●フェイズ05:「戦争序盤(1)」

 1941年12月7日、日本政府はアメリカ、イギリスに対して宣戦を布告。戦争状態へと突入し、第二次世界大戦に加わった。この戦争を、アメリカは「太平洋戦争」、日本は「大東亜戦争」と呼称した。
 日本軍の当面の主な目標は、東南アジア地域の軍事的占領だった。天然資源の輸入途絶が主な戦争原因の一つだった日本としては、同地域から産出される各種天然資源を確保しなければ、国家経済の維持すら出来ないからだ。特に、近代国家の血液とすら言われる石油資源の確保が重要だった。色々言われることもあるが、外交に失敗した当時の日本には、極めて明確で切実な明確な戦争理由があったのだ。
 だが東南アジアの資源地帯獲得が目的だった事から、太平洋方面で最も強大なアメリカ海軍に対する動きは、積極的とは言えなかった。
 だが日本軍、とりわけ日本海軍は狡猾だった。アメリカに宣戦布告しながら、アメリカ軍に対する攻撃はフィリピンを除いてほとんどの場合防衛的で、さらに連合軍全体の急所を突いてくる事が多かったからだ。後世からは、アメリカは当面外交的にも無視すれば良かったとする意見もあるが、これは日米関係やフィリピンの位置などからも、余りにも素人意見と言わざるを得ない。しかもアメリカの方が国力で圧倒的という表現以上に勝っている以上、日本の側から積極的な戦闘を仕掛けなかったのは順当な選択だったと言えるだろう。そもそも当時の日本に、アメリカ太平洋艦隊が主な拠点としている西海岸各所の要衝を攻撃する手段がなかった。
 日本によるアメリカに対する積極的な攻撃も、ドイツ海軍同様に潜水艦を用いた通商破壊戦ばかりだった。
 このためアメリカでは、アメリカ大統領が発議した対日宣戦布告の議案がギリギリ通過するという程度でしかなかった。この点は、日本の外交勝利と言っても良いかもしれない。やる気のない国民を抱えた国家など、殆どの場合は恐れるに足りないからだ。
 しかし日本軍は、アメリカに対して何もしなかった訳ではなかった。

 開戦時、日本海軍は大小60隻近い潜水艦を保有していた。しかも日本海軍の保有する潜水艦は大型艦が多く、航続距離や魚雷搭載量が大きかった。小型の偵察機を運用する能力を持つ優秀な潜水艦も、かなりの数存在していた。そうした潜水艦のうち、航続距離が長く優秀な艦ばかり30隻を選抜して集中させたのが潜水艦隊である第六艦隊だった。開戦時の同艦隊の作戦区域はハワイ諸島と東太平洋地域で、開戦時には既に作戦海域に到達していた。
 アメリカ太平洋艦隊の動向監視と妨害、さらに通商破壊戦が任務で、日本海軍の実戦部隊を統括する連合艦隊司令長官の堀悌吉提督(海軍大将)は、第六艦隊の潜水艦に対していかなる艦船であろうとも好機があれば攻撃せよと命じていた。
 日本海軍は独特の軍事ドクトリンの影響もあって艦艇への攻撃を好む傾向にあったが、この時の武功、戦功に関しては排水量で判断するとしていたので、開戦壁頭に多くのアメリカ艦船、特に大型の船舶が日本軍潜水艦の餌食となった。
 日本軍潜水艦は、平均して17発の魚雷を搭載し、1隻沈めるのに常に2発使用したと仮定した場合、各艦8.5回の雷撃で30隻なので、約250回の攻撃のチャンスがあった可能性がある。実際の損害は約1ヶ月間で約100隻なので、命中率は40%を越えている可能性がある計算だ。さらに商船が単独で航行している場合は、浮上して威嚇砲撃で相手を停船させた後に乗員を救命ボートに移してから沈めるという、本来あるべき方法も複数例行われた事が確認されている。そしてアメリカ海軍が全くの準備不足であり、太平洋側のアメリカ船舶の警戒感が薄かった事も重なり、大きな損害が発生した。
 開戦から1ヶ月の損害は、開戦時のアメリカの全船舶の5%に当たる約60万トンにもなる。この中には軍艦の損害も多く、中型空母《ディスカバリー》は魚雷の命中によるガス漏れが起きて、魚雷命中から3時間後に爆発炎上して沈没していた。他にも戦艦2隻の損傷、巡洋艦や駆逐艦の撃沈など、海軍にも無視できない損害が発生した。全体の損害の15%が、開戦直後の移動時の無防備状態を突かれた、単独もしくは小数で高速航行していた艦艇の損害だった。対する日本海軍の潜水艦の損害(損失)は僅かに1隻。開戦頃のアメリカの潜水艦対策は、輪形陣などの優れた戦術理論を持ちながら、信じられないほどに稚拙だった。小型の対潜水艦艦艇も、ほとんど保有していなかった。
