■フェイズ21「マンチュリア・ウォー」

 1894年の日清戦争の結果、清朝は「東洋の眠れる獅子」と思われたのが「張り子の虎」と分かり、ヨーロッパ列強の獲物へとなり下がった。一方の日本は、諸外国の予測通り高い軍事力を有していることが確認された。「北太平洋の鯱」というのが、清朝と並べる際に日本に対して使われた例えだった。

 しかし日本の陸軍は思いの外苦戦したことが知られ、陸ではそれほど強くないのではという評価が出来た。だから海の生物に例えられたのだ。また清朝と戦争するのは一向に構わないが、少しばかり賠償を取りすぎているという評価もあった。自分たちがこれから得られる物が減ってしまうからだ。
 特にロシアが受けた日本に対する衝撃は大きく、ロシアは中華利権を得たいフランス、ドイツを誘って、日本に対して「清朝の満州族父祖の地である満州の利権を返還し、還付金で手を打つべきだ」という勧告を行う。
 これには清朝も心を強くして一方的に隠したと見下している日本との和平交渉を延長し、日本に独立させてもらった朝鮮王国までが日本に対して否定的な態度を取り始めた。
 これに日本は激怒。さらに帝国主義世界の中にあってここで弱腰を見せるわけにもいかない日本は、ロシア側に勧告拒否を通え戦争で得た正当な権利だと主張して、話しを外交で解決しようとする。
 日本の返答に対してロシアは、この頃ほぼ鉄道が開通していたバイカル湖西岸地域への兵力を増強しつつ、日本への再度の勧告を実施した。この勧告は一歩踏み込んだだけに、遠回しの表現ながら戦争する可能性もあるという脅し文句も含まれていた。しかも、ロシア、ドイツ、フランスが文書に署名しているので、場合によっては三国が日本に宣戦布告する可能性を示唆するものだった。帝国主義の時代の恫喝外交としても、かなり強い態度と言えるだろう。もっともロシアとしては、自分がしてやられたクリミア戦争の手法をまねたようなものだった。
 しかもこの頃既に日本との境界線のシベリアには、コサック騎兵を中心に5000名程度の部隊が北氷州の日本軍と対峙していた。また両国の国境となっているアムール川中流域でも、すでに師団級の戦力が睨み合っていた。満州の入り口近く(ザバイカル)にも旅団級の戦力の戦力が配備され、すぐにも満州に入る準備をしていた。またロシアは、策源地となるバイカル湖西岸には合わせて5万の兵力があり、さらに3万の兵力が鉄道を使って増派しつつあった。本格的な戦争をするほどの弾薬や物資は集められていなかったが、日清戦争の最中に火事場泥棒するつもりで準備されていたものを日本への恫喝に転用したのだ。

 ロシアに対して日本の幕府陸軍は、北氷州各地には屯田兵1個旅団、幕府騎兵1個旅団が常駐していた。アムール川流域には屯田兵が2個師団あり、うち1個師団がロシアとの国境沿いに移動していた。またアムール川方面には、幕府陸軍1個旅団が急ぎ鉄道で増派されつつあった。北の僻地では、本国から近いこともあって日本が有利だった。鉄道が最低限敷設されている事も、日本の優位を補強していた。
 現地の日本陸軍主力は、満州平原と華北の直隷平原の沿岸部にあり、遼東半島に2個、奉天近くに3個、北京を狙える直隷平原に2個の師団が展開していた。また騎兵旅団と砲兵旅団が各軍団に付き従っており、遼東半島の部隊には攻城戦のために派遣されていた重砲兵隊と工兵集団もいた。
 他にも沿海州では2個師団が動員され、満州各地に進駐しつつあった。合わせると前線の兵力だけで20万近い兵力となる。ただし、機動運用が可能な兵力は全体の7割程度なうえに、日本本土ではこれ以上戦力を用意したければ武士兵の数が足りないため、民衆を大規模に徴兵しなければならない状態だった。しかも幕府は民衆の志願兵も日本各地の募兵屯所で募集するようになっており、戦争が始まると民衆のナショナリズムが昂揚して、かなりの数の志願兵が集まりつつあった。特にロシアの横暴は、日本人としての自尊心を民衆にまで与えた。
 つまり、すでに武士だけで戦争ができる時代は過ぎつつあり、この時点でも動員された兵士の半数以上が民衆で、将校、下士官のほとんどが武士階級のため、動員という意味は民衆の将校、下士官を前線に動員するという意味になる。しかも軍人・兵士以外となると、上位にいる者もほとんどが民衆となる。軍内部でも、既に工兵、輜重兵といえば民衆の将校、下士官がほとんどだった。なおこれは、「戦う以外は武士の仕事ではない」という一種の偏見が強く影響していた。
 一方のロシア帝国軍は、日本以上に古い統治体制のため近世ヨーロッパとあまり変わらず、貴族(+騎士)が将校、民衆(農民、農奴)が兵士という形が長らく固定化していた。幕府陸軍では希だったが、将校が兵士に無体な暴力を振るうことも日常だった。しかし日本と違い、制度面で民衆を兵士として使うことに躊躇はなく、動員力の大きさはロシア陸軍の大きな特徴だった。日本軍は中途半端に古くさかったが、ロシア軍はそれ以上に古いままだった。
 それが当時の日本とロシアという、近代になりきれていない国家とその軍隊だった。

