■フェイズ22「セカンド・リニューアル」

 西暦1897年夏、世界中で進んでいた日本に対する様々な軍事的行動は、ほとんど全て中断された。
 特に日本の敗北と弱みにつけ込もうとした各国の行動は、1896年秋頃にはほぼ沈静化していた。1895年冬から夏にかけて、日本は外交的に非常に苦しい立場に置かれていたが、日本人の多くが国難、民族の危機という感情をそれぞれの場所で感じたことが大きな変化と勝利を呼び込んだ。それは武士という特権階級だけの時代が、日本で過ぎ去りつつあった何よりの証だった。

 サムライとコサックの戦争の結末を最も悔しがったのは、アメリカ合衆国だった。新大陸の西側に広がる新日本領を、太平洋への出口を異常なほど強く奪いたがっていたからだ。
 クリーブランド大統領はまだ節度を持ち合わせていたが、1896年に大統領選挙に勝利したマッキンリー大統領は帝国主義的な膨張主義者で、激しい領土拡張を訴えた事が選挙勝利の一因だった。マッキンリー大統領は、大統領に就任するやいなや新日本との国境線に国境警備を名目に軍隊を進めて軍事鉄道を敷設し、ほとんど日本に宣戦布告まで決断していたとすら言われる。彼が対日宣戦布告をしなかったのは、陸軍大国のロシア帝国軍すら破った日本の本国軍(※「サムライ・フォース」や「ガーズ(近衛部隊)」と呼ばれていた)が新大陸に押しよせることを恐れたからだ。何しろ中西部平原は、まだまだ人口希薄地帯だった。
 日本を支持したブリテンは勝ち馬に乗った余裕もあり、ロシアが東アジアから追い出されたので、日本の勝利と合わせて差し引きゼロと判定した。さらにブリテンは、自らの外交方針に従って当面の親日姿勢を強めることを決める。その方が、北米問題も含めてブリテンの国益に叶うからだ。日本がロシアとアメリカを太平洋に進出させない限り、東アジア、太平洋での外交は非常にし易くなる。しかもブリテンは、その後南アフリカで起こした戦争のため、日本との関係をいっそう深くするようになる。
 フランスとドイツは、強欲なロシアに荷担するんじゃなかったと、日本に外交儀礼的な謝罪をしつつ思った。帝国主義の時代にあって、人種差別以外で日本に対する強い恨みややっかみはほとんど無かった。むしろ戦後は、フランス、ドイツ共に日本への接近を強めるようになる。利害の少ない強い者と組むのは、帝国主義の「嗜み」だからだ。有能な宰相ビスマルクを追い出したドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、黄禍論を唱えるなど日本を強く警戒したとも言われるが、利益を得ることの方が大切な事ぐらいは理解していた事になる。ロシアとアメリカの防波堤となる日本の存在は、世界の分割と植民地化を進めるヨーロッパ列強にとって、当面の所だが大きな利益があったのだ。
 そして戦争で最も割を食ったのは、戦争に負けてザバイカルのチタ一帯を領土割譲で失ったロシア帝国ではなかった。講和を先延ばしにした形だったため、満州の利権、権限をいっそう日本に持って行かれた清朝だった。
 清朝は、遼東半島を日本に割譲した上に、鉄道敷設や鉱山利権など満州全土の利権を日清戦争の講和段階よりも多く日本に渡さねばならなかった。清朝は、日本とロシアが戦争になるやいなやロシアに尻尾を振ったのだが、それが裏目に出て日本の怒りを買い、日清戦争での賠償を上乗せされた形だった。国際信義にもとる行為は、依然として国内の政治を握る武士達にとって受け入れられるものではなかった。これ以後、日本の対チャイナ政策が大きく変化したとすら言われるほどだ。
 また同時期にロシアの庇護を求めようとしたコリア(朝鮮王国)に対しても、勝者である日本は怒り、そして容赦無かった。帝国主義の荒波を相応に知るようになった武士達は、この時代の国際常識がない北東アジアの国々に対して容赦しなかった。
 日本に対して軍事的、外交的に何も出来ないに等しい遅れた弱小国でしかない朝鮮王国は、鉄道、電信の敷設権、各地の鉱山の租借権、釜山の港湾と居留地の租借権を日本に渡さざるを得なかった。幕府に国土が荒れ果てている朝鮮半島を併合もしくは植民地化する気は無かったが、諸外国からはいずれ最低でも保護国にするだろうと見られていた。
 そして北東アジアでの地盤をより強固なものにした日本では、将軍が民衆から直接支持を受けるという大きな政治の変化に伴い、さらなる政治の近代化が進もうとしていた。
 
