■フェイズ13「産業革命と第二次アスガルド戦争」

 ヨーロッパでの「ナポレオン戦争」に影響を受けて起きた「第二次アスガルド戦争」は、規模においてヨーロッパより大規模な戦争となった。
 しかし、対向国に対して経済力はともかく人口面で倍以上の差が開いているノルド王国が、強大な国力と軍事力を有するまでに成長したアスガルド帝国に対向できた事が、戦争の巨大化を産んだとも言えるだろう。
 そして大戦争を作り出した大きな原因こそが、「産業革命」だった。

 「産業革命」とは、18世紀から19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のこと、とされる。又は「工業化」、「工業革命」という言葉を使うこともある。そしてどの言葉を用いるにせよ革新的だったのが、蒸気機関を始めとする装置により「熱量」を自在にコントロールする機械を用いることで、巨大な生産力を実現し、移動力を飛躍的に向上させることこそが革新的出来事だった。工業製品は、一部成果に過ぎない。
 そしてこの産業革命が、ノルド王国で最初に起きたのには、多くの必然と偶然が作用していた。
 まずノルド王国内には、大量の石炭と当座の鉄鉱石や銅、亜鉛などの鉱産資源と、さらには綿花、羊毛の生産地帯が存在した。近在には、国内で足りない地下資源も豊富にあった。そして製品を売りさばいたり、社会資本を整備できる広大な植民地を有していた。また、副王領と言う名の植民地からは、国内で足りない原料を入手することも比較的容易かった。そして南北アスガルド大陸内の各植民地にも、数百年の開発によって第二のアスガルド人のコロニーが成立していたことも、様々な面で有利に働いた。開拓途上の地域とは、投資先、市場、消費地として非常に有効だからだ。
 さらには、南方(エーギル海)での資本集約的な砂糖の生産と各地への輸出、植民地で産出される豊富な銀、それらを活用した国内産業、商業の育成により、世界で最も豊かな国、高い経済力を持つ国となっていた。17世紀以後のノルド王国にとって、ヨーロッパは常に有利に戦える輸出市場であった。何しろヨーロッパ諸国には、嗜好品でもあった砂糖や煙草を効率よく大量栽培できる南方植民地はほとんどなく、貨幣となる金又は銀を大量に産出する地域を持たなかったからだ。ノルド王国に足りないのは、中華、日本で生産されるお茶と陶磁器ぐらいだと言われていた(※19世紀には、どちらも国産できるようになる。)。
 そしてノルド王国の国家自体も、統治体制、政治体制、社会体制が、議会、憲法の導入による立憲君主制の成立により、多くを革新をもたらす有利な状況へと導ける状態にあった。しかしこれも、経済的に豊かな社会が存在したからこそ成立した状況と言える。
 また国内では、開拓の限界に伴う余剰人口の誕生、その農場での合理化のための「囲い込み運動」による都市への人的資源の流入により、次なる産業への労働者を確保しやすくなっていた。
 以上、どれかが欠けていても、産業の革新を遅らせることになっただろう。現にアスガルドより遙かに古い歴史を持ち、多くの面において進んだ社会を持つヨーロッパでは、最初の産業の革新に至らなかった。特に資本力の不足がアスガルド地域より大きかったことが、アスガルドの後塵を拝した主な理由だとされることが多い。
 また、ヨーロッパと同じような状況にある筈の中華地域、日本では、共に水力を直接用いた機械(水力紡績など)の登場にまでは至ったが、中華地域では中央政府が自ら開発と発展を封じて革新への可能性を潰し、日本では自らの力だけでのそれ以上の前進は行われなかった。そしてどの地域でも、初期的な実験レベルでなら蒸気機関は一度は実用化されている。量産と広範な利用に至らなかったのにはそれぞれ理由があったが、理由があったからこそ革新に至らなかった。
 北アスガルド大陸でも、グリーンランドでの記憶が今も残るエイリーク公国は様々な面で保守的すぎた。商工業都市群のミーミルヘイムは、優れた経済力と質の高い市民を有していたが、所詮は都市国家的小国に過ぎなかった。アスガルド帝国は巨大国家となっていたが、基本的に発展途上の農業国家だった。
