■フェイズ10「産業革命開始以前の世界情勢」

 「産業の革新」とも言われる大変化は18世紀末頃に始まり、それ以後を近代、それ以前を近世と区分することが多い。そして18世紀は近世的文明が最も発展した時代であり、また近世もしくは前近代という時代が限界もしくは飽和点に達した時代でもあった。
 特に人口拡大の進展が、世界各地の多くの統治体制に大きな重荷を背負わせるか、変革を求める切っ掛けとなった。
 人口拡大を助長したのは、ヨーロッパ世界が発明(正確には改良)した、いわゆる「帆船」と「羅針盤」が一番の切っ掛けとなった。二つの要素によって世界の距離が一挙に縮まり、それまで世界から孤立していた三つの大陸が「発見」されることになった。三つのうち二つは南北アスガルド大陸であり、次の変化はこの大陸から世界各地に送り出された独自の農作物が担った。
 パタタ芋、カモテ芋、トウモロコシ、この三つの作物が最も偉大で大きな影響力を発揮した。単に救荒作物として飢饉を防ぐようになったばかりでなく、それぞれの理由によりたくさんの人間を新たに養うことを可能としたからだ。
 トウモロコシは、栽培さえうまくいけば1粒から1000粒(実際はそれ以上)が収穫されるという夢のような作物で、北アスガルド大陸中原では古来からの最重要の穀物で、穀物の代名詞だった。アスガルド人もその偉大さを認め、特に黄金色のトウモロコシが好まれ豊穣の神フレイの代名詞とされた。この頃も、アスガルド大陸で栽培される代表的穀物であり、アスガルド人の主食に上り詰めていた。アスガルド人にとってのパンといえば、トウモロコシを原料とするものとなるほどだ。アスガルド帝国の順調すぎる人口拡大も、トウモロコシあればこそだった。
 比較的温暖な土地で育つカモテ芋により、清朝として安定している中華世界では、それまでの五割り増し近く多い大人口が養われるようになった。同時に東アジア、大東洋地域の人口も激増した。日本の江戸幕府の拡大も、カモテ芋が無ければ規模を小さくしていたと言われる。赤道地域の食料生産地図も、カモテ芋が大きく書き換えている。
 パタタ芋は、もともとアンデス山脈の高原地帯で数千年かけて品種改良が重ねられた作物のため、寒冷で貧しい土地での栽培に適していた。病気に弱い一面もあったが、一年に何度も収穫できるため、主にヨーロッパの寒冷で地力の貧弱な地域の農業生産を劇的に変化させた。17世紀初頭にスウェーデンが短期間で強大化したのも、パタタ芋が大きな役割を果たしていた。パタタ芋と乳製品と言えば、今では北ヨーロッパの定番料理の材料だ。アスガルド世界でも、寒冷地の食べ物といえばパタタ芋と乳製品である。エイリーク王国では、国民食として親しまれている。
 無論、北ヨーロッパ南部を発祥とする農業改革など、世界各地での農業の進展もあるが、新大陸発祥の作物の存在を無視することはできない。
 そして人口の拡大が良性に働いたのが、アスガルド、ヨーロッパ、日本であり、それぞれの地域は地球各地に進出して勢力を拡大していた。

 ヨーロッパ系白人の一派であるアスガルド人は、14世紀以後南北アスガルド大陸にキリスト教を自ら排除した独自の世界を構築し、南北アスガルド大陸に完全にアスガルド人の領域となっていた。同地域には、アスガルド人がスクレーリングと呼ぶ褐色の肌を持つ先住民族が多数住んでいたのだが、彼らはユーラシア大陸由来の疫病で大打撃を受けたところをアスガルド人の進出もしくは侵略を受け、一瞬にして被征服側へと追いやられていた。最終的には国家(部族社会)も失われ、言葉、単位、価値観すらもアスガルド人から押しつけられていた。
 エーギル海に広がる島々は、サトウキビ、煙草、カカオなどの単品作物の生産地帯とされた。サトウキビ栽培は南アスガルド大陸のムスペルヘイムの大密林沿岸沿いにも徐々に広がりつつあった。近世に至るまで贅沢の象徴だった「甘味」に対する世界的需要、特にアスガルドとヨーロッパでの需要が、この地域の開発を促していた。無論富の殆どを得るのは、現地を植民地としているアスガルド人、とりわけノルド王国人だった。
