■フェイズ16「ガバメント・リフォーム1」

 1860年代は、江戸幕府での大幅な政治改革の時期となった。
 産業革命、流通革命の大幅な進展が、これまでの幕藩体制を不可能としていた為だ。また、今までとは比較にならない早さで変化する時代に対応するべく、抜本的な変化が是非とも必要だと考える人々が多くを占めるようになっていた事も強く影響していた。革新的な欧州白人勢力との頻繁な接触と交流を経た日本人達の多くが、そして常に矢面に立たざるを得なかった江戸幕府自身が自ら改革を肯定としたのだった。

 日本での大きな変化は、アメリカ南北戦争への介入予定が無くなり戦争特需が吹き飛んだ1862年秋以降に起きた。
 この頃日本の江戸幕府の幕藩体制とその中核である特権階級の武士階級は、先の見える内外の賢者、識者達の見るところ、すっかり官僚的腐敗と堕落の中にあった。
 事実上の世襲役人である武士階級は、特に国内においてかなりの者が賄賂を取って私財を得ることを日常としていた。そうしなければ、武士(=特権階級)としての体面を保つだけの生活を支えられないからだ。
 中央行政を担う者達が比較的健全だったのが救いだが、彼らの多くが大きな変革を嫌い保守化を強めていた。だが、江戸幕府、藩を中心とした封建体制、つまり幕藩体制が限界に来ている事も、当事者達が肌で実感している事だった。
 「幕政改革」が声高に言われるようになったのは、大御所時代の最後の頃からだった。ウィーン会議で露見した幕府の政治体制の後進性については、幕府自身が小さな改革や抜擢人事による人材登用による対処療法で凌がれていた。
 また、貨幣経済の浸透と拡大により、領土(石高)の価値が百五十年以上かけて下落し続けていた影響で、土地(米)を中心に据えた擬似的な封建体制そのものの形骸化が大きく進み、逆に江戸幕府の近世的な政府化が進んでいた。簡単に言えば、国から給与を得て官僚、軍人が仕えると言う今では当たり前の図式だ。もともと江戸幕府の石高制度そのものが、領土よりも給与としての面が強かったのだが、それが貨幣経済の浸透で長い時間をかけてすり替わってしまったのだ。実際、農村を管理運営しているのは、名主などと呼ばれる現地の大土地所有者であり、彼らの方がよほど農村豪族的武士の側面を有していた。
 かなり大きな自治を持つ地方自治政府でもある各藩(大名)も同様で、大きな藩ほど領主や上級武士達の権限と封建体制は薄まり形式化が進んでいた。このため、自力による封建体制から近世国家に向けての斬新的な変化に対しても抵抗は薄かった。
 一方、武士以外の身分階級では、海外勢力との接触や交流の機会が多い貿易商、船乗りなどは、封建体制の限界と血統による特権階級に対して早くから疑問を持っていた。「金儲け」という武士階級から卑しいともされる実力を求められる世界、しかも世界中の商人と渡り合う中で実力主義が当たり前となっているので、保守的すぎる封建体制自体にはほとんど価値を見いだしていなかった。精々が、愚かな特権階級の自尊心や地位を利用するという程度でしかなかった。財力についても、一部の大商人は大藩(大大名)に匹敵するか凌ぐほどの財力を持っていた。
 農民も、海外で開拓民となった者は、否応なく自立して行動することが求められ、しかも「御上」の庇護が受けにくい場合が殆どのため、そうした人々と彼らの話を聞いた人々の間で封建体制というものに対する疑問、疑念は大きかった。
 そして寺子屋を中心とした公的機関に依らない基礎教育の拡大は、知識を持つ者の底辺を大幅に拡大すると同時に、高等知識、学問を有する人口も大幅に拡大していた。識字率50%という数字は本来なら封建体制国家ではあり得ない数字であり、当時の世界でも飛び抜けて高い数字だった。そうした知識を持つ人々が何も考えない訳はなく、封建体制に対する疑念は文化文政時代以後に一気に拡大していた。