 そうして日露軍がにらみ合いを始めたのだが、戦争は呆気なく始まってしまう。原因は、前線ではなかった。
 日本軍では、沿海州方面を中心に各地に鉄道連隊が入り込み、軍事用の簡易鉄道の整備や、既存の鉄道の利用のために活動していた。もっとも、当時の清朝領域に鉄道がほとんど無いので、多くは工兵部隊として活動しており、半ば実力行使で軍事鉄道の敷設に当たっていた。そしてロシアの干渉があったため鉄道工事は急ぎ足で進められ、浦塩から満州北部中原を目指す鉄道が急ぎ敷設されつつあった。
 日本軍による軍用の鉄道敷設はロシア側を大いに刺激し、日本側に国際信義を教えなければ行けないとして反射的に宣戦布告を実施。半ば付き合いで、ドイツ、フランスも日本に宣戦を布告。日清戦争が完全に終わらないまま、日本とロシア、ドイツ、フランスとの間の戦争が勃発した。
 「満州戦争」の勃発だった。

 戦争は、日本対ロシア、フランス、ドイツという図式のため、単純な国力差では日本が圧倒的という以上に不利だった。
 しかし、ドイツは日本への勧告で名前を貸したというだけで、当時アジア・太平洋地域に何の権益も植民地も持っていなかったので、日本に向けるべき兵力自体が存在しなかった。せいぜいが、上海の共同租界に駐在武官と若干の海兵がいる程度だった。東アジアに最も近い植民地でもアフリカ南東部のタンザニアで、そこには軍艦すら駐留していなかった。加えて言えば、東アジアにまで派遣できる海軍を、当時のドイツはまだ持ち合わせていなかった。ドイツができるとすれば、ロシアへの資金や武器、物資の援助、戦時国債の購入ぐらいでしかなかった。シベリア鉄道を使って兵士を派遣する気など、さらさら無かった。
 そもそもドイツが日本への勧告に参加したのは、露仏同盟にくさびを打ち込み英露の接近を阻止するという、ドイツの伝統的外交に乗っ取った実に欧州的な政治の結果に過ぎなかった。日本とロシアが、突然アジアの僻地で戦争を始めた事は政治、軍事双方での想定外だった。
 このため戦争に際しては、成り行き上でロシアを応援するという以上ではなかった。ドイツとしては、ロシアの目が東アジアなり太平洋に向いてくれれば御の字という程度でしかない。極論、ロシアが適度に負けても良かったぐらいだった。日本に対して行った行動も、ロシアに武器を多少用立てた以外ではほんとどが外交的嫌がらせだった。ただし、日本が負けた場合に、いかにして日本の海外領土をむしり取るかについては真剣に研究、準備されていた。
 フランスは、当時東アジアではインドシナと上海租界を有していた。また南太平洋のニューカレドニア島、タヒチ一帯のポリネシアもフランス領だった。インドシナには軍艦(巡洋艦)も駐留しており、インドシナには陸軍が、上海租界には小数ながら海兵隊が駐留していた。
 とはいえ、日本との戦争が出来るのかというと、日本が余程戦力を消耗するか不利にならない限り、巡洋艦すら動かせない状況だった。むしろフランスが、日本からの攻撃を警戒しなければいけないほどだった。戦争になったとき、日本又はロシアのどちらかに嵌められたのではと考えたほどだった。またフランスとしては、ロシアが東アジア、太平洋に首を突っ込みすぎることはフランスの国防戦略、国益に反しており、適当な小競り合いで戦争が終わるのを祈るしかない状況だった。元々フランス自体が、露仏同盟の維持のためにロシアの対日勧告に一口乗っただけで、戦争はまったく予測していないし迷惑という感情しかなかった。清朝と違って、日本はフランスの手に余る相手だった。
 このため早くから、ロシアの側から戦争調停に動き出す事になる。だが戦争当事国として何もしないわけにも行かず、また日本が負けた場合の自らの権利を主張するためにも、小数ながら自らの艦艇や軍隊をインドシナなどに進めた。

