■フェイズ04「ウッズ・クライシス」

 1657年の「明暦の大火」は、様々な点で一つの転機となった。
 明暦の大火とは、日本の首都である江戸を襲った大火事であり、当時の江戸の町の約6割が焼失し、死者の数は5万から10万人に及ぶと言われた大災害だった。
 そして首都での火事であるだけに、すぐにも復興が開始され、大規模な再開発事業として日本に活況すら呼び込んだ。同時に、江戸の町の大改造が実施され、災害に強くなるように街路を広く取ったり、火除け地を設けたりした。この火除けは、後に発展して西洋風の公園へと進歩していくことになる。
 そしてこの時、中央政府から深刻な問題として受け止められたのが、森林乱伐による木材資源の急速な枯渇と、森林乱伐がもららす自然災害や人々の軋轢の増加など様々な負の側面だった。

 そもそも日本の家屋は、木造が殆どを占めている。諸外国のように、石、煉瓦、セメント、泥、タイルなどはあまり使用されていない。漆喰という耐火性を備えた壁材はあったし、屋根には焼き瓦も使われる事があったが、多くの民家は板の壁に藁葺きか板葺きの屋根だった。土壁で家屋を覆っても、土壁の芯には竹がふんだんに使われていた。
 日本人が木を多用したのは、気候が温暖なためそれほど重厚な作りの家屋が必要無かった事と、彼らの周りに豊富に森林が存在したからだった。そして日本列島にそれほど多くの人間が住んでいない時代は、どれほど使おうとも森林が目減りすることはなかった。使い切れない資源だったのだ。
 しかし戦国時代後半になると、日本の人口はそれまでの五割り増し近い増加を示していた。しかも江戸時代に入ると人口増大に拍車がかかり、約200年間で二倍近い人口増加となっていた。その上人口は、まだ増加する傾向を強く見せていた。そして増えた人口の分だけ木材資源を消費した。加えて、戦国時代後半になると織田信長以降の大名達は、こぞって巨大な城塞や寺院を造って木材資源を浪費した。その上幕府の開国路線の中で、大量の木材が船舶建造のために使われていった。
 また木材資源は、単に建材としてではなく直接的な燃料資源(薪)として日常的に使われていた。しかも森そのものが、当時の日本では重要な家畜の飼料の供給源であり、天然の肥料(緑肥)としても多用されていた。燃料資源としても欠かすことは出来ず、木炭や薪の形で日常的に使われていた。戦乱の時代に使われた簡易防弾用の竹束ですら、合戦の規模が巨大化するとそれは十分森林(竹林)破壊となった。
 日本人達は生活の全てを、無尽蔵に存在すると思いこんでいた森林に依存していたと言ってもいいだろう。森林破壊に伴う自然災害の増加についても、知識や認識が足りなかったため、この時点になるまでせいぜいが局地的な事だとそれぞれの人間が考えていた。
 しかし無尽蔵でないことが、明暦の大火後の江戸復興で中央政府(江戸幕府)の元で明らかとなった。

