■フェイズ16「帝国主義時代開幕」

 一般的にフレイディース1世は、対外的には開明的な変革者にして改革者、国内的にはアスガルド帝国中興の祖と言われる。そして同時に、帝国主義の扉を開いた人物として語られることも多い。「フレイディース時代」という言葉は1830年代に登場し、その後産業革命の波と共に世界を覆っていく事になる。
 そして19世紀を代表する言葉となった。

 フレイディース1世の治世そのものは、西暦1811年から1854年(アスガルド歴761年から804年)まで続いた。43年の治世は、アスガルド歴代皇帝の中では最も長い。しかも、60才の時に禅譲によって次代の皇帝に帝位を明け渡すも、1879年に85才で没しているので禅譲から四半世紀の間存命だった。そして子供の頃の父帝への助言を含めると、生涯全てにおいて帝国の政治に影響力を与え続けたと言えるだろう。このため「大帝」や「母帝」として称えられる事もある。
 フレイディース1世が生きている間に、アスガルド帝国は後期型の絶対王政から立憲君主体制に移行し、皇帝の権力はある程度残るも民政議員選挙と民政議会開設を行うまでになった。憲法自体も、初期の欽定憲法から民主憲法へと順次移行できた。禅譲後の彼女が存命の間に皇帝となった第九代皇帝のフレイソン二世、第十代皇帝のフレイソン三世は、皇帝となって後は立憲君主としての自らの役割をよくわきまえていた。宰相や各大臣となった者達も、概ね自らの職責をうまく全うしていった。1850年代から1880年代にかけては、平民出身のエリアス・バルドルソンが外相や二度の宰相になるなど政治家としての辣腕を振るっている。女帝自身も、禅譲後の晩年まで悪政、愚政を行うこともなく、おおむね名君、賢君であり続けた。アスガルド帝国国民からも、「大帝」や「母帝」と称えられたのも頷けるだろう。
 帝国自身もより豊かとなり、それまでとは違い世界に大きな影響力を発揮するようにもなった。
 アスガルド、ヨーロッパ(主にフランス)、アジア(主に日本)で世界の棲み分けが半ば固定化し、さらにノルド王国の存在があったため、アスガルド帝国が世界に覇を唱えるには至らなかったが、その国力は世界最大へと躍進した。

 一方では、いち早く産業革命を達成したアスガルド大陸にあるアスガルド帝国、ノルド王国が、この時点では世界を完全に握れなかった事を意味している。ヨーロッパ列強と日本が、少し遅れて産業革命に自らも突入したからだ。そして産業革命を達成した国々は、産業革命を達成しそしてさらに飛躍させるため、次世代の帝国主義へと突き進んでいった。
 しかしアスガルド人たちは、止めることが難しい技術の流出と輸出に対して、一つの決めごとを設けていた。それは自分たちの国に学びに来る事、技術をもらいに来る事が大前提であり、自分たちの側から輸出したり人を派遣することを、国民に対しても国が許可した以外では原則禁止していた。特許や技術基準に関してもうるさかった。国外で技術漏洩した者は、厳しく処罰もされている。当然だが、やって来る者にはアスガルド語とルーン文字、アスガルドの単位系修得を必須として求めた。
 ただ、別に技術輸出を禁止しているわけではないので、大したことはないと思われるかも知れないが、ヨーロピアンにとって心理的にかなり過酷な条件だった。何しろアスガルド人の勢力圏では、依然としてキリスト教(+ユダヤ教)がほとんど禁じられているため、ごく限られた場所を除いて司祭や牧師もいなければ各教会もないからだ。このためヨーロッパ諸国の産業革命は、人の意識の面で多少の遅れを見せることになり、アスガルド人も意図して行った嫌がらせであった。
 ただし別の一面もあり、今までヨーロピアン世界では「神秘のベール」「宗教の闇」で覆われているとすら言われていたアスガルドの実状を、多くの人間に知ってそれを伝えて貰うという面だ。

