●フェイズ04:「次の世界大戦まで」

 日本の戦争への道のりについて、アメリカと日本による海軍拡張競争が大きな呼び水になったと言われることがある。しかし日本外交にとって、海軍拡張競争によるアメリカとの対立そのものは、1930年代はむしろ良好な状態の大型艦艇群を無理して保有したことで日本優位に進展している。アメリカ海軍及びアメリカ政府は、特に1930年代は日本の「八八艦隊」を恐れていた。
 日本は国力面で喘ぎながらも軍縮枠内の艦艇を埋めたのに対して、アメリカは民意に応える形で不景気対策に予算を取られ、軍事費は極めて限られていたからだ。軍縮条約内での新規艦艇の建造についても、アメリカは軍事予算の不足が常に足を引っ張っていた。そして新規艦艇を作る代わりに、戦艦の近代改装の大幅な遅れを認めなくてはならなかった。それでも足りないので、訓練の減少や一部定員の削減すら実施された。サポートをするための補助艦船も一部削減された。
 16隻の16インチ砲戦艦を中心とする大艦隊を有する世界最強のアメリカ海軍は、半ば手足を縛られた状態だった。それでもアメリカの有する圧倒的な国力そのものが、日本に対して大きな政治的、軍事的影響を与え続けた。故にアメリカ政府も、自らの海軍の状態が不完全でも看過した。
 とはいえ結局のところ、日本の外交政策にとっての外交問題はアメリカとの関係悪化や建艦競争ではなくチャイナ情勢だった。アメリカにとっても、日本の外交で問題視すべきは新たな市場と見られていたチャイナ情勢にあった。

 列強として遅れて登場した日本帝国は、海外市場、植民地に乏しく資源を買うには多額の外貨が必要で、自国で生産した加工製品(工業製品)を売る市場も少なかった。いわゆる、典型的な「持たざる国」だった。
 だからこそ近隣で有望な市場となるチャイナ進出を強引に行い、挙げ句に1931年9月に満州事変を起こして満州国という自らが自由に出来る場所を作り上げたのだ。この時日本国内では反対の声も無くはなかったが、日本国内は一種の戦争特需と新国家建設特需で好景気に沸き返り、ごく弱かった反対論は吹き飛ばされた。
 そして日本が行ったことは、欧州諸国の帝国主義政策の一変形に過ぎなかったのだが、時期が悪かった。第一次世界大戦以後の少なくとも欧米諸国は、新たな帝国主義的政策に対して厳しい基準を持つようになっていたからだ。これが第一次世界大戦前の事なら、どの国も大きな声で文句は言わなかっただろう。文句を言ったとしても、多少のやっかみぐらいで済んだだろう。しかし時代は既に変わっており、日本の行動は非難されて然るべき事柄だった。
 結果日本は非難され、国際連盟を自ら脱退し、そして国際的孤立の道へと足を踏み入れた。国連脱退に関しては、居直ってしまえば良かったとする意見もあるが、そうするには日本という国家は外交的に幼かったと言えるのだろう。
 その後も日本の外交孤立化は進み、次の海軍軍縮会議にも参加する事はなく、中華地域での膨張外交を続けた。しかも日本国内では擬似的な軍国主義化が急速に進み、欧米諸国から見て危険な国と感じられるようになっていく。
 そして日本と同じく「持たざる国」のドイツ(ナチス・ドイツ)に急接近し、ドイツの側も自らの思惑から日本に接近した事から1936年11月に「日独防共協定」と言う形で、日英同盟破棄以来の二国間同盟を結ぶに至る。
 さらに日本にとっての問題は、中華民国との関係だった。いや、関係というのは生ぬるいだろう。満州事変以後の日本は、中華民国との間に泥沼の紛争状態に陥っていく事になる。

 だが日本が戦争へと突入するには、もう少し時間が必要だった。
 大きな原因の一つは、まさに日独防共協定だった。加えてもう一つが、アメリカ大統領選挙だった。
 アメリカでは、日本に対して強い外交姿勢を取りがちだった民主党政権(第一次ルーズベルト政権)が選挙で敗退して、親日というより中立的な融和外交を基本政策とする共和党政権が1936年11月に成立する運びとなった。
 このアメリカでの政治的な変化によって、日本と中華民国の情勢は揺れ動くことになったのだ。
 日本としては、中華民国の外交的、軍事的動きを封じるためにドイツに接近し、見事目的を達成した。日本とドイツが防共協定を結んだことで中華民国を率いる蒋介石は大きく落胆し、反日外交と軍事的挑発の双方を一時的にほとんど取りやめてしまう。しかも、その少し前にアメリカでは極めて親華的だったルーズベルトが大統領選挙に敗北したため、さらに蒋介石の反日政策は後退した。あまりのショックに、以後しばらく蒋介石は首都南京に籠もりきりとなってしまったほどだった。あまりに動きが無くなった為、一時期蒋介石の暗殺説が飛び交ったほどだ。
 このため中華民国内では、国民党による共産党討伐までが中休み状態に入ってしまった。このため「長征」と呼ばれる逃亡を終えたばかりの中華共産党は、何とか一息つくことができた。その後蒋介石は活動を再開するが、日本に対してではなく国内での活動となった。
 蒋介石が意気消沈している間に、華北で共産党を攻撃していた筈の北方軍閥を率いる張学良(※張作霖の息子)が、水面下で不倶戴天の敵である筈の中華共産党と共闘関係を結んだからだった。当然、張学良は国民党から裏切り者とされた。だが一方で、「抗日」という点での民意は中華共産党と張学良に分があった。
 この時期日本は、自らの経済拡大と市場確保のため、中華民国が自らの中核勢力圏と考えていた万里の長城を越えて、華北への露骨なまでの経済的浸透を進めていたからだ。これを日本の一部では、「北支工作」と呼んでいた。現地軍閥の抱き込みと傀儡政府の建設工作によって、最終的には華北5省を中華中央から切り離す積もりだったのだ。実際、経済的な進出も積極的に実施された。
 この状況を中華共産党は、自らの勢力回復のために利用しようとした。だが、華北沿岸部の万里の長城付近の第29路軍(地方軍閥の一つ)などは、南京の中華民国政府がなかなか動かないので、ほぼ完全に日本側になびいてしまったため、大規模なテロ行為や周辺の小さな軍閥や中華民国側の兵力を利用した日本人への攻撃も難しかった。

