■フェイズ11「大西洋戦争」

 フランス王国は、17世紀から18世紀前半に行われた様々な国との断続的な争いの結果、ヨーロッパ世界で植民地獲得競争に大きな優位を得た。インドのガンジス川河口部流域を制したのは、間違いなくフランスだった。アフリカ各地でも、かなりの優位を得ることができた。ルイ13世から15世の治世の間に行われた戦争も、ただの浪費で終わらなかったわけだ。ルイ14世は自らを「太陽王」と称したが、少なくともキリスト教世界での彼は、称号通りの権勢を誇ったと言えるだろう。しかしキリスト教世界も一つではなく、大国と呼ばれる国だけでも数カ国存在した。
 オーストリア帝国は、自らが提唱した形の「大ドイツ主義」の波にも乗って、ヨーロッパ中部統一に大きく前進した。再びローマを脅かしたトルコを破ったこともあって、広大な版図を持つようにもなった。
 キリスト教世界での異端児とも言われるロシア帝国は、競争相手がいないお陰で手に入れた広大な大地国土の開発、開拓の進展のお陰で人口は大きく増えていたが、アジア・大東洋進出では、主に日本の勢力圏拡大に伴い中止もしくは中断を余儀なくされた。ヴァルト帝国もと称するスウェーデン依然としてヴァルト海にも出られなった。だがその代わりとして黒海進出を強化し、国力の衰えたオスマン朝トルコ(正確にはクリミア・ハン国)を着実に圧迫していた。
 以上のようなヨーロッパ情勢は、反キリスト教、特に反カトリックを掲げるアスガルド人にとって看過できない事態だった。また、民族的に同根であるスカンディナビアの人々が以前に比べてやや劣勢になった事も、アスガルド人の感情を逆撫させていた。
 このため「イスパニア継承戦争」、「オーストリア継承戦争」、「七年戦争」と、アスガルド人達はたびたび干渉を実施した。この中で主にノルド王国は、利害一致と感情的な問題からスウェーデンとネーデルランドを主に支援した。海外ではフランス船を襲撃し、スウェーデンに資金と武器を送った。アスガルド帝国、エイリーク公国もノルド王国と同様の支援を行い、友好的な国に対して優先的な貿易を行った。アスガルド人全体で、カトリック勢力に対する私掠活動も行われた。
 このお陰でスウェーデンは、度重なる戦争の戦費を賄うことが出来たと言われ、実際その通りだった。もしアスガルドからの多額の財政援助がなければ、スウェーデンは戦争半ばで自ら不利な講和を求めなければならなかっただろう。地球全体が小氷期にあるため、北の大地を版図とするスウェーデンは農業の不振に悩まされていたからだ。また農業が振るわないからこそ、対外戦争に勤しんだとも言えるだろう。
 そしてこの時、ノルド王国とイングランドの間にも一定の和解が行われたのだが、それもカトリック勢力の拡大を阻止するという共通の目的を両者が持てたからだった。
 この時期のアスガルド人にとって、カトリック教国こそが敵だった。

 だがこの時のアスガルド人の行動は、カトリック勢力とその盟主を自認するフランスの怒りを買うことになった。フランスにすれば、自らはキリスト教世界の守護者にしてシャルルマーニュ(=フランク王国)の正統な後継者であり、アスガルド人の全てがフランク王国にも楯突いた「野蛮な」ヴァイキングの末裔でしかなかった。
 そしてフランスはドイツ中原での「七年戦争」が一通り終わってヨーロッパが安定化すると、アスガルド世界に対する行動を強めるようになった。
 一番の行動は、アスガルド人に対する外洋での私掠活動だった。この時期フランスでは、アスガルド人に対する大量の私掠船免状が大量に発行され、外洋船ならば小さな漁船すら臨時の私掠船となる資格を持っていたりした。軍船となると、ほぼ100%の船が免状を持っていた。これにはフランスだけでなく、他のヨーロッパ諸国も参加した。他にも、アスガルド人に対する貿易面での締め付けも行われた。主な目的は、今までの戦費を少しでも他から取り戻すためだ。
 ヨーロッパ諸国の行動は、アフリカ南西部沿岸、南アフリカ地域での自らの手によるサトウキビなどの商品作物栽培が進んだ事も影響していた。そしてヨーロッパ諸国の多くが、アスガルド大陸で産出される砂糖など様々な物産に法外な関税を設けて市場から排斥した。関税に関しては、対アスガルド貿易で利益を得ている北ヨーロッパ諸国やネーデルランドが反対したが、戦争に訴えるほどの力をこの時点で無くしているため、フランスなどに対して力で訴えることが出来なかった。
 もっとも、アスガルド人に対向したヨーロッパ諸国は、私掠活動以外でアスガルド大陸そのものに手を出すまでには至らなかった。手出しすることが、両者の力関係により既に極めて難しくなっていたからだった。
 18世紀中頃、ヨーロッパとアスガルドの技術力はほぼ同じであり、人口面でもアスガルド人がヨーロッパ全体に対向できるほどの規模を持つようになっていたからだった。
 なお、18世紀も残すところ四半世紀となった頃、北アスガルド大陸での人口は以下のようになっていた。

