■フェイズ12「ニュー・フロンティア」

 日本人が、明確に北アメリカ大陸太平洋岸の温暖な地域に到達したのは、大西洋側でアメリカ合衆国という国家が誕生する直前の1760年頃が最初だった。しかし最初に到達したのは、沿岸沿いに高級毛皮を追い求めてきた猟師と毛皮商だった。また別ルートから至ったのは、太平洋を押し渡ってきた捕鯨船だった。1770年代には小数だが人も西海岸の沿岸部に住むようになり、一部原住民との衝突すら見られた。原住民で最初のパンデミックが起きたのも、この頃の事だった。捕鯨船員は体内にユーラシア原産の疫病を持っている確率が高かったからだ。
 この事を日本の中央政府である江戸幕府は、ほとんど察知していなかった。しかしブリテン人探検家ジェームズ・クックが北太平洋各地にやって来たことで慌て、ようやく日本人の見知する場所の広さを理解するに至る。
 そしてようやく1785年に、幕府は現地の領有権を諸外国に通達し、カリフォルニア湾の入り江近くに奉行所(新日本加州奉行所)を構えるに至った。この時点での現地の日本人人口は、一時滞在を含めても1000人に満たなかったと考えられている。世界の果てのような場所に赴任を命じられた武士達にとっては、遠流にも匹敵する任務だった事だろう。
 なお、その頃新大陸の大西洋側では、アメリカ合衆国が独立を果たし、現地の白人総人口も250万人に達しようとしていた。しかし太平洋側には白人はほとんどいなかったので、日本人の行動はどこかのんびりとしていた。武士達の赴任にしても、大砲が標準装備された軍船はともかく、自らが差す刀以外での武器すらロクに持たなかったほどだ。

 しかしナポレオン戦争で事情が変わり、俄に幕府は北アメリカ大陸への関心を増して、書類上で決めただけの自分たちの領分をかなり広範に調べ、そこがどんな場所であるかも合わせて知るようになる。この時多数の探索隊が出されたが、中には原住民に襲われるなどで命を落とした者も出た。
 西海岸の平野部では、犯罪者の流刑地という形で、日本人を半ば強制的に住まわせる試みも行われた。幕府の領有宣言から四半世紀の間に、現地での日本人人口は10倍近くに増加した。といっても、最大で2万人程度しかいなかった。既に1000万人以上の白人の住む東部海岸とは大きな違いだった。
 そして1815年には、日本の持つ領域が地図の上で明確な形で示されることになった。ごく大ざっぱに言えば、大雪山脈(欧名:ロッキー山脈又はコロラド山脈)の最も東の分水嶺より西側の全てが日本領ということになる。山脈より東側には広大な草原が広がっていたが、地図の上で調べた限り既に他国が領有宣言していたので、「遠慮」されたものだった。
 しかし現地での領土交渉は、一通りの調査して簡単ながら地図すら持つ日本人の方が有利でだった。
 このためブリテンとの間の北極に近い荒野の境界の取り決めは、大雪山脈を大きく東に進んで、北極から西経百100度を下りウィニペグ湖を境界とする事ができた。その後ウッズ湖(和名:大森湖)がブリテン、アメリカ、そして新日本の境界とされ、旧西ルイジアナの境界線より西側がほぼ日本の領域とされた。北部で大きく日本領が認められたのは、毛皮を求める日本人猟師や冒険商人の方がこの地域に数多く入り込み、日本人の側の方が多くの情報を持ち、さらには掘っ建て小屋のようなものであっても、そこかしこに拠点を設けていたからだった。調査の際に幕府役人が立てた標識も役に立った。
 またこの時、ブリテン、アメリカ、そして日本の間で取り決めが行われ、それぞれの南北境界を北緯49度として、それぞれ領土を交換し合った。
 そして新たに決められた日本人による領土名については、ごく単純に「新日本」とされた。これはオランダやスペインなどが、過去に新たに至った場所に名前を付けた事例に倣ったもので、そこが誰の土地かを教えるには相応しいと考えられていた。各地の細かな地名についても、新武蔵や新尾張など日本の旧来の地名に新と一文字付ける大ざっぱな命名が行われた。

