■フェイズ24「ネクスト・センチュリー」

 西暦で20世紀が幕開けした。
 その前年の西暦1900年は、関ヶ原の合戦により徳川の天下が定まって三百年だった。そして何より西暦1903年は、江戸幕府が開かれてから三百年の記念となる年でもあった。
 このため幕府は、1900年の関ヶ原合戦三百年を始まりに、開府三百年記念として盛大な式典の準備を進めていた。江戸城本丸では、数百年ぶりに外観以外を近代的建築とした壮麗な天守閣の再建工事が進んでいた。連動して、本丸御殿も耐火性、耐震性、雷対策を重視した近代建築への置き換えが進んでいた。ただし世界最大規模の木造建築物だったため、旧来の本丸御殿は江戸市街の西部、赤坂辺りに移築して離宮とされる事にもなっていた。
 また、各大名から寄贈された膨大な屋敷(各江戸屋敷)を利用して、新たな政府施設、公共施設、学術施設への流用と再建が実働していた。連動して、都市内部の鉄道網整備(地下鉄含む)、道路の拡張と石畳化などを大規模に実施し、江戸の街そのものも大きなスクラップ・アンド・ビルドの時期に突入していた。
 当然ながら、鉄道、港湾など近代的なインフラの整備もいっそう進み、新しい面、近代的な面も過度に欧州的色合いに染まらないように、尚かつ利便性を重視しつつの整備が進められた。
 世界第二の先物取引が行われている商都大坂など日本各地の都市でも、江戸に続く形で都市の整備と近代化が急速に進んでいた。大坂では商人が中心となり、寄付による天守閣再建も江戸城に負けずに行われる予定になっていた。
 白い漆喰と黒い屋根瓦が特徴的な日本の大都市は、大きく変貌しようとしていた。
 そして何より新たな日本、いや江戸幕府は、名称をそのままに新しい政府、国家へと着実に変化しつつあった。近世的政府だった江戸幕府は、経過は違うがブリテンのように自ら近世から近代への革新を果たそうとしていたのだ。

 しかし、ブリテンが「パックス・ブリタニカ」、「ヴィクトリア・エイジ(時代)」として牽引してきたヨーロッパ世界中心の近代における苛烈な帝国主義は、いよいよ最盛期へとさしかかりつつあった。全地球という意味での世界のほとんどが、グレートパワー(列強)と呼ばれる強大な国力(=近代工業力)を有する国々によって分割され、その分割すべき場所もいよいよ枯渇しつつあったからだ。
 このため列強同士の軋轢や衝突も増え始めており、中でも植民地獲得競争に遅れた国と、先に多くの土地を得た国との対立が深刻化しつつあった。しかも植民地を持たない新興国の代表が、世界第一と第二の工業国に躍進した、アメリカ合衆国とドイツ帝国だった。そしてアメリカでは第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在1901〜1909年)が、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム二世が、自国の発展を掲げて膨張主義、帝国主義路線を取っていた。
 このうちアメリカは、広大で豊かな国土を持つため、一概に持たざる国とは言い難い。しかし自らの巨体を飲み尽くしつつあり、さらに次の時代を見据えた対外膨張に積極的だった。だが大陸西部を持つ日本が与しやすい相手ではないため、同じ大陸にある日本領・新日本への圧力を一時棚上げして、先にカリブ海の制覇と中米への影響力拡大を進めた。その結果の一つが、ヨーロピアン同士の帝国主義的な戦争となる「アメリカ・スペイン戦争」だった。
 ドイツは強引な対外膨張路線をとって、世界各地で列強とぶつかっていた。バルカン半島ではロシアと、中東ではブリテンと、アフリカではブリテン、フランスと、日本との間でも東南アジアと南太平洋で、ドイツが対立や衝突、軋轢のない場所は存在しないほどだった。しかもドイツは、圧倒的な世界最強の海軍を有するブリテンに対向できる海軍力を整備することで、ブリテンと対等な立場に立とうという野心的な挑戦を本格化させようとしていた。
 一方持てる国は、ブリテン、フランス、そして日本が代表とされていた。ロシアも広大な領土を有しているが、今以上の外への膨張が難しい地理条件の上に、日本との戦争に負けたばかりで国威もやや下向きだった。すぐ西には、ドイツという強大な仮想敵もいた。
 そして持てる国の筆頭であるブリテンは、20世紀が幕開けした時点で人類史上最大規模の巨大金鉱(=南アフリカ奥地)の獲得と世界規模での金本位制確立、金融国家を目指していた。また国内及び領域内での改革と再編をいち早く進め、本国では民主政治、国民保護へと動き、海外領では自治化と直轄植民地へと再編しつつあった。19世紀の終盤から外交にも力を入れ、フランス、ロシアと協商関係を結び、アメリカとは一定の妥協を持ち、日本とも共同歩調を取ることで仮想敵を減らし、真っ向から挑戦してきたドイツとの対決姿勢を整えていた。
 フランスはブリテンよりずっと地味で、堅実にドイツを孤立化させる外交を展開しつつも、相応の規模の植民地の地固めをし、ロシアなどへの高利貸しとその金での製品輸出で資本と生産力を高め、ヨーロッパナンバー2としての帝国を手堅く作っていた。