 なお、たいていの場合、産業革命には、製品を作る場所(国)とそれが可能な一定の教育がされた国民、製品を売るための市場、原料供給地、さらに次の段階として資本投下先となる次世代の植民地や未開発の土地が必要だった。
 19世紀半ばまでに産業革命に突入できた列強は、アスガルド人によるノルド王国、アスガルド帝国、エイリーク王国、ミーミルヘイム共和国以外に、ヨーロッパのフランス、スウェーデン(バルト帝国)、ネーデルランド(ライン連邦)、オーストリア(ドイツ)、イングランド、東アジアの日本になる。
 ロシアは統治体制の古さもあってまだ産業革命には至らず、イタリア地域は民族的な統一がままならないので、北部を中心に相応に工業化は進んでも帝国主義化には至れず、列強ではなかった。また上記したうちでも、オーストリアは産業革命の進展がやや遅れていた。
 他の地域では、インド地域とアフリカ地域が列強の圧力の前にのたうち回り、世界で最も巨大な人口を抱える清朝は、いまだ近世のまどろみの中で停滞していた。
 アスガルド、ヨーロッパ西部の先進地域以外で特に大きな変化が見られたのは、中南アスガルド地域と日本だった。
 順に見ていこう。

 中南アスガルド地域は、古くは16世紀の頃からノルド王国の植民地だった。16世紀以後、ほぼ全ての地域がノルド王国領であり、原住民のスクレーリングを除けばアスガルド人以外が立ち入ることを許さなかった地域だった。
 エーギル海のある中部アスガルド地域の主に島嶼部は、主に砂糖、煙草などの南方系単品作物の栽培をするための拠点として機能し続けていた。特に砂糖栽培では欠かせず、変わり種としてはアスガルド帝国領のフィマフェング島の一部では、世界最高品質の綿花が栽培されたりもしている。ただし栽培するのは、別の場所から奴隷として連れてこられた連れられてきたスクレーリング達だった。
 南アスガルド大陸は、主に金、銀、銅、硝石の供給地とされていた。17世紀後半になると、温帯地域のアルゼンチンへのアスガルド人農民の入植が少しずつ進められるようになり、その後入植は各地に広まっていった。入植したのは主にノルド王国の人々であり、それ以外であっても必ずアスガルド人だった。ごく一部に、同じノルド系もしくはケルト系人種のヨーロピアンが加わっていることがあったが、この場合キリスト教を棄てて入植しているので、準アスガルド人と言って問題ないだろう。ヨーロッパから専用の移民船が出ることも無かったので、移民数もごく限られていた。
 そして南アスガルド大陸への入植は、ノルド王国で人口が飽和するようになった18世紀に入ると活発化し、19世紀初頭までには合わせて1000万人を越えるアスガルド人が住むようになっていた。先住民との混血も非常に多くなっていた。人が増えると共に、社会的熟成と発展も進んだ。
 当然と言うべきか、現地の人々はアスガルド人としての権利を求めるようになるが、ノルド王国は現地を従来の開拓地の延長としてよりは純粋な植民地として見る向きが強く、現地の不満はそれなりに溜まっていた。そうした中で第二次アスガルド戦争と、ノルド王国のヨーロッパへの軍事干渉が長期間実施され、そこで必要とされる税負担のかなりを植民地が負わされることになる。
 必然的に反発が強まり、一時は内乱状態に近くなって、ノルド王国は多くの努力を各植民地に注がねばならなかった。
 そうして1822年には、生粋のアスガルド人移民が多いアルゼンチンの自治を認めるに至り、以後十年ほどの間に多くの地域で今までよりも高いレベルでの自治もしくは準じた権利を与えなくてはならなくなってしまう。
 このためノルド王国は、この間経済、政治双方の混乱が見られ、隣国のアスガルド帝国への積極的な政治干渉を行うことも出来ず、しかも植民地経営への努力のために国力を吸い取られ、産業革命でもアスガルド帝国に追い越されてしまう。広大な植民地を持ったが故の弊害が出た形だった。
 しかし完全崩壊に至らずにむしろ再編成に成功し、ノルド王国を中心とした連合体として中南アスガルド地域は改変されることになる。これがアスガルド歴775年(西暦1825年)に成立した「ノウム・ガルザル憲章」であり、基本的に以後のノルド王国は「連合王国」と国号を変更し、各地域も王家を立てて内政自治を進めた上で、「ノルド連合王国」と呼ばれる事になる。また南アスガルド全体を、アスガルド人との混血人を意味する「ミッドガルド」の名で呼ばれることも増えていく。
 だが、再編成が完全に成功したわけではなかった。南アスガルド大陸の大東洋側の一部はアスガルド帝国の権利を認めざるを得ず、事実上の独立戦争を行ったメヒコ共和国の独立も受け入れなければいけなかった。

