■フェイズ18「中華世界の混乱(1)」

 中華地域は、有史以来世界で最も多くの人が住む地域だった。また四大文明の一つが発祥した場所であり、古代から中世においては、世界の人口の3分の1の人が居住していたとすら言われる程だ。歴代中華王朝は、最盛時に1億を数える人口を抱えた、世界そのものといえるほどの大国であり、巨大な人口と国力により常に周辺世界に強い影響を与え続ける存在だった。中世までは、「中華」という自負に溢れた言葉もあながち誇張ではなかった。
 しかし白人社会での革新的な変化の連続が、圧倒的だった筈の優位を簡単に崩そうとしていた。

 清朝(大清国)は西暦1636年に成立し、建国から18世紀末に至るまで名君、賢君に恵まれた事、中華王朝の完成系ともいえる優れた支配機構を有していた事、そして支配民族となった満州族(女真族)が周辺民族に対して全般的に寛容な政策を行った事から、歴史上空前の繁栄を達成した。これは総人口と領域の双方に言えている。総人口については、農法の発展とトウモロコシ(コーン)、金芋(カモテ芋)など新作物の導入もあって、従来の最大人口の約二倍に当たる4億人に達するほど拡大した。正確な統計は取られていなかったが、最大で5億人近いという推計もある。
 しかし時代の経過と共に、中華世界の伝統とも言える官僚腐敗と政治の劣化が進み、土地(農地)に対する人口飽和の圧力に晒されるようになる。西暦1796年に起きた「白蓮教徒の乱」が、分かりやすい事件と言えるだろう。中華地域では、儒教の教えなどから遺産を家族で分散する習慣を持つため、農民達は王朝の安定が続くと自然に一人当たりで持てる農地が限られていく。このため簡単に飢餓域にまで人口が増加し、ちょっとした天候不順で大規模な飢饉が起きて、それが王朝の倒壊へとつながっていくのだ。三国志の時代だと、最盛時の10分の1以下とすら言われるほど人口は減少する。
 その上19世紀においては、それまでの中華世界ではあり得ないほど遠方から、強大な力を持った国家の干渉が行われた。
 この国こそが、アスガルド帝国だった。

 アスガルド帝国と清朝の関係は、17世紀末頃から貿易という形で本格的に始まるも、あまり活発ではなかった。当初、清朝からは一定量の絹と陶磁器が輸出されたが、アスガルド人には紅茶(黒茶)も烏龍茶もあまり馴染まなかった。陶磁器も当時は日本の生産量がダントツに多く、アスガルド帝国はその後も国民の嗜好に合わせて日本製を輸入している。絹も多くはアスガルド国内で生産していた。清朝から輸入するべき工業製品や贅沢品も、極めて限られていた。このため清朝からの輸出量は少ない状態が続く。一方アスガルド側からも、銀を例外とすると一部農作物と漢方薬に使う珍しい動物の乾物、動物の毛皮ぐらしか輸出物がなかった。ノルド王国が輸出するカカオの方がよく売れていたほどだ。しかし、アスガルド帝国から徐々に伸びていった輸出品がある。それがコカとコカの低濃度精製品だった。
 コカは、お茶と新たな漢方薬の材料として一時期清朝全域で珍重されたため、フレニアで栽培して大量に輸出され、アスガルド帝国は大量の銀を得るようになっていた。アスガルドの一部では、フレニアのようにわざわざ清朝への輸出用に栽培されたほどだった。
 だが清朝は、貿易不均衡と銀の流出を嫌うようになり、18世紀末頃にはアスガルド帝国との取引量を大きく制限する。また高濃度のコカにはかなりの中毒性があるため、清朝はコカの取引を嫌った。
 当然アスガルド帝国側は抗議したが、外交という概念の存在しない清朝政府からは門前払い状態だった。これを恨んだアスガルド帝国は、対向外交としてコカの密輸を始め、さらにはより危険な阿片を密輸品の中に加えていった。そして現地結社、暴力団体と結びつく事で莫大な利益を上げ、そして常習性薬物による害悪を清朝領域に振りまき、既に傾きかけていた清朝を一気に蝕んだ。清朝近在のフレニアでも、阿片の栽培が積極的に行われた。
 この一事をもって、フレイディース一世は名君であったが善君や善人でなかった何よりの例だとされる。一方では、清朝を集中的に狙い、近在の日本には日本政府の許可を得た上で精製していないコカ程度しか輸出していない。もっとも日本に対する場合は、日本をヨーロッパに対する防波堤として利用することが、アスガルド帝国側の基本戦略だったという要因を考慮すべきだろう。19世紀前半の時点で、清朝が強大な海軍を持ち産業革命に手を付けていれば、様相は変わっていたかもしれない。

