●フェイズ01:「「八八艦隊」への道のり」

(※ここからは、この世界のアメリカからの視点という想定で進めたいと思います。)

 日本の近代史を振り返ると、大きなターニングポイントは主に戦争だった。独立戦争もしくは革命戦争である「戊辰戦争」と、小規模な内戦である「西南戦争」によって明治という形は確固としたものになった。初の対外戦争であるチャイナとの「日清戦争」で帝国主義に目覚め、ロシア帝国との「日露戦争」という名の自衛戦争、祖国防衛戦争に辛うじて勝利することで、列強としての頭角を現した。
 「イエロー・グレートパワー(黄色い列強)」の誕生だ。
 その後日本は、朝鮮、満州を軸として中華地域への帝国主義政策を強めていく事になる。そして「第一次世界大戦」で欧州諸国が没落し、逆に日本は戦争特需によって大躍進する事に成功した。
 そして欧州諸国の没落と平行するように、今度はアメリカ合衆国との対立が急浮上した。アメリカが1906年に行った「グレート・ホワイト・フリート」やセオドア・ルーズベルト大統領時代の膨張主義が最初の対立の原因だという声もあるが、この場合原因は些細だと考えられるし、多くの原因はより強引な帝国主義路線を進んだ日本にこそ多くあるだろう。「持たざる国」である日本は、強引な帝国主義的進出を行わなくては、当時の近代国家、列強として自立を維持することが難しかったからだ。
 そうした大きな情勢はともかく、結果として「八八艦隊計画」が日本とアメリカの対立の新たな象徴となった。そして「八八艦隊計画」を現実のものとした事件こそが、1914年に勃発した「グレート・ウォー」だった。

 「グレート・ウォー」が起きると、日本は英仏から積極的な欧州派兵を打診される。当時日本とイギリスが軍事同盟関係にあったのだから、ドイツとの戦いに苦しんでいるイギリスとしては当然の求めだった。ここで日本政府は、未曾有の戦争に対する自らの消耗を嫌い、積極的な派兵に消極的だった。しかし、日本陸海軍の政争というよりも幼稚な口げんかの結果、若干の修正を余儀なくされる。
 常に多くの予算を使っている海軍に対して、陸軍が貰った分だけの仕事をしろと様々な方面で文句を言った結果だった。
 陸軍の「文句」にまともに反応した海軍は、「ならば欧州で結果を見せる」と自ら派兵の意志を見せてしまったのだ。この時点で1915年頃の事だ。ちょうど海軍には、イギリスで1番艦を建造した強力な《金剛級》巡洋戦艦が4隻揃いつつある頃だった。
 当時《金剛級》巡洋戦艦は世界最強の巡洋戦艦であり、同級4隻で編成された戦隊も世界最強の巡洋戦艦戦隊と言われたし、事実そうだった。27ノットの高速と14インチ砲を搭載する巡洋戦艦は、イギリスですら保有していなかったほどだ。
 そして日本国内での言葉をどこからともなく聞きつけたイギリスは、日本政府に海軍の有力艦艇派兵を認めさせてしまう。この時日本政府は、派兵費用の半額、現地での燃料補給などを英仏負担とすることで艦艇の派兵を了承。既にアジア、太平洋からドイツ軍を駆逐したこともあり、多くの戦力をヨーロッパへと派兵することになる。また日本政府は、日本の艦隊派遣に対する報償として、日本に対する発注の増加も認めさせており、より多くの受注に日本経済は湧くことになる。
 なお派兵内容は、イギリスが強く求めた《金剛級》巡洋戦艦4隻は当然として、当時日本海軍が有する前弩級以外の戦艦、巡洋戦艦の約半数に当たる8隻が、順次ヨーロッパへと赴くことになる。しかも日本海軍は自らの自尊心を満たすため、完成したばかりの最新鋭超弩級戦艦《扶桑》までをヨーロッパに向けて出撃させ、当時世界で唯一の基準排水量で3万トンを越える巨大戦艦が「遣欧艦隊」と命名された艦隊の旗艦となった。当然だが、戦艦、巡洋戦艦以外にも、装甲巡洋艦、巡洋艦や駆逐艦といった補助艦艇も随伴していた。しかも日本本土では、艦艇派遣の穴埋めをするためという理由で大型艦艇の建造促進が決まり、さらには建造規模の拡大のため新たな大規模造船施設も増設された。イギリスの求めた船団護衛のために、イギリス海軍を模範にした艦隊護衛用の大型駆逐艦の建造も多数行われることになり、海軍は軍民共に活況を呈することになる。
 一方日本陸軍だが、日本海軍が大挙ヨーロッパに向かうと、軍内部では俄に自分たちもヨーロッパに向かうべきだという意見が強まった。しかしこの意見も、「ヴェルダンの戦い」の様子が伝わると急速に萎んだ。余りにも凄惨な消耗戦の情報は、利益よりも損害が大きいと考えられたからだ。単に損害を受けるだけでも痛手なのに、「負け戦」や「犬死」となることを強く警戒したのだ。

