■フェイズ12「フランス革命とその影響」

 西暦1775年から1783年まで行われた「大西洋戦争」の結果、主にノルド王国、フランス王国、イスパニア王国、ネーデルランド連邦、エイリーク公国の海軍力が大きく消耗した。主にインド洋で活動していたアスガルド帝国海軍も、遠隔地での戦闘の影響もありかなりの戦費を浪費し、損害も受けていた。
 そして海軍の消耗以上に、それぞれの国の財政は大きな消耗を示した。特に、財政的にも豊かとは言えず、事実上の敗者となったヨーロッパ側の疲弊が大きかった。軍艦を用いる戦闘は、戦死者の数こそ陸で戦うより少なく済む事が多いが(戦列艦が突然沈んだりすると、一度に1000人も戦死するが)、軍艦とは非常に高価なため戦費は飛び抜けて高額となってしまうのだった。参戦国の多くが疲弊したのは、当然の結果でしかなかった。
 そこに、世界各所で起きた大規模な火山噴火による一時的な地球規模での寒冷化という気象変動が発生し、北半球世界は各地で冷害、飢饉が発生する。
 そして財政悪化、飢饉、中世以来大きな変化のない旧態依然とした農業、旧体制による民衆への抑圧、権力者の暴政などが重なり、西暦1789年7月フランス王国で市民による革命、つまり歴史上で言うところの「フランス革命」が発生する。
 これまで封建制度に変わりうる政治制度としては、ノルド王国とイングランド王国で実施された議会と憲法を用いた立憲政治と、ネーデルランド、北イタリア各地、北アスガルド五大湖沿岸都市などの共和制があるが、それ以外に多少なりとも民衆の意見、つまり民意を現実レベルで採り入れることの出来る政治制度はほぼ存在しなかった。あるとすれば、小規模な原始的社会を維持している地域での全員参加型の集団統治体制ぐらいだろう。この中での変わり種は、スイスの直接民主制になるだろう。
 フランス革命はまさに革命的出来事であり、その後世界を大きく揺るがすことになる。
 そして変化は、アスガルド大陸にも及んでいた。

 ノルド王国は、大西洋戦争で大きく疲弊した。
 国土には寸土も触れられなかったが、たびたび大海軍を用いてヨーロッパ勢力の海上交通を脅かし戦争全般も優位に運ぶも、ヨーロッパ近辺では地の利が得られなかった事もあり決定打を打ち出せなかった。そして遠方での海での戦いは莫大な戦費を費やすことになり、当時世界で最も豊かな国の一つだったノルド王国の財政は一気に傾いた。
 故にノルド王国は、国内及び各植民地に対して増税と貿易統制を実施し、増税に伴い重商主義化政策を進めた。
 この重商主義化政策では域内の関税障壁の強化も行われ、戦争中に芽生えたアスガルド全体での連帯気運を大きく押し下げてしまう。特に最も大きな人口を抱えるアスガルド帝国では、南方の物産の需要に対して供給が追いつかなくなるか、異常な物価高騰が見られた。
 また、この頃のアスガルド帝国は、北アスガルド大陸西部領域の開拓もしくは征服を既にほとんど完了していたため、域内で働かせるスクレーリングの奴隷もしくは低賃金労働者の供給先を、ノルド王国の南アスガルド各地に頼っていた。アスガルド人にとっての奴隷や低賃金労働者とは、同じ大陸に住む原住民であるスクレーリングであり、ヨーロピアンが時折商談を持ちかけてくるアフリカ系人種は論外だった。アスガルド人は、肌の黒い人々を使役することを酷く嫌っていたのだ。これは幼稚で感情的な人種差別そのものだが、そうであるだけに受け入れられることはなかった。加えて、各種一神教を信奉する人々が自分たちの大陸に住むことも酷く嫌っていた。このためキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の住民のどれかがアスガルドに移民する場合でも、棄教の宣誓をすることが全アスガルド地域で義務づけられていた。アスガルド内での各種一神教に対する弾圧も強く、18世紀前半に作られた港湾都市のごく狭い外国人居留地だけが例外とされているだけだった。それでも宗教上の面倒を嫌い、ヨーロッパ、アラブ方面からの移民、奴隷も嫌っている状況が続いていた。受け入れる場合も棄教が基本である場合がほとんどで、それでも黒人入植者は拒絶していた。
