■フェイズ02「スタート・オープン・エイジ」

 三代将軍徳川家光の時代に、徳川幕府による幕藩体制はほぼ完成の域に達した。
 その中で実質的な宰相として辣腕を振るったのが、松平信綱だった。先にも紹介したように、彼は「知恵伊豆」と言われたほどの賢人であり、徳川家への忠誠心も厚い人物でもあった。幼い頃徳川家光の小姓として抱えられ、その才覚により出世を重ね、最終的には6万石の大名にまで出世する程の人物だった。これが半世紀ほど前の戦国時代であったなら、天下を揺るがすほどの武将や軍師となっていたかもしれない。
 彼は家光が将軍職を次いだ翌年の1633年に老中になると、その後長らく老中職にあり、その中でも長らく筆頭としての地位にあった。彼の老中在位はほぼ晩年(1662年)まで至り、家光没後も家光の遺言により四代将軍徳川家綱を補佐し、明暦の大火(1657年)での対応など数々の難題に務めている。彼は、江戸幕府の老中の中でも最も長い間その地位にあった人物の一人であり、老中として幕府に果たした貢献度は恐らく一番と言っても良いだろう。
 そして松平信綱が老中職にあった1633年から以後約30年間は、江戸幕府にとっても一つの転機となる時期だった。

 当時の幕府にとって最も懸案だったのは、海外とのつき合い方とキリスト教への対策だった。
 海外とのつき合い、つまり海外貿易については開祖徳川家康の強い言葉が伝統的に守らなければならないという半ば強迫観念が存在したため、閉ざす、つまり隣国の朝鮮王国や各中華王朝のように「海禁」、「鎖国」をする事は無かった。
 しかしそれでは日本の階級構造を揺るがしかねないキリスト教の浸透が防げないのだが、日本人達はなし崩しに有耶無耶にしてしまった。これほどいい加減な宗教統制や改宗は、世界史上でもかなり珍しいかもしれない。殉教や虐殺もあったが、世界の様々な地域が体験した宗教戦争などと比べれば、実にささいな問題に過ぎなかった。そして日本人自身のある種寛容な宗教観から、厳格なところのあるキリスト教への信仰は拡大しなかった。信者の数はおおむね総人口の1〜2%で推移し、キリスト教を信じるという以外で日本人の規範を越えることもなくなった。それに、地震や台風など天災の多い日本という独特の風土は、根本的にキリスト教の教えや価値観が馴染まなかった。日本の住みやすくも荒々しい一面を持つ風土は、唯一の神ではなく荒ぶる神々が作り出すものだからだ。
 なお、かなりの時間が経過してからだったが、日本古来の神道や各種仏教と混ざり合った、ヨーロピアンが認めたがらない独自の「日本基督教会(日本カトリック教会)」までが設立されるに至っている。

