●フェイズ06:「戦争序盤(2)」

 日本海軍にとって、初期に設定されたアメリカ海軍との「決戦の地」は小笠原諸島近海だった。
 第一次世界大戦の結果、ドイツから日本人が内南洋と呼ぶ島々を得ると、戦闘想定区域は大きく南東のマーシャル諸島海域へと移動した。だが、自らの補給能力や各艦艇の航続距離などの問題、さらには軍縮条約によって基地設営が出来ないことから、実質的な想定区域は小笠原諸島に近いマリアナ諸島沖合とされていた。強大な八八艦隊を建設しても、基本的に変更は無かった。
 19世紀後半に成立した日本海軍は、基本的に日本本国(本土)に侵攻してくる敵を撃退するための海軍だった。日露戦争でのツシマ沖海戦がその典型例だ。

 1937年に軍縮条約が全て効力を失うと、日本海軍は早速西太平洋の各地に軍事基地の建設を開始した。主な対象はパラオ諸島(ベラウ諸島)で、ついでトラック諸島(チューク諸島)、マリアナ諸島で行われた。特にパラオ諸島への基地設営には熱心で、実質的な南洋最大の拠点となった。これはパラオ諸島がマリアナ諸島に比較的近く、諸島自体がそれなりの陸地面積があり、そして何より大艦隊を収用できる広大な環礁があったからだ。巨大環礁ということなら、中部太平洋は環礁の宝庫だった。パラオ諸島だけでなく、ウルシー環礁、トラック環礁、エニウェトク環礁、ビキニ環礁など、どれもが数百隻の艦艇を収用できる広さを持つ、大洋の中に浮かんだ巨大な湖のような存在だった。
 しかし日本海軍が選んだのは、パラオ諸島だった。
 もっとも、日本海軍による中部太平洋各地の拠点化が本格化したのは、実質的には第二次世界大戦が始まってからかなりの時間が経過してからだった。中部太平洋の拠点とは、すなわちアメリカと戦うための拠点であり、日本海軍の本来の目的から考えれば不要のものだったからだ。これは日本海軍が、自らの存在意義をアメリカと戦争しない為の抑止力であると正しく認識していたからであり、国際情勢がどうにもならなくなってきた為、急ぎ各地の拠点化を進めたと言えるだろう。
 そして1939年9月以後、日本海軍の実戦部隊である連合艦隊を率いた堀悌吉大将は、アメリカ海軍との有事(戦争)に対して徹底した守勢防御の方針を打ち出していた。堀と同期で要職を歴任した山本五十六提督は、万が一アメリカと戦争になった場合は短期決戦以外あり得ないと考えていたが、理論家の堀は現代(この時代)の戦いに投機的要素の強い短期決戦の可能性は極めて低いと考えていた。
 このため日本海軍が重視した日本本土以外の海軍拠点こそがパラオ諸島であり、ついでアメリカに奪われてはいけない場所であるマリアナ諸島、マリアナの中継点となる硫黄島だった。巨大な環礁のあるトラック諸島は、多数の要塞砲やシェルターを多数装備した飛行場など事実上の最前線としての拠点整備が行われた。
 これら3つの島々では、パラオ諸島が海外泊地としての機能を重視した以外では、軍用飛行場、各種砲台などの建設が進められた。1941年夏になると明確に軍事拠点としての工事も開始され、「特別海軍陸戦隊」と呼ばれる他国の海兵隊に相当する海軍の陸戦部隊が、連隊もしくは旅団規模で派遣されるようになり、工兵(設営)隊によって隠蔽砲台や本格的な対地戦用の重防御陣地の工事が開始される。航空基地も、爆弾や艦砲射撃に耐えられる爆風避けを付けたり、島の地層(強固な石灰岩)を利用した格納庫、鉄筋コンクリート製のシェルターの建設も、ややゆっくした速度だが開始されるようになる。
 これら強固な陣地は、何としても防衛するという決意と方針の現れであり、また同時に、これ以上自分たちが進むつもりが無いこと示していた。かなりの無理をして「八八艦隊」という贅沢な大型艦艇群を揃え、そして良好な状態で維持している日本海軍としては、いざ本格的な戦争(もしくは戦闘)となった場合、防衛戦以外の戦いが選択できない状態だったと言えるだろう。
 しかし日本海軍は、完全な守りに入られると非常に攻撃し辛い相手だった。無理をしているだけに第一線の艦隊戦力は強力で、その強力な艦隊が強固に防衛された島々の攻略に手間取っている敵に対して騎兵隊のように反撃してくるからだ。日本海軍としては、陸戦でいうところの一種の機動防御戦術を戦闘方針としていたと言える。
 そして日本海軍の敵となるアメリカ軍としては、パラオを抜かない限りフィリピンには行けず、マリアナを落とさない限り日本本土に迫ることは極めて難しく、そして「八八艦隊」を倒さない限り何もできなかった。