 一方当事者以外の国々だが、アメリカは日本が大敗して新日本への影響力を低下させる事を大いに期待していた。このためオフレコで国内の軍の準備を進めつつ、ロシア側のセコンドに入ったような状態で傍観していた。アメリカ国内では、ロシアの戦争債が積極的に買われたりもした。軍事的に傍観に過ぎないのは、東アジアどころか太平洋にすら足場一つ無かった事と、やぶ蛇という事を相応に理解していたからだ(※まだ「米西戦争」の前)。
 事実、戦争勃発と共に新日本でのアメリカへの警戒感は上昇しており、日本への軍の派遣という名目で新日本中で義勇兵が編成され、そのまま現地の防衛についている有様だった。新日本の住人は、彼らにとっての第一の仮想敵が誰であるかを体感的に知っていた。
 日本にとって唯一の有益な味方と言える国は、ブリテンだけだった。ブリテンにとって、中東、インドへの圧力を強めるロシアが当時最も警戒すべき国だったからだ。またロシアの悪巧みに、ドイツ、フランスがそのまま乗っかった状態であることも、ブリテンにとっては懸念材料だった。
 とはいえブリテンも、ロシアが東アジアに深く首を突っ込むのを避けたいだけで、当時の日本にそれほど親近感を持っているわけではなかった。日本が勝利して満州地域での権益を拡大すれば、それはそれで好ましい事態ではなかった。上海を中心に中華権益の拡大を行っているブリテンの利益にはならなかったからだ。
 日本が判定負け程度になったところで、ブリテンが恩を売って新日本での影響力を拡大する、というのがブリテンが求める最高の筋書きだった。それが無理でも、日本とロシアが適度に戦って疲弊することを大いに期待していた。無論だが、日本が新日本をアメリカに奪われそうになった場合は、十分以上に自分自身も動くつもりだった。
 このためブリテンは、当面外交的にも不利な日本のセコンドに立って、情報や物資を用立てているという状態だった。日本の出す債権も積極的に購入した。もっとも、既にフランス、ドイツが日本に宣戦布告しているので、絶対に参戦する気はなかった。
 日本を応援している国は、基本的にロシアを憎んでいる国だけと言ってよかった。そしてそれは同情心に満るも、無責任な応援でしかなかった。とはいえ、トルコ、スウェーデンなどの大使館での情報収集や外交が行いやすくなった事は、外交力に劣る当時の日本にとってかなり有り難かった。
 また、ロシアと対立するようになると、欧米の一部資本が日本の戦時国債購入に動き出していた。

 かくして日露開戦となったが、まずは両者の国境が接しているアムール川上流とシベリア=北氷州の境界線(国境線)での小競り合いが始まる。
 東シベリア=北氷州では、両者の騎馬隊が広大すぎる土地を舞台に、両者錯綜して小競り合いを繰り広げたが、戦況に大きな変化を与えることはなかった。戦闘も、多少武器が新しくなった他は、一世紀前の戦闘と大差ないものでしかなかった。何度も頻発した接近戦では、騎兵らしい刀や槍を使った戦いも行われた。両者が名乗り合い、時には戦わずに交歓することすらあった。ある意味、非常にのんびりとした古き良き戦争を、日本、ロシア双方の騎兵達は自らの勇猛と自己満足の中で堪能しきったと言えるだろう。戦争の結果、両者の友好が深まったとすら言われたほどだ。記念撮影した写真までが残されている。
 北の僻地は、その過酷な環境とは裏腹に騎士と侍の天国だった。
 一方北氷州南部のアムール川中流域では、日本が有利に戦況を運んだ。黒竜江の海運が使えた事と、既に国境にまで鉄道を引いていたおかげだった。日本側は、鉄道で持ち込んだ兵力と物資を開戦すぐにも投入し、圧倒的物量差によって戦いを有利に展開することができた。このため国境守備に就いていたロシア軍は、当初攻勢を取るも一歩も進むことができなかった。一方の日本軍は、別名あるまで固守が命じられていた事と、既に冬に入りつつあったため、相手を中ば一方的に砲撃で痛めつけつつ十分な体制で冬営に入っていた。黒竜江の北壁は、当時の日本にとって非常に心強い要素だった。
 しかしそれらは支戦線であり、主戦場は満州平原にあった。

 開戦と同時にロシア軍は、清朝の国境を越えて満州に進撃を開始。満州南部の旧都奉天近くにいた日本軍2個師団も北上を開始し、沿海州から越境していた日本軍も、満州の中央平原を目指して進撃した。
 しかしこの時点で早い冬が到来し、急激な気温低下のため行軍速度が落ち、また後方からの物資の到着もあるので、本格的戦闘は早くても3月頃と日本軍は予測していた。何しろ満州での戦いは、両者共に鉄道なしで戦わねばならなかった。
 このため日本軍は、騎兵を偵察に出しつつも、先遣部隊ある程度進んだ先で冬営用の重厚な野戦陣地の構築を実施した。
 この先遣隊は、日清戦争で主力が清国に向かった穴埋めとして当時から投入されていた、日本陸軍に属する傭兵隊だった。先遣で一個傭兵大隊、これに砲兵、機関砲兵、工兵、騎兵などが中隊規模で含まれた増強大隊編成を取っていた。また現地の馬賊も一部傭兵として参加していたため、騎兵戦力は比較的豊富で加えて現地情報も十分に持っていた。兵力量は合わせて2000名足らず。
 場所はチチハル。ザバイカル方面から大興安嶺山脈を越えて満州平原に出たところにある地理的な要衝だった。当時は清朝が作った小さな城があるぐらいで、軍事的な構造物はほとんどなかった。ここに日本軍先遣隊は陣を構え、塹壕を掘り土壁の家を補強してトーチカとした。

