■フェイズ09「マーカンティリズム」

 日本の江戸幕府で行われた「マーカンティリズム(重商主義)」は、ヨーロッパでの後期型とされる事が多い。
 これまでの日本の海外貿易も、貿易黒字を目的に自国の商工業発展を目指したものだった。だが18世紀後半に入ると、その流れが加速して重商主義と呼べる段階にまで至っていた。
 なお、一般的な重商主義政策とは、「輸出拡大と国内での貨幣蓄積」、「軍事力の強化」、「工業の保護育成と発展」という事になるだろうか。そして、重商主義とは資本主義に至る過程の一つであり、重商主義から重農主義へ、そして自由資本主義に至るとされている。また否定的な者からは、植民地主義、帝国主義、軍国主義の前触れだと言われることもある。
 このため日本の重商主義は、既に主に国内限定で限定的な重商主義と重農主義を経ているため、分類的には後期重商主義ということになる。ただし後期重商主義とは、未成熟な産業資本を保護する事であり、主に競争相手がいる場合に取り入れられる政策と言うことになる。
 そして江戸幕府にとって、ようやく競争相手のことを意識しなければならない時代が到来しつつあった。
 そうした時代に江戸幕府中枢に登場したのが、田沼意次だった。

 田沼意次は1772年に老中となり、1788年に没するまでの16年間老中として幕政を取り仕切った、この時代随一の宰相だった。老中になる前からの政治的影響力を考えると、20年以上も日本の政治を担っていた事になる。
 彼は日本史上でも、重商主義政策を推進した人物として知られている。海外貿易促進のため、幕府内ばかりでなく、諸藩、大商人などと連携して流通規模の拡大を行った人物だった。
 彼の時代に日本製の商用ガレオン船(※「臥船」ではなく「万石船」又は「大名船」と呼ばれる事が多い)は大幅に増加しているし、日本各地では様々な近世的殖産興業が行われた。工場制手工業(マニファクチャー)が大幅に発展したのもこの時期で、都市商業、海外交易、殖産興業、貨幣経済を基本に置いた「天明の改革」は、重商主義による経済改革だった。
 そして彼は、日本にオランダの東インド会社のような株式会社制度を本格的に幕府(日本)に導入したことでも知られる。そうして設立された株式会社「大東社中」から上がる運上金・冥加金(税金)によって、当時傾いていた幕府財政を立て直したことでも知られている。加えて、都市部の商人から決まった率の税金を納める社会装置と制度を作ったのも、土地(主に農地)に対する取れ高などの再評価を実施したのも、田沼意次だった。このため田沼意次を、日本近代税制の父と呼ぶこともある。
 また武士への与禄が、貨幣への比重をいっそう高めた時期でもあり、殖産興業政策による地方経済の拡大と地方財源の増大もあって、武士、大名全体の貧困を緩和させ借金を減らす事にも貢献した。同時に、武士の官僚化も大きく前進する事になった。
 そして、金貨を中心とした一元的な貨幣制度が完成したのも、彼の時代の事だった。
 また、当時の日本では1783年の浅間山噴火を契機として起きたとされる事の多い「天明の飢饉」に対しても、これまで行われていた救荒作物の普及、商品作物としての米の価値の低下、国内流通網の充実、海外からの輸入、そして田沼意次の強力な指導によって、中規模の飢饉として乗り切ることに成功していた。
 特に日本の物流網を、従来の江戸、大坂への集中だけでなく、集散地から地方そして日本中へ拡散する形を整えた事は、後世からも高く評価されている。この結果、足りている場所から足りない場所に物資、食料が行き渡る形が作られ、以後日本全体での飢饉が大きく緩和される事になったからだ。
 そしてこの改革の中で、幕府内の成り上がりである田沼意次とその一派の政敵だった守旧派が一橋派の勢力も減退させ、1787年に就任した十一代将軍徳川家斉からの信用を得た田沼派の中での名家水野家が、幕政を牛耳る流れが作られていく。
 江戸幕府は、農村を基本に置いた武士本来の考え方を重視する守旧派ではなく、好調な海外貿易と商業主義(重商主義)を背景とした革新派を中心に据えることを是としたのだった。

