■フェイズ17「シベリア戦争」

 ユーラシア大陸北東部の「ホッカイア(北海州)」という新たな領土を得たアスガルド帝国は、近在のフレニア諸島、対岸のアラスカなどから続々と北海州入りした。そしてすぐにも、不確定のままだった境界線近辺での自分たちに都合の良い占有権を主張し、ウィーン体制成立後のすぐから現地の日本人を威嚇していたロシア人に対する積極的な挑戦を実施する。その行動は、遂に自分たちが単独でヨーロピアンの一派を叩けるという、ある種の民族的興奮に満ちていた。
 アスガルド帝国人にすれば、遂に「邪教討伐」の時が来たという心象風景になるだろう。
 「ヨーロッパを叩け」というフレーズは、アスガルド人にとって何よりの士気高揚だった。

 アスガルド帝国の準備は周到だった。
 ホッカイア進出のため特別訓練の部隊編成と訓練は、西暦1829年(アスガルド歴779年)に本国北部領域のニヴルヘイムや極寒の地のアラスカで開始されていた。購入すぐの1833年の初夏には、1個旅団5000名の兵力が黒竜江を遡って現地入りしていた。部隊が帝国本土を旅立ったのは、日本からの正式購入前の事だった。
 そして北海州が正式にアスガルド領となると、小規模な現地ロシア勢力との間にすぐにも国境紛争が発生。小規模な小競り合いは徐々にしかし急速に拡大して、紛争、そして戦争へと発展。早くも購入翌年の1834年7月には、アスガルド帝国が宣戦布告する形で「シベリア戦争」が勃発する。
 文明の利器をもってすら人が入ることを拒むような北辺の地に、大挙して船と物資そして軍を送り込んだことに、アスガルド帝国の意図、そして野望を見ることが出来るだろう。
 戦争初期の戦場は、エニセイ川、夏川(レナ川)の間とバイカル湖近辺。この辺りが、日本領時代のロシア(+モンゴル系民族)との自然境界線となっていた。そして現地は、余りにも人口密度が低すぎるため、日本、ロシア共に自らの領有権を明確に示すことが難しかったからだ。
 アスガルド帝国が動員した戦力は、初期の段階で全てを合わせても2万人ほどだった。本国からの新規部隊、アラスカの北方辺境兵(ノルドランド)、元フレニア駐留軍からの転属部隊、北東アジアにいた艦艇乗り組の海兵隊員、さらには北海州の現地日本人の侍達に、ロシア人を恨むモンゴル人などの騎馬民族、などなど雑多な勢力で構成されていた。中には、純粋に金で雇われた日本人や漢族、蒙古族の傭兵もいたりした。しかも、余りにも広大な地域の為、一カ所に全ての兵力が固まっているわけではないので、兵力の密度はアスガルド大陸やヨーロッパと比べると驚くほど低かった。分隊(10名ほど)の騎馬偵察隊などザラだった。
 対するロシアは、彼らにとってはユーラシア大陸北辺の所有者が変わるという突然の外交上の変化にとまどい、対応が後手後手に回った。今までのシベリア(ロシア側通称)は、消極的な日本人との小競り合い以上の戦争は想定していなかったため、一部重要拠点の守備部隊と収容所や監獄の看取を除くと、コサックが広く浅く屯田兵として駐留するばかりだった。シベリア東部で限定すると、数は3000名を越えていなかった。最東の拠点だったバイカル湖近辺だと1000名程度でしかなく、アスガルド軍の最初の攻撃でバイカル湖近辺のコサック達は完全に駆逐されている。現地に住むロシア人も、その殆どが流刑として送り込まれた様々な罪人とその看取達で、開戦当時ウラル山脈より東に住むロシア人の数は、多く見積もっても10万人程度だったと言われている。何しろ罪人も看取も、人口を増やすことがないからだ。しかも罪人には少数民族や政治犯が多く、ロシア帝国に対して反抗的だったため、「解放後」にアスガルド帝国に寝返る者もかなりいた。
 現地の産業についても、既に毛皮も取り尽くしていたので、毛皮となる獣の畜産化や、精々罪人達にシベリアの木を切らせて、それをロシア本土に送るぐらいしかなかった。コサック達も、一部で農業を行った以外では、現地の人々と同様に羊や牛、トナカイの放牧などで細々と生計を立てるしかなかった。交通手段が限られ過ぎている上に寒冷な気候のため農業を行うには難しく、また行うだけの資本と技術が後進国のロシアにはなかった。