 一方、勇躍北海にまで進軍した日本海軍は、1916年5月31日に行われた第一次世界大戦最大規模の海戦である「ユトランド沖海戦」にも大挙参加。特に前衛艦隊の一部に編入された超弩級戦艦《扶桑》と《金剛級》巡洋戦艦4隻は大活躍を示し、共に出撃したイギリス巡洋戦艦部隊の窮地を救うばかりか、自らの撃沈スコアによって海戦そのものの戦術的勝利を連合軍の手にもたらすことにも貢献する事になる。
 同戦闘では、イギリス海軍を中心とする連合軍艦隊は巡洋戦艦2隻、装甲巡洋艦3隻を失うも、ドイツ海軍の巡洋戦艦3隻、旧式戦艦4隻を沈めた。戦果の半分近くが結果として日本海軍艦艇によるものであり、世界は「日本は、ロシアに続いてドイツも海でうち破った」と褒め称えた。しかも日本海軍は、かの東郷平八郎をかなり無理矢理に「代表」としてロンドンに送り込み、自らの宣伝に余念がなかった。
 そしてこの大戦果を得た日本海軍は、日本国内での「攻勢」を強め、1919年に念願の「八八艦隊計画」の全額予算通過を認めさせる事に成功した。
 日本海軍の勝利に対する世界からの賞賛に日本陸軍は焦りを大きくしたが、1917年にアメリカが参戦すると自らの存在感が低下することを考え、結局自らの側からヨーロッパ派兵を見送ってしまう。結果「第一次世界大戦」では、ヨーロッパまで行って戦ったのは海軍だけと言うことになった。派手な戦闘での活躍は「ユトランド沖海戦」だけだったが、その後も地中海を中心とした船団護衛で海軍の活躍は続き、最後は「パリ講和会議」の代表を乗せて凱旋帰国する事になる。
 なお、日本が海軍を過半としてヨーロッパに送り込んだ兵員数は、軍属を含めて約3万人。列強の中では最も少ない数字だが、「ユトランド沖海戦」での勝利と多数の大型艦艇によって存在感は非常に大きかった。