 アスガルド帝国の無体に対して、清朝も黙ってはいなかった。阿片の販売禁止から根絶の為の強引な措置まで行った。コカに対する取り締まりも、いっそう強く行うようになった。場合によっては外国商人から阿片やコカを強引に没収して処分することもあり、アスガルド帝国との間で外交問題にも発展した。この時点で西暦1820年代末頃になる。
 しかしこの時点でアスガルド帝国は、抗議程度に止まっていた。しかしアスガルド国内では、自国の商人が他国人に裁かれた事への反感が募り、反清運動が起きていた。
 そうした中、アスガルド帝国が日本から北海州を購入し、ロシアと数年間戦ってフレイディアという広大な領土をユーラシア北部一帯に作り上げる。そしてアスガルド帝国は、新たに得た領土の確定と安定に力を入れ、境界線となる地域を積極的に調査した。ここで清朝との間に国境紛争が起きる。
 西暦1835年(アスガルド歴785年)に起きた事件そのものは、境界線地域に住む人々による越境が理由で、境界線の辺りがロシアや日本と接している頃には問題視されることはほとんどなかった。しかしアスガルドの役人、軍人たちは、厳密な措置を熱心に行う。その中でアスガルド側が、ほんの少しずつ領土を南に押し下げているという報告が、外蒙古の辺境、黒竜江の辺境から清朝中央にもたらされた。
 このため清朝は現地に役人を派遣したが、今まであいまいなまま放置していた地域で明確な権利を主張する事も難しく、交渉は証拠を揃えたアスガルド帝国の優位で進展した。このため現地に派遣された清朝側の役人は、近くに駐留していた軍隊を呼び寄せ、自分たちの後ろに待機させた上で交渉を再開。当時ロシアと戦争をしていたアスガルド帝国側は、現地の判断で引き下がる形で一旦は終息した。
 だがアスガルド帝国側には、清朝の外交への無理解、横暴、強引なやり口を非難する声が一層高まる事になる。
 アスガルド帝国本国も正式な抗議を実施するが、抗議は完全に無視される。清朝は基本的に海禁政策を実施しており、伝統的に自分たちこそが世界の中心で優れているという意識を持ち、他国人、他民族を野蛮人扱いしていたからだった。この場合アスガルド人は、中華世界での新たな「北狄」、つまり北の蛮族という事になるだろう。交渉においても、自分たちの方式を取ることを当然と考え、しかも自ら出向くことが皆無だった。伏礼や叩頭など、頭を地面に擦りつけるという行為に慣れていないアスガルド人との交渉が、うまくいく筈も無かった。
 当然問題はこじれ、アスガルド帝国の怒りは増幅。アスガルド帝国は追加の軍を派遣し、対向外交としての軍事威嚇を実施。力を伴う外交を展開する。
 これに清朝側も過剰反応を示し、小規模な軍隊を派遣して自らの領域を相手に再確認させようとする。場合によっては小競り合い程度の戦闘を予測したもので、規模も数百騎の騎馬兵を中心とした。そしてその騎馬達は、モンゴルの大地は自分たちのものだとしてアスガルド領域側に入り込み、自分たちに反発した者達に対しての暴力と略奪行為にまで及んだ。清朝側にしてみれば、今まで通りの当たり前の対処でしかなかった。
 しかし、清朝側の行動に対して、設置されたばかりの現地アスガルド総督でもある皇太子フレイソン元帥は、清朝によるフレイディアへの侵略と判断。事前に本国からの許可を得ていた事もあって、断固たる反撃を行う。
 当時の現地アスガルド総督府は、軍団規模の司令部と組織を持ち、残留した日本人開拓者なども行政及び軍事組織に加えているため、清朝が予測したよりもはるかに多くの兵力を擁していた。しかもこの時期の現地アスガルド軍は、ロシアとの戦いを終えたばかりで帰国途上にある部隊が多く、帰国予定以外の部隊もかなりがフレイディア各所に残留又は駐留した状態だった。ロシアとの戦で使う予定で運び込まれた兵站物資も、まだ豊富に残っていた。続けて戦うのならば、日本人が勝手に戦争を見越して用意しつつある物資についても勘定に入れることができた。