 一見、日本の徳川政権に、以前と大きな違いは無かった。
 政治の最高権力者は書庫外国から「国王」と見なされている将軍(征夷大将軍)だし、武士達は特権階級としての地位を国から保障されていた。
 しかし戦中の改革と、戦後の民衆、いや国民への報償を渡すことで国政の実質が大きく動いた。このため以後の江戸幕府を「新政府」と呼ぶ事もあるし、改革の大きさから「維新」という事もある。徳川慶喜は、三十年前に果たせなかった日本の真の近代化を、武士ではなく「国民」化しつつあった一般民衆の支持を得るという形で遂に実現したのだった。
 ロシアに対する戦勝によって民衆の圧倒的な支持を受けた徳川慶喜を中心にして、江戸幕府は多くの政治機構や政府と行政組織は三十年ほど前の改革をさらに進める形で、民主化、国民国家化を押し進めるための大規模な行政改革、組織改革が実施した。
 号令を発したのが将軍であり、しかも戦争を勝利に導いた君主という人物が徳川家康以来であるため、武士達は多くのことで反発出来なかった。
 そして「国民」となりつつある人々からの支持を追い風とした徳川慶喜は、かつて中途半端な改革に止まった事を、今度は「国民」の力を借りる事で一気に押し進めた。
 当然ながら特権階級の武士達は抵抗を試みたが、兵士として多くが従軍した下級武士達までが民衆の側、将軍の側に多くが回ったため、流れを押しとどめることは出来なかった。

 「新政府」とも呼ばれた組織改革に大きな力を発揮したのは、江戸幕府後期から育っていた有識者層で、巨大化しつつある各地の都市で増えた中産階級の人々だった。また、世界情勢に対応するため変化しなければいけないと考える改革派武士の多くも参加しており、国民国家、市民の国への転向を行うにしては、革命と呼ぶには全く値しないものだった。そもそも将軍(=国王)自らが改革を行うのだから、革命の名には値しない。しかし国民が広く改革に参加するという形は、多くの面において革命に匹敵した。それに、多くが満州戦争に従軍した人々なので、そう言う点では市民による革命を呼べるのかもしれない。
 また将軍という国王は権力者として存在し続けたし、別に大統領を担いだり共和制を導入しようと言う意見はほとんどなかったのも、この時の変化の特徴だった。何しろ再び改革者となったのは、将軍という名の世襲権力者だった。
 つまりは、将軍と武士の姿を見た目に保ったまま、立憲君主制度、健全な議会制民主主義、法の元での平等を実現しようと言うのが改革の骨子だった。

 政治、制度、身分の改革を行おうとした人々が、その起爆剤として用いたのが議会政治の民主化と並んで税制にあった。
 戦費返済を表向きの理由に税制が抜本的に変えられ、特に特権階級の免税特権の多くが廃止されることになった。正確には、今まで近代国家として整えられていなかった公平な税制が整えられたと表現する方が正しいだろう。ただし引き替えとして、いまだ返済できていない武士達の膨大な借金に関して、かなりの額が国の肩代わりとなったり債権放棄される事になったため、武士の側からも文句はあまり出なかった。
 それでも税制の強化は特権階層だった武士には大きな打撃で、現在の職業(と給与)までは奪われないので路頭に迷う武士は小数派だったが、武士にとっては大きすぎる変化だった。
 それでも身分制度としては、今まで通り大名、武士の身分と権威と名誉は残されることになった。屋敷などの固定資産、家宝の当面の保障、名誉(帯刀など)を除く特権の多くが、新たな憲法上で一定程度保障されることにもなった。固定資産税についても、国による融資制度を設けたり、当面は低く抑えられる事になっていた。

