■フェイズ19「中華世界の混乱(2)」

 「コカ戦争」後の清朝(大清国)は、近代化の必要性をある程度感じて、自ら海禁政策を緩めてまでして海外から先進的な文物の取り入れを行い始める。だが、自らの文明、文化、いや中華と自称する「世界」そのものへの盲目的とも言える自尊心からか、文物を買う以上にはならなかった。
 もっとも、アスガルド帝国は安易に清朝に近代的文物を売ることはなく、アスガルド帝国から釘を差されていた日本も、表だって売ったりする事はあまりなかった。売る場合も、等価以上が常だった。
 当然だが、アスガルド人、日本人共に、マラッカ海峡より東に安易にヨーロピアンを入れたりもしなかった。このため清朝は、近代的文物を闇市場の日本人商人から密輸で手に入れる事が一般的となる。当然、困難さに比例して経費が跳ね上がり、もともと熱意が高いとは言えなかった事も重なって、清朝内にあった近代的文物取得の熱意を下げさせてしまう。
 しかもコカ戦争での戦費と賠償で既に国庫は完全に傾いていたのに、そこにきてのさらなる大量出費は清朝民衆に搾取と貧困を強いた。その上戦争以後も、アスガルド帝国と近在の日本からの圧迫は続き、境界地域への軍備増強などでさらに衰退を早めることになる。フランスも、中華世界の急速な衰退を前に、インドのガンジス方面からヒマラヤ山脈越しにチベットを伺い始めていた。進出があまりうまくいっていないインドよりも、チャイナが与しやすいと見たのだ。
 そして民衆は、清朝からの搾取に喘ぎ、それは漢族などの支配民族である満州族への反感へと転化していった。アスガルドの勢力圏となった万里の長城以北でも、一方的な敗者となった清朝、満州族への信頼や忠誠心が薄れ、中にはアスガルド側の要請に応じてアスガルドの貴族や戦士となる者も出るようになっていた。
 清朝内でも政変が起き、道光帝はまだ存命にも関わらず退位せざるを得なくなり、1840年に咸豊帝が即位した。しかし咸豊帝は即位時若干9才に過ぎず、朝(政府)が治まるはずもなかった。全ては、既に腐敗・硬直化していた官僚組織が行った事だった。
 そして清朝は、莫大な金額となった戦費と賠償金のため、全土に増税を実施しなければならなかった。これは、既に銀流出によるインフレに喘いでいた民衆の、強い反発を招くことになってしまう。それでも民衆の間に指導的地位に立つ組織や人物が現れず、政府による海禁(鎖国)が続いたため新たな価値観も流れ込まないため、民衆の不満は溜まりつつも全国規模での反乱や内乱にまでは至らなかった。

 そうした中、1846年にアスガルド帝国が、ヨーロッパ諸国との戦争に入ったという話しが清朝にも伝わってくる。
 ここで清朝は、広大な土地を奪ったアスガルドに対向するべく、近代的文物をいっそう手に入れようと画策する。当然、入手相手はヨーロピアンだった。アスガルド帝国と敵対する国があるなら、近代的文物も安価かつ大量に入手できると考えられたからだ。
 この情報はすぐにもアスガルド帝国の知るところとなり、フレイディア副帝領はすぐにも清朝に警告を発した。ただし、ヨーロピアンからの輸入を咎めたのではない。アスガルド帝国は、当時ヨーロッパ各国と戦争状態にあるため、清朝の行いがアスガルド帝国への敵対行為となりかねないため自粛するよう「要請」したのだ。新政府となっていた日本政府も、国書を出して清朝の行動に自重を求めた。
 しかし清朝は、アスガルド帝国の行動をアスガルド帝国の焦りと取り、日本に対しては主権者の「天皇」に対するやっかみから、ほぼ無視された。
 もっとも、ヨーロピアンが清朝領域内の港に武器を持って行くことは、平和な時代であってもかなり難しかった。マラッカ海峡より東の海は、日本人とアスガルド帝国の領域だったからだ。当然、アスガルド帝国との戦争中に貿易が円滑に出来るはずも無く、ただ単にアスガルド帝国の怒りだけを買うことになる。
 それでも、ヨーロッパ世界とアスガルド世界の戦争が終わると、世界中でだぶついた武器が短期間のうちに大量に清朝に流れ込み、清朝は意気を大きくあげた。戦争前と違い、世界規模での自由貿易という建前が重視されたため、遂にヨーロッパの船がマラッカ海峡を越えるようになった結果だった。
 そして、ようやく近代的な武器や道具を大量に手に入れた清朝は舞い上がってしまい、失地回復に燃える若き咸豊帝はアスガルド帝国との雑居地とされていた蒙古、内蒙古、東トルキスタン(新疆)との関係を再び強めようと画策。アスガルド帝国との間に、自ら緊張状態を作り出してしまう。現地のフレイディア副帝領は、相手に見せない程度で軍備の増強と防衛拠点の強化、念のための物資の蓄積などの防衛的な戦争準備を進めた。
 そして満州族の父祖の地南満州で、事件が起きる。