 また南アスガルド大陸は、ほぼ全土がノルド王国領だった。エーギル海の一部と南アスガルド大陸の一部にアスガルド帝国領が存在したが、ヨーロピアンによる領有はついに叶わなかった。
 そしてこの地域は「ノウム・ノルド副王領」と呼ばれ、メヒコ、エーギル、ムスペルヘイム、アンデス、アルゼンチンの大きく5つの副王領に分けて統治されていた。
 メヒコとアンデスでは銀鉱山が重視され、エーギル海では砂糖と煙草、ムスペルヘイムは沿岸部での砂糖生産が行われた。しかし18世紀初頭、ムスペルヘイム南部の高原地帯で巨大な金鉱とダイヤモンド鉱山が発見される。それまでムスペルヘイは、現地スクレーリングが農業を知らないような遅れた民族ばかりだったため、経済的価値を殆ど認められていなかった。砂糖を生産しているのも、他の地域から連れてこられた農業を知っているスクレーリング奴隷だった。しかし奥地を探検中に、相次いで金鉱とダイヤモンド鉱山が発見される。この探検は、アンデスでの銀の産出量が落ちたことで行われた政策で、その政策が運と努力の結果、実を結んだ事になる。
 同地域は「アウルン・ゲンマ(ラテン語で金と宝石の意味)」と名付けられ、約100年の間に1000トンもの金と300万カラットものダイヤモンドが採掘されることになる。この巨大な財産は、ノルド王国にとって自国の資本主義、産業開発を行うための貴重な収入源となり、アスガルド帝国分裂後の落ち込みから完全には抜け出せないでいた状況を打破するための大きな起爆剤となっている。
 そしてラテン語で「銀」を意味するアルゼンチンは、アンデスからの銀の積み出し場所の一つとして港湾が発展したのだが、場所が温帯地域であるため入植地としても重視された。
 実際18世紀になると、多くのノルド系アスガルド人が移民するようになり、人口的にも副王領に相応しい場所へと発展していった。またノルド人にとっての南アスガルド最大の拠点としても徐々に重視されるようになり、移民の幅もノルド王国以外のアスガルド人も認められるようになっていった。
 一方で広大な植民地に住む原住民のスクレーリングについては、初期においては多くが奴隷として強制労働に従事させていたが、18世紀に入る頃には準国民もしくは二級市民として支配体型に組み込む流れが作られるようになっていた。
 この背景には、初期の疫病による壊滅から徐々に立ち直り、人口がある程度回復していたことが挙げられる。小数で多数を支配するには奴隷制度は不利益が多くなったため、扱いを多少改善することにしたのだった。またアスガルド人とスクレーリングの混血であるミッドガルドも一定数見られるようになっていたことも、扱いが変化した要因の一つだった。アスガルド人が、スクレーリングに「慣れた」事での心理的変化も大きい。
 しかしアスガルド人は、スクレーリングの中に差別を設け、アスガルド人とスクレーリング一般との間に立つ階級社会を設定する。この階級にはミッドガルド人がかなり用いられたが、純粋なスクレーリングも使われ、そうした自分たちの下で支配階層支える人々のことを「亜人」という意味を込めて神話に出てくる小人を意味する「ドヴェルグ」と呼んだ。またスクレーリングの中でも優秀な者には、優れた教育を与えて自国の支配構造に利用してもいる。
 そうして世界的に見ても比較的優れた植民地統治を実施するようになったため、ソルフルーメン川以南の南北アスガルド大陸は言語、文字、単位をアスガルド人のものに染め上げられたといえるだろう。

 一方アスガルド帝国は、北アスガルド大陸中部、北西部の開発と入植を熱心に行っていたため、海外植民地はあまり保有していなかった。する必要があまりなかったし、多くの努力を国内である北アスガルド大陸に注ぎ込んでいたためだ。
