■フェイズ15「ウォー・シーズン」

 ブリテンの横暴で起きた「阿片戦争」(1840年〜1842年)は、新しい時代の幕を強引に開ける戦争となった。一方では、一部の人々を目覚めさせる号砲ともなり、東アジアの国々は好対照の動きを見せることになる。
 清朝は、これまで国家に様々な膿が溜まっていた事もあって、一気に混乱期に入った。東南アジアにある多くの国も、ちょうどと言うべき最悪の時期に混乱期に入りつつあった。例外はシャム王国と、江戸幕府の治世下にあった日本だった。
 日本の江戸幕府も成立から既に250年近く経過しており、既に特権階級と彼らが運営する政治組織の内部腐敗と硬直化は進んでいた。しかし海外進出するという積極的な行動のお陰で、日本人そのものの新陳代謝は比較的健全な状態にあった。しかも空前のゴールド・ラッシュという幸運に与ったこともあって、近世的封建体制のまま産業革命へと突入していた。国家全体の状態としては、少し後のロシア帝国に少し近いだろう。しかし日本の場合は、一部の武士(特権階級)と多くの庶民がそれぞれに良性の化学反応を起こしつつ産業面での変化だけを達成しつつあった。その産物である文明の利器の力、特に軍事力は、まだ物理的に東アジア奥地に手が出しにくいヨーロピアンにとって大きすぎる障害だった。中華世界は眠れる獅子だったかもしれないが、当時の日本は駈ける虎もしくは昇竜のように元気だった。
 しかも日本での産業革命が突然のように活性化した1850年から1870年にかけては、ヨーロピアンにとっては戦争の季節だった。とてもではないが、東アジアや北太平洋といった辺鄙なところに手間暇をかけている余裕はなかった。
 この時代に起きた代表的戦争は、おおよそ以上のようになるだろう。
 
 ・太平天国の乱 (1851年から1864年)
 ・クリミア戦争 (1853年から1856年)
 ・アロー戦争 (1856年から1860年)
 ・シパーヒーの乱 (1857年から1858年)
 ・イタリア統一戦争 (1859年)
 ・アメリカ南北戦争 (1861年から1865年)
 ・普墺戦争 (1866年)
 ・普仏戦争 (1870年)
 ・ドイツ、イタリアの統一 (1871年)

 これら以外にも無数に戦争が行われていたが、複数のヨーロッパ国家の関わった戦争で、規模が比較的大きなものは上記した程度となる。この中で日本が関わらざるを得なかった戦争が「アメリカ南北戦争」であり、自ら首を突っ込んだのが「クリミア戦争」、「アロー戦争」だった。
 逆にヨーロッパ諸国は、金満国家にして産業国家へと変貌しつつある日本に、深く関わっている場合ではなかった。「普仏戦争」後のフランスのように、戦争の影響で長い期間元気をなくしてしまった国も出たほどだった。

 なおナポレオン戦争以後、ウィーン体制と呼ばれる現状維持がヨーロッパ諸国の間で約束された。しかしそれも、1848年の自由を求める革命騒ぎによって完全に崩壊。新たな思想として社会主義が登場し、その一方ではナショナリズムによって国と民族が動くようになった。
 このナショナリズムは、産業革命によって国力を増した国と帝国主義という一種の思想によって列強による膨張路線となり、主にヨーロッパの国々が世界中を分割支配するという時代に突入していく事になる。
 世界が暴力に覆われた時代の到来だった。
 この中で、国家成立以後可能な限り自らの側からの武力行使を戒めていた江戸幕府も、自らを守るために武器を取るというより、攻められる前に攻めるという、一種の予防戦争へと誘われる事になる。
 とはいえ、ヨーロッパの戦争に江戸幕府は興味がなかった。江戸幕府が興味があったのは、自分たちの領域と隣接している国の関わった戦争か、東アジアで起きた戦争だった。極論、インドでの反乱にすらほとんど興味を持っていなかった。
 そうした中で戦乱の先陣を切ったのが、「太平天国の乱」だった。ここで日本が困ったのは清朝との貿易であり、内乱である限りあまり興味は持っていなかった。鎮圧されるか新王朝が出来るのかは当初は全く予測できなかったが、根本的な変化が訪れるとは考えていなかった。何しろ「唐の国」なのだ。ちょっと戦争に勝ったぐらいで、ヨーロッパが飲み込めるような存在では無いはずだというのが、日本人の一般的感覚だった。

