■フェイズ18「インディアン・ウォーズ」

 1869年、「スエズ運河」が開通した。1871年には、それぞれドイツ、イタリアの統一と再編成が完了した。その翌年には、フランスで皇帝がいなくなって第三共和制が始まった。そしてヨーロピアン世界が、国民国家による競争という次なる段階へと移行していく事になる。
 しかしこの時点で日本が最も注意すべき国は、再統一を成し遂げ戦後復興、中部開発、移民拡大により国力を爆発的に伸ばしているアメリカ合衆国だった。
 ロシアと境界を接する北氷州も注意すべきだったが、日本の有する場所が不毛な土地が多い事と、ロシアがこの頃は黒海、バルカン半島、中央アジアに膨張の方向を向けていたため、北氷州の危険度は比較的低かった。しかも日本の方が地の利があるため開発が先に進んでおり、密度の高さでも優越していた。北氷州の向こう側では、ロシアの方がむしろ日本を警戒していた。

 この頃日本でも、江戸幕府の大規模な政治改革が進んでいたし、日本最大の植民地へと躍進している北米大陸の新日本も繁栄していた。しかしアメリカ合衆国が、日本が有する新日本に極めて強い欲望の目を向けていた。また1871年にカナダ・ドミニオン(自治領)を成立させたブリテンも、アメリカとは少し違う視点から新日本に熱い視線を注いでいた。そしてアメリカとブリテンこそが、この当時もっとも高い工業力を有する国であり、同時に膨張傾向を持つ国だった。似たような姿勢の国にドイツがあったが、この頃は有能な宰相が国内発展と善隣外交を優先した事もあってまだヨーロッパ内に止まっていたので、日本にとって最も注意すべきはアメリカとブリテンだった。
 またブリテンは、スエズ運河の開通によってますますアジア進出を強めていた。インド全土がブリテンの支配下となりインド帝国が成立したのは、1877年の事だった。
 このため日本はスマトラ島の北半分、アチェと呼ばれるイスラム系民族のいる地域をブリテンに有償売却という形で権利譲渡する事になる。これによりブリテンはマラッカ海峡を完全に自らの勢力圏として、その矛先をある程度の力を持つ日本ではなく清朝に向けていた。ブリテンとしては、インドを飲み込んだのでアジアでの次は獲物はチャイナであり、日本はチャイナの次の獲物だった。またブリテンより国力の低いフランスはインドシナに注目しており、ブリテンとの競争で劣勢なフランスは日本にはむしろ好意的だった。ナポレオン三世の治世中はもちろん、その後もフランスの親日姿勢が続いた。
 つまりこの頃の東アジアでの日本は、満腹の猛獣たちに見逃された草食動物だったと言えるだろう。しかも当時の日本は、草食動物の中でも力の強いカバやサイのように見られていたので、油断しない限りそれなりに安全だった。
 しかし北アメリカ大陸では、腹を空かせた灰色熊のような猛獣が起きあがりつつあった。言うまでもないが、アメリカ合衆国だ。