 1937年7月、北京(北平)北部郊外の盧溝橋で、周辺で軍事訓練していた日本軍に対する銃撃があった「盧溝橋(マルコポーロ橋)事件」も、その後何度も北京など華北各所で銃撃事件、テロなど血なまぐさい事件があったにも関わらず、結局は「恐らく中華共産党の便衣(テロ)行為」と言うことで紛争に発展することなく片が付いた。実際、便衣(テロリスト)が捕まった事もあった。
 北平、天津、北京などでの日本軍人や邦人に対する攻撃も同様で、特に上海ではかえって共産党(+コミンテルン)の脅威が世界的に目立ってしまい、共産党が日本ばかりか諸外国からもいっそう厳しい目を向けられただけだった。そして国際世論の共産党への厳しい感情を反映したかのように、蒋介石が息を吹き返して共産党への攻撃を強化するようになる。
 この時点で蒋介石は、瑞金でトドメを刺し損ねた共産党の殲滅、つまり内憂の根絶を重視し、外患である日本への攻撃を後回しにすることになる。諸外国が支援してくれないのならば、日本に対する攻撃もしくは国内からの排除が難しいからだ。
 しかも蒋介石の手には国民党の精鋭部隊があり、実際の戦闘でも共産党軍、張学良軍を圧倒した。このため共産党は、回復途上にあった戦力と勢力の多くを失い、今度は延安周辺で窮地に陥ってしまう。
 しかし蒋介石は、共産党攻撃の最中に自ら華北の実状を見たため、日本に対する敵意と憎しみはさらに膨れあがらせた。これが行動に現れなかったのは、自らのスポンサーやロビーとなるアメリカが、殆ど自分たちのことを見てくれなかったからだ。
 この状況に変化が訪れるのは、翌年の1938年半ば以後を待たねばならなかった。

 1938年7月15日に、日本とソビエト連邦ロシアの間で「張鼓峰事件」と呼ばれる国境紛争が起きる。約一ヶ月間小規模な戦闘が散発的に続いたが、ここで日本軍は惨敗を喫する。結果、ソ連に対する脅威が増したため、日本では陸軍に対する予算傾注と軍備の拡充が行われることになる。とはいえ、あくまで「平時」の中での出来事だった。ソ連も自らの軍部に対する大規模な粛正の最中のため、戦闘を拡大する事はなかった。
 一方その年の9月、ヨーロッパではもっと大きな事件が起きていた。いわゆる「ズデーデン問題」と「ミュンヘン会談」だ。
 領土拡張の野望を止めようともしないアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス政権下のドイツが、チェコスロヴァキアのズデーデン地方の割譲を求め、ドイツとチェコスロヴァキアとの間に戦争直前といえる雰囲気が強まった。イタリアのムッソリーニ総統のエスコートによる「ミュンヘン会談」で英仏独の間に会議が持たれ、ドイツは領土欲を満足させ、英仏がチェコスロヴァキアを見捨てることで事件は決着をしたかに見えた。
 しかし英仏政府の弱腰を確認したドイツの欲望と野望はもはや止まることを知らず、ヨーロッパ世界はようやく戦争が近づいたことを実感した。この結果、英仏は自らの融和外交の過ちに気付き、軍備増強の速度を加速させ、せっかく成立させた米英による海軍軍縮条約は事実上ご破産となった。
 蒋介石にとっての大きな事件は、ヨーロッパ情勢ではなく同年11月のアメリカ中間選挙だった。選挙の結果、政権与党の共和党が敗北し、民主党が勢いを盛り返した。言うまでもないが、アメリカの民主党は前大統領のルーズベルトを筆頭に親華的で嫌日的だった。さらに親ソ的でもあったが、蒋介石にとってはむしろ追い風だった。
 日本との極東での厄介事を嫌ったソ連が、自らの「配下」の共産党がアテにならないので、国民党に接近して武器の援助を行い始めていたからだ。
 そして別の面では、ヨーロッパ各国がアジアに目を向けなくなったため、日本が行動に出るのではないかと極めて強く警戒した。だが蒋介石は、逆に日本が動く前に自らが動くことで、欧米各国の目をアジア、そして自らに向け、日本の中華国内からの排除を考えたのだった。
 かくしてアメリカ中間選挙後、中華民国の国民党は再び反日的行動を強めるようになる。具体的には、上海近辺に自らの軍主力を集めて現地日本軍を戦術的に撃破し、さらには世界の目を自らに向け日本の影響力を殺ぐ事だった。そしてこの行動は、ヨーロッパで本格的な戦乱がおきてしまうと効果が大きく下がってしまうため、出来る限り急がれた。蒋介石の政敵である汪兆銘(汪精衛)は時期的にも対外的な冒険には反対していたが、すでに蒋介石はやる気になっていた。
 華北にいた精鋭部隊は、急ぎ南京、上海周辺に戻された。

