■フェイズ01「ビバ・グローバル」

 元和六年(西暦1620年)、京の大商人にして徳川幕府と密接なつながりを持つ茶屋四郎次郎の有する朱印船は、この頃はムガールと呼ばれる大帝国が権勢を振るっていた天竺南部の貿易港コーチンにまで向かっていた。
 船首にはネーデルランド連邦の東インド会社(VOC)の社章が付けられていたが、これは安全と貿易承認のためであり、船はれっきとした日本人の所有物だった。その証拠に、船の船長室には江戸幕府が発行した朱印状が大切にしまわれていた。
 船の大きさは三千石。単純にトンで計算すれば540トンということになる(一石=180400cc)。大きさも全長150尺(45メートル)、全幅26.8尺(8.1メートル)という当時の日本人が有する船の中ではほぼ最大級のものだった。しかも帆布を付けたりマストを多数有など西洋船の優れたところを可能な限り取り入れた、当時の日本の最新鋭の商船だった。船の中央には竜骨も据えられている。西洋船としての分類からすれば、カラックやキャラベルに相当する。東アジアの民族国家が有する船としては、恐らく最高性能クラスの船となるだろう。ヨーロピアンの有する船と比べても、標準程度の性能と大きさを有している事になる。この年に北アメリカ大陸北東岸にたどり着いた「メイフラワー号」より倍以上大型で、船としての性能も高かった。ヨーロッパでの大航海時代では色々の誇張や間違いがあるが、特に初期の頃に彼らが乗り込んだ帆船の大きさも千石程度がざらにあったのだ。
 なお、この船に乗り込む水夫は50人。これに海賊対策の自衛のための傭兵が十数名加わり、船員には日本人以外にも通詞(通訳)や水先案内、現地での交渉補佐のため、明国人、琉球人が乗り組んでいた。
 日本の博多を出航したばかりの船荷は、銀(十貫目入りの箱150個。一貫=3750g。総量5725キログラム=西洋銀貨約16万枚分)を中心に、銅のインゴット、鉄のインゴット、鉄加工品(刀、小刀、鋏、ヤカン、鍋、釜など)、手工業品(漆器、扇子、唐傘、帷子)だった。これらの商品を様々な寄港地で売却し、その利益で中華地域の上質の生糸、絹織物、綿織物を中心に、各地で手に入れた毛織物、毛皮(虎、豹)、鹿皮、宝飾品(珊瑚、瑪瑙)、香木、砂糖などを購入して日本へと戻っていった。最後に中華地域の絹を積載するため、行きに中華地域に寄った時には多数の陶磁器を中間貿易で購入したりもした。
 日本人商船によるインド洋への航海は、これまでほとんど行われていなかったが、だからこそ価値があると判断され、実質的には許可を出しただけの江戸幕府も注目していたほどだった。
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 この頃の日本の貿易は、冒頭のような朱印船と呼ばれる外洋貿易船が毎月1〜2隻、日本列島から航海に旅立っていた。当時は船団を組むことも少なく、たいていは1隻単位で日本を後にして、大いなる成功と、絶望の中での失敗を繰り返していた。
 幕府から朱印状の発行を認められていた島津氏、有馬氏(1612年死罪)、松浦氏も朱印船を使った貿易で利益を得ていた。そして何より利益を得ていたのが、京、長崎、博多、大坂、大坂夏の陣以前の堺の大商人達だった。大坂の陣で破壊された堺の大商人達は、その後京、江戸、長崎、再建された大坂などに散っていたので船を出していた商人自体にはその後も大きな変化はない。彼らは、幕府や九州の大名の承認を受ける形で、日本と海外の道を作り上げた。幕府や一部諸侯は、彼らから上前をはねるだけに過ぎなかった。
 当時、日本人が主に海外から欲しがったのは、基本的に中華地域で生産されている上質な絹だった。絹なら日本でも入手できたが、当時の日本産の絹は質が低く唐産(中華産)が重宝されていた。日本の絹が「天蚕(tennsann)」と呼ばれるほど上質な絹を産み出すようになるには、この頃から百年ほどの時間を用いた根気強い品質向上の努力が必要だった。このため、中華地域で流通する価格の十倍の値を払って密貿易する事もあったほどだった。日本では、それ以上の値で十分捌けたからだ。今日の貿易から見ればとんでもない話しだが、当時の貿易ではそう言った状況が当たり前だった。
 一方、当時の日本側の主な輸出品は、何と言っても当時世界の三分の一を産出していた銀(Ag)だった。石見(iwami)銀山の名は、ヨーロッパにも知られていたほどだった。このため当時の日本の海外貿易は、一種の銀バブルに沸いていた。
 銀以外な貿易品目としての物産では、こちらも当時日本で豊富だった銅と、鉄のインゴット、鉄の加工製品が主な輸出品だった。だが、一部鉄製品を除いては高価な値を払い海外から輸入してまで熱心に欲しがる物産ではなかった。豊臣秀吉の朝鮮出兵で技術を得た陶磁器については、まだ技術面での熟成段階であり、加えて国内需要に応える時期となっていた事も重なって、輸出品目にまでは成長していなかった。