 広大な陸地での戦闘のほとんどが、騎兵、馬を用いたやや古くさい戦いとなったが、世界で最も辺鄙で寒冷な場所での戦争は双方ともに大軍を用いた活発な戦闘は行いたくても行えなかった。戦いそのものも限定され、夏場のシベリア低地は一面湿原や泥の海となるので氷が溶けた河川以外が使い物にならなかった。逆に冬は世界最強の極寒さのため、人間の限界に挑むような戦いが断続的に続けられることになる。またアスガルド人は、現地に入ったばかりで土地に不慣れだったが、今回の戦争に備えて厳しい訓練を積んだ兵士が多い上に、現地入りした兵団を中核戦力とした事、現地に慣れたモンゴル系住民やツングース系住民、現地日本人移民、モンゴル傭兵などを案内や先鋒とした事で欠点は補われていた。現地のモンゴル、日本の馬は小さく一見非力に見えたが、シベリアの気候に対してはヨーロッパ生まれの馬よりも余程合致した耐久力を持っていた。北部に住むアスガルド人が使い慣れていたトナカイ(カリブー)も、輸送手段などで活躍した。
 その上ロシア帝国に対して総人口で三倍、経済力で10倍以上の差を持つアスガルド帝国は、北辺での領土拡張を本気で行い、必要な人と物を遠路船で運び込んできた。足りない分は、日本すらも後方拠点として活用し、日本で調達できる近代的文物は、本国からわざわざ運ばずに日本人に代金だけ渡して多くを日本で調達した。そうしてロシア人への圧迫を継続し、希薄なロシア人を一気に西へと押し戻していった。
 しかもアスガルド帝国は、自らの領土拡張の決意を示すべく、フレイソン皇太子を元帥、つまり現地軍の鎮定軍総司令官として派遣した。同皇太子は、1832年の来日後はフレニアなどを視察中だったが、この戦乱を予期しての長期のアジア派遣と見て間違いないだろう。
 そしてこの戦役以後、ユーラシア大陸東部、北部を縦横に暴れ回る事になるフレイソン皇太子は、その功績から後に「征服帝」という別名を国から贈られている(※王(又は皇帝)の別名は、古いノルド系国家の特徴の一つ。本名はフレイソン・アレクサンデル・チュール・カイザル・ステイグリム/1811年生まれ)。
 父(ヴァンヘイム大公爵)を越える身長2メートル近い長身で、騎兵を愛する古代のローマ皇帝のような人物だったと伝えられている。1840年頃から撮影されるようになった写真でも、他者から抜きん出る筋肉質な巨体は大きな存在感を放っている。また、父と同様に赤毛だったため、アスガルド帝国人からは赤毛のエイリークの再来とも言われた。
 性格は、戦いと酒と女性を愛すると自ら豪語するほど豪放磊落で、人間的魅力に溢れた人物だったと言われる。しかし単に勇猛果敢な武人だっただけでなく、雑多なホッカイア(北海州)のアスガルド軍と民を、非常にうまくまとめ上げる手腕も発揮している。軍事についても、歴史とその後の記録が示すとおり非常に優れた指揮官だった。そして彼自身の存在が、現地での軍の運営を円滑にすると同時に、アスガルド帝国をその名の通り帝国的な侵略国家として世界に印象づけることになったとされる。
 深紅のマントをなびかせて大柄の黒馬に騎乗する姿は、まさに神話に出てくる軍神もしくは侵略者の首魁それだった。ロシア人達は、フレイソン皇太子の事を「悪魔」や「魔王」もしくは「覇王」といって恐れた。

