■フェイズ11「カセイ・ルネサンス」

 「大御所時代」もしくは「文化文政時代」は、近世下の日本列島が最も繁栄した時期だった。大御所時代と呼ばれるのは、第11代将軍徳川家斉の治世下にあった時期だからで、1787年から1841年の約半世紀がその期間となる。
 また文化文政時代という呼び方は、その中でも最も文化が華やいだとされる時期の元号から来ており、特にこの時期の事を「化政文化」や「化政時代」と呼ぶ事もある。
 そして世界史上では、化政時代がちょうど先に取り上げたナポレオン戦争時代であり、日本列島は戦争特需に沸き日本の領域は過去最大に広がった時期でもあった。
 間違いなく、近世日本の黄金期だったと言えるだろう。

 徳川家斉は、非常に長い治世ながら1841年に69歳で死去したように、元服してすぐにも将軍となった人物だった。このため初期の幕政は、老中など重臣達によって運営されていた。だが、旧守派に対して基本的に劣勢な革新派の田沼・水野派は、自らのやや不安定な権力を維持するために将軍の権威を利用したため、比較的早くから家斉は政治に深く関わるようになった。しかも家斉は一橋家から将軍となっているため旧守派との関係も維持し、両者の対立を利用して自らの権力を強めていった。
 ナポレオン戦争での積極介入も家斉の方針であり、実質的な領土拡張も彼自身が自らの経歴に箔を付けるために行ったと言われる。このため徳川家斉は、フランスのルイ14世や清朝の乾隆帝と比較される事も多い。
 また家斉は、豪奢な生活を行ったため日本全体も華やかな文化が花開いた反面、幕府財政は大きな借金財政へと転落した。また、特権に群がる商人達と幕府の高級官僚(上級武士・一部大名)が癒着し、賄賂政治が横行した時期でもあり幕藩体制が大きく揺らぐ時期ともなった。

 家斉が将軍に就任した頃、幕府の財政は田沼意次の重商主義政策によって非常に潤沢だった。また日本全体も、国内の経済振興と長年に渡る貿易黒字によって潤ってもいた。つまり、現状を維持していれば繁栄も続くという向きが強かった。
 しかしヨーロッパでの一大政変とその後の戦乱によって、事態は大きく転換する。もっとも、日本にとっては基本的にプラスに働いた。遠く離れた場所での戦乱のため実害はなかった上に、東南アジア、北アメリカでは新たな植民地を獲得することもできた。また、ヨーロッパ列強の多くの海運が一時的に世界の海から消えたのを利用した形で海運業も発展し、当時世界最新最大の産業国家として隆盛しつつあったブリテンとの友好的な関係を深めることもできた。
 海外で活動する商人、海外貿易を行っていた商人達を中心に活況に沸き、日本列島には大量の金銀(貨幣)が流れ込んだ。そうした金銀のため金銀価値の下落を引き起こし、また一部の者の金余りを招いて、いわゆるバブルを起こした事もあった。幕府は戦争と軍備で散在していたが、日本人全体は潤っていたのだ。
 国内経済でも、流通網の拡大と発展、海外からの砂糖を中心とする食料品の流入により、この頃には余程の事がない限り大規模な飢饉は起きなくなっていた。足りない場所には、すぐにも食糧が流通するシステムが構築されていたからだ。穀物を海外から運ぶために超大型の輸送用ガレオン船(※排水量は最大で3000トンクラス)が幕府の命令によって何隻も建造され、この時期の飢饉で始めて東南アジアの米が大量に緊急輸入された事もあった。無論商人による売り惜しみや、日本独自に発展していた先物取引による弊害はあったが、飢饉の時は幕府が命令で拠出させ処罰も一般的に行われたため、大きな害には至らなくなっていた。