 再統合後のアメリカ合衆国は、巨大な産業国家として急速に拡大していた。ヨーロッパからの膨大な移民を飲み込み、旧南部領域の戦災復興を行い、ミシシッピ川西部の開拓を進めて農地を増やし、東部や五大湖で近代産業を発展させ、爆発的な人口拡大も続けていた。
 しかし大平原の向こう側、太平洋に至るまでには広大な土地に広がる新日本が横たわっていた。しかも新日本は北部では五大湖近くにまで領域を広げており、その上北部ではブリテンと境界を接していた。
 しかも1871年、アメリカにとって由々しき事態が発生する。
 太平洋岸最北部の港湾都市の幕場(ばくば)を起点として伸びていた新日本の東西鉄道が、大西洋に注ぐセントローレンス川にあるモントリオールを起点として西に進むカナダ鉄道と連結したのだ。
 1865年に結ばれた「日英北米鉄道協定」による成果であり、史上初めての北アメリカ大陸横断鉄道の完成だった。幕場と駆狩(かるがり)間の大雪山脈での工事は難工事の連続だったが、ブリテンの高い技術力と日本の豊富な労働力により乗り越えられ、無事開通を迎えた。
 協定は完全に対等な条約で、境界を挟んで鉄道会社も国ごとに別とされていた。そして境界線となったウィニペグで管理も分割されているものだったが、両者の鉄道はそのまま対岸にまで進む事が許されており、税関も可能な限り簡略化されていた。互いに相互の移民を警戒したため安易な移民はほぼ禁止されていたが、それまで世界でも有数の辺境と考えられていた場所だったのに、商業面では大西洋と太平洋が最も狭くなった場所に一転した。緯度の高い場所を結んでいるので、その後の海路での優位性も強かった。
 このため欧州から新大陸に至る船の中にも、以前よりもアメリカではなくカナダに向かう船が増えた。カナダの内陸部(五大湖北岸)では気候的に穀物栽培どころか酪農すら難しかったが、鉄道のお陰で鉱業と林業は盛んになった。既に開発済みの場所でも、鉄道開通によって大きな経済波及効果が見られた。必然的に、カナダに向かう移民の数も増えた。何より、北太平洋に短時間で出ることが出来るという利点は極めて大きかった。鉄道を越えたすぐ向こうに、新日本の太平洋沿岸という消費地が広がっていることも、こうした流れを助長した。無論だが、平行して電路(電信)も敷設されていた。ブリテンの得た利益は計り知れなかった。
 しかも、鉄道が敷設された新日本側の北部大平原では、ブリテンから全面的に技術と経験、そして文明の利器である機械力を導入した小麦栽培の大規模農業に向けた開発が進められ、続々と日本などアジア移民が住み始めていた。
 農地開拓の資本はブリテン、日本双方の投資会社が資金を集めて出資したもので、そこから低利で金を借りた開拓民が続々と流れていた。この頃既に加州、霧森の双方で簡単に切り開ける開拓地が減少していたため、当時年間10万人以上流れ込んでいた日本人を中心とするアジア系開拓民は、借りたお金、道具を元手に広大な農地を切り開いていった。東からは、数は少ないながら白人移民も新日本領内に入っていた。そしてブリテンは、日本人など東アジア系開拓民が作った安価な小麦を買い取って鉄道と船で大西洋からブリテンへと運び、自国への安定した食糧供給の一助とした。あまりの順調な発展と経済効果のため、オーストラリアの移民と開発が停滞したほどだった。
 そして鉄道敷設そのものお影響で、工業製品の供給地となった日本本土、ブリテン本土は好景気に沸き、カナダや加州では膨大な量のレールや車両製造のため製鉄業、鉄工業を中心に重工業が大きく躍進していた。

 日本、ブリテンの行動は、アメリカにとって極めて重大な脅威だった。アメリカが勝手に掲げるモンロー主義からも、大きく逸脱していた。
 アメリカも出来るなら、日本と対等の条件を結んででも大陸横断鉄道を開設したかった。南北戦争の頃には、大陸横断鉄道会社すら立ち上げていた。この頃には東部から内陸部に伸びた鉄道も、ミシシッピ川を越えて西の大草原(プレーリー)まで進みつつあった。ホームステッド法もあり、工業化によって開拓出来る土地となった大平原(グレートプレーンズ)での農地開拓も順調だった。ヨーロッパからの移民も数え切れないほど増えていた。
 しかし大陸横断鉄道の話しは、ほとんど進まなかった。
 日本とアメリカとの間には、アメリカ側の人種差別を原因とする拭いがたい不信感が横たわっていたからだ。
 アメリカは国家としては奴隷解放を宣言するにはしたが、民意での人種差別は一向に止めなかった。むしろ法的に黒人が奴隷でなくなった事から、実質的な差別は強まっていた。奴隷は「もの」だが「人」として扱わなくてはならなったため、嫌悪感など感情面ではむしろ差別が先鋭化したためだ。
 また、自分たち白人の開拓地を確保するために原住民(インディアン)の駆逐を一層強化しており、アメリカへと入った日本人、中華系の移民も酷い差別を受けていた。アメリカでの白人による差別は、有色人種全体に及んでいた。アングロ系、ドイツ系移民に至っては、他の白人移民すら馬鹿にしているのに、有色人種を自分たちと対等に扱う筈もなかった。しかも有色人種がキリスト教以外の宗教を信奉しているとなると、差別の度合いはいっそう強まった。
 この点ブリテンは、経験が多い上にしたたかだった。加えてカナダには原住民が少なかったため、日本側の警戒感が比較的緩く関係を結ぶに至っていた。しかしアメリカは、開拓民らしく自分たちの利益だけは強く求めるくせに、不平等と差別を止めようとはしなかった。日本側が大陸横断鉄道に関しての協議で自国民保護のために人種差別について意見すると、内政干渉だと突っぱねられることが常だった。そのくせ、逆に新日本での自分たちの権利を言い立てた。これでは交渉が成立する余地が存在しないのは当然だろう。
 しかもアメリカ人の一部は、日本人と新日本の存在そのものを疎み、ひどい者は憎んですらいた。彼らの強硬な論法によれば、新大陸は全て自分たち「神に選ばれた白人」のものであり、新天地である西部、太平洋岸にはびこる有色人種が力を持って統治を行っているなど、あってはならないことだった。
 無論そのような偏狭な考えの人々だけではないし、当時としてはリベラルな人物もいた。問題を棚上げして実利だけ持ちかけてくるアメリカ人の方が多数派ではあったが、日本との交渉は進まなかった。