 幕府が興味を向けたのは、ロシアが引き起こした事になる「クリミア戦争」だった。しかもクリミア戦争はロシア対他の列強という図式であり、この時ちょうど良好な関係を持っていたブリテンから参戦の誘いがあった。
 内容としては、日本も参戦してシベリアからつついて牽制の一つもしてもらえないか、というものだった。
 そしてこの頃、バイカル湖畔のロシア領からロシアンコサックが跳梁し始めていたので、これを封じるにはちょうど良い機会だと江戸幕府でも考えられた。ロシア側としては、当時シベリアから太平洋に出るには、陸路の場合はバイカル湖畔北部=夏川(レナ川)上流地域=北氷海=以後汽船活用、というルートが一般的で、これを日本からむしり取れないかと狙い、既成事実の積み上げを行おうとしていたのだった。
 江戸幕府には、ロシアを叩く理由が十分存在したと言うことになる。
 そして江戸幕府は、ブリテンなどと計ってロシア政府に宣戦布告すると、既に準備していたかなりの規模の騎兵部隊、傭兵騎兵隊を用いてシベリア各地を攻撃し、ロシア側も現地コサックが中心となって反撃した。シベリアでの戦闘は、日本が深く攻め込むも広大な地域を戦場としてしまったためなし崩しに膠着状態となり、幕府としては早々にロシアとの落としどころを探し始めていた。ロシア側も、日本とのシベリア辺境での争いを早々に切り上げたがっていた。
 そうしていた頃に、ブリテンが黒海に幕府水軍と傭兵隊の派遣を要請してきた。
 ちなみに、江戸時代初期から存在する傭兵隊は、この頃も他国に貸し出したりして存在し、幕府の重要な臨時兵力と収入源の一つにもなっていた。一部の部隊は、今で言う緊急展開部隊的な扱いを受けており、シベリアに投入された傭兵騎兵隊のかなりもそうした部隊だった。彼らは新大陸にもあって、中米諸国にも金次第で派遣され、常備軍を抱えるほどの財政状況にない国々の間では重宝されていた。部隊の人種構成も浪人の日本人ばかりでなく、東南アジア、中南米各地の人種も増え、後のフランスの外人部隊に似た組織に変化しつつあった。
 ブリテンも、19世紀に入るまでは主にインドなどでの治安維持に日本の傭兵隊(サムライ・サーヴァント)を日常的に使っていたので、彼らの戦闘力に目を留めたのが要請の要因となっていた。また幕府水軍も海賊退治などで馴染み深く、またその練度にも注目していたための要請だった。
 そして国際的地位の向上と軍事力の誇示、さらにはロシアから何かをせしめる事を目的としての派兵が決定し、黒海のセヴァストポリに20隻以上の軍艦、輸送船と5000名の陸兵が派遣された。船舶乗り組の人員を加えると、1万人を越える数となる。
 しかし幕府軍到着頃にサルデーニャ王国も軍を派遣し、サルデーニャ王国の方が一歩先んじていた。また幕府の派兵時期も遅かった。このため幕府軍は戦いの終盤に参加したに止まり、犠牲が少なかった代わりに活躍もあまりできなかった。日本がクリミアに来たという既成事実を作ったことが、最大の成果だったと言えるだろう。
 その後のパリの話し合いでも特に得るところはなく、ロシアとの間には若干有利なシベリアと北氷州の境界線の決め直しが行われただけだった。また一方では、トルコとの間では日本が援軍を派遣したこと関係が一気に進展し、日本がイスタンブールに公館(大使館)を設置するなど外交面での進展もあった。
 軍事面でも、日本が急ぎ派兵するため船の半数を蒸気船にしたことは、ヨーロッパに少なくない衝撃をもたらした。何しろ幕府水軍は、日本から喜望峰を回って黒海の奥にまで艦隊を進めて見せたのだ。つまり、補給地さえ持っていれば、世界のどこにでも艦隊を派遣できるのと同義の行動を行ってみせた事になる。各地でブリテンの支援があったとはいえ、これは十分に脅威だった。
 そしてここで幕府の得た教訓は、軍事行動を取るなら中途半端な行いは無駄が多いという事だった。
 これまで幕府としての軍事行動が酷く少なかったため、幕府はこの頃かなりの熱心さで軍の改革と近代化を推し進めており、このクリミア戦争での教訓はその後大いに参考とされた。
 幕府に、国家の戦闘専門部隊としての常備軍を持ちたいと思わせたのも、この戦争が契機となっている。