 1939年2月頃、上海外縁の中立地帯に国民党軍が大量に流れ込み、中立条約に違反して塹壕陣地を作り始めた。上海租界にいた欧米各国は、当然ながら中華民国の行動に警戒感を持った。国民党はドイツから大量の武器を購入し、一時は独華合作(※協力関係という意味合いだが、中華地域では同盟に近い言葉)と言われる借款や技術の供与も受けていたからだ。つまり中華民国は、ドイツの膨張外交に乗ったのではないかと、欧米の多くの国が考えたのだ。しかし当時の中華民国内には既にドイツ軍事顧問の姿はほとんどなく、日独防共協定を重視したドイツ側の動きにより、中華民国とドイツの関係は希薄となっていた。
 つまりは蒋介石のスタンドプレーであり、中華民国の独自行動だった。この少し前にソ連のエスコートで国民党と共産党の和解が図られたが、既に両者共に多くの犠牲を出していた事、国民党が圧倒的に優位にある事から、張学良の引き渡しなど権高に出たので交渉はほとんどまとまらなかった。
 そうした情勢下で、「第二次上海事変」は1939年3月初旬に始まった。
 同戦闘は両者歯止めが利かないまま、日本語で言うところの「事変」つまり宣戦布告のない「紛争」という形で、「戦争」ではないまま拡大した。だが、4月19日の日本軍による南京爆撃(小規模な渡洋爆撃)で事実上の全面戦争に移行したと言われており、以後は「支那事変」とも呼ばれる。この時点で戦闘は、上海方面ばかりでなく華北にも拡大。4月7日には北京、5月8日には天津が、ほとんどまともな戦闘もないままに満州から万里の長城を越えた日本軍の手に落ちた。
 いっぽう上海では、国民党軍がドイツ軍事顧問が育てた20万人もの精鋭部隊を投入していたため激戦が続き、日本が軍団規模の戦力を投入しても、5月に入っても戦闘に決着は付いていなかった。
 そして蒋介石にとって意外な事に、ミュンヘン会談以後の欧州世界は、東アジアでの戦争を単なる二国間の地域紛争とは捉えなくなっていた。中華民国と日本双方に不審の目を向け、蒋介石は自らの視野狭窄な行動によって欧州諸国からの信頼と支持を失った。安易に軍隊を用いて他国へと攻め入った形の日本は、政治的に軍国主義路線であると再認識された。当時、共和党政権だったアメリカも、日本と中華双方に対してほぼ同じトーンで停戦を勧告している。蒋介石の思惑からは外れ、日華双方が欧米社会から「悪」と考えられたのだ。
 しかしその年の5月、日本にとって大事件が起きる。
 ソ連との再度の大規模国境紛争である「ノモンハン事変」だ。
 当時、中華民国の戦争に対する軍の総動員半ばだった日本は、兵力、弾薬双方の不足から中華民国への攻撃を自ら制限し、満州の防備を固めると同時にノモンハン方面への軍の移動を急いだ。中華民国に攻め込むために、満州からもかなりの兵力を引き抜いていたので、日本陸軍は酷く焦っていた。
 5月のノモンハンでの戦闘は小規模で日本軍優位のうちに沈静化したが、紛争自体は終わりではなかった。日ソ双方ともに国境紛争に一定の成果を求め、ソ連としては日本が中華民国にかまけている間に何か「別の」成果を求めていたからだった。
 一方5月半ば、遂に上海の国民党軍が瓦解する。
 上海方面で戦闘状態だった現地日本軍は、国民党軍を包囲するように機動的な戦闘を行い、国民党軍の最精鋭部隊は壊滅的な打撃を受けた。そしてこれを受けた日本軍は、ノモンハン方面への大規模な増援と満州方面の軍備増強を決意する。
 上海方面の日本軍には、ソ連との戦いの結果が出るまでという時間制限付きながら、厳しい進撃停止命令と事実上の停戦命令が下された。現地で事実上の命令違反をして独断専行しようとした軍人も、陸軍自らが左遷や更迭などの処罰を実施した。そしてソ連という本来の敵を強く意識した日本陸軍も、自らの目を「本来の敵」であるロシア人に向けた。
 この頃の日本軍の考えでは、自らの宿敵はあくまでソビエト連邦ロシアであり、中華民国は国民党の精鋭部隊さえ潰せば後は烏合の衆で、後は自ら和議(講和)を求めてくるという認識があったためでもあった。政治的にも、首都南京への進撃は問題を大きくするだけだと冷静に考えていた(※一部軍人は別だった)。そして日本陸軍にとっての主敵はソ連(ロシア=露助)であり、そちらに全力を傾ける事が条件反射的に当然と考えられた。
 7月に再開されたノモンハンでの戦闘は、鉄道路線から遠い荒野が広がる僻地での近代的軍隊を投入した機械化戦闘となった。そして必然と言うべきか、物量と機械化の双方に劣る日本軍の戦略的な意味での敗北で終わる。日本軍が3個師団近い、日本陸軍としては重武装の大軍と機械化部隊を投じたため、数十年後明らかになった資料でソ連軍の方が日本軍以上に大損害を受けていた事が分かったが、この時の戦闘が日本軍の戦略的敗北なのは間違いない事だった。
 しかもノモンハンでの停戦が結ばれた直後の8月23日に「独ソ不可侵条約」が結ばれ、日本にとって当時の内閣がショックで総辞職してしまうほどの驚天動地の事態となった。この時の日本にとっては、もはや中華民国との紛争状態など半ばどうでもよい事だっただろう。