 西暦1850年、アスガルド歴800年、清朝では先帝の道光帝が死去したため、父祖の地への埋葬を行おうとする。
 この事は、アスガルド歴800年を大陸全土で祝うアスガルド帝国にも通達され、儀式のための軍隊が南満州に入ることも伝えられた。しかしアスガルド帝国は、清朝の増長に警戒感を強めており、自分たちも満州を中心とするフレイディア各地、特に南満州に引いた鉄道沿線と北満州での警戒態勢を強めた。
 そうして万里の長城を越えた咸豊帝は、彼にとって予期せぬ驚愕の光景を目にする。
 先祖の住んでいた頃のまま赤茶けた平原が続くはずの南満州には、アスガルド資本の鉄道が敷設され漆黒の巨体が黒い煙を吐きながら疾走していた。アスガルド人居留地とされていた駅や鉄道沿線には、煉瓦や石を積み上げた重厚なアスガルド風建造物が無数に建設されていた。遼東半島先端部には、中華文化とは完全に異なる様式美で作られた全く新たな都市と巨大な港湾を備えたギャッラル市が建設されていた。そこでは金髪碧眼のアスガルド人が主人であり、各アジア人種は従者や奴隷のようなものでしかなかった。
 そして、現地に派遣されていた満州王族、官僚達は、アスガルド人からの賄賂によって中央(北京)への報告を怠っていた。場合によっては、アスガルド帝国側の好条件を受け入れて、仕える国を鞍替えをしている者もいた。その結果もあり、清朝中央が何も知らないまま、父祖の地が「蛮族」のものになり果てていた。
 しかも北満州にまで足を伸ばすと、雑居地とは名ばかりだった。そこはもはやアスガルドの世界であり、中華世界どころか満州族の世界でもなかった。
 アスガルド帝国は、自らの領土としてすぐにも、現地民族の優遇政策を取る事で浸透を強め、地域全体の公の面、経済面、言語、単位など近代世界に必要な多くのものを、自らのものに置き換えていく政策を強めていたからだ。
 それまで清朝(満州族)の手によって漢族を入れず更地状態だった満州地域は、鉄道沿線沿いに瞬く間にアスガルド風建築が立ち並ぶ整然とした景観を持つ街が、そこかしこに作られていった。農地についても、大量の蒸気トラクターを導入した開拓団がそこかしこで農地を開いており、そこは完全な異世界だった。西暦1850年代以後に北満州や沿海州を訪れる人は、そこが中華だと思わなくなったとされるほどだった。遼東半島の先端部のギャッラル市に到着する蒸気を吐く船からは、大量の白人移民(アスガルド移民)と鉄などの物資、車輪を付けた巨大な鉄の塊(蒸気機関車やトラクター)が降ろされていた。

 アスガルド帝国の進出に激しく怒った咸豊帝は、ただちに軍の精鋭部隊の参陣を命令。俄に、清朝側が通達し予定していた以上の軍と物資が動き始めたことを掴んだアスガルド帝国も、帝国本土に緊急の報告が送られると共に、副帝領独自での予防措置が始められる。予防措置とは軍の動員と、居留地や鉄道などの防衛措置であり、アスガルド帝国側としては事態が把握できない以上当然の措置だった。場所によっては、現地アスガルド人の一時疎開も開始された。
 そして両者の誤解と齟齬は進み、このためアスガルド帝国側はとにかく使者を立てて状況を知り、念のための事態に備えつつも外交と交渉で対処しようとする。
 だが使者は咸豊帝の陣につくまでに無礼討ちの形で殺害されてしまい、この時点で現地フレイディア副帝領総督府も、清朝側による儀式を偽装した侵略行為と判断。その判断が下されてすぐに、南満州のアスガルド帝国権益が突如攻撃を受けるに至り、戦争状態入ったと断定される。
 この報告は、当時の最新技術だった電信網がまだ未熟だったため(※ユーラシア大陸とアスガルド大陸を結ぶことが、距離や海のせいで難しかった)、すぐにはアスガルド帝国本国には知らせることが出来なかったが、副帝領は独自の防衛権は与えられているため直ちに戦争状態へと移行していった。
 