 民間船の損害は非常に大きく、特に開戦から一週間の間に受けた損害が多く、中には太平洋航路に就役していた3万トン級の大型客船「エンプレス・オブ・ジャパン」の姿もあった。同船は乗員乗客が脱出する時間が十分あったので犠牲者はほとんど無かったが、日本との突然の戦争にとまどっていたアメリカ市民の戦意をかき立てるという、日本にとっては大きなマイナス効果となった。そして日本にとって、政治的な収支決算で大きくマイナスとなったのが、カリフォルニア州サンタバーバラにあったエルウッド精油所に対する攻撃だった。
 同精油所は沿岸部にあり、当時西海岸の石油精製の殆どを担っていた。アメリカ全体で見ても、戦略的に非常に重要な工場だった。
 この精油所を、日本海軍の伊号潜水艦2隻が、夜間浮上して備えられた14cm砲で砲撃した。念のため配備されていた現地アメリカ軍が、潜水艦の艦砲射撃だと全く気付かないままに、約50発撃ち込まれた砲弾によってエルウッド精油所は激しく炎上した。しかも、予期せぬ攻撃のため初期消火に失敗した事もあって、精油所全体が約二週間も機能をほぼ完全に停止し、その後も半年近くは機能を大幅に低下させることになる。そして職員の死傷者数も多数(数十名)に上ったのだが、同攻撃はアメリカが受けた本土攻撃としては実に「米英戦争(1812年)」以来の事だった。
 このため激しく燃えさかる同精油所の写真と共に、「エルウッドを忘れるな」という言葉が生まれ、無防備の客船撃沈に続いてアメリカ人の戦意をいっそう燃え上がらせることになる。宣戦布告から丸2週間経って行われた戦略性すら持つ大胆な攻撃だったが、一部では「騙し討ち」や「卑怯者」とすら罵られた。一方では、市民を安心させるため西海岸防衛に過剰と言えるほど多くの努力を割かざるをえなくなり、日本に対する攻勢を遅らせるという戦略面では大きな効果も発揮していた。

 そうした政治的要素はともかく、第二次世界大戦における日本海軍は潜水艦を用いた戦いを重視していた。これはジュネーブ海軍軍縮条約で潜水艦比率を米英同率の獲得に成功していた事と、第一次世界大戦の教訓の影響だった。
 それでも従来の日本海軍では、潜水艦を艦隊戦に用いる想定が中心だった。だが、1939年9月に連合艦隊司令長官となった堀悌吉提督は、前大戦でヨーロッパに派遣されていた経験もあって、潜水艦をドイツ海軍のような通商破壊戦に用いることを重視していた。この考えに反対する日本海軍幹部は少なくなかったが、日本海軍が少なくとも戦艦戦力に関する限りアメリカ海軍とほぼ互角であるという現実的な数字と、ドイツ海軍の目の覚めるような戦果を前にして覆されていった。この背景には、堀長官の命令を攻撃的な日本海軍が取り入れたのも、第一次世界大戦でドイツ海軍のUボートと戦った事を(主に攻撃された側で)覚えている高級将校が多かった事も強く影響していた。
 それでもアメリカに対する長期戦の備えのような戦い方は、日本海軍内では不評が多かった。日本の海軍軍人達は、「アメリカに備える」事は当然だが、「アメリカと戦う」事を本気で考えていなかった節が極めて強い。しかしこれは、アメリカと日本の国力差を考えれば当然の事で、戦うにしても短期間のうちに「ツシマ海戦」のような決定的成果を上げることだけを考える以外、アメリカという国家に勝つ方法が無かったからに他ならない。初期の外洋艦隊構想から外れてしまった「八八艦隊」も、突き詰めてしまえば一度の「決戦」に勝利することを考えて整備されたようなものだった。
 しかし1939年から始まった世界規模での戦争は、1940年夏には長期戦になることが確定的となっていた。万が一この戦争に日本が加わった場合、短期で戦争が終わる可能性が低いことも多少は認識されるようになった。そうした情勢の変化が、日本海軍の戦備、考え方を変えさせたとも言えるだろう。