 そして次に幕府が興味を向けざるを得なかった戦争が、「第二次阿片戦争」と言われる事もある「アロー戦争」だった。
 この戦争は、清朝との貿易が拡大できないブリテンと、インドシナの植民地化に清朝が邪魔だったフランスが共闘した戦争だった。開戦に至る否は、公平に見た場合完全にブリテンにあるのだが、帝国主義的な戦争では強い力を持ち勝った方が正義だった。しかも相手が有色人種国家であるなら、ヨーロピアンに遠慮はなかった。
 もっとも日本も、清朝が他の列強同様に日本に対する貿易に不熱心になっていたため、かなりの不満を持っていた。このため中華沿岸に軍艦を浮かべ、ブリテンが音頭をとった天津条約に日本も加わっていた。武仏両国に対しては、戦争中に補給や寄港地などの提供もしている。
 その後武仏と清朝の間の戦闘に対しては、清朝に対して武仏への調停役を申し出た。武仏も、日本の宰相に当たる大老(=宰相)井伊直弼が直々に調停役を買って出たことを評価し、日本に調停役を委ねた。そして戦闘に惨敗した清朝は講和に応じ、日本の調停の下に、武仏遠征軍司令官と清朝の恭親王との間に「北京条約」が締結された。
 この条約での日本への影響は、清朝がまったく頼りにならないと分かった事と、清朝人民の海外渡航規制撤廃にあった。これ以後、新日本では中華系移民が増える事になる。
 一方、調停に入った日本は、こちらも大老井伊直弼直々の交渉により、1858年に「長崎条約」、1860年に「北京条約」を結ぶ。
 まず「長崎条約」で黒竜江以北の清朝領(=外満州)が日本に割譲され、日本海沿岸の沿海州を日清雑居地とした。そして「北京条約」で、沿海州も正式に日本に譲渡されることになる。
 一方のロシアは、この時期清朝と別に交渉を持ち、アルグン川を正式な境界線としている。このため、以後ロシアでいうザバイカル地域が日露の緊張地域へと変化していくことになる。

 ただしこの時は、殆ど何もせずに広大な土地を得た江戸幕府は、自分たちの力を確認すると共に、産業の革新を行っている国とそうでない国に決定的な差が存在することを、体感的に深く理解するようになった。
 このため自分たちの革新を、なお潤沢な資金を投じて積極的に進め、海外領土の開発と獲得にも力を入れるようになる。
 二つの戦争を経て、江戸幕府も帝国主義の魅力に取り付かれたと言えるだろう。
 しかもこの時期は、日本にとっては追い風だった。
 上記したように、世界各地で戦争が頻発し、列強が日本や日本近在の地域に深く注意を向けている余裕が少なかったからだ。
 だが、日本にとっても容易成らざる戦争が起きる。言うまでもないかもしれないが、「アメリカ南北戦争」だ。