 このため取りあえずの対策として、主にアジア方面での奴隷の獲得について考えられるようになり、西海岸のアールヴヘイムにやって来る日本人商人に、肌のなるべく黒くない奴隷の供給すら依頼するようになった。この際、低賃金労働者でもいいのなら日本人でも構わないと伝えられ、既にアールヴヘイムに日本人移民が流れていた事もあり、以後若干数の日本人が主に下層労働者としてアスガルド帝国各地に流れるようになる。一般のアスガルド人としては、「赤」より「黄色」の方がましという程度の感覚だった。しかも日本人の国でキリスト教が禁じられているので、さらに受け入れへの心理的障壁は低かった。
 そして当然というべきか、アスガルド帝国はノルド王国に対して奴隷の供給要請と、南方の物産の関税低下を強く要請した。
 しかし財政が傾いていたノルド王国は、容易にアスガルド帝国側の要求を受け入れず、むしろ貿易統制を強化して外貨獲得に奔走した。奴隷も高く売りつけるようになった。この裏には、大西洋であまり活動しなかったアスガルド帝国への恨みも強く影響していた。
 このためノルド王国とアスガルド帝国の関係は、再び悪化の方向に流れた。そうした時に、ヨーロッパでフランス革命が勃発したのだった。

 一方、王政打破と封建制を破壊して民衆による政治を行うというこの革新的な革命は、アスガルド人にも影響を及ぼした。
 この頃北アスガルド大陸は、国の数が少ないにも関わらずそれぞれ政体が違っていた。いや、揃っていたと表現する方が正しいかもしれない。
 当時、アスガルド帝国は皇帝を中心とした絶対王政下にあり、エイリーク公国は特権階級による議会を置いた王政を敷いていた。これに対してノルド王国は事実上の立憲君主体制に移行し、国王は権威君主に近くなっていた。また自由都市の代表であるミーミルヘイム市を中心とする諸都市群は、ネーデルランド連邦やヴェネツィア共和国と同様に市民(大商人や富裕層)によって政治が行われる共和制を敷いていた。またソルフルーメン川以南の地域は、殆どがノルド王国の広大な植民地として過酷な統治が行われている場合が多く、北アスガルド大陸北西部もアスガルド帝国の辺境領と言う形をとった植民地だった。また、自立もしくは独立を維持しているスクレリング達は、原始的な王政社会また部族社会を形成していた。
 アスガルドに存在しない政体は、民意を市民の選挙によって反映できる民主主義だけと言うことになるだろう。そしてその新しい政体を作り出すための革命が、フランスで開始された。
 政治的混乱はアスガルドよりも震源地により近いヨーロッパの方がずっと大きく、ヨーロッパ各国は革命に干渉して、何とか失敗に導こうと画策した。
 この動きにアスガルド人の権力者達も同調する向きが強く、依然として北ヨーロッパ諸国を仲介しながらだったが、フランスへの干渉を実施した。
 しかし各種干渉は失敗し、フランス国民に団結をもたらした。そして革命から十年後、ナポレオン・ボナパルトという巨大な人物の台頭と、革命に続くヨーロッパ世界全体を巻き込む大争乱をもたらすことになる。

 では、アスガルドの大地は、どうだっただろうか。
 そもそもアスガルドは、かつてのヴァイキングが作り上げた開拓者の世界だった。勢力圏の拡大も、常に入植と開拓に伴う人口増加によってもたらされていた。ヴィンランドから再開された開拓の歴史を紐解くと、11世紀中頃から700年以上が経過していた。最初の国家が誕生してから数えても約400年が経過していた。現在の体制がほぼ固まってからも既に1世紀以上が過ぎていた。最も巨大な国家に成長したアスガルド帝国は、1755年に建国百周年の祭りを盛大に行ったりもした。
 つまりは、若い土地、若い民、そして若い国の世界だった。
 そしてかつてのグリーンランドでの保守的な暮らしへの反動と本来の気質から、アスガルド人は新しい事への挑戦心が強く、彼らは生来開拓を旨とし前に進むことを強く肯定する人々だった。
 このためノルド王国は、国家分裂後に新たな政治体制への移行を混乱も少なく行えた。またこの時も、ヨーロッパでの大きな変化の影響を受けながらも新しい道を模索しようとしていた。