 そして知識を得た人々の間では、ヨーロッパで起きている時代の変化を知る事ができた。多くの出来事や考え方は口伝で伝えられ、中には書物として日本人社会に入り込んでいた。
 ただ日本人には、「革命」という考え方があまり浸透しなかった。啓蒙思想は有識者の間でかなりの浸透を見せたのだが、革命についてはそれを担うべき人々が事実上存在していなかった。
 そもそも市民革命には、抑圧者の特権階級、中間層の市民、被抑圧者の農民という階層と図式が必要だった。だが日本には、「士農工商」という身分制度はあったが、それは武士とそれ以外という構図であって、当時世界有数の近代的大都市である日本三大都市などに住んでいる人々は別に「市民」ではなかった。確かに、大商人の近代資本家化は進んだし、商人の企業化は経済的原則に従って進んでいたし、商人の富裕化、富農、自作農、都市住民の間での中間層の拡大は進んでいた。貨幣経済の浸透に伴い、決まった税金も払うようになってすらいた。
 しかし彼らは単に裕福になっただけで、「市民」になったわけではなかった。「市民」とは、基本的には義務と引き替えに権利を得た人々のことを指すからだ。日本で武士以外の者が負っている義務は実質的に納税だけで、もう一つの最重要の柱である兵役が存在していなかった。日本人にとっての軍人とは、武士であり続けていた。
 また日本の身分階級では、武士とそれ以外それぞれに事実上の見えない階層があり、武士以外の中間層の方が武士の中級身分以下の人々よりも裕福だった。多少の賄賂でそうした人々が必要十分に役人をしてくれるのだから、武士以外の人々が改革を求めようとはなかなかしないのが現状だった。現状維持もしくは漸進である限り、社会的に必要性がないからだ。
 それに日本の特権階級は、世界の他の国に比べて領民、国民に対する締め付けが緩い方であり、それほど横暴でもなかった。金も持っているのも、特権階級よりは民衆の富裕層だった。
 何より江戸幕府の政治組織は、封建体制の形を取った事実上の官僚専政制だった。武士という責任階級は、良質な官僚団を維持するために存在しているようなものだった。官僚には知識が必要で、知識を得るには金と時間がかかり、それを出来るのが生活にゆとりがある特権階級と言うことになるからだ。

 無論、現状に不満を持つ者は皆無ではなかった。
 特に農村では、貨幣経済の浸透と共に自らの農地を質に入れ(※形式上、長らく農地の売買は禁止されていた)、小作農へと転落していた。こうした人々は、18世紀半ばに農民全体の半数を超えたと考えられている。つまり地主(豪農・名主など)と小作人の対立構図が生まれたのだった。しかし事態が深刻化する前に、日本では工場制手工業が進んで、徐々に小作人労働力を吸収して農業から引き離すようになった。また蝦夷、台湾での開拓により、日本そのものから離れる人々が出始める。日本から出ていく流れは1830年代から一気に進み、ほぼ同時に産業革命による工場労働者の需要と、工場労働の方が小作農より収入が大きいため、小作農の農村離れが大幅に進展した。
 これに対して豪農、富農は、耕作者の不足に当初頭を悩ませたが、日本以外での農業開拓やヨーロッパからの知識を得る形で従来の労働集約型農業から資本集約型農業へと転向した。農地を耕すのは、多数の小作農から海外から輸入・繁殖された力強い家畜へと変化していった。こうした農民階層での自己解決は、日本での労働者革命の可能性を一層低下させる大きな要素となった。
 こうした状況を前にした武士達は、百年単位で起きた変化に対して鈍感で、ほとんど傍観していただけだった。
 さらに下からの革命を阻害したのが、日本の海外進出だった。
 一部の下級武士や小作農のように、日本に住み飽きた者で多少の勇気や冒険心があれば、海外に出ていけばよかった。海外に門戸を開き、半ば幸運によって移動手段を確保したうえで広大な植民地すら有する日本ではそれが可能だった。
 武士の下層身分でも、海外領土で努力して成功を収めれば、ある程度の出世が出来る可能性もあった。海外貿易、傭兵家業に始まり、蝦夷、台湾、北氷州、呂宋(フィリピン)、南亜(スンダ)、そして新日本、一旗揚げられる可能性の有る場所に、日本人は時代時代に広がっていった。彼らは日本以外で自分自身の革命なり改革、改善を行い、成功又は失敗していった。
 また、外に出ていく事すら出来ないもしくはする気のない者は、そもそも改革や変化を求める事を行う気力すら持ち合わせていない場合が殆どなので、彼らが革命の原動力になることは殆どあり得なかった。

