■フェイズ23「ダスク・オブ・チャイナ」

 江戸幕府は、漸進と言う形で近代化に自ら向かったが、隣国にして東アジア世界最大規模を誇る清朝は、阿片戦争以後諸外国に叩かれていたのに、いまだ前近代のまどろみの中にいた。
 ここでは日本を離れて、少しチャイナ中心に見ていきたい。

 19世紀後半の清朝は、「東洋の眠れる獅子」として総人口4億人以上を有する大国の潜在力を警戒されていた。4億人という規模は、ヨーロッパ世界全てを合わせても足りない数だった。しかもヨーロピアンが主に目にする都市の光景は、非常に巨大で前近代ながら発達していた。ヨーロッパ列強が「大清」を警戒するのも当然だろう。
 ヨーロッパの優れた文物の導入も一定割合で行われており、軍事力の面では最新兵器でもある複数の近代的な戦列艦すら輸入品ながら複数保有していた。東アジアで戦列艦を有するのは日本を除けば清朝だけで、東アジアにまで戦列艦を持ち込める国もないことから、ヨーロッパ諸国が警戒感を持ったのもある意味当然だっただろう。
 加えて日本の江戸幕府のように大きく発展している国の例もあるため、清朝は領域はともかく人口では日本を大きく凌ぐ大国だったので、誰もが注意、警戒するのは有る意味当然である筈だった。今までの例のように、小競り合い程度の戦いで清朝が負けることはあっても、本気で戦争をすれば戦争を吹っかけた側が痛い目にあうと見られていた。

 しかし、1894年の日清戦争で、清朝の姿が虚像に過ぎないことが世界に暴露された。
 ヨーロッパ社会などから優れた文物を取り入れたが、それはほとんど形だけだった。「中体西用」という清朝自身の考え方が多くを語っていた。清朝では、日本も似たようなものだと一方的に思われていたのだが、日本の場合はずっとヨーロッパ諸国との交流を続けていた蓄積があったし、1860年代の改革以後、議会、近代憲法など社会、制度の変化が伴っていた。技術導入こそあったが、自力での産業革命も行われた。
 しかも日本は、清朝と違って日本人による政府を持ち、武士という責任階級が存在し、そしてついに「国民」を手に入れることに成功していた。
 一方の清朝は、政治・社会改革が全く伴われていなかった。技術面でも、ヨーロッパの文物を上辺だけ一部に取り入れたにすぎなかった。西洋の近代的な思想などは、研究どころか手に取ることすらなく頭ごなしに小馬鹿にしていた。同じアジアで近代国家を作り上げた日本の事も、依然として自分たちよりずっと格下の蛮族の国と考えていた。チャイナ世界そのものが、常に自分たちが最も優れているという固定観念に、極めて強く縛られていたのだ。「人の海」と揶揄される大人口を有する世界に生きていると仕方ない面もあるが、あまりにも世界情勢に対して無知で無防備で無謀だった。
 そして清朝の上辺の成果だけに踊らされていたのが世界中の人々であり、虚像を補強していた隣国の日本が、その虚像を図らずも叩き壊した事になるだろう。

 そして日清戦争後、今度はロシアと戦争を始めた日本に対して、その劣勢を見るや反発した報いまでを受けることになり、日本が北氷州をロシアから守るのに必要と考えていた満州の全てを持って行かれる事になった。
 いちおう満州の主権は清朝に残されていたが、実質は全て日本人のものだった。万里の長城を越える道も日本兵によって封鎖されるようになり、清朝の伝統を逆手に取った日本の政策により、未開拓の人口希薄地帯のままだった満州は、殆ど更地のまま日本の新たな開拓地へと変化した。
 また清朝は、日清戦争の賠償金として日本に対して自らの国家財政を上回る3億両を支払うことになり、この財政負担が清朝の傾きをより一層大きくさせた。
 かくて「北太平洋の鯱」によりかみ砕かれた「東洋の眠れる獅子」は、世界中のグレートパワーの哀れな獲物へと成り下がった。この事をもって、西洋の東洋に対する勝利だとする歴史家もいる。この論の場合、日本は東洋とは少し違い、太平洋世界の国だと定義されている。