 具体的には、憲法の改正と民意を反映する議会の開設である。これまでは貴族、富裕層が議員となっていたが、これらを「上院」として他にも一定の基準によって民衆から選ばれる人々による議会、つまり「下院」を設けるのだ。しかも議会には憲法に対する権限を大きくし、議会、立法府、法務府の権力を分ける構造を作り出すための研究や行動が積極的に行われるようになる。
 アスガルドで最も成熟し、時間をかけて作られた社会を有するノルド王国だからできたと言えるだろう。
 また色々な考え方が、ヨーロッパを中心としたユーラシア世界からもたらされていた事も、非常に重要である。アスガルド人だけでは、新たな考え方、政治、などを始めることは難しかっただろう。
 一方、アスガルド大陸で最も若く、最も巨大な国となったアスガルド帝国はどうだっただろうか。
 アスガルド帝国は、アスガルド歴739年(西暦1789年)の時点で建国から約130年で、総人口は建国時点から三倍以上に膨れあがっていた。しかも人口は依然として拡大傾向にあり、農村部では若年人口が非常に多い状態が続いていた。早婚と多産は、「開拓と前進」という国是と共に、アスガルド帝国臣民にとって美徳とされていた。
 また20年から30年で皇帝が禅譲で代替わりする慣習があったので、この頃の皇帝は第七代目のオーラヴ二世だった。
(※ステイグリム朝の帝位=シグルト1世→シグルト2世→シグルト3世→シグルト4世→シグルト5世→オーラヴ1世→オーラヴ2世)
 なお、アスガルド帝国での帝位継承は終身ではなく禅譲が基本なのだが、これは初代皇帝シグルト一世が禅譲したことが強く影響していた。若干二十歳で初代皇帝となったシグルト一世は、二代目のシグルト二世が今で言う過労で急死したため、孫に当たる三代皇帝シグルト三世の半ばまで影響力を行使することになった。そして巨大な官僚団と軍隊を率いる絶対君主の皇帝は、日々書類に埋もれる激務が基本であるため、長期間の統治や老齢となった場合には、皇帝の精神と肉体が耐えられないとシグルト一世は考えた。
 そこでかつてのローマ皇帝を一部参考として、長子が帝位に就く制度と共に生前の禅譲を国の基本制度として盛り込んだ。単純に言えば、15才で成人、20才ぐらいまでに婚礼して第一子(皇太子)をもうけ、30才ぐらいで皇帝に即位、そして50〜60才程度で皇太子に禅譲を行うという指針だ。そして先帝は禅譲後は皇城を出て隠居し、基本的に政治に関わらない事とされた。これを初代皇帝の勅書として明記させ、幾つかの緊急事態、不測の事態に対する但し書きとともに帝位継承の不変の法とされた。他にも幾つか取り決めが行われ、可能な限り帝位継承に伴う権力闘争や身内内での争いを避けるように、皇族の為の法が整えられた。絶対権力者の皇帝を、国家のシステムとしての側面を強めたとも言えるだろう。また親族が皇帝を傀儡とする事を阻止する制度も、かなり深い部分まで決められた。全ては、国家を円滑に運営するためだった。
 無論全てがうまく運んだ訳ではない。長子以外の誰かを帝位に就けようと、暗殺劇、権力闘争もたびたび起こった。兄弟内の骨肉の争いが起きたこともあった。皇帝の子供を産んだ女性同士の暗闘や、皇帝をたぶらかそうとした事もあった。時の皇帝のそれぞれの皇族の後ろ盾となる人々の暗闘は、ほとんど日常茶飯事だった。
 皇帝自身も、中には禅譲を渋った皇帝もいるし、怠慢で職務を滞らせた皇帝や、華美や遊興にふけった皇帝もいた。
 そして僅か150年ほどの間に在位したのは7人の皇帝だったが、半数は何らかの問題を持っていた。それでも暗君や愚帝は立たず、帝国と皇帝というシステムはそれなりに機能し、国家を成り立たせていく重要な根幹となった。これはひとえに、官僚団や軍の機構・制度が優れていた為でもあったと言えるだろう。

 そうした伝統と制度に支えられ、オーラヴ二世も29才で先代の禅譲を受けて帝位に就いた。
 彼は取り立て名君ではなかったが、暴君でも暗君なかった。波乱の人生とも、この時までほぼ無縁だった。皇帝家の長子として生を受け、皇太子となり、当人自身は激しい競争や陰謀を経ることもなく順当に帝位へと着いた。先帝が禅譲したのは1803年だったが、禅譲後の先帝は即位前の暗殺劇、初期の帝位の頃の混乱した状況が嘘のように静かな隠遁生活を送っていた。