 日本の暢気な北満州防衛体制に対して、ロシア軍の動きは早かった。コサック騎兵は急激な侵攻を実施し、1895年12月半ばにはチチハル前面に迫った。ロシア軍の先遣部隊1個師団もこの時点でハイラルまで進んでおり、進撃速度は日本軍の予測を上回っていた。
 最初の戦闘は12月28日にチチハルで行われるが、半地下の臨時要塞となっていた日本軍の陣地に正面から突撃したロシアのコサック騎兵1個連隊は、戦闘開始から数時間で壊滅的打撃を受けて後退した。野砲、ガトリング砲、そして1丁の機関銃(イギリス製のマキシムM1884)が戦場を制した。日本軍はほとんど損害を受けずに、敵に大打撃を与えたのだ。
 これに驚いたロシア軍は、ハイラルの日本軍戦力を1個旅団と判断して、急ぎ軍勢を集めて進撃を実施。1個師団に増強兵力を含めた2万2千が、大興安嶺山脈を越えた。
 これに対して現地日本軍は、敵の本格的襲来前に騎兵約500騎を周辺部に一旦待避させ、敵の侵攻に対する持久戦を実施した。
 ロシア軍は予期せぬ場所での攻城戦にとまどい、最初の突撃で大損害を受けて以後は包囲する以上の行動が採れなくなった。しかも補給線では騎兵の跳梁があり、包囲と進撃を同時に行うだけの兵力もなかった。
 しかも日本軍が慌てて防衛体制を構築しつつある春日(はるひ)には、日本軍約1個師団が移動準備を進めている情報までがロシア軍にもたらされた。
 現地のロシア軍としては、自分たちのはるか後方を四苦八苦しながら進んできている1個軍団の先鋒主力部隊の到着を待つしかなかった。
 しかし現地の日本軍だが、ロシア軍が恐れたほど北満州の兵力に自信を持っていなかった。
 確かに、北満州の松花河岸にある春日(ハルヒ)には、合わせて1万2000の兵を進めていた。数だけなら1個師団に相当した。しかしその内実は、少なくとも日本軍としては心許ないものでしかなかった。
 この春日は北満州の交通の要衝で、当時の日本にとっては沿海州方面と奉天方面を結ぶ最大の中継点だった。このため春日を失うと、日本軍は広大な地域にそれぞれ孤立、分断する恐れがあり、ロシア軍は各個撃破の好機を掴むことが出来る筈だった。だからこそロシア軍は日本軍の準備不足を突いて進撃したのだが、取りあえずではあったが日本軍の方が一枚上手だった。
 だが、要衝の春日を守る日本軍は、ハイラル同様に二線級の兵力と、少なくとも日本陸軍では見られる兵力だった。というのも、「武士の兵隊」がいなかったからだ。
 加えて、日本軍はそもそも冬は冬営を予定していたので、物資の用意と運搬ばかりか、北満州への各部隊の進軍そのものが大きく遅れていた。南満州に移動しつつあった軍主力も準備と馬匹の不足で進撃が遅れた上に、開戦すぐにも冬になったため前進後の冬営準備以上は行っていなかった。しかも先遣隊として春日に進出した部隊が、手持ちの物資と馬匹で進出可能な兵力のほぼ全てで、3月まで何もできないというのが実状だった。
 対するロシアが、鉄道こそまだバイカル湖までだが、大量の馬、馴鹿、ロバ、馬車、橇を動員した兵站の確保により、日本側の予測以上の大軍を投入可能としていたのとは好対照だった。

 だが日本軍は、春日を失いたくないのなら、とにかく現状の兵力で時間稼ぎをしなければならなかった。
 規模の大きい順に、衆兵歩兵旅団、海兵大隊、傭兵大隊となる。どの部隊も幕府陸軍中央からは好まれていないため、清との戦いで不要として辺境警備を命じられたままの配置だった。
 衆兵歩兵旅団は2個連隊を有して規模こそ大きいが、武士以外の志願兵、将校から編成された部隊で、他の衆兵部隊と同じように弱兵で知られていた。多くの将校が太刀を差さない事から、「無刀」と言われれ武士達から蔑まれてすらいた。またこの部隊の指揮官には武士(上級武士又は大名)がなりたがらなかったためと内政の求めから、天皇家の系譜につらなる者、つまり親王(皇子=王子)が形式的に率いていた。外国の報道機関の中には、この部隊を「近衛部隊(エンピリアル・ガーズ)」と紹介したものもあった。こうした様々な理由で、数の上で主力であっても主力として扱うに扱え無かった。
 海兵大隊は、もともと黒竜江から遡ってここまで強引にやって来た部隊で、陸軍と海軍の対抗意識がこの場所に陣取らせた原因だった。しかし艦船から降ろした砲、重火器を装備するため、火力装備率は非常に高かった。移動可能な速射砲、ガトリング砲の装備などがその典型だろう。海軍の中から選抜された兵士で構成されているため、部隊の能力も非常に高かった。しかし海(水)から離れてしまうと機動性、兵站に劣るため、河川周辺での陣地防衛以外にはあまり役立たなかった。
 春日の傭兵大隊はチチハルにいる部隊の本隊で、本来なら二つを合わせて臨時の連隊編成を取る予定だった。砲兵、騎兵、工兵など多くの部隊も春日の本隊の方が大きく、特に野戦砲兵は大隊規模を有していた。輸送部隊も充実しており、機動性も高かった。
 こうしたバラバラな部隊であったため、日本軍としてはチチハルの守備隊に後退を命じたくても出来なかった。

