■フェイズ10「ナポレオン・ウォー」

 1789年フランスで市民革命が発生し、ルイ王朝は倒された。その後混乱が続き、革命から約十年後に英雄が出現する。ナポレオン=ボナパルトの時代の到来だった。
 ヨーロッパでの彼の活躍した時期を「ナポレオン時代」と呼び、彼が発端となって引き起こされた戦争をナポレオン戦争と呼ぶ。個人名が時代や戦争に冠されるのは非常に珍しく、それだけナポレオンは時代を動かした希代の人物だった。なお、ナポレオンの台頭は1796年から始まり、以後約20年間が「ナポレオン時代」に当たるだろう。

 フランス革命に至った経緯は色々言われる。ルイ王朝内だけでも、ルイ14世の散財、ルイ15世の無能、ルイ16世の凡庸、王妃マリー=アントワネットの浪費、など様々な問題の積み重なりがあった。ヨーロッパ北部地域やドイツなどと違い、フランス貴族達が国内での農政改革(混合農業の普及や囲い込み)を行わなかったためだと言われることもある。
 そうした中で革命の直接的な原因は、1780年代の世界的な低温化による不作の連続、アメリカ独立頃の戦争(「七年戦争」、「フレンチ・インディアン戦争」)によってフランスが使った莫大な戦費による事実上の財政破綻にあると言われる。
 革命の経緯はともかく、その後ヨーロッパ世界はフランス革命の阻止、革命波及の阻止に必死になった。王政が打破され、市民による政府が誕生しようとしたからだ。この流れは既に新大陸(北アメリカ)で始まったのだが、ヨーロッパで起きることは可能な限り阻止したかった。何しろ他の国は全て皇帝や王、公爵が国を統治しているからだ。
 しかし諸外国のフランスへの干渉はフランス国民の結束を促す方向に流れ、革命の阻止と不拡大を目的とした第1回対仏大同盟は崩壊した。
 しかし1796年、ナポレオン・ボナパルトが彗星のごとく登場する。

 このヨーロッパの大きな混乱に日本の江戸幕府が巻き込まれたのは、西暦1800年にフランスがスペインから西ルイジアナを購入した事を契機としていた。
 この結果江戸幕府の北アメリカ領は、フランスと境界線を接することになった。(※当時は、単に「日本領北亜米利加(アメリカ)」とされ、特に地域名は命名はされていなかった。)
 ここでフランスとの対立で中心的位置にいたブリテンが、日本に接触してきたのだ。「貴国もフランス包囲網に入るべきだ」と。加えて、オランダのアムステルダムにある幕府の商館から、驚くべき報告が入る。
 1801年2月にフランスとオーストリアの間に結ばれた「リューネブルグの和約」で、ライン川の西岸全てがフランス領となったのだ。つまり、幕府と関係の深かったオランダは、本国が消滅してしまったと言うことになる。これ以後オランダの旗を掲げるのはヴァタビア共和国、つまり事実上のオランダ東インド会社だけとなってしまった。
 この二つの事件から、オランダと親交の深かった日本もフランスの攻撃対象になるかもしれないと考えられ、ブリテンからの申し出を受け入れることになった。またネーデルランドにあった日本商館もブリテンへの移動が行われ、ブリテン側もこれを好意的に受け入れた。
 ブリテンにとってフランスは宿敵であり、現状ではブリテンが不利なので味方は一国でも多い方がよかった。
 日本が有色人種国家である点を気にするブリテン人も多かったが、ブリテン政府は日本の同盟参加を是とした。太平洋に大きな勢力圏を持ち戦列艦すら有する日本との関係強化は、ブリテンにとって大きなメリットがあった。日本にアジアでの防衛を委託させてしまえれば、ブリテンは本国や大西洋、新大陸に戦力を集中する事ができたからだ。
 それに第2回対仏大同盟には、オスマン朝トルコも参加していたので、有色人種国家だからと言って差別する向きも小さかった。