 またアスガルド人は新規なものを好み、キリスト教が絡まない限り海外からの知識や技術の輸入、時には奪取や模倣を熱心に行っていた。元来、物作りも得意だった。ヨーロピアンからは、「物まね上手」と口悪く言われていたほどだった。
 加えてノルド王国内には、国が豊かになるにつれて中産階級が育ち、彼らは高い教育を得ることで革新の担い手の予備軍となれた。

 そして18世紀も終盤に入った頃から、最初の蒸気機関を用いた炭坑や鉱山の排水装置と紡績機が登場し、19世紀にはいると蒸気機関の交通手段への応用が試験的に開始され始める。
 そしてナポレオン戦争、第二次アスガルド戦争が行われる頃、ノルド王国は世界最大級の紡績生産力を誇る国家へと躍進していた。綿花、原綿は自らの領内の南部地域やエーギル海の一部で十分に生産できるし、次の段階である羊毛も十分あった。足りない分は、近在のアスガルド帝国かエイリーク公国から輸入すればよかった。ただし、アスガルド帝国との対立があったため、これはノルド王国にとっては懸念であると同時に不満でもあった。アスガルド最大の市場が使えない事を意味していたからだ。
 この不満が、アスガルド帝国に対する重商主義の壁を高くさせる要因の一つともなり、両者足りない文物に対する関税合戦が加熱して関係を悪化させていった。
 こうした時にヨーロッパでの戦乱は頂点に達へと向かいつつあり、アスガルド人は安心して再び身内内での戦いに興じることができた。
 戦争の原因とは、たいていの場合経済が絡むという典型例で起きた戦争と言えるだろう。

 「第二次アスガルド戦争」は、1809年の秋の収穫が終わった時期に始まる。これはそれぞれの本国近辺の北部地域では、冬に戦争が出来ないと言う状況をアスガルド帝国が利用したものだった。
 この時代、本来冬には戦争をしないものだが、北アスガルドの南を流れる大河ソルフルーメン川より南の地方では、多少の高山地帯ではあっても冬の気温は大陸北部ほど低くはなかった。また建国頃とは違い、テキサス地域には多数のアスガルド人が住み、ノルド王国に近い地域に関係なく軍の動員が可能となっていた。街道などの社会資本整備も既に進んでいた。何しろアスガルド帝国は、希に見る土建国家でもあったからだ。
 またアスガルド帝国内では、ビブレスト山脈からミシシッピ川にかけての広大すぎる大草原、大平原は馬や牛の飼育に適しており、特にこの頃のテキサス地域(テキサス公爵領)は馬の大産地だった(※牛の大産地でもあり、牛の方が数はずっと多かったが)。アスガルド人がキリスト教の禁忌を気にすることなく馬の肉を食用としていた事もあって、その質と量はヨーロッパ全土に匹敵するほどだった。こうした状況を見たヨーロピアンが、「白いタタール(=モンゴル人)」と呼んだほどだ。
 そして銃と大砲で武装した現代のモンゴル騎兵と言える、アスガルド帝国テキサス公爵領の巨大騎馬軍団は、本国近辺での両者のにらみ合いを気にすることなく、大規模なメヒコへの侵攻を開始した。ソルフルーメン川を越えた馬だけで20万頭を数えた。馬のうち半数は補給のために用意された荷馬、荷馬車用の駄馬やロバだったので、戦闘部隊は半数程度。他にも兵器を運ぶための馬も多数いたので、実際前線で戦う騎兵はさらに半数の5万人程度だった。しかし5万の騎兵と20万という馬の数は、かつてユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国の巨大騎馬軍団以外に比肩するものはなく、その戦力の大きさが多少は理解できるのではないかと思う。この時期のヨーロッパでも、これほどの規模の騎兵を擁してはいなかった。騎兵として運用されても、十分の一程度の規模だ。しかもこの数字は、アスガルド帝国の一地方の動員力でしかなかった。
 そして巨大な騎馬軍団に対して、メヒコ在駐のノルド王国軍はまともな抵抗ができなかった。テキサス方面だけでなくアールヴヘイム方面からの侵略も受けたため、境界線を中心に薄く引かれていた防衛線は見る間に崩壊し、グリトニル市(旧チノチティトラン市)のノルド王国メヒコ総督府はまともな防戦も出来ずに、無血開城の形で降伏した。現地は開発の歴史も古く相応にアスガルド人も住んでいたし、さらに万の単位で防衛隊もいたのだが、相手が違いすぎた。