 日本の海外貿易の一つの転機となったのは、1609年にネーデルランド(ホランド地方=オランダ=阿蘭陀)船が2隻、長崎の平戸に来航してからだった。オランダ船は、1600年に最初の船が偶然日本に流れ着き、そのときの生き残りのウィリアム=アダムス、イヤン=ヨーステンが徳川家康に厚遇された事があったが、貿易船としての日本来訪は実質的に始めての事件だった。
 オランダ船の来航を、現地の領主松浦鎮真は大いなる喜びと共に長崎奉行に知らせ、オランダ船の方も日本側の提案を受け入れ、平戸に商館を設け初代館長スペックスを着任させた。
 この時日本は、単に貿易相手が増えたことを喜んでいたが、オランダ側の意図は別の所にあった。
 日本貿易の独占である。
 日本との貿易を独占すれば、日本で産出されていた金、銀を豊富に得ることが出来るからだ。少なくとも、現代では一般的にそう言われている。
 1613年にはイングランド(後のブリテン)が日本にたどり着いて商館を設置すると、オランダの貿易独占欲は強まった。このためオランダは、まずは当時ヨーロッパで最も豊かな彼らネーデルランド(オランダ)の財力に任せた貿易で日本貿易の独占を図ろうとした。当時のイングランドはヨーロッパ辺境の貧乏国で、ネーデルランドは当時欧州随一の商業先進国だった。同じ東インド会社という名の組織を持っていたが、その財力の違いは圧倒的な差があった。

 ちなみにオランダの東インド会社は、世界初の株式会社といえる組織であり、喜望峰からマゼラン海峡での貿易、植民、軍事の独占権をネーデルランド政府(オランダ)から認められた組織だった。
 彼らは巨大な軍事力と商船団を用いて、発足当初から活発な活動を行い、武装商船と雇った兵士を使い、次々と旧ポルトガルの海外植民地を武力で奪っていった。
 ジャワ、スマトラ、モルッカ(香料)諸島、セイロンなどを自らの勢力圏に組み込み、各地に拠点や支店を設けて、丁字、ナツメグ、肉桂など高級香辛料の取引を独占して巨万の富を築きあげた。そうして莫大な利払いが行われたことからさらに資本が集まり、17世紀のネーデルランド(オランダ)の覇権を確かなものとする原動力となった。最盛時の東インド会社には、各種戦闘艦40隻、商船150隻、兵員1万人が所属していた。
 また、北海でのニシン漁(※一定の時期だけ欧州中が肉を絶ち魚を食べる習慣があるため莫大な需要がある)を切っ掛けの一つとして隆盛したネーデルランド連邦自体は、最盛時の1650年頃に1万6000隻の船と16万3000人の船乗りを抱えていたという文献が残されている。この数字は、当時のイングランドの4〜5倍の数字となり、「欧州の運搬人」というあだ名を持っていた程だった。ニシン漁漁船の建造で鍛えられた造船力も破格であり、大小合計で年間2000隻もの船を建造していたという。17世紀前半のヨーロッパ経済の中心は、間違いなくネーデルランドだった。
 当時それほど勢いのあったネーデルランド(オランダ)だが、流石に地球の反対側に及ぼせる影響力は小さく、当時ほとんど自国領内に止まっていた日本に対する工作も、貿易の独占のための単純な謀略、と言う程度に落ち着かざるを得なかった。