 アメリカ南北戦争とは、単純に言ってしまえば南部の独立戦争であり、北部の祖国防衛戦争だった。また、考え方、経済、政体の違いなど様々な面で一つに収まるには難しい地域同士が戦うべくして戦った戦争と言えるかも知れない。
 しかし、アメリカ合衆国(以後北軍)、アメリカ連合国(以後南軍)では国力に大きな開きがあった。
 単純な南北比率だと、国力は北:南=3:1で、総人口差だと北:南=2100万:550万(+黒人350万)となる。工業化、鉄道敷設距離、銀行預金、工場数など全ての面で北軍が圧倒していた。
 国力に三倍以上の差があるので、戦争は総力戦となった場合戦う前から決まっていたと言える。南軍には短期決戦でしか勝算はなく、開戦当初から武仏の介入を期待していた。
 そして北軍の懸念こそが、諸外国の干渉と介入だった。場合によっては、参戦すら予測されたからだ。
 最も危険な国は、アメリカ合衆国にとっての仮想敵第一位であるブリテンだった。参戦はしなくても、その優れた外交力で翻弄してくる可能性は極めて高かった。ブリテンの外交に勝てない限り、戦争にも勝てない恐れが高いほどだった。またフランスは、基本的に北軍との関係は良かったが、北軍の保護貿易主義には反対していた。
 そしてブリテンの次に注意すべきが、日本だった。
 江戸幕府の有する新日本領は、北部、西部を中心にして北米大陸のほぼ3分の1の面積を占めていた。利用価値のない山脈や荒野、雪原ばかりだったが、そうであるが故に誰も手出しできない天然の要害によって、最も重要な太平洋岸が守られていた。
 南北戦争勃発当時の新日本は、総人口330万人の9割以上を日本人が占めていた。日本及び東アジアからの主に日本人の移民は年々増大し、蒸気船の普及が拍車をかけている形だった。また新日本領内にも鉄道敷設が進み、新日本での鉄の生産や機関車製造のための機械工業すら勃興していた。北部の中枢都市である霧森からは、新たな開拓地とされる中央平原の国境であるウィニペグへの鉄道敷設計画すら既に進んでおり、既に太平洋岸では工事が開始されていた。
 単純な国力だと南軍の半分程度なのだが、新日本は東洋唯一の列強である日本の植民地だった。駐留兵力も太平洋岸を中心に3万人を数えると見られていた。住民のほぼ全てが開拓民であり屯田兵(市民兵)という状況は、北軍、南軍と大差なかった。しかも当時の日本は世界最大級の蒸気軍艦保有数を誇っており、その強大な海軍も太平洋岸各地に駐留していた。
 また南北戦争が起きると、日本の中央政府である江戸幕府は、現地での治安維持、国境線防衛に神経を尖らせ、追加の軍をすぐにも派遣開始していた。
 両者の境界線に近くカリフォルニアに抜ける峠道の羽菜と赤壁の砦には、多数の幕府兵が詰めていた。そして特に幕府が注意したのが、北軍と国境を接する北部中央平原地帯であり、状況さえ許せば軍を派遣する気を十分に持っていた。派遣前から道や拠点の整備も始まっており、戦争特需を見込んだ物資の移動、移民の増加も起きていた。大陸奥地に向けての鉄道敷設も進み、この時期に中部の大塩湖、北部の重蔵盆地までの鉄道も開通している。
 日本列島での産業革命の活発な胎動と豊富な資本が、戦争特需という巨大な需要を求めていたとも言えるだろう。クリミア、アローと二度の肩すかしを受けていただけに、日本で利を求める人々の期待も高かった。幕府も、国防力、国土開発、工業力、海運力など様々な面での大きな拡大が見込めることから、積極的な戦争こそ望まなかったが流れを止めることもなかった。
 もっとも東海岸からは、日本の詳しい情景はほとんど見えてこなかった。この当時の太平洋や北東アジアは、ヨーロピアンにとってまだまだ地平の彼方の土地でしかなかった。それでも、アメリカ(北軍)の国境線辺りに増え始めた日本人には注意を向けざるを得なかったし、モンロー主義など全く意に介していないとしか思えない日本人の動きは、同じ北アメリカ大陸を領土とする者としては裏切り行為でしかなかった。
 北軍内にも「黄色い奴らを先に叩け」という意見があったほどだが、日本の領域は自分たちの軍隊でも進めるような場所にはなかった。北部の森林、大平原、ロッキーの嶺々、その全てが日本人を守っていた。大陸横断鉄道のないこの時期に、もし本気で大軍をロッキー山脈に進めていれば、進むだけで国力を消耗して大軍は戦う前に消耗しきって全滅していただろう。また手の出しやすい北部大平原に対しては、同方面で動けば東部でカナダを有するブリテンが動く可能性が極めて高かった。そうなっては、北軍の敗北は確定的だ。