 正面からの挑戦を一度はね除けた後は、性根を据えて悪戦し続ける以外に勝機を見いだすことが難しいというのが、国力に劣る日本の現状だったからだ。
 そうだからこそ、日本海軍は弱者の法則に従って通商破壊戦を重視する傾向を強めた。これは戦略的に当然過ぎる選択だったのだ。本来なら、「八八艦隊」という自らに勝る相手に勝利するための軍備を整える事の方が間違っている。この事は、第一次世界大戦のドイツがこれ以上ないぐらいに証明している。
 だからこそ日本海軍は、リーダーの代わった1940年頃から自らの軍備計画に対して、現実的視点をもって大きな修正を加えるようになった。
 今までに比べて、当面の大戦を乗り切る為に時間のかかる大型艦の建造は可能な限り減らし、潜水艦による通商破壊戦と逆に潜水艦から守るために努力を傾注した。また航空隊の増勢も著しかったが、その中には潜水艦を警戒、制圧するための航空機も多数含まれていた。また日本海軍の組織そのものも、堀提督を中心とした行動によって、1941年4月に連合艦隊とは別の組織として「海上護衛総隊」を設置。海上護衛専門の組織として発足させ、麾下に旧式ながら多数の軽巡洋艦や駆逐艦、その他多くの艦艇を所属させ、航空隊と併せて敵艦より正確には敵潜水艦から日本の船舶を守る専門の訓練を実施するようになる。
 海上護衛に関しては、今までも第一次世界大戦での経験から一応整備されていたが、ツシマ海戦(+ジュットランド沖海戦)に極めて強く影響された艦隊決戦主義に凝り固まっていた日本海軍としては大きな変化だった。もっとも、海上護衛という大きな戦略の枠組みのために別の海軍実戦部隊を組織しているところに、日本の海軍軍備の政治的、戦略的後進性を強く見て取ることが出来る。本来は海上護衛の延長線上に艦隊決戦があるのであって、艦隊決戦と海上護衛が両立することはあり得ないのだ。その事を日本海軍は理解していないか、しようとはしなかったと言えるだろう。
 それでも、日本海軍全体が戦略の大改訂が実施できたのも、16隻の巨大戦艦が日本海軍保守派の心理的余裕をもたらしていたことを忘れるべきではないだろう。主戦力に多少なりとも余裕があるのだから、「余芸」に多少興じても構わないだろういう慢心にも似た心理だ。
 そして実際にも開戦時に間に合う新規戦力はほとんどなく、開戦時の日本海軍の戦力は考え方はともかく、従来の方針に従って整えられた戦力が殆どだった。
 そうした中で日本海軍は、唯一アメリカ海軍と対等な戦力を保有できた潜水艦戦力の活用のため、アメリカに対する熱心な通商破壊戦を実施した。当然だが、攻撃はそれだけではなかった。戦争を仕掛けたのは日本だからだ。

 開戦当初の日本とアメリカの戦場は、潜水艦による戦闘を除外すると、ほとんどがフィリピンに集中した。
 当時フィリピンはアメリカの植民地(※1944年に独立を予定していた)で、アメリカと日本が戦う場合の最初の激戦地となることが確実視されていた。
 開戦時フィリピンには、現役復帰したダグラス・マッカーサー大将のもとに、合わせて約10万の兵力と重爆撃機「B-17」35機を含む265機の航空機を有するアメリカ陸軍とフィリピン軍が駐留していた。またアメリカ海軍は、巡洋戦艦《コンスティレーション》《コンスティテューション》《ユナイテッドステーツ》を中核とする有力な水上艦隊と、潜水艦28隻を中心とするアジア艦隊を派遣していた。フィリピンのアジア艦隊は、完全に通商破壊戦を目的とした編成だった。
 アメリカ海軍が、満載排水量5万トンもの有力な巡洋戦艦をフィリピンに派遣して通商破壊艦艇として利用しようと考えたのは、主力艦隊内で偵察艦艇として使うにしても戦艦同士の砲撃戦に使うにしても中途半端な能力(防御力)の《レキシントン級》は、使いどころが今ひとつ決まっていない事が原因していた。
 何しろ日本海軍は、世界水準で見ても重防御の高速戦艦、巡洋戦艦を多数保有しており、《レキシントン級》はアメリカ海軍内では就役当初から戦闘力が疑問視されていた。防御力を大幅に強化する改装についての大規模な近代改装計画も、計画だけは何度も提出、提案されているが、予算不足などの理由により遂に実現しなかった。