 やはり、両者の最大の問題は、特に白人の側に強く存在する白人優越主義と人種差別だった。
 アメリカ南北戦争以後、アメリカで虐げられた原住民、黒人が新日本に逃れるように流れてきており、その流れは増える一方だった。日本人も決して東からの「よそ者」の移民、流民に寛容なわけではなかったし差別すらしたが、東から逃れてきた人々にすれば、法での差別や武器を用いた隔離をしたりしないだけ新日本は楽園だった。また本土の日本人よりも、新日本の日本人開拓民の方が寛容で鷹揚な場合が多く、また異民族同士の婚姻もそれほど拒まなかった。この頃の新日本の日本人の2割程度は、原住民との混血だった。数は少ないが、白人も新日本領内には一定数が特に不自由なく住んでいた。
 そして日本人達としては、対等とはいかないまでも同化政策すら否定して駆逐、いわゆる「民族浄化」という民族の根絶がアメリカの一般的な行動とあっては、有色人種側の国家としては対立と拒絶を選ぶより他無かったと言うべきだろう。相互の移民を認めて融和を図るという手もあるが、テキサス共和国の前例があるので、それも選択できなかった。
 しかも単純な域内人口差は、1870年頃で約8〜10倍も存在した。日本本国からのパワープロジェクション(力の投射)がなければ、既に蹂躙されていてもおかしくないと考えるのが一般的ですらあった。このため多少の不便を忍んでも、新日本の人々は最短で8000キロも彼方にある江戸幕府に属し続けていた。

 なお、日本人開拓民と原住民(赤人=インディアン)の関係が白人よりもマシで同化政策を取っていたとは言っても、必ずしも良好だったわけではない。新大陸では日本人も新参者であり、基本的に北アメリカ西部に住む原住民の数が少なかったから問題もその分少なかったのだ。それに歴史に埋もれている悲劇は、いくらでも存在していた筈である。実際、南部山岳地帯に住む山岳略奪民のアパッチ族とは、かなりの期間抗争を行っている。アパッチ族は昔から他部族を襲って生活を立てていたので、日本人開拓民も分け隔てしなかっただけだが、19世紀中頃には日本の開拓民や幕府兵と激しく戦い、そして敗れた末に恭順するに至っている。ジェロニモ達は生活のために戦ったのであり、別に日本からの独立の為に戦ったわけではなかった。また、ショーショーニー族やネ・ペルス族のように異民族(=日本人)との協調と融和を維持し続けたような部族が比較的多かった事も、日本人による統治を比較的安定させていた。
 1870年頃、新日本領内に住む原住民の数は、未確認を含めて20万人程度だったと考えられている。
 一方で、大雪山脈の東側に広がる大平原に住むスー族などの部族は、旧大陸からの移民が来る以前から他の部族への戦いで勢力を拡大していただけにかなり好戦的だった。そして他の部族に対しても攻撃的であったのと同様に、白人、アメリカに対しても何度も戦いを挑んだ。山脈や北の平原に住む日本人に対しては、変わった髪型をした武器や道具、食糧の売人という程度の認識しかなく、日本側が提示した協力関係はほとんど成立しなかった。しかし新日本領での原住民の交易は、アメリカにとっては大きな不利益だった。このためアメリカ政府は、越境して文物を求めるインディアンと売買を行わないよう、たびたび要請を出していた。またアメリカでのインディアンとの戦争が激化し、そしてインディアンが不利になると新日本領に逃げ込むようになると、これに対しても文句を付けた。罪人を寄こせ、と。
 加えて言えば、アメリカ人に意図的に大虐殺されていたバッファローが、平原を越え危険の少ない新日本領の山岳地帯に逃れたことも、アメリカにとっては不利益だった。インディアンの食糧源が絶てないし、自分たちが毛皮を得ることも出来なくなるからだ。ここでは一部の騎兵隊が越境したり、アメリカ人カウボーイなどが新日本領内に入り込む問題を何度も起こしていた。先祖のヨーロピアンと違い、彼らには国境の概念が非常に乏しかった。
 しかし、大雪山脈の最も東側の分水嶺を境界線としている国境線は、まだ問題も少なかった。主な峠道を両者がしっかり管理しておけば良いからだ。
 問題はむしろ北部国境地帯の方が深刻だった。