 戦争はアスガルド歴800年(西暦1850年)に勃発。戦争名は、原因となった場所から「満州戦争」と呼称された。
 戦争自体は、皇帝に率いられた清朝軍が、南満州に敷設されたアスガルド帝国の鉄道、鉄道沿線のアスガルド人居留地を攻撃したことで始まる。現地には、念のため若干数のアスガルド帝国軍が駐留していたが、もともと警備目的の軽装備部隊だったし、数が違いすぎたため流石に勝負にならなかった。軍が時間を稼げるだけ稼ぐ間に、一般市民が主に鉄道で北部か南の港から逃げるも、多くのアスガルド人入植者が犠牲となった。清朝軍に蹂躙された犠牲者の数は、1000人を越えると言われている。中には女子供も含まれ、陵辱された上で殺害された女性もいた。
 そして異民族に侵略、蹂躙されるという事態は、アスガルド帝国にとって自国領内でもほとんど発生しなかった大事件だった。当然、事件に対する反応は大きかった。
 まずはアスガルド帝国・フレイディア副帝領のヴォルフ副帝が、自らの権限においてフレイディア全土に非常事態宣言を発令。加えて全土に総動員を命令し、北満州に軍の集結を急いだ。またフレニアを中心に駐留していたアスガルド帝国海軍アジア艦隊が、戦争勃発を受けて清朝に対する通商破壊活動を開始。徹底した清朝船舶及び艦艇の破壊と拿捕を開始する。このため、いまだ外洋帆船すら殆ど持たない清朝海軍では、数ヶ月で長江中流域の制海権すら維持できない有様となった。
 また外交では、国境を接する全ての国、地域、民族に対して、自らの状況を伝える使者を立て、戦乱の拡大を防ぐと共に、地域によっては清朝との関係についての要請が出された。

 戦闘開始当初、清朝軍は皇帝親卒の軍団が10万を越え、満州南部に集結していた。しかも一部がヨーロッパから輸入された兵器で武装していたため、かなりの脅威となっていた。
 開戦当初の現地アスガルド帝国軍は、緊急に集められた全ての兵力を合わせても北満州を中心に約2万人と大きく劣勢だった。これに、既に満州や黒竜江地域に入植していたアスガルド人屯田兵、古くからの日系屯田兵を集中し、三ヶ月以内にさらに3万の兵力が調達できる見込みだった。本国でも、西海岸からは緊急展開用の兵団が、半月ほどの準備の後に大東洋横断を開始していた。本国より遙かに近いフレニアでも、援軍の準備がすぐにも始められた。
 全てを合わせれば、十分に対向できるだけの軍事力だが、当面は現地アスガルド帝国軍の劣勢だった。
 そして圧倒的戦力差と初期の殺戮と破壊で意気上がる清朝軍は、領土としての境界線の都市となっている長春の街に向けて進撃を開始。ナンシャン(南山)要塞に守られた遼東半島先端部のギャッラル市を別として、長春前面に防衛線を張る現地アスガルド軍と対峙する事になる。
 この時アスガルド帝国軍は、戦闘部隊が約4万人。陣地構築や後方での物資の輸送などに当たる義勇兵(民兵)が3万あった。これだけ集まったのは、周辺のアスガルド人で戦える者全てを集めた結果だった。義勇兵の中には、老人や女子供も含まれていた。アスガルド人以外にも、日系移民の末裔やアスガルド側に組みする現地騎馬民族の姿などもあった。そして雑多な軍隊を率いるため、副帝ヴォルフ自らが総司令官となっている。