 もっとも、世界で最も辺鄙な場所での戦争は、近代的文物の存在が勝敗を決することになった。
 この戦争でアスガルド帝国側の輸送手段として威力を発揮したのが、当時最新の文明の利器の一つだった蒸気船だったからだ。
 今まで北極海には、海流と風の影響で氷が減る夏ですら帆船ではまともに入り込む事は難しく、大東洋側から入ることはほぼ不可能だった。しかしアスガルド帝国軍は、蒸気の力で機動する船によって北極海へとやすやすと入った。初期の段階でも、日本からの購入すぐにも北極海から夏川(レナ川)の拠点に兵と物資を運び込み、その上で戦争を始めていた。しかも丈夫な蒸気船、薄い氷で傷つかないようにスクリュー駆動の蒸気船で「北斗艦隊」を仕立て、夏の薄い流氷を突破してエニセイ川、オビ川、さらにはバレンツ海にまで大東洋側から入り込んだ。
 こうして「その速さ迅雷のごとし」と言われるアスガルド帝国軍の進撃を実現し、依然として古くさい軍隊だったロシア軍の度肝を抜いた。
 また、当時フレイソン皇太子の部下だったグラズヘイム公爵家のヴォルフ公子は、総司令官の名代としてスウェーデン領のムルマンスクまで赴き、世界で初めて北極海を船で横断した人物となっているほどだ。
 これまでは、発明されるも蒸気船の能力をそれほど重視していなかった世界が、初めて蒸気船という気象や自然環境に関係なく動ける装置の威力を知った事になる。こうしたところにも、フレイディース一世の先見の明を見ることが出来る。
 オビ川流域のロシア軍拠点が、夏の泥の海の中で次々に攻略されていったのは、間違いなく蒸気船の力によるものだった。当然だが、当時蒸気船を有しなかった貧弱なロシア海軍は、突如出現したアスガルド帝国軍の攻撃で壊滅的打撃を受け、残存戦力がアルハンゲリスクなどの拠点に逼塞するまで追いつめられている。しかも、この時に呼応して大西洋側からも、各国の了解を取り付けた上でアスガルド帝国の艦隊が北極海入りして現地軍に合流し、一気にロシアから北の海の制海権を奪っていた。
 このためノヴァヤゼリヤム島など、ロシアが一応の領有権を主張していた北極の島のいくつかも、アスガルド帝国軍の拠点として占領されていた。しかも、北極海を越えたアスガルド帝国艦隊は、短い夏の間以外はスウェーデン領の凍らない場所で越冬しており、戦争中北極の制海権は常にアスガルド側の手にあった。ノルド王国やスウェーデンと話しを付けて、辺鄙ながらそれぞれの地域での越冬はロシアにとっても予想外だった。このため、戦争中ずっと、ロシア海軍は北極海や北極海に注ぎ込む大型河川での活動が出来なくなってしまっている。
 ちなみに、この戦争中のスウェーデンは、こうしたアスガルド艦隊に越冬のための泊地を提供して有償補給も行っているが、スウェーデンにはヨーロッパ世界での外交があり、ロシアもこれ以上敵を抱えたくないため、アスガルド艦隊はスウェーデンの「把握していない場所」に潜伏しているという事になっていた。

 一方、ユーラシア大陸北原を西へとひた進んだフレイソン皇太子率いるアスガルド帝国軍は、一年当たり1000キロメートルもの進撃を実現した。この距離は、世界史上でもモンゴル帝国と並んで最高記録とされている。馬による機動性を、近代的文物である蒸気船による補給が大きく高めた結果だった。
 とはいえ世界の僻地に対して、アスガルド帝国が現地に投入できる軍事力は常に限られていた。これに対してロシアは本国からの地続きのため、辺境警備の主力であるコサック騎兵中心ながら相応の規模の軍を派兵することが可能だった。
 このため初戦は兵力の優位、奇襲の優位、戦略の優位など様々な面で優位に立ったアスガルド軍が電撃的な侵攻を実施するも、戦場が大きく西に移動するにつれて地の利はロシアへと傾いた。何しろアスガルド帝国軍は、攻勢発起点から3000キロメートル以上も進撃していたのだ。大西洋側からも物資を満載した艦隊を送り込んでも、出来ることには限界があった。
 この時のアスガルド帝国にとっても、シベリア奥地は流石に遠すぎたと言えるだろう。それでも勝敗を分けたのは、蒸気船など近代的文物の有無となったと言われる。想定外の場所で戦争をさせられた上に、今までの常識を無視して北極海を使われてしまっては、ロシアとしては戦略の立てようもなかった。
 結局ロシア軍は、オビ川の制海権(制川権)を取り戻すことが出来ず、現地アスガルド帝国軍は夏の間は十分な補給を受けることが出来ていた。しかも中央アジア地域でもロシア人は嫌われていたので、アスガルド軍は少なくとも弾薬以外での物資の不足に悩むことは無かった。
 もっとも、戦闘自体は施条銃(ライフル銃)の有無、もしくは数の差の方が、戦況に与えた影響は大きいとも言われる。そして全ては、工業化しつつある国と旧態依然とした近世国家の違いといえるだろう。かつてのマヤやインカほどではないが、文明発展程度の大きな違いが勝敗の明暗を分けたのだ。