 そしてオランダの日本独占作戦は、スンダ地域(東インド)でのイングランドとの香辛料貿易競争に勝利したことも重なって、1623年にイングランドを日本貿易から撤退させる成功へとつながっていく。
 日本側も、東インド会社と今で言う提携もしくは協力関係を結んで海外貿易を行い、東インド会社の側も日本の貿易船を各地の港、商館で受け入れた。
 しかし当時オランダと最も敵対していたイスパニア(スペイン)が日本と貿易関係を結んでおり、イスパニア領のマニラや、スペインに併合された旧ポルトガル領に立ち寄る日本船も多かった。
 これはオランダ人にとって由々しき問題であり、イスパニアを閉め出すことがオランダ最大の目的となった。
 この手段として、オランダは競争相手の誹謗中傷を日本人、江戸幕府に対して行った。曰く、「イスパニアは、最初は交易、次にキリスト教の布教、そしてその後に軍隊を用いて来る。彼らの目的は世界征服である。布教の後にやって来るのは征服だ」と言ったのだ。その上で自分たちは、イスパニアとは違う考えの教え(宗教)を持っているので、商売以外決して行わないとも言った。
 スペインに対するデマを最初に流布したのは16世紀末のポルトガル人だったが、オランダ人はそれを再利用したのだ。そしてこのデマは、当時日本人の支配層である武士達がキリスト教に対して強い警戒感を持っているので、非常に真実味のある話しだと考えられていた。
 実際江戸幕府は、1612年に直轄領での「禁教令」を出しているし、日本人キリスト教徒を迫害している。1614年には大規模な追放を行ったし、1622年には多数のキリスト教徒を直轄都市の長崎で処刑している。1627年には、何と340人もの日本人キリスト教徒を一度に処刑した。日本人キリスト教徒の数も、最盛時には約30万人いたと考えられており、宗教を先兵とした侵略にも根拠があるように思えた。

 しかし徳川秀忠は、明けても暮れても諸外国との貿易を閉ざす行動は一切取らなかった。それどころか、日本人に積極的な海外貿易を勧めるお触れを出す始末だった。海外からやって来る船に対しても、長崎、平戸だけでなく、幕府直轄都市の多くが順次開かれていった。特に大坂夏の陣以後再建の進んだ大坂には、巨大な港湾と外国人向けの居留地が建設されていった。こうした幕府の行動は、江戸幕府の開祖徳川家康が死去してからいっそう活発に行われるようになっており、日本での海外貿易品の需要拡大もあって規模は年々拡大していた。
 1613年(慶長18年)に伊達政宗が行った「慶長遣欧使節」も、1620年(元和6年)に帰国すると幕府が盛大な出迎えを実施した。
 幕府が制限したのは、自らの幕藩体制をないがしろにする者であり、日本人キリスト教徒以外にも、他の急進的な仏教なども迫害の対象となっていた。しかしキリスト教の禁止と海外との貿易は別であるとの見解は、豊臣秀吉が1587年に出した命令以後特に変化することはなかった。
 またキリスト教徒の反発のからくりに対して入念な調査が行われるようになっており、日本人キリスト教徒の反発は年々沈静化していた。
 日本人キリスト教徒は主に九州に多く、その中でも貧しい地域に多いことが分かった。しかも一部の領主は、自分たちの領地を立派に見せるため収穫量を多めに申告している場合があり、キリスト教徒は迫害してもよいという幕府のお墨付きもあって、殊更圧制を敷いている場合があった。また反発の原動力の一つとして、抑圧された農民を利用しようとする浪人の姿があり、貧困を取り除き宗教と武力を合わせないことが重要だという幕府の中で認識が持たれた。
 とはいえ、混乱の原因が分かったといっても、簡単に手が打てる問題でもなかった。各地の大名にこれといった落ち度がないのに干渉する事は幕府としてもかなり難しく、浪人対策は豊臣政権から続く当時の日本の重要課題だった。
 そして徳川秀忠は、時折当たり障りのない決断を下すも、実務の殆どを部下達に任せていた。これは海外とのつき合い、貿易も同じで、彼の治世の間に「異国奉行」設置され、外交上必要な礼典、式典以外は任せきりとなった。
 まさに自らが凡庸なことを知り尽くしている徳川秀忠ならでわといえる政治だったが、全てを専門家に任せていたため立ち上げられたばかりの組織の行うことは、たいていの場合急速に進展した。この中で頭角を現したのが、後に老中となり「知恵伊豆」とまで言われた松平信綱だった。
 彼は生涯において主に民政を得意としており、幕藩体制を固めるための中核人物の一人となるほどの人材であり、若い頃からの才を買われて第三代将軍となる徳川家光に付き従った。
 その彼が一時期異国奉行の交渉部門を担当し、通訳を介してだったがオランダの商館長などと渡り合った。
 そして彼は、オランダ人の言葉が完全な嘘でないにしても大きな誇張が含まれていることを突き止めるに至る。
 オランダ人が言った「国内からキリスト教徒を排除し、再び入ってこれないように国を閉ざさなければいずれ侵略される」という言葉に対しては、自ら国を閉ざせるだけの力が有るのなら、侵略を排除するのも可能だと反論したと言われている。加えて、南蛮の船は、どの国でも年に数隻の船しか日本に来られないのに、いったいどうやって日本人キリシタンを武装し、さらには兵糧を用意して日本侵略の戦争を行おうというのか、現実的な可能性があり得るとは考えられないと言ったとも伝えられる。そして最後には、禁教する以前から日本人の中にはキリスト教に興味を示す者よりもそうでない者の方が圧倒的に多い、と結んだ。それでも食い下がったオランダ人だったが、そこでも「貴殿らの日本を思う心は理解した。そこで、イスパニアに対向できる優れた武器や船を売ってくれはしまいか」と得意の百文字の言葉で言ったと伝わる。
 全てが真実ではないし、多くのハッタリを含んだ話しの内容ではあるが、松平信綱がオランダ人の真意や意図を見抜いていたことは間違いないだろう。
 そして内政へと再び戻った松平信綱は、その後民心安定の政策を次々と幕府中枢で実行し、九州での民衆の貧困対策、改易による石高の減少などを実施して、民衆の側の反発要素の低下に努めた。