 また人々の消費に応えるために商品の大量生産が必要とされ、工場制手工業が爆発的に発展した。既に人の手だけでは労働力が足りないため、海外から力の強い家畜が輸入・繁殖が行われるようになった。また、日本に豊富な水力を動力源とした工場(紡績工場)が登場したのは19世紀初頭のことだった。日本での紡績業の発展と効率化は、18世紀のインド綿布への対向から比較的早くに始まっていたが、この頃にはほぼ自力(※欧州書籍の利用は見られる)で動力(水力)を利用して安価に生産するという段階にまで到達していた事になる。
 しかしブリテンで行われつつあるような産業の革新に至るまでの独自発展は見られず、日本人にありがちな与えられた状況の中での最善の模索と達成という面に限られていた。だが、最善の模索により達成された成果も、決して無視できるものではなかった。

 伊能忠敬が始めた当時世界で最も正確な地図の測量は、その後彼の弟子達による「伊能衆」と幕府の援助、大商人達の出資により精力的に行われた。測量のためにガレオン船が与えられた程で、19世紀中頃までには日本人のものだとされているほぼ全ての場所の測量を完了し、当時としては世界最高精度の地図を作り出している。この地図は、当時帝国主義に向けて突き進んでいたヨーロッパ諸国にとって、いかなる金銀宝石にも勝る「宝物」であるため、環太平洋の全てが記された幕府秘蔵のひとつながり地図は、究極の大秘宝として非常な注目を集めた。
 また、「Jクリッパー(和名:飛脚廻船)」と呼ばれる高速帆船が登場したのは、ヨーロッパよりもむしろ早かった。これは広大な太平洋を少しでも早く結ぼうという、幕府二百年の治世の間に行われた改良と改善の結果だった。そして「Jクリッパー」の登場と、日本の領土と認められる場所が増えたこと、日本列島で人があふれ出したことなどが重なって、日本人の海外への進出も今までになく活発になっていった。
 連動して、日本国内の主要街道、大都市の街路の整備(拡張と石畳又は砂利道化)が進み、蹄鉄をはいた馬が一般的になった。馬車が日常的に使われるようになり始めたのも、文化文政時代の事だった。大名や富裕層の間での馬車の利用が珍しくなくなり、東海道に宿場ごとを結ぶ乗合馬車が登場したのも、文化文政時代だった。17世紀とは違い、金箔や朱塗りの駕籠ならぬ馬車が大名の間で競って作られたりもした。日本の道に多い坂道を上るために、二頭立て、四頭立ての馬車も使われた。
 そして日本で労役用の大型家畜が大量に殖えるのは、17世紀半ば以来約150年ぶりの事だった。それまでは森林資源の破壊に伴う森林肥料、天然飼料の減少により、日本国内での家畜は減少傾向にあったのだが、魚肥、菜種滓の使用により農業生産が増えた事、国内森林資源の回復と活用の拡大、牧畜用飼料の生産と流通、海外から流入する物産の安価化などの要素が重なり、再び家畜を増やすことが出来るようになっていた。家畜そのものも、主にヨーロッパからの輸入によって大きく変化している。
 また蝦夷、北氷州、そして北米では広さに対して馬(又は馴鹿)を交通手段や運搬手段として、牛や大型の馬を耕作に使わなければそれこそ話しにもならないという状況が、日本列島での家畜拡大を主に心理面で後押ししていた。
 そして大量の肥料、大型家畜は、日本列島以外での日本の農業を東アジア的労働集約産業からヨーロッパ型の資本集約産業へと着実に変化させていた。日本列島でも、大規模マニファクチャーの拡大に伴い減少する小作人対策として、一部の地主が資本集約型の農業への転換を行っている。
 若干の例外は、南方で大規模単品栽培が行われているサトウキビやコーヒーの栽培だが、こちらはこちらで人的資源以外では産業を支えるために資本集約的な産業として発展し、日本の資本主義化を促していた。18世紀初め頃に株仲間(株式組織)が最初に登場したのも、サトウキビ栽培においてだった。