 かくして「第二次長春会戦」が清朝軍とアスガルド帝国軍との間に行われるが、戦いは結局一方的結果で幕を閉じた。
 敗者は、今回も清朝軍だった。
 主な原因は三つ。一つ目は、清朝が上辺だけ装備をしかも軍の一部に限って近代化しただけで、軍制、つまり軍の編成、運用が旧来のままだったこと。二つ目は、兵士の多くが新兵器の扱いに全く慣れていなかった事。そしてもう一つは、アスガルド帝国軍に新装備があった事だった。この新装備は「多銃身回転速射砲」、通称「グングニル砲」と呼ばれ、6つの大型銃を束ねて一つの砲とし、手動で回転させることで自動的な発射を可能とした、従来の武器からは考えられないほどの早さで連続射撃を可能とした兵器だった。
 もともとは艦艇搭載用の防御兵器として開発された新兵器を、現地アスガルド軍はかなりの数を陸軍用として取得して配備していた。防御を考えた末の選択であり、この時平原で行われた戦いでも、数に劣るアスガルド軍は塹壕を掘ったり土嚢を積み上げた陣地を作るなどの野戦築城を行った上で、攻め寄せる清朝軍を迎え撃っていた。
 多数の「グングニル砲」の弾幕の前に突撃する事になった清朝軍騎兵、歩兵は、状況が分からないまま突撃して、短時間のうちに膨大な犠牲を積み上げることになった。しかも十分に引きつけた上に、小銃、ライフル銃による歩兵達による一斉射撃も同時に行われた。さらに保有する限りの砲兵による弾幕射撃を一斉に行い、銃砲の不足を接近戦で補おうと突撃してきた清朝軍に全てをぶつけた。
 このため短時間で清朝軍前衛部隊は文字通りの全滅といえる状態で壊滅し、損害が指揮系統にまで及んだため軍としての統制すら失ってしまう。
 そして後手の一撃として、すぐにもアスガルド帝国軍による反撃が実施され、10万を数えた清朝軍は4万の戦死、捕虜を出す大敗を喫して奉天まで後退した。
 「グングニル砲」の砲自体の機動性は悪かったが、防御兵器としては極めて有効な事をほぼ初陣で立証したことになる。また後ろから装填できる小銃の威力も、十分に立証された。
 そして三ヶ月後、体制を整えた現地アスガルド帝国軍は、奉天に向けての進撃を開始。既にフレイディア副帝領各地からの動員兵が参陣し、さらには高速帆船部隊により輸送されたアスガルド帝国本国軍も多数来援していた。当然、大量の海軍艦艇も東アジア各地に来援しており、既に制海権は一方的といえる状態にあった。
 そしてここで、アスガルド帝国側から講和を持ちかけても良かったが、前の戦争での経験と、一方的に攻撃を受けて多くの自国民に犠牲が出ていた事もあり、一度徹底的に清朝軍を野戦で叩き潰す方針を決める。
 奉天に進んだアスガルド帝国軍は、合わせて7万。これに、別働隊で天津への強襲上陸を行おうとしている部隊が、艦艇乗組員を除いて約2万あった。
 総指揮官は、フレイディア副帝となったばかりのヴォルフ・グラズヘイム。かつてフレイソン皇太子の右腕としてロシア、清朝軍とも戦った歴戦の将軍でもあった。

