■フェイズ17「ガバメント・リフォーム2」

 国の改革に向け議論された中で問題となったのは、改革の先に求められるであろう国家の主権者だった。近代憲法を設ける以上不可欠であり、これまでのような日本的曖昧さでは諸外国に通じなくなっていた。
 現状では、将軍が「日本王」だと諸外国から認識されていたし、江戸幕府が開かれて以後の外交、親書でもそう翻訳されていた。天皇家や朝廷については、日本王の権威を付ける幕府の付属機関と思われていた。天皇家が、そもそも日本古来の宗教の祭祀を司る人々の末裔であるためでもある。また将軍の正式名称である「征夷大将軍」という称号は、国防という国家の基本を担う職名であり、国家の最高司令官こそが国家元首であるのはむしろ当然と受け止められていた。この程度は、ブリテンなど国際外交を重要視する国からも研究されており、日本でも主に武士階級の人々にとって共通認識に等しかった。国防の担い手が公方様(=将軍)だという考え方は、武士以外の日本人の間にも広く浸透していた。
 しかし、武士以外の兵士や官僚を中央政府が登用するとなると、「将軍に仕えるのは武士」という日本人の固定観念を何とかする必要があった。いちいち全員を武士に召し抱える形式を取っていては、埒があかなかったからだ。

 ここで出てきたのが、俄に勢力を拡大した「尊皇派」が打ち出した、武家の時代が来る以前の兵制だった。将軍に仕えるのではなく、国家に仕える形を作ろうというのだ。とはいえこの場合、「国家」という概念が問題となる。そこに尊皇派が付け入る余地があった。
 当時の一般的な日本人にとっての「国」とは、出身地の各地方の事を指す。日本の外に出ても、蝦夷、台湾、新日本の加州(新大陸)などと自らの「お国」を示す。近代的な「国家」という概念そのものが、日本人の間に存在しないのだ。これを短期間で明確に示すには、恐らく日本では一つしかないと尊皇派は言った。そして「天子様」つまり天皇を担ぎ上げるより他無しという論法を取ったのだ。
 しかし、日本人にとっての天皇は、政治的に存在が大きすぎた。
 天皇の下に兵士と官僚を置けば、日本人の考え方としては将軍との二重権威になってしまうからだ。しかも将軍の方が天皇より権威が下なのだから、江戸幕府を中心とした国家統制上で非常に問題だった。
 これは日本中で議論を呼んだが、この時点では無視できないまでも主流とはならなかった。天皇家と朝廷は、確かに権威面では高いし日本人の多くが認識しやすい存在だった。だが少なくとも現状では、中央政府としての役割を果たしている江戸幕府そのものの受け皿となるだけの権力と行政組織を持たないからだ。そして、改革は望んでも破壊を伴う可能性が高い革命に否定的な者が大多数だった。
 結局、行きすぎた改革の話しそのものがやぶ蛇になってしまったが、改革を目指す人々は歩みを止めるつもりはなかった。日本を取り巻く状況からを考えれば、改革そのものは進めるより他無い事は多くの者が理解していたからだ。

 しかし、既得権益を持つ保守的武士階層の反発のため、初期の改革は難航した。このため徳川慶喜ら改革派は、「綱紀粛正」を旗印にして賄賂、汚職、腐敗など罪を犯した者を特に酷い者を中心に厳しい処罰を実行する。その一方で、職務に応じた禄(給与)の増加によって任務への精励を命じた。さらに実力を持つ武士の抜擢人事を大幅に断行し、改革を実行していった。この結果多くの保守派は自らの恥を覆い隠す行動に汲々として、さらなる墓穴を掘る事が多かった。進退窮まった一部の者は、事実上のサボタージュやストライキを図った。
 これに対して改革派は、昇進と言う形で日本以外への転属という懲罰を与えたり、場合によってはお取りつぶしやお家断絶などより厳しい処罰を実行した。既に一度膿が吹き出した以上、ある程度ふき出させておかないと先に進めなくなっていたからだ。当然反発も強まったが、改革を行っているのが将軍という点で保守派の武士達は結局折れるしかなかった。一方で反発は依然として強いので、改革派も急進的な行動についてはある程度改革の速度を緩めざるを得なかった。
 このため日本人的妥協の中で、改革は中途半端なものに終わる。全てをドラスティックに進めるには、革命で幕府(=現政権)を倒す以外にないが、それはこの時点ではごくごく一部の急進派以外誰も望んでいなかった。
 経済と産業の発展と躍進が好調だという事が、多くの人にドラスティックな改革までは不要と考えさせていたとも言えるだろう。