 そして三番目に持てる国と見られていた日本だが、何よりも本郷からヨーロッパから非常に遠いという最大級の地の利を持っていた。
 しかもサムライのリーダーである徳川慶喜は、特権階級の武士だけでなく大多数を占める平民、つまり国民全てから支持を受ける形で国内の大規模な改革を実施し、中途半端に残ったままの封建国家を事実上の国民国家へと変化させた。サムライ達は依然として残っていたが、彼らの特権はジェントリーやユンカーのように限られるようになり、そして節度ある近代的な責任階級へと変化しつつあった。そうした姿は、ブリテンやドイツの貴族や騎士に似ていると言われた。
 そして、まるで日本が帝国主義への名乗りを上げるようであるとも言われ、しかも日本は国家の転換点として対外戦争を利用していた。外圧による急激な変化は日本の半ば歴史的な伝統なのだが、ヨーロッパ諸外国にとっての日本は、有色人種国家という事もありかなり不気味に映っていた。
 そして日本の有する領域は、北太平洋全域に広がるほど地図の上では広大だった。
 荒涼とした大地が多いながらも、ユーラシア大陸北東端を全て支配し、北アメリカ大陸を北西部を中心に約三分の一近くを有していた。また東南アジアの島嶼部の半分ほどを有しており、太平洋での覇権も半ば以上持っていた。
 かつてのスペインやこの当時のブリテンのような太陽の沈まない国ではなかったが、最大経度の範囲で見ると地球の三分の一以上で、領有する陸地面積も世界全体の6分の1に達していた。
 また域内人口も多く、日本本土6500万、新日本1800万人、その他の地域の日本人を合計して600万、総数8900万人がおおよその日本人の数だった。しかも東南アジアの日本領内には日本人、日系人を含めおおよそ2500万人の住民がおり、そこでの国際公用語は完全に日本語化していた。当然だが、自らの領内全ての公用語も日本語とされていた。
 加えて言えば、日本本土もいまだ発展し続けているタイプの新興産業国家であり、農村と都市の所得格差、植民地などでの開拓地の広さなどもあって人口拡大が続いていた。自前の開拓場所にも困らないので、人口拡大は長期的に続くと見られていた。しかも領土に隣接する満州地域も、急速に自国領のような場所となりつつあった。他にもハワイやコリアのように、属国もしくは保護国化している国もあった。
 人口、領域の広さ共に、ロシアに匹敵する大国だった。
 そしてほとんど全ての場所が日本本国と同様に太平洋に面して海で繋がっているため、一部で指摘されるほど植民地の距離は不利とならなかった。むしろ海運によるコストの優位を利用して、他国よりも早い発展と拡大が続いていた。