 そして第二次世界大戦が始まった時、日本に残ったのは中華民国との中途半端な紛争状態だった。本来なら中華民国との間にも停戦条約が結ばれて然るべきなのだが、根こそぎ集めた大軍を前面に配して首都の南京に籠もる蒋介石は、既に自らが徹底抗戦を宣言していたこともあって頑なだった。日本側も、ソ連に対する焦りからか自らに都合の良い休戦条件ばかりを並べたため、紛争は半ば惰性で泥沼化した。
 その後日本軍は、中華の泥沼に中途半端にはまり込んだまま抜け出せず、かといってソ連が気になって中華地域での大規模な戦線拡大もできずにいた。当然だが、華ソ双方を打倒できるだけの軍事力(陸軍力)は日本にはなかった。海軍主軸で今まで軍備を整えてきた日本にとって、陸上での二正面戦争の状態はあまりにも計算外の事態だった。その上1939年の時点では、日本陸軍は戦時動員の最中であり、とてもではないが戦線拡大など出来なかった。
 諸外国では、第二次世界大戦が始まったその日に、日本海軍の実戦部隊である連合艦隊司令長官に秀才の誉れ高い堀悌吉が就任した事で日本が戦争準備に入ったという見方もあったが、日本としてはそれどころではなかった。

 しかも、9月1日にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発すると、ドイツとの関係を結んでいる日本の国際的立場はなお一層悪くなった。日本の行動は、ソ連との不意の国境紛争以外は、「枢軸陣営の行動」としてヨーロッパ各国とアメリカから取られたからだ。
 かといって、自らも戦争に突入したイギリス、フランスは、中華民国に何かをする力はなかった。この時点での日本との戦争など以ての外だったし、武器はまず自分たちに必要だったからだ。一時中華民国が、英仏との関係を結んだ上で日本に対日宣戦布告する動きを見せたが、英仏は全力を挙げてこれを阻止した。有力政治家が、全く関係ないと公然と言ったほどだった。
 中華民国にとっての頼みの綱は、当面はソ連だった。しかしソ連はノモンハンでの日本との衝突を手打ちにして、まずは自らの努力をヨーロッパに注いでしまっていた。
 このため蒋介石は、自らの軍主力が壊滅したこともあって、具体的な行動に出ることが出来ずにいた。公称300万人という中華民国の軍隊は、その殆どが地方軍閥、つまりは旧時代的な武将の私兵で、しかも近代化が酷く遅れた軍隊という名の野党やゴロツキ、食い詰めた者の集まりだったからだ。対外的には、上海一帯を占領した日本軍を包囲している事になっていたが、中華民国軍に前進する気は皆無だった。それ以前に前進するだけの能力も兵力もなかった。しかも自力での兵器生産能力がほぼ皆無で、弾薬など兵站の維持能力も無かった。
 一方では、「商売」として中華の大地にやって来る国もあった。アメリカ合衆国だ。共和党政権下のアメリカは、国内の不景気対策と外交的に日本の足を引っ張るという二つの目的のために、中華民国に武器弾薬、その他物資を売却した。しかし供与や援助ではなく売却であり、対価としてバーター取引で地下資源や農作物を得ていた。援助や供与としての武器は、ほとんどの場合試供品や実験台としてだった。
 それでもかなりの武器を得た中華民国軍は、大規模ではなく散発的な戦闘を仕掛けることで日本軍の消耗を誘い、さらに中華世界そのものの縦深に日本軍を誘い出そうという意図の行動が見られるようになった。また別の視点としては、大陸奥地に日本軍を誘い込もうとしているとも見て取れた。実際、3つの主要都市を占領しただけの日本陸軍は、かなりストレスを増加させていた。
 当然だが、アメリカの行動は日本にとっては厄介であり、このため1940年3月に香港近辺の広東地域が少数精鋭部隊によって呆気なく制圧してしまう。同地域が、中華民国と諸外国の主な貿易窓口となっていたからだ。またソ連からの武器の流れを弱めるため、内蒙古東部の占領など一部では占領地が拡大されていた。中華民国政府へ圧力を加えるべく、南京や武漢への爆撃も行われた。本当は、大規模な地上部隊を用いて一気に中華主要部を占領して勝負を決めてしまいたかったが、ソ連に対する手当としての動員と武器、弾薬の生産が追いついていないため、中華民国に対しては現状維持が精一杯だった。日本国内の戦時体制と生産を強化して全面攻勢を取るにしても、最低半年、できれば1年が必要だった。海軍軍備に偏重していた日本は、陸軍の軍備が少なく有事に際しての増勢にも限界があったからだ。