 ほぼ唯一の植民地が、ノルド王国がイスパニアから独立時に賠償として奪い取った、東南アジア北部にあるフレニア諸島だった。この場所は、日本人、漢人との交易のために保有された場所といってよく、入植地として用いられることはほとんど無かった。アスガルド人はほとんどがマニラに滞在し、娼館などで生まれたフレニア人とのハーフであるミッドガルドが一定数増えたのが人種面での変化だった。
 アスガルドがフレニアの開発に本腰を入れ始めるのは、18世紀中頃からだった。これは日本が自国内で優れた絹を生産するようになったため、東アジアの国際商品としての中華地域の絹の価値が低くなり、しかも中華地域の清朝は基本的に海禁(鎖国)政策を取っているため、日本との貿易が大きく落ち込んだためだった。砂糖の生産や輸出に関しても、日本人が多くを自力で得るようになったことも、情勢の変化に大きく作用している。
 ただし、日本が自国植民地各地で見つけた金により、銀よりも金を貨幣として重視し、アスガルド帝国も豊富な金を新たな鉱山から得ていた事が重なり、両者の間での取引がやりやすかったので、アスガルド帝国商人としては可能な限り日本との貿易を拡大傾向で続けたがった。当時はヨーロッパ世界、中華世界が共に銀による取引が主軸であり、大きな商業圏を持つ国や地域で金に重きを置くのは、日本の江戸幕府とアスガルド帝国ぐらいしかなかったのだ。だが金は最も希少な金属の一つであるため、世界貿易に対しても金を多数有するアスガルド帝国と日本の江戸幕府は、世界経済で優位を占め続けることが出来た。
 そしてこの時期のアスガルドは、日本人からお茶と陶磁器、日本刀を大量に購入していた。18世紀も後半になると、醤油など保存可能な加工品も輸出されるようになった。しかも18世紀全般にわたり、アスガルドでは日本の工芸品、芸術品が陶磁器と共に重宝されたため、日本との貿易は大きな赤字となっていた。実戦向きの日本刀を持つことは、アスガルド帝国の戦士階級にとっては一種のステイタスとなっていたりもする。
 アスガルド帝国本土からも色々と輸出されてはいたが、高級品が少ないための貿易赤字だった。このため日本の新たな砂糖生産地帯よりも近い場所にあるフレニアでサトウキビを栽培し、それを主にお茶と陶磁器の代価とした。ただし、砂糖は日本人も近在でせっせと栽培するようになったので価値がやや下がり、砂糖以外の南方で作る事が出来る物産をフレニアで作り、それをせっせと日本列島に持ち込んだ。南洋果実の一部が最初に日本列島に持ち込まれたのも、18世紀中頃の事だった。加えて17世紀半ば以後は、日本で不足するようになった木材資源も日本に輸出された。南方特産の高級木材は、贅沢が一般化していた日本で大いに需要があった。
 また、フレニアを拠点として、日本以外の鎖国政策をしていない国々との間の貿易も徐々に拡大していくようになる。
 そうして開拓者の国だったアスガルド帝国も、商業と外交の経験値を増やしていった。

 一方、アスガルド帝国との関係を深めていた日本の江戸幕府だったが、17世紀後半から商業以外での海外進出を徐々に行うようになっていた。
 まずは近在の蝦夷島、台湾などへの初期的な進出や入植が行われ、それぞれの地域から日本で不足する木材資源が取得され、森林が伐採された平地は余り始めていた人口の吐き出し地とされるようになっていった。
 18世紀に入ると、自国内での絹産業の発展に伴い清朝からの絹の輸入が徐々に減少し、逆に世情が安定した清朝への海産物の乾物の輸出が大きく伸びていた。そして海産物確保のを主な目的として北氷海へ進出し、そして現地の沿岸部で金鉱を見つけることで大きな移民が実施された。また北方で取れる毛皮が国内ばかりかアスガルド人、さらにはヨーロッパ人にも重宝されたため猟場の拡大が進められ、サハ地方の奥地で同じ目的で東に進んできたロシア人と出会うことが増えた。