 ノルド王国にとっては、恐れていた事態の一つが発生した事になる。

 アスガルド帝国に対して初期のノルド王国は、アスガルド帝国に対して打つ手が限られていた。海上戦力、エーギル海での制海権では圧倒的に優位に立っていたが、単純な戦力面での優位はその程度だった。しかも海上は、ほとんど戦場としての価値がなかった。
 本国近辺の国境線でアスガルド帝国が防戦状態にある以上、数に劣るノルド王国が軍事的にイニシアチブを握ることは極めて難しいと考えられていた。ノルド王国は、国境近辺だけでの兵力数でも劣っている上に、アスガルド帝国軍はノルド王国軍が万が一兵力を一カ所に集中させた場合に備えて、やや後方に予備の機動戦力を保持し、また高度な国内の交通網を利用して移動できるように手配していた。
 一方のアスガルド帝国としては、ノルド王国の財布であるメヒコの銀山を押えてしまえば、戦争は自らの勝利で短期間のうちに終わるだろうと安易に考えていた。だからこそ経費もかかる巨大な騎馬軍団を用い、電撃的な侵攻作戦を実施していた。
 しかしノルド王国は降伏も講和も選ばず、自らも国境線を固めると総力戦の準備に入った。しかも強力な海軍と商船隊を用いてアスガルド世界全域から資源を集め、アルゼンチンなどからは兵力すらノルド王国内に持ち込んで対向した。
 これに対するアスガルド帝国も、短期戦による決着は望めない状況であることを理解する。しかしメヒコ以南への進撃は、亜熱帯ジャングルのため事実上不可能であり、制海権を持っていない以上、南アスガルド大陸への侵攻も難しかった。南アスガルドに対しては大東洋側から海での侵攻ができなくもなかったが、大東洋側のノルド王国海軍の戦力を考えると危険が大きいと判断され、行われることは無かった。中立状態であるエイリーク公国を迂回して進撃するという選択肢も選べなくはなかったが、最低でもエイリーク公国を完全征服する気がないのなら選択も出来なかった。戦後のアスガルド社会で、著しく外交失墜をもたらしてしまうからだ。
 このためアスガルド帝国は、ノルド王国本土への侵攻によって北アスガルド大陸東部での決戦を画策するようになる。

 アスガルド帝国は、勅令により全土に動員を命令し、一年かけて大軍を北アスガルド大陸北東部に集中し始める。その数は一年後には120万人にも達し、鉄道が普及数以前の時代である事を考えると、極めて大規模な軍事力の動員だった。何しろ、ナポレオンがロシア遠征で集めた兵力の約二倍にも当たる。
 これを可能としたのが、アスガルド帝国の優れた統治体制と国民の国防意識、そしてアスガルド帝国が建国以来精力的に進めていた優れた社会資本の整備のおかげだった。近世のローマ街道と言われるアスガルド帝国内の道路網は、同時に構築された兵站能力の高さによって、広大な国土に散らばる徴兵される兵士達を、規模に対して比較的短期間で限られた場所に集中することが可能となっていた。物資の集積についても同様だった。
 しかし大動員は、アスガルド帝国にとって賭けに等しかった。それは国民の大多数が、それぞれ広大な農地を有する自作農だからだ。自作農達は戦争の間、自らの農地を耕すことが難しくなる。
 兵士として動員されるのは、基本的に帝国の多産政策によって得られる次男坊、三男坊だった。だが帝国内に広がる広大で豊かな資本集約型の農場を運営するには、家族総出に加えて奴隷や低賃金労働者、奴隷を使ってやっとという場合が多かった。地域によっては、既に小作農が多数出現しつつあったので、動員される余っている男達が貴重とされている地域もあった。アスガルド帝国の農民は、この当時世界で最も広大な農地を有する人々ではあったし、世界一豊かな農民ではあったのだが、それには相応の苦労と労力の投入が必要だったのだ。
 そして常に広大な荒野を精力的に開拓する事で、「使える」国土と国民を増やしてきたアスガルド帝国内には、自らの国家規模に対して一部の都市下層住民以外に常に使える余剰労働力が少なかった。