 その後も幕府は、短期間のうちに激変を続ける世界情勢を前に右往左往する事になる。
 まずは1802年3月に、日本が加わったばかりの「第2回対仏大同盟」が解消された。
 次に、幕府が慌ててフランスとの境界線を調べるべく、多数の探検隊や小規模な部隊を北アメリカ大陸の奥地へと放ったのだが、これも半ば徒労に終わった。1803年にフランスは、スペインから買ったばかりの西ルイジアナを、二束三文といえる値段(1500万ドル=両)でアメリカに売り渡してしまったからだ。
 この結果、今度はアメリカと境界線を接することになったが、フランスと接しなくなった事で幕府は一応安堵した。新たな探検と調査で分かったことも多かったが、取りあえずは幕府預かり(日本領)である事を示す標識を方々に立てる以外のことはしなかった。
 ただし念のため、カリフォルニア湾の捕鯨基地に改めて拠点を構え、軍船と高速連絡船を常駐させる事になった。
 そしてナポレオンが1804年5月にフランス皇帝となると、再びヨーロッパ諸国は三度目の対仏大同盟を結ぶ。そしてブリテンのロンドンに商館を移していた日本も、この集まりへの参加を強く促された。
 「第3回対仏大同盟」には、ブリテン、オーストリア、ロシア、スウェーデン、さらにはプロシアなど一部ドイツ諸国も参加していた。過去二回を上回るであろうフランスの本格的な膨張(侵略戦争)に対向するための軍事同盟だった。そしてアジアの安定のためと、フランスの拠点となりうる場所を叩かせる存在として、ブリテンは日本を引き寄せようとした。ロシアは、自分たちの後背に位置する形になる日本が万が一フランスになびかせない為にも、日本が自分たちの陣営に属することを望んだ。
 そしてこの時の幕府は、オランダ(ヴァタビア共和国)とスペインが敵に回るかも知れないと警戒し、新たに境界を接したアメリカがフランスと良好な関係であることを恐れていた。故にブリテン、ロシアの誘いを受けることにして、大同盟へと参加した。
 この時の同盟への参加に際して、幕府は水軍の増強、新たな艦艇の建造開始、傭兵の大量雇用、新大陸での警備増強などをまずは実施した。海外情報の収集にも今まで以上に敏感になり、各地に幕府軍船が派遣された。武士達の軍事教練、出陣準備も、「自主的」に行わせた。

 しかしヨーロッパでの戦争は、江戸幕府いや全ての日本人の予測を遙かに上回っていた。
 1805年10月にはブリテンの命運をかけた「トラファルガー海戦」が、同年12月「三帝会戦」とも言われる「アウステルリッツ会戦」が行われた。二つの戦いは、海ではネルソン提督率いるブリテンが勝利し、陸ではナポレオンが圧勝を飾った。
 翌年、イエナ、アウエルシュタットでフランスはさらに勝利を重ね、ヨーロッパ中心部を事実上制覇してしまう。海戦での敗北でブリテンを屈服させることはできなくなったが、戦略的にはフランスが圧倒的優位に立った。
 そうした中で、1805年2月にナポレオンの弟ルイがオランダ王になると、ヴァタビア共和国は自動的に消滅。オランダは明確に日本の敵となった。しかも、フランスの同盟国であるスペインも敵となっているため、日本にとっては由々しき事態だった。要するに、東南アジアでは現地国家以外全て敵となった事になる。
 幕府内でも、フランスと同盟を結んでおけば良かったという意見も多々出たほどだった。
 そしてここで日本にお鉢が回ってくる。
 依然ヨーロッパでの劣勢が続くブリテンが、東アジアのオランダ植民地への攻撃を要請してきたのだ。
 そして「攻められるかもしれない」という恐怖心に駆られていた幕府は、東アジアのフランス側勢力への攻撃と植民地の占領を了承した。
 幕府は、自分たちが当時揃えることが出来る最善、最良の兵力と装備でまずはフィリピンを、次にスンダ(東インド)各地を次々に攻めていった。そしてどこも呆気なく占領していった。東アジアにスペイン軍の姿はほぼ皆無で、マニラでは旗を降ろす作業ぐらいしかする事が無かったほどだ。東インドのオランダも、小数の私掠船と小数の傭兵程度しか実質的な戦力はなかった。かつてあれほど強大だった東インド会社も、今は昔の状態となっていた。
 幕府は、虎の子である複数の戦列艦まで持ち出してジャワ島のヴァタビアに攻め込んだのに、まともな戦闘は発生しなかった。あまりにもやることがないので、私掠活動をしてみた程だった。
 また新大陸では、三ヶ月近くかけて赴いた幕府水軍が、殆ど何もなかったスペイン領のロサンジェルス、サンディエゴをほぼ無抵抗で占領した。その後もアカプルコやパナマ地峡のあたりまで港湾を虱潰しにしてスペイン軍艦を探して周り、自国の安全確保に勤しんでいた。占領した港も多数に上った。フィリピン制圧と合わせて、スペインの太平洋航路もこの時消滅した。
 しかも私掠船として自らの軍船を多数放ち、敵の海上交通破壊も実施した。最も遠くに進出した日本船は、マゼラン海峡すら越えてカリブ海にまで達している。こうした行動は、それまで手に入れたヨーロッパの文献を調べた上で実施したものでしかなかったが、成果は幕府が予想した以上だった。ヨーロッパでは、日本の私掠船が話題になったほどだった。