 メヒコでの独立運動は、撤兵したアスガルド帝国軍にかわってノルド王国軍が入ってくる頃に始まった。独立戦争として戦闘が始まったのは、アスガルド歴767年(西暦1817年)で、そこからはノルド王国にとってかなり不毛な戦闘が、メヒコ地域で断続的に続くことになる。メヒコでの独立運動はアスガルド帝国が水面下で支援た事も、ノルド王国のメヒコでの影響力低下を助長した。それでもノルド王国は、他のアスガルド地域へ独立運動が飛び火することを警戒したため、多くの努力を投入せざるを得なかった。ノルド王国の姿勢が変わったのは、「ノウム・ガルザル憲章」成立以後であり、以後メヒコでの戦いは下火となり、独立に向けた交渉と調整が本格化するようになる。
 メヒコ連邦共和国の完全独立は1830年で、国の上層部は全て現地のアスガルド人が牛耳っていた。
 なおメヒコ地域は、最も早くノルド王国の植民地となった場所で、19世紀初頭の頃には既に主要銀山も枯渇しており、当時のアスガルド人の中では遅れた農業地域でしかなかった。それでも開発と移民が早かったため、アスガルド系の人口がそれなりの数に増えて固有の社会を形成しており、そうした点から独立できたと言えるだろう。先住民を含めた人口規模も、アスガルド世界第三位だった。
 また独立に至れたのは、第二次アスガルド戦争の序盤でアスガルド帝国に占領されていた間に、ノルド王国の勢力が大きく殺がれ、現地土豪・豪族が地方権力を握るようになっていたためだった。そしてこの時自立心が強くなった事が、独立への大きな原動力となっていた。
 独立ではアスガルド帝国の主に水面下での援助も受けたが、ノルド王国、アスガルド帝国のどちらにも傾き過ぎず、可能な限り他のアスガルド国家と対等の立場を望む姿勢を示していた。いわば、五番目のアスガルド人の国家だった。
 そしてメヒコの独立は、その後のアスガルド情勢をむしろ安定化させる緩衝剤となっていく。1840年代にはノルドとアスガルドの融和も再び進められるようになっている。そして独立後にはかなりの苦労が伴われたため、南アスガルドに対しても一定の抑止力となった。独立したらどれだけ苦労するかの「見本」とされたわけだ。