 日清戦争後、世界中の列強が世界最後の大きな「獲物」へと落ちぶれた清朝の、まずは半植民地化へ向けた動きを一気に加速させた。
 日清戦争で口火を切った形の日本が、万里の長城以北での勢力を確固たるものとし、ロシアがモンゴル、東トルキスタンを影響下に置く時に、日本との間に互いの利権を確認しあった。また日本は、古くから有する台湾から対岸の福建(福州)へも影響力を増し、上海でも独自の居留地(租界)を持ち続けた。
 日本は追加賠償として海南島にも興味を向けたが、既にインドシナを持つフランス、香港を持つブリテンによる交渉を持ち、諸外国に必要以上に睨まれないため引き下がった。ただしブリテン、フランスなどとの交渉の中で、相手のチャイナ進出と既存利権を確認するのと引き替えにして、満州での新たな権益を認めさせるしたたかさを日本は持ち合わせていた。
 そしてフランスはインドシナから続く南部(華南)を、ブリテンは香港、上海を橋頭堡として中部、中南部(揚子江流域)を市場化していった。後進のドイツは、列強の間をかき分けながらチャイナへと入り、まだ列強が手付かずだった山東地域での勢力を拡大した。東経115度以西の北部地域全てはロシア人が入り込み、中央アジア同様に自らへの併合を目指した動きを押し進めた。
 またチャイナ各地が、それぞれの列強によって租借という形で事実上の割譲をされていき、鉄道の敷設権が与えられ、瞬く間に蚕食状態となった。
 列強の行動を前にして、アメリカ合衆国がチャイナでの「門戸開放宣言」を行うもうまくはいかなかった。アメリカはそもそもアジア・太平洋に何の地盤も利権もないので、表面上以上では他の列強からは実質的に相手にはされなかったからだ。しかもアメリカ自身が、カリブ海、中米、南米諸国に行っている帝国主義的政策がチャイナ干渉とダブル=スタンダードだと各国から指摘されると、チャイナ問題ではアメリカが一旦は引き下がるより他無かった。これがせめて太平洋に領土を持っていれば違っていたと言われることもあり、北アメリカ大陸の太平洋岸を有する日本への恨み、やっかみが強まったとも言われる。
 大西洋国家であるアメリカの事はともかく、チャイナに進出した列強は、最後のインペリアリズム・ゲームの場であるチャイナへの事実上の侵略を楽しんだ。この点において日本は、比較的優秀なゲームプレイヤーとして振る舞い、チャイナを独占しなかった事で列強から感謝されていた。
 日清戦争、日露戦争を経た日本は、サムライの高潔マナーを有したどん欲な帝国主義国家に変化していた。

 一方、侵略される側となった清朝も、全く手をこまねいていた訳ではない。
 日清戦争の敗北を教訓として、ようやく日本と同様の抜本的な近代化が政府主導で推し進められることになった。
 これを「変法自強運動」や「戊戌の変法」と呼び、これまでの上辺だけだった「洋務運動」の失敗を反省して、国家制度、社会制度の改革を目指すものだった。憲法、議会を制定して立憲君主制を導入し、民に権利を与えることで国民国家を作るというのが骨子になるだろう。戦争で負けた日本からすら、技術や制度の導入を図った。民間主導ながら、日本への留学も積極的に行われた。日本側も、相手の態度を見ながらではあったが受け入れた。
 日本が重視されたのは、日本が同じ有色人種国家だった。そしてこの当時ヨーロピアンは、力のない有色人種国家、つまり日本以外を蔑んでいたからだ。
 しかし当時の清朝には、大規模な改革を行う上での財政的な裏付けがなかった。対外戦争での敗北で多額の賠償を日本に奪われ、西洋に次々と国内の利権を明け渡し、地方では小規模な反乱が絶えない状態だった。借款に応じてくれる国も殆ど無かった。日本も、借金の話しになるとあまり好意的では無かった。
 また改革が急激すぎるため、国内で強い政治力を持つ保守派からは大反発にあった。他にも国内的、宮廷的に様々な問題が山積しており、改革派は皇帝の支持を得るも孤立し、ついには政治の実権の大きな部分を握り続ける西太后を暗殺しようとした。
 この結果「戊戌の政変」が起きて、改革は短期間で中途挫折を余儀なくされる。改革派は粛正され、保守派がその後も清朝の政治を動かした。もっとも改革の一部はその後保守派によって行われているので、全てが無駄だったわけではない。またこの時の政変が、海外留学または亡命していた人々の革命に向けた動きを加速させているので、時代の変化に沿っているとも言えるだろう。
 亡命者のかなりは日本に落ち延び、公私で日本から支援を受けて民主革命の動きを活発化させる事になる。ここでは日本の武士勢力が大きな役割を果たしたのに対して、国民と言われるようになった人々は冷淡な事が多かった。そして旧時代的独裁国家での革命は、一朝一夕でなせることではなかった。
 そしてこの時点で清朝中央に残されたのは、古い政治と体制にこだわる保守的な人々だった。とうてい巨大な力を有する列強に太刀打ちできず、小突かれるようにチャイナの権利を列強に切り売りする毎日となった。関税も自由に出来なくなった事もあり、列強からの商品も濁流となって押しよせ、国内産業を破壊した。武士的な儀礼を弱めた日本も、容赦なくチャイナを搾取した。
 この状態に民衆が強く反発し、義和団事件へと至る。日本との敗戦から、僅か3年後の出来事だった。