 そして全ての根幹となる憲法が大きく改定されることになり、行政、司法、立法の三権分立がより明確にされ、連動して民法もより充実した形で整備される事となった。他にも、民衆を保護するための社会法が幾つか施行される事にもなった。民法は武士にも一部例外項目を除いて平等に適用される事になり、身分制度の面でも大きな前進が行われた。
 立法府は二院制の議会のままだが、名称は議政局から新たに「士族院」と「衆議院」になり、士族院には大名以外にも学識者などを選ぶ勅撰議員、高額納税者議員が加わることになった。ただし規模の小さい石高5万石以下の大名、上級武士は負担の大きさもあって勅撰議員からは外されることになった。これには武士の側から不満もあったが、地方、地域ごとに代表を選ぶ制度を整えることで代替とされた。対外的には、士族院が下院、衆議院が上院とも説明される事もあった。
 衆議院では、有権者の幅が大きく広げられることになる。
 これまで15両の納税した25才以上の男子だったものが、一気に納税額3両にまで引き下げられた。これで国民の一割が選挙権を持つことになる。この数字は、国民の実質四割に当たる。人口のうち女性が半分、若年人口が半分で、25才以上の男子は成人全体の25%程度だからだ。19世紀末の時点では、世界的にも進んでいた方だと言えるだろう。そして25%の中には武士の過半が含まれるが、全体としては完全にマイナーへと転落する事になる。故に、選挙制度の改革こそが、最も大きな変化だったと言われることがある。
 行政府及び官僚組織については、規模や時代に応じた変化以外ではそのままだった。一部で、朝廷の「省」や「大臣」に名称を変更しようと言う向きもあったが、武士ばかりか公家の側からの反対も強く、採用されることは無かった。
 国号についても「大日本国(※対外名称:キングダム・オブ・ジャパン)」のままとされた。
 なお、「藩」という比較的自立性の強かった地方組織にも大きなメスが入れられ、近代国家として全て中央統制を強める方向に大きく方向転換されることになった。これも表面的な武士達の反発はともかく、大名達は負担が大きく軽減されるため実質的な反対は少なかった。
 しかし結局、幕府の名は幕府のままとされた。一部に、「政府」つまり政(まつりごと)の場所と改名しようとする動きがあったが、日本国内の型式だけでも武士の政権という向きを保つため、そのままとされた。

 一方、徳川家と幕府だが、徳川家については再び「公武合体」が行われ、古くからの国の権威を持つ天皇家を取り込む事で、民衆の支持が強められた。海外に対する主権については、憲法上で将軍が引き続き国家元首とされ、形式上将軍を任命する天皇(皇族+公家)は、政治の実権からは正式に外されることになる。しかし祭祀の面ではむしろ強化され、旧権力だった天皇家の政治からの分離が進められた。これを一種の政教分離と見る事もある。
 幕府の組織については、血統や家で選ぶ事が色々な面で難しくなったので、雇用されている武士達には編入のためという理由で各種試験や第三者(組織)による評価が行われる事となった。この結果、能力ではなく血統で選ばれていた人々は降格するか職を追われ、能力があるが位、身分の低い人が多数抜擢されていった。時代の変化を知って、自ら下野する武士も多かった。全体としては大幅な若返りが行われ、健全かつ活発な組織へと脱皮していくことになる。
 そして武士階級が最も恐れた固定資産税だが、一定額、一定期間の猶予はあったし、国家元首でもある徳川家についてはほぼ例外とされるも、徳川家の例外とは国家と一つとして括られる方向に向けられ、城塞や宮殿、屋敷などは国有財産として国が保有する事になった。加えて、一族、家臣に与えていた形の広大な領土を、まずはそれぞれに分け与える形で細分化した。その後に、固定資産税など様々な納税の義務が負わされた。この点は他の大名も同様で、公共施設と私有財産の区分けが極端な形で分けられることになった。
 そして多くの固定資産は国や行政に譲渡した場合は無税とされたため、徳川家以下の多くの大名家、一部の上級武士が資産を政府へと譲渡した。また幕府保有の資産のほとんども明確に日本の国有資産とされ、近代国家としてこれまで曖昧だった部分が大幅に新ためられていった。
 分かりやすく言えば、日本各地のお城が住居から役所や軍事拠点に変わったわけだ。