 一方国内の経済政策以外では、前章で挙げたように海外領土の確定と探査、海外交流の促進などが実施されている。この時確定された江戸幕府の領域は、世界的に見ても利用価値の低い場所ばかりな上に、半ば名目ではあったかもしれないが、日本列島の20倍以上の面積に膨れあがっていた事になる。
 また、重商主義に相応しく、海外貿易の促進も重要な政策の柱でもあり、清朝への俵物(海産物の乾物)、高級毛皮、ヨーロッパへの陶磁器、絹織物、刀剣、漆器、高級毛皮、そして鯨油及び鯨油の加工品の輸出を行う。この時期には日本の代表的調味料である醤油も輸出され、ヨーロッパに一般的に輸出されるようになっていた。一方では、南方植民地で生産される砂糖の増産、コーヒー、香辛料の自力栽培の成功、国内での絹(生糸)、絹織物、綿織物、ガラス工芸品の品質向上などによって輸入を減らし、莫大な貿易黒字を作り出した。
 田沼時代に幕府の金蔵に常時蓄積された金銀の総量は、5000万両(=各種西洋銀貨(ターレルやリーブラなど)と同比率。旧小判だと約四分の一の数量。銀1750トン分。金だと銀の約10分の一の量)にも上ると言われている。5000万両とは、この頃の幕府の年間予算の六割に匹敵し、世界的に見ても貿易面での成功例と言えるだろう。
 幕府ばかりでなく、殖産興業を行った各藩、特に雄藩と後に言われる藩の経済も大いに潤い、それぞれの藩での改革などもあって、天下太平の中で停滞しつつあった状況打破につながっている。

 そしてこの時期発展したのが、日本列島以外の日本の勢力圏だった。
 前章であげた北アメリカ大陸西海岸部の開発はこの頃始まったばかりだったが、南方の東南アジア北部、北辺の北氷州を勢力圏として既に一世紀が経過していた。
 どちらも幕府直轄領であり、北氷州では幕府から許可を得た商人達と、一部の漁業従事者、林業従事者さらには山師達が活動していた。しかし気候が寒すぎるため、農業を行う人が多数住み着くにはほど遠かった。だが、北氷州では一部例外があった。それは北氷海沿岸とその内陸部で見つかった金鉱だった。
 北の僻地での開発は苦労が伴われたが、欲望が障害を押しのけ、大商人が幕府から権利を得て開発が進められ、そこで得られる黄金は日本人社会に流通する貨幣供給を支えるようになっていた。何しろ18世紀に入ると日本列島内の産金量は減少しているのに対して、反面経済は拡大を続けていたからだ。
 また北辺の領土で例外だったのが、蝦夷島、特に蝦夷島の太平洋岸だった。蝦夷島では、17世紀後半から積極的な森林資源開発が実施され、日本人の重要な木材供給地となった。そして平原部の原生林が消え去る18世紀前半に、本格的な入植と開拓も始められた。蝦夷では米はほとんど栽培できなかったが、ジャガイモや各種麦なら栽培できたし、広い平地が多かったので家畜の飼育も盛んとなった。この頃地球全体にやや寒冷のため、幕府が予想したより開発は進まなかったし、本州の日本海側同様に蝦夷の日本海側も冬の雪が多く、開拓はなかなか進まなかった。しかし日本列島で増えすぎた人口の受け入れ先の一つとして精力的な開発が進められ、約半世紀が経過した18世紀中頃で農民だけで50万人が暮らすようになっていた。ジャガイモと各種麦、こうりゃんが主要品目ながら、50万石の領土というわけだ。しかも漁業、林業が加わり、さらには燃料資源として注目されるようになっていた石炭も見つかり、幕府から一定の保護を受けたアイヌ人も存在していた。このため18世紀末頃の蝦夷の経済力は、300万石に匹敵するとすら言われていた。
 なお蝦夷では、米の栽培が難しいため従来の日本人とは違う食生活が営まれた。特にヨーロッパから技術導入された乳牛の飼育は、この頃劇的な変化を現地日本人に与えている。蝦夷人と言えば大柄と言われるように、18世紀末頃の蝦夷の日本人は他の地域に日本人より5〜10センチ程度も平均身長が高くなっている。この流れは徐々に本州の東北などにも広がりを見せ、日本人そのものの外見的変化の先駆けともなった。
 そして北の豊かな大地は全てが幕府直轄領であり、函館に設けられた蝦夷奉行は他の北辺の開発拠点ともなったため、年々規模を拡大していた。
 しかも蝦夷島を拠点として、樺太、千島などの島々の開発も進められるようになり、さらに北の北氷海沿岸、北海州、さらには黒竜江河口部での日本人の活動もより活発となっていた。