 大戦が終わるとすぐ、日本本国の近辺では「シベリア出兵」が行われていた。だが、海軍のヨーロッパ派兵による散財で予算を渋った政府のため、派兵の規模は派兵当初から縮小された。また政治的な面倒を嫌った事もあり、日本は各国と共同歩調を取る形で、1920年春にはシベリアから撤退していた。日本陸軍と大陸への進出を狙う人々は、かなりの抵抗というより野心を示したが、日本国内での政治力不足から撤退せざるを得なかった。大戦で活躍した海軍に対する挽回の為のシベリア出兵だったが、海軍の政治力に押し切られた形だ。
 この結果、シベリア共和国の可能性を潰したと言われることもあるし、シベリアの白軍を見捨てたのだと言われる事もあるが、日本の国際評価を高め戦費の無駄な浪費をしなかった点を考えれば、十分賢明な判断だったと言えるだろう。
 そして世界大戦前後のため、日本は比較的熱心に国際協調を心がけたのだが、一つの問題が主に海軍を中心に大きく頭をもたげることになる。
 世界大戦後も主に日本とアメリカの間で行われている海軍拡張に対して、世界というより主に欧米諸国が異を唱えたのだ。その結果開催されたのが、「ワシントン海軍軍縮会議」だった。世界的に海軍の縮小は必要だったが、日本での艦艇建造が必要性をより高めたことは間違いなかった。
 同会議で日本は、最初から多くの譲歩を迫られることになる。

 当時日本海軍は、数多くの「スーパー・ドレッドノード・クラス・バトル・シップ=超弩級戦艦」を保有するようになっていた。
 14インチ砲搭載艦では、戦艦《扶桑》《山城》《伊勢》《日向》、《金剛級》巡洋戦艦の《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》の合わせて8隻があった。これはアメリカの11隻に対して、70%ほどの比率となる。しかし軍縮会議を呼び込んだのは、この後に続く16インチ砲(正確には41センチ砲)を搭載した戦艦、つまり「八八艦隊」計画艦だった。
 会議の開催された1921年11月の時点で、戦艦《長門》《陸奥》《加賀》《土佐》が既に完成していた。《土佐》はかなり微妙だったが、日本は完成を言い張っていた。他にも《天城》《赤城》が既に進水して機関も主砲も据え付けた状態での艤装段階だった。また、《愛宕》《高雄》が既に進水式を終えて、船台上には《紀伊級》戦艦4隻があった。艦名が定められたばかりの《富士級》の4隻も、既に資材収集段階にあった。
 これらの建造状況は、「グレート・ウォー」での戦争特需で、日本国内の大型艦建造能力が飛躍的に拡大・強化していた事を示している。
 そしてイギリス、アメリカは、これら殆どの戦艦を破棄するべきだと、日本政府に迫った。この当時、16インチ砲搭載戦艦の完成が1隻だけというアメリカにとって、日本が16インチ砲搭載戦艦を多数保有する状態など、到底許容できるものではなかった。イギリスは、とにかく無駄遣いをしたくないという気持ちが強かったが、そのためにも日本海軍の削減は必要と考えられた。でないと、アメリカの動きも止められないからだ。
 一方日本側代表だが、彼らも国際協調は考えていたし、自らの軍拡が行きすぎている事は自覚していたので、一定程度の譲歩は行うつもりだった。海軍の法外な計画は、日本の貧弱な国家予算を強く圧迫していたし、世界大戦後の世界に余計な波風を立てるつもりは無かったからだ。このため日本は、艤装半ば以上進んでいる《天城級》4隻を軍縮の理念に従って破棄する対案として、対米英70%の保有枠を主張。もしくは、《天城級》4隻を有する代わりに、自らだけ12インチ砲搭載戦艦の全廃と対米比率6割を受け入れると伝えた。
 これに対してアメリカは、日本の対米6割は「当然」として、日本側の要求(天城級廃棄案の方)を呑む対案として、自らの16インチ砲戦艦も対日150%を要求した。つまり、《コロラド級》の残り3隻に加えて、今だ建造初期段階の16インチ砲戦艦または巡洋戦艦のどれか2隻の建造を求めたのだ。
 当然と言うべきか、日本側もアメリカの主張には反対せざるを得ず、会議は紛糾した。
 イギリスは両国の調整に乗り出し、アメリカの追加建造5隻と日本側の7割案で話しを調整しようとした。この場合、日本は15隻、アメリカは12インチ砲戦艦を含めて21隻の保有となる。イギリスは数は数ではアメリカよりさらに多いが、個艦性能から同程度の戦力となる。これならば、日米双方が何とか条件を飲むだろうというのがイギリスの読みだった。だが、日本側は12インチ砲搭載艦全廃まで譲る事を考えていたが、アメリカが日本の6割を頑として譲らなかった。
 しかもこの時、水面下の情報から日本の外交暗号が主にアメリカに筒抜けであることが、日本側に知れることとなった。これで日本側は態度を悪い方向に急変。会議は決裂するという前提を立てて、強硬な態度を取ることになる。この一件を、アメリカの秘密外交の失敗とする事もある。
 結果、各国は過度の軍拡を行わないように心がける事と、会議は2年後に改めて議論するという事を決めただけで閉会となってしまう。
 辛うじて中華地域での紳士協定となる「九カ国条約」は、海軍軍縮以外の参加国も来ていたため成立したが、アメリカの目論んでいた日英同盟解消を目的とした太平洋上での新たな条約も、議論すらろくにされないまま流れてしまった。