 故にアメリカ海軍は、自らの有する超高速大型艦に対して、抑止効果を主目的とした通商破壊戦という中途半端な任務に就けざるを得なかったのだ。
 巡洋艦相手の戦闘や編成も考慮されたが、基本的に日本海軍に大型巡洋艦(=重巡洋艦)が少ないという現実的問題と、巡洋艦相手を目的として運用するには贅沢すぎるという意見が強すぎて、巡洋艦相手の演習や訓練すら殆どされなかった。有力な16インチ砲を搭載している事が、本級の運用幅をかえって狭めてしまったのだ。
 しかも、平時は6隻全艦を太平洋(または大西洋)に配備することも出来ず、6隻は常に半数ずつ分かれて行動するため共同行動には練度の面で問題があり、全ての問題に対する半ば妥協の産物として半数が通商破壊戦用に用意され、もう片方が主力艦隊の偵察部隊に残されていたのだ。
 一方では、もっと沢山の戦艦をフィリピンに派遣して日本への抑止にしようという意見も強かった。だが、日本の激発を誘い、かえって日本海軍の餌食になるだけだという意見の方が強いため、有力艦艇の配備は行われていなかった。あくまで日本軍の侵攻を遅らせるための戦力が中心で、その事は多数の航空機と多数の潜水艦、そして通商破壊戦を行う超高速巡洋戦艦の存在によって明らかだった。
 そして彼らが日本軍を混乱させて進撃を足止めしている間に、ハワイから太平洋艦隊が大挙出撃し、日本海軍と雌雄を決するというのがアメリカ軍の大まかな作戦予定だった。しかし戦争には相手があり、この時は先に動き出した日本海軍の方が準備万端で遙かに上手だった。

 まず南シナ海には、開戦前から日本海軍の有力な艦隊がいくつも展開していた。フィリピンは台湾、海南島、インドシナ、太平洋側のパラオ諸島という日本軍の拠点によって包囲されたも同然で、多数の偵察機、潜水艦によって日本の偵察も徹底していた。当然ながら、「フラッグズ」とも呼ばれたアメリカ海軍の3隻の巡洋戦艦の行動を日本海軍は完全に把握し、出来る限り封じ込めようとしていた。この行動は日本海軍にとっては当然という以前の事であり、しかも日本海軍には1905年の日露戦争での苦い教訓もあるため偏執的とすら言えた。
 しかも日本軍の攻撃は、まずは空において圧倒的だった。
 空母を動員した日本海軍全力による大規模な空襲によって(※台湾から遠距離飛来した基地航空隊と、空母を集中運用した空母機動部隊による連携攻撃)、わずか3日で「極東米陸軍航空隊」は壊滅した。在フィリピンの航空隊は、マッカーサー将軍の言葉とは裏腹にゼロ・ファイターに全く歯が立たなかった。戦後判明した日本軍の損害は、損傷廃棄を含めて航空機が僅か40機弱で、ほとんど一方的だった。期待された「B-17」も、何も出来ないまま飛行場で破壊された。
 そしてフィリピンでは、陸海軍の航空隊以上の惨状に追い込まれたのが現地海軍だった。
 まずは初日の空襲で、潜水艦の魚雷備蓄倉庫が集中的な爆撃を受け(※戦後に偶然の戦果だと判明)、当時のアメリカ海軍の保有数の殆どに当たる約230本も備蓄されていた高価な潜水艦用魚雷が残らず破壊された。このためフィリピンに配備されていた28隻の潜水艦は、平時状態の少なめに搭載した魚雷以外、ハワイにまで取りに戻らねばならない状態に追い込まれる。しかもこの時破壊された魚雷は、当時アメリカ海軍が有していた備蓄魚雷のほとんど全てであり、日本を重視した事が徒となった形だった。(※加えて、精密機械である魚雷の生産体制も全く平時のままのため、アメリカ海軍全体が一年以上も潜水艦魚雷の不足に悩むことになる。)
 そして空襲は潜水艦だけでなく、よく言えば美しい外観、悪く言えば目立つ外観を有する《レキシントン級》巡洋戦艦の後期建造枠だった「フラッグズ」にも向けられた。「フラッグズ」の巡洋戦艦3隻は、日本の宣戦布告を聞くと同時に緊急出撃を実施。外洋に出て、通商破壊戦をしつつミンダナオ方面に移動しようとした。これまで動かなかったのは、日本に対する無言の圧力を掛けるという砲艦外交が名目だったが、実際は日本軍の目をフィリピンに向けさせる為だった。なぜならアメリカ政府が、日本の宣戦布告という形で戦争を望んでいたからだ。ある意味「フラッグズ」は、日本に先に戦争を開始させる囮でもあった。そう考えれば、巨大巡洋戦艦が最前線に配備されていたのも、多少は納得がいくだろう。