 こうした状況に対して動いたのは、春日にいた日本軍だった。
 春日の部隊は防衛戦に徹せよという命令を受けただけだったのを幸いとして、積極的な機動戦とチチハル救援及び増援を画策したのだ。
 これは現地の皇族将軍の一声で決まったと言われ、少なくとも現地軍の士気は本国などの日本軍中央が思っている以上に高かった。
 海兵が春日の守備を担い、衆兵旅団が見た目の主力となって敵を圧迫して進撃をさまたげ、傭兵隊が機動戦を実施しつつロシア軍を圧迫した。また春日の動きに呼応してチチハルの日本軍傭兵隊も積極的に動き、補給線へのゲリラ攻撃、チチハルを包囲するロシア軍に対する挑発を実施した。
 日本軍の予想外の反撃に、ロシア軍は混乱した。
 冬という自分たちに絶対的優位を利用して、少数精鋭で先に拠点を押さえる予定が、最初で躓いた上に日本軍が積極的に動いてきたからだ。
 このためロシア軍は、日本軍が自分たちの予想よりもずっと大きな戦力を既に北の大地に送り込んでいると、戦術原則に従って考えた末に誤解する。そしてチチハル包囲中に補給線を絶たれることを恐れたロシア軍の先鋒は、春日から出てきた日本軍とまともに戦う事もなく、大興安嶺山脈を越えたところにある自軍の拠点まで後退を実施。ロシア軍の冬季侵攻は、目的を達することなくとん挫してしまう。
 その後、チチハルに一万人近い兵力を入れた日本軍は、後方では軽便鉄道の敷設を行いつつ、慌てて北上させた兵力と物資を続々と春日に入れた。そして日本、ロシア双方ともに鉄道路線の先が戦場であるため、平野を移動すればいい上に距離も短い日本側が、兵力、物資の移動で大きく有利だった。

 しかも日本本土では、春の戦い、さらにその後の戦いに備えた準備が急速に進められた。具体的には武器弾薬の大増産と、そして実質的な武士以外の徴兵実施だった。近代化に伴い戦争の規模が大きく拡大した為、武士だけを兵士とするは限界で、その事を政府(幕府)も認識しての事だった。加えて、大規模な増税と戦争債発酵を行い、庶民に対して大きな負担を強いることになった。
 武士達は自らに納税義務がないため増税には無頓着だったが、庶民に対する本格的な徴兵には反対がかなり強かった。だが、陸軍大国ロシアを敵としているという現実を前にしては、武士達の虚勢も虚しいだけで、現実を見ることの出来た幕府中枢は、自らの政策を精力的に実行した。勝てばまだ何とかなるだろうが、負けてしまえば外交内政全てが破綻するからだ。幕府中枢の中には、戦争に敗北した場合、多くの植民地、海外領土を失うばかりか、敗北の責任を国内から強く追及され、最悪革命により自分たちが政権から追い払われると冷静に予測している者も少なくなかった。実際、新日本からは、国境線にアメリカ軍の姿が増えているという報告がきていた。
 二十世紀を目前にした対外戦争は、いまだ近代に入り切れていない日本にとってのそうした戦争だったのだ。

 ロシアの思惑が外れて冬での戦いが中途半端に終わると、満州平原北部での戦いは半ば自然休止状態、というより日本軍が最初から想定していた冬営に入った。
 双方ともに、冬営をしつつ後方から部隊を持ち込むための時間稼ぎのための期間となった。ロシア側は海上交通路の妨害を全く何もできず、日本本土から続々と増援と物資が送り込まれいる状況が発生するのを焦っており、日本側はロシア陸軍と本気で戦う気はなく、お互いに半年以内、次の夏には戦争を決する積もりだった。 
 そして日本では、この貴重な時間を稼ぎだした者達が俄に英雄視された。現地に特派員を派遣した新聞各社が、競うように戦争の状況を報道した事が大きな原因だった。日本各地では民衆の志願兵も大幅に増加し、募兵所は連日満員御礼状態となった。日本国内での戦時債も飛ぶように売れた。
 そして幕府も、国内での結束を強めるためこの流れを利用し、日本人にナショナリズムとしての戦争の方向性を強く持たせることになる。この背景には、日清戦争での幕府軍の思わぬ苦戦があり、幕府としては相手に自分たちの力を大きく見せかけることで戦争の落としどころを探ろうという思惑があった。
 何しろ相手は、世界最強の陸軍を持つロシア帝国なのだ。幕府が、自分たちに戦闘での勝ち目はないと考えるのは、極めて健全な思考と言えるだろう。