 その後、アスガルド帝国の思惑によって行われた戦闘は一方的であり、数百年前の中南アスガルド地域でのスクレーリングとの戦いのようだったとすら記録されている。
 そしていちおうの決戦となった「奉天の戦い」で重要だったのは、清朝軍がまたも惨敗した事よりも、依然として全軍を指揮していた清朝皇帝の咸豊帝が、戦場でアスガルド帝国軍の捕虜となったことだった。
 中華帝国の皇帝が戦場で捕虜となったのは明朝時代以来で、過去の歴史上でも何度か起きた事件だった。だが、価値観など多くの面での相違が見られる白人に属する人々・国家に囚われたのは初めての出来事だった。このためか、旧清朝領域に政治的激震が走ることになる。
 戦争そのものは、咸豊帝が捕虜となったことで清朝が無条件での降伏を受諾。ほぼ同時に天津で行われていた戦いも、アスガルド軍の一方的勝利で呆気なく収束した。この戦いで現地アスガルド軍は、二方面同時侵攻作戦を実施し、一気に皇帝と首都を奪う作戦を進めたのだが、首都を落とす前に皇帝を捕虜として戦いは終わってしまう。このため天津に強襲上陸したアスガルド軍は、無抵抗のまま北京にまで進駐して、北京、天津の両都市を軍事的占領下に置いた。
 そしてこの時点では、アスガルド帝国は清朝を「どう料理してやろう」と手ぐすね引いていたが、思わぬ事態にかえって動転してしまうことになる。
 アスガルド帝国が清朝皇帝を直接対決で破った事で、それまであまり協力的とは言えなかった蒙古、内蒙古、東トルキスタンなどの周辺部族が、こぞって副帝ヴォルフを次の「ダイ・ハーン」と認めてしまったのだ。しかも始末に悪いことに、この時のアスガルド帝国軍は、次の中華王朝となる資格を一通り全て押さえてしまっていた。現国家に対する決定的な軍事的勝利、圧倒的な軍事的優勢、虜とした皇帝、首都、玉璽(ぎょくじ=国事行為を承認する印鑑)、強大な国力、などなど新帝国を作るに当たり足りないものを探す方が難しかった。しかも、二度目の勝利であり、もう中華世界でのアスガルド帝国の覇権を誰も疑わなかった。後は、アスガルド帝国が現皇帝の廃位と新国家(王朝)建国の宣言を行えば、一通りの形式と条件は揃うのだ。アスガルド人の肌が白い事は、この際あまり関係はなかった。歴代中華王朝の開祖は、半分以上が漢民族以外だからだ。たまには、肌の白い民族が支配者になっても構わないぐらいに考えられていた。
 しかし、そこまでの外交権のない副帝領は本国に泣きつかざるを得ず、清朝情勢に詳しくまた関係が深いという点を考慮して、皇太子フレイソンが大臣らを押しのける形で皇帝の名代として現地にやって来る事になる。

 アスガルド歴801年(西暦1851年)春に、アスガルド側が依頼した日本が仲介となる形で、正式な講和会議が開催されることになり、アスガルド帝国側の出した文書に、囚われの身から解放された咸豊帝はただ名前を書くだけとなった。
 もっとも、内容は清朝の滅亡や新王朝の成立を記してはいなかった。アスガルド人は、4億人もの有色人種を新たに国民として抱える気は、毛頭なかったからだ。騎馬民族達の首領になることについては、主に今後の「内政」として受け入れるも、4億人もの貧しい農民など近代国家には邪魔でしかないからだ。
 「円明園条約」とされた条文内容は、満州全土のアスガルド帝国への割譲、清朝による藩部の権利の放棄とアスガルド帝国の優越権の承認、清朝の全面開国、清朝の国内に対するアスガルド帝国租借地の承認、アスガルド帝国領内への清朝国民の移民、流民の禁止、そして賠償金支払いであった。満州族先祖伝来の地である満州全土を割譲させたのは、単に領土欲だけでなく、それだけアスガルド帝国側の怒りが大きかった事を現している。この席で二度目の全権大使となって北京に来訪したフレイソン皇太子は、突然の攻撃ではなく交渉と弁舌を以て事に当たるべきだったと、清朝側を痛烈に批判している。
 そしてその後の会議でさらに通商条約が結ばれ、治外法権共々不平等な条約が結ばれることになる。アスガルド帝国は、清朝を近代国家の資格なしとした上での国際条約だった。
 もっとも、フレイソン皇太子自身はもう少し穏便な対応を考えていたと言われる。交渉の中休みの間に北京を離れ、日本皇室に輿入れした妹の誕生日を祝うなどの口実で日本入りするなどで時間を稼ぎ、本国との調整を実施している。日本を仲介役としたのも、交渉を少しでも穏便なものとするためだった。
 だが、清朝側は相変わらず無理解で、多くのアスガルド人が殺されたことでアスガルド帝国内の世論が沸き立っていて、以前と違い強く出るより他に選択肢がなかった。

 そしてこの後、アスガルド帝国に続いて日本が先陣を切る形で清朝との国交樹立を実施。フランスなどヨーロッパ諸国も次々に条約を結び、中華の蚕食を開始する。
 そして外国勢力に対する完全敗北により、清朝の権威は完全に失墜。咸豊帝もまだ若年(19才)ながら退位を強いられ、大きな内政混乱に突入していく。西暦1853年には、早くも「滅満興漢」を旗印とする大規模な農民反乱(「黄徒の乱」)が発生し、国力をさらに疲弊すると共に諸外国に付け入るスキを与える事にもなっていく。

●フェイズ20「帝国主義の拡大」