 そして日本海軍は、必要以上に美しい巡洋戦艦に目を向けた。
 開戦の一週間以上前からマニラ湾口で辛抱強く待ちかまえていた日本軍潜水艦の雷撃よって、戦隊旗艦にしてアジア艦隊旗艦でもあった《コンスティレーション》が魚雷3本を続けて被雷。辛うじて沈没こそしなかったが、そのままマニラ湾奥に緊急待避せざるを得なくなった。その後《コンスティレーション》は、損害と大幅な速度低下のため外洋に出撃する事はなかった。
 それでも現地での応急修理で辛うじて砲撃戦能力を回復したので、後に侵攻してきた日本軍に砲撃を行うも日本軍の激しい空襲によって戦闘力を喪失し、それ以上の活躍が出来ないまま自沈を余儀なくされた。最高速力33ノットを誇る超高速巡洋戦艦としては、実に皮肉な結末と言えるだろう。

 残る《コンスティテューション》《ユナイテッドステーツ》にも過酷な運命が待ちかまえていた。
 本国やハワイに移動していた太平洋艦隊司令部と違って現状が分かっていたアジア艦隊は、当面はミンダナオ島、その後シンガポールもしくはジャワ方面への事実上の待避を考えて出撃したのだが、その目論見は出撃直後の現地時間12月8日午前中にうち砕かれた。アメリカ海軍が敵艦隊を発見するよりも早く、世界最強の巡洋戦艦戦隊である《富士》《阿蘇》《石鎚》《大雪》が、本来なら日本海軍の想定外の砲戦距離となる距離3万5000メートルという遠距離から砲撃を開始したからだ。
 この時の砲撃は、上空に日本軍の偵察機(観測機)複数が既に飛行していた事から予測されていた攻撃ではあった。だが、まだ相手をほとんど目視できない状態で遠距離攻撃を受けたことは、当時のアメリカ・アジア艦隊に大きな衝撃をもたらした。自分たちのタクティカル・ドクトリンに反して、早期に砲撃を開始した日本艦隊の狙いもそこにあった。
 この時アジア艦隊の選択肢は大きく二つ。一つはこのまま日本艦隊と砲撃戦を行う事、もう一つは回れ右してマニラ湾に逃げ込む事。他にも、俊足を活かして敵の包囲をすり抜ける事も、戦闘を行う場合のオプションとして考えられた。《レキシントン級》ならそれが可能だからだ。
 そして、恐らくマニラ湾に逃げ込む選択肢が日本軍戦艦複数を長期間拘束できるため、戦略的効果は高かっただろう。しかしアジア艦隊司令部は、戦いつつの転進を決意。持ち前の俊足を活かして敵をやり過ごし、ミンダナオ島方面に向かおうとした。幸いと言うべきか、遠距離砲撃戦を行ってきた敵との距離が開いている事も、この時のアジア艦隊の決断を促したとされる。
 しかしこの時の日本艦隊の《富士型》戦艦は、最高速力29ノットを誇る当時世界最大の高速戦艦だった。戦隊を組んでの砲撃戦のため発揮できる速力は26〜27ノットだったが、簡単に振り切れる相手ではなかった。しかも、多数の巡洋艦や駆逐艦の急速接近する様が、既に見て取れるようになっていた。それに航空機から逃れることは不可能だったし、空襲を受ける可能性も十分以上に考えられていた。そしてこの時の日本海軍は、敵を確実に殲滅するために艦隊一つをアジア艦隊にぶつけてきていた。
 加えてアジア艦隊が決断を下すまでに、戦闘開始から約3分が経過していた。正面から向き合っていた場合に1分間で約1500メートルも距離が縮まるので、この時は約5000メートル分の距離となる。大遠距離からの砲撃も、交互射撃でさらに2度受けていた。
 とはいえ日本海軍は超遠距離砲撃はあまり重視していないので、砲弾が初弾で命中するなどという事件はなかった。アメリカ海軍も日本海軍の事はある程度把握していたので、遠距離砲撃に対しては多少の心理的余裕を持っていた。
 しかしこの時は、日本海軍に幸運の女神が微笑んだ。
 三度目の斉射、32発降り注いだ重量1トンの41センチ砲弾は、観測機などによる修正がうまくいった事もあって、半数ずつが二隻の巡洋戦艦を取り囲むように着弾。うち1発が、運良く《ユナイテッドステーツ》に命中した。