 一方その頃、東アジアの玄関口である日本では、19世紀前半に大規模な政変が起きていた。
 西暦1603年に成立した江戸幕府は、日本史上では随一といえるほどの優秀な中央政府であり、近世的にはほぼ完成された官僚専政型の封建体制だった。世界的に見ても、封建体制としては優れていた。戦闘階級である武士を、完全な官僚としてしまった点でも優れている。
 しかし日本史上での他の封建体制と江戸幕府には、少し違いがあった。江戸幕府は、日本史上初めてと言えるほど対外進出に熱心だった。
 北に向けては、蝦夷、北蝦夷、千島、北海、北海州(ユーラシア大陸北東端部)と進み、南では琉球、小琉球(台湾)、スンダ地域、大洋州(オケアニア=オセアニア)と進んだ。
 こうした進出は、日本が17世紀に外航用帆船と遠洋航海技術を手に入れた事と、日本人にとって進出する必要性があったからだ。
 進出する必要性は、日本国内での木材資源、食料、燃料原材料(鯨油)、さらには貨幣とする為の金(黄金)の不足である。18世紀に入ると日本国内での人口飽和の解消手段として、入植地としての海外進出、より遠い流刑地の獲得のための海外進出が行われた。
 このうち北の植民地は、近在の蝦夷島の一部が入植地として活用された他は、主に金、毛皮、木材、魚介類の獲得を目的としていた。寒冷な気候なため農業移民にはまったく適さず、現地の人口密度が低すぎるため、市場としての価値もほとんど無かった。幕府による半ば命令で、一定数の屯田兵的な移民事業も行われたが、一部河川の流域に若干数住むのが、当時の日本人の限界だった。しかし北方の獣の毛皮は高値で取り引きされるため、日本人達は獲物を追う形で大陸北部へと分け入っていった。
 南での進出では、砂糖、香辛料などの栽培、獲得のため東南アジア地域への進出が行われ、地域の半分近くに強い影響力を持つようになっていた。台湾島には、木材資源獲得のための森林伐採後に、農業移民が積極的に行われた。
 一方で、18世紀以後に南半球の温帯気候区分にある豪州大陸が、国内の人口対策のため入植地として開発が進められ、より遠方にある新海諸島の特に気候が厳しい南島が流刑地として活用された。他にも南大東洋にある島のかなりに進出が行われ、日本人自身が持ち込んだ疫病により激減した先住民にかわり、現地に入植していった。
 18世紀後半に入ると、新海諸島も一般の入植地として活用されるようになり、現代に入り最後の楽園や常春の島とも言われる新種子島などにも日本人が開拓地を切り開くようになった。
 開発速度、進出速度自体も、ヨーロピアンに付け入るスキを与えない程度には早かったし密度も持っていた。日本人としては、泥縄式であるが地の利と天の時をうまく使ったわけだ。

 そうした中で、日本とアスガルド帝国との間に、いくつかの問題が発生した。
 一つは、当初共同入植地だった小琉球(台湾)。しかし台湾は、距離の問題から結局日本が全てを得ることになった。19世紀に入るまで、アスガルド帝国は近隣のフレニア植民地すら十分に統治出来ていなかったので、当然と言えば当然の結果だった。
 その後起きた問題が、捕鯨問題だった。捕鯨によって得られる鯨油は、19世紀後半に入るまで重要な工業資源だった。照明油、蝋燭、潤滑油、石けんなど使い道は広かった。そして広大な大東洋は世界でも鯨が最も多い地域で、17世紀半ば以後、西は日本、東はアスガルド帝国という棲み分けが行われていた。だが、徐々に乱獲によって鯨の数が減り、お互いの境界線近くにまで進出。その境界線として、また北半球最後の豊富な漁場として注目されたのが、ハワイ諸島だった。
 ハワイには日本とアスガルド双方の捕鯨船が入り、縄張りを巡って船員同士の小競り合いすら起きるようになる。このため両国が会談を持ち、国力に勝るアスガルドが権利を買い取る形で得ることになった。このため日本は、以後自らの勢力圏に含まれている大東洋の南半球の漁場開拓を進めるようになる。同地域の島々の多くが最終的に日本の勢力圏となったのも、捕鯨問題とそれにともなう日本人の進出が大きく影響していた。
 そして南の地域で捕鯨が盛んになると、豪州、新海の移民人口も増え、18世紀末頃に豪州で豊富な金が見つかると、豪州の人口は一気に増えた。新海諸島でも、北島で頑強な抵抗をした原住民のアボリジニを力で駆逐して、日本人の入植が本格化している。
 だがこの時点で、江戸幕府は植民地統治を誤ってしまう。
 日本列島以外にも、今までと同じような厳格な封建社会を持ち込もうとしたのだ。
 しかし現地には、入植した新たな開拓農民としての土豪や名主はいても、武士の領主はほぼ皆無だった。武士が入植した場合でも自ら開拓者となった在地領主であり、江戸時代型の官僚的特権階級とは違っていた。住む人々も、開拓民ということもあって独立気風が強かった。そうした場所に、代官所、奉行所などの役所を設けて税を徴収し、その税を派遣した武士官僚達の給与として分け与える体制を作ろうとする。
 しかし豪州大陸は、日本とは比較にならないほど地力(土地の滋養分)が貧しく、気候も厳しい場合が多かった。温暖な地域でも10年単位で気候が大きく変化する事が多いため、長年住んでいる入植者ですら土地を頻繁に移動していた。そうした場所では余剰生産物も少なく、人口密度もなかなか高くならなかった。地力保持が比較的行いやすい水田による農業が出来る地域は、比較的雨量の多い南東部の一部と一部河川での灌漑農業に限られているため、どうしても現地の農民達は移動しながら農業を行わざるを得なかった。
 当然、日本列島基準の封建的な租税制度、官僚制度を持ち込むことにも大きな無理があった。土地を基準に税を決めても、10年も経つと耕作不能となった農地が簡単に放棄されるからだ。
 そして入植地と日本本土の温度差から簡単に対立が深まり、日本での大飢饉の際の食料拠出命令によって、簡単に大規模な内乱へと発展した。