 こうした日本国内の事情を理解できない日本陸軍の一部を中心とした者達が、首都南京の占領を含む「中華民国への全面攻勢」による短期解決を訴える人々が日本国内には増えた。しかし限られた軍備、予算で、大きく脅威を増したソ連に対向する軍備を整えるまで動けない、というのが当の陸軍内を含んだ大勢だった。しかし何もしないわけではなく、主戦派のガス抜きも兼ねて中華民国の武器の供給先を絶つ作戦が行われる。
 これが、1940年3月中頃に行われた広東急襲だった。
 一ヶ月足らずで現地の貧弱な中華民国軍は壊滅・敗走し、広東周辺部は日本軍の占領するところとなった。そして膨大な武器、弾薬、軍需物資が日本軍に差し押さえられ、中華民国は別の供給ルートを探さざるを得なくなる。しかしこの両者の動きは鼬ごっこになり、日本を徐々に国際的な袋小路に追い込んでいく事になる。
 いわゆる、「援蒋ルート」を巡る争いだ。
 援蒋ルートは、大きく5つあった。使われた順番に、寧波、香港、広州などを経由する「南支ルート」、モンゴルから北京を目指す「内蒙古ルート」、ベトナムのハイフォンから入る「仏印ルート」ロシアから東トルキスタンを経て入る「西北ルート」、そして最後のラングーンから昆明に向う「ビルマルート」だ。
 1940年春に入った頃は、内蒙古ルート、広東ルートが既に日本軍によって閉ざされていた。このため「仏印ルート」、「西北ルート」が再構築されつつあり、「西北ルート」は日本軍にはほとんど手の出しようがなかった。このため日本軍は、「南支ルート」だけでも絶つため1940年6月に海南島方面への作戦を行う事となる。
 そしてこの頃、日本にとって大きな追い風が吹いていた。
 1940年4月以後、ドイツ軍が西ヨーロッパで大規模な攻勢を実施して、北欧諸国、ベネルクス、そして大国フランスを次々に下して西ヨーロッパを一時的に征服してしまったからだった。

 1940年6月22日にフランスがドイツに降伏すると、日本陸軍を中心に「バスに乗り遅れるな」という声が日本中で起こり、同年9月27日には「日独伊三国軍事同盟」を結んで自らの旗幟を鮮明にし、中華民国への次なる援助ルート(「仏印ルート」)を遮断するべくフランス領インドシナ北部へと進駐した。
 戦史家の中には、この時点で日本が本気で対英仏宣戦布告をしてアジアに侵攻を開始していれば、枢軸がイギリスに勝利していたという意見もある時期の事だった。
 それでも日本はヨーロッパの戦いに直接関与することなく、目先の戦いと悪化する外交情勢の前にのたうち回ることになる。だが、強気の外交を押し通す事が、自ら追い込まれた袋小路の打破だと信じられていた。強気の外交こそが、帝国主義外交の基本でもあるからだ。
 日本にとっての事態が決定的に悪化するのは、1941年に入ってからだった。
 まず大きな変化は、1940年11月に行われたアメリカ大統領選挙だった。フランクリン・ルーズベルトが大統領の座に返り咲き、民主党が政権を取った。ルーズベルトが親華、反日政策を行う政治家であることは、以前の大統領時代からも明らかだった。アメリカの対日外交も、新政権が本格的に動き始めた1941年1月以後は急速に悪化した。
 またルーズベルト大統領は「アメリカの若者を戦場に送ることはしない」と選挙で公約したにも関わらず、アメリカを急速に戦争準備させていった。共和党政権時代の減税は、公共投資という名目で大幅に増額され、産業への投資と共に軍需、特に軍艦の建造に多くの予算が投じられていった。これは、1941年9月に「スターク案」とも呼ばれる「両用艦隊法」によって結実する。
 すべてにおいて中途半端だったイギリスとの共闘関係も急速に親密化させ、一気に事実上の戦争行為へと手を染めていった。共和党は中立政策を重視していたため、戦争行為になりうる行動を極力避けていたのとは違っていた。
 そしてアメリカからの外交的圧力が加わった日本だが、無論日本も何もしなかったわけではない。むしろ日本の方が積極的だった。