 清朝の侵略を受けたという報告は、距離の誤差を最小限とする時間差でアスガルド本国にもたらされた(※アスガルド歴774年(西暦1834年)には、アスガルド帝国内最初の大陸横断鉄道が開通している)。そして対ロシア戦用として念のため本国の西海岸で待機していた新鋭の艦隊が、多数の兵士と武器を載せて出航した。
 名目上はロシアに備えた艦隊であり、戦争が終わった後は兵士を本国に戻すための船とその護衛だったが、何を意図していたかは明白だった。この艦隊は、海流や風を出来る限り無視して大東洋をほぼ最短距離で進んでいる。一部の行程を蒸気船で他の帆船を曳航しての進撃だったが、少なくとも準備に数年かけている事は間違いなく、紛争を前提として既に出撃体制にあった事も間違いないだろう。蒸気船が実用化されたと言っても、まだ蒸気の力だけで広大な大東洋を横断できる時代ではないため、先鋒は報告を受ける前に出撃している可能性も高い。大東洋という世界最大級の自然の防壁と渡るために必要な時間を考えると、この時のアスガルド帝国の行動は奇襲に等しかった。
 しかも同時に、東南アジアのフレニアに駐留するアスガルド艦隊も活動を活発化し、そのうち数隻が清朝の開港地・広州に赴いて北京に対する外交文書を渡した。
 この外交文書は、清朝に越境と戦闘と掠奪の損害に対する謝罪と賠償を求めたものであり、文書そのものに問題はなかった。しかし相手は、まともな国際外交が必要だとは考えていない頃の清朝だった。清朝の絶対君主である道光帝は、無礼だとしてアスガルド帝国の出した正式な使者(外交特使)を広州で散々待たせた末に事実上追い払ってしまう。清朝側としては、無礼な蛮族の使者を殺さなかっただけ寛容さを示したといったところだった。
 だが、この行動を世界中にも伝えたアスガルド帝国は、清朝による事実上の最後通告と同義だと判断し、次に赴かせた軍艦に宣戦布告文書を持たせた使者を乗せた。
 しかも巧妙というべきか、国境紛争での戦死者の中に現地日本人が含まれていたことから戦争には日本も強引に誘い、当時まだ国内での混乱が続く江戸幕府はこれを断れず共犯者となっていた。