 とはいえ1815年の時点の「新日本」は、西海岸に形ばかりの奉行所を設け軍船がたまに立ち寄る程度で、日本人の数は少なかった。危険を顧みず毛皮を探し求める者と捕鯨船の拠点滞在者が、依然として当時の日本人の過半数を占めていた。あまりに遠いため流刑地としての機能も限られ、当初は当時西海岸南部にいたスペインよりマシという程度でしかなかった。
 しかしミシシッピ川や五大湖沿岸でのフランス人狩人同様に、日本人の狩人や毛皮商が原住民との交易や交流の中で混血児を生む例がかなり見られるようになっていたし、日本人が持ち込んだ文明の利器、知識、さらには言葉や文字が広がりつつある場所もあった。既に北西部、北部の原住民の間でも初期のパンデミックの時期も過ぎていたため、便利な物や知識を持つ日本人はそれなりに重宝がられ、場合によっては原住民の社会に日本人の側がとけ込んでいる例も見られた。白人達が実状を知らないというのも、日本人にとってはかなり有利に働いた。
 例外は、カリフォルニア(以後加州)湾奥の中規模の河川のほとりに開かれた小規模な開拓農村に住み始めていた人々だった。だが彼らも、現地で刑期を終えた元罪人、食い詰め者、日本には何らかの事情があって居られない者がほとんどを占めており、現地の奉行所には彼らを監視するという役割もあった。しかしそこは、幕府にとっては実験場でもあった。
 幕府が行おうとしたのは、現地での日本産水稲(ジャポニカ種)と綿花の栽培だった。取りあえずどこでも育つサツマイモやジャガイモの栽培や、家畜の放し飼いに近い飼育も生きるために行われた。だが、これからの開拓のテストケースとするため開拓民に種籾や道具を供与し、さらには開拓や灌漑設備構築の手助けを奉行所の役人や幕府に雇われた人足、原住民らが行った。また原住民(米赤人=インディアン=ネイティブ・アメリカン)との衝突を避けるための慰撫、具体的には酒や鉄の道具などを渡すことも現地奉行所が請け負った。
 18世紀末頃のカリフォルニア一帯には、約20万人の原住民が住んでいたと考えられている。彼らは狩猟採集民で、主に100ほどの小部族に分かれて、主に平野部で暮らしていた。カリフォルニアの大地は北アメリカ大陸でも最も土が肥沃で、温帯気候の中では雨量は少ない地中海性気候だったが、狩猟採集で十分人が暮らしていける場所だった。
 その中にユーラシアの人間として初めて日本人が住み始め、18世紀後半の原住民の間でのパンデミックを除けば、日本人との間には比較的良好な関係が築かれた。
 日本人としては当時あまり興味のない土地だったし、そうであるが故に最初の日本人の数は限られていたからだ。その上で日本人は便利な文物を持ち込んできたので、原住民としても相応の利点が認められていた。
 しかし、開拓村でかなりの米の栽培に成功したという報告が、新日本加州奉行所から江戸幕府にもたらされると変化が訪れる。

 日本と同じ暮らしが出来る無限の平原が、海の向こうに広がっている。
 この知らせが幕府から人々に伝えられると、大きな反響が起きた。しかも幕府が、江戸など大都市に逃げてきている逃亡農民を集め、彼らに道具と種籾、当座の食料を与える事で即席の開拓団を作っているという噂(事実だった)が人々の間に伝わると、人口飽和で継ぐべき農地や財産のない人々も移住(移民)という魅力に取り付かれ始める。目聡い者は、当時日本で一番の荒くれ者揃いであった捕鯨船員に、新日本という名が与えられた場所の事を聞いたりもした。
 捕鯨船員は、北の大地の入り江の奥にジャガイモを植えて馬や牛を飼っている場所があり、奉行所のある南の大地の奥に噂の開拓村が有ることを、少しばかりの謝礼と交換に教えた。
 この話のうち、蝦夷の寒さと冬の雪にウンザリしていた農民が北の大地に関心を持ち、それ以外の殆どの農民が南の大地に大きな魅力を感じた。見渡す限りの平原というのは眉唾と考えられたが、それでも未開拓の土地は大きな魅力であり、そして強い誘惑だった。
 そして人々の関心が高まりつつある中、幕府が3隻の大型高速船を使った計画的な移民計画を実行に移す。