 また身分制度そのものだが、大名を含む武士を「士族」として、従来の平民に近い存在だと憲法上で定義された。これは司法など法制度上の問題があるためで、犯罪に関してもこの時点でようやく全ての国民が同格に扱われることとなった。
 それでも武士という特権階級が憲法上で維持されたのは、19世紀末の時点では国家を率いる責任階級が必要という認識そのものが一般的であり、俄仕立ての存在では代替は出来ないという考えが強くあったからだ。このため、贅肉を殺ぎ落とし通過儀礼を経た武士にそのまま委ねる事が行われた。国は大きく変わったが、武士は強引な近代化をくぐり抜けられた者が生き残ったのだ。また改革を主導した一派にある程度の身分の武士、大名がいたことも、武士階級が残される大きな要因ともなっている。
 なお、対外的な身分比較では、士族は引き続きナイト階級とされた。大名はバイカウントを基準にして、大領主をマーカス、小領主をカウントいう点は変わりなかった。当然だが、徳川家の御三家などが「デューク」に当たる。天皇を始めとする皇族は、祭祀を預かり権威を授けるので、ごく普通に宗教関係者と考えられていた。皇族に連なる公家は少し特殊で、日本国内の権威ではなく武士と同じように領地によって分けられたため、かなりの反発が出た。
 しかしこの時の改革では、主に対外的な必要性から日本の支配下にある王国、部族にも日本の武士階級内での位置付けとそれに比例した海外での階級を取り決めた。王国の国王などは、対外的にはキングではなくデュークとされ、部族などは配下の数でバロンやナイト分類された。
 こうした動きに反発したのが、新大陸に広がる新日本だった。

 新日本は開拓民の土地であるため、名目上の階級は植民地では採用するべきではないと強く反発した。しかし結局覆ることなく、新日本にいる役人武士以外にも、大きな土地を持つ新たな土豪、地主などが士族に取り立てられることになった。また高額納税者議員も便宜上叙勲されるため、新日本でも士族に取り上げられる者が多数出た。
 そして騒ぎ立てた新日本に対して、新政府と呼ぶべき新たな幕府(日本政府)は段階的な自治の拡大を提案した。最終的には独立を視野に入れたもので、独自議員による議会開設も認めるものだった。これは納税強化との取引もしくは引き替えと言える。考え方としては、同時期のイギリスが白人植民地で進めていたドミニオン(自治領)に近いだろう。
 しかし依然として、軍事と外交、徴税は日本本国に従属していた。そうしなければ、アメリカにつけ込まれるからだ。
 また自治の拡大はロシアとの戦争で領域の広がった北氷州にも行われたが、フィリピン、ブルネイなど東南アジア地域での自治拡大はほとんど見送られた。それぞれの地域でも、ヨーロピアンが日本へ向ける視線からこれを受け入れた。世界は今まさに帝国主義最盛期にあり、日本という「群」からはぐれればどうなるかは、世界中の多くの地域で証明されている事だった。
 多くの権利を失った武士達も、自存自衛のための選択と変化を受け入れざるを得ず、極端な混乱も発生しなかった。