 しかも日本本土、新日本では近代産業も発展しており、二つの地域は国民所得も西ヨーロッパ諸国並に高かった。
 そして国力に裏打ちされた軍事力も充実しており、広大な海域を活動範囲とする海軍は、ブリテンに次いで世界第二位の規模と戦力だった。陸軍は規模こそ限られているが、先のロシアでの戦いに勝利したようにヨーロッパ諸国が予測したよりも強力だった。
 それ以外の面では、本土の天然資源が限られていたが、それは島国であり海外領から持ってくればよく、本土を含めた近在の海には日本に本格的に対向できるだけの海軍を持つ国は存在しなかった。このため北太平洋全域を、政治的な揶揄として「バスタブ・オブ・ショーグン」と呼ぶ事がある。
 このため日本本国から遠いヨーロピアンの列強各国から見れば、日本はまだ帝国主義国家として「遠慮」しているのではないかという意見が大勢を占めていた。しかしこの点は、日本のこれまでの支配層だったサムライ達が面子や自尊心を重んじる人々だったからで、将軍を自ら担ぐようになった日本の市民(国民)達が率いるようになるこれからの日本は、どん欲な帝国主義国家となる可能性が高いと見られていた。
 そしてヨーロピアンの一番の懸念は、日本がどの国とも同盟や協商関係を結んでいない事だった。これはアメリカも同様なのだが、アメリカは白人国家だが日本は異民族、異宗教の国であるため事態はより深刻だと考えられていた。弱い国ならトルコやチャイナのように利用したり潰したりもできるが、今や日本は有色人種国家の孤高のトップランナーだった。しかもヨーロピアン国家とのつき合い方もそれなりに分かっているだけに、たちの悪い相手だった。その上日本本国は、地理的にヨーロッパから最も遠い場所にあった。広大な領域の中心にある日本列島は、地理的に難攻不落の要塞のようなものだった。
 とはいえ、日本がこれ以上帝国主義路線を拡大しても、拡張出来る場所は存在していないと言うのも一般評であった。日本が他の国々から袋叩きに合いたくないのならチャイナへの進出は今以上行わないだろうし、日本が向き合う他の国といえばロシア、アメリカ、ブリテンという最も対処しにくい国ばかりだった。何か大きな動きをしたければ、他の列強と共同歩調を取るしかなかった。
 そして日本人自身も有色人種国家であることを自覚しているので、複数のヨーロッパ諸国から同時に攻撃を受けないために、極端に出過ぎることもないだろうと分析されていた。要するに、既に微妙な帝国主義的均衡の上に立っているのというのが、20世紀が幕開けした時点での日本への評価だった。
 実際の日本も、ロシアへの対向から北東アジアでの活動は活発だったが、他では概ね「紳士的」に振る舞っていた。
 ロシアとの戦争で激しい抵抗を見せたのは、ロシアが踏み込んだ場所が日本の本土防衛のラインを超えたからに過ぎなかった。

 そんな日本に対しては、ロシアは一旦アジア進出の方向性を転じて、日本と最初に協商関係を結ぶ国となった。両者の鉄道を結んで清朝での境界線を定めて互いに認め合うことが、この頃のロシアには必要だった。十年後は情勢が変わるかも知れないが、この時点でのロシアは雌伏の時だった。日本も、大陸での一定の安定と安全保障が必要だと考えていたので、ロシアとの一定の協力関係は有効と考えていた。
 また日本との関係を重視していたのが、当時最大最強の国家だったブリテンだった。
 ブリテンは基本的に北アメリカの新日本領と北太平洋航路を使うことで、パックス・ブリタニカと世界中の通商網と電信網を維持していた。また日本領各地(環北太平洋)で産出される豊富な金(Au)を効率よくブリテンが集めるには、簡単に日本が滅ぼせない以上、日本との良好な関係が好ましかった。国際的な金融をコントロールするために、金本位制の基礎となる黄金は幾らあっても不足することはないからだ。
 本当ならブリテンとしては、日本の海外領土を全て奪ってしまいたいところだったが、相手に相応の力がある以上、当面は商売と割り切って勤しんだ。それに日本が北米大陸西側の新日本を有することで、ブリテンから離脱したアメリカは太平洋に押し出すこともできないし、西部の開拓も頭打ちとなっているのは、ブリテンにとって喜ばしい事だった。
 ブリテンも今更アメリカと全面戦争をしようとは考えていなかったが、世界最大の工業国となったアメリカは、ブリテンの覇権維持にとってあまり好ましくはなかった。そして強大な国力を持つ日本とアメリカが一定の政治的な距離を開けていがみ合うのも、ブリテンにとっての利益だった。日本とアメリカが対立する限り、日本はブリテンとの関係を維持し続けないといけない点も、ブリテンにとって有益だった。日米対立は、常に日本との関係をブリテン優位に運ぶことが出来るからだ。
 また先年日本がロシアのアジア、太平洋進出を抑えきった事はブリテンの国益に叶っていたし、その日本とロシアが満州戦争後に関係を深めている事は、ロシアとインド、ペルシャで対立しているブリテンとしては大いに価値があった。
 そしてブリテンは、1898年から南アフリカでボーア戦争をしていたのだが、ブーア人(※オランダ移民の子孫)の実施するコマンド戦法に手を焼いて戦争が泥沼化し、20世紀を迎えた時点では大きく身動きがとれない状況だった。
 このため満州戦争後は殊更日本への接近を実施し、同盟関係にこそ至らなかったが主に経済面を中心に関係を強化していた。日本が欲しいというのなら、最新の兵器や軍艦もほぼ無条件で用立てた。
 また日本側の親ブリテン外交もあって新日本での関係が進み、日本(新日本)とブリテン(カナダ)の間に移民に関する相互条約が結ばれ、新日本にはカナダからの移民もしくはカナダ経由で入ってきた移民に関しての受け入れが認められるようになった。新日本領の中北部大平原はまだまだ原生林や原野も多く、移民を受け入れるための開拓地は広がっていた。
 そしてアメリカでのフロンティアの消滅以後は、カナダにもかなりの数のヨーロッパ移民が流れていた。新たな移民層としては、イタリア、東ヨーロッパ、ロシアからの移民が祖国の人口飽和に伴って伸びていたため、農地として開く事ができる場所のある新日本への移民が積極的に進むようになる。これはアメリカの移民を奪っている事にもなり、アメリカの国力増大を防ぐという点でも有効だった。