 化政文化の華やかさの中にあった1821年の事だったが、その華やかな文化の恩恵が受けられない人々にとっては、ヨーロピアンの言うところの希望の地、約束の地が、海の果てに待っているのではないかと考えるようになった。船団は幕府公式のものとして世に広く伝えられ、盛大な催しで送り出された。その時の様は、まるで祭りのようだったと伝えられている。
 そして二年後、別の場所に開かれた開拓村の成功が伝えられると、一気に日本人の間に移民熱が高まった。
 また1822年に、日本で初めてコレラが流行した事が、民衆の間に密集して都市で暮らす事への危機感を促し、幕府には都市や日本中の村落に溢れる不労住民の拡散を決意させるようになる。
 さらに1823年に、東海岸のアメリカ合衆国が「モンロー主義」と呼ばれる発表を行ったことは、幕府に一抹の不満を抱かせた。
 遠方の土地とはいえ、自分たちの領土がアメリカに獲られるのではないかという不安だった。モンロー主義は、アメリカによるアメリカ大陸内での干渉を肯定する一面を持っていたからだ。
 しかも幕府から最初の大規模移民船団が旅立った年は、新大陸情勢が激変した年でもあった。スペインから、メヒコ以南の地域が一斉に独立を始めたからだった。
 独立以前に、原住民以外ほとんど人が住んでいない新日本での独立はあり得ないが、新しく独立した国、特に国境が隣接するメヒコが無人の地に興味を向ける可能性が考えられ、それを阻止する方法は一定の人口を住まわせて彼らに防衛させることだった。

 こうした考えのもと、1823年に編成された次の移民船団は、数にして5隻と規模を拡大しただけでなく、最低1隻の軍船(フリゲート級)が護衛に付くばかりか、開拓民として乗り込んだ男性の3割が、天領(幕府直轄地)や譜代の土地から募集された武士の次男坊や三男坊や、仕官先のない浪人だった。また最初から全体の2割、つまり船1隻にはこちらも嫁ぎ先のない女性が乗り組んでいた。
 人と開拓に必要な家畜、物資以外の積載物には大砲や銃などの武器が含まれており、事実上の武装移民船団だった。
 この移民船団は、途中ハワイ諸島に立ち寄って補給と休養を行い、約三ヶ月近いの長い航海の末に北アメリカ大陸新日本加州開拓地へと到着した。彼らは加州奉行所で簡単な手続きを済ませると、そのまま船で湾の奥に進み、小舟に乗り換えて櫻川を遡上。「櫻芽」と言う名が与えられていた見渡す限り森林が覆い尽くす原野に到着した。
 そこは、船着き場と狭い空堀と尖端の尖った丸太で囲んだ砦状の幕府役人の詰め所がある以外、ほとんど人の住む場所はなかった。先行した開拓団は別の場所を切り開いていたが、彼らの進出した場所はもっと内陸部だった。
 しかし開拓団は、ある程度の準備をして来ているので、適地と定めた場所で早速開拓村の建設を開始した。木を切り倒して森を開き、大きな石を排除し、ヨーロッパから輸入された大型の馬、牛などが大きな鋤を引き、川から水を引き入れるための簡単な水路を造った。切り倒した木は、水路や開かれつつある農場の補強、そして丸木小屋という日本らしくない彼らの住居、そして開拓村を囲む防壁とされていった。何しろそこには、まだ藁となる素材がないし板材を作る大工の数も少ないので、丸太で全てを作るより他無かった。小川程度の川には、丸太を束ねた橋も造られた。
 彼らが荒っぽく作られたばかりの畑に最初に植えたのは、荒れ地でも育つジャガイモとサツマイモ、ソバなどだった。まだ水稲が栽培できるほど開拓された田畑はできていなかったし、持ってきた食糧は一年も持たないので、まずは当座の食糧を確保する事が先決だったからだ。また銃を担いだ男達は原野に入って狩りを行い、小数の女達が出来たばかりの簡素な村で諸々の仕事を行った。
 村には最初から鍛冶屋も作られ、医者すら同行していた。幕府としても初期の移民で失敗するわけにはいかないので、開拓団としての質はかなり高かった。
 そうして彼らも2年の歳月をかけることで、先行している人々と似たような成功を収めた。しかもそこは、気候や収穫量から今までよりも稲作に適していると考えられた。