 1941年4月の「日ソ中立条約」は、結ばれた当初は大きな外交得点だと日本中枢では考えられた。単に北方に対する一定の安全が得られただけでなく、国際外交面でも大きな成果と考えらた。そして満州方面では、ある程度軍備が浮いたと考えられたので、浮いた戦力を足した上で中華民国に対する全面攻勢が企図されたりもした。
 しかし中華民国への全面攻撃は、開始寸前のところで全面中止を余儀なくされる。突如ドイツがソ連へと攻め込んだからだ。
 そして6月22日にドイツがソ連との戦いを突然始めると、一時的ではあったが今までの強気の外交が大きな間違いだったのではないかという考えが日本の中枢で強く議論された。ドイツ、ソ連、日本を結びつけることで米英への対向を考えていた当時の外相だった松岡洋右は、自らの外交失敗を悟り大きく落胆したりもした。
 しかし一部では、日ソの関係を不可侵もしくは同盟に持っていき、ドイツとの関係を解消すれば、一気に米英との関係が改善できるのではないかという議論も起きた。実際、行動を開始した者もいた。
 だが、内閣、外務省、陸軍、海軍がバラバラの国家戦略と自らの方針で動いているに等しい当時の日本の現状では、交渉相手となるアメリカ、イギリスから信用される筈もなかった。
 1941年4月頃から、いわゆる「日米交渉」が開始されたが、アメリカは日本の次なる軍事行動の時間稼ぎまたは隠れ蓑(カムフラージュ)だとしか見ていなかった。
 そして日本が中華民国の援助ルート途絶のためにインドシナ南部に進駐する動きを見せると、アメリカは即座に日本の在外資産凍結を実施。ここで日本政府が正気を取り戻したとしても、陸軍はそのまま行動を続行してインドシナ南部への進駐を実行に移していたので手遅れだった。この結果8月になると、英米は日本に対して全ての資源の輸出停止に踏み切る。
 インドシナ南部への進駐は、日本軍にとっては蒋介石を黙らせるための援蒋ルート途絶の為の動きでしかなかったのだが、当時既に連合軍と呼ばれていた英米などにとっては、日本軍の東南アジア侵攻の準備にしか見えなかった。
 結果、日本は全ての戦争と対外膨張、ドイツとの関係を放り棄ててしまわないかぎり、アメリカ、イギリスと戦わねばならないまでに外交的に追いつめられる事になる。
 後世の学者達や専門家達の中には、まだ英米との戦争回避の方法があったと言う者も少なからずいたが、多くは後世になって全てを知った上での後知恵ばかりで、当時の視点から世界情勢を見る限り日本外交は八方ふさがりだった。そしてその事を日本資産凍結で理解した日本では、近衛文麿が総理の椅子から逃げ出し、国内政策として陸軍などを納得させる人事として東条英機が次の総理へと就任する。これを諸外国は、日本が完全に戦争準備に入ったと受け取った。
 実際日本は、期限付きの外交交渉を行いつつ、その裏で対米英戦争の準備を進めた。
 後は、どの国が最後の一押しをするか、というのが1941年秋の情勢だった。そして日米交渉を経て、11月26日のいわゆる「ハル・ノート」に至る。

 しかし、日本に対して「ハル・ノート」を突きつけたアメリカだったが、アメリカは常に日本、より正確には日本海軍の「八八艦隊」を警戒していた。故に、日本との戦争は自らの一定の軍拡が達成されるまで、交渉を先延ばしにしようと言う雰囲気が強かった。だが、ヨーロッパを含めた事態は悪化の一途を辿り、日本に対しての最後通牒徒すら言える「ハル・ノート」を提出に至っていた。しかし対日外交の進展が急だったのは、アメリカ軍が日本軍を強く警戒していた裏返しでもあった。
 日本海軍を警戒するアメリカの対日強硬姿勢は、1941年春から開始された日米交渉でも明らかで、結果として日本を追いつめ戦争へと追いやったと言えるだろう。
 結果として「八八艦隊」の巨艦群は、政治的な目的だった戦争抑止力とはならずに、皮肉にもその真逆に外交圧力として効果を発揮してしまったのだ。

 なお日本海軍の「八八艦隊」は、計画当初予定していた1929年に揃うことはなかった。計画から3年遅れの1931年に15隻の戦艦が揃い、さらに1933年にようやく16隻全艦が揃った。これに対してアメリカは、日本より5年早い1928年には「三年計画」とされた16隻の16インチ砲搭載戦艦を完成させている。この5年間は、アメリカ海軍の優位にあったわけだ。単純な戦艦保有数だと、アメリカは31隻。これに対して日本は、「八八艦隊」艦隊完成後でようやく26隻体制となる。だが1928年時点だと日本は20隻しかないので、アメリカが本来望んだ格差が開いていた。
 さらに日本海軍の12インチ砲搭載の旧式戦艦《摂津》と《薩摩》は、アメリカの同級の艦艇より戦力価値が低かった。このため日本海軍は、《富士型》戦艦最後の《石鎚》完成と共に《薩摩》が練習戦艦枠に編入されて戦力価値を無くし、さらに1935年には《摂津》が奇抜な発想による無線操縦式の標的艦となった。この背景には、日本海軍の予算や人員の事情が芳しくなかったことを物語っている。16隻もの巨大戦艦を維持するということは、それだけで大きな負担となっていたからだ。
 しかし日本海軍の巨大戦艦群こそが、アメリカの対日外交を鋭敏化させると同時に、臆病なものにしていたと評価される事が多い。《富士型》戦艦などは、アメリカのマスコミが「超超弩級戦艦」や「超戦艦」などと呼んで恐れた。