 なお、日本での内乱の発端は、ナポレオン戦争にあった。
 とはいえ、日本は直接ナポレオン戦争にあまり関わってはいない。武器などの輸出による戦争特需において関わり、船を守るために海で多少戦ったぐらいだった。これも、第二次アスガルド戦争を当て込んで大量に作った武器を捌くのが発端で、地理的な関係から主にフランスを顧客とした。
 しかし1816年のウィーン会議と共にナポレオン戦争は終わり、世界の武器市場は暴落して日本国内はひどい不景気となった。またヨーロッパ情勢が一応の安定を見ると、ヨーロッパ各列強は再び海外進出を強化するようになる。
 そうして江戸幕府は、日本国内での景気回復に失敗。長期的な不景気に突入し、民衆の幕府に対する信頼は低下した。こうした中で幕府は、対外国防費を捻出を理由に、日本列島以外での増税を実施した。
 しかしこの時期の豪州大陸では、大東洋東部の海面温度の関係で10年単位の小雨期に入って不作が続いていた。このため増税に対して強い反発が起きて、それを幕府は軍を派遣して豪州、新海双方で発生した内乱鎮圧を実施した。幕府が日本列島から兵を派遣したのは、西暦1822年の事だった。
 当初内乱は、簡単に解決すると見られた。
 しかし現地の人々は、沿岸部に押し寄せた幕府軍に対して、奥地に後退しながらの遊撃戦や不正規戦を実施して対向。内乱は誰も予想しないまま簡単に泥沼化し、幕府は税が得られないのに軍事費を投じ続ける悪循環に陥っていた。しかも10年を経ても、問題が解決するどころか酷くなる一方だった。日本の弱体化を図ろうとするヨーロッパ諸国の船が豪州にやって来て、幕府の目を盗んで反乱勢力に武器などを供給した。当初安定していた新海諸島など大洋州各地での混乱も起きるようになった。
 これに対して幕府は一層の締め付けを実施するも、豪州、新海ではさらなる反発を招いた。日本本土や他の植民地でも、飢饉でないにも関わらず増税や食料拠出を強制するようになった。兵糧獲得と、戦費や政府を運営するための増税措置だった。だが当然日本人社会での混乱は広がり、1830年代に入る頃には日本本土でも政情不安定となり、テロすら横行するようになる。「幕末」と言われる時代の到来だった。
 そして1836年、日本列島で未曾有の大飢饉である「天保の大飢饉」が発生。日本中が大混乱に陥る。
 こうした中で、日本本土の雄藩と呼ばれる裕福で先見の明のある藩が、日本を変革すべきだとして一気に行動に移る。
 ここで事態は、日本人社会全体を巻き込んだ動乱期へと一気に突入。将軍が徳川家斉から徳川家慶に変わると、幕府が体制を整える前に各藩が行動に出て、事実上の内乱状態に突入。
 1840年には、古代権力であり権威者として悠久の歴史を生きながらえてきた天皇を頂点とする新たな日本政府が誕生する。