 そうしてフランスのような市民革命の可能性が下がっていた日本だが、変化は海の外から次々に訪れていた。
 日本で列強と翻訳されたヨーロピアンの強国との物理的距離が、産業革命の進展に伴い縮まったのが原因していた。ヨーロピアンの国々は、清朝のように鎖国(海禁)することなく、それどころか日本よりも活発に世界で活動していた。ヨーロッパ同士での戦争も日常茶飯事で、基本的に戦争を避けていた江戸幕府が戦いや争いに巻き込まれた事も過去にはあった。
 そうしたある意味騒がしい国々が、産業革命の進展に伴い世界に広がる速度と密度を急速に増し、ヨーロッパから見て最も遠かった日本列島のある北東アジアや北太平洋一帯にもやって来るようになった。そうしてたどり着いたヨーロピアンは、表向きは平等な交易とつき合いを求めていたが、内実は白人及びキリスト教徒以外への強い差別感情を持ち、相手をねじ伏せ搾り取ることを第一に考えていた。
 幸いと言うべきか日本は、相応に技術を吸収したり自助努力があったため、白人達に舐められないだけの武力、国力を保っていた。だが、そうでない国がどうなったかは、過去200年の間に何度も日本人が見たり聞いたりする事ができた。150年以上かけてブリテンに征服された天竺(印度)、1840年以後の唐(清朝)、北アメリカ大陸での原住民駆逐がその典型だった。
 そして19世紀中頃の日本の勢力圏は、それぞれ強大な力を持つグレートパワーと隣接し、その圧力に晒されていた。
 ロシアと向き合う北氷州(ユーラシア大陸北東部)、再統一を成し遂げたアメリカと隣接する新日本(北アメリカ大陸西海岸)、ブリテン以下ヨーロッパ列強が押し寄せつつある東南アジア地域、全ての国々の最終到達点がまるで日本列島であるかのようにも見えた。
 こうした外圧を実感した心ある人々は、徐々に自分たちの変革に向けての動きを加速させるようになった。
 幸いゴールド・ラッシュにより回転資金を得たし、金につられたヨーロピアンは最新の知識と技術を日本人にも手渡していた。ヨーロピアンを中心に日本に構っていられないほど戦争も頻発していた。今が絶好の機会だという気運が、心ある日本人の中に溢れている時期が到来していた。
 そして外圧こそが日本人に変化を求めるというのは、古代の昔からの半ば遺伝子レベルでの行動だったと言えるだろう。

 一方、国内での一番大きなうねりは、産業革命の進展だった。
 蒸気機関を動力として用いた工場では、今までとは比較にならないほど大量にそして安価に製品が作られるようになった。蒸気船は海外との距離を一気に縮めた。鉄道も同様だった。大坂と江戸の距離を僅か一日で行けるなど、それまででは考えられない変化だった。
 しかも鉄道は1850年代に入ると日本中に敷設され始めたため、幕藩体制の象徴でもあった参勤交代制度の存在意義そのものが大幅に低下した。移動コストが物心両面共に激減したからだ。このため幕府は、1864年に参勤交代を事実上中止すると同時に、各藩に対して余剰予算を用いてそれぞれの領地での近代的社会資本の整備を命令した。社会資本整備を命じる事で諸侯の力を殺ぐという、江戸時代初期の政策に戻ったのだ。
 このため150万人を数えた江戸の人口は、武士を中心に急速に減少した。逆に、地方都市(雄藩の拠点都市)の大型化が加速。また人の流れの変化と鉄道、蒸気船の普及に伴い衰退を始めていた各街道の宿場町の衰退と変化も加速した。また、横浜や神戸などの日本各地の貿易港が爆発的に発展した。
 そうした中、切れ者で知られていた徳川慶喜が、1864年に江戸幕府の十五代征夷大将軍に就任。自ら幕府改革の先頭に立つことを宣言した。その前年には、井伊直弼が新大陸での外交の失敗と景気後退の責任を取る形で蟄居しており、日本の改革を目指す一橋派とこれに合流した改革派が一気に権力を握った。
 日本での変化の始まりだった。