 当時江戸の街は、都市人口100万人に達する世界最大級の都市であり、その街の半分を一から再建するために必要とされる木材の量は、当時の日本列島にとってはもはや天文学的だった。江戸幕府の政庁である江戸城御殿と隣接する大奥は、人類の歴史上で世界最大の木造建造物だった。
 このため木材枯渇を中央政府である江戸幕府が明確に認識することが出来たのであり、もし首都焼失という大事件が存在しなければ、イースター島のような枯渇とはいかなくとも、近世のスペインのような森林資源の不足する荒れた土地に日本列島がなっていた可能性も十分にあっただろう。
 しかし江戸幕府は、すぐさま強力なトップダウン方式でこの危機に対応を行った。
 幕府が行った対策は大きく三つ。
 最初の一つは、木材流通を全ての面で徹底的に管理して無駄な浪費を防ぐこと。これは消極的方法であり、基本的には時間稼ぎにしかならないが、他の二つの対策が効果を現すまでの時間を稼ぐための方策なので、それで十分だった。
 残る二つのうちもう一つが、日本全土での計画的な営林事業で、最後の一つが日本以外の場所から木材を持ってきて国内の不足分を補填する事業だった。
 そして前者二つが日本国内に様々な悪影響を与える前に、海外からの木材の流れを拡大する必要があると考えられた。
 このため効果を現す政策の順番は、統制、輸入、営林と言うことになる。
 そして戦国時代後半から見られていた森林伐採による様々なマイナス面(禿げ山を原因とする洪水災害など)増加の原因が分かると、日本人の間に自分たちの森を守ることが自分たちの生活を守ることだと認識させるようになった。
 こうした日本人全ての危機感の中、江戸幕府が中心となって生活面での大改革が実行されていった。
 問題解決のためには、単に森林資源に関することだけでなく、様々な面での改革や変化が実施された。改革と変化は、食生活から海外貿易にまで及んだ。
 建材としての利用は、当面は徹底した使用統制と、巨大建築の一時的自粛という形で十分対処可能だった。統制しても足りない分は、海外から持ち込めば事足りるからだ。そして当時の日本人は、既に外に出向く意志と手段を十分に持っていた。
 しかし物を運ぶことには、様々なコストが必要だった。また木材を切るという事業をそれぞれの地域で行うための努力も必要だった。
 そうした中で日本人がまず取りかかったのが、豊富な森林資源のある場所の調査であり、現地に多数の住民が居る場合の交渉だった。
 最初に注目されたのは、当時蝦夷と呼ばれていた北海道だった。そして蝦夷を中心とする北方開発では、森林資源以外での幕府の政策も重なって、いち早く進んでいく事になる。
 
 当時人口増加も気にし始めていた幕府は、食糧生産を農業、より厳密には稲作に依存しすぎることに警戒感を持ち、食生活の面での改革と改善も実施しつつあったのだ。
 そして注目されたが、有力な船を大量に有するようになった事からくる漁業事業の拡大と、蝦夷との交易拡大だった。
 漁業の開発の方は、緑肥から魚粉(魚肥)への転換という方策もあったため急速に進んだ。しかし、沿岸から沖合にまで漁業範囲が広げられるようになったと言うことは、それまでより大きな漁船が大量に必要なことを現していた。
 しかも照明用燃料資源、潤滑油としての鯨油など魚の脂も注目されつつあったので、魚を獲って油を絞り、残り滓を魚肥にするという産業が急速に発展していった。この中での主軸は日本沿岸で豊富に存在した鯨漁であり、それまでにない漁業産業を日本にもたらすことになる。彼らは、日本沿岸で簡単に鯨が捕れなくなると、その後さらに船を巨大化させて太平洋各地に散らばって行くことになる。遠方での漁業(捕鯨)では魚肥を持ち帰ることは出来ないが、鯨油だけでも十分に採算が取れた。また沿岸捕鯨では、鯨の肉そのものが広く食べられるようになり、塩漬けの鯨肉(鯨ベーコンなど)というものも広く普及するようになる。
 一方蝦夷に旅立った貿易商達は、日本から米、米酒、タバコ、綿などを持ち込み、物々交換の形で薫製サケ、乾燥ナマコ、乾燥アワビ、昆布、各種毛皮と、そしてアイヌに委託して切り出させた木材を買い付けた。
 この結果蝦夷での自然資源は急速に枯渇し、サケ、鹿の数は激減し、それを木材資源の切り出しが助長した。だがアイヌ達は、自分たちの伝統的暮らしが自分たちの招いた欲望のために破壊されたため、今更日本人との交易を止めることも出来なかった。そして日本人が持ってくる物産への耐え難い魅力から自ら止めようとも思わなかった。
 もっとも蝦夷での急速な資源枯渇を自分たちの経験から予測した日本人達は、すぐにも蝦夷の先にある樺太、千島などオホーツク地方にも進出して、各地で資源浪費の再生産を行っていった。
 蝦夷の統治権も、松前藩から多くを幕府に移し替えた。生活の崩壊と不平等な交易に我慢しきれなくなった現地アイヌによる反乱も発生したが、幕府が武力を投じて簡単に鎮圧し、その後国替えが実施されて蝦夷は幕府直轄領となった。
 もっともアイヌは、当時蝦夷に移民や出稼ぎしたがらなかった日本人に代わり必要な人的資源のため、その後は幕府によりむしろ保護されるようになった。日本的文明化を進めると共に、人口増加策、移住政策が実施されれた。アイヌ人の数も、18世紀中頃から急速な拡大曲線に入り、幕府の権威と武力を背景として北方各地への進出の先兵と変化していった。アイヌ神道やウタリ神道と呼ばれる、日本風に改められた宗教が生まれたのは18世紀前半の事である。アイヌ側の意識も、日本の民ならぬ「幕府の民」としての自覚と一種の誇りすら生まれる。この流れは、ロシアのコサックに少し似ていると言えるだろう。
 また北方での居住のため、アイヌ風の建築様式が日本人の中に取り入れられたりするといった変化も見られた。アイヌから取り入れるまで、東南アジア系の住居に住み続けた日本人には、二重構造の家屋という概念そのものが欠如していた。