 この内乱と日本の混乱に際してアスガルド帝国は、当初は幕府を支持するも、最終的に改革派へと鞍替えして、兵器、軍需物資の輸出でもそれなりに潤うことができた。また代金代わりに幾つかの領土を譲り受け、日本新政府との関係を深めることでアジア進出をより容易なものとした。
 またアスガルド帝国は、日本が混乱している間に東南アジアでのヨーロピアンの進出を最低限にするための行動を熱心に行い、これを日本に対する「恩」として高く売りつけていた。
 その中でのアスガルド帝国最大の収穫は、北海州と日本人が名付けていたユーラシア大陸北東部を、日本が防衛不可能と判断して売却を受けることが出来た事だった。

 当時、日本領の北海州は、ロシアの圧力と脅威を受けていた。
 ロシア帝国は、建国以来常に冬に凍らない海を求めるも、西と北は常にスウェーデンに押さえられていた。南に出たくても、半世紀ほど前まではオスマン朝トルコの力がまだ強く、その後では他のヨーロッパ列強が睨みを効かせていた。しかも黒海に出ても、さらにボスポラス海峡などの障害が待ちかまえていた。ロシア帝国自身も、ヨーロッパ西部やアスガルドに比べて貧しく産業も未発達で、社会的にも遅れたままだった。ヨーロッパからは、依然として「東方の蛮族」と見られていた。しかし、不足する国力を自覚しているが故に、国力拡大の機会は虎視眈々と狙っていた。
 このため日本での混乱を見て、ユーラシア大陸北部全域の制覇と大東洋の進出を企てたのだ。西暦1820年代中頃以後、既に日本は慣れない混乱と内乱で、諸外国に対して弱みを見せつつあった何よりの証拠だった。
 これに対して、後背からのキリスト教徒の圧迫を常に警戒するアスガルド人達が行動を起こし、中でもアスガルド帝国が日本への干渉と働きかけを強める。アスガルド帝国が、日本の江戸幕府に北海州購入を持ちかけ始めたのは、1820年代中頃と言われる。1820年代末頃には日本側の理由で話しが具体化し、既に財政が破綻していた当時の江戸幕府に対して、アスガルド帝国は自分たちにとっても海を隔てて隣にある北海州の購入を本格的に打診。金額は、財源不足に喘いでいた江戸幕府が大きな魅力を感じるものだった。また江戸幕府の伝統政策には、アスガルド人と共にヨーロピアンを東アジア、大東洋に入れないというものがあった。
 このため話し合いは比較的早く進み、北海州は金貨3000万枚で日本からアスガルド帝国に売却される。これは即金で支払われたため、金貨とされている。
 広大な面積ながら北の僻地の割に値段がかなりのものとなったのは、日本人により多少は開発が行われていた事と、域内に比較的有望な金鉱があったからだった。加えて、アスガルド帝国にとっては、海峡を隔てた場所にあるという要素が金額に大きく影響していた。本土と言えるアスガルド大陸のすぐ側にヨーロピアンの一派の国が来るなど、あってはならない事だからだ。
 また日本人達は、現地に残留する日本人の生活、身分などの保障をアスガルド帝国との間に約束しており、当時としてはかなり対等に近い売却となった。現地に残った日本人の屯田武士(=開拓土豪武士)の多くも、そのままアスガルド帝国の戦士や貴族に列せられている。責任感から現地に残った代官(総督府)が、役目をそのままな上に階位を引き上げる形で帝国伯爵、日本で言う大名に叙せられたため、現地日本人社会に大きな衝撃を与えたりもしている。
 購入の際の調印式にはフレイソン皇太子(後のフレイソン二世)が日本に来訪し、アスガルド帝国の日本に対する誠意を見せると共に、意気込みの高さも同時に見せるものとなった。ただこの時のフレイソン皇太子は、日本各地を見聞(観光)して回るために来日したとも伝わっているので、日本への物見遊山ついでだったという説もある。この時の皇太子の日本旅行は非常に豪勢だったと記録にも残されており、江戸の歓楽街(吉原)を一夜借り切って豪遊したという都市伝説並の逸話すらあるほどだった。
 そしてこのような与太話が後世にまで残るように、この時の江戸幕府とアスガルド帝国の領土売却は友好的に行われたといえるだろう。