 1922年2月に会議が閉会されると、日本とアメリカは猛烈な勢いで艦艇の建造を再開する。現状では日本の一馬身リードだったが、建造施設数と能力の圧倒的な差から、5年後にはアメリカの方が優位を獲得できる事が、この時点で決まったようなものだった。建造施設数と施設の能力が大きく違っていたからだ。
 このため日本は、自らの建艦計画に修正を加え、量産効果を多少落としても、出来る限り個艦性能を向上させる選択を行う。
 事態が多少なりとも変化するのは、1923年11月にジュネーブで仕切直される会議上だろうと考えられた。この時点なら、アメリカはまだ16インチ砲戦艦を4隻しか就役させていないので、まだ取り返しがつくと考えられていたからだ。ただし、同年には日本は《天城級》2隻を完成させてしまうため、状況は微妙だとも考えられていた。アメリカが日本の保有率60%を譲らなければ、状況にあまり変化は望めないからだ。
 しかし一つの事件が、海軍軍縮には光明を指すのではないかと考えられた。1923年9月1日に、日本で関東大震災が起きた事だ。首都での未曾有の大災害により、日本は建艦競争どころではなくなってしまう。しかも横須賀工廠の船台で建造中の《富士級》戦艦1隻が、船台の上で激しく損傷して廃棄せざるを得ないと言われていた。この結果、日本は否応なく、自主的な軍縮を実施せざるを得なくなる。これが英米、とりわけアメリカにとって明るいニュースとなった。
 かくしてジュネーブに再び集った海軍列強は、前回の失敗を教訓として、各国の量的規制を決める前に、新規艦艇の規模についての議論と決定を先に行った。
 この点どの国も異論はなく、新規計画の戦艦は上限4万トン、主砲は16インチと定められた。空母は、排水量3万トン、重巡洋艦と定められた新たな艦種類は、排水量1万トン、主砲8インチとされた。重巡洋艦は、日本を事実上の先駆けとして、各国が俄に計画を進めていた新たな艦艇だった。
 そして次に主力艦の量的規制だが、会議の円滑化を表向きの理由として、太平洋とヨーロッパの二つで規制を決めることとなる。ヨーロッパの方は簡単に決着が付き、イギリス100%に対して、フランス、イタリアは33%となった。排水量の絶対量がどうなるにせよ、当時の仏伊に新たに大型艦を建造する余力はなかった。言ってみれば、紳士協定のようなものでしかなかった。