 一方、別の木材を求めて南方に赴いた人々もいた。
 北方では大量の針葉樹林を探したが、それだけでは様々な木材需要に対応できないため、落葉樹や照葉樹を求めての進出だった。そしてまず注目されたのが、小琉球と呼ばれていた当時の台湾島とフィリピンだった。
 フィリピンでは、既にマニラを中心に大挙進出していたし交渉のチャンネルも持っていたので、形だけスペイン人の許可を得ると現地人と交渉を行い、現地人に切り出させる形で材木の取得が始まった。ここでの日本人は、スペイン人、勇猛な原住民とのいざこざを嫌って可能な限り原住民との正当な取引と対価の交換を行ったため、あまり旨みのある材木取得地とはならなかった。幕府としても、日本を禿げ山にするよりはマシという考えがあるから、事業を進めたに過ぎない。
 一方の小琉球は、1622年にオランダが安平という場所にゼーランディアという名の砦を築き、初期的な植民地支配を始めた。現地にはマレーポリネシア系の祖といえる先住民が住むだけで、植民地的統治、いわゆる原住民に農業を行わせて税を搾取するという構図は難しかった。だが、当時対岸の福州(福建)は貧しい農民が多く、後の華僑として東南アジア各地に散らばっていたが、その一部が小琉球にも流れていた。それをオランダ人が、植民地支配に利用したのだ。
 その後しばらくオランダ人の支配が続いたが、日本人が目を向け始めた1659年に、清朝に反旗を翻す鄭成功が大陸での失敗を受けて亡命の形で現地からオランダ人の勢力を駆逐、その後支配下に置いた。これは、オランダの輸出税に喘ぐ小琉球の現地人の意を受けた鄭成功が救済したという形になる。
 そしてこの間隙に、日本人が首を突っ込む事になる。
 日本商人達は、鄭成功に武器や船を売却して、現地人を使った木材の取得権利を得たのが始まりだった。
 そして鄭成功の母親が日本人で、鄭成功自身も生まれが日本の平戸だという事で、一気に交流が進んでいった。
 そして日本側にとっても意外というか予期せぬ事件が起きる。
 鄭成功が1659年に39才で病没するその年、妾としていた女との間に子供が産まれたのだが、生んだのが日本人だったのだ。これを窮地に追い込まれていた鄭成功側の陣営が持ち上げ、日本とのパイプとして利用しようとした。一方の日本側も、あわよくばこのまま小琉球を実行支配してしまい、安定した木材及び当時大量栽培の始まったばかりだったサトウキビ(砂糖)の供給地にしようと画策した。
 事態を主導しているのは幕府ではなく西国主に京、大坂の大商人達だったが、彼らとしてはこれを機会に大陸の新政権(清朝)が文句を言えないほどの実質的支配権を確立するつもりだった。
 彼らの読みには、自分たちの方が水軍(海軍)で優れているので、大陸が手を出すことは出来ないだろうというものがあった。
 そして事態は、ほぼ日本人達の目論見通りに推移した。小琉球は日本経済の一部として発展し、鉄製品などの加工品が省琉球に輸出され、日本列島に木材、砂糖を送り込んだ。そして十年もすると商人以外も小琉球を無視できなくなり、幕府が奉行所(商館)を設置して事実上の統治に乗り出し始める。
 そして日本の政府組織が入り込んだことで、交渉窓口も自然と清朝と江戸幕府の間で行われるようになった。この前後に「三藩の乱」と呼ばれる、清朝最後の統一戦争が行われていたが、小琉球の鄭成功の名目上の後継者(鄭経)はこれを拒否。自らの生存のために日本人に組みすることになる。そしてその後、鄭成功最後の子供(鄭経)が鄭家の家督を継ぎ、さらには日本の朝廷、江戸幕府から位を賜ることで、小琉球改め台湾は日本の領土として落ち着く事になる。台湾が藩になったり王国として成立することは政治面では無かったが、その後台湾は幕府直轄領とされ、鄭家はそこの事実上の領主として君臨することになる。
 この一連の流れで、清朝は特に文句を言うことはなく、むしろ日本人が近在の海賊を取り締まるようになった点を評価していた。台湾はもともと「化外の地」と言われる場所にあたるので、中華が統治しなくてもよい場所だったからだ。
 いっぽう、一旦は台湾を追い出されたオランダ人は、当時ヨーロッパでの戦争中(英蘭戦争、オランダ侵略戦争)などを行っており、幕府との友好関係を重視してその後日本人の統治のもとで若干の権益を取り戻す以外は行わなかった。