 アメリカと日本の最初の軍事緊張が高まったのは、1931年9月の「満州紛争(=満州事変)」だった。
 この時アメリカ海軍は、太平洋側に初めて「三年計画」の大型戦艦全てを集めて、日本に対する警戒態勢を高めた。特に第一次上海事変から満州国建国の頃に緊張感は高まった。しかし、日本が国連から脱退してしまうと事態はかえって弛緩し、アメリカ海軍の配置も通常のものに戻った。この場合の通常とは、太平洋6割、大西洋4割での主要戦力の配備となる。なおこの時のアメリカ海軍の対日シフトと動員体制強化は、不景気による予算削減の中での動員だったため、その後アメリカ海軍の活動をさらに停滞させるという皮肉な結果だけを生んだ。不景気下のアメリカ海軍には、数十万トンもの重油を浪費する予算は無かったのに、臨時予算が殆ど認められなかったからだ。
 次の緊張は、1939年春の「支那事変」だった。
 「第二次上海事変」の時はまだアメリカは静観に近かったが、「ノモンハン事変」で日本とソ連が紛争状態になると、俄然アメリカ側の緊張は高まった。再び「三年計画」の大型戦艦全てが太平洋に揃い踏みし、日本海軍も日本本土に稼働可能な全ての主力艦隊を集結させて対向した。
 そして後世からの視点では、この時が戦前のアメリカ海軍にとって、日本海軍に対して最も有利な状況だったと言われることが多い。なぜなら、この頃日本海軍は「八八艦隊」計画艦の大規模な近代改装を順次進めており、常に4隻〜6隻の巨大戦艦が長期ドック入りもしくは改装用の岸壁に横付けして戦闘可能な状態に全く無かった。防御甲板を剥がして機関換装すらしていたので、短期間で戦闘態勢に戻すことが不可能な艦も少なくなかった。
 万が一アメリカ海軍が電撃的に日本を攻撃したら、日本海軍は極めて不十分な状態で戦わざるを得ず、アメリカ海軍が勝利する可能性が最も高かったと言われている。
 しかし、日本と中華民国は「戦争ではない」と双方公式発表していたし、アメリカの世論の殆どは日本と中華民国の戦争に対してひどく無関心だった。ソ連と日本の大規模紛争でも、両国共に局地的な国境紛争でしかなく戦争とは考えていなかった。当然という以上に、アメリカが両者の紛争に介入したり、日本を攻撃することに全く否定的だった。それに、なんだかんだ言って、アメリカは日本海軍を警戒していた。いや、恐れていたと表現する方が正しいだろう。むしろ、恐怖心から激発しなかったことを評価すべきだとすら言える。
 また、当時のアメリカの世論はまだ戦争忌避一色で、よく分からない他国を救援するためにアメリカが日本を攻撃していたら、例えアメリカが勝利しようともアメリカ世論は共和党政権やランドン大統領を弾劾した可能性が高いとすら言われている。

 一方、アメリカ海軍が本当に日本海軍に戦闘を仕掛けることが出来たのかといえば、実際の所は机上の空論以下の状態だった。
 大恐慌以後のアメリカの軍事費は極端に絞られていた上に、1934年から1938年までの軍事予算は特に厳しい状態に置かれていた。遠征の途中で燃料を補給する軍用タンカーにも事欠いていた。しかも、ハワイなど中継点となるべき拠点の拡張や強化も、ランドン政権の間はほとんど認められなかった。セイラー(水兵)の数も、平時定数すら割り込んでいた。そうしても尚、アメリカ海軍は予算不足に喘いでいた。
 このためアメリカ海軍では、旧式艦を予備役に入れたり、籍の上では現役でも事実上の予備役に置いている艦艇を数多く作る事で、辛うじて必要数の艦艇の活動状態を維持していた。先にも書いたように、新規艦艇の建造も思った通りには進まず、大型戦艦の近代改装は一部の旧式艦に行われたに過ぎなかった。唯一のチャンスは、支那事変の序盤だけだったと言えるだろう。
 だがアメリカの国内事情を主な理由として、日米の艦隊決戦が起きることは無かった。
 しかしこの頃、アメリカ海軍では大きな変化が起きつつあった。端的に言えば、予算が幾何級数的に拡大しつつあったのだ。