 オーラヴ二世が帝位に就いてからは、帝国伝統の君主としての枠から出ることはなく、政治の委細については大臣達や巨大な官僚団に多くを任せ、書類に目を通して印鑑(玉爾)を押すことが彼の最も重要な職務となっていた。個人としての性格や性癖も常人の範囲内で、決断力や調整能力も相応の能力を有しているので、帝国中枢の誰からも「及第点の皇帝」と見られていた。
 多少問題があるとすれば、歴代皇帝の中では多少好色な事ぐらいだった。これも妾やその子供に実質の権力や特権は一切与えていないので、むしろ跡取りや大貴族達への婚姻相手が増えたと好意的に見られていた。ここでの問題があるとすれば、複数の王子、王女がノルド王国などと名目もしくは実質の婚姻や婚約関係にあった事だろう。しかもアスガルド人国家のノルド王国、エイリーク公国だけでなく、ヨーロッパのノルウェー王国、スウェーデン王国にすら王女が嫁いでいたのだから、この頃のアスガルド帝国の外交は、幅が広がった分慎重さも要するようになっていた。日本の江戸幕府又は天皇家との姻戚関係の可能性すら真剣に考え、両国の間に調査のための文書も残されている。
 逆に利点といえるのは、無類の学問好きな事だった。
 幼少の頃から暇さえあれば書物を読んでいたと言われ、自ら書物を読むために語学にも堪能となった。帝国大学にも、試験を経た上で通った最初の皇帝だった。帝国図書館や各種書籍研究、さらには国内の印刷産業も、彼の代に大いに充実している。世界中の書物や文献を金に糸目を付けず収集する事が、この皇帝の唯一の贅沢だったとすら言われるほどだった。古代の石版や木簡を探すために、探検隊や調査隊を編成させたほどだ。マヤ文明の古代文字も、この頃最初の解読が行われている。
 しかもあらゆる政治思想にも啓蒙が深く、ヨーロッパだけでなく世界中の政治、思想について精通していた。そして各政治形態や思想の利点、欠点についても、一般以上に理解を深め、専門家と言っても間違いないほどの見識の持ち主だった。実際彼の提言により、帝国の制度に改良が加えられた事もあった。しかし帝国に合わない制度や考え方については、個人的な知的好奇心を追い求める以上の事はせず、何より事を起こすほどの実行力もなかった。彼にとっては、学問そのものがあくまで目的だったのだ。
 フランス革命とその後の混乱に対しても、オーラヴ三世は一つの命令を下していた。詳しく調査して記録に止め、さらに専門家によって研究せよというものだった。命令を受けた者のほとんどは、皇帝の学問好きが出たとか、アスガルド帝国に害が及ばないようにする予防措置だと考えた。

 帝国中枢がフランス革命に抱いた感想と直接の影響は、つまるところその程度だった。
 なぜならアスガルド帝国とは、開拓によって成り立った国家であり、皇帝から今まさに新たな入植地を切り開いている開拓民に至るまでが、元の出自が事実上一つであるという事を体感的に知っており、故に国民が帝国と皇帝を熱狂的に支持していた。帝国の象徴的武具も、剣ではなく木を切り倒す斧とされていた。
 それでもアスガルド帝国国民も、フランスの市民革命に大きな興味を持った。彼らは建国前から開拓民にして自作農達であり、世界で最も豊かな農民達だった。奴隷は使うし解放奴隷や他民族を低所得労働者として使役するが、それは自らが自作農として行う範囲内での事であり、単品作物栽培による搾取や強制的労働を行っているのは、エーギル海植民地の一部の極端な資本主義的農場だけだった。アスガルド帝国の農場のほぼ全ては大規模な資本集約型の農場だったが、彼らには自作農、開拓民としての誇りと自負があったのだ。
 また開拓者であるだけに自立心が強い一方で、自分たちこそが帝国を支えているという自負を持っていた。また独立そのものを自分たちで勝ち取ったという自負を持ち、この考え方は自作農ばかりでなく都市部の商工業者、市民も例外ではなかった。こうした意識は、膨張初期のローマ帝国に近いかもしれない。