 この戦争は、原因はともかく「コカ戦争」と呼ばれる。
 紛争は1837年秋に起き、戦争は1838年初夏に勃発した。
 まさに狙い澄ましたような時期であり、夏の時期でなければ気候の関係上北の大地での戦争は不可能だった。残されている文献などからも、清朝に対する戦争は十年以上かけて計画されていた事がおぼろげながら見えてくる。日本から北海州を買った理由も、ロシアとの不毛な大地での戦争よりも、満州地域を狙っての事だったと考える方が自然だろう。
 そして戦争そのものは、ロシアとの戦い以上に一方的展開となった。
 海では、清朝の擁するほぼ全ての主要港湾に、アスガルド帝国海軍の誇る蒸気艦隊が襲来して、一方的に破壊と殺戮を振りまいた。清朝の海上戦力を徹底的に破壊し、船舶や港湾を破壊し、海上交通網を麻痺状態に追い込んだ。
 この時、40隻の大型戦闘艦と200隻以上の小型艦や私掠船が遠征艦隊として用意され、これらのうち3割は蒸気機関を備えていた。海上での兵員数も、乗り込んだ海兵隊員を含めると7万人を越える大艦隊だった。その上、本国のアールヴヘイムからフレニアを主要拠点とするべく派遣された大東洋方面艦隊は、第二皇女アデレイドが新たに総指揮官(提督・海軍元帥・当時21才)として皇族自らが親率していた。ここでは皇族が名目上の総指揮官という点よりも、若い女性を指揮官に当てることが、清朝というよりアジア世界に対する強い当てつけや嫌がらせでもあった。また清朝側の判断力を怒りや嘲りで鈍らせるため、あえて若い皇女が総指揮官になったといえるだろう。
 皇女当人の人となりは後世にあまり伝えられていないが、写真などからは容姿は両親の特徴を半分ずつ持つことが今に伝えられている。そして、「航海皇女」や「海賊皇女」という異名を持ように、子供の頃から船が好きで乗っていたという少し変わり者だと言われる。そしてこの時の戦争では、戦争手腕の才能も見せることになる。皇女は、まさにヴァイキングの末裔だった。

 風や波の動きを無視して動き回るアスガルド蒸気船に対して、清朝の海上戦力は無力で、戦闘は一方的だった。アスガルド艦隊の戦い方も秀逸で、清朝の船を港などに追いつめて一気に放火して葬り去るなど容赦もなかった。また半ば巻き込まれた形の江戸幕府も、国内の混乱があるにも関わらず若干の艦艇を出撃させていた。アスガルドにならって自前の蒸気軍艦を送り込み、日本人も自らの文明の革新が今以上に必要だと言うことを身を以て学んだ。
 清朝側のジャンク型帆船も、一応の外洋航行能力を備え旧式ながら大砲を装備していたのだが、アスガルド帝国海軍が有する高速帆船群だけでも荷が重い以上の状態なのに、蒸気の力で自由に動く相手では歯が立たないどころか、標的程度の価値しかなかった。
 短期間の間に、清朝の海上戦力は活動不可能なまでに破壊され、多くの船が沈むか拿捕されたため海運も大混乱に陥った。幾つかの港湾と島が占領され、主に揚子江近辺の島の一部と海南島が日ア連合軍による占領下となった。港湾都市の幾つかも、掠奪や焼き討ちされて廃墟と化した。揚子江にもアスガルド艦隊は遡航し、南京の街までが砲火に晒された。
 接舷切り込みや接近戦になると清朝の兵もかなりの脅威となるが、ほとんどの場合は砲撃戦でケリがついていた。希に接舷して白兵戦となったが、武器の差は如何ともし難く、結局アスガルド海軍が艦艇を失う事はほとんどなかった。