 また絶対王政にある国家に相応しく常備軍は備えられていたのだが、開拓国家であるという独特の風土と対向国(ノルド王国と西部のスクレーリング(原住民))よりも大人口だった事が、常に備えられている常備軍の数を少なくさせていた。スクレーリング相手なら、それほどたくさんの軍隊が必要なかった事も、常備軍の少なさに影響していた。
 また国家規模に対して少ない常備軍の存在こそが、国土の開発を促進させ国民への負担を減らしていたので、建国以来長らく常備軍の数は限られたままだった。
 故に多少の長期戦を行うにしても、大軍を用いた戦争を行うには通常で1年、長く見ても2年から3年が限界だった。ナポレオン率いるフランスのようなマネは、したくても出来なかった。
 これに対してノルド王国では、分裂以来、陸では防衛に徹することが国防の基本戦略だった。人口で劣る上に国境線は長く地形障害も少ないので、それ以外選択肢がなかったからだ。またノルド王国としては、陸で守っているうちに優勢な海軍力を用いて戦略的優位を作る戦争を常に構想していた。相手に戦争が「損だ」と思わせる以外に、戦争解決手段が事実上存在しないと考えられていたからだ。このため、街道や要所には防衛専門の城塞が建設され、橋の一部は常に木造のままおかれたりしていた。
 そして、次に能動的に動いたのは、ノルド王国だった。

 ノルド王国は、優勢な海軍を用いてメヒコ湾の制海権獲得競争を仕掛ける。その上でミシシッピ河口の、アスガルド帝国随一の港湾都市ヴィントヘイム市を水上封鎖。さらに別働隊が敵地のまっただ中となるミシシッピ川を遡上して、アスガルド帝国内の通商、交通を混乱させようと画策した。
 いかに大軍でも、食料を始めとした様々な物資がなければ戦うことはできないし、経済が混乱すれば大軍を維持できなくなるからだ。兵站と経済の破壊という、合理的な作戦といえた。
 しかしアスガルド帝国側も、ノルド王国海軍がミシシッピ川の交通を混乱させようと目論んでいる事は常に予測していたので、昔から対策に余念はなかった。ヴィントヘイム市は洪水対策の巨大な護岸工事と合わせた要塞化により、難攻不落の城塞都市となっていた。河川海軍も十分に整えられている。それでもノルド王国海軍の方が優勢だったのだが、この時のノルド王国海軍は惨敗を喫することになる。
 ただし手段は、海戦とは言い難かった。アスガルド帝国側の河川水軍が囮でしかなく、アスガルド帝国軍が長年かけて準備した別の戦力によって、優勢なノルド艦隊は粉砕されてしまったからだ。
 「双頭要塞の戦い」で、ノルド王国海軍はミシシッピ川沿岸に築かれた河川要塞群の集中砲火を浴び、河川進入作戦をことごとく阻止される。ミシシッピ川の広大な河川であるなら、当時の大型船の通行すら十分可能な上に、河川中央部は従来なら火砲がまともに届かないぐらい広かった。しかしアスガルド帝国側は、長い間研究と測量、要塞の建設を行い、防衛を可能としていた。
 アスガルド帝国軍が行った事は、この時代ではある意味革新的な防衛方法だった。それは大砲を水平弾道ではなく曲射弾道で発射することで射程距離を大幅に伸ばし、しかも上から砲弾を落とすことで効果的に打撃を与えたからだ。無論この時代の曲射射撃は、砲の構造、数学、物理学の未熟、そして命中率、発射速度などで様々な問題が発生する。だがアスガルド帝国軍は、緻密な測量と射撃演習、そして多数の火砲を揃えることで克服していた。相手がどこを通るのかが分かっている上に自分たちは国内深くにある要塞で、相手は地の利を得ない船という状況を利用したのだ。状況としては、ジブラルタル海峡やボスポラス海峡と似たような状態の中で、ノルド王国艦隊は粉砕されたと言えるだろう。
 なお、この戦いでは、発明されたばかりの蒸気を動力として動く船が、戦闘にも投入された。とは言っても小型で戦闘力もほとんどなかったため、アスガルド帝国軍を「驚かせる」という以上の「戦果」は示していない。