 ノルド王国:約2800万人
 アスガルド帝国:約6500万人
 エイリーク公国:約300万人
 ミーミルヘイム市などの自由都市:約100万人

 合計すると一億人に迫る数字で、当時のヨーロッパ世界全てに匹敵する数字だった。加えて奴隷又は国民には含まれないスクレーリング(原住民)又はミッドガルド(混血人)が、南北合わせて1000万人以上各領地内に居住していた。他にも南アスガルドのアルゼンチンなど各地に新たな入植地も開かれ、アスガルド世界全体で一億を優に越えるアスガルド人が暮らすようになっていた。メヒコに開かれた農業地帯でも、人口拡大がようやく軌道に乗りつつあった。
 しかもアスガルド世界は、国の数が少ない上に、地域全体で単一言語、単一宗教、単一単位(度量衡、貨幣などほぼ全て)を持っているという強みがあった。ノルドとアスガルドという国家間の対立が依然としてあったが、分裂戦争以後は戦争規模の争いは起きていなかった。また通貨面ではアスガルドの金本位制、ノルド王国の銀本位制という違いがあったが基本単位や価値については平均化されており、ヨーロッパ全体での貨幣、通貨の氾濫に比べれば比較にもならなかった。しかも、アスガルド帝国のフレイア金貨(=皇帝貨)は、純度の高さと正確さからアスガルド世界だけでなく世界でも通用する優良貨幣だったし、ノルド王国のユグドラシル銀貨(=王国貨)は登場して以後常に世界最高品質を誇っていた。
 つまりアスガルド世界そのものが、世界最高度の経済を有してもいたのだ。
 だからこそヨーロッパからアスガルドへの攻撃や侵略が難しかったのであり、しかも経済的にはヨーロッパが劣位にあった。何しろ金銀の大産地は、依然としてアスガルドの大地にあった。またついでに言えば、世界規模で見てもヨーロッパ世界は経済的に豊かな地域ではなかった。技術の進歩が最も進んでいたため世界的に大きな影響力を持つようになっていたが、彼らの富は常に限られていた。
 このためヨーロピアンがアスガルドに進出できるのは、主にエーギル海での私掠活動までであり、それすらかなりの努力と資金、人員を投じなければ簡単に失敗した。経済力に裏打ちされたアスガルド各国の艦隊は、非常に強力だったからだ。
 しかしこの時フランスは、自らのヨーロッパ世界での覇権確立のためには、アスガルドが行うヨーロッパ世界に対する干渉を出来る限り排除しなければならないと考え、そして実行に移した。本当は単に手っ取り早い金儲けが目的だったが、戦争とはもともと利益を得ようとして始める場合も多いので、理由としては十分だっただろう。
 当然だがアスガルド人も黙っているわけなく、ヨーロピアンに対する攻撃や私掠活動を活発化させる。アスガルド各国の間でも私掠船が乱発され、「ご先祖様に見習え」とうい標語と共にヨーロピアンに襲いかかった。
 そうした争いは短期間で過激化、大規模化し、ついにノルド王国がフランスに対して宣戦を布告。ノルド王国によるヨーロピアン攻撃に対しては、他のアスガルド勢力も全面的な賛意を示した。アスガルド人にとって、今回の大規模な私掠活動は十分侵略行為に値したし、ヨーロピアンの攻撃はアスガルド人に結束を呼び込む最も大きな要素足り得た。
 「大西洋戦争」と後に呼ばれる争いが完全に戦争状態に至ったのは、西暦1775年、アスガルド歴725年の事だった。