 一方北の大地での陸上戦闘だが、こちらも近世と近代の国家、軍隊の違いを見せつける戦いとなった。
 かつて中華の大地を制した清朝の誇る八旗兵は、基本的には満州族による騎兵だったが、旧式ながらもマスケット銃や砲(旧式の軽砲程度)も有していた。かつては明朝軍をうち破り、他の騎馬民族の台頭を阻止し、半世紀ほど前の乾隆帝の時代には中華史上最大の版図を作り上げた東アジア最強の近世型軍隊だった。その戦闘力は、恐らく戦国時代終末期の日本軍よりも相対的に強力だっただろう。
 しかしアスガルド帝国軍は、最新の軍制に作り替えた近代的軍隊を投入してきた。しかも兵士達が装備する銃はライフル(施条)銃であり、中には現代では当たり前の後装式の最新銃、つまり小銃もあった。後装式の銃は、その後列強が世界を完全に征服する原動力となった兵器の一つだった。アスガルド帝国軍造兵廠で生産が開始されたばかりの銃は、単に後ろから弾が込められるというだけで劇的な変化をもたらしていた。発射速度が従来の前装銃の3倍ほどあり、しかも「伏せて撃つ」事が出来るという極めて大きな特徴を備えていたからだ。つまり、一人で数倍の火力を発揮し、しかも相手からは撃たれにくいというわけだ。せいぜいが、火縄銃しか持たない清朝の兵士が敵うはずもなかった。ロシアとの戦いでもごく少数が使われ威力が立証され、大増産されたものが大量配備され始めていたので、数の不足もかなり緩和されていた。
 各種砲の威力と射程距離も桁違いで、何より軍隊の制度そのものに大きな開きがあって、部隊の機動性、柔軟性が全く違っていた。その上多くの部隊が、ロシア軍と戦ったばかりで実戦経験も豊富となっていた。
 しかもアスガルド帝国軍は、これまで清朝が相手にした事のあるロシアのコサックや日本の北辺の武士とは、規模の点で格が違う相手だった。今度のアスガルド兵の中には現地日本人部隊も含まれていたのだが、それは一部でしかなかった。現地アスガルド軍の兵力の数は初期で3万、最盛時で10万を数え、それらが十分な支援を受けて動き回っていた。しかもロシアを破ったばかりの兵士も多く、士気は非常に高かった。全軍の指揮も、北部の軍が主力となったため、臨時に当時フレイディア副帝を兼ねていた皇太子フレイソン元帥が行っていた。
 皇太子親率のアスガルド帝国主力部隊は、ロシアとの戦いから引き続いて日本の樺太島を借り上げる形で橋頭堡を確保しつつ満州各地に軍を進め、自国領である外満州から沿海州、北満州と次々に占領地を拡大。大興安嶺山脈、小興安嶺山脈も簡単に越えて満州平原へと軍を進めた。そしてフレニアと日本に準備されていた大量の物資と兵団が占領下の沿海州各所に上陸して、北満州の主力部隊に合流していった。
 この時、南ではアデレイド皇女率いるアスガルド海軍が猛威を振るっており、そちらに清朝の目が向いている間の電撃的な侵攻だった。

 北からの侵攻に慌てた清朝は、それでも中華本土北部と満州南部で慌てて集めた、合計15万の軍勢を迎撃に向かわせる。この時期の清朝としては、既にかなりの無理を押して用意した大軍だった。それだけに、清朝軍としては十分以上の軍隊だと考え、場合によってはフレイディアへの逆侵攻を行うことで海での敗北と相殺しようとすら考えていた。だからこその大軍だったとも言えるだろう。自慢の騎兵も十分に用意されていた。
 だが、一度行われた満州北部での戦闘で、清朝軍は惨敗を喫してしまう。
 西暦1838年、アスガルド歴788年秋に行われた「長春会戦」は、清朝側の予測に反した大軍を擁するアスガルド帝国軍のため、双方合わせて20万以上の兵力が激突する戦闘となった。後に征服帝と呼ばれるフレイソン皇太子が待ちに待った、大平原を埋め尽くす大軍同士が正面から向き合う一大決戦だった。
 この時皇太子は、愛馬の上で「そうだ、これがやりたかったのだ」と叫んだと言われる。
 そして戦場では、合理的な師団、軍団単位で機敏な戦術運動を行うアスガルド帝国軍が、柔軟性と火力の高さを遺憾なく発揮。近世アジア的な戦闘を挑んだ清朝軍を、一方的な運動戦に引きずり込んだ上で、包囲殲滅の形で完全に粉砕してしまう。
 清朝軍は、急ぎ寄せ集めたとはいえ『八旗兵』の半数以上の旗が翻っていた精鋭部隊で、自慢の騎兵の数も多いし戦場は満州兵にとっての祖国、故郷と言える場所だった。当然ながら地の利も持っていた。それなりに火力もあった。だが、一部の騎兵同士の戦い以外では、一方的な戦闘展開となってしまった。しかも自慢の騎兵ですら、ほとんどがアスガルド軍の歩兵と砲兵の制圧射撃の前に簡単に粉砕されてしまい、崩れた所をアスガルド帝国軍重騎兵の突撃を受けて全軍崩壊に至っている。清朝側は、総指揮官すら失う惨敗だった。
 その後の清朝軍は現地軍が潰走したため、アスガルド帝国軍に対してほとんど為すがままとなってしまう。
 その間、主にアスガルド側の偵察部隊との間に小競り合いも何度か発生し、互いに激しく機動する騎兵対騎兵の戦いは刀剣や槍による戦闘のためそれなりの戦いとなったのだが、ライフル銃、野戦砲群の十字砲火を前に清朝軍は為す術もなかった。

