■フェイズ03「ヨーロピアン・バトル」

 17世紀中頃の中華以外の東アジア情勢だが、ヨーロッパ勢力がまだ大きな力を発揮できないでいたので、かなり混沌とした状況だった。
 香辛料の豊富だったスンダ(東インド、インドネシア)地域では、ネーデルランドの東インド会社が優位に情勢を進めていたが、それとて現地国家やイングランドの対向があって、安定しているとは言い難かった。ジャワ島にあったイスラム教国家の勢力はまだ大きく、オランダにとっては広大な植民地というよりは香辛料を得るための拠点という向きが強かった。
 しかしスンダよりも酷かったのが、フィリピン情勢だった。

 フィリピンというよりマニラでは、植民地にして以後スペイン人の中で、総督と司教が互いの権益や領分を巡って対立することが多かった。そして対立から圧政に転じ、たびたび原住民による反乱や暴動が起きていた。しかもスペイン人はこの内乱を押さえることが年々出来なくなり、1648年にヨーロッパでの「ドイツ三十年戦争」が終わり敗戦と本国での災厄の連続によって国力が大きく衰えると、一層統治能力を低下させていた。
 「ドイツ三十年戦争」の総決算となったウェストファリア条約では、ネーデルランド(オランダ)にも正式に独立されてしまい、いっそう退勢は目立った。
 そうした本国の情勢が影響して、1653年にフィリピンの総督府のあるマニラでは、スペインの総督と司教が揃って姿を消すという前代未聞の事件が起きた。
 別に暗殺や失踪ではなく、本国からの召還という形で事実上逃げ出してしまったのだ。当時はそれほどフィリピンの治安は悪化しており、スペインの統治力は低下していた。その大きな原因は、主に南部に済むイスラム教と信奉する勇猛なモロ族による反発にあった。また数の多い華僑及び中華商人もスペインの言うがままではなく、そこに多数の日本人も加わって非常に混沌とした情勢にあった。
 そして当時、フィリピンに商館を置いているのは日本の江戸幕府だけであり、警備のための陸上兵力を常駐させ、水軍の艦艇も常時停泊していた。当時の幕府の戦力は、軍船の者を含めても常時1000名ほどだった。当然だが、スペインの承諾を得ての事だ。この申し出を幕府が行った時、スペインのフィリピン総督府は大歓迎と言いたげな態度だったと伝わっている。
 なお、策源地である日本本土から近い事、出入りする日本人の数が多い事、そして当時爆発的に日本商船が増えていたことから、マニラの日本人町は5万人を数えるほどに拡大していた。兵士以外の自警団の数も、動員時には数千名を数えたと言われている。日本から瓦などの材料を持ち込んで建設された幕府の商館は、当時スペインの総督府よりも立派だと言われた。
 しかもこの頃は明清革命の真っ最中のため中華地域は混乱しており、それまでマニラに大きな勢力を持っていた中華商人の勢いも大きく衰えていた。スペイン人に反発していた者の多くも、追いつめられた者であるか、中華本土からあぶれて海賊となっていた者達だった。
 こうした情勢を背景に、スペインから日本の江戸幕府に対して、マニラ及びフィリピンの警備委託の話しが舞い込む。料金後払いではあるが、当座の代金代わりに現地での権益を無条件に認めるので、スペインが統治能力を取り戻すまで何とかして欲しい、というのが話しの概要だった。
 スペインがこのような異常な条件を出した背景には、フィリピンには東南アジアの疫病(主にマラリア)があるためスペイン兵の長期滞在は難しく、消耗(病気、病死)も激しかった。しかも本国から遠いため、増援を追加することも、補給を維持することも難しかった。維持するにしても、多くの経費を必要とした。本国から植民地に行きたがる者も少なかった。しかしスペインとしては、太平洋のアカプルコ航路を維持する必要がどうしてもあり、そのためにはアジア側の拠点であるフィリピンのマニラが必要だった。そうしなければ、ノヴァ・イスパニア(メヒコ)で産出される銀、中華での絹、これを買い付ける日本から得られる利益(金又は銀)と言う形での貿易が難しくなる。そして戦争で疲弊したスペインには、貿易の利益が是非とも必要だった。
 しかし江戸幕府は、莫大な経費のかかる事業に消極的であり、最初は回答を渋った。
 しかし松平信綱はスペインの足下を見透かしていたので、さらに色を付けるようにスペイン側に交渉を持ちかけた。スペインのドル箱であるアカプルコ航路と各地の寄港地を日本人にも利用させろ、というものだ。それが無理なら、フィリピンの一部もしくはスペインの持つ南洋の他の島嶼を正式に日本領として認めろという条件も合わせて出した。
 これに対するスペイン側の回答は、あるのかないのか自分たちですら忘れ去っていた南洋の島嶼の権利を全て日本に譲り渡すというものだった。わざわざバチカンからの許可証すら、ヨーロッパから持ってきた。それもこれも、航路を守るために航路を指しだしては本末転倒であり、自分たちの支配力が落ちた今となっては、太平洋の辺境の島のことなど知ったことではなかったからだ。
 これを示された江戸幕府の側も、その実体は分からないが、とにかく何かを恒久的に得られるところまで交渉を引き延ばしたことに当面は満足し、スペインの申し出を受け入れることにした。それに南洋の島嶼は、うまくいけば当時日本本土で需要が伸びていた砂糖の栽培地として有効かもしれないという目算もあった。それが無理でも、流刑地程度には使えるだろうと考えた。
 さっそく現地の水軍、地上部隊、商館の要員が大幅に増強され、主にマニラの治安と安全を確保。さらに主な混乱原因となっているモロ族と交渉を持ち、フィリピンの他のことは極力干渉しないという方針を取った。マニラの安定が大切なのであって、他は切り捨てても当面問題ないと割り切ったのだ。ただしモロ族に対しては、可能な限り友好的な接触が試みられ、彼らを懐柔する動きも行われた。これはゆくゆくはフィリピンに何らかの権利を得るための布石でもあるが、基本的にはただ働きさせられるのだから、これぐらいしても文句はないだろうと言う心理からくる行動だったと考えられている。
 この動きは、江戸幕府が行った始めての侵略的行為となったが、大きく文句を言ってくる国はなかった。
 基本的にこの頃のスペイン人は、ヨーロッパと新大陸で手一杯だった。また江戸幕府は、オランダ(ネーデルランド)が、自分たちの敵であるスペインと日本が昵懇の間になることに、最低でも苦言を言ってくるのではと予測したが、特に何も言ってこなかった。それよりも、オランダ人が言ってきたのは、日本人傭兵を大量に貸して欲しいというものだった。