 ただし日本人による砂糖栽培には、ヨーロピアンほど露骨な奴隷売買や奴隷使役はなかった。
 基本的には、日本から運んだ文明の文物で安価に現地の人を雇い、他にもサトウキビ栽培と砂糖精製に必要な文物、現地での防衛と治安維持に必要な武器や物資、現地の人々が最低限生きていけるだけの食糧を運び、帰りの船が出来た砂糖を運んだ。
 そして東南アジアの人々は、もともと基本的に農業を生業としている者が殆どなので、一定の対価さえ有れば労働に対して極端に不平を言うことはなかった。日本人の側が大量の労働力を必要としたため今まで以上の食糧を持ち込んだので、むしろ日本人の持ち込んだシステムは現地社会で必要とされた。それは必要悪にも近かったし、中には暴利をむさぼろうという悪徳農場主、悪徳商人、悪徳役人もいたが、概ね受け入れられていた。同時期、近在のジャワでのオランダ人が行ったプランテーション経営と統治の方が、遙かに酷いことを人々の多くも伝え聞いていた。このためオランダが日本に、何故もっと「効率的経営」をしないのかと苦言したほどだった。何しろ、オランダ領のジャワからは隣接する日本領に、頻繁に人が逃げ出していたからだ。
 一方では、日本列島の手工業を支えるべく、サトウキビやコーヒー以外にも様々な商業作物が日本の勢力圏各地で生産されていた。ブルネイ島の一部では香辛料が生産され、北アメリカのカリフォルニア(加州)では綿花生産が軌道に乗りつつあった。フィリピンでは、マニラ麻とようやく生産ができるようになった米、そして煙草が日本へと運ばれた。インドシナでも、日本人街近辺を中心にしてコーヒーの生産が活発になった。
 これらの原料作物のうち、幾つかは日本列島でも栽培が行われていたが、大御所時代の消費熱の前には全てが不足していたので、日本以外から運び込まねばならなかった。そうした海外でのプランテーション経営は、日本人社会の資本主義化を静かに浸透させていく大きな流れとなっていた。

 また日本で発展していた産業の一つが、捕鯨だった。日本沿岸では、古くから食用としても沿岸での捕鯨は行われていたが、江戸時代での主な用途は他の国々と同じく鯨の豊富な脂肪から鯨油を得るためだった。
 当時は照明油、潤滑油、加工品用油として多用されていた重要な資源であり、18世紀末頃には大西洋の鯨が乱獲で激減する状態に陥っていたからだった。
 そして太平洋では、日本人達が積極的な捕鯨を行っていた。
 日本人達は、17世紀後半ぐらいから自分たちも大量に鯨油を用いており、18世紀中頃には極めて豊富だったと考えられている日本近海の漁場をあらかた取り尽くし、沿岸の小型種以外は激減した。そして次に、北太平洋の東部を主な漁場としていた。北太平洋での日本人による捕鯨は年々拡大し、19世紀前半には白人達も進出し始めていた南太平洋にも進出しつつあったほどだった。
 鯨たちに残された楽園は、帆船で入り込むには危険の大きい南氷洋だけとなりつつあった。
 そうして19世紀も四分の一を終える頃には、北太平洋での鯨の減少はヨーロッパにまで伝わり、気の早い者は次の燃料資源となりうる油の捜索と、抽出技術の向上に勤しんでいたほどだった。日本でも、越後(新潟)、北樺太で涌き出していた天然の油、石油をつかい、焼酎造りに使う蒸留装置を応用しての原始的な製油が始まるのは、ヨーロッパより少しばかり遅れての事となる。もっとも、石油が本格的に利用されるようになるのは19世紀中頃からであり、太平洋の鯨をあらかた取り尽くした人間達は、人種の違いに関係なく危険の多い南氷洋へと乗り出すことになる。