 そして5月、満州平原にも過ごしやすい季節が来たのだが、吹く風には硝煙と血の香りが混ざっていた。
 この時までにロシア軍は、20万以上(後方を含めて23万人)の兵力を大興安嶺山脈を越えさせた。シベリア鉄道も強引な工事を続け、チタまでの区間の一部では部分運行を行って補給線の負担軽減を図っていた。馬車、馬などのもより多くが送り込まれた。ロシア軍は、物量戦というものを正しく理解していた。
 一方の日本軍もチチハル守備隊を2万に増強した上で16万の兵力を満州平原に動員し、春日に終結させていた。またチチハルには工兵、重砲兵の各連隊が入り、野戦築城を徹底的に強化して、野戦築城というよりは近代的な要塞に仕立て上げていた。後方では、大連から春日までの臨時の簡易鉄道(ほとんどが軽便鉄道)の敷設を完了していた。日本側の後方での動きは、軍隊だけでなく民間の協力なくして成立しないもので、日本という国家が大きく変わろうとする一例でもあった。幕府は、主に武士達に対して関ヶ原の再来と士気を鼓舞したが、日本の民衆にも「決戦」だという気持ちが強かった。

 戦闘再開に際しての日本側の戦略は、チチハルの野戦要塞でロシア軍を足止めしている間に、その後方から軍主力が襲いかかって壊滅に追い込むという比較的単純なものだった。対するロシア軍は、力技でチチハルを電撃的に攻略し、一気に春日の日本軍主力と決戦に及ぶという、ロシア軍としてはかなり積極だった。
 しかし地理条件が双方の戦術、戦略を阻んでいた。
 満州と言えば赤茶けた大平原と思われるが、北部の方は平原と共に湿原も非常に多い。特に河川一帯は春から秋にかけて湿原になる場所が多い。これは長い年月の間冬に凍った水が、夏の間は解けたり流れ込んだりするためだった。しかも当時の北満州は、清朝の政策によって開発が行われず人口も希薄なため、人の手が入らない自然に近い状態が保持されたままだった。
 もっとも、外満州と言われる黒竜江沿岸、沿海州も似たような開発程度の場所で、ロシア領の東シベリアについてはもっと酷いというより過酷な状況だった。
 故に日本もロシアも、満州という辺境に大軍を投じることにひどく苦労し、その上で近世から近代へと移行しつつある大規模な戦争を行おうとしていた。

 「チチハルの戦い」は5月4日に開始(もしくは再開)された。
 ロシア軍は苦労して持ち込んだ大量の重砲とこれまた大量の砲弾を用いて、短時間のうちに日本軍の籠もるチチハルの野戦築城を突破しようとした。
 しかし日本軍の陣地は、ロシア軍が十分と考えた砲弾を送り込んでも、ほとんど実質的な損害を受けていなかった。逆にロシア軍は、敵の陣地を破壊したと考えて前進したところを、激しい砲火、中にはガトリング砲、散弾を打ち出す速射砲、そして当時の最新兵器である機関銃(重機関銃)の十字砲火によって、日本軍陣地の前に死体の山を作ってしまう。
 このため正面からの突撃と砲撃から攻城戦へと転換したロシア軍だったが、自分たちが攻めているのが簡易的な野戦築城などではなく本格的な近代要塞という事を思い知らされる。
 日本軍はチチハルの陣地のかなりをコンクリートと鉄骨を用いて作り上げ、しかもいくつもの陣地が複合的に支援できる複郭式の陣地としていた。重砲、速射砲なども多く、短時間で落とせる要塞ではなかった。
 しかも日本軍主力は、ロシア軍がチチハル攻略に取りかかった翌日には、チチハルから100キロメートルほどしか離れていない安達の町にまで到達していた。ロシア軍の進撃開始に合わせての進軍だったが、少なくとも行軍速度では日本軍はロシア軍に引けを取らなかった事になる。そして100キロの距離は、妨害を受けない行軍の場合3日程度だった。そうできるように、日本軍は春日とチチハルの街道を可能な限り補強していたからだ。春日からチチハルには大きな河川(松花河)が流れ、これも補給線として使われたが、ロシア側も妨害したため戦闘が開始されると陸路での補給線、進軍路が非常に重要となった。
 鉄道こそまだ引かれていなかったが、道路工事には蒸気シャベルや排土車(蒸気ドーザー)なども動員されていた。大連から春日の簡易鉄道も日々増強され、日本列島と大陸を行き交う船も増加の一途だった。武士の世の中で丁髷を止めた日本人達は、間違いなく近代の物量戦、総力戦を実践しつつあった。
 しかし、こうした後方での働きは、将校から兵士、人夫に至るまで、ほぼ全員が武士以外の者達だった。鉄道旅団の工兵少将も平民出身で、武士達は戦うことにのみ専念したといえば聞こえはいいが、後方での兵站活動の重要性を理解している者は少数派だった。補給のその他の分野でも同様だった。だが幕府(政府)、軍の中枢と大多数の武士以外の者は、近代という時代を正しく理解しており、それが形となって現れていた。
 日本軍の戦いは、ロシア人の予想を上回る形で展開していた。