 この砲弾は落下確度がかなり高かった事、《レキシントン級》巡洋戦艦の水平防御力が「戦艦」として極めて脆弱(※ノーマルのバイタルパートで57mm。ただし弾薬庫などは強固。)だった事もあり、船体中央部の防御甲板を高角度から難なく貫いた。砲弾はボイラー室で炸裂し、フルパワー状態のボイラー2基を完全破壊して、そのままボイラーによる水蒸気爆発が発生。閉鎖空間で大量の圧力が解放されることで一部隔壁も破壊され、隣接する他のボイラー室や発電室、機械室の一部にまで深刻な損害を及ぼした。人的損害も甚大だった。
 この結果《ユナイテッドステーツ》は、最高速力が一気に6ノット低下。ここでアジア艦隊司令部は、《ユナイテッドステーツ》を見捨てて残りは逃亡するか、無謀を承知で戦い続けるかの選択を迫られる。そして強い混乱と焦りの中にあったアジア艦隊司令部は、見捨てることは自らの矜持にかけてできないとして正面からの戦闘を決断。さらに自ら血路を切り開くべく、転進し日本艦隊に向かった。実に英雄的行動ではあるが、無謀な決断だった。
 その後の戦闘はここでの行数を費やすまでもなく、アメリカ海軍の敗北だった。しかも惨敗と言ってよい結果であり、日本軍の主要艦艇に対しては僅か2発の主砲弾しか命中させることができなかった。その2発も、1発は《富士型》戦艦の強固な舷側装甲に弾かれ、残る1発も別の1艦に小さな破壊と小規模な火災を発生させたに過ぎなかった。アメリカ艦隊としては、遠距離からの接近時に自らの砲撃を重視して回避を軽視した事が、日本艦隊の砲弾をより多く受ける結果になった事になる。
 そして接近と攻撃に集中したアジア艦隊は、《ユナイテッドステーツ》は勇戦の中で多数の砲弾を受け、そのうち1発が砲塔近くの甲板を貫いてそのまま弾薬庫を破壊して《フッド》のように爆沈。最初に損傷した《コンスティテューション》は、途中から逃走を選択したためすぐには致命傷こそ受けなかったが、サンドバックのように撃たれ続けた。短時間で撃沈しなかったものの、動力と戦闘力の双方を完全に失ったため、乗組員の助命のため浮上降伏を決断せざるを得なかった。ただし、日本軍の陸戦隊員が乗艦するまでにキングストン弁が開かれていたため、戦闘終了から約3時間後に沈没した。
 他の巡洋艦や駆逐艦も半数近くが圧倒的砲撃の前に粉砕され、僅かな生き残りが日本軍の包囲網をすり抜ける形でミンダナオ島方面に逃走し、戦闘は終息した。
 この戦闘の結末は、ドイツ海軍の戦闘と同様に、水上艦艇のみによる通商破壊戦というものが既に机上の空論になっていることの現れであると同時に、小数で行動する大型水上艦の限界を示す事にもなった。
 だが戦争は文字通り始まったばかりであり、各所で日本海軍の快進撃と攻撃は続いた。

 次の大規模な海上戦闘は、マレー半島沖合で発生した。
 当時マレー半島とボルネオ島の北半分は、イギリスの植民地だった。そしてマレー半島先端部にあるシンガポール島は、イギリスの東アジア支配の象徴的な拠点であり、巨大なドックを含めた軍事施設も充実していた。イギリス軍自体の増援も実施され、イギリス軍自身は長期間の保持が可能と豪語していた。そしてイギリス軍増援の象徴として、戦艦多数を含めた多数の艦艇が開戦ギリギリのタイミングでシンガポールに派遣されていた。この派遣はアメリカ海軍のアジアでの軍備増強(巡洋戦艦の配備など)に呼応したのもので、アメリカのアジア艦隊同様に高速大型艦艇を中核としていた。
 日本海軍を抑止すると共に、戦争になった際には通商破壊戦や日本軍の弱点を攻撃するのが主な目的だった。日本海軍主力、「八八艦隊」との対決はあくまで大西洋から増援を受けた後のアメリカ太平洋艦隊の役割とされていた。とはいえ、イギリス海軍の東洋艦隊が手抜きされていたわけではない。チャーチル首相の肝いりで、新鋭戦艦《プリンス・オブ・ウェールズ》、高速戦艦《アンソン》、巡洋戦艦《レパルス》が送り込まれていた。