 ノルド王国は、宣戦布告するが早いか、自慢の大艦隊を自らの勢力下の文字通り氷原の砦となったアイスランドに派遣し、ヨーロッパ北部全域に対して大規模な私掠活動を開始する。またエーギル海では、アスガルド帝国の支援と協力を得る形で、ヨーロピアンの徹底した掃討が実施された。この過程で、モグリで入り込んでいたヨーロピアンの密売人や貿易商も多くを見つけだし、降伏後に改宗した一部の者を除いて処刑又は追放された。双方の海賊、私掠船との戦闘も頻発し、艦隊すら組んだヨーロピアン系海賊とノルド海軍との戦闘も数多く起きた。17世紀後半が「海賊時代」と呼ばれたが、この時の争いも短くも激しい「第二次海賊時代」と呼ばれる事になる。
 また、名実共に世界最強であるノルド海軍は自ら打って出て、アフリカ沿岸各地にも出撃してアフリカ西部海岸のヨーロピアンの拠点や植民地、奴隷による大農場を攻撃したり、フランス船を求めてネーデルランド領のケープ植民地や、さらにインド洋にまで入り込んだ。ノルド王国だけでなく、アスガルド帝国や他の二国も船や物資を出して、ヨーロピアンへの攻撃を実施した。
 このアスガルド側の攻撃に驚いたのは、安易に私掠活動を拡大し続けたフランスを始めとしたヨーロピアン達だった。また同時に、アスガルド人自体の国力と数そのものが大きく膨れあがっている事を、身を以て実感させられる事にもなった。どの海でも、数に劣るのはヨーロピアンとなっていたからだ。
 当時フランスは、ロシアを除くとヨーロッパで最も多くの人口を抱える農業大国であり、インドやアフリカにも大きな拠点を持つなどヨーロッパで最も大きく強大な国家だった。しかしノルド王国は人口でほぼ匹敵し、植民地の産み出す富ではフランスの数倍の規模を誇る経済大国だった。しかも単一経済圏といえるアスガルド社会が産み出す富の量と質は、この頃のヨーロッパを凌いでいた。農業大国であるアスガルド帝国など、ヨーロッパの七割近い総人口を誇っている。
 そして巨大な経済力と優れた生産技術が産み出したノルド王国の海軍力は、ヨーロッパ最強であるフランス海軍を凌駕していた。海軍に劣ると言われるアスガルド帝国ですら、ヨーロッパの並の大国以上の海軍を保有していた。
 にも関わらずヨーロッパ社会は、依然として国家間、宗派間、民族間の対立が解消されず、分立を続ける国家間のせめぎ合いが続いていた。オスマン朝によるイスラムとの対立も、規模こそ小さくなるも残っていた。
 このためフランスに連なってアスガルド人と戦う国もあれば、傍観を決め込む国、自らは戦わずに戦争特需で潤う国、アスガルド人に関係なく自分たちの邪魔となるフランスを様々な手段で攻撃する国があった。
 アスガルド人が大挙攻撃してきたため表だってフランスと戦端を開く国はなかったが、北ヨーロッパ諸国などはアスガルドの船の寄港を認めたり補給も行っていた。一方フランス以外でノルド王国に宣戦布告したのはイスパニアで、二つの国が戦争の主軸を占めることになる。

 初期の戦闘は海上でのみ行われ、大西洋上の一部島嶼の争奪戦がほぼ唯一の陸戦となった。
 海上戦闘そのものは「帆船のための戦い」、戦争自体も「帆船のための戦争」と言われ、優美でいて凶暴な戦闘力を持つ互いのガレオン帆船群が、雌雄を決するべく何度も砲火を交えた。17世紀の海賊の時代とは違い、そこは海賊という肩書きも兼ねた正規海軍の舞台で、数多くの艦長や提督たちが自らの武勇と知略を競い合った。歴代王の名、偉人の名、天使の名、神々の名、幻獣の名、魔獣の名、様々な名前を与えられた戦列艦が、露と消えたり戦史にその名を残した。
 しかし基本的に数の面でノルド王国が勝る事が殆どで、またヴァイキングの末裔のためか、船、艦隊の扱いにもアスガルド人の方が長けていた。
 フランスと若干の同盟国は、徐々に制海権の面で劣勢に立たされ、何度か起きた中規模以上の海戦で敗北すると、アスガルド人の優位がはっきりしてくる。
 しかもノルド王国軍は、現地イスラム勢力と話し合いを付けてアフリカ西岸のモロッコに拠点を設け、北大西洋の真ん中あたりにあるアゾレス諸島は、完全にアスガルド人のものとなった。アフリカ西岸に近いベルデ岬諸島もノルド王国の占領下に置かれ、アスガルドに航路を封鎖された形となって、アジアに向かうヨーロッパの海運も大きな混乱に見舞われた。
 そしてヨーロッパ世界でアスガルド人に対する脅威論が広がると、フランスは安易にノルドとの戦争を止められなくなっていた。またノルド王国軍が、アフリカ西部沿岸各地を攻撃したことで、ヨーロッパ側でもアスガルドに対する一定の団結を呼び込んでしまう。この結果と言うべきか、アジアに大きな利権を持ち海上で多くの損害を出していたネーデルランドがフランス側に立ってノルド王国に宣戦布告し、海での戦いは激しさを増すことになる。
 これで戦争の図式が、アスガルド対ヨーロッパとなった。
 この結果、大西洋の勢力図もヨーロッパ側がかなり盛り返す事になる。アイスランドやエーギル海も攻撃を受け、さらにはアスガルドのノルド王国本土にもヨーロッパの戦闘艦が現を表すようになる。