 アスガルド帝国の親日姿勢はその後も続き、日本で近代的な新政府が出来た後のアスガルド歴793年(西暦1843年)には双方の皇族婚姻も行われた。
 これは、何としてもヨーロピアンを自分たちの勢力圏や後背地(東南アジア)に入れたくないというアスガルド社会全体の強い意志と決意の現れであるど同時に、膨張期のアスガルド世界全体で行っていた対ヨーロッパ包囲網の一環でもあった。日本という有色人種国家の一つを殊の外重視したのも、病的なほどの対キリスト教、対ヨーロッパ国家戦略があればこそだった。なお日本との友好関係は、アスガルド帝国だけでなく他のアスガルド諸国にも及んでいる事は言うまでもない。
 一方、1840年(紀元2500年)に成立した日本新政府にとって、国家の近代化と新陳代謝の急速な促進が求められていたが、これを自国、自民族だけで行うことが難しかった。200年以上安定して続いた江戸時代の旧弊が覆い尽くしていたし、新規技術や新たな概念について日本で不足するものが多かったからだ。そして何より、国民国家へと変化するためには、日本人の意識を大きく変革させることが重用視された。
 このため新政府が率先して自ら「新洋化(=アスガルド化)」を進めることで、200年以上続いた江戸時代の旧弊を打破しようとした。故に、アスガルド皇族を天皇家に迎え入れ、また自らの皇族をアスガルド皇家に輿入れさせることに非常に積極的だった。アスガルド帝国からの申し出についても殆ど二つ返事状態で、アスガルド帝国からの輿入れの際の随員や要望についても、出来る限りの配慮を行う旨を自ら伝えたほどだった。少し前までのヨーロッパの婚姻外交がそうだったように、権力者同士の婚姻を機会として相手文化を一気に取り入れようと言う意図だったからだ。そしてアスガルド帝国側も、日本新政府の要請に応える形で百名を越える随員と、お召し船を含めた膨大な量の輿入れ道具、そしてアスガルド社交界の先端文化を日本の新たな中枢へと注ぎ込んだ。
 アスガルド皇室のヒルド皇女(フレイディース一世の第四皇女・末子・当時16才)の日本皇室輿入れは、日本政府を挙げた非常に盛大かつ公に見せる形で行われ、国を挙げての祭りとして日本を変化させる起爆剤の一つとされた。江戸から東京となった日本の新たな帝都では、大規模なお披露目の行進までも行われ、婚礼の際の写真が多数公開された。親王(注:皇太子ではないが有力皇族)の妃となったヒルドは、その後も公式行事や舞踏会などにも頻繁に顔を出して日本人の啓蒙に努めた。
 この副産物として、銀色(白金)の豪奢に波打つ髪を持つアスガルドの妃は、日本の社交界ばかりか国民の人気者になり、日本とアスガルド帝国の友好を強めると共に、日本近代化の一つの象徴と見られたほどだった。おかげでと言うべきか、日本皇室のアスガルド化も一気に進展した。無論、旧主派、保守層、没落武士からの反発も強かったが、それ以上の賛同の声に押し流されていった。

 ちなみにアスガルド諸国が日本から購入した新たな土地名については、北海州を直訳した「ノルドゼーランド」では他の地名や自分たちの民族名にも被るため、「ホッカイ」がそのまま使われ「ホッカイランド」や「ホッカイア」とされた。
 また一方では、このアスガルド帝国による北海州買収が、日本人に憂国の感情をいっそう喚起する事になり、外圧として受け入れられた事はある種の皮肉と言うべきだろう。

●フェイズ17「シベリア戦争」