 そして様々な文物の巨大な奔流の中で、現代に伝わる日本文化と呼ばれるものが出そろったのが、大御所時代だった。
 この辺りの詳細は専門の学術書を見てもらえれば分かるだろうが、文化面でも教科書でもお馴染みの「富嶽三十六景」や「東海道五十三次」、文学の「東海道中膝栗毛」、「南総里見八犬伝」などが発表されたのが、この時代の全盛期である化政文化の時代だった。また日本的娯楽の代表とされる、歌舞伎(+狂言)、人形浄瑠璃、大衆格闘技の相撲が庶民の娯楽となったのもこの時代だ。各地での祭りや神社の縁日、さらには大道芸なども、この時期に広まったものが極めて多い。
 都市部では、髪結い処(散髪屋)や銭湯(公衆浴場)が、庶民の日々の社交場や娯楽場となった。公衆浴場が庶民の社交場となるのは、ローマ帝国、一部のイスラム文化圏など世界史上でも限られており、日本文化の特徴の一つとなっている。
 また、お陰参り(伊勢参り)や日光詣出、四国八十八カ所巡礼などという巡礼の形で観光旅行が一般的になり、都市以外での人の往来が非常に活発になった。湯治以外の目的での温泉が注目されたのも、この時代の事だった。
 当時世界的にも、商人以外の一般大衆が単なる娯楽目的で遠方に赴くと言うことは珍しく、東海道での活発な人の往来を来日したヨーロッパ人は非常に驚いたと記録されている。しかもこの時期には、船舶の運賃もかなり安くなっていたので、陸路どころか海路での旅行すら時代の後半には広まった。結果、日本列島中で人が行き交い、裕福で冒険心の強い人になると、日本人勢力圏ではあったが海外にすら物見遊山で出かけている。主に移民相手だったが、「憧れの羽合航路」という言葉は、文化文政時代の末期に出た言葉だった。物好きとなると、商人や冒険家以外の者がイスラム世界やヨーロッパに赴く事もあった。
 そしてそうした人々によって、日本人という存在が各地で知られるようになり、また逆に日本人に海外の事が数多く伝えられるようになっていった。旅の記録を記した書物は、娯楽物の一つとして親しまれたりもした。
 なお、この頃の江戸の街はさらに拡大を続け、恐らく150万人の人口を抱える世界最大の都市となっていた。しかも官僚としての武士、つまり独身男性が多いため、世界的に見ても最大級の消費都市として発展していた。
 「吉原」の名で有名な歓楽街も、男性が多い巨大都市ならではの産物である。だが昼間は一般にも開放されたため、当時の一大アミューズメントとして女子供で大いに賑わったとされる。当時の日本人達は、性風俗産業すら一般の娯楽としてしまっていたのだ。なお、西洋風の「戯館」と呼ばれる遊郭が最初に作られたのも文化文政時代の事で、浮世離れと物珍しさからすぐにも広まり、主要各都市に建設されている。

 食の面では、この時代に日本のファストフードとして成立した寿司(生寿司)、ウナギの蒲焼き(鰻丼、鰻重)、蕎麦、天麩羅、おでんが街の屋台で食べられるようになった。温かい食事も、七輪を持ち運ぶ事で簡単に実現されたため、ファストフードはいっそう広まった。
 加えて、食事を専門に出す店、つまり飯屋もしくは食堂も大いに普及した。また、海外進出、海外交流の結果獣肉食のタブー(禁忌)が薄れたため、鶏肉、豚肉料理が一般にも広く上るようになった。この時期、ウナギなどと同様に蒲焼きにした豚をのせた豚丼などとして、庶民のファストフードにまで登場している。豚の角煮、豚汁、焼き豚、さらには豚の腸詰め(ソーセージ)や塩漬け(生ハム又はベーコン)など、豚肉の食べ物が一般食として登場したのもこの頃だ。