 海外とのつき合いで大きな転機となったのは、日本人が海外で活躍し始めたからだった。
 海外との貿易を拡大路線で継続していた日本人達は、その後も利益を求めて東南アジア各地に進出していた。各地に日本人町を作り、スペイン、オランダの支配領域に居住したりした。1630年頃、海外に居住もしくは滞在する日本人の数は10万人達していたと言われる。その中でも海外に赴く浪人(失業武士)が非常に多く、彼らの高い戦闘能力と戦術、日本製の優れた武器(刀、銃、鎧)は東南アジア各地で重宝された。しかもそこに利益を見た日本の商人達が傭兵化した浪人達を支援することもあり、非常に大きな勢力を持つに至る日本人勢力圏も形成されつつあった。中には、株式会社化した傭兵組織までが出現し、そうした存在が東アジアの日本人権益を守っていた。
 その中での初期の出世頭は、シャム(タイ)のアユタヤ王朝のソンタム王に仕えた山田長政だった。アユタヤ王朝の首都には、1626年に江戸幕府が商館を開いた事も重なり、シャムの噂を聞きつけ一旗揚げようと、いっそう多数の日本人が流れた。
 その数は1630年の時点で1万人に達するとも言われており、3000人もの日本人傭兵がアユタヤ王朝に一時的に仕官していた。山田長政は王侯の親衛隊長に抜擢されるほどソンタム王の信任を受け、噂を聞きつけて日本からはせ参じたかつての武将も既に複数を数え、千人長や四天王と呼ばれていた。中には、大坂の陣で戦った老将の姿もあったと言われている。
 彼らは、1630年に発生した王位継承争いで自分たちも攻撃対象とされると、争っている一派に荷担して王朝の政治にまで介入する力を手に入れるようになる。さらに日本人保護を主張する形で、幕府がアユタヤ王朝に事実上の内政干渉を実施したため、以後も日本人社会が一定の地位を占めていくようになる。暗殺の危機もくぐり抜けた山田長政は、最終的にはアユタヤ王朝の大臣にまで上り詰めた。
 とはいえ、シャム(タイ)で日本人が好まれたのかと言えば、そうとばかりは言えなかった。
 日本本土を策源地ににして人と金を送り込んでシャムの権利を奪っていくという点では、日本も南蛮(ヨーロピアン)も違いなかった。ただし日本人の場合は、現地社会にとけ込む傾向が南蛮よりもずっと強かったため、その後も現地に残ることができたと言えるだろう。
 そしてシャム(タイ)での事件は、幕府に一つの教訓をもたらした。自分たちの力(軍事力)が海外でも十分通用するが、中央政府(幕府)が直接影響を与えるには、自分たちの直接持つ力、特に武力が不足しているという事だった。
 また当時頻度が増えていた日本船の海賊襲撃事件に対しても、個別に対処するのではなく幕府が海上交通の保護に乗り出して欲しいという要望が、海外交易を行っている大商人達から頻繁に陳情されるようになっていた。