 《プリンス・オブ・ウェールズ》は、基準排水量4万2000トン近い条約型戦艦で、最高速力28ノット、16インチ砲3連装3基9門を装備していた。性能的には基準排水量4万8500トンの《アンソン》とほぼ同様だったが、主砲が新型な分だけ攻撃力が増し、さらに防御はより充実していると宣伝されており、建造が新しい分だけ新しい装備を数多く装備していた。《アンソン》は、建造以来大規模な近代改装が行われていなかったし、主砲威力については疑問も多いと言われていた。主砲についても、同じ16インチ砲でも《プリンス・オブ・ウェールズ》は新型で威力もかなり高かった。
 これに対して日本海軍は、フィリピン沖に第二艦隊主力を送り込んだように、第二艦隊から分派された南遣艦隊をマレー半島沖合に送り込んでいた。主力は《天城型》戦艦の《天城》《赤城》《高雄》《愛宕》と《金剛型》戦艦の《金剛》《比叡》《榛名》《霧島》で、他に第二航空戦隊の空母《飛龍》《瑞鳳》が送り込まれていた。
 イギリス海軍にとっては抑止の筈の戦力が、むしろ日本海軍の主要な戦力を引き寄せた形だった。

 日本海軍がこれほど大胆な行動に出たのは、一度に大戦力を投入することで自らの損害を可能な限り減らそうと言う意図と共に、アメリカ海軍の現状を正確に判断していた為だった。
 戦争を決意した自らと、既に戦争中のイギリスはともかく、開戦時のアメリカは国丸ごとが依然として平時状態にあった。軍隊も例外ではなく、むしろ当時のアメリカはあくまで平時の姿である事を重視している節が強かった。
 そして平時から戦時、そして本当の実戦の為には、多くの物資と時間が必要だった。単に軍艦の中の弾薬庫を一杯に満たすだけでなく、兵員も平時から戦時体制へと大幅に増員しなければならない。艦隊、戦隊としての訓練も改めて必要であり、日本海軍を撃破できるだけの大艦隊となれば訓練は尚更だった。しかもアメリカ海軍の場合は、大西洋から太平洋に大規模な増援部隊を送り込み、さらなる艦隊行動訓練を行う必要もあった。全てを完了するまで、どれだけ短くても二ヶ月が必要で、アメリカ海軍の側から大規模な攻勢を行うとなると、さらに一ヶ月程度の時間が必要だった。余裕を見れば、さらにもう一ヶ月程度の時間をかけた方が良い。しかも開戦時のアメリカ海軍の動員体制、兵器の生産体制はまったく整っていなかった。
 その上日本海軍は、アメリカ海軍の能動的な行動を少しでも遅らせるべく、開戦壁頭から熱心な通商破壊戦を仕掛けていた。
 アメリカ海軍の実状を日本海軍は正確に掴んでおり(※実際はそうでもなかった)、最低でも三ヶ月、最大で五ヶ月は自分たちに時間が有ることを熟知していた。だからこそ有力な艦隊を太平洋ではなく東南アジアに派遣してきたのだ。

 開戦と共にイギリス海軍は積極的な行動を開始し、さっそく日本軍の上陸作戦の妨害を行おうとした。極めて正統な戦術だったが、誤報に惑わされて目的を達せず、戦争初日は何もしないまま暮れることになる。
 戦闘は12月10日に行われることになった。
 この時イギリス東洋艦隊は慎重だった。既にマニラ沖での戦闘が伝わっていたため、日本海軍の有力艦艇、特に「八八艦隊」戦艦群の出現を警戒していたからだ。しかも、既に《金剛型》4隻の姿を一度レーダーで確認していたため、なお一層慎重な行動が行われた。だが慎重すぎて行動範囲が限られたため同じような航路を取りすぎた事が、イギリス東洋艦隊の命取りとなってしまう。
 まずはインドシナから出撃した日本海軍航空隊の長距離偵察機に捉えられてしまい、その情報を得た《天城型》巡洋戦艦4隻を中核とする日本海軍南遣艦隊主力が、既に100海里以内だったこともあって急速接近を実施した。
 日本軍の攻撃は10日午後0時45分に、まずは陸上攻撃機という世界的にも珍しい高度な対艦攻撃能力(=雷撃能力)を有した双発機によって始まる。
 戦艦3隻に対して約70機の攻撃機では攻撃力は不足すると考えられがちだが、この時イギリス艦隊には制空権が全くない上に、戦艦を守る随伴艦艇も少なかった。その上、最新鋭戦艦を含めて対空防御力にもかなりの問題があった。
 日本軍航空隊の練度は高く、最初の攻撃で先頭を進んでいた《プリンス・オブ・ウェールズ》は魚雷2本を受けてしまう。そして次々に攻撃隊が襲来していた午後1時10分頃、イギリス海軍のレーダーが急速接近しつつある大型艦のエコーを多数捉えた。《天城型》巡洋戦艦4隻の姿であり、同艦隊はイギリス艦隊発見後に艦隊最高速度で回り込み、イギリス東洋艦隊の退路を塞ぐような進路を取っていた。