 貴族達も、先祖や自身の出自が開拓者のリーダーだった者、独立戦争での功労者が殆どなので、一部の奢侈や権力に溺れた者を除けば、概ね節度と高い意識を維持していた。また、特権階級に対しても愚者を罰する法や規則が帝国に存在した事も、国民の国家への信頼につながっていた。開拓によって作られた国のため、特権とは義務と権利、責任に対する報酬という考え方が強く、世襲というだけで権力、富が無条件に認められるという風土ではなかった。国民と貴族の距離も近く、戦士階級(士族)や男爵程度の低い位なら辺境だと共に農地を開拓している事もあった。皇帝の公式行事にも、入植に関する記念日に自ら斧や鍬を振るうというものがあったほどだ。歴代皇帝の中には、職務の合間に辺境視察を熱心に行った皇帝もいた。
 帝都にも貴族の姿は比較的少なかった。帝都にいるのも、官僚や軍人としての職務でいる貴族が多かった。巨大な宮殿はあったが、フランスのように王や貴族が権威を示す場ではなくあくまで式典や仕事の場であり、それ以外の主な用途も帝国そのものの権威や威信を示す為のものであった。ベルサイユ宮殿のように毎夜宴会が行われることはまずなかった。
 アスガルド帝国が、帝国という皮を被った国民国家と言われる所以がそうしたところにあった。
 こうした国民の意思を帝国政府も可能な限り反映し、絶対王政ながら地方自治は比較的緩やかで、基本的に国は豊かで皇帝と政府は悪政を敷かなかった。このため国民の多くも、帝国による絶対王政を受け入れていた。しかも領内には開拓できる土地がまだ多く存在したので、文句を言う者はかなりの少数派だった。
 権力維持のために政治と深く結びついた宗教が必要ないのも、ある種当然だろう。戸籍管理と冠婚葬祭を執り行う慰撫組織としての宗教があれば、それで十分だったのだ。
 アスガルド帝国は基本的にそうした国であるため、フランスでの革命に最も動じなかった国でもあった。
 このため、アスガルド大陸でのフランス革命の心理面での影響は小さかった。問題は、ノルド王国による重商主義政策とそれにより発生した経済的混乱にこそあった。
 しかしノルド王国、アスガルド帝国共に、ヨーロッパ世界のように簡単に戦端を開くというようなことは無かった。
 両者自然障害の少ない長い国境線を抱え、共に大人口を抱えているため、全面戦争になった場合に国家が被る被害、不利益が大きいことを熟知していたからだ。
 加えて、自分たちが相争うとヨーロッパ世界が干渉してくる事を常に警戒していた。
 だが、ヨーロッパ世界での劇的な変化により、一つの懸念が大きく低下した。フランス革命後のナポレオン・ボナパルトの台頭により、ヨーロッパ世界で大規模な戦争が起きて、アスガルドに関わっている場合でなくなったのだ。

 ヨーロッパでの戦いの序盤は、海上と海外ではフランス・イスパニア対ネーデルランド、スウェーデン、イングランド連合軍の戦いだった。相変わらず、新教対旧教という構図だ。
 そしてフランスがエジプトを経由するインドとの連絡線を保持すると、状況はいっそうフランス優位となる。しかもフランス近辺では、ネーデルランドが陸上での戦闘でフランスに完敗を喫し、1802年のアミアンの和約でネーデルランドが実質的にフランスに併合される。これで「第二次対仏大同盟」は瓦解し、ナポレオンは自らフランスの帝位に就いた。経済大国ネーデルランドの敗北と併合に、ヨーロッパ世界は震撼した。
 そして1804年にナポレオンがフランス皇帝に即位すると、ヨーロッパでの混乱は頂点へと進んだ。
 その後ヨーロッパでは、フランス対全ヨーロッパという形での戦争が始まるのだが、ナポレオンという軍事の天才と「国民軍」を有するフランス軍の強さは圧倒的だった。イングランド海軍が圧倒的なフランス・イスパニア艦隊に敗北して、イングランドは降伏した。「アウステルリッツの戦い」でオーストリア、ロシア軍が敗北、さらにその数ヶ月後に起きた「イエナの戦い」でスウェーデンが敗北すると、ナポレオンの権勢はピークに達した。ナポレオンの天才と優れた軍制、士気の高い国民軍などの要素がもたらした、ある種当然の勝利だった。