 コークス利用による調理火力の強化によって、動物油を調理に使うことも一般的となっていた。鶏も、狩猟用の鳥獣が日本国内で減るにつれて、卵だけではなく肉そのものを食べる習慣が広まりつつあり、鳥鍋、焼き鳥などが文化文政時代に登場している。そうした肉類は、生肉は保存が難しいので、干物、薫製、塩漬けなどで広まり、大都市以外でも広く流通するようになっている。
 都市近郊だと、新鮮な食用家畜を飼う農家も非常に増え、そうした一部では乳製品を得るための乳牛すら飼われるようになっている。
 また18世紀に入る頃には、砂糖製品の氾濫が一段落していたので、この時代には食事以外で甘いものだけを食べるための甘味処も広まっていた。生菓子、団子、飴、汁粉などの甘いお菓子は、江戸時代初期は江戸城の大奥の高級食品として珍重されたが、元禄頃から大きな広がりを見せ、文化文政時代には庶民が一般的に口にするようになっていた。茶店も甘味を食べる場所として広まり、そこでは日本茶以外にもコーヒー(珈琲)、紅茶などもごく当たり前に飲まれていた。こうした情景は、当時の東アジア世界では非常に珍しい事例だった。また庶民が甘味を食べるのが当たり前となっていたので、和菓子や生菓子などのお菓子も大量に溢れる砂糖のおかげで非常に安価で購入する事ができた。
 一方で、洋食と言われるヨーロッパ由来の食べ物、お菓子が庶民の間にも知られるようになったのもこの時代の後期(1820年代以後)の事だった。
 早くは18世紀末頃に、長崎、横浜、神戸、大坂などで最初の洋食店が、ヨーロッパから流れてきた白人料理人または現地で料理を習った日本人によって始められた。最初に店を開いたヨーロッパ人は、フランス革命で職にあぶれたフランス人だったと言われる。だが初期の頃は、日本に来るヨーロッパ人(主に商人と船乗り)向けでしかなかった。このため料理店というよりは、洋風酒場というのが相応しかった。しかしそこで出される料理が日本人の間にも評判を呼び、ハムやヴルスト(ソーセージ)、チーズなど簡単なものから、豚の油(ラード)を使った揚げ物や煮物、肉汁を使ったスープ、そして様々な料理に使われるソース(南蛮汁)などが日本風にアレンジされた後に広まった。ポルトガル語でパンとして入ったブレッドを売る日本の庶民向けのベーカリー(パン屋)が、大坂の街に日本で最初に出来たのは1821年の事だった。同時期に、小麦、卵、バターなどを使う洋菓子(カステラやプディング(プリン)など)を出す店も登場している。
 またヨーロッパ由来だけでなく、日本近隣でもある中華地域の料理、東南アジア、インドなど様々な地域の物産や料理も取り入れられるようになり、日本人の間では特にインドのカリー(香辛料)を料理に用いることがもてはやされれたため、肉類消費量の拡大と重なって、今まであまり使われなかった南方産香辛料の消費が一気に増えたりもした。
 そして日本で一般的な「水で煮る」という食文化と、万能調味の料醤油と洋食を合わせたような牛鍋(すき焼き)は、化政時代で最も洒落た食べ物として大都市の庶民の間でもてはやされている。食用牛を目的として、日本で牧畜が本格的に開始されたのも、ほぼ同じ時期だった。また、日本酒醸造で17世紀頃から使われていた低温殺菌技術を応用した牛の乳の飲用、加工乳(チーズ、バター)の食用が始まったのも、牛の牧畜が本格的に始まってからの事だった。牛の牧畜に関しては、ヨーロッパからの技術が盛んに輸入され、飼育指導のためにわざわざ白人の専門家も雇われ日本に来ている。
 そうした食文化の変化と多様化、そして消費カロリーの増加により、日本人の体格が少しずつ向上していく事にもなった。特に乳製品の普及は、日本人の体格に大きな変化を呼び込むことになる。