 しかもアスガルド帝国軍の侵攻は満州正面の一カ所からだけではなく、領土としたフレイディア各所を起点として、新疆(東トルキスタン)、外蒙古からも騎馬部隊が長躯進撃した。
 新疆方面では、アスガルド帝国軍以外にも他の中央アジア部族の兵も加わっており、現地の清朝軍が対応するには当時の清朝の軍事能力を超えていた。相手のかなりが清朝を快く思っていない上に数も多く、しかもアスガルド帝国から武器の供給を受けていた。しかもアスガルド帝国側は、中央アジアの騎馬民族などから協力を仰ぐため、金銭や武器の報酬などの慰撫も行っていた。
 急な全面戦争に対する清朝は、国庫を越えるほどの軍事費を泥縄式に投じたがとても足りず、予算面からも国力の違いを見せる戦いとなった。
 なお、一連の北東アジアでのアスガルド帝国軍の活動のため、実質的な兵站拠点となった日本列島では一時的な戦争特需が発生したほどだった。そしてこの時、主に西日本地域と日本海側の一部が兵站拠点とされ、江戸幕府に反抗する勢力が大きな利益を上げ、自分たちの革命を押し進める軍資金としている。
 前近代的と言いながら金を惜しまない戦争をしている点で、アスガルド帝国が時代を大きく先に進んでいたとも言えるだろう。この時の現地アスガルド帝国軍は、総力戦をするつもりで色々な文物を準備していたにも関わらず、実際の戦争は前近代的な戦争だった。このため、むしろ戦費や物資に余裕をもって戦争を進めていたので、他国への発注や多民族の慰撫に力を入れることも出来たのだ。
 ロシア、清朝との戦争でのフレイソン皇太子による「大盤振る舞い」も、その内実はそうしたものだった。

 幸いと言うべきか、その年は冬を迎えたためアスガルド軍の進撃は一旦止まったが、翌年の1839年初夏にはアスガルド帝国軍は進撃を再開。しかも南のフレニア群島には、本国から増援の大艦隊も到着。現地アスガルド帝国海軍を統べるアデレイド海軍元帥は、3万の大軍を以て揚子江河口部に本格的な強襲上陸作戦を実施。このため沿岸部でも地上戦が行われたが、こちらの戦場でもアスガルド帝国軍の圧勝だった。榴弾や奮進弾による艦砲射撃が加わる分だけ、清朝軍の惨状は酷かったほどだ。
 そして満州方面を進撃したアスガルド帝国軍主力は、そのまま南下を続けて万里の長城にまで到達。そこで使節を出して清朝政府に降伏を勧告し、講和会議の開催を要請した。仲介する国がないため、直接持ちかけるしかなかったからだ。
 しかし清朝側は、万里の長城に集めた自分たちの大軍と、アスガルド軍が万里の長城を越えずに講和を求めたことを自分たちに都合良く誤解。清朝政府は講和を拒絶し、程なく戦闘が再開される。ここでアスガルド軍は、万里の長城の要所、山海関の海沿いにある要塞を、沿岸からの艦砲射撃を含めた砲撃戦で瓦礫の山になるまで砲撃戦を実施。その後海兵隊が多数の砲と共に上陸して、その後も砲撃戦を続ける。陸上でも、時を同じくして陸軍部隊が間断ない砲撃戦を実施した。
 砲撃戦は一週間も続き、歴史的要衝は廃墟と化した。元来艦艇の沿岸要塞攻撃は不利だとされるが、もともと山海関はこの時のような激しい艦砲射撃は全く想定しておらず、さらに技術格差、戦力差が艦艇側の不利を問題としなかった。それに長城自身が騎馬民族を防ぐためのものであり、海洋民族の軍隊を防ぐものではなかった。当然だが、陸からの砲撃戦もほとんど想定されてはいない。
 また長城沿岸部以外の他の要地の進撃でも、まずは長時間の砲撃が実施され、清朝軍の士気を砲撃戦によって砕いた。アスガルド軍の砲撃に業を煮やしたため、何度か清朝軍の側から長城を越えて出撃が行われたが、野砲の弾幕とライフル銃の十字砲火の前に死傷者の山を築き上げるだけに終わった。