 後に「アジアのセヴァストポリ」などとも言われたチチハル陣地群(=野戦要塞)の南東部の平原は、双方合わせて30万以上の兵力がぶつかり合う激戦となった。
 チチハルを包囲していたロシア軍は、日本軍が安達到着の頃から迎撃体制への陣地変更を本格化させ、1日前には最低限の包囲部隊を残して日本軍にほぼ全力を向ける。
 最初に戦い始めたのは、双方の騎兵だった。
 ロシアは世界に誇るコサック騎兵。日本はサムライ達の中でも、主に日本列島の外へと旅だった人々とその末裔だった。日本の場合日本列島ではないのは、古くから海外領土で西洋馬が使われ、特に北米の新日本やユーラシア北東端の北州(北氷州)で盛んだったからだ。近代化する前だと、あまりにも広すぎる場所で馬を使うことが発展するのは道理だった。そして北州にもとからいるサムライ達はそのまま現地でコサックと競い合っている為、満州平原の騎兵のかなりが新大陸からわざわざやって来ていた。特に比較的古くから日本領となっていた荒州(荒須加)から来援した騎兵が多く、夏の涼しさ、冬の寒さに馬共々慣れていた。加えて本土の騎兵も19世紀には西洋馬を使うようになっていたので、本国から大陸に派兵された騎兵も多かった。
 そして日清戦争では、相手がまともな騎兵を有していないため、日本の騎兵達や勇躍してロシアのコサックとの雌雄を決する戦いへと赴いた。
 だが、騎兵同士の戦いは、あくまで前哨戦に過ぎなかった。
 戦力はほぼ拮抗していたし、高い火力を有していないので騎兵同士以外の戦いに向いていなかったからだ。騎兵の場合、偵察、相手戦線後方での破壊活動の方がはるかに有効だった。
 なお、この頃の戦いは、大軍同士の雌雄を決するための戦いになると、間近に接近したからと言ってすぐに多々買い始めるわけではない。布陣はもちろん、重砲の設置、陣地の構築などに時間がかかるためだ。
 今回の場合、日本軍が接近しロシア軍がある程度準備を整えた状態だったが、ロシア軍は「後手からの一撃」、「守勢からの反撃」を得意としているため、日本軍が攻撃してくるのを待ちかまえていた。ロシア軍の正直な気持ちとしては、難攻不落と化したチチハルを攻めずに済んでホッとしている状態だった。
 このため日本軍は重砲の設置作業をしつつ歩兵部隊などを前進させて陣形造りを行い、日本軍の準備が整った時点で本格的な戦闘が開始される。

 日本軍の総攻撃は定石通り重砲の一斉射撃から開始された。しかしロシア軍の予測を上回る規模と破壊力で、その上少し離れたチチハルの要塞中央部からも、包囲部隊に対して今までよりはるかに猛烈な射撃が浴びせられた。
 重砲射撃はロシア軍も実施したが、規模と密度そして破壊力の全てで日本軍の方が上回っていた。日本軍は圧倒するほどではないが、これは十分にロシア軍の予測を上回るものだった。
 砲撃戦は5月10日夜明けから開始され、昼を回っても双方の射撃は続いた。これほどの射撃合戦は、今までの世界でもほとんど前例のないもので、戦争そのものに慣れていない日本軍よりもロシア軍の方を動揺させた。そしてそこに日本軍の総攻撃が開始され、相手を圧倒する予定のロシア軍は相手に攻撃のイニシアチブを握られ、実質的に身動きが取れなくなってしまう。
 そうした戦闘は日が暮れて小康状態となり、翌日の戦闘となった。日をまたぐ激しい戦いは南北戦争などで既に見られたが、今まであまり例のないものだった。しかも戦場は、この世の終わりかと思うほど重砲弾が飛び交い、ガトリング砲や重機関銃で歩兵がなぎ払われていた。ガトリング砲と機関銃の装備数は日本軍の方が圧倒的に多く、特に日本の傭兵隊と海兵隊は異常なほどの火力を有してロシア軍を圧倒した。これは、冬の戦いを調べた日本軍が、軍艦に装備されているものを降ろしてまでして前線での火力を引き揚げたからで、海兵隊が重武装な理由だった。ただし、本当の最新兵器だった重機関銃の数はさすがに限られており、局所的にはともかく戦場全体の決定打となるほどではなかった。しかし日本軍の火力が高いのは確かで、しかも弾薬投射量も砲兵を重視するロシア軍よりも多かった。
 ロシア軍は日本軍に主導権を握られ心理的にも劣勢となり、破局は戦闘二日目の午後遅くに訪れる。
 予想外の砲撃で射すくめられたチチハル要塞を封鎖していたロシア軍部隊が、要塞から出てきた日本軍部隊に突き崩されたのが始まりだった。この部隊はそのままロシア軍主力の後背へと回り込んで、補給部隊、重砲兵部隊の三分の一を蹂躙。さらに別の一隊は、そのままロシア軍の退路となる街道を封鎖した。
 当然ロシア軍全体に大きな動揺が走り、ロシア軍司令部が下した命令もうまくは伝わらず、伝わっても部隊は思い通り動かなかった。
 しかもロシア軍にとって悪いことに、この時既に日本軍主力は翼を広げるようにロシア軍に対する半包囲作戦を開始しており、チチハルの動きに呼応して攻勢を一気に強めた。
 これで現地ロシア軍は、総退却を命令。完全に包囲され退路が完全に断たれる前に後退を行おうとする。既に退路は断たれていたが、数が少ないので十分突破して後退できると踏んだのだ。
 この読みはある程度正しかったが、チチハル守備軍が敷いた巧みな砲火を浴びながらの後退となったため途中で後退から潰走へと転じ、これがロシア全軍に波及。追撃してきた日本軍に、全軍の半数近くが包囲されるという致命的な失態を演じることとなる。
 日本側の徹底した近代的火力戦の勝利だった。