 サハ内陸部では日本人の数が基本的に多いため、ロシア人(主にコサック)は徐々に東に来ることができなくなって、その分日本人が西に進んだ。ただサハ地方を中心とするユーラシア大陸北東端部は人の居住に向いた場所ではないため、何らかの物産取得を目的とした人々だけが住むに過ぎなかった。
 そうして18世紀中頃に日本人に注目されるようになったのが、世界最後の手つかずの大陸だった。
 南太平洋とインド洋の間にある大陸の事は、17世紀中頃に日本人にも確認されていた。だが、当時はヨーロッパ人もアスガルド人も不毛な大地として関心を示さず、僅かな数の原住民以外で人は住んではいなかった。日本人も例外ではなく、取りあえず発見した証拠となる動植物を採取し、自分たちが到達した証を幾つか置いたに過ぎない。
 大陸の名については、1642年にネーデルランドのタスマンが発見した「テラ・アウストラリス」、オランダ名「ニュー・オランダ」とその近在の島(ファン・デ・イーメンスランド=タスマニア島)、さらにニューゼーランド(=ニュージーランド)の名をそのまま自分たちの言語に改名して流用することにした。このため日本人達は、乾いた南の大陸の方を「豪州大陸」、ニュー・ゼーランドについても「新海諸島」と定めた。
 その他、南太平洋に点在する島々についても幾つか確認が行われ、時折物好きな日本商人が鉄製品や陶磁器、武器などの道具を売りに出かけ、その対価として南方の珍しい物産を日本に持ち帰った。アボリジニの工芸品は、元禄時代の日本で大変重宝された工芸品の一つだった。
 そして珍しい場所という以上の価値が見いだされるようになったのは、18世紀に入ってからだった。
 しかしその価値とは、遠流つまり流刑地としてだった。
 日本でも帆船による移動技術が発達したため、日本近在の島程度では流刑地足り得なくなっていた。また、それまで流刑地とされていた北の大地もそれなりに開発が進んだため、現地の人間が犯罪者が送られれてくる事を嫌うようになっていた。中部大東洋の島々や東南アジア地域についても同様だった。このため五代将軍徳川綱吉の頃に、最初の流刑者の群と流刑地を運営する役人、護衛の武士(兵士)が豪州大陸南東部の一角に上陸した。
 これが日本人による豪州植民の始まりであり、以後半世紀近く流刑地としての植民地開発が進む。この豪州流刑地では開拓による減刑が実施され、日本との距離の問題もあって刑期を終えた後もそのまま住み着く者も現れ、そうした人々から子孫を残す形での恒久的な入植地の建設に対する要望が増えた。
 そして八代将軍徳川吉宗は、遂に本格的な豪州大陸開発に着手する。これは日本列島内での人口飽和がいよいよ深刻さを増した事、都市に流れ込む流民状態の農民が増えすぎた事への対策でもあった。
 幕府は、都市部に流入していた農地を棄てた農民と、武士、農民を問わず、継ぐべきもののない次男坊、三男坊、同様の女性を集めて移民団を編成し、計画的に豪州大陸へと送り込むようになる。農地を棄てた農民に対しては、ほとんど犯罪者として強制的に移民に送り出した。
 そしてこの時期(18世紀中頃)、豪州大陸で大量の金が見つかった事で黄金活況が起きる。当然、移民者の数は一気に増え、以後一つの社会を形成できるまでに豪州が発展していくようになる。
 新海諸島での移民と開拓は、豪州での移民と開拓が一定段階を過ぎて以後で、18世紀末に最初の移民団が気候が温暖な北島に上陸している。

 また当時(18世紀中頃)の日本人達は、マラッカ海峡、スンダ海峡を押さえて東アジア交易の覇権を握っていた。ライバルとして中華系商人達が居たのだが、彼らは17世紀中頃の明清革命で勢いを落とし、その後も清朝の海禁政策で進出を抑制された。その上日本人のようにヨーロピアン式の外航洋帆船を有しなかったため、日本船との運搬料競争に敗北した。各地に進出した日本人に数でも圧倒されるようになり、終始劣勢のままだった。イスラム商人、インド商人は、日本人よりもヨーロピアンとのインド洋での競争で敗北して衰退し、東アジアにやって来るのは一部のヨーロピアンだけとなっていた。