 義和団は「扶清滅洋」(※清を盛り上げ外国を滅ぼす)を掲げて勢力を拡大し、反キリスト教、反帝国主義を旗印に暴力的な活動を広げ、ついには北京の各国公使館(大使館)を襲撃するに至る。ただし清朝の官憲はほとんど阻止しなかったと言われるので、単に統治能力が低下したと評価されることもある。しかしチャイナでの出来事だけに、規模が大きかった。この時点で、一説には約20万にのぼる義和団が北京にいたとされる。多くは民衆が個々に武装した程度でしか無かったが、数は力だった。
 これに対して清朝政府は、列強の急速な跳梁を苦々しく思っていた感情もあり義和団に対して同情的で、北京に至るまででも列強が求めた鎮圧や取り締まりはおざなりだった。軍隊を出すことも無かった。逆に、勢いを増す義和団に加えて、清朝内での勢力争いや列強のさらなる圧力など様々な要因が絡み、清朝は列強(※北京に公使館(大使館)や領事館を持つ国々のほぼ全て)に対して宣戦布告するに至る。
 しかしこれは、全世界を相手に戦争を仕掛けたも同然の暴挙でもあった。そして暴徒による事件はこれで国家同士の紛争になり、以後「義和団紛争」もしくは「北清紛争」と呼ばれるようになった。