 無論だが、新日本の移民受け入れには、言語の違いによる壁があった。だが、新たな移民にはイングリッシュと無縁の者が多かったし、宗教面でもカトリック(旧教)かスタンダード(正教)が殆どだった。ロシア系移民などは、アルファベットすら別物だったから、従来の北米移民と比べると分けて考えるのも容易かった。また、日本側が地方(=地域社会=ローカル・コミュニティー)に関しては特に農業移民に対して言語や文化の維持を認めていたため、大量の移民が流れ込むことになる。
 しかも1900年〜1910年は、全ての時代を通じて最も多数の移民(約900万人)がヨーロッパ各地から北アメリカ大陸に流れ込んだため、新日本の解放は膨大な移民を受け入れて飽和状態にあったアメリカにとってすら有り難い話しですらあった。当時アメリカは、ニューヨークなど人口過密化した都市での犯罪率の増加と、極端な貧富の差の拡大に悩んでいた。それにアメリカに古くから住んでいるアングロ系民族は、同じヨーロピアンでもアイリッシュ系、ラテン系、スラブ系を有色人種に対するほどではないが蔑んでいた。
 もっとも太平洋側から押し寄せる移民の数も、日清戦争以後にチャイナ系が爆発的に伸びていたので、新日本はこちらでも移民対策に苦慮していた。しかし新日本の場合は、日本人移民が満州へと多く流れるようになっていたため、苦労の多くは言語、習慣面での同化に関する事が多かった。小上海とも呼ばれた中華街は、新日本の都市での一般的風景となりつつあったほどだった。このため新日本では、日本人住民を中心にした都市部での支那排斥が盛んとなり、1904年にはチャイナ系移民の受け入れが禁止されることになる。

 なお、20世紀に入る頃の新日本領内の総人口は1800万人で、アメリカ合衆国は7200万人だった。ちょうど4分の1になる。これが10年後になると、新日本2300万人、アメリカ9300万人へと双方同じ程度に拡大する。さらに10年後だと、アメリカの総人口は億の単位に入り、新日本も3000万人以上に増加していく。新日本に連動する形で、カナダの人口も順調に伸びていた。膨大な移民、爆発的な人口増加、それに伴う産業の発展が、北アメリカ大陸を包み込んでいた。
 そして20世紀初頭での新日本の約2000万という人口規模は、もはや併合や合併という考えを吹き飛ばすほどで、日本本国の軍事力や国力よりも大きな威力を持っていた。しかも日本人の数は、日本本国を中心にして当時のアメリカよりも多かった。その上、海軍力ではアメリカが圧倒的に不利だった。
 確かに、日本と全面戦争して新日本を併合することは国力差から十分に可能だった。世界の果てのように立ちふさがるロッキーの峰々も、鉄道さえ敷設すれば越えることが可能だった。だが、如何にアメリカと言えども、国内に1000万単位の近代的生活を送る有色人種、不穏分子を抱えることは安易に選択できなかった。最悪、アメリカの理想、つまり白人による支配が遠くない将来に崩壊するという可能性も言われていた。
 この頃のアメリカの複数のシンクタンクでは、もし全面戦争をして新日本を併合した場合、その後最低でも四半世紀、最大一世紀以上もの間、国内の混乱が続いて海外進出も遅れ、かえって国力が衰退すると予測していた。しかも、半世紀以上先の事ながら、有色人種の大統領が誕生する可能性すら示唆していた。この研究結果は、当時の白人達、特に東部沿岸に住むアングロ系白人にとって悪夢でしかなかった。