 かつてはスンダ諸島のかなりの場所がヨーロピアンの占領地や植民地だったのだが、16世紀末頃から一世紀の間にアスガルド人の反キリスト教運動で多くが駆逐され、その前後に商業進出した日本人達に数で圧倒され退かざるを得なかった。
 このためヨーロピアン達は、マラッカ海峡のシンガプーラ島やジャワ島のジャカルタなどで主に日本商人から香辛料を買い付け、一部が許可を得て東アジアに入って中華地域のお茶と陶磁器を購入した。お茶と陶磁器は日本人も生産し、陶磁器については日本人も多数をヨーロッパに輸出していた。しかし黒茶(=紅茶)などの発酵させたお茶の栽培、製造を日本はほとんど行わなかったし、東南アジアの一部で生産したものも、あまりヨーロピアンからは好まれなかった。このためヨーロピアンは、日本と中華二つの地域から違う商品を買い付けてヨーロッパへと帰っていった。

 そしてそのヨーロピアンだが、東アジア世界、大東洋、そしてアスガルド大陸では完全な部外者であり、極めて少数派だった。特にカトリック教徒とキリスト教系のあらゆる宗教者は、18世紀に入るまでほぼ完全に排除されていた。やって来るのも商人に限られ、軍艦も親書や国書を携えた船以外の軍用艦の通行をほとんど許されなかった。この傾向は南北アスガルド大陸で特に強く、アスガルドに入れる船は、アスガルド人と同根民族であるスカンディナビア系の人々が造った船だけだった。旗などで嘘を付いた事がばれると、殆どの場合は戦闘相手ではなく犯罪者として処分された。カトリック系宣教師が密航などの後で見つかった場合、最初は体に刻印を焼き付けた上でヨーロッパに強制送還され、刻印者が再び来航した場合は無条件で死罪とした。即死罪としなかったのも、ヨーロッパ社会との貿易を維持するために、ヨーロッパ側の感情を最低限考慮したためだった。接触初期の頃と違い、アスガルド人もその程度には寛容になっていた。
 しかし東アジアを除くユーラシア大陸の全域とアフリカは、ヨーロピアンの勢力圏であり領域だった。
 無論アジアの各地には、いまだイスラムやインドの国々が存在していた。アフリカにも幾つか文明的に遅れているとされる先住民の国々があり、何より土着の疫病の存在がヨーロピアンの進出を拒んでいた。
 だがヨーロピアンには、鉄、火薬を用いた高度な武器があり、帆船という移動手段があり、それらを生産、供給できるだけの高度な社会が存在していた。
 アフリカ大陸沿岸各地には各国の植民地が開かれ、武器や道具を売って得た膨大な量の奴隷を使った単品栽培が行われていた。ヨーロッパ世界が必要とする南方の物産の多くが、そうして生産された。またアフリカ南端部のケープは、アフリカ南部で唯一の温帯地域のためヨーロピアンの入植が積極的に行われていた。この地の所有者は初期においてはイスパニアだったが、17世紀半ばにネーデルランドに代わり、ネーデルランドの統治が続く中でネーデルランドを始めヨーロッパ各地から移民が少しずつ流れていた。またネーデルランドは、インド南端のセイロン島を有し続け、アジア交易で一番の勢力を持っていた。
 しかし他の国も負けてはおらず、フランス、イングランド、スウェーデン(大ヴァルト帝国)、古くはイスパニア、ポルトガルが、アフリカ沿岸や近在の島嶼にそれぞれ植民地を構えていた。そして前者4つの国は盛んにインドへの進出を強化し、中でもフランスとネーデルランドが大きな橋頭堡を築きつつあった。
 イングランドは近在のスコットランド、アイルランドとの対立がいまだに消えず、アスガルド人も嫌がらせのような妨害活動を行うため、海外進出に常に足かせがついたままだった。ネーデルランド、フランス、スウェーデンとの進出競争でも常に劣勢だった。