 アメリカのダコタ地域の北緯49度の境界線は、明確な地形による線引きが難しかった。新日本とは、人間の都合により北緯49度で機械的に線引きしているだけだったからだ。そこは自然障害もなく、ほとんどが平原でつながっていた。
 このため両者は緯度経度を計算しながら境界線となる場所に詰め所や砦、標識を設置したが、両者の移民によるトラブルは絶えなかった。また、インディアン達は好き勝手に行き来していたし、アメリカ側の多くがまだ白人が入らずインディアンのテリトリーとなっていた。
 しかしこの地域では、日本人の方が先に開墾を始めより多くの人口を有している点が、アメリカにとって大きな問題だった。しかもそこには、1871年から当時唯一の大陸横断鉄道が通っていた。開発の速度も、鉄道が通っているので新日本の方が圧倒的に早かった。移民についても東洋人ばかりでなく、ブリテンが導いた形のアングロ系以外の白人移民が許可を得て入り始めていた。
 そして大陸横断鉄道の存在は、その気になれば太平洋、大西洋双方からそれぞれの国の軍隊が大陸奥地に入ってこられる事を意味していた。つまり、物理的にモンロー主義が全く通じない場所だった。
 またすぐ東にブリテン領のカナダ自治領(カナダ・ドミニオン)が広がっている事も、外交面で問題を難しくしていた。アメリカとしても、北中部のような辺境では、まだ問題を起こしたくはなかった。性根を据えた全面戦争ならともかく、小競り合いだと面倒が多すぎたからだ。無論、全面戦争になれば勝てる可能性の方が高いが、ブリテンとの大西洋での戦争や新日本の開拓民が行うであろう民族存亡を賭けたような戦争は、国に与える傷の方が大きいと考えられていた。
 一方の新日本側も、北部平原での小さないざこざに困っていた。このため江戸幕府はブリテンに仲介を頼む形で、領土の売買、交換によって国境線を自然障害に従って設定できないか話し合いを持つことにした。これにはアメリカも乗り気で、何度も折衝を重ねることで妥協点が図られる事になった。日本側は、今後の安定のためとして、買収のために莫大な量の黄金を積み上げる事すら関係各国に打診していた程だ。
 しかし、主にアメリカが勝手に自らの優位な事ばかりを言い立てるため、最初は乗り気だった日本人は嫌気がさしてしまい、ブリテンなどは最初に交渉をうち切ってしまう。
 結局結論は出ず、取りあえず両者の国境線を再度確認して管理を厳しくする以外では、厳しい移民に関する取り決めと、アメリカ、新日本間の大陸横断鉄道敷設についての協議委員会を設置する以上の前進は見られなかった。
 しかしここでアメリカ領内のインディアンについて、日本側は移民として逃れてくる者とアメリカ側が移民を認める以外は相手にしないことも確認された。
 結局、安定のために国境変更を求めた会議は、アメリカのどん欲さを日本人に再認識させるだけの会議となり、日本人達はせっせと国境線に冊を作る事すら始めてしまう。大雪山脈の国境線沿いの関所も増強され、それまで無かった小さな道にすら関所を設け、巡回する兵士の数を増やした。
 この時点でアメリカも自らの作戦失敗を悟り、日本に対して融和外交を展開。とにかく、大陸横断鉄道に関する話し合いだけでも進めようする。
 だが日本側の不審の目はぬぐい去られることはなく、アメリカ側が苛立ちを募らせる状態が続いた。1883年には大雪山脈ふもとのララミーにまで自らの鉄道を敷設して、日本との連結を求めるまでに至る。
 この頃になると日本側も、日本領内の主要な鉄道敷設が完了していた事と、自らの新日本防衛の観点からもむしろ鉄道の敷設を考えるようになり、1884年から日米双方の交渉が現実レベルで本格化した。
 そして日米間の交渉が重ねられ、両者若干の妥協をした後に交渉が成立。工事はすぐにも開始され、1888年に櫻芽=シカゴ間にようやく日米合弁の大陸横断鉄道が開通し、その3年前の1891年にアメリカは「フロンティアの消滅」を宣言するに至る。

 なお、この前後に新日本に流れてきたインディアンの数は、アメリカ側が放り出した形のものを含めると10万人を越えた。新日本に移民した黒人の数は、その数倍にも及んだ。日本との間に対等な関係での大陸横断鉄道が通ろうとも、それがアメリカの現実だった。


フェイズ19「ビバ! インペリアリズム!」