎兵隊を突撃させ、完全な戦線突破に成功する。
 これで勝敗は完全につき、ノルド王国軍のエイリークソン六世は全軍に後退を命令。アスガルド帝国軍は、夕闇の迫る中の追撃戦に移った。
 王国軍本陣は殿のおかげで辛うじて待避に成功するも、王国軍の三分の二が包囲殲滅されて崩れ去り、日が完全に落ちるまで続いた追撃戦を最後として、最低でも数日間は続くと予測された戦いは一日で決する。
 王国軍の戦死者、捕虜合わせて10万以上という歴史的な大敗であり、軍主力の半数を失ったため残りも士気が崩れていた。負傷者を含めると、その損害は全軍の三分の二にも達した。
 なお、1日でケリがついた事も、この戦いが日本の「関ヶ原の戦い」と比較される理由であることを追記しておこう。

 その後王国軍は体制を立て直すことも出来ず、4日間で戦場から100キロ以上後退した。この段階でノルド王国のエイリークソン六世は、今まで反乱軍と呼んでいた帝国軍を、正式に「帝国軍」と呼びかけた上で停戦と和平を求める事になる。つまり、自ら敗北と独立の二つを同時に認めたのだ。
 一方勝利した帝国軍も、戦いで1万5000人の戦死者と4万人の負傷者を出した上、既に戦費が底をついていた。このため、ノルド王国の名誉ある停戦と和平への呼びかけに応えることを決定した。帝国軍の一部には、王都を落としてアスガルド世界を事実上統一してしまうべきだという強硬意見もあったが、シグルト一世は和平を是とした。
 なお、アスガルド帝国が和平を是とした戦費以外での理由は、これ以後の戦いは相手側の国土防衛戦となるため、戦争に手間が掛かる可能性が高かったという要素が大きかったからだ。決戦勝利に伴う戦争全般の攻守逆転の状況が、アスガルド帝国に和平を求めさせたとも言えるだろう。
 そしてエイリークソン六世とシグルト一世の初の会見が行われ、ノルド王国がアスガルド帝国の独立承認を最低条件とする事で、停戦と暫定的な和平の成立が宣言された。
 なお正式な講和会議は翌年の1665年春に開催され、停戦ラインの近くにあったエリー湖畔の自由都市ソルベルグ市で「ソルベルグ会議」として行われる。
 この会議によりアスガルド帝国は正式に独立を承認され、両者の国境線が確定された。それに加えて、メヒコ以南のアスガルド大陸沿岸を除く大東洋利権全ての譲渡も行われ、これをノルドからアスガルドに対する賠償とされた。
 また同会議では、五大湖商工業都市群の有力都市が、そのまま自由都市として認められた。この背景には、中立を貫くことで事実上の独立を果たしたエイリーク公爵領と、当時のアスガルド人の考えが影響していた。これ以後エイリーク公国と言われる地域と五大湖商工業都市群が隣接しているため、今後も混乱が予測される二大国が手を出せない緩衝地帯、中立地域が必要だと多くのアスガルド人が考えた末の結果だったからだ。
 戦争がこの段階で終わったのも、このまま戦乱を続けてどちらかが完全に勝利するまで行っていたら、必ずヨーロッパからの大規模な干渉を受けて、アスガルド人そのものが大きな損害と脅威を受けるようになると言う認識があったためだった。
 そう思わせるほど、終戦頃のヨーロピアンによる海での蠢動が激しくなっていた。

●フェイズ08「ヨーロッパでの変化と海賊の時代」