 1820年代も末になると、自発的に新大陸に移住しようとする人々が多く現れた。何の希望もない農村や都市で燻っているよりもマシと考える日本人は、この当時かなりの人数に上っていた。何しろ当時の日本列島には、約4000万人の日本人が犇めいていた。江戸、大坂、京の三大都市は、近世的飽和状態に近づいていたほどだ。
 日本列島内で産する食糧以外にも、砂糖を始め海外から流れ込む食糧の奔流が多数の人々の生存を可能としていたのだが、下層所得者に与えられたのは最低限の食べものだけで、手狭となった日本には希望は乏しかった。
 ある人は幸運にも幕府が用意した大型の移民船に無料で乗り、またある人は捕鯨船に僅かな船賃を渡して乗り込んだ。商人の中にも、人を運ぶという商売を思いついた者がおり、そうした船に身をゆだねる人も出てきた。
 移住先も加州中央部だけでなく、霧森と名付けられた北部の間宮地方に向かう蝦夷人や、途中の寄港地として利用された羽合に居着く人もいた。一部の漁民、物好きの中には、アラスカに行った者もあった。東南アジアに住み着いていた者のいくらかも、日本に似た気候での農業に憧れて船に乗り込んだ。
 とはいえ、1820年代半ば以後に新大陸移住する数は、年間数千人、多い年で5000人程度だった。大きな変化が訪れるのは、1833年から37年まで続いた「天保の大飢饉」を一つの機会とした。
 天保の飢饉の頃は大規模な天候不順(被害の大本は洪水と冷害)が起きて、日本列島のほぼ全域で不作が続いた。天候不順は日本だけではなかったが、取りあえず江戸幕府にとっては、日本列島全土で起きる混乱を少しでも小さくすることが政権運営の上でも至上命題だった。
 なお、この頃の天候変化により、この時期(1836、37年)だけ日本列島の南側を通り過ぎる黒潮が日本列島に最も接近し、その流れは江戸湾にまで入り込むほどだった。このため黒潮に乗って回遊するマグロが江戸湾に溢れかえり、この時期に限り江戸の庶民にとってマグロが最も安価な魚へと変化した。日本人、特に関東地方出身者がマグロを好んで食べるようになったのは、この時期の体験が大きく影響しているとも言われている。また寿司(生寿司)の定番ネタとしてマグロが定着したのも、生寿司が江戸の庶民の間で食べられるようになったのが1830年代だったからだ。
 話しが逸れたが、この時幕府は飢饉対策として海外から大量の穀物を運び込むと同時に、各種援助を出して日本の外に日本人を追い出していった。南に赴く船は、行きは人を帰りは食糧を積んで戻る事も多くあった。また幕府は、専門に人を運ぶ船でなくてもお触れと援助金を出して、人々を様々な日本の外郭地へと放り出していった。各大名達も、飢え死にするよりはと海外に領民を放り出したり、穀物を海外から買いあさった。
 結局、天保の大飢饉では数十万の餓死者を出したと言われているが、約5年間の間に日本を後にした人数も数十万の単位に上っていると言われる。多い年には10万人を越える人が海外へと旅立ち、そして幾らかは苦労の航海で命を落とすも、その殆どは新天地の新日本各地か既に拠点のある南方植民地群へと流れた。
 しかし中には、幕府や藩の出す船のある港に行く金もないので、自分自身を担保として移民船に乗ったケースも少なくなく、そうした人々は事実上の奴隷として扱われ、悲惨な末路をたどるケースも多かったと伝えられている。貧しい地方の農村などでは、「行くも地獄、残るも地獄」という言葉すら生まれたほどだった。

 そうして1838年には、最も移住が集中した新日本には、約30万人の日本人が一気に溢れかえった。この時期、現地日本人の命をつないだのはサツマイモとジャガイモであり、中央平原の主に北部は森林を開拓した急ごしらえの畑が、そこら中に広がることになった。北部の霧森でも似たような景色が広がり、加州北部には25万、霧森には3万、新たに加州南部に2万の日本人が移民したと考えられている。
 そして、いきなり大規模な人口を抱えるようになった新日本各地では、役人や読み書きが出来る人が不足し、幕府も大慌てで対応に追われた。こうして派遣された武士官僚の中に、現地で指導的地位に立つことになる大塩平八郎がいた。彼はもともと大坂奉行に務めていたが、貧民の困窮した暮らしに憂いを持ち自ら率先して移民の先駆けとなったのだが、そこで皮肉にも大出世した形だった。