 1937年1月1日以後、世界は無条約時代に入った。
 しかし英米は「第二次ロンドン条約」を結び、艦艇の大きさだけ新たな基準を作りだした。今までの軍縮条約の焼き直しに近いものだったが、理念だけはそれなりに賞賛に値する取り決めだった。だが量的規制は一切ないため、日本に合わせる形でアメリカ、イギリスも海軍の大幅な拡張に乗り出していく。
 とはいえ、当時のアメリカは依然として極端な緊縮財政下にあった。このため予算通過したのも、基準排水量4万トンの戦艦2隻と高速空母2隻を中心とした、同時期の日本よりも規模が小さいぐらいの計画だった。当時は共和党政権が始まったばかりで、大規模な減税による景気浮揚を図っていたので、大規模な海軍の拡張など夢物語でしかなかった。この状態は1938年も続いた。進路が修正されるのは、ミュンヘン会談後にドイツの膨張がはっきりし、共和党が中間選挙に敗北し、そして支那事変が起きてからだった。
 アメリカの次の海軍拡張計画は、ミュンヘン会談の後にヒトラーが自らの野望を隠さなくなってからだ。この時点で全ての軍縮条約は事実上効力を無くし、そうした外交環境の変化を受けて1939年秋にヴィンソン上院議員らが待ち望んでいた次の海軍拡張が決まる。これは翌年春の日本海軍のさらなる海軍拡張を促すことにもなったが、1939年の計画は同時期の日本の計画を既に上回っていた。
 以後アメリカは、一種の公共投資、景気対策の面を見せつつも、大規模な軍備拡張を実施することになる。
 なお、中心となった政治家の名から「ヴィンソン計画」とも呼ばれる海軍拡張計画は、1937年、1939年、1940年の3つに別れ、さらに1941年9月成立の「スターク案」とも呼ばれる「両用艦隊法」が成立する。
 スターク案は、アイオワ級戦艦、エセックス級航空母艦など合計145万トンもの艦艇建造が計画されていた。「ヴィンソン計画」と全てを合わせると、主力艦だけで戦艦20隻、戦闘巡洋艦8隻、高速空母13隻にも及ぶ。
 主な内訳は、4万トン級の《ヴァージニア級》戦艦2隻、《アラバマ級》戦艦4隻、5万トン級の《ミズーリ級》戦艦6隻、6万トン級の《オハイオ級》戦艦8隻、《アラスカ級》戦闘巡洋艦8隻、《エセックス級》空母9隻、空母《ホーネット》、《ワスプ》となる。(※戦艦の個艦名は割愛)
 当時アメリカは16基の大型艦用の建造施設と11基の中型艦用の建造施設を有し、各造船施設は日本よりもはるかに高い建造効率を誇っていた。だが、大型戦艦多数を計画の中心としていた事もあり、流石に大きすぎる計画だった。そして、建造に手間のかかる戦艦多数の建造を含んだ計画のため、建造には多くの時間を要することになる。
 同時期の日本が合わせて戦艦4隻、空母2隻の計画で、イギリスが戦艦6隻、空母3隻の計画だった事を考えると、如何に雄大な計画だったかが分かるだろう。
 もっとも、1941年冬の開戦時に完成していたのは、最初のヴィンソン計画に盛り込まれていた戦艦2隻、空母2隻だけだった。1941年秋のスターク案の戦艦10隻、空母7隻などは、文字通り計画表の中にしか存在しないものだった。最初の各2隻ずつの戦艦と空母以降は、どれだけ急いでも1943年春以後の完成予定だった。つまりは戦争が余程長期化しない限り、新規計画の大型艦に出番が無い可能性が高かった。こうした点に、海軍育成の難しさを見て取ることができる。

 しかもこの年の夏、北大西洋上でドイツ海軍が猛威を振るったため、アメリカ市民の感情を沈めるためにも、太平洋に有力艦艇を十分回せない状態に置かれていた。
 基準排水量5万トンに迫ると見られる16インチ砲搭載の最新鋭大型戦艦の《ビスマルク》を中心としたドイツ海軍は、どの国も予期出来なかったソ連との戦いを始める少し前、北大西洋上で大規模な通商破壊戦を企図した。
 この時、イギリス海軍との間に壮絶な追撃戦が展開されたが、ここでイギリスは巡洋戦艦《フッド》を失った。《ビスマルク》は英本国艦隊の総力を挙げて撃沈したので戦略的な勝利はイギリス側に上がったが、決して手放しで喜べる勝利ではなかった。
 しかもイギリス海軍の不運は続き、同年中に戦艦1隻、大型空母1隻をUボートの雷撃で相次いで沈められ、アレキサンドリアではイタリアの人間魚雷により2隻の戦艦が大破着底状態となった。大型艦以外の損害も、依然として深刻だった。特にこの時点でイギリス海軍の空母の枯渇は酷く、稼働空母はほとんどなくなっていた。新型の《イラストリアス》《ヴィクトリアス》を除く開戦時新旧5隻あった空母は、最古参の《ハーミーズ》《アーガス》の2隻だけという有様だった。さらに新型の《フォーミダブル》が艤装中だったが、イギリス海軍としては実際戦争に必要だったのが、戦艦よりも高速発揮可能な空母だという事を戦争が本格化してから思い知らされる状態だった。
 そして窮地にあるイギリスだったが、日本のアジアでの戦争が迫ったと考え、本国から有力な戦艦を引き抜いてシンガポールへと派遣する事を決めていた。
 このため大西洋でのイギリス海軍の勢力は大きく衰えてしまい、逆にアメリカは大西洋から十分な艦隊を引き抜けなかったのだ。
 イギリスは、アメリカにも内政要素抜きで海軍主力を太平洋に回すよう強く求めたのだが、現状でも日本海軍との戦力は拮抗しているとして、民心安定のため大西洋にある艦艇のほとんどをそのままとした。
 そしてそうした状態だったとき、日本軍は遂に動き出す。


●フェイズ05:「戦争序盤(1)」