 徳川慶喜は、将軍就任すぐにも行動を開始し、まずは諸藩による合議の定期的開催、合議での多数決による政策を決めるという方針が出された。参勤交代はなくなったが、合議に参加するために、大名達はこれまでと同じように1年の半分程度は江戸に来なければならなかった。ただし参勤交代とは違い、藩主または藩主に代わる代表が公務で江戸に赴くだけなので、これまでのような華美な行列や大量の同行者は不要となった。また鉄道、蒸気船が、移動を極めて容易なものとしていた。
 もっとも、こうした雄藩、賢者による会議は、それまでも何度か行われていた。1840年代からは特に顕著だった。だが今回は、可能な限り近い将来に「大名議政局」設置を目指すとされていた。そこがこれまでとの大きな違いだった。
 また議政局には、こちらも可能な限り近い将来に「衆議政局」を設けることも目指すものとされ、二つの議政局つまり二院制の議会を持つことで新しい政府組織を作る事が明確に示された。
 これが将軍自らが主導した「上からの改革」の始まりだった。
 またこの議政局を運営するにあたり、「近代的法度」つまり現代において憲法とされる取り決めを発布・施行することもガイドラインにあった。
 要するに、「立憲君主国家」へと日本の政治を変化させる為の政策が示されたことになる。
 大きな変化が打ち出された背景には、現状では武力と経済力を背景に対等な関係を結んでいる諸外国が、議会と憲法、特に近代憲法を持たない国は一流国家ではなく対等な外交を結ぶに値しない、という方向性を強めていたからだった。諸外国に対して日本側は、「じゃあロシア帝国はどうなんだ」と言いたかったが、海外と交流を持つ日本人は、白人とそれ以外という彼らの極めて強い線引きを実感していたので口に出すことはなかった。
 そして徳川慶喜と彼を担ぐ改革派は、実際議会や憲法を持たなくても方向性を持つことは最低限しておくべきだというのを、まずは実行でなく方針として打ち出すことに止めた。そして諸外国の圧力を利用し、諸外国に対する方便だと説明して、多くの日本人を半ば無理矢理に納得させた。
 他にも、武士以外の議会への参加、議員を選ぶための権利の代償として、近代的な合理的税制と徴兵制度の二つの義務を負わせる事が方針として示されていた。また徴兵制度の整備と同時に、これまで随時編成していた陸上での軍事力を、「陸軍」として恒常的に整備することも示された。
 民衆の徴兵には、庶民よりも武士から一斉に反発が上がったが、武士にはさらなる衝撃的な方針も示されていた。それは、有益な人材を血統や家柄ではなく個人の能力を判断して登用し、役職応じた禄(給与)を与えるという方針だった。
 自分たちの権利の殆どが否定されるような事態に、多くの武士達が反発した。だが、「じゃあお前達は、この激動の時代に日本を引っ張り、そして巨大な軍備を持つ列強の兵と戦えるのか? 具体的にどうするのだ?」と言われると、表面上以外で反発・反論できる者はごく少数派だった。そして国内の小数派の殆どが改革を望む者達で、むしろ新しい制度が早く取り入れられることを望んでいた。また改革派の後ろには、近代化によるさらなる資本主義社会出現を望む武士以外の富裕層、中間層がいた。別に革命を求めるわけではないが、よりよい社会、暮らしやすい社会、富を求めても正当に評価される社会が来ることを拒むほど保守的な人々は小数派だった。日本人の共同体である江戸幕府、つまり日本という国家が強固になる事を拒む人も基本的には少数派だった。このため改革を主導する人々は、日本の権力者による庇護の元で、豊富な資金力によって活動を行う事ができた。
 一方で、別に武士の特権そのものを奪うわけでもないし、もともと国(幕府)から補償された高い所得があり、その所得により高度な教育を受けているのだから、少なくとも新たな官僚になるには武士が圧倒的に優位だろうという説得、ロビー活動が各所で行われた。大名達には、議員という国政に参加できる役職が自動的に与えられるので、その点で取りあえずは満足していた。

 これらの改革は、最初は徳川慶喜の事実上の親政によって断行されたが、徐々に大名合議が取り入れられ、改革そのものの速度も増していった。
 武士達は武士達で、町人、農民達もそれぞれのサロンや茶店、井戸端会議で激論を交わすようになり、武士の間では改革派と保守派の間で斬り合いに発展する事も珍しくなかった。そうした中心となったのは初期に置いてはほとんどの住人が読み書きできる江戸、京、大坂の三大都市だったが、数年もすると日本列島を越えて海外へと飛び火、開拓の最前線である新日本にまで飛び火するようになっていた。また、改革に向けた混乱の中で、単に改革派、保守派だけでなく、尊皇派、革命派など様々な派閥が形成されていった。
 多くの人々が、時代に則した変化を望んでいた何よりの証だった。


フェイズ17「ガバメント・リフォーム2」