 清朝のあまりにも軽はずみな暴挙に対して、初期においては8カ国が参加した連合軍の足並みは整わなかった。
 当時ブリテンは、南アフリカで「ボーア戦争」をしていたため大軍派兵が無理だった。他の国は、北東アジアに短期間で大軍を派遣することが難しかった。実質的に、日本しかまとまった軍、重装備を持ち込むことが難しかった。カリブ海でスペインとの戦争を終えたばかりのアメリカが大軍派遣に異常なほどの熱意を見せたが、地理的にチャイナには最も遠い位置のため現実的ではなかった。ロシアも熱意を見せたが、ロシアがチャイナに至るには、シベリア鉄道から遠路モンゴルを馬か徒歩で行くしか無理のため、早急な大軍派遣が難しかった。アメリカ、ロシア共に日本の領内通過を要請したが、両国への警戒が強い日本は民間人の通過以外はなかなか認めようとはしなかった。
 他の国も、まとまった軍をチャイナに用意するには一定の時間が必要だった。そしてすぐにも大軍を出せる日本に対しては、これ以上チャイナ利権を日本に渡したくないと言う思惑があったため各国が牽制していた。
 日本も、今後は手に入れたばかりの場所の利権保持と「アジアの憲兵」を外交政策の根幹に据える積もりだったので、今回はまたとないケースだった。このため諸外国との足並みを乱す事のないよう慎重に行動していた。また政権を作り替えたばかりの日本としては、国際的に新たな日本の姿を見せておきたいので、尚更自らの素行に気を付けていた。
 しかし北京の公使館救出のため時間が急がれ、ここで日本傭兵隊の出番となった。古くは17世紀から活動している彼らは、誰にでも雇われ、そして国際的にも信用が高かったからだ。
 便宜上、正規軍から傭兵に戻された彼らは、書類上でブリテンなど各国が雇用する形をとって連合軍としての体裁を整え、連合軍の主力となった。各国の旗も慌てて用意された。また天津までの海上でも、日本海軍が実質的な主力の役割を果たした。その代わり、日本軍が万里の長城を越えて進軍することは各国との協議で行われない事になっていた。
 海路で天津に進撃した連合軍の総数は約1万5000。清朝軍、義和団の方が圧倒的に数が上回っていたが、清朝軍の兵士は保有していた近代兵器の扱いができなかった。義和団は士気は高いものの義和拳と呼ばれる武道を使うだけだったり刀剣類が武装の主体のため、余程の近接戦闘にでもならない限りは重火器を装備する連合軍の敵にはならなかった。しかも日本傭兵隊は、古くから暴動鎮圧に手慣れているため、天津上陸以後の北京に至る道のりは比較的容易く進撃することができた。部隊の中には、日露戦争で活躍した者達も含まれていた。
 その後連合軍は続々と派遣されて数を増し、日本軍傭兵の役割も実質的には短期間で終わった。
 しかし北京入城前に一悶着がある。国際問題になるのを避けるためという名目で、各国に雇われた形の日本義勇軍は北京入城に参加せず、日本軍は別の正規編成の1個連隊が北京入城とその後の占領行進に加わっただけに終わった。これが武士なら大きな不満も出ただろうが、長い歴史を持つ傭兵隊は少なくとも表向きは特に気にしなかったと伝えられている。

 北京は僅か一日でほんとど戦闘もないまま陥落し、皇帝も西太后も紫禁城を逃げ出した。これが列強なら、無防備都市宣言をして、準備を整えていた事だろう。だが清朝は、そんあ事は全く知らなかった。
 その後市街中心部は途中で出揃った連合軍の掠奪にあい、多くの財宝、秘宝が国外に持ち去られ、以後国外に流出する大きな切っ掛けとなったと言われている。また日本軍は、財宝の掠奪には積極的に参加しなかったと言われているが、国家として最も重要な場所(※総理衙門と戸部(=財務担当官庁))を押えたのは日本軍であり、備蓄されていた大量の銀、米を鹵獲している。加えて日本軍は、戦乱の間は万里の長城を越えなかった代わりに南満州も事実上占領していた。
 そして以後、約1年間に及ぶ連合軍による占領体制が北京に布かれることになる。
 清朝の権威は、内外共に完全に失墜したと言えるだろう。

 一方の義和団だが、北京陥落から一月ほどでドイツを始め列強が数万の大軍が、北京方面、乱の発祥地である山東方面に上陸して掃討戦を行うことで瞬く間に鎮圧されていった。戦闘は鎮圧であり、戦闘の名に値しないものだった。このため、山東省でのドイツの権益は大幅に強化される事になる。
 また北部から騎兵を主体として細々と入ってきたロシア軍だが、活動の主体はモンゴル、東トルキスタンにあり、現地での既成事実の積み重ねや漢民族に反発する勢力育成の工作などを熱心に行っている。ロシア側は満州からも軍を入れることを日本側に何度も申し入れたが、日本側は断固としてこれを拒んだが故だった。このため、日本とロシアの関係が悪化する一幕も見られた。一方の日本は、上記したように南満州を制圧して、満州での地歩をより確かなものとしていた。
 そしてついでとばかりに朝鮮王国に対する支配も強化され、以後朝鮮王国は外交と軍事、中央税制を日本に取り上げられた保護国として長らく過ごすことになる。完全に独立を奪わないのは、真意はともかく後に「武士の情け」と言われた。