 一方南方だが、琉球(王朝)の状況は一世紀前とあまり変化はなかった。変化は現地人が、日本の船で他の地域に移民するようになったぐらいで、おかげで人口の拡大と流出という流れができ、出産規制、計画出産のような事態をかなりの面で回避することができていた。これは小さな島嶼地域だと言うことを考えると、世界的に見て幸運に類するだろう。
 そして日本の西国(九州、四国など)と琉球からの溢れた人の受け入れ先となっていたのが、主に台湾と改名されていた小琉球だった。
 台湾島は、もともと数万年前にマレー・ポリネシア系と言われる人種が旅立っていった土地であり、そこには依然としてマレー・ポリネシア系の祖といえる先住民が住んでいた。これに加えて、対岸の福州(福建)から流れてきた中華系住民が、17世紀中頃までの人口構成となっていた。しかしそれ以後はオランダによる統治を経て日本の勢力圏となり、清朝が海禁政策を採ったこともあり、日本人、琉球人などを新たに入植させてサトウキビを栽培するビジネスモデルが構築された。また台湾では日本式の稲作が可能なため、治水事業、灌漑事業を進めた後の移民の流れは比較的順調だった。台湾にはより南方ではびこっているマラリア(の媒介となるマダラカ)がないため、飲み水など衛生環境を出来る限り整えることで疫病を減らして人口も着実に増加していた。
 幕府主導による灌漑や河川改修、港湾、道路整備などのインフラ整備も精力的に進められ、一世紀の間に百万人以上が暮らす土地となっていた。反乱などにもめげず、原住民の日本化政策も大きく進められた。また日本の南方進出の拠点とされたため、高雄など各地の港湾や都市も整備された。奉行所としての城郭が台北など台湾各地に建設されたりしたため、日本の一地方としての姿も確立しつつあった。
 さらにその先にはフィリピンがあり、そこは名目はスペイン領と原住民の勢力圏があったが、実質的というか商業的には日本の勢力圏だった。この時期、幕府が教会に莫大な寄進をして権利を得る形も作られたため、スペインはもちろん他の欧州列強も実質的には日本領として扱うようになっていた。
 そこではサトウキビ栽培が主に原住民を使って行われ、マニラの街は依然として貿易都市として相応に繁栄していた。日本人町もさらに整備され、土地を取得して移民する日本人も増えていた。ただしフィリピンまで来ると疫病のマラリアが存在するため、日本人が極端に増えるということはなかった。

 さらにその先には、スンダ地域があった。
 ここはボルネオ島とセレベス(スラウェジ)島の半分が日本の勢力圏で、ティモール諸島のポルトガル領と、スマトラ島のアチェ王国を除く残りがオランダの勢力下という形でほぼ安定していた。この頃、パプア島の領有については、どちらも特に主張していなかった。
 ただしボルネオ島北部にはイスラム系国家のブルネイ王国があり、実質的に江戸幕府の属国状態に置かれていた。状態としては、琉球王朝に近い状態となる。
 またこの頃は、マレー半島南部もオランダ領で、安全にインド洋と東アジアを行き来したければオランダ(=東インド会社)の許しが必要という状況下にあった。
 一方では、オランダの勢力圏にあった日本人町は多くが居留地や日本人街へと変化し、ヴァタビア(ジャカルタ)、マラッカのような要地にはかなりの規模の日本商館を構える形に変化していた。
 東南アジア各地に住んでいた日本人達は、疫病のためになかなか数は増えなかったが、日本列島からの人の流れが続き、海外に赴く日本船の存在と幕府の一定の庇護があったため、徐々に現地に根付く者も増えた。各国の日本商館のある都市など日本の幕府の恩恵が受けられる場所に移る者も多かったが、華僑同様に東南アジア社会になじみつつあった。そうした人々を華僑、印僑にちなんで「日僑」と呼ぶこともあるが、特に初期の頃に海外に出た日本人のかなりが貧しい者か切支丹(キリスト教徒)、差別階層だったため、当の日本人はそうした人々を主に外人(ゲニン)と呼んだ。
 なお、日本とオランダの国交は長らく友好的に続いたため、東南アジア以外でもセイロン島のコロンボと南アフリカのケープ、さらにはオランダ本土のアムステルダムにも江戸幕府の商館が置かれるようになっていた。アムステルダムの日本商館は1776年に開かれ、当時はヨーロッパで唯一の日本商館とされ、その物珍しさからヨーロッパ社会から大きな注目を集めた。
 一方のオランダも、海外の主要な日本の港への寄港が認められ、日本の長崎、大坂、浦賀などに商館を構えた。そして、江戸時代全般に日本に商館を構え続けたのはオランダだけであり、オランダが海洋帝国として衰退して以後は、特にオランダの側が日本との関係を重視するようになっていた。この背景には、日本との貿易がオランダにとって利益があるからで、また東アジアで大きな勢力を持つ日本を利用して他のヨーロッパ諸国を排除しようと言う意図があった。
 そうした背景から、オランダ政府から幕府に一つの誘いがあった。