 またヨーロッパ文明など海外の影響を受けた変化は、食文化だけではなかった。文化文政時代には、洋服と言われる和服、着物とは違う概念の服装が一般的に流入するようになっていた。
 これまでも単なる布やアクセサリーの輸入は盛んだったが、服として完成された形で庶民の間に入り込み始めたのがこの時期の事になる。西洋風のパンツ、スカート、シャツなどほぼ全ての洋服が流行としてもてはやされ、革靴やコルセットまでが日本でも作られるようになった。幕府の水軍、傭兵衆は、合理性から最も早く洋服の概念が取り入れられた組織だった。また北の地方でも、保温に優れた洋服の採用は早く、18世紀には似たような形の服が着られていた。そうした変化が日本列島内に浸透したのが、文化文政時代だった。羊毛や毛皮のコートが最初に用いられたのも、蝦夷より北の地方だった。これまでの日本人も、洋服は日本の風土に合わないとして特に強い関心は持たなかったが、それでも日本の美意識とは違うヨーロッパの衣服、装飾品に強い興味は持っていた。そうした長い準備期間を経て、さらには日本人の中での文化的組み替えを経ることで、洋服という存在が日本人の中に取り込まれてきたと見るべきだろう。
 そしてこの頃、日本列島内でも「髷」をしない髪型がはやり始めていた。元々髷は日本男子の成人の証だったが、床屋がいない海外では維持が難しく、18世紀頃から簡易髷といえる単に長髪を頭の上で堅く結ぶだけの姿(※茶筅髷などに近い)が一般的に見られるようになっていた。長い航海をする船乗りだともっと緩くなり、髪をばっさり切って短髪にしてしまう「海賊頭」や「戦国頭」もしくは「散切り頭」が多かった。これは日本の若者の間でも流行り、「町奴」いわゆる素行不良な目立ちたがりな若者が競って髪型を崩した。中には白人の船乗りのように奇抜な髪型をする者もあった。子供の髪型も、徐々に剃刀を入れたりしなくなっていった。
 女性も、海外では島田髷のような髪型の維持が難しいので、束髪と言われる簡単な結い方が行われるようになっていた。未婚女性の中には、室町時代、戦国時代のように髪を下ろしたままの者なども増えた。中には、ヨーロッパからもたらされた絵画のような髪型をする者もいて、特に都市部ではもてはやされた。
 そうした髪型18世紀中頃から日本国内でも出現し始めていたが、大きく受け入れられるようになったのが、おおよそ文化文政時代の19世紀初頭ぐらいからだった。
 幕府は18世紀の間、特に徳川吉宗の時代は厳しく取り締まったりお触れを出したが、一度広まり始めると歯止めが利かず、この頃にはなし崩しに武士階級以外の髪型には幕府もこだわらなくなっていった。

 そして衣食ときたので、次は「住」と言うことになるが、こちらはまだヨーロッパ風建築はあまり馴染まなかった。
 日本列島は、夏の湿度がヨーロッパに比べてずっと高いなど気候の違いがあったし、焼煉瓦を多用するヨーロッパの建築物は地震に弱いという定説が日本人の中で信じられていた。これまでも新規者好きなどが洋風建築を建てたことはあったし、わざわざ焼煉瓦を輸入して洋館を立てた大商人や大地主もいた。しかし住み心地は今ひとつという意見が多く、地震で倒壊した話しが有名な例として人々の間に流布していた。このため日本列島では、純粋なヨーロッパ風建築はなかなか用いられなかった。