 その後戦争は、現地アスガルド帝国軍がチンギス・ハーンの再来とも言われる進撃路を中心に進み、ロシア側は戦略的な劣勢もあって後退戦術を取る形で戦争が推移した。
 しかし、ほとんど戦わないまま後退を続けるロシア軍も、流石に後退しすぎて危機感を募らせたため、戦費を惜しまず本国からの大規模な増援を決意。ウラル山脈方面に無理を押して10万近い兵力を送り込み、さらに最前線となる地域にはシベリア鎮定軍として4万の兵力が差し向けられた。ロシアがウラル山脈以西にこれ以上の大規模な戦力を投じられなかったのは、ロシアという国家自身が遠方の辺境で大軍を養うだけの能力に欠け、さらに戦費が不足していたからだった。また北極海沿岸の防備も行わねばならず、これが現地に送る戦力を限定させる大きな要因ともなっている。スウェーデンを始めとする、ヨーロッパ諸国に対する備えについては言うまでもない。
 これに対してアスガルド軍も年々兵力を増強させ、中央アジア平原での各地の懐柔政策が功を奏した事もあり、3万近い兵力を最前線に投入するようになる。
 そして双方の思惑の合致から、1836年初夏に「オムスクの戦い」と呼ばれる戦いが行われる。この戦いは、「シベリア戦争」で初めての会戦もしくは決戦と呼びうる規模の戦いとなり、さらには双方が自らの勝利を目算していたためか、黒土地帯の果てに広がる平原での正面からの激突となった。
 初期の戦闘は、両者が大量の騎兵を投じた、ある意味前近代的な戦いを中心に展開される。だが中盤以後は、防御から攻勢に転じた施条銃(ライフル銃)を装備したアスガルド歩兵師団はほとんど無敵だった。
 黒衣に白をあしらったアスガルド兵(近衛兵)の軍服は、既にロシア兵の間で恐怖と共に語られていた。当時の野戦砲に匹敵する有効射程距離で制圧射撃を仕掛けてくるライフル兵は、当時それほどの脅威だった。なお、この時アスガルド軍が装備した銃の一部には、マスケット型の銃ではなく最初の小銃(銃弾を後ろから手早く装填できる)が試験的に用いられていた。そしてこの時の戦いは、歩兵銃による防御戦闘が騎兵を粉砕するという形を最初に見せた大規模な戦いでもあった。
 そして優れた兵と武器を縦横に駆使したフレイソン皇太子の指揮もあり、戦闘はアスガルド帝国軍の圧倒的勝利を以て幕を閉じる。

 その後ロシア軍は、次なる決戦を避けてウラル山脈に後退。
 対するアスガルド帝国軍は、補給線を確保しつつ迅雷のごときと言われる進撃を続け、各所で小規模な勝利を重ねる。また、中央アジア地域に対する慰撫と恭順にも力が入れられ、反ロシアという分かりやすい大義名分のもとで多くの地域で強い影響を行使できるようになっていた。現地で不足する物資も、フレイソン皇太子が持ち込んだ莫大な戦費よって、かなりが中央アジアから賄われ、ロシア軍が想定した後退戦術がアスガルド軍には殆ど機能しなかった。こうした状況は、一面ではモンゴル軍に似て見えたため、「タタールの再来」、「白いタタール」としてロシア兵の士気をさらに下げ、ロシア側に厭戦感情を高めさせることになる。
 そしてロシア軍が籠もるウラル山脈東方のチャリャビンスク、エカチェリンブルグでの戦いが最後となったが、当時はそれぞれ都市とは言っても規模が限られ、増援を加えた大軍が籠もる事が出来るほどの城塞、要塞設備は存在しなかった。当然だが、近代的装備を持つ大軍を迎え撃てるだけの設備もなかった。そもそもシベリア出発のための拠点でしかなく、近代的な軍隊に攻め込まれることを考えてすらいなかったと言える。また、新たに強化するだけの時間と物資、資金もなかった。このため現地での戦いも野戦となるが、相手の約二倍という数に頼って総攻撃を行ったロシア軍が、アスガルド軍の防御射撃の前に散々に粉砕され、そのまま街に籠もることも出来ずに敗退した。
 この後ロシア軍の後退は、ほとんど潰走といえる状態となり、ボルガ川にまで後退してようやく止まる。アスガルド帝国軍は、後退するロシア軍を追いかける形で進むだけとなり、彼らが進撃の先で最後に出会ったのが、ロシア帝国政府の講和を求める使者であった。