 以上が、20世紀が幕開けした頃の日本人社会を中心にして見た世界情勢の概要になる。
 この後は戦乱の続く半世紀、動乱の20世紀が幕開けするが、江戸幕府が乗り切った300年を足場とした大日本国の前途は、かなり明るいものだったと言えるだろう。
 これ以後世界は、ブリテンを中心とした協商関係の連なりと、ドイツを中心にした同盟諸国への二分化していくが、少なくとも日本本土の周りに強い脅威となる国家は当面は存在しなかった。ロシア、アメリカ共に、日本が先に相手を抑える位置を占めたため太平洋に入ることが出来ずにいたし、ヨーロッパ諸国が東アジアにまで投射できる力は常に限られていたからだ。外郭地となる北氷州、新日本は、それぞれロシアとアメリカの強い脅威を受けていたが、国家が総力を傾ける全面戦争でもしない限り、奪われたり併合されるという事態は起きないと予測されていた。しかもどちらも、全面戦争をするのが難しい地理環境にあった。加えて日本も、手抜きはしていなかった。
 また、アメリカとドイツと言う当時世界第一と第二の重工業国が手を結べば最大級の勢力が誕生すると言われていたが、市場、植民地を持たない国同士が長期的に連携できる世界でも時代でもなかった。大規模な侵略戦争や国家の総力を挙げた全面戦争を即時に始めれば話は別だが、20世紀に入った頃は誰もそんな事は考えていなかった。
 20世紀が幕開けした頃は科学文明の時代と信じられていたし、ヨーロピアンを始め列強と呼ばれる国々は、自らの有史以来の繁栄を前にして前途に明るい希望を持っていた。
 ブリテン人は「パックス・ブリタニカ」が今後も続くと無邪気に考えていたし、フランス人は「ベル・エポック(良き時代)」と自らの輝かしい繁栄を誇った。日本人の多くも、再び「天下太平」が訪れたと思っていた。持たざる国としての不満を持ってるドイツも、自らの発展を信じてがむしゃらに走っていた。アメリカ市民達のほとんどは、山ばかりの新日本などなくてもアメリカは十分に広く資源も穀物も豊かで産業も発展している国だから、他国の争いに関わる愚は無用と思っていた。多くのアメリカ市民にとっての新日本も、基本的に山向こうの彼方にあるので印象は薄く、地域として独立していないだけでメキシコとたいして違わない存在だった。何しろ東部沿岸からだと、数時間の時差があるほどの遠距離だった。

 そして日本は、亡国の危機を乗り越え国民国家として船出したばかりのため、非常に明るい空気に満たされていた。
 改革のため権力と特権の多くを失った武士達も、まだ刀を差して闊歩していた。将軍も幕府も存在したままだった。だが国も社会も大きく変化し、髷を結う人はまだしも、月代(さかやき)を入れる人は激減した。町中には今までの和服以外の服装も増えた。
 しかし他国の支配が及ぶこともなく、そこは日本人が統治する日本人の国のままだった。しかもこれからは、全ての国民が国家に対する義務を負えば、あらゆる可能性、展望の見える時代だった。
 故に人々の顔は明るく希望に満ちていた。「天下太平」という言葉も、心からの言葉だった。
 江戸幕府という国家の衣を時代に合わせて仕立て直した日本は、20世紀が幕開けしたばかりの頃、また新たな道を歩き始めたばかりだった。


次回:「二十世紀にて候」?


●あとがきのようなもの