 問題となったのは、日英米の量的規制だった。
 当時日本では、16インチ砲戦艦6隻が完成し、6隻が艤装中。4隻が船体建造中だった。ただし建造中の1隻が、事故のため廃棄するしかないと言われてもいた。
 対するアメリカは、16インチ砲戦艦4隻が完成し、各6隻の戦艦と巡洋戦艦が建造中だったが、まだほとんどが船体完成にまでこぎ着けていなかった。イギリスは、計画を見直した新計画に則り、4隻の高速戦艦の本格的建造を開始したばかりだった。
 そうした状況を前に、イギリスは半ば建艦競争を諦めていた。日米と張り合うだけの数を作ることが、主に財政面で不可能だからだ。しかし前回の決裂を踏まえて、アメリカとの妥協を図りつつも、日本の現状プランを認めた上での量的規制を前提として日米の妥協線を探った。日米両国がある程度合意を見たのは、準弩級以上の12インチ砲搭載艦の旧式艦の廃棄についてのみだった。この点では、前弩級戦艦の全てと日米共に4隻を退役又は廃棄することが取り決められた。結果日本には半ば数合わせとして《摂津》《薩摩》が残され、アメリカには4隻の12インチ砲搭載艦が残されることになる。これで日米双方とも、無駄な戦力を減らし海軍予算にほんの少しだけゆとりが持てることになった。
 そして段階的な量的調整のための議論を重ねたのだが、やはり16インチ砲搭載艦についての交渉が難航した。
 アメリカは、前回同様に日本の対米英60%を主張して譲らず、自らの保有数を日本が現状維持のままなら自らは24隻の保有を主張。自らの16インチ砲搭載艦の数も9隻を求めた。または、日本側の《天城級》4隻全ての廃棄による日本67%を基準とした調整枠を求める。後者の案は、アメリカとしては最大限の譲歩だった。だがどちらにせよ、日本が受け入れられる条件ではなかった。既に完成している新鋭戦艦の破棄は、面子にかけても受け入れるわけにはいかなかったからだ。
 これではまとまる話しもまとまる筈も無く、日本はアメリカが会議を壊そうとしていると主張するに至り、アメリカは日本こそが軍縮の理念を踏みにじり続けていると訴えた。
 イギリスは調整を続けるも、量的規制以外での調整に努力を傾けるようになる。
 結局、日米英間の量的規制に関する話し合いは、遂に具体的にはまとまらなかった。それでも会議を形式的にも成功させたいという意志が各国にあったため、今後十年間(1934年まで)は日米英は新規計画を行わない、同様の期限内の近代改装は上限3000トン以下、主砲口径は全ての16インチ砲(41センチ)以下、という条件では合意を見た。新規建造中止についてはアメリカが当初は反対したのだが、日本が自主的に建造ペースを大幅に落とすと表明した事と、アメリカ国内から海軍予算の膨張に対する反発もあったため、受け入れるに至っている。
 また、補助艦艇に関する量的規制については、2年後の会議開催を目処にして改めて話し合うことが決められた。
 なおこの会議では、太平洋での総合的な安全保障として、「四カ国条約」が結ばれる。その過程で、二国間の軍事同盟は軍縮の理念にも反するとして解消が求められる。当初イギリス、日本共に日英同盟の解消には反対を示したが、前回での会議の失敗という負い目もあるため結局は受け入れた。それにイギリスは、日本に利益の多い同盟関係を疎んじ始めていたところだった。

 その後1920年代半ばに、日米の新造戦艦が相次いで就役していく事になる。アメリカの新造戦艦群は1928年内に出揃い、1929年にはアメリカの発展を祝うような大観艦式が挙行された。
 この時点でのアメリカの戦艦保有数は、弩級以上の12インチ砲搭載戦艦を含めて31隻にも上った。
 同時期の日本では、予定していた16隻の戦艦うち10隻が何とか完成した。残り6隻のうち2隻は艤装最終段階で、建造が遅れていた3隻も1930年には完成予定だった。だが、大震災の影響で横須賀で破損した艦だけは、建造が大きく遅れていた。日本の計画が遅れた背景には、関東大震災で海軍拡張計画そのものが、3年ほど事実上停止していたからだった。また当初廃棄予定だった最後の1隻は、破損が建造可能範囲内だったので工事を再開した末に、時代の進展に伴った新規装備を施した上で1933年にようやく完成を見ることになる。これで日本の戦艦保有数は、12インチ砲搭載の《摂津》を含めて25隻という数字になる。(※《薩摩》は、予算不足から自主的に練習戦艦に格下げされていた)
 アメリカと日本の保有数は31対25なので、数の比較では約10対8という結果だ。排水量比だとさらに縮まる。これはアメリカにとって看過できない事態であり、アメリカはさらに日本を何とか軍縮させようと強く画策することになる。日本側も、アメリカとの不要な対立状態は好ましくないと考えていたため、これにイギリスなど欧州諸国も加わり、多くの16インチ砲戦艦の多くが建造中の時期、次の軍縮会議への道のりがいち早く作られることになる。