 この水上での戦いの結果、両者正面からの陸戦で戦争を決する他無いと判断する。ノルド王国にとっては、攻守双方で敗北を喫するという惨敗で、国家存亡の危機とすら言われた。
 しかし両軍は長い国境線に分散しているため、一度の決戦で全てを決するのは事実上不可能だった。また双方の国境線や交通の要衝には、要塞や野戦築城が無数に存在してもいた。豊かなアスガルドの大地が、両国に巨大な軍備と金のかかる防衛戦略を可能とさせていた結果だった。
 しかし、巨大な人口と産業構造が戦争を可能とするようになっていた。
 この当時アスガルド帝国は8000万人、ノルド王国は3200万人、エイリーク公国が500万人、ミーミルヘイム市など自由都市が約100万人いた。他に西部を中心にアスガルド帝国に依然従わないスクレーリングが北アスガルド大陸内には50万人以上いると見られていた。
 またアスガルド本土との境界線となるソルフルーメン川以の北アスガルド、エーギル海、南アスガルド大陸には、合わせて1500万人以上のアスガルド人と混血のミッドガルド人、ほぼ同数のスクレーリングが住んでいると見られていた。
 合わせて1億5000万人であり、ロシアを含めたヨーロッパ世界を凌ぐほどにまで拡大していた。またアスガルド帝国は、白人種による国家としては抜きん出るほど世界最大の国であると同時に、世界的にも清朝に次ぐ人口を誇る大国となっていた。当時ヨーロッパ最大の国だったフランスとロシアですら、どちらも総人口が3000万人に達していなかった時代なのだ。
 アスガルド帝国が初期動員として予定していた120万人という数字も、人口比率でいえば1.5%でしかない。これは同時期のヨーロッパ諸国と比べても低い方だった。ただしアスガルド帝国の場合は、ヨーロッパ全土に匹敵する広大な国土を有するため、辺境領域にあたる西部大平原、ビブレスト山脈、西海岸のアールヴヘイムからの徴兵は行われていない。それらの地域に対しては、義勇兵、志願兵、傭兵のみ公募され、しかも集結地のミシシッピ川支流地域などに着くまでは自費、自給自足による募兵しか行われていなかった。
 しかし西方辺境領からの義勇兵、志願兵、傭兵だけでも3万人を越えていたので、アスガルド帝国がいかに規模の大きな国だったかが分かるだろう。ただし西方辺境領から参加した兵士は純粋なアスガルド人ばかりでなく、混血のミッドガルド人、帰化したスクレーリング、解放奴隷、東方から移民してきた日本人も含まれており、非常に雑多な構成をしていた。こうした所に、アスガルド帝国が拡大の中で、多国籍化が進んでいたことを見て取ることができる。また、主戦場に近い帝国本土地域での動員比率は2%を越えていた地域もあったので、動員比率はヨーロッパと比べても遜色なかった地域もあった。
 また、アスガルド帝国は、戦争が祖国防衛戦争として長期化した場合は、最大で300万人もの動員計画を有しており、この数字は当時としては破格の数字であることは間違いなかった。

 一方のノルド王国だが、仮に総人口の2%を初期動員したとして約60万人となるので、アスガルド帝国の約半分と言うことになる。3%で90万人だ。この数字は、軍事の一般原則である攻撃者三倍の原則という、攻める側が三倍の兵力(兵数ではない)を要素を満たしている。
 しかし両者国境線はあまりにも長く、要塞線や野戦築城で防衛できる程度を越えていた。このため両者の軍が動き回る運動戦、機動戦が主体となる。特に軍主力同士の戦いは、当時の趨勢として運動戦、機動戦となる可能性が高く、ノルド王国が大きく不利だった。
 このためノルド王国は、アスガルド帝国の弱点を突くべく、自分たちの側から攻勢に転じる。
 アスガルド帝国の弱点とは、巨体そのものであった。