 結局短期的に実現した改革は、国号を「大日本国」に正式決定すること、大名議政局、陸軍の設置、志願制での武士以外の兵士の採用と衆兵組織の編成、陸軍設置に伴う奉行組織の専門化と改変、給与による武士階級以外の軍、幕府への雇用と任官試験、制度の整備、などであった。
 結局、衆議政局、選挙、司法制度の整備、三権分立については、「今後議論と研究を重ね順次取り入れていく」というところで妥協しなければならなかった。逆に近代憲法については、主権者の事はともかく作っても構わない、むしろ作るべきだろうという意見が多かった。
 また税制については、大きく変化することを諸大名も了承していた。
 軍事予算、社会資本整備、近代的国家制度の整備などに莫大な資金が必要だという事は、誰もが既に思い知っていた何よりの証拠だった。改革が進んだ背景の一つにも、お金と言う問題が横たわっていた。またお金という問題において、諸大名、藩に大きなメリットが一つあった、自分たちが今までため込んだ借金を「国」という枠組みに放り投げる事ができる可能性があった。さらに「国」という新たな枠組みに、厄介事、借金、金食い虫、さらには家臣達すら押しつけてしまえると言う点も魅力的だった。
 そうした中で将軍のあり方についても議論されていたのだが、徳川慶喜の考えは決まっていた。このため国号を定めると、自らを啓蒙君主として位置づけた。この裏には、万が一革命が起きても、自身が「朝敵」つまり天皇に敵対せずにしておくという意図があったとも言われている。
 それはともかく、政治の実権は今後常設となる大老が諸外国における宰相となって指導し、将軍は国の象徴となり軍の統帥を行う役割を担うことを重視するとされた。

 幕府自体も立法を大名の議政局が取り仕切り、行政を大老の下に一元化して、「財務」、「内務」、「外務」、「兵部」、「刑部」、「産務」、「文部」、「外部」、「宗部」、「宮部」などそれぞれの老中を長として常設の行政組織としての奉行を専門に設置又は改変された。この中での例外は将軍家で、当面従来のままとされていた。
 なおそれぞれの奉行所の役割は、勘定奉行が財務奉行と改名して財務を扱うが、これまでよりもより大きな権限を与ることになった。内務は国内行政全般で、これまでの天領、直轄地での行政以外にも、警察組織全般、諸藩に対する統制や指導も受け持っていた。さらに初期の頃の幕府組織の多くが、内務奉行に属していた。
 外務奉行は外務全般を、兵部奉行は水軍、陸軍を下部組織に置いて軍事全般を、刑部奉行は司法をを担う。これらの部署は、以前の組織の近代化と改変の場合がほとんどで、初期の頃は旧来の組織と大きな違いが見られなかった。
 産務は産業全般を担うがほぼ新組織といえ、産業革命をさらに進める上で非常重要視されていた。また新規技術を扱う為、武士以外の専門家が属する事が多かった。
 文部は国としての学問を統制する事になり、寺子屋を順次国の義務教育制度に据えて、高等学府の設立や改変など大きな改革と組織運営を担うことになっていた。こちらも新時代の建設には、国民全般の基礎教育が重要だと考えられたため、組織自体もかなり力を入れたものが目指されていた。
 外部奉行は、日本列島外の日本勢力圏の維持管理を担い、宗部奉行はこれまでの寺社奉行、宗門改めなど宗教全般を、宮部奉行は幕府での高家、京都所司代などの役割を引き継いだ。こちらも旧来の組織からの発展もしくは改変であり、多くの事は新しい袋にワインを詰め替える作業に近いと言えるだろう。