 結局、主に夏の間の戦いが断続的に3年強続いた「シベリア戦争」は、ロシア帝国がアスガルド帝国軍の圧力と自らの戦費の双方に音を上げてアスガルド帝国に講和を請い、スウェーデンが仲介国となって王都ストックホルムで講和会議が行われる事になる。
 また戦争中のロシア帝国は、前線に皇帝どころか皇族が出てくることはなく、常に前線にあったフレイソン皇太子を酷く落胆させると同時に、「ロシア恐れるに足りず」という感情をアスガルド人に植え付けることにもなった。
 そして弱腰を見透かされた講和会議でのロシアは、そのまま全権大使となったフレイソン皇太子の巨躯に気圧されるように、占領されたままの広大なシベリアのほぼ全てをアスガルド帝国に割譲する事になる。ボルガ川からウラルの間の占領地は辛うじて返還され、ウラル山脈の東側はロシア人住民が比較的多い地域について売却という形を取ったが、その金額からすれば割譲とほぼ同義でしかなかった。しかもこの頃、アラスカで大量の金が見つかったアスガルド帝国にとって、その金額は費やした戦費に比べればたいした金額でもなかった。
 また、シベリアに収容されていた罪人の多くが講和条約によってロシアに戻されることになり、そうした人々のために戦後ロシアではかなりの混乱が続く事になる。当初アスガルド帝国は、罪人や政治犯に対して棄教と帰化をするなら恩赦の上で居住を認めたが、殆どの者がキリスト教、ユダヤ教などを棄てることが出来ず、ロシアへと戻ることになったからだ。
 こうして、アスガルド帝国が日本から購入した頃は夏川(レナ川)流域西部だった自然境界線は、新たにウラル山脈へと書き換えられた。フレイソン皇太子が特に望んでアスガルドに割譲されたエカチェリンブルグ市は、新たにフレイディル市と改名されることになる。
 中央アジア地域に対する優越権もアスガルド帝国のものとなり、カスピ海の東岸からロシア人は姿を消すことになる。
 また、アスガルド帝国領となる地域に住んでいたコサックなどのロシア人のかなりが、ロシア領に移住する事にもなった。一部の者は残り、帰化と改宗とを引き替えにアスガルドの臣下になることを誓っているが、去った者との比率はおおよそ2対1で、残った者の方が少なかった。改宗という要素が、やはり大きな障害となっていたからだ。その点、アスガルド帝国の勢力に含まれるようになった中央アジア地域では、イスラム教の精神的な浸透が比較的薄かった事と、当時のアスガルド人がイスラム教に対して比較的寛容だったため、大きな混乱はなかった。それどころか、アスガルド人がもたらす新たな流通網、情報網に乗っかるため、比較的簡単に改宗と宗教地図の変化が進んでいる。
 ただし、その後アスガルド帝国は、キリスト教徒を含めて「宗教税」を導入している。この宗教税は、一神教徒は現世で多くの恩恵を受けているので、それを社会に還元しなければならないという、ある種逆転の発想による税金だった。この「人頭税」のような「宗教税」のため、その後多くの者が一神教(キリスト教、イスラム教)から改宗していく事になる。無論、宗教税に対する反発も強かったが、新たな領土でのアスガルドの領土化には極めて大きな貢献を果たしている。

 なお、新たな地域全体を示す言葉として、アスガルド帝国は時の皇帝の名をとって新たに「フレイディア」と命名し、シベリア地域の名も現地語から単に「サハ」もしくは「サハランド」「サハイア」と改名した。ただし本国から遠方すぎるフレイディアは帝国の直轄領とはされず、現地自治政府を置く形の「副帝領」とされてた。
 当面の統治については、ロシアとの戦争中は遠征軍総司令官となったフレイソン皇太子自身が代理総督として統治を実施。その後は、フレイディース一世の叔父にあたるグラズヘイム公爵アンドレアが一族と共に現地に赴き、その後彼の一族によって統治される半自治地域へと変化していく。
 なお、グラズヘイム公爵家の当時公子だったヴォルフが、フレイソン皇太子の配下として活躍したことが、グラズヘイム公爵家が副帝領の統治を任された大きな要因だと言われている。また、その後フレイソン皇太子の王女がグラズヘイム家に嫁いで、副帝家としての立場を強化してもいる。