 そこで幕府は、幕府水軍の事実上の新規編成という新たな政策を立ち上げざるを得なくなる。
 とはいえ江戸幕府には、水軍に関する知識や経験が乏しかった。機材、軍船、さらには人材はほぼ皆無だった。
 戦国時代の終焉と共に水軍が不要になったとして、幕府自らが諸侯ともども葬り去ったのが原因であり、また余計な出費をしたくなかったからこそ起きた状況だった。水軍とは、常に金食い虫だった。
 しかし海外貿易は既に幕府の重要な財源であり、日本経済の一翼を占めるようになりつつあった。この流れを止めることは既に難しく、しかも拡大、維持する事こそが幕府財政の安定化のためにも至上命題であった。
 しかし何もないという事は、利益ももたらしていた。
 これまで日本では近海での海上戦闘が主体のため、船と言えばヨーロッパで言うところの沿岸洋ガレー艦の「安宅船」や「関船」しかなかった。外洋航行が可能な大型船は、ここ四半世紀に出現したものであり、1630年頃には本格的なヨーロッパ式のガレオン船である「臥船」が日本国内でも建造され始めていた。
 また、貿易の拡大に伴い新たな船を操る日本人水夫の数も年々増加傾向にあり、あとは今までに蓄積されている戦闘のための組織と経験をこの時代風に加味すれば、比較的容易く大航海時代の水軍が作れそうだと考えられた。
 かくして武士達の中から、水軍の仕事が担える人材探しが始まった。そして取りあえず揃えられたのは、戦国時代に日本各地で水軍を支えていた者達だった。幕府により陸の僻地の追いやられた九鬼氏、何とか瀬戸内で命脈を保っていた毛利水軍を担った村上氏など瀬戸内各地の武将や海賊の末裔、土佐で元長宗我部の家臣だった地侍など、とにかく日本中から次世代の幕府水軍を担えるであろう経験を辛うじて守っている人々を集めた。
 個々の船ならともかく海の上を集団で行動するための知識や経験を手早く獲得するためには、かつての経験が非常に重要だと判断されたからだった。実際、船の新旧による違いはあっても大きなところでの変化は小さいので、集まった元水軍武将達の意見や見識、彼らが先祖から伝えられていた知識は非常に有用だった。
 また人材としては、既に海外で海賊などとの戦闘経験を持つ浪人衆も集められ、見定めた上で幕府が次々に召し抱えていった。船に乗る水夫も、武士として召し抱えるなどの行動が頻繁に行われていった。
 そうした人材を用いて、江戸郊外の越中島と呼ばれる場所に「幕府水軍伝習所」が開設された。
 ここではオランダの東インド会社から招いた顧問も「お雇い異人」として存在し、西洋型帆船を用いる航海の基礎から戦闘技術の訓練が行われるようになった。
 幕府による船の自力取得にも力が入れられ、江戸湾での開港場所として賑わう浦賀の一角に、幕府直轄の造船所と関連する部品工場が設けられ、西洋型軍船を専門で建造するようになった。
 大坂の陣以後おざなりにされていた武器に関しても、艦載用大砲の製造が新たに開始される。初期のものは、戦国時代末期同様に寺の鐘と同じ製法による青銅製の鋳造砲だったが、自らの技術向上とヨーロッパからの技術輸入により、鉄製の大砲も順次されるようになった。鉄砲や刀も、工芸用ではなく実戦向きのものが新たに製造されるようになった。戦乱の終息と共に生産が激減していた火薬の生産も幕府直轄で行われるようになり、土硝法により生産される人造硝石の上納(徴税)も順次実行に移された。
 また拠点防衛、日本の沿岸防衛についても一定の理解が示されるようになり、沿岸防衛に関しては幕府だけでなく各藩に負担させる形で、沿岸砦(要塞又は砲台)を新たに建設を行ったり、幕府水軍への上納金拠出を行わせた。しかし各種出費で既に財政が一杯一杯の諸藩には、沿岸防衛や幕府水軍のための経費拠出は重荷だった。このため、沿岸防衛などの負担の引き替えとして、幕府による普請の軽減や参勤交代の江戸滞在日数を減らす措置などを早くも取らざるを得なくなってしまう。
 とにかく海外勢力に対する国防とは、金と人材、そして経験を必要とする一大事業だった。
 とはいえ、幕府水軍の初期の相手は、基本的に中華ジャンク船を用いる中華系海賊だった。高性能の大型ガレオン船を有するスペイン、オランダとは当時の幕府は良好な関係を持っていたので、特に気にする必要がなかった。初期の頃の一番の強敵は、新たに建造された船を有する同胞の海賊船だった。
 このため幕府水軍の有した船には、ヨーロッパで言うところの戦列艦はなかった。船そのものの構造はほぼ完全なガレオン船になっていたが、技術的にはまだオランダには遠く及ばず、船の規模も最大で5000石(900トン)程度だった。舷側火砲の数も、18世紀に入っても片舷30門程度が上限で、4等もしくは5等戦列艦程度の戦闘力だった。主力は速力発揮に優れた、イングランドの言うところのフリゲートクラスだった。
 しかし海賊対策や海上交通の維持にはその程度の船の方が使い勝手が良かったし、幕府水軍は単純な戦闘力(砲力)よりも戦闘速力や航海性能を重視した船を好んだ。また限られた予算の中で、急ぎ一定数の軍船を運用できるようにするためにも、贅沢な戦闘艦を有する余裕はなかった。つまり幕府海軍は、最初から海上護衛艦隊として建設されたことになる。

 そして水軍の建設と維持には、莫大な予算が必要だった。このため海外交易の拡大、特に中継貿易による運搬費用を稼ぎ出すことが重視されるようなり、船の高速化、大型化が1640年代から革新的に進んでいった。船の革新は国内流通にも劇的な影響を及ぼし、日本人が有する物流網を根底から変えていく事になる。
 しかしそれを好ましく思わないのが、諸外国だった。
 ヨーロッパのスペインやオランダは、日本人が出向いて貿易するようになって手間が省けたとむしろ好意的に受け止めていた一派もいたが、商売敵である事に違いはなかった。そしてヨーロッパ勢よりも、当時東アジアの海には中華系、イスラム系、さらにはインド系の船が多数運航され、彼らの方が日本人の海外進出による不利益を被っていた。
 日本人によるヨーロッパ風の外航洋高速大型帆船が大量に登場すると、彼らの海運シェアを一気に奪い去っていったからだ。一時期のオランダ人が、東アジアの運搬人と自分たちにかけて日本商船を揶揄する状況に至るまで、四半世紀もかからなかった。東アジアではヨーロッパ船の数は限られていたが、日本人の船の数は非常に多かった。
 日本の貿易商船の保有者は日本人の間では国内と同様に廻船問屋と呼ばれ、17世紀後半に入ると東アジア各地の港湾で一般的に見られる船となっていた。
 このため、いまだ海禁(鎖国)政策を頑なに続けていた中華王朝(明朝)でも日本船は嫌われたが、既に国家統制ができなくなっていたため、中華系商人の一部は日本船をまねるようになった。だが、この頃に中華地域は明朝から清朝への革命期にあり、そうした中華地域での混乱が日本船が東アジアを制覇する大きな要因ともなった。