 スウェーデンは大ヴァルト帝国を作ったまではよかったのだが、ドイツ域内での新教・旧教の対立とポーランド分割問題、さらには東のロシアとの対立に国力の多くを取られ、ロシア、オーストリアとの三竦み状態に陥っていた。しかもドイツ域内で広がる大ドイツ主義の拡大に伴い、国としての努力を内政に多く費やさねばならなかった。オーストリアは内陸国家であり、国内に民族問題を抱えているため、外への進出ができないでいた。ロシアは黒海を目指した進出を達成したが、シベリアの向こうにあるサハ地方以東にいる日本人のため、大東洋進出には完全に失敗していた。

 そうしてインド進出競争は、イスパニア脱落以後はネーデルランドとフランスの一騎打ちに近くなったのだが、情勢は年々フランス優位に動いていた。
 基本的にネーデルランドは、商業が盛んながら人口、領土面で規模の限られた国だった。独立以後も南ネーデルランドの東部、ドイツ地域の北西部の幾らかを国土もしくは勢力圏としたが、ロシア以外で最大級の農業大国であり大人口を抱えるフランスを前にすると、単純な国力差、軍事力の差で太刀打ちできなかった。
 海では勝てるのだが、国境を接するためどうしてもフランスに一歩及ばない状態が続いた。
 この傾向は「イスパニア継承戦争」でイスパニアの没落が決定的となるとむしろ大きくなり、ネーデルランドはスウェーデンと共にドイツ蚕食に努めると共に、連携を取る向きを強めていく事になる。しかし「オーストリア継承戦争」では、スウェーデンはほとんど中立を貫いて北ドイツ東部の地固めに走ったため、オーストリアが勝利してネーデルランドは敗者の側に立たされる。このため今度は、オーストリアからもネーデルランドは圧力を受けるようになる。しかしスウェーデンは、既に自らも近年女王を仰いでいたので、オーストリアのマリア・テレジアに対して多少同情的だったという、既に老齢だったカール12世の個人的感情があったことを忘れてはいけないだろう。
 その後ネーデルランドは、「オーストリア継承戦争」中に解消したスウェーデンとの関係を再び強化して巻き返しを計るが、今度はフランスがそれまでの外交方針を転換してオーストリアとの関係を強化すると、再びネーデルランドの不利となる。そこにスウェーデンとオーストリアの対立が先鋭化し、「七年戦争」が勃発する。
 一見ドイツ内での勢力争い戦争だが、新教と旧教という図式での最後の戦争でもあり、戦争にはフランス、ロシア、ポーランドまでが絡んだ、ヨーロッパのほぼ全ての国を巻き込んだ戦争となる。
 この戦争ではスウェーデンが激しく戦い、先代のプロイセン公爵フリードリヒ将軍による軍政改革の成功とその息子のフリードリヒ将軍による見事な戦術手腕により、スウェーデンは勝利を飾ることができた。これによりオーストリア、ロシアを軍事的に完全に叩き、スウェーデン有利のまま講和に持ち込むことに成功している。
 なおスウェーデンは、ロシア皇族にプロイセン領内のエカチョリーナを外交婚姻で送り込んでいたが、そのエカチョリーナ自身がスウェーデンと和平を結んだ弱腰の皇帝に対して宮廷革命を起こして自ら女帝となるという、スウェーデンからすれば飛んだハプニングも起きている。
 一方ネーデルランドは、スウェーデンが自らの戦争で忙しいため支援を受けられないままで、大国フランスとの戦争を行わざるを得なかった。結局ネーデルランドは、海上と植民地では勝利するも本国近辺での陸戦で敗北してしまう。
 また、新教側での他の勝利者として、ヨーロッパ内の戦いに殆ど参加しなかったイングランド王国が存在する。イングランドは、ブリテン内のスコットランドに勝利して以後大ブリテン島で大きな勢力を持つようになる。

 そして戦争に勝利したフランスはインドでの植民地拡大に成功し、ネーデルランドはセイロン島以外のインド地域からは、ほぼ叩き出されることになった。
 そうした状況で発生したのだ、1775年に起きた「大西洋戦争」である。

●フェイズ11「大西洋戦争」