 しかしこれで慌てたのは、ブリテンだった。
 日本の進撃が予想外に早いため、自分たちが攻める予定だった場所すら日本人に占められてしまいかね無くなったからだ。このためブリテンは、インド洋とマレー半島、北米大陸東岸は自分たちが担当すると幕府側に伝えた。
 これに対して幕府は、ごく一部の例外を除いて防衛戦争、予防戦争以上のことをする気がなかったため、ブリテン側の警戒をよそにあっさりと了承してしまう。ただし幕府は、オランダ側の商船、私掠船による海賊行為が気になっていたので、インド洋での洋上警備を申し出ている。
 幕府及び日本人としては、自国の安全が第一であり、次に海が平和であることが大切だった。しかもヨーロッパでの未曾有の戦争により、笑いが止まらないほど儲け話しが舞い込んでいるのだから、航路防衛に気を向けるのは当たり前という雰囲気があった。幕府税収のかなりが、既に海外貿易を行う商人、株仲間から得ていたからだ。国内政策的にも、航路安全は必須の案件だった。
 もっとも、幕府自身はこの時の戦争でかなり散財しており、以後幕府財政は困窮の度合いを一気に深めていく事になる。
 これまで江戸幕府は国防と軍備への投資を最小限に抑え、対外戦争を一度も行わないことで円滑な運営を行ってきたのであり、この状況が崩れると財政は非常に脆かった。これは江戸幕府が近世的な財務体制だった事が強く影響しており、幕府に改革と改善を求めさせる大きな布石となっていた。

 その後ナポレオン戦争は、ヨーロッパにおいてさらに凄惨の度合いを深めていった。
 スペインでは大規模な内乱が発生して、スペイン人と鎮圧に入ったフランス軍との間に血なまぐさい状況が溢れかえった。
 一方海ではフランスが「大陸封鎖例」を出して、制海権を得られなかった失点を取り返そうとした。この時、対象とされたブリテンは窮地に立たされたかに見えたが、困ったのはむしろフランスとフランスの命令に従ったヨーロッパの国々だった。既に産業革命に入りつつあり、制海権も握るブリテンの側が、逆に相手に大陸封鎖を仕掛けた形になったからだ。
 無論江戸幕府は、ブリテンとの貿易を続けた。それどころか、他のヨーロッパ諸国との貿易が殆ど出来なくなったので、ブリテンとの貿易を一気に拡大する事になった。マラッカの商館も、主権者がオランダからブリテンに代わった上に取引量が激増したという有様だった。ロンドンに移ったばかりの商館も、活況にとなった。加えて、ブリテン以外の欧州列強のほとんどの海運業者が世界の海から閉め出された形にもなったため、ブリテンのおこぼれに与る形で日本の廻船問屋を中心とした海運業も発展した。
 また大陸封鎖例に従わなかったロシアとの間でも、シベリアを通じた貿易が盛んとなった。一方でオランダと江戸幕府との約200年にも渡った蜜月関係は終わりを告げ、幕府が東インド(スンダ諸島)を占領したこともあり、その後日本とオランダの関係は冷却化する事になる。

 その後戦争は、北欧で一気に地図が塗り代わっていたが、当事者以外にとっての北欧はついでのような場所だった。
 戦争の帰趨を決する戦いは、1812年の「ロシア遠征」となった。ナポレオンは1807年に権勢を極めた形になっていたが、その栄光は長くは続かなかった。天才一人が何もか行える時代が過ぎつつあったからだ。
 この時ロシアはシベリアの側から日本に援軍要請し、この要請を諸外国にも知らせた。幕府としては、現地にいる小数の兵力ならともかく、とても要請には応えられないと伝えた。ロシアもそんな事は承知しており、フランスへの政治的牽制が目的でしかなかった。しかし援軍を求めてきた同盟者を無碍にしてはいけないという戦国時代的な発想に従って、二度目の要請の返事に対しては出来る限りの援助を送るとロシア政府に伝えた。
 このため、北氷州にいた武士を中心に大隊規模の部隊が、ロシア人コサックの案内でシベリアを踏破してウラル山脈を越える頃には、モスクワの街が燃えさかる頃になってしまったが、彼らは始めてヨーロッパ入りした日本兵となった。
 その後ウラルを越えた日本兵は、ロシア側の意向でモスクワとペテルブルグの街を閲兵行進し、その後も半ば観戦者としてだったが欧州での戦いの片隅に加わることになった。日本を「諸国民」の中に含むことがあるのは、ロシアに派兵された武士達の姿があったからだとも言われている。