 そして10万に達するアスガルド帝国軍がほぼ無傷で万里の長城を越えると、清朝の道光帝は僅かな臣下を連れて北京棄てて奥地の西安を逃亡。北京の城壁を越えたアスガルド軍は、宮殿にして政庁である紫禁城に残った官僚達との間に、とりあえずの交渉を持つことになる。なお講和会議は、フレイソン皇太子が接収して滞在場所としたヨーロッパ風庭園を持つ円明園で開催されたが、アスガルド帝国にとって相手国の首都へと攻め込んだ初めての会議でもあった。
 この一連の侵攻において、アスガルド軍は過度の掠奪や暴行とは無縁だった。直接的には皇太子が強く命じていたからで、国家としては交渉の手段とするためだった。そして掠奪や暴行がないと知った道光帝が北京に戻ると全権を円明園に呼びつけ、アスガルド帝国側が用意した講和条約の文書に、ほとんど無条件で調印させてしまう。皇帝を呼びつけなかったのは、アスガルド帝国側のせめてもの配慮だったが、かえって屈辱と取られたとも言われている。
 西暦1839年秋に結ばれた「北京条約」では、アスガルド帝国へ沿海州と北満州の割譲と、蒙古、内蒙古、東トルキスタン(新疆)を雑居地とする事が条件の主体となった。無論莫大な賠償金、賠償物品もあり、戦争に協力した日本にも占領した海南島を割譲させていた。清朝側が拒絶したのは、父祖の地である南満州を雑居地とする事だけだった。ただし、アスガルド帝国に南満州での鉄道の敷設権、新たな港湾の建設権、土地の租借権などを与えねばならず、清朝側に大きな不満が残る結果となっていた。
 しかし講和の中には、清朝の開国、海禁政策の廃止は含まれておらず、アスガルド帝国側の戦争理由は、あくまで外交を無視し、最初に攻撃を行ってきた清朝への懲罰とされた。実際、この頃のアスガルド帝国は、清朝との大規模な交易、中華地域の市場化が必要だとはほとんど考えていなかった。巨大な人口を抱える地域の市場獲得も、現時点では面倒が多いと考えていた。阿片やコカの販売促進についても、国家としては半ば嫌がらせであり別段必要だとは考えていなかった。広大な領土を割譲したのも、直近に北の大地を得た事が理由であり、どうせなら南に広げておこうという程度でしかなかったといわれる。だが帝国中枢の一部では、今後半世紀、一世紀後のことを考えての領土獲得であると言われる事も多い。コカや阿片の密売以後の構図からも、後者の方が結果としては正解となるだろう。なぜなら以後アスガルド帝国は、ユーラシア大陸東部への進出と開発、そして入植を精力的に押し進めるようになるからだ。

●フェイズ19「中華世界の混乱(2)」