 建国から約150年の間に、総人口は約四倍に膨れあがっていた。広大な土地に住むこの大人口を統治し統制してきただけでも、アスガルド帝国は優れた国家だったと表現できるだろう。だが、大国であるだけに動きが遅かった。軍の動員に丸々一年もかけるのが、例の一つと言える。またその軍についてだが、兵士達に与える武器もかなりを動員段階から揃える予定になっていた。特に銃弾、砲弾の備蓄は、100万の軍隊が戦うにはほど遠かった。アスガルド帝国の平時備蓄で戦える数は、せいぜい50万人までだった。このためアスガルド帝国は、開戦以後大東洋の反対側にある日本から、大量買い付けを実施していた。このため日本では、鉄、武器、火薬、制服用の被服、保存食、さらには軍艦に至るまでいくら作っても売れる、いわゆる戦争特需が発生していた。この特需には、海禁(鎖国)している中華商人も一部に加わっており、アスガルド帝国はなりふり構わないで大軍編成を急いだ。
 しかし空前の大軍が編成されるには最低半年が必要であり、動員の早さ、武器、各種加工品の生産力については、ノルド王国が遙かに勝っていた。
 この典型例が被服(服装=軍服)にあった。
 もともと当時のノルド王国は、白と鮮やかな蒼を基調とした軍服だった。アスガルド帝国は近衛隊が黒に白のあしらいで、一般が鮮やかな緑、エイリーク公国は深みの強い深紅が基調と分かりやすい色分けとなっていた。ミーミルヘイムは、市民軍と傭兵軍からなり固有の軍服はないが基本色は深い青で、おのおのの服の上に羽織る丈の短いジャケット又はコートだけが支給される。こうした点は、当時のヨーロッパ諸国と大きな違いはなかった。
 しかし短期間のうちにあまりに多数の軍が動員されるため、アスガルド帝国では軍服が完全に不足していた。このため緑の服なら何でもよいとされたり、正規軍と地方軍を作って動員兵である地方軍の部隊にはリボンや帽子だけで軍服の代用する事を決めていた。そしてこの時用いられた一部の服装が現在の軍服の源流に位置する服装になったり、ベレー帽が軍服に正式に取り入れられたりといった副産物を産んでいる。しかしノルド王国では、動員された全ての兵士に正規の軍服が支給できた。銃、銃剣、銃弾などについても必要量を満たしており、工業生産力の優位を見せていた。

 西暦1811年、アスガルド歴761年春、国内各地で総動員半ばのアスガルド帝国に対して、ノルド王国軍主力がいっせいに動き出す。自分たちが攻撃側となる7月から8月の決戦を見越して準備を進めていたアスガルド帝国にとっては、ほとんど奇襲に近い行動だった。ノルド王国軍は、主力だけで12万、牽制や陽動を含めた各方面を合わせると、30万以上の兵力が一斉に動いたことになり、開戦一年程度で現在進行形のヨーロッパと同規模の戦争に拡大していた。
 これに対してアスガルド帝国は、長い国境線には合わせて25万が既に配置に付き、そのやや後方には2〜3万の予備兵力が数カ所配置され、合わせて10万を越えていた。これだけでノルド王国を上回る数なのだが、アスガルド帝国側には欠点があった。兵力が広い国土に分散され過ぎていた事だ。アスガルド帝国軍は、自らの優位を知っているが故にノルド王国は防戦一方だろうと予測していた。侵攻作戦でも、分進合撃といわれる出発点が分散した形の侵攻を考えていた。帝都から遠い南部諸侯に現地の防衛を兼ねて大軍が配備されていたのも、集中の手間と進軍時の面倒を嫌ったというよりは、完全勝利を求めた侵攻作戦の為だった。
 しかし現実は違い、突如出現したノルド王国軍主力部隊は、一斉に国境を突破して一路アスガルド帝国の帝都フリズスキャールヴを目指した。対する帝国軍は、動員半ばな上に各地に分散した状態だった。
 それでも、本来なら十分迎撃できるはずのアスガルド帝国だが、うまくいかなかった。アスガルド帝国は、ノルド王国軍主力部隊の近辺にいる兵力を根こそぎ集めようとしたのだが、国境線付近の部隊は他のノルド王国軍に拘束され、ほとんどが身動きできなかった。場所によっては、強引に動いたあげくに数に劣るノルド王国軍に背後や側面、移動中を突かれ、その場で敗退して傷を大きくしていた。
 また帝都近辺には既に5万以上の兵力が集められ、これが実質的には軍主力の基幹部隊となる予定だった。しかし貴族や上流階級の数が多い上に帝都近在の部隊のため、軍服や装備は立派なのだが、通常よりも戦闘力に劣るのが現実だった。将校に対して、兵士の数も少なかった。