 話しがかなり逸れたが、こうして台湾からも日本本土に大量の木材が流れるようになった。また日本人の交易網として台湾の高雄が利用されるようになり、日本人による南方進出を拡大する要因の一つとなった。
 また現地での労働力として福州(福建)からの移民を受け入れることが政治的に難しくなった江戸幕府は、琉球及び九州南部からの移民を募ることを考えるようになる。幸い台湾には、東南アジアで日本人を悩ませているマラリア熱が存在しないため、多少は進出も行いやすかった。
 そして移民した人々は、材木業、製糖業に従事することで日本経済の一翼を担うようになった。もっとも、材木業よりも製糖業の方がその後爆発的に発展することになる。これは日本人の砂糖需要の拡大に応えるためであり、またオランダからの砂糖輸入による金銀流出を止めるためでもあった。そしてその後、台湾では砂糖精製技術が進み、日本で最初の白い砂糖を供給する場として栄える事になる。

 なお、日本での木材資源危機に伴う変化と改革は、その後も様々な面で進んでいた。
 燃料資源としての薪、木炭に代わり、九州の筑豊で一部露天掘りすら可能だった石炭の利用が一般化していった。石炭は、練炭や豆炭に加工され、その後の日本での一般的な火力となっていく。蝦夷でも炭坑が見つかり、さらに北蝦夷(樺太)でも炭坑が見つかると、順次開発されていくようになった。火を燃やす竈(かまど)そのものも石炭を燃しやすいように改良が施され、暖房器具としての石炭用の火鉢も登場した。木を燃やす囲炉裏に代わって火鉢、炬燵が登場したのも17世紀後半のことになる。竈の改良は、火力の強化に伴って食生活にも影響を与えた。
 また森林と森林資源を徹底管理することで、17世紀後半以後の日本の森林は全ての資源の供給地から木材を切り出す場としてのみ成立するようになる。
 そして木材に伴う生活の大幅な変革は、先に挙げたような日本人の海外進出を一層促進させることになっていた。


フェイズ05「ノーザン・テリトリー」