 ここでイギリス東洋艦隊の司令官トム・フィリップス提督は、「見敵必殺」の精神のもと自らが「発見した」日本艦隊への突撃を命令。この時点で3隻全ての戦艦は、敵機からの攻撃を受けていたし空襲も継続中だったが、そのようなものが存在しないかのように正々堂々とした突撃を実施した(※ただし、激しい対空砲火と、ある程度の回避行動は取っていた)。
 これに対して、旗艦《愛宕》に座乗した小沢治三郎提督率いる南遣艦隊も戦闘態勢を取り、日本艦隊にとっての遠距離射撃である距離25000メートルで一斉砲撃を開始する。イギリス艦隊も、少し遅れて砲撃を開始した。
 両者無傷だったら日本側がやや有利という程度の差だったが、この時既にイギリス艦隊が圧倒的に不利となっていた。というのも、《プリンス・オブ・ウェールズ》は航空魚雷による損害でスクリューシャフトのうち1本が大きく歪み、歪んだ事が気付かれないまま全力稼働を続けたスクリューシャフトが周辺部を破壊して、多くの浸水をもたらしていたからだ。他の二隻も既に2発程度の魚雷か大型の陸用爆弾を受けており、それぞれ速力が2〜4ノット低下していた。加えて各艦、副砲や対空砲の火力も減じていた。
 その上日本軍攻撃機は、友軍の砲撃による水柱が立ち初めても、自らの攻撃の手を緩める気は一切無かった。むしろ戦艦部隊への対抗心を燃やして、まだ日本艦隊から砲撃を受けずにイギリス艦隊後方を走っていた《レパルス》への攻撃を集中させる。そして砲撃戦のため他艦と縦列を組みつつ進まねばならない《レパルス》は、他の友軍艦艇からの対空射撃の援護も少ないため、短時間の間に多数の魚雷を受けて隊列から大きく遅れてしまう事になる。もちろんだが、砲撃戦は不可能となっていた。
 そして本格的に砲撃戦が始まると、イギリス東洋艦隊は一層不利になった。数の差で実質2対1の不利で個艦性能でもせいぜい五分で、既にかなり損傷していた。そこに釣瓶打ちで日本艦隊の砲弾が殺到し、40発もの41センチ砲弾が間断なく降り注いだ。しかも戦闘後半には、《金剛型》戦艦4隻を中心とする日本の増援艦隊も別方向から到着して、さらに激しい砲撃が行われた。
 対する自らは、合わせて18発の砲弾を発射することしか出来なかった。しかも既に速力が落ちて機動性も低下しているため、最初から大きく不利だった。その上砲撃戦が本格化した時点で、《プリンス・オブ・ウェールズ》のスクリュー部分の損害がいよいよ酷くなり、何も出来ないまま大きく速力を落としてしまう。このためフィリップス提督は、自らの乗艦がかなり被弾して友軍が決定的に不利になった時点で、自らを盾として友軍残存部隊の撤退を命令。まだ健在だった《アンソン》と随伴していた駆逐艦数隻は、煙幕を広げつつ待避を開始する。この時点でおおよそ午後1時30分。本格的な砲撃戦は、僅か20分程度しか行われなかった事になる。
 しかし戦場に残されたイギリス海軍の2隻の戦艦には、日本海軍の戦艦の砲撃と水雷戦隊の攻撃が集中し、短時間のうちに致命傷を与えることになる。戦力差が一方的となった状況の典型例と言える状態だった。
 その後日本軍は、主に航空機によって《アンソン》への追撃を行うが、逃げに徹した4万8000トンに達する高速戦艦の撃沈には至らず、《アンソン》は損傷を重ねつつも辛うじてシンガポールへの待避に成功する。
 
 マニラ沖とマレー沖の戦いは、その後の戦いに大きな影響を及ぼすことになる。短期的には、アメリカ海軍がフィリピン救援に二の足を踏んで大西洋からのさらなる増援を求め、それがなされるまで太平洋を押し渡ることを延期した事。長期的には、航空機の評価が大きく増すと共に、やはり戦艦にうち勝つには戦艦が欠かせないと考えられた事だった。
 そしてより大きな結果がもたらされるであろう戦闘が、二つの戦いの数ヶ月後に行われることになる。言うまでもないが、日本海軍とアメリカ海軍の雌雄を決する戦いの、その第一ラウンドだ。


●フェイズ06:「戦争序盤(2)」