 なお、日本でのキリスト教禁教そのものは、その後も継続されることになる。日本での例外は、日本国内で外国に対して開かれた指定貿易港の長崎、平戸、博多、大坂で、後に江戸湾の当時寒村だった横浜村と、大坂の規模拡大により都市機能の維持が難しくなったことを受けて、大阪湾の当時何もない寒村だった神戸が新たな貿易港として加わる。
 これ以外の場所では、日本列島以外での宗教に関してはほとんど放免されることになった。ただし、幕府に仕える場合はこの例外とされ、武士のキリスト教徒も認められなかった。
 こうした制度が整えられたのが徳川家光の時代となっていた1638年の事で、日本人キリスト教徒はかなりの数がキリスト教を信じることを止めるか、自主的に海外に移民するようになった。一時九州で人が激減したため、九州諸大名が領内にいる潜在的キリスト教徒(隠れ切支丹)に対する弾圧を緩めるという一幕も見られた。
 そしてこうした幕府の反キリスト教政策は時代を経るごとに緩和され、5代将軍徳川綱吉の時代にほぼ撤廃されるに至る。その頃には幕藩体制は国内のキリスト教徒程度で揺らぐような事はあり得ず、日本人キリスト教徒の数が海外を含めて一定数に落ち着く事が確認されるようになっていた。
 八代将軍徳川吉宗の頃には、キリスト教全体が幕府による宗教統制の中に組み込まれるようになり、政治的にもバチカン(ローマ法王庁)との和解が行われ、キリスト教も八百万の神々がいる日本人社会の一部となっていくようになる。

 また幕府が頭を悩ませていた浪人対策は、幕府が続けた海外貿易政策が多少の問題緩和をもたらしていた。
 日本人が行う海外貿易は、年々増加していた。当然、海を行き交う日本船も増え、船の規模自体も大型化が進んでいた。船員の数も増え、海外で日本の貿易を支援する日本人も多く必要になっていた。そして日本船が増えると、海賊の被害に遭うようになる。そこで商人から幕府に至るまで、船に武装を行い兵士を乗せるようになった。各地の日本人拠点、日本人町も主に海賊の襲撃を警戒して、戦国時代の堺の町のように軍事力を持つようになる。ここで幕府直轄船なら正規の武士が乗るのだが、商人の船に乗りたがる武士、海外で警備に当たりたがる武士は少なかった。商人「ごとき」に使われることが、耐え難い屈辱というわけだ。そこで商人達は、金で雇った屈強な者を傭兵として活用するようになる。そうした傭兵としての需要を満たしたのが、当時日本中に20万人とも30万人とも言われる仕官先のない武士、つまり浪人達だった。
 しかも浪人達にとっては、自らの武術を職業で活用して比較的高収入を得ることができ、さらには戦うことを職業とすることで心理面でも士気を維持しやすいので、労働の過酷さや生命の危険があっても、常に一定割合で傭兵に志願する者がいた。そしてそうした者の多くは血の気が多く果敢に戦うため、日本本土での治安安定に少なからず影響を与えるようになっていた。日本本土に残る武士は、刃向かう気もない腑抜けばかりという事になるからだ。
 幕府も、安価な海上交通保護の手段として広く認め、武士以外から取り上げた武器や火薬を安値で商人達に渡すことで対応した。貿易商人から受け取る上納金は、幕府財政の重要な一翼を占め始めていたからだ。

 かくして、実に日本的な玉虫色的でなし崩しのまま、「鎖国」というドラスティックな変化を行うことなく、その後の日本はゆったりとした時間の中をマイペースに世界と関わりながら進んでいく事になる。


フェイズ2「スタート・オープン・エイジ」