 大きく改革されたのは、軍も同様だった。
 兵部奉行(=ミニスタリー・オブ・ディフェンス)という組織名称はそのままだったが、組織も大きく改変された。とはいえ軍事官僚組織の方には、極端な変化はなかった。変化は実戦部隊の組織の変化にあった。
 中央政府である幕府は概ねそのままだったが、幕府水軍は国家の海軍としての体裁を整えるため「日本海軍」へと名称を変更した。サムライ・ネイビーがジャパン・ネイビーになったわけだ。陸軍も「日本陸軍」と頭に日本を付けるようになり、両者共に武士の勢力が大幅に減退した。しかも双方ともに組織自体の拡大が続いていたため、武士の勢力は年々減少していくことになる。
 しかし海軍は、幕府水軍としての200年以上の伝統があるし極端な規模拡大もなかったので、長らく「武士の海軍(サムライ・ネイヴィー)」という状況が続く。戦艦など大型艦の艦首と旗には、葵の御紋も掲げたままだった。それに水軍将校にしろ水夫にしろ、昔から先祖伝来の武士というのは少数派で、多くが漁民や無理矢理水夫にさせられた人々やその子孫だった。水軍自体は、江戸幕府の頃から最も武士以外の者が入り込んでいる政府組織だった。ただし、近代化として将校の兵への虐め厳禁など水軍以来の悪い伝統が否定されたのは、大きな変化だっただろう。加えてヨーロッパの優れた点を取り入れる向きも、より強まった。
 また装備面では、蒸気船登場まで世界の海に君臨したガレオン戦列艦は既に姿を消し、鋼鉄の船体に鋼鉄の砲塔を備えた新時代の大型戦闘艦が出現しつつあった。このため、ラインシップ=戦列艦、クルーザー=巡洋艦、フリゲート=護衛艦、コルベット=警備艦などと名称も改められた。また新たな艦種として、魚雷を搭載した水雷艇、水雷艇駆逐艦(駆逐艦)なども続々と編成に組み込まれつつあった。海軍全体の規模も、戦争による緊急増強が行われたため、ブリテンに次ぐ世界第二の勢力を持つに至っていた。
 また海軍(水軍)の下部組織である海兵隊についても、名称を列強になぞらえて変更しただけで、従来通り艦内の警備と海軍施設、海外居留地の警備を請け負った。ただし、将校下士官などの体罰や虐めを監視する憲兵的な組織としての改変と再教育が実施されており、海軍内での人気は低下した。口の悪い者は、海兵隊を海軍の憲兵と言うようになる。
 そして軍での最大の変化は、陸軍での近代的な徴兵制度の本格的開始だった。大規模な対外戦争で、多くの国民が動員されたことを契機としているため国民の反発も少なかった。むしろ国家事業への参加という面で、「国民」を育てることに貢献した。また屯田兵以外で平時に徴兵される者は少なかったので、実質的な問題もあまり起きなかった。徴兵ばかりでなく、志願による入隊が広く認められていたので、陸軍においてすら徴兵はほとんど必要なかったほどだった。それほど多くの兵が必要ない海軍では、以後長らく志願制のみが取られた。
 最も変化があったのは、傭兵隊だった。
 17世紀後半から続く幕府傭兵隊は、満州戦争まで幕府直轄の兵として幕府が雇う形が保たれていた。このため正規の軍には含まれず、陸軍ではなく幕府傭兵(=幕府お雇い兵)と一般にも呼ばれていた。
 しかし満州戦争での活躍で入隊者が激増。戦争もあったので、規模は大きく膨れあがった。そこにきて軍の改変により、傭兵隊自体も陸軍へと吸収合併されることになる。だが傭兵隊は、地方ごとに設けられた司令部に属したりはせずに陸軍直轄とされ、名称は名誉称号としての傭兵の文字を残した。所属する兵は志願者のみとされ、一般的には陸軍が平時に海外に派遣する部隊として扱われた。
 規模は軍団規模の司令部を持ち、2〜3個の旅団司令部で部隊が運用され、装備、練度、士気の高さから、以前同様に日本軍の精鋭部隊として諸外国にもそのまま認知された。またこの部隊は、日本陸軍内で唯一植民地や移民第一世代の志願入隊が許され、兵士の数は常に募集人員を超過していた。そして陸軍の思惑により拡大が続いた傭兵隊は、その後陸軍の緊急展開部隊としても組織の充実と強化が行われる事になる。陸軍内での海兵隊への対抗心も強く作用した結果もあったが、傭兵隊自体が部隊の存続を望んだ末の選んだことでもあった。

 日本での突然のような変化を、世界は呆然とそして唖然と眺めた。対外戦争の勝利を契機として、革命も政変もなく国の有りようが大きく変化し、中途半端なままの封建君主が、民意を受けた君主へと変化した事で、身分制度が民意によって穏やかに破壊されていったからだ。しかも特権階級が変化を受け入れて、新たな国家の僕となっていったことも大きな驚きだった。普仏戦争後のフランスに近いとも言えるが、やはり大きな変化だった。
 特に古い体制を引きずったままのロシア帝国が受けた衝撃は大きく、当初日本で起きた革命とすら言えるほどの変化を国民に伏せ、それが叶わないと分かるとロシア帝国なりの内政改革を進めるようになる。
 とにかく、民意を受けた君主を中心とした大規模な改革と事実上の近代化をヨーロッパ世界以外がいとも簡単に成し遂げた事にヨーロッパ社会は驚いた。
 そしてロシア以外の国々は、何だか分からないままに日本が事実上の国民国家へと変化しつつある事を認めると同時に、今後大きく国威を上げて来るであろう日本への対抗措置を講じるようになる。
 真の近代国家へと進んできた日本は、国力や産業力、版図、そして軍事力から世界のトッププレイヤーへと脱皮したからだ。


フェイズ23「ダスク・オブ・チャイナ」