 1651年にイングランドが「航海条例」を出した。これは主にオランダを狙ったもので、当然ながらオランダの海上活動に大きな支障が発生する。
 そして背に腹は変えられないオランダは、イングランドに戦争を吹っかけるに至る。
 「英蘭戦争」の始まりだった。
 戦争は、1652年から1674年の間に第一次から第三次まで行われ、第3次ウェストミンスター条約によって講和が成立した。
 戦争は、戦費のために財政破綻したオランダの敗北であり、これ以後オランダは海洋貿易国家として凋落し、国自体が小さく国民国家への脱皮も出来なかったため、以後目立つ事もなくなっていく。
 しかし戦争当初オランダは、短期決戦なら自分たちに十分勝機があると考えていた。経済力、船舶量、そして表面上の軍事力なら自分たちが圧倒しているからだ。
 だが戦争は、第1次(1652年〜1654年)、第2次(1665年〜1667年)、第3次(1672年〜1674年)の全てがオランダの敗北で終わった。
 第1次戦争では、早くも航海条例を認めざるを得なかった。この結果公海上でイングランドが優位となり、オランダとしては不利を覆す方策が必要となっていた。
 そこで注目されたのが、自分たちが企てた鎖国など目もくれず東アジアの貿易国家として隆盛し始めていた日本だった。

 オランダ人達は、スペイン人がマニラの治安を日本人にゆだねたことを知ると、これを非難するよりも利用することを考えた。つまりは、マラッカ海峡より東の治安維持に日本人を利用し、余剰となった東インド会社の戦力をヨーロッパに回して劣勢を挽回しようと言うものだった。
 しかもオランダ人にとって幸いな事に、日本の江戸幕府は基本的に治安維持は通商路護衛以外で武力を振るう気がなく、侵略的行為はほとんど考えに持っていなかった。日本人達が求めているのは、東アジアの海の安定だった。
 そのくせ日本人達は、多数の傭兵(浪人)を国内にプールしており、いつでも大軍を用立てられる力を持っていた。国自体の人口も東アジアではチャイナに次いで多く、鉄砲や大砲を多数有するばかりか、ガレオン船すら日常的に運用するようになっているため、潜在的軍事力は非常に高かった。
 そしてオランダ人は、日本人に東インド会社の植民地、入植地、商館の利用権を与える事と引き替えに、多数の傭兵の派遣と、艦船、武器の購入を打診した。利用権で足りない分は、グルテン(銀貨)を積み上げて対処すると言った。戦争初期のオランダは、まだまだ欧州随一の経済大国だった。
 そして銀貨と利権に目が眩んだ江戸幕府は、オランダの提案を了承。多数の船や武器を東インド会社に売却し、その船に日本中から集めた多数の浪人を乗せて東アジア各地に赴かせた。中にはインド洋にまで行った者もあり、多数の日本人が東インド会社の旗の下で働くことになる。
 もっとも幕府側の真意は、国内になお溢れる浪人の厄介払いに他ならなかった。この結果、約3万人の浪人が日本国内から消え、日本国内の安定度は大きな向上を見せることになった。
 なお東インド会社の傭兵として雇われた者の中には、海賊退治ばかりでなくインド洋でイングランドの東インド会社と戦った者も多数おり、有名な人物の中に由井正雪、丸橋忠弥がいた。由井正雪は実戦の中でヨーロッパ式の近代戦を体得・実践し、それを日本に伝える事で大きな名声を得た。近世日本陸軍の父とい言われることもある程だ。また丸橋忠弥の戦場での勇猛は、山田長政らに続く日本人傭兵の活躍として称えられた。
 そしてこの時、日本人傭兵が一躍ヨーロッパに知られることにもなる。イングランドが「ダッチ・サムライ」と呼んで忌み嫌った傭兵達の誕生だ。