 そして南北戦争が泥沼化した1861年夏以後、国境の向こうに日本人の砦が作られたミネソタ州は、気が気ではなかった。日本人の最も東の地点が、ミネソタ州のすぐ側にまで迫っていた事を、この時ようやく自覚したのだ。
 新日本とミネソタ州は直接国境を接していなかったが、すぐ西隣のダコタ地域の北部一帯は新日本と境界を接する場所だった。そして日本人であろうとも、白人移民にとっては全ての有色人種は敵の予備軍だった。しかも戦争が始まってミネソタでの物資の流れが滞ると、まずは保護下となっているインディアンにしわ寄せがいき、食糧配給が途絶えて飢えたインディアンは日本人に助けを求めたりしていた。
 また国境線各地の日本軍、日本の義勇兵は続々と増加していた。砦や要塞も規模を拡大し、街道の整備も進んでいることは間違いなかった。兵站の確保と増援の到着を待っている恐れは十分に存在した。太平洋岸からの鉄道敷設の噂も、常に囁かれていた。とはいえ、すぐにも日本が北軍や南軍に宣戦布告するような事はなかった。
 それに日本人の側から見れば、大雪山脈(ロッキー山脈)を越えさらに三百里(1200km)以上進んだ先にまで大軍を送り込んだり、その先での近代戦争を行うことは、物理的に非常に難しかった。鉄道が敷かれていれば条件は全然違っただろうが、鉄道はまだ太平洋岸にしか敷設されてはいなかった。
 南軍が日本を巻き込もうとテキサスから小数の部隊を出発させ、日本と南軍を接触させないため北軍が追撃し戦闘になっても、新日本の現地奉行所は各地に自重を求めていた。
 取りあえず現地で積極的に行われたことも、基本的には防衛準備と、国境線との交通手段の確保を目的とした道路整備だった。このため義勇軍に志願した人々が従事したのは、殆どの場合道普請だった。
 多くの事は今までも行われていたが、今度は投入されている物量が桁違いだった。トロッコが通る程度の軽鉄道が敷設される場所も数多く、北部では多くの人々が大雪山脈を越え森深い道を通り北軍国境沿いへ至った。
 この頃の日本人達は、自分たちにとって数年間は準備の時間であり、南北両者が疲れ切るまでに鉄道を敷設してから一気に攻めかかる算段を立てていた。
 そうして日本が戦争を半ば傍観している時、北軍では日本に強い警戒を喚起する法律が制定された。1862年5月に発効した「ホームステッド法」だ。この法律は、21歳以上の米国市民権を持つ者が移住して5年間定住し耕作した場合、160エーカー(約65ヘクタール)の公有地を無料で与えるというものだ。
 主な目的は、ミシシッピ川流域の中西部の農民の支持を得る事と、自作農を育成することで奴隷制農業を行う南軍に政治的な打撃を与えるためだった。だが日本人達は、中西部に人が溢れる可能性が高まった事を危惧した。しかもこの法律は、白人に対して設けられた法律であり、有色人種の土地は好きにして良いという政府からの許可を与えるような法律でもあった。日本人が警戒感を強めるのは当然だろう。当然と言うべきか、国境線の警備は一層強化された。

 そうして開戦に向けての準備をし続ける日本人に、一つの朗報がもたされた。「アンティータムの戦い」に勝利した北軍大統領リンカーンが、1862年9月に奴隷解放予備宣言を出し、翌63年1月1日に「奴隷解放宣言」を発表したのだ。
 これまで日本人は、白人特にアメリカの白人は人種差別傾向がヨーロッパの人間よりも強い人が多いため、戦略的には南軍を支持すべきだと分かっていても、それに踏み切る気になれなかった。だから、自分たちの準備を整え、南北双方が疲れ切るのを待っていたのだ。しかし人種差別を北軍がなくそうと言うのなら、日本が戦争すべき時は遠のいたと思われた。このため日本本土での戦争株は暴落し、一気に戦争への気運が低下した。
 もっとも、原住民(インディアン)への差別が相変わらずだと言う事は、ミネソタ州と国境を接する地区から報告が上がっていた。ミネソタ州は北軍州としての戦争協力を優先して居留地に押し込めた原住民への配給を行わず、これに反抗した現地スー族を大虐殺していたからだ。逃げた一部は新日本領内にも逃げ込んでおり、新日本側の原住民の通訳によりアメリカでの白人の横暴が知られることになった。
 そうした事件はともかく、北軍の奴隷解放宣言は戦争の一つの契機となった。既に奴隷を禁じているブリテン、フランスが、戦争に介入したり南軍の独立を認める事が難しくなったからだ。
 その後戦争は完全な長期戦に入り、日本人の思惑に近くなったが、国際世論的にも戦争に介入し辛くなっていた。
 そして最大の戦いと言われた「ゲティスバーグの戦い 」で北軍が勝利すると情勢は決定的となり、同年11月16日の演説によってアメリカという国は一つに戻ることが確定的となった。
 戦争は1865年に終わり、結局日本は傍観者に終わった。

 とはいえ何もしなかったわけではない。
 特に、新日本での経済・産業の発展、移民の拡大、道路整備、鉄道整備、軍備の整備など様々な面が大幅に進んでいた。
 人口も戦争特需を当て込んだ人や、現地での活況を聞きつけた人の流れがあったため、戦争の間の僅かな期間で一割以上も増えていた。
 また多くの人が入り込んで各地を調べて回るようになり、大雪山脈各所で炭坑が、加州南部聖天付近で良質の油田が見つかった事も、新日本の発展を約束していた。
 そして日本人達は、アメリカが南北に再統合して戦争復興が終わるまでに、出来る限り自分たちの領域の力を高めなければならないことを肌で実感した。
 内輪もめが終わった以上、アメリカという人工国家が、また有色人種に辛く当たるのは確定的な事柄だと言うことが理解されていたからだった。
 そして新日本を強くするためにも、日本人全てが変化しなければならない事が理解される時代が到来しつつあった。


フェイズ16「ガバメント・リフォーム1」