 また初期に移民した武士開拓民は、読み書きが出来る武士又は浪人は現地で次々に役人に採用されたり、武士でない者も新たな開拓村の指導的地位に格上げされた。継ぐべき領地どころか禄(給与)すらない貧乏武士や傘張り浪人が、一夜にして村一つを任される高級武士(役人)に昇格していった。自らの才能によって、上級旗本級の出世をした浪人も出た。こうした武士の成功話は尾ひれを付けて日本本土にも伝わり、これまで新日本に行きたがらなかった武士の中にも赴任を希望する者が現れるようになる。新天地出なら、素浪人でも大名になることは夢ではないという言葉すらあったほどだ。幕府も、大和男児なら新天地で挑んでみるべきだと移民熱を煽った。新大陸に渡れば仕官できるというので、日本各地の浪人達も船へと飛び乗った。
 現地奉行所も組織ごと大幅に拡大され、北部の霧森、南部の聖天など各地に分所も作られた。また加州奉行所自体は、当時人口が最も多くなった櫻芽に移され、湾口にあった初期の奉行所は、地名を取って高坂分所とされた。
 そして一定数の人が住むようになると、その中心地には村から発展した町ができ、そこには大量の商品と共に船でやって来た元気な商人達の姿があった。また一旗揚げようと考える職人達もやって来て、その中の大工達が人々を指揮して街を整備した。年を経るごとに、極端な男女比率も徐々に変わっていった。人の集まるところには娯楽も必要だとして、大道芸人や旅芸人もやって来た。遊郭も、知らぬ間に区画が整備されていた。
 太平洋を行き交う船も増え、人を専門に乗せる船が定期的に運航され、貨物を運ぶ船の数はそれ以上に増えた。それまで技術的に停滞していた船そのものも、高速運行が可能なものが競うように就役するようになった。
 気が付けば、現地生まれの子供達の声が街角や村々で聞こえ始め、その数は年を経るごとに増えていった。移民自体の数も、成功話が日本に伝わったためか飢饉後も以前より格段に増えた。商人達が組織した開拓団が、平野部の南部で綿花の栽培を始めたりもした。商品作物の栽培は、既に余剰食糧が生産されつつあった証でもあった。
 各種建造物も、丸太小屋から製材された木造建築が増え始め、瓦や煉瓦を作る工房が各所に作られると、日本から持ち込まずとも立派な建築物も造られるようになった。
 開拓民以外の移住は1830年代の初期の頃から少しずつ拡大し、新日本の中心都市となった櫻芽市は、1840年頃には1万人近い人口を抱える都市へと拡大していた。人口1万人といえば、中規模大名の城下町ほどの規模となる。
 この頃には大商店の支店も各所に開かれ、両替商(銀行)すら営業して日本列島との間で為替による取引が可能となっていた。各種宗教組織もこぞって進出し、特に布教に熱心な日蓮宗と以前から最大勢力を持つ浄土真宗(本願寺)が現地で増えていた。神社も、日本本土と同じように、各村々、町々に作られた。櫻芽には、伊勢神宮など大きな神社の分社までもがやって来た。教育の場である寺子屋や剣道場も、気が付いたらそこら中に誕生していた。
 そこはもう、日本の一部に他ならなかった。

 そして船から降り立った人々の中に、とある専門家集団がいた。
 「山師」達だ。彼らは現地の情報から、現地に多数の金山がある可能性を考えたのだ。その根拠は、土人(原住民)が農業を行わず金属の道具を知らないと言う点だった。つまり金属採掘を行ったことが無く、新天地には金銀が眠っている可能性が存在したのだ。しかも現地は日本列島のように高く峻険な山々が連なるため、金銀が眠っている可能性が高いと考えられた。
 こうした山師は、日本本土で投機を募った人々によって雇われ、その数もかなりの規模に及んでいた。山師達は、これまで日本人が探してきた場所の記録や自分たちの経験を元に、根気強い探索を続けた。当然だが、ここぞと思って掘り始めて大失敗した者も数多くいた。山師とはそう言う商売だからだ。他にも、彼らは開拓日本人や原住民と問題を起こしたりしたし、奥地に入ると日本とは比べものにならない猛獣にも襲われた。しかしくじけることなく、欲望と野望の赴くままに根気強く探し、そして数年の歳月の後に一つの巨大な幸運に出会う。