 1926年11月に、今度はロンドンで補助艦を中心議題とする海軍軍縮会議が開催される。ここでは補助艦艇の比率を、全体として米:英:日=10:10:6と定められる。だが日本側は、16隻の大型戦艦を抱えることを諸外国に改めて認められた事もあり、自らに不利となる条件もむしろ積極的に受け入れた。巡洋艦、駆逐艦の保有率が5割とされたことに若干の不満はあったが、自らの懐具合と16隻の巨艦の存在がその不満を霧散させていた。
 ここでは空母の保有枠も定められ、日本は対米英50%と定められた。保有枠の基本は12万トンなので、50%を得た日本の保有枠は6万トンと言うことになる。
 なお、総合的に6割という数字は、潜水艦だけは日英米が並んで100%とされたからであり、日本の保有率はトータルで62.5%ということにされている。
 だが、強硬な日本海軍関係者の多くも、この時の決定にはあまり文句は言わなかった。彼らの多くにとっては、「八八艦隊」さえ維持できれば他は譲歩できる事となっていたからだ。日本海軍に君臨していたプリンスの一人も、戦艦以外の事は「些細な事」としてこの時の会議には寛容だった。このため、日本海軍内の軍縮派は特に「お咎め」もなく、その後も軍歴を重ねていく事になる。

 一方では、同会議でも戦艦数の保有枠を巡り主に日米の対立が見られたが、結局主力艦に関する話しはまとまらなかった。各国共に旧式艦は自主的に退役や廃棄にしていたので、残る有力艦の削減となると、どの国も保有規制を嫌ったからだ。
 辛うじて、補助艦艇の条約と合わせる形で新規建造禁止の延長が決められ、同会議から10年を期限とする事になった。このため1937年3月1日以後の新たな規制が考えられたため、取りあえずは1931年、それが無理な場合は1936年までに次の会議開催を目指すこととされた。かくして、1926年の会議自体には各国それなりに不満があったが、取りあえずは成功を収めた。
 しかし1931年秋に開催予定の会議は、日本の「満州事変」勃発の流れを受けて、予備交渉段階で延期が決定。その後日本が条約からの離脱を宣言したため、1937年1月1日で軍縮条約は無効化されることになる。
 だが一方で、世界情勢自体も1929年10月に大きな変更が見られる。アメリカを発信源として大恐慌が起きて、世界中が不景気に突入したからだ。その中でも日本の復活は早く、日本の軍備計画も軍需による傾斜生産という政策もあって、艦艇整備はかなり順調に継続されることになった。
 一方のアメリカは、大恐慌で軍事予算は異常なほど削減され、特に1933年から1937年は艦艇の維持費にすら事欠くようになる。軍縮の枠内での新規艦艇の建造も、大量に作った艦艇の維持費に取られたため進まず、当然と言うべきか既存艦艇の近代改装の予算もほとんど手が付かなかった。このため1930年代前半のアメリカ海軍は、多くの艦艇が虚しく軍港につながれるような状態が続くことになる。新規艦艇の増勢も国力で劣る日本よりも少なく、日米の海軍力格差は軍縮条約以上に狭まる事になった。
 それは、日本での「八八艦隊」の完成と相まって、アメリカの日本に対する危機感をいっそう募らせる事になった。



●フェイズ02:「誕生「八八艦隊」」