 一方、アスガルド人にとって、新教(プロテスタント)国家のネーデルランドの裏切りとでも言うべき行動はかなり意外だった。アスガルド人の価値観としては、宗教こそが対立の原因であり、その他の要因は常に小さかったからだ。
 結果、アスガルド人の中に、歴史的、民族的に横たわっているキリスト教徒全体に対する怒りと憎しみを呼び込んだ。このためエイリーク公国が、ノルド王国側に立って参戦。ミーミルヘイム市では「アスガルド世界会議」が開催され、アスガルド帝国も自らの戦える場所での戦闘を行うと同時に、全てのアスガルド社会に対する全面的な支援を約束した。
 この時の取り決めを、会場となった迎賓館(元城塞)にちなんで「ステンガルド盟約」と呼ぶ。
 この中で、アスガルド人の結束を強めるという意味で、歴史上初のノルド王国とアスガルド帝国中枢同士の相互婚姻が行われた。
 この時両国の王女がそれぞれ相手国の王室、帝室に嫁ぎ、継承順位の高い王子と結婚した。この後も、王族間、貴族間での婚姻が何度か行われるようになった。両国の国境の規制が緩められ、北アスガルド大陸での人の移動も以前より活発になった。アスガルド人の間にも、経済以外での連帯感や共通意識の醸成が進んだ。
 そして軍事的にも、アスガルド帝国の軍艦や私掠船がヨーロピアンの船を積極的に襲うようになった。
 このままアスガルドとヨーロッパの全面戦争に発展するかに見えたが、ヨーロッパではスウェーデン、オーストリア、ロシアは事実上の連携を組んで武装中立を貫き、イングランドが事実上フランスに敵対したためヨーロッパ全体での団結にはかなり遠かった。アスガルド人の側も、アスガルド帝国は遂に大西洋方面での戦闘にはあまり加入しなかったので、こちらも全体で戦争に当たらなかったと言えるだろう。
 しかし多くの国が正式に参加した事で戦争の規模は大きくなり、戦いは激しさを増した。戦場も大東洋以外のほぼ全ての地域が戦闘となり、主戦場となった北大西洋各所で激しい戦いが展開される。
 戦闘に加わる艦艇が飛躍的に増え、関係する国々の地域が戦争に荷担したため戦争自体も広がりを見せ、大西洋全域が戦場となった。
 だが一方で、大西洋の海運はますます混乱し、どちらか一方が全ての地域で制海権を得るという事もなかったため、戦争は主にヨーロピアンにとって不利益が大きくなった。またアスガルド大陸に広がるノルド王国も、ヨーロッパ勢力が継続的にエーギル海や南アスガルドに襲いかかって来るため、こちらも相応の損害と損失を受け続けていた。

 結局戦争は一見派手な洋上戦闘ばかりが起きるだけで、決着の付かないまま膠着状態に陥る。このため誰もが経済的要求から休戦もしくは停戦を求め、そして水面下での接触や話し合いを経て、劇的情景を迎えないまま終息を迎えた。
 講和会議は1783年にフランスの首都パリで開催されたのだが、賠償や領土割譲といった面では、誰にとってもほとんど白紙講和に等しかった。大西洋上の幾つかの島嶼の所有者が変わったのが、ほぼ唯一の変化だった。
 しかし、海上戦闘での決めごと、私掠行動についての約束事が幾つか交わされたのがこの時の「パリ会議」での一番の成果で、以後少なくとも大西洋上では海賊、私掠船が激減する大きな機会となった。
 そして何より、これまで対立し続けていたヨーロッパとアスガルドの間で一定の条約を交わした事そのものが、西暦1492年の「再接触」以来一番の大きな事件であった。
 白人世界全体での大きな転機になりうる事件といえた。
 無論、これ以後も両者の対立と対向は続くのだが、この戦争以後は、かえって宗教面での対立が大きく比重を引き下げられれる事になり、両者の交流は一定レベルで活発化する事にもなる。
 足かけ十年近く続いた海での混乱が、経済にどれだけ大きな損害を与えるのかが強く認識された証拠でもあり、宗教があまり政治的影響力を無くした影響だったが、合理面から考え方を改めさせた事は大きな転機だと言えるだろう。

●フェイズ12「フランス革命とその影響」