 出会いは意外に呆気なく、まだ開拓が及んでいない櫻芽郊外の小川のほとりをふと見ると黄金の煌めきが見えた。
 「ゴールド・ラッシュ」、彼らにとっての「祭り」の始まりだった。
 しかし、古代から続く黄金探しのプロ達は慎重だった。いずれ世間に露見するにしても、この秘密は可能な限り保持する事にした。また秘密の維持は、彼らに出資した人々の利益にもなるしそれが契約でもあったので、プロたる彼らは履行すべき義務も負っていた。
 かくして秘密裏に黄金の採掘が始まったが、選鉱鍋(底の浅い鍋)で砂金をさらい始めて彼らは驚いた。尽きることなく、まるでわき出すかのごとく、黄金が川底のそこかしこにあったからだ。最初に砂金を見つけた10人やそこらの集団では、到底把握できない規模だった。
 そして黄金の話しが広がるのも早かった。金が見つかったのは1847年暮れの事だったが、翌年には隠密に進めていた人と物の流れを他の山師の集団に見抜かれ、彼らとの争いが周囲に露見。莫大な黄金の存在が白日の下に晒されることになった。
 1848年初め頃、日本人を中心にして、ついに空前のゴールド・ラッシュが発生。豊富な黄金の噂を聞きつけた世界中の人々が、新日本の加州北部へと殺到した。現地日本人、インディアン、付近の捕鯨船員、メヒコのヒスパニッシュ、日本本土、新大陸東部の白人、欧州の白人の順に人々が加州へとなだれ込んできた。マルコ・ポーロの時代から伝わるジパングという名も、白人達の欲望を煽ったと言われている。
 加州各地の港湾は一気に規模を拡大し、採掘場所に近い奉行所の櫻芽の街は一気に十万以上の人口を抱える巨大都市となった。
 その中で、十年ほど前に命からがら日本から移住してきた人々は、多くが一攫千金の成功者へと変化した。初期は、現地の鍛冶屋が法外な値段で量産した簡単な選鉱鍋を使うだけで、多数の砂金を手にした。他から人々が溢れて来ると、やっかまれる前に砂金探しを止めて、大金を手にした砂金掘り達への商売で財をなす者が多く現れた。食料品店や飯屋を営むだけでも、短期間で莫大な富を築けた。これが酒、女となると、その富は金を掘るよりもずっと効率が良かった。たいして美味しくもない加州の芋焼酎や急造のブドウ畑で作ったワインは、その後加州名物となった。日本本土から、遊郭の人々が押し寄せたりもした。賭博場も大繁盛した。ヨーロッパの各種賭博が日本人に本格的に広まったのも、この時を契機としている。そして金のある場所には、ありとあらゆる人と職業が集まった。ゴールド・ラッシュに集まった人の数は、一説には30万人と言われている。
 幕府及び現地奉行所は、増え続ける人々の前にてんてこ舞い状態に追い込まれたが、日本から来た住友や三井などの大商人達と連む事で自体を徐々に統制し、採掘から取り立てた莫大な税収を得ていった。
 なおこの時、最初の5年間で砂金として見つかった黄金だけで、重さにして360トンと推定されている。その後は簡単に採れなくなると、幕府管理のもとで幕府や大商人達が資本を投じた大規模採掘へと移行して、ゴールド・ラッシュは終焉した。しかし黄金は尽きることはなく、その後も約半世紀の間に1000トンもの金が採掘されることになる。年産でも約20トンの黄金が、日本経済さらには世界経済に注ぎ込まれ続ける状況が出現したのだ。当然ながら、幕府の税収を大幅に増やすことにもなっている。日本列島で有名な佐渡金山の金の総量が80トン程度だったと言えば、加州の大金山の巨大さが分かるだろう。しかも当時の技術で簡単に掘れて採取できるのだから、その価値は計り知れないほどだった。
 そしてこの時のゴールド・ラッシュは、必然的に新日本に大きな変化をもたらす事になる。それは単に日本人経済の活性化や、膨大な金の流入に伴う金の価値下落だけではなかった。


フェイズ13「ウェスタン・アメリカ」