 なお、アスガルド帝国にとって有利な事に、ロシア人が叩かれることにヨーロッパ世界はかなり冷淡だった。もともとヨーロッパ世界にとって、ロシア人とは「東の蛮族」だからだ。しかも近年ロシアの脅威を感じているスウェーデン、オーストリアなどは、あからさまに喜んですらいた。ロシアからの圧力を受けていたオスマン朝トルコも、数百年ぶりにアスガルド人との握手を求めようとした。
 一方ロシア以外の世界だが、東アジア進出を狙っていたフランスを始めとするヨーロッパ諸国は、貿易以外で東アジア進出を図ることは基本的に出来なかった。内乱中であっても、既に産業革命を実施している日本の基本的な国力、軍事力は十分に強大だったからだ。またヨーロッパからアジアの距離はまだ遠く、大きな力の投射は難しかった。
 その上17世紀中頃からずっと日本人が立ち塞がるとなると、足場を作ることすらできなかった。ヨーロッパ諸国としては、日本の混乱を利用してインド洋から日本の影響を低下させることぐらいしか出来ることがなかった。しかしそのインドでも、日本人、アスガルド人が現地国家に武器や近代的文物を売り、場合によっては援助すらしていたので、モザイク状態の植民地から進むことが出来ないでいた。中東もまだ現地イスラム国家が相応の勢力を維持しているので、あからさまな侵略も難しかった。
 ならば文明的に遅れたアフリカ大陸への進出を強化すべきだという意見もあったが、アフリカは早くから進出の進んだ沿岸部はともかく、入り込むのが地形的に極めて難しい奥地は原住民すら脅かす強力な疫病と過酷な自然があるため、進出することは極めて難しかった。
 唯一の例外は温帯の気候区分に属する南アフリカのケープで、ナポレオン戦争でフランスが現地の権利を得て、その後積極的な開発が進んでいた。このためケープでは原住民(コイ族、サン族といった褐色系の先住民族)がほとんど駆逐され、代わりにヨーロピアンが大挙入植していた。ケープでは、白人の土地を確保するために、原住民の絶滅政策が当たり前のように行われたほどだった。
 1830年頃の白人人口は500万人を越えており、毎年数万の移民が、しかも19世紀半ばからは、フランス以外の多くの地域からも移民が押し寄せていた。ヨーロッパでの産業革命の開始が、ヨーロッパ各地に過剰な人口増加を促すも、余剰人口のはけ口となるのが南アフリカしか無かったためだ。現地では原住民を駆逐した上での開発と開拓が急速に進められ、巨大な白人社会が出現していた。
 スウェーデンは、ロシアに接する北東部領域の開発と入植を進めることである程度人口問題は解決ができたが、ライン王国(ネーデルランド)はフランスに頭を下げてでもかつての自国領に移民を受け入れてもらうしか無かった。ライン王国もアフリカに植民地は持っていたが、白人が大量に移民できる場所は皆無だったからだ。このため、産業革命以後のライン王国は、フランス帝国との関係を重視する向きを強めるようになっていく。
 ただし南アフリカでは、言語、単位は全てフランス基準であり、フランスの総督府が統治を行っていた。このためケープに移民した場合は現地に帰化しなければならず、公の場ではフランス語を話さねばならなかった。もっとも19世紀半ばまでで現地に移民したヨーロピアンは、以前から入植していたネーデルランド系、新たな主人であるフランス系を除くと、若干のアイルランド系がいる程度だった。ブリテン島のイングランドでも、18世紀ぐらいから人口飽和が起きていたが、フランスが許さないためどこにも入植することが出来なかった。このためイングランド国内には貧困者が溢れ、産児制限を行う停滞した状況に置かれ続けた。
 そしてケープは、ヨーロッパ以外でのほぼ唯一のヨーロピアンの植民地であり、まともな新天地だった。アスガルド人や日本人が世界各地に広大な植民地を構えていたことと比べると、大きい差だといえるだろうが、それが現実だった。
 そしてアスガルド人が産業革命を最初に始めそして進展させた事と領土の違いが、遂にアスガルドがヨーロッパを追い越すことになる。

●フェイズ18「中華世界の混乱(1)」