 一方で海外植民地も再編成が行われ、まずは蝦夷が正式に日本本国に含まれることになった。
 樺太、台湾、フィリピン、スンダ(ブルネイ、スマトラ)、南洋、この頃進出が本格化していたパプアには、それぞれ奉行所(=総督府)の再設置が行われた。これらの地域での変化は、純粋に統治に関する権限に限られたことで、軍事、商業に関することはそれぞれ日本本土の奉行所が管轄するようになる。これは、上記した地域が狭いか、人口が少ないか、日本本土から近いかなどの理由があった。
 そして、海外領のうちで最も変化があったのが、面積的に日本領で最大規模を持つユーラシア大陸北東領域の「北氷州」と北アメリカ大陸西部全域に広がる「新日本」だった。
 北氷州は、今まで樺太島にあった奉行所を新たに得たばかりの外満州(沿海州)の港湾都市の浦塩に移し、本格的な開拓を行うべく内政の権限に関しては大きく強化された。ただしロシア、清朝と陸で向き合う場所なので幕府の影響が強い地域とされ、軍事に関する面では屯田兵などを用いている事もあるので、治安維持レベルの軍事は以前通りに委ねられることになった。
 一方で新日本では、距離的に遠い事と人口の大幅な拡大もあって地方自治についての権限拡大が認められ、外交、徴税、軍事以外の多くが新日本奉行に完全に委ねられた。徴税についても中央予算が幕府側に残されただけで、奉行所が使う地方予算分は現地に委ねられた。世界的に見れば、自治国に近いと言えるだろう。
 新日本の奉行所組織も大幅に拡大して、ミニ幕府のような組織に改編された。治安維持レベルの軍事も、そのまま残されることになった。
 これほど幕府が一つの地方に対して妥協したのは、アメリカの存在が影響していた。
 アメリカはかつてブリテンから独立していた。そして年々国力を増大させつつあった。だが一方では、アメリカの脅威が新日本からの独立を抑止する最大の要因となっていた。アメリカが、有色人種勢力を飲み込む気配を濃厚に見せていたからだ。

 こうして行政組織を大幅に改変したが、運営が順調だったわけではない。大名議政局は基本的に従来の大名による議会だったが、大名、権力者だからと言っても賢者とは限らない者の方が多く、憲法制定に進んだり改革を進める組織とは言い難かった。従来からの特権階級だけに保守的な考え、思考が停止している者が多く、特に初期はこれまでの方が良かったという幕臣も多く出たほどだった。
 しかも幕府が運営を疎かにすると、ただの利権の取り合いと、責任のなすりつけ合いの場になりかねなかったからだ。それ以前の問題として、議会以外での日本伝統の「根回し」などで話しを決めてしまう事も多かった。
 しかし大名議員の中には賢者もいたし、そうでなくても聡い者は自らの家臣や有識者を集めたシンクタンクを組織して賢者に対向した。また改革が将軍の意志であるため、議会が完全に停止するという事はなかった。
 衆議政局、民主選挙はなかなか前進しなかったが、憲法、司法の整備については大きく前進した事になる。

 一方国防だが、幕府水軍は大きな変化がなかった。
 今まで通り「公方様の水軍」として、そのまま存在していたと言ってもよかった。また諸外国の例に則り、今まで乗り込み戦闘が主体だった海兵隊的役割を持つ格闘戦組織が改編された。名称も海兵隊とされ、軍艦内及び水軍施設では警備活動を行い、海外領警備のための特別編成の重武装部隊が新たに編成された。
 また、水軍の主力となる軍艦が当時は帆船から蒸気船、さらに木造船から鋼鉄船へと激しく技術発展する時期に属していたため、艦艇の更新に平行した教育組織の整備に力が入れられた。
 このため当初江戸郊外の越中島にあった水軍教練所は、江戸湾口に近い横須賀と芸州(安芸)の柱島に規模を格段に大きくした学校を作ることになった。この最終的に呉に統合され、横須賀は実戦のための司令部が置かれ、柱島の方が海軍兵学校となっちていく。
 さらに実戦部隊の配備先として、横須賀、呉、長崎(後に佐世保)、舞鶴、大湊などが改めて整備され、鎮守府が設置された。
 海外でも新日本の加州の玄関口となる高坂にも鎮守府と同程度の組織が置かれ、大型艦艇が常駐した。
 海軍全体の組織規模自体はブリテンにこそ遠く及ばないが、フランスなど西ヨーロッパの大国に匹敵する艦隊整備が行われていた。これは幕府が海軍を重視している証拠であり、海洋国家にして植民地を多数有する国なら当然の選択だった。