 その後戦闘は敗走するロシア軍を日本軍が追撃するという掃討戦に入り、ロシア軍の敗走は大興安嶺山脈で止まることが出来なかった。山脈防御は有利なのだが、ロシア軍はほとんど準備していなかった上に、日本軍と一部重なったままのため、体制を整えることが出来なかったのだ。
 さらにその後もロシア軍の敗走は続き、補給拠点となっていたハイラルでも踏ん張ることはできず、多くの遺棄物資を残したままザバイカルとロシアが呼ぶロシアと満州の境界線に後退した段階でようやく進撃は止まった。
 この時の日本軍とロシア軍は、基本的に徒歩もしくは馬による戦闘の為、ロシア軍がチチハルから自らの国境線の約500キロメートルを敗走するまでに、約1ヶ月が経過していた。
 つまりロシア軍は、ほとんど戦うことなく敗走した事になる。しかも日本軍は、チチハルでの勝利の報告が届くが早いか、他の戦線でも活発に動き出し、黒竜江の戦線では退路を断たれる恐れが出たロシア軍が浮き足立ち、日本軍の大きな前進が見られた。
 こうなっては極東のロシア軍全体が日本軍に包囲される危険性が出た為、ロシア軍はさらなる後退を行わざるを得ず、結局平原をさらに後退して、オハが日本軍の最終到達地点となった。
 そしてこの段階でロシア軍もたまらず講和の話しを持ち出すのだが、この時日本本土は政治的な混乱状態にあった。

 日本の混乱は、冬に行われたチチハルの戦いで「庶民の軍隊」が勝利を引き寄せた頃から本格的に始まった。
 平安時代末期以後、日本の軍事力は武士達が独占してきた。しかし今回のロシアとの戦いでは、庶民の軍隊が大活躍を示した。現地に行った記者からの報道で、傭兵達や海兵隊の活躍に日本の多くの庶民達が喝采を送り、自分たちの時代が来つつある事を肌で実感するようになっていた。
 しかも日本列島では、近代国家としての本格的な徴兵が実施されつつあり、人々は国家に対する義務と責務に対する報償を求めるようになっていた。これは徳川三百年の歴史の中でも、「極めて異常」な事態だった。
 そうした追い風を受けて、開催からまだ5年始か経ていない衆議政局は、動員中の衆兵の大量投入の前に士気高揚を目的とした「勝利の褒美」としての法案を通過させ、大名議政局にも法案通過を強く要求していた。また大軍動員のための戦費獲得のために、全ての「日本人」に対する等しい増税、つまりは大名、武士に対する資産に応じた徴税、増税(固定資産税など)を強く求めていた。
 これに対して行政を担う老中達と大名議政局は、武士達からの明に暗にの圧力に屈して、植民地への増税で戦費が得られると答え、これに新日本など全ての植民地が一斉に反発。日本人社会全体が、大きな政治不安へと突入していた。
 そして過激な人々は、「征夷できない将軍などいらない」、「何も出来ない武士は特権を享受しすぎている」、「天子様に大政を返還するべきだ」と民衆を煽った。混乱の中で、テロやデモも発生した。
 この混乱の中、1897年春を前にして、既に還暦を迎えていた15代将軍徳川慶喜は「将軍としての権利」を使い半ば独断で決定。何も決められない大名議政局を強引に閉会させた上で、国政と戦争を最優先するとして衆議政局の議決を採用する。
 この際徳川慶喜は、政府中枢ばかりか詰め寄ってきた大名、武士達に対して、戦争を断行する案に反対するのなら自らは将軍職を御上に返上すると言ったとされる。
 この時の将軍の決定には、多くの庶民は喝采を送った。下級武士のかなりも、実務に対して特権を享受しすぎている上級武士、大名への反発から賛同した。このため特権を享受しすぎていた人々は将軍に対して強く反発する事が出来ず、将軍を頂点とした江戸幕府は、国家の主人公が武士から国民へと移る大きな転換点を迎えることとなった。

 戦争自体は1897年夏に終わり、ロシアは大敗して日本にザバイカル方面とシベリアの一部を割譲する事になる。


フェイズ22「セカンド・リニューアル」