 そして日本商船の活躍が影響したのが、1644年の明国からの救援要請だった。
 当時中華地域は、「明清革命」とも言われる明朝から清朝への王朝の交代期にあった。このうち、既に皇帝が内乱で廃され滅亡の縁に立たされた明朝に属していた海軍提督の一人である周鶴之が、日本に援軍要請を出した。援軍要請を受けたのは、中央政府の江戸幕府ではなく東シナ海で大きな影響力を持つ薩摩藩(島津氏)だった。
 これは日本商船が中華の港から形式上であれ閉め出されていたため、日本人が明朝の人間の接触を難しくしていたからだった。薩摩藩との接触も、形式上明朝の属国で、実質は薩摩藩の支配下にあった琉球王朝を介しての事だった。
 薩摩藩からの報告を受けた幕府は、出兵するか否かの会議を連日行った。ここで焦点となったのは、明朝救援ではなかった。中華産の生糸、絹織物、綿布などの輸入を続ける事と、国内になおあふれる浪人対策に関する議論が中心となった。
 当時の日本の海外貿易は、中華産の絹を中心に動いていたので、これが戦乱で手に入れられなくなる事は、商人達にとって死活問題だった。また幕府にとっては、浪人対策の解決としての大軍派兵は非常に魅力的だった。
 しかも絹及び絹織物の大産地である揚子江下流域は、現時点では何とか明朝側が保持しているが、いつ清朝の八旗兵が押し寄せてくるかという状況だった。
 この場合日本側が注目したのが、一瞬にして清朝が勝った場合だ。この場合現地の破壊と混乱は最低限で収まるので、日本の貿易に与える影響は最小限で済む。一方で、現地での戦乱が長引いた場合、絹の供給が受けられなくなる。そうした事態は何としても避けたいというのが、日本側の一番の思惑だった。
 これらを確認するため、まずは明朝側に幕府の調査隊が出され、清朝側には既に清朝の属国となっていた朝鮮王国を介した情報と、各地の商人からの情報収集などが活発に行われた。幕府隠密と言われる人々が、海外に始めて派遣されたのもこの時だと言われている。
 しかし幕府が情報収集している間に、大陸醸成は急速に進展した。当時順治帝のもとで辣腕を振るっていたドルゴンの命により、産業の中心であった揚子江河口域は戦場となってしまう。
 この段階で江戸幕府は、出兵時機を逸したことを認識すると同時に、多少強引でも絹の製法を手に入れることでの補完を画策した。このため続々と日本船が揚子江河口部に赴き、一部は清朝の役人と、また別の者はまだ抵抗する明朝の者と接触。さらには事実上の人さらいをする者達も入り込み、各地で事実上の略奪的貿易を実施し、朝鮮出兵の時のように多数の技術者の誘拐を行った。日本人としては、絹だけが問題なのであり他は特に気にしていないと言う、実に外交的無定見が行動に表れた形だった。またこの時行動した者の多くが、幕府や幕府水軍ではなく、日本各地の大商人や回船問屋だった。
 この結果、中華主要部での絹、絹織物、綿織物の製法が、日本に伝わることになる。また、略奪的貿易で巨万の富を得た一部の商人が、頭角を現す切っ掛けともなった。この時の江戸幕府の行動も、どんな手を使っても富を得たいとする商人達の思惑や後ろ盾がなければ、行われることはなかっただろう。


フェイズ03「ヨーロピアン・バトル」