 それでもノルド王国国境から帝都フリズスキャールヴが人口過密地帯だったことを利用して、アスガルド側は強引に兵力を集めた。また兵站や動員計画を無視して強引に兵力集中を実施した。
 加えて領土内を突進してくるノルド王国軍主力に対しては、かなり泥縄式ながら遅滞防御戦が実施された。
 しかし、優秀な戦闘力と迅速な機動力を見せるノルド王国軍主力を止めることはできず、アスガルド帝国深くに侵攻を許すことになる。早くも5月には、アスガルド帝国皇帝オーラヴ二世とノルド王国国王エイリークソン十一世がそれぞれ軍勢を親率する決戦が行われ、ミシガン湖の南東約150キロのグリトニル平原で両軍合わせて30万近い兵力が激突した。
 これが「グリトニルの戦い」である。
 ノルド王国軍11万に対して、アスガルド帝国軍は16万存在した。防戦側がアスガルド帝国軍であることを考えれば、勝機はアスガルド帝国軍にあった筈だった。
 しかし勝利はノルド王国軍の上に輝いた。
 勝敗を決したのは、単純な兵力数の差ではなかった。

 元来侵攻作戦をあまり考えていないため補給能力の劣るノルド軍に対して、アスガルド帝国の肥沃な穀倉地帯(の備蓄倉庫)そのものが食料供給源となった事と、軍制の違いと各司令官の統率力の違いが勝敗を分けたと言われることが多い。
 軍制については、アスガルド帝国はこの時代の先進国一般に用いられている「フリードリヒ型」と呼ばれるスウェーデンのプロイセン公爵フリードリヒ将軍が産み出した隊型をとっていた。これに対してノルド王国は、ナポレオン率いるフランス軍で威力を発揮している「師団制」をいち早く取り入れていた。
 またノルド王国の軍総司令官は、ノルド王国軍の軍制改革を行いさらには今回の侵攻作戦を立案したヴォルフ・ソールセン元侯爵だった。しかもヴォルフ将軍は、ここ数十年間王国軍を支えてきた人物の一人であり、世界最新鋭の軍制をノルド王国軍に導入したこの時代随一の優れた戦略家でもあった。
 ソールセン侯爵家は王家の系譜にも連なる名家で、代々軍人の家系でもあった。一族の多くが観戦武官などでヨーロッパにも赴いた事があり、ヨーロッパの最新事情にも非常に精通していると言われていた。そして何より勇猛な家系として知られ、この戦いでも既に老齢だったヴォルフも出陣して、国王の側で戦列に加わっている。
 そしてここで一つのハプニングが起きる。
 前線指揮に当たっていたヴォルフの長子である当主オルソン・ソールセン侯爵が戦傷して数日後に死亡し、ヴォルフが当主に返り咲いたのだ。当時ソールセン侯爵主家には、まだ成人した男子がいなかったが故だった。家督を譲った者が返り咲く事はアスガルド人の間、特に貴族でも珍しい事例だったが、戦時と言うことで容認されている。
 そして侯爵に戻ったヴォルフは、自らが鍛え上げた軍制と軍団を自らの手で指揮することになる。この時ソールセン侯爵家を中心とする軍団(2個師団相当約3万人)は、年齢以外ではこれ以上はいないという人物を指揮官に仰ぐ事になったのだ。
 なおノルド王国では、貴族、王族は名目上では男女を問わず高貴なる者の義務を果たすという事になっていた。ほとんど名目上だったが、未婚の女性のための軍事教練まで、貴族の師弟が通う学校で行われたりもした。馬に乗るぐらいは、男女を問わず貴族の嗜みだし、男子ともなれば船に付いての素養も強く求められた。船を操る将校となることが、アスガルド人、わけてもノルド王国貴族の基本的な姿とされるからだ。
 しかし、少年が家督を得てすぐに実務(実戦)を行うという事例は極めて希だった。海の上が主な戦場となるノルド王国海軍では、船主の関係で少年少女が名目上の指揮官(艦長又は提督)となる事もあったが、戦闘に巻き込まれるような事、指揮することはほぼ皆無だった。実際の指揮となると、かつての分裂戦争の末期にごく僅かに見られた程度だ。最後の事例も、多くの指揮官(貴族)が既に戦死または戦傷していたからだ。
 だが既に時代は近世から近代へと入りつつあり、政治制度が他国よりも進んでいたノルド王国では、流石に子供を侯爵家当主にして前線に立たせることを肯定しなかった。