 義和団紛争は北京議定書によって終幕を見たが、清朝の代表となった李鴻章は、敗戦国であり西太后の地位を守るためもあって、非常に厳しい条件が付せられた。中でも過酷だったのが、賠償金支払いだった。
 当初列強は、チャイナ地域の土地を奪うよりも賠償金に固執した。今回の混乱で、チャイナ民衆の反発と人の多さ、そして自らの本国からの遠さから、植民地としての統治の難しさを実感したからだ。しかし8カ国が十分な賠償を得るには総額4億5000万両必要で、以後四半世紀近くかかる返済期間の利息を含めると9億8000万両が必要と算定された。列強基準で割り出した妥当な数字だったのだが、この当時清朝の一年当たりの歳入が9000万両程度だったことを付け加えれば、いかに法外な賠償金だったかが分かるだろう。しかも清朝は、日本との戦争で3億両を借金で支払ったばかりだった。新たな借款に応じる国や銀行も無かった。
 このため清朝の内情を知る日本から、一部条件を領土割譲に変更してはどうかという提案が出された。しかしこれには、日本が満州の割譲を画策しているからだという意見が大勢を占める。事実その通りなのだが、日本はねばり強くロビー活動や各国との交渉を続けた。
 そして日本は、漢民族とそれ以外の民族の反発を利用すれば統治は比較的容易いし、それらの地域は各国が有する利権の隣接地ばかりだと説いた。また日本は、支払い能力を超えた賠償は清朝の財政支配を行わねば利息すら取れないとして、そうした行いは将来必ず禍根を残すというものだった。領土にする気がないのに、そのまま国を残して搾り取るのは現時点では有効ではあるが、50年、100年後の事を日本は説いた。また奪う利権に関しては、土地ではなく鉱山の権利なども主張した。こうした日本の行動は、長い視点で物事を捉えるアジア的であった。
 結局賠償金は1億5000万両とされ、天津が全て連合国共同管理による租借地となり、各国はそれぞれの勢力圏での管理と利権を拡大した。
 これまでの租借地の多くが領土割譲に変更され、さらに地域も拡大された。また鉱山の利権も多くが割譲や租借の形で清朝から奪われた。また軍の主力を担った日本に対しては、満州利権のさらなる拡大という褒美では今後禍根を残すし各国間のバランスが取れないので、新たに日清戦争でも検討された海南島が与えられることになった。当時海南島は、阿片まみれの未開発の島とされていたので、日本にも相応に統治での苦労を負わせようとしたものだった。
 また、雲南はフランス、チベット、青海はブリテン、モンゴル、東トルキスタンはロシアに、それぞれさらなる権益が与えられ準植民地となった。他には、山東省がドイツの利権となった。要するに、3億両の代わりにチャイナ世界の「藩部(辺境全て)」が切り売りされた事になる。
 他にも、北京や天津に外国の駐兵権を認められている。しかし賠償金の減額は、諸外国による清朝の財政支配を辛うじて守ることになり、また辺境の切り売りで漢民族地域への浸透は若干防がれたので、一時漢民族の間には厄介者払いが出来たという論調もあった。

 しかしこの敗北で辛くも生き延びた清朝は、列強にとってもう一度虐めて搾り取る相手でしかなかった。
 清朝自身は、いっそうの近代化と改革を押し進めるようになったが、もはや完全に手遅れで焼け石に水という状態だった。国内では保守派は全て粛正されたが、李鴻章などこれまで改革を担っていた人々も様々な理由でいなくなり、改革を押し進める中心人物に欠けていた。また賠償金は減額されたが、それでも当時の清朝の国家予算を上回る金額であり、しわ寄せは当然民衆におよんだ。
 そして清朝が満州族の王朝である事が、チャイナ地域でほとんどを占める漢民族のイデオロギーを刺激する。「掃清滅洋」という清朝を敵視するスローガンは、義和団以外にも広がりを見せるようになる。
 近世的な国家のままだった清朝は、内と外から溶けるように崩れ去ろうとしていた。

 そうした姿を見た日本人達は、自分たちが変化していなかった場合の映し鏡と考え、いっそうの歩みを強めるようになる。そうした姿は、礼儀正しい武士の姿ではなく帝国主義的な兵士の姿だった。
 また日本が帝国主義に進む決意を新たにしたのは、チャイナという最後の獲物が貪り食われた今、次に待っているのが列強同士の直の争いと考えたからだった。
 帝国主義時代は、ピークを迎えようとしていた。


フェイズ24「ネクスト・センチュリー」