 西暦1642年にオランダのタスマンが発見した「テラ・アウストラリス」、オランダ名「ニュー・オランダ」、今で言うオーストラリア大陸とその近在の島(ファン・デ・イーメンスランド=タスマニア島)、さらにニュー・ゼーランド(=ニュージーランド)を江戸幕府に譲っても構わないと持ちかけてきたのだ。
 時期は1772年。その2年前にはブリテンのクックがそれぞれの大陸と島を発見し、その情報を得たオランダが昔年の恨みがあるブリテンへの嫌がらせを画策したのだった。利益をせしめるのではなく他国の嫌がらせとなったのは、当時のオランダには既にブリテンと張り合うだけの国力がなかったからだ。
 江戸幕府は、南にある新大陸の情報を当時ほとんど知らなかったため、まずは正確な位置を有償で教えてもらい、自力で調査したいと申し出た。当時日本には無数の遠洋捕鯨船や商船があったので、それらに資金と人を出して調査を行えば、簡単に価値が判断できるだろうと考えたのだ。またこの頃幕府は、北太平洋に現れたブリテンの船(クックの船団)に神経を尖らせていたので、未知の地域の調査にかなりの積極性を持っていた。植民地や勢力争いはともかく、相手の知らない情報があるという事は、国際関係や国際貿易上で不利益になりりかねないからだ。
 そしてブリテンへの嫌がらせだけが目的のオランダは幕府の申し出を快諾し、調査報告との対価という条件で自分たちが分かるだけの情報を伝えた。
 幕府の命令を受けて調査が開始されたのは1774年で、オランダの情報に従い二カ所から新大陸探査が開始された。船団はそれぞれ2隻の丈夫な中型ガレオン船からなり、ある程度内陸の調査も行えるだけの人と機材も積載された。
 二つの船団は、多少の困難はあったが新大陸に無事たどり着き、主に沿岸に接近しながら2年近い歳月をかけて調べた結果は、おおむね以下のようだった。
 パプア島と新大陸の間には海峡があり、新大陸南部はおおむね熱帯又は亜熱林か湿地、草原で利用価値なし。西武沿岸は軒並み砂漠が海まで迫り精々草原しかないため農業に不適。北西部の一部に限り、農業が出来る可能性があり。南東部は雨量も多く温度も琉球に近く調査の価値あり。北西部が最も気候が穏やかで、沿岸部も緑が多く詳細な調査の価値あり。
 また各所で原住民との接触が試みられたが、おおむねパプア島の原住民より文明程度が低いことが分かった。後にアボリジニと言われる事になる人々は、農業をせずに金属器を使用していない事がこの時の調査で分かったことだった。
 一方のニュー・ゼーランドだが、こちらは温暖だがやや寒冷で雨量も知れており、一部を除いて日本式農業には不適だと判断された。特に南島は気候としては雨量の少ない蝦夷のような場所で、北島には原始的な農業を行う好戦的な先住民(マオリ)がかなりの数住んでいることも分かった。
 そして日本、オランダにとって一番の報告は、ブリテン人が見つからなかったという事だろう。彼らは調査しただけで、入植にはまだ踏み切っていない事がこの時の一番の成果だとされた。
 ちなみにこの時調査船団に同行したのが、探検同行をそのとき侵した罪の恩赦の条件とされた、平賀源内という機転と知略に富んだ貧乏武士だった。彼は様々な仕事に携わりそれが芸能方面にも及び、当時ちょっとした有名人だった。このため彼の名が田沼意次にも伝わり、その理解力の早さと器用さが買われての抜擢だった。なお平賀源内は、この航海の記録の中で様々な先見の明を見せることにより、後世広く知られることになる。
 また、罪人をそうした任務に向けるという点が、当時の日本人が遠方の海外に出ていく心理の一面を現していると言えるだろう。
 
 調査報告については、幕府は情報を日本人の間に広く流布し、取りあえず全ての土地が幕府預かり地と紹介し、移住から5年は無税だと言って移住する人を募ってみた。
 移住という言葉を幕府が口にしたのは、日本列島での人口飽和がいよいよ危険値に近づき、それが天明の飢饉の発生で幕府にもある程度実感されたからだった。既に南方への人の移動程度、蝦夷、台湾への移住だけでは対処できない状態だった。日本各地での様々な出産抑制も広く行われ始めていた。しかし、人が増えていける土地があるのだから、それを利用できないかと考えるのも国家というものだった。この点、外に広がるという方向性を持つ国であるなら尚更だった。そして日本の周りには多少遠いながらも土地があり、国内では人も余っていた。これは国家、民族としては、一つのチャンスでもあった。
 とはいえ、当時の幕府が積極的に移住を支援するという事もなかったし、わざわざ世界の僻地に移住したいと考える日本人は圧倒的小数派だった。しかも同時期に北アメリカ大陸太平洋岸の事も紹介されていたため、いっそう日本人の興味は低かった。
 移動に数ヶ月の時間がかかるというのは大きなボトルネックだったし、日本列島は基本的に世界的に見ても住みやすい場所だった。加えて言えば、当時の日本人の感覚からすると、遠方への移住(移民)により大きなチャンスを掴む機会を得るというのは、あまり現実味のある話しではなかった。
 ある程度世界を巡るようになっても、日本人の中の時間はまだかなり緩やかに流れていた。


フェイズ10「ナポレオン・ウォー」