 なお、裕福な家柄でもあったソールセン侯爵家の私兵は、師団化が完了しているばかりでなく、当時は珍しくまた高価だった施条(ライフリング)が施された銃を多数装備していた。この頃の施条銃は、銃弾が他のマスケットと同様に丸い弾丸を使用したが、施条の効果によって射程距離は二倍以上に達し、この戦いでもアスガルド帝国兵から「グングニールのようだ」と恐れられていた。(※グングニール=ノルド教の主神オーディンの持つ槍)
 そしてソールセン侯爵家軍の威力とヴォルフ・ソールセン将軍の優れた指揮能力は、アスガルド帝国最後の抵抗となった帝都前面での攻防戦でも示され、アスガルド帝国軍主力の側面を突き崩して勝敗を決する重要な役割を果たした。
 ヴォルフはノルド王国軍の指揮官として、最初にフリズスキャールヴの軍事用にはほど遠い城門と凱旋門をくぐり、王国の英雄として凱旋を飾る事になる。
 時に西暦1811年6月21日の事だった。
 帝都周辺100キロには、ノルド王国軍主力に数倍する大軍がアスガルド中から集まりつつあったのだが、軍主力が破れて帝都に入城されては戦争は終わりだった。当時の戦争は、まだそうした時代の戦争だったのだ。

 ちなみに、なぜ帝都フリズスキャールヴが簡単に落ちたと言わることがあるが、文明の進展に伴う都市の肥大化が影響していた。当時のフリズスキャールヴは総人口150万を数える、世界有数の巨大都市だった。中世ヨーロッパの城塞都市のような、こじんまりとした街とは何もかもが違っていた。
 帝国の首都となる前に作られた城壁は、市内に完全に埋もれていた。そして国境から1000キロ以上離れているので侵攻される可能性はないと判断され、その後もまともな都市防備は施されていなかった。巨大な湖に面していたので物流用の運河を兼ねた大きな堀などは一応備えていたのだが、それも恒久的な橋梁が街道沿いに建設されていたので、殆ど防衛施設としては機能しなかった。食料の備蓄なども、一般商業活動の物資集積としての程度でしか行われていなかった。
 それに、大量の大砲を市街に向けられてしまえば、その時点で巨大都市の防衛など選択できる筈もなかった。万が一攻撃を受ければ、巨大な都市火災で市民が皆殺しとなってしまう。そして既に時代は19世紀に入り、都市攻防戦を行う時代でも無くなっていた。結局のところ、19世紀という時代は野外決戦で軍主力が負けてしまえば戦争は終わりなのだ。
 帝都落城という言葉も、単に無血入城したに過ぎない。

 「第二次アスガルド戦争」は、予想外にアスガルド帝国の敗北で終わった。
 フリズスキャールヴ郊外の夏離宮で開かれた講和会議においては、アスガルド帝国はノルド王国に対して防衛の難しい地域の領土割譲を行い、さらには莫大な賠償金を支払う事となった。またアスガルド帝国が占領したメヒコは、賠償金の減額という形でノルド王国に返還されている。大幅な領土割譲が行われなかったのは、国民意識の違いによる反発と混乱を嫌ったからだった。ましてやアスガルド帝国の併呑など、ノルド王国は考えてもいなかった。それに、戦争勝つことそのもので、ノルド王国人の自尊心はほぼ満足されていた。分裂戦争(=第一次アスガルド戦争)の雪辱が果たすことは、ノルド王国の悲願でもあったからだ。
 またこの時のフリズスキャールヴ講和会議では、今後の安全保障政策としての取り決め、戦争協定などが交わされた。結果、アスガルド人の外交・戦争に関する制度も近世から近代へと向かうことになる。この時の会議には、オブザーバーとしてエイリーク公国、ミーミルヘイム市も呼ばれ会議に調印もしている。
 そしてこの会議以後、アスガルド内で主権を持つ3つの国はそれぞれの都に公館(大使館)を置くことが決められている。つまり、この会議をもって、アスガルド人は政治的にも近代へと一歩踏み出したのだと言えるだろう。
 なお、この会議に前後して、エイリーク公国は新たにエイリーク王国となり、ミーミルヘイム市もミーミルヘイム共和国という独立国家へと昇格している。これは公館を置くための便宜上のものでもあったのだが、以後国際標準としても適用できるため固定化し、今に続いていく事になる。

●フェイズ14「ナポレオン戦争の行方」