 無論例外もあり、幕府が建設した迎賓館とこの時代の徳川家斉が新宿に建設した離宮(後の新宿御苑)、さらには海外貿易を行う大商人の対外用邸宅、諸外国の商館や公館などがそれだった。外国人居留地でも、それぞれの国が自らの威信を誇示するため殊更立派な建築物を建てたりもした。そしてそうした様々な経験の中で、耐震性を備え日本の風土にあったヨーロッパ風建築が改良されていき、この時代が終わる頃から広く取り入れられるようになる。和風の要素を取り入れた、もしくは洋風建築の様式又は技術や概念を取り入れた建物も増えていた。また耐火建築として都市部では注目されるようになり、壁が煉瓦という和風の建造物が出現したのも文化文政時代だ。漆喰に代わりタイルが普及したり、地面をタイル張りにすることが増えたのも、この時代の事である。タイル張りの銭湯が登場したのも、この時代だった。
 また、日本以外特に蝦夷より北の地方では、日本風の壁の薄い建築では冬の寒さに耐えられないため、むしろ逆にヨーロッパ風の建築物、概念を取り入れた日本建築は一般的に立てられる傾向が強かった。保温能力の高い二重構造の外壁と煙突と暖炉、又は大陸のオンドルを持つのは、北の家の特徴だった。これは新大陸でもあまり変化はなく、ヨーロッパ建築の概念と日本風の外観を持つ建物というのは、むしろ海外で一般的な建物となっていた。

 そうした中で、日本国内でヨーロッパ風の建築が頻繁に立てられるようなったのは、教育機関においてだった。
 よく知られているように、日本では江戸時代中頃から「寺子屋」と呼ばれる私的な初期教育が日本各地で盛んに行われていた。特に都市部では、各種経済活動に必要な場合が多いので、特権階級以外でも「読み・書き・そろばん」と言われるような初等教育が一般的に行われていた。これが文化醸成の苗床ともなった。また寺子屋は、大御所時代に爆発的に増え、この時期に一気に十倍の規模に膨れあがっていた。なお、この時期に増えたのは、教育としてではなく娯楽としての文物を楽しむためという要素が大きいとされている。
 そして特権階級である武士は、読み書きができて当たり前であり、文武両道という言葉に代表されるように、さらなる高みを求める事が良いとされた。
 こうしたニーズに応えるべく、各地の剣道道場が初期教育を終えた青年武士達の中等もしくは高等教育の場となっていた。同じ年代の人々が集まるため、自然と情報交換と互いに教え合う事から発展していったためだ。そうした道場では、書物を手に入れて人気を取ったりもした。だが、様々な産業、複雑な経済を持つ日本では、武士以外もそれぞれの分野ごとでも高等教育の必要性が高まっていった。
 特に都市部の商人、職人、各種知的職業を担わせるための学校が必要となり、各地に塾と言う形で広まっていた。経済と産業の拡大のため、従来の徒弟制度では限界がきていたのだ。この中でもヨーロッパの教育を行う各種蘭学(オランダ学問)塾又は武学(ブリテン学問)塾は、商人や知識を求める武士から好評だった。そして人気があるため競争も激しく、洋風建築で教えることは大きな宣伝となった。また初期教育の寺子屋も爆発的増加に伴い、特に都市部で人気取りが必要になったので、洋風建築がもてはやされた。建造物だけでなく洋風の庭も合わせて作られたり、広い敷地に運動場を設けるなど、様々なヨーロッパ風の様式が用いられたりもした。
 このためこの頃の日本人の中には、町外れにある大きな洋館(洋風建築)と言えば教育機関(学校又は塾)という考えが一般的となっていた。一方日本の地方においては、人気取りというよりも人集めの手段として洋館、洋風建築が利用されていた。
 しかし当時最新の学問が学べる場所こそが洋館を持つ学校という固定観念を生むほど、日本人の学習熱は高まっていた。日本にヨーロッパでの大学と呼べる高等教育機関(塾)が出てきたのもこの時代であり、この後活躍する多くの人々は一度は蘭学塾、武学塾の門を叩いているといっても良いだろう。
 それは、心ある人々がそうしなければならない時代が、すぐそこまで来ていたからだった。


フェイズ12「ニュー・フロンティア」