 一方でオランダは、この頃日本との貿易を大きく増やしていた。理由の一つは、戦費を獲得するためだ。そして日本産の豊富な黄金を得るために、様々なヨーロッパの珍しい文物を日本人に売り込んだ。またこの頃ヨーロッパで大量に出回るようになっていた砂糖も、大量に日本に輸出されていた。もっともそのかなりが傭兵や武器、船の代金として日本人に支払われていたので、日本の方も一種の戦争特需に沸くことになる。
 一方では、中華地域が戦乱で陶磁器の生産が滞り、輸出する事も難しくなっていたため、日本各地で大量生産されるようになっていた陶磁器が爆発的にヨーロッパへと流れていた。しかもこの頃には、日本の陶磁器は美術品としての価値も大きく向上しており、ヨーロッパの王侯貴族に珍重される美術品となっていた。あまりに大量に輸出されたため、俄に日本ブームが起きていたほどだった。この頃のヨーロッパの宮殿や貴族の邸宅には、信楽焼の狸までが高価な美術品として陳列されていたと言われ、その一部が今に伝えられている。
 他にも、漆器、扇子などの手工業品や美術品、そして日本産のお茶も輸出されるようになった。日本でも自生するお茶は、この頃には緑茶と言えるものが既に誕生しており、これが主に輸出された。しかし緑茶は長い航海の間の品質管理が難しいため、あえて中華風に発酵させたお茶(烏龍茶又は黒茶(紅茶))がヨーロッパ向けに生産されたりもした。
 そうした貿易や日本人傭兵に代表されるように、この頃は日蘭蜜月時代だった。
 
 そしてオランダ人の努力は報われ、イングランドとの第2次戦争は何とか判定勝利に持ち込むことに成功する。南北新大陸の利権も守られ、アジアでは日本人傭兵の活躍もあって有利な戦いを展開することもできた。この結果、河川でのオランダ船には、航海条例が適用されないことになった。
 しかし戦争での疲弊は避けられず、足下を見られ隣国フランスの干渉が強まり、第3次戦争へと発展。この戦争はオランダ侵略戦争とも言われ、オランダは力戦奮闘してデ・ロイテル提督率いるオランダ艦隊の1672年「ソールベー沖の海戦」などの活躍により、英仏軍のオランダ本土上陸を阻止する事に成功した。しかし敵がイングランドだけでない、というより主敵がフランスであるためイングランドとは単独講和を結び、ここに海洋国家としてのオランダは凋落を決定的なものとする。
 しかし破れはしたものの、オランダの手には東インド会社が有するケープ、セイロン、そして東インドなどのインド洋、アジア地域の植民地は残った。新大陸のうち北にあるニューアムステルダム(ニューヨーク)、ニュージャージーなどの北アメリカ植民地は、イングランドへ割譲したが、失った海外領土といえばその程度だった。
 そしてアジアの植民地維持に貢献したのが日本人達であり、その斡旋をした江戸幕府に対して、以後オランダは「格別の配慮」で対応しなければならなくなる。
 恩義の面でもそうだが、アジア植民地の安価な維持のためには日本人の協力が必要不可欠になっていたのだ。何しろ彼らの本国は東アジアの北部にあり、特に東南アジアにはヨーロッパより格段に近かった。
 同じ数の戦力、兵力を用立てても、日本人に金を支払う方がずっと安上がりだった。しかも日本人の武士達は契約に忠実な者が比較的多く、他のアジア人よりも信頼が置けた。さらには江戸幕府や日本人商人達自身の円滑で安全な貿易のためには、オランダの利権を利用する方が安上がりであり、日本人達は熱心に東アジアの治安維持をしていくことになる。


フェイズ04「ウッズ・クライシス」