 一方、「陸軍」という新たな枠組みが設定された陸上戦闘集団だが、初期においては非常に雑多な集団となった。
 仕える者のいる幕臣、武士達の殆どは旧態依然としていたし、浪人、海外に出た人々からなる傭兵衆は国軍となって喜ぶ者もいれば、傭兵家業がよいという者もいた。新たに志願制での兵の募集には多くの武士以外の者達が応じたが、彼らの考え方は雑多だった。武士になりたい者、一旗あげたい者、単に公方様(将軍)に仕えたいという者が多く、「国家」という新たな概念を守るという意志には欠けていた。
 このためまずは近代的な軍を率いる者を養成する学校が、それぞれの階層、階級に合わせて設立された。しかし学識が要求される将校教育は、長らく過半数が武士により占められた。
 また武士側の猛烈な反対により、武士と衆兵は部隊ごとに分けられ、長らく陸軍内で対立する事になる。こうした対立は、各奉行でも武士以外が任官試験を経て入ってくると日常的に見られるようになり、武官と文官の対立のような構図が各地に出現した。
 しかし諸外国に対向できるだけの近代的組織と装備を持つ軍隊が必要だという共通認識は強かったため、とにかく組織を作り装備を調え訓練を行うという行動は、実に日本人的な生真面目さの中で進んでいった。武士と衆兵も、組織内での競争という図式ではある程度有効ですらあった。
 幕府直轄都市の函館、江戸、駿府、大坂、長崎に「鎮台(コマンド・フォートレス)」と呼ばれる基幹組織(=司令部)が作られ、その後各地で「師団(デヴィジョン)」と呼ばれる軍事単位が作られた。鎮台は英語でギャリソン(駐屯地)やフォートレス(要塞)と訳される事もあるように防衛的で、逆に師団は攻撃的な軍事組織だった。海洋国家である日本が、鎮台ではなく師団を持つのは自然な事だった。鎮台は、器官組織を作り人を一カ所に集めるために作られた、一時的な組織でしかなかった。
 各師団は、2つの旅団(ブリゲート)、旅団は各2個の連隊(レジメント)が組み込まれ、連隊は主に4個の大隊(バタリオン)を有し、1000名程度の兵士で編成される大隊が部隊の基本とされた。また鎮台には、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵も編成され、旧来の同種の組織が吸収再編され、師団に編入されていった。
 つまり、最初の師団は5個編成された事になる。
 また日本列島以外でも、新日本の首府でもある加州の櫻芽、加州南部の聖天、霧森の林蔵には防衛的組織としての鎮台が設けられた。こちらは日本列島内とは違って、開拓民の屯田兵によって組織の構築と部隊編成が行われた。その後師団への改変も実施されたが、編成は変則的で広い地域を防衛するため騎兵が非常に多かった。また有事の際以外は兵力は少ないが、逆に有事の際には多数の屯田兵が所属することになっていた。
 新日本と似たような事は北氷州でも行われ、奉行所のある浦塩と、内陸部の夜久斗に鎮台司令部が開設された。ただし北氷州の組織は、あまりにも広い地域と厳しい気象条件のため、編成はかなり変則的で騎兵が非常に多かった。
 そして地方(植民地)では、武士とそれ以外という垣根が低かったため、日本本土よりも近代的で合理的な兵制を整備する事が出来た。

 多くがヨーロッパの優れた軍制を導入したもので、軍事面で後進国の日本はそれを模倣するしかなかった。装備についても、可能な限り自力での生産が心がけられたが、最新装備については装備や技術を輸入もしくは導入する事が多く、外国人顧問が雇われる事もあった。
 一方水軍は、陸軍に比べて比較的混乱が少なかった。だがそれは、水軍が幕府の中で一から建設された組織であり、建軍以来常に兵員(水夫、水兵)不足に頭を悩まされていたので、いかなる時代においても船員を身分などで選り好みしている場合ではなかったからだった。それでも陸軍の制度と同時に専門教育機関が新たにされると、相応に武士とそれ以外の対立は見られるようになった。
 ただし海外に派遣される事の多い軍隊は、日本人以外と対面する事が多いため、「日本人」として結束する傾向が強かった。特に海外に赴く事が多い水夫、海外の食い詰め者などを多く抱える水軍ではその傾向が強く、彼らが「日本人」というこれまであまり重視されなかった民族意識を率先して実践する集団となっていった。

 なお大幅な改革の効果は、今日においても一定以上にあったと考えられている。改革の程度は、帝政ロシアやオスマン朝以上ドイツ帝国以下という状態だったが、1860年代というヨーロッパ世界が激変した頃に曲がりなりにも再編成が行われたことは、歴史的にも高く評価されている。
 ちなみにこの時の改革で、武士階級に最も効果的に改革を分からせた決定が二つあった。「髪型の自由化」と「切腹、殉死の禁止」だ。髪型は慶喜自らが率先したため武士達も従わざるを得ず、切腹、殉死の禁止については表面上の反発はともかく、多くの者のは内心ホッとしたと言われる。


フェイズ18「インディアン・ウォーズ」