 もっとも日本にとってこの時期の問題は、ヨーロッパではなく北アメリカ情勢だった。1812年4月にブリテンがアメリカに宣戦布告して、「武米戦争」が勃発したからだ。
 この時の戦争で有名な事件は、1800年に完成したアメリカ大統領府が1814年夏にブリテン軍の焼き討ちにあい、1817年の修復時に真っ白に塗装されて、以後ホワイトハウスと呼ばれるようになった事だろう。この当時の北アメリカは辺境の田舎でしかないため、戦争といってもその程度でしかなかった。
 両者の戦争は1814年12月にガン条約が結ばれるまで一応続くが、その間幕府は戦争が自分たちに飛び火するのではないかと気が気ではなかった。北アメリカは、幕府にとっては田舎や辺境どころでないほど辺鄙な場所だったからだ。
 このため幕府は、新大陸に派遣する武士達を増やし、大雪山脈(ロッキー山脈)を越えた先にまで、進軍に使えそうな経路や拠点となりうる場所を調査した。無論、アメリカ軍の存在も可能な限り探し、遠くの原住民(インディアン、赤人)から物々交換などで情報を得たりした。
 もっとも、当時のアメリカやブリテンも、森林や草原が覆う新大陸の奥地で何かをするような力はまだなかった。東へ東へと進んだ日本人がようやく出会った白人達は、ミシシッピ川近辺に以前から住んでいたスペイン系かフランス系のごく少数の人々ぐらいだった。
 結局大陸奥地で日本人がしたことは、以前と同様の探検行や緯度経度を調べながら標識を立てて廻った事ぐらいだった。ただし、この頃最も詳しい情報を日本人が手に入れたことになり、若干のアドバンテージを得ることに成功したのは幸運だっただろう。そしてこの時の日本人達が間接に行った最大の事件が、それまで旧大陸人が入り込まなかった場所へ行ったことそのものだった。これにより、現地先住民にユーラシア原産の伝染病を多数移してしまう事になり、各地で悲劇的な艦船爆発を引き起こした。
 そして幕府が新大陸の心配をしている間に、ナポレオンは敗北してヨーロッパでの戦乱は終わりを迎える。

 ナポレオンが倒され1814年に開催された「ウィーン会議」には、日本も参加を求められた。日本側から代表として当時老中で外国部門を担当していた水野忠成が出席する事になり、自前のガレオン船で遠路ウィーンへと赴いた。しかし日本からの距離が遠いため、彼がウィーンに赴くまでにナポレオンが奇跡の復権を遂げ「百日天下」と言われる混乱が起きた。しかしそれも「ワーテルローの戦い」により終息し、何とか幕府も「ウィーン議定書」の調印に間に合った。
 この会議により日本は、オランダからスマトラ島、セレベス島その他周辺部を獲得し、各国の勧めもあってジャワ島と小スンダ列島を返還した。オランダとしては、モルッカ近辺の香料諸島を割譲する屈辱的条件のついでに、スマトラ北端のアチェの厄介事を日本に押しつけた形だった。またスマトラについては、マラッカ海峡に隣接するため、ブリテンとの厄介を押しつけた形でもあった。そして敗者が手放すと言っている以上、受け取らないわけにもいかなかった。
 また日本は、スペインからフィリピンを正式に譲渡され、さらに北アメリカ大陸の境界線も従来の北緯37度から北緯32度となった。この時大雪山脈(ロッキー山脈)の南東部、リオグランデ川以北のアルタ・ノヴァ・イスパニア地域のテキサス領有をどうするかという議論になったが、日本側は山脈を天然の要害とする考えを持っていた事もあり、スペイン領のままとされた。
 またパプア島(日本名:新琉球)と周辺の島嶼に関する優越権は日本側とされたが、オーストラリア、ニュージーランドは既にブリテンが計画的な移民を実施している事などを理由に、ブリテン領であることがこの時定められた。

 こうして日本人が領有する地域はさらに拡大したが、ヨーロッパ諸国特にブリテンなどグレートパワーからは、いっそう注目を集めるようになる。
 日本とは、清朝のように国力があるのに閉じこもらず、オスマン朝トルコ以上の国力と軍事力そして洋上制覇力を持つ国であり、まだヨーロピアンがあまり知らない広大な植民地と植民地候補地を持つ大国である、と。
 そしてそれは、注意すべき有色人種の大国でありこれからの新たな競争相手としての認識であり、いつの日にか蹴落として蹂躙できないかという目で日本が見られるようになる始まりでもあった。


フェイズ11「カセイ・ルネサンス」