 その最中にネーデルランド連邦は一端解体され、オーストリアの敗北の後に、既に形だけだった神聖ローマ帝国は遂に滅亡した。ネーデルランドが有したケープ、セイロンの各植民地も、フランス軍の占領下となった。地の利を持つロシアも、交易相手である全ヨーロッパが降った事で講和に応じることになった。
 ナポレオンは事実上のヨーロッパ統一を達成し、シャルル・マーニュの再来となったのだ。
 これで絶頂に達したと見られたナポレオンだが、一人の天才によってのみ成立し、その上急速に膨張し過ぎた帝国は簡単に揺らいだ。ナポレオンの悲劇とは、彼の事業を代行できるだけの助言者や宰相、さらには後継者に恵まれなかった事だろう。
 1808年にイスパニアの内紛に対して軍を派遣したナポレオンだったが、後にゲリラと呼ばれる事になるイスパニア民衆による激しい抵抗運動が、フランスの軍事力と予算を無尽蔵に奪い始める。しかも一度は軍門に降った、スウェーデン、イングランドなどがイスパニアの抵抗勢力を支持して消耗戦略を行い、ロシアも反フランス姿勢を示した。
 しかもスウェーデン、イングランド、さらにはロシアは、アスガルド人との交易を行うことで軍備の増強や経済の活性化を実施して、力を付けようとした。
 このためナポレオンは、「ヨーロッパ封鎖令」を出して、アスガルド船と全ヨーロッパ諸国との交易を禁じた。一方では、ノルド王国と敵視しつつアスガルド帝国への接近を行い、アスガルド帝国に対してアスガルド帝国に有利な形でのアフリカ利権の一部売却を持ちかけた。アスガルド帝国が、南方での物産と奴隷が不足していることを見越しての提案だった。
 そしてこのナポレオンの提案が、アスガルド人の間に不和をもたらす。

 先にも書いた通り、1783年に終わった「大西洋戦争」以後のノルド王国が重商主義政策を進めたおかげで、アスガルド帝国内の南方の物産、奴隷が不足していた。このためアスガルド帝国は、砂糖など南方の物産のかなりを、高額でノルド王国から買い入れるか、遠く日本との交易で手に入れなくてはならなかった。
 南アスガルドから流れるスクレーリング奴隷の不足についても、西部のアールヴヘイムを中心に日本であぶれた移民がかなり流れ込み、低賃金労働者として働くことで辛うじてやりくりしている状況が続いていた。このためアスガルド人の中にノルド王国に対する不満が高まっており、エイリーク公国、ミーミルヘイム市でもノルド王国に対する評価は下がっていた。
 そしてノルド王国は、フランスのやり口を強く非難し、アスガルド人全体にある反ヨーロッパ感情に訴えるいつも通りの外交を実施する。しかし今回は、フランスがアスガルド人との交易を禁止するという政策を同時に取っているため、ノルド王国以外の不利益はむしろ拡大することになる。
 このためアスガルド帝国中枢は、伝統的外交を逆手にとってナポレオンの提案に対して興味を示す事で、ノルド王国の態度軟化を誘い出そうとした。
 しかしこれがノルド王国の反発を呼び込み、「大西洋戦争」から徐々に修復していた両国の関係が急速に悪化する。
 その後両者の関係はヨーロッパとの関係、ヨーロッパでの戦争の進展を無視して悪化を続け、1809年には互いに国境を固めるまでになる。
 そして一気に大動員を仕掛けたアスガルド帝国が、ノルド王国本土との国境線を固めた上で、騎兵を中心にした機動戦力のかなりを割いてメヒコ副王領への電撃的新興を実施。
 「第二次アスガルド戦争」が勃発だった。
 そして二度目の北アスガルド大陸での戦争は、ヨーロッパでの戦争と少し違っていた。
 ヨーロッパでは、フランスとそれ以外の国、国民国家の軍隊と、従来型の常備軍による戦いだった。これに対してアスガルドでは、アスガルド帝国が屯田兵型の旧来型の国民軍で、ノルド王国は立憲君主型国家ながら軍制の改革を実施して、国民軍ではないながらも近代的で優れた軍隊(常備軍)を有するようになっていた。それでも二倍以上の人口を有するアスガルド帝国が数の上で有利だった。 
 しかしこの時ノルド王国には、革新的な力が加わりつつあり、その力こそが戦争における不利を大きく補うことになる。
 革新的な力とは、歴史的用語でいうところの「産業革命」だった。

●フェイズ13「産業革命と第二次アスガルド戦争」