 この戦争を始めるに際して、日本軍はある程度先の段階までの戦争計画を持っていた。
 まずはアメリカ海軍が太平洋を押し渡る前に、東南アジアの資源地帯を攻略してしまう。次に、襲来するアメリカ太平洋艦隊を全力を挙げて撃破する。そしてアメリカが当面積極的に動けなくなった段階で、自らの損害が限られている場合に限りインド洋へと進む。インド洋でイギリスの片手を縛ると共に、アメリカにとって世界の裏側に当たるインド洋にアメリカ軍を引き寄せて消耗を図り、尚かつインドを戦場としすることでドイツを支援する。あとはドイツが勝利するまで、イギリスに対してインドを人質としつつインド洋でねばり強い戦いを行い続ける、というものだ。
 中盤以降は他力本願の戦いではあるが、アメリカに対して大きく国力に劣る日本としてはドイツに頼らざるを得なかった。
 そして日本軍は自らの方針に従って戦争を開始し、開戦当初はアメリカ軍を通商破壊戦などで拘束しつつ、東南アジアへと電撃的に侵攻していった。
 1942年2月15日に要衝シンガポールが降伏を選び、3月9日に呆気なくインドネシア全土が日本軍の手に落ちた。いっぽうフィリピンのアメリカ軍は、頑強な抵抗を続けていた。マニラ湾の入り口にあるコレヒドール島を要塞化して立てこもり、そこに通じるバターン半島に軍主力を後退させて現地日本軍に出血を強いていた。
 また日本軍は、資源確保の面で重要度が低い事もあってか、ルソン島以外のフィリピンへの侵攻は3月に入ってから徐々に始まったに過ぎなかった。このためアメリカ軍が、アジアでの危機に対する認識が低かったと言われることがある。だが開戦当初に貴重な巡洋戦艦を無為に失っているので、戦力集中と大規模海上戦闘のための訓練や物資集積のため、出撃したくてもなかなか出来なかったというのが実状だった。

 開戦当初のアメリカ太平洋艦隊は、16インチ砲搭載戦艦、巡洋戦艦の合計13隻を中心に、19隻の戦艦と3隻の空母を擁していた。この年の春までは16インチ砲搭載戦艦のうち3隻が大西洋艦隊に属していたので、極端な対日シフトを敷いていた事になる。
 しかし開戦壁頭にフィリピンで3隻の巡洋戦艦を失い、日本海軍の強さをまざまざと見せつけられることになった。西海岸沖合では、潜水艦に空母が呆気なく沈められた。このため、大西洋艦隊からの大幅な増援が決定された。全ての16インチ砲搭載艦と14インチ砲搭載戦艦も可能な限り、さらにドイツ軍のUボート対策すら疎かになるのを覚悟して、空母の回航も決まった。
 この結果、1942年1月末までに、16インチ砲搭載艦が1941年夏に就役したばかりの新鋭艦を含めて15隻、14インチ砲搭載戦艦が9隻、建造が新しい艦から順に集められた。空母も損失分を埋める合計3隻となった。戦艦や空母ばかりでなく、巡洋艦や駆逐艦もかなりの数が太平洋へと回航され、当時のアメリカ海軍の実に80%以上が太平洋に集中されることになる。
 これで大西洋には、最も旧式な戦艦が6隻と空母が2隻だけとなってしまう。大西洋ではイギリス海軍が多数の戦艦を保有しているとはいえ、極めて大胆な戦力移動と言えた。全ては、日本海軍をうち破り、包囲下で孤軍奮闘するフィリピンを救援するためだった。
 とはいえ、現実論として短期的にフィリピンが救援出来ると考えているアメリカ海軍軍人は小数派だった。戦艦戦力では数において互角、実質的にはアメリカ海軍の方が劣ると考えられていたので、よくて五分五分の損害というのが現実的な数字となるからだ。無論アメリカ海軍も勝利するための作戦は練っていた。勝つための手段として、日本海軍を圧倒する数の巡洋艦と駆逐艦を戦場に投入し、相手を引っかき回す事を計画していた。そのための艦隊も改めて編成されている。
 1942年春の時点で、アメリカ海軍は重巡洋艦、大型軽巡洋艦を各2隻、アジアもしくは太平洋上で喪失していたが、まだ重巡洋艦が各種16隻と《ブルックリン級》大型軽巡洋艦7隻を保有していた。日本海軍の同時期の艦艇より有力な旧式軽巡洋艦(《オマハ級》)も10隻あった。このうち重巡洋艦14隻、大型軽巡洋艦5隻が太平洋に回され、約100隻あった駆逐艦もなるべく建造が新しい艦を中心に70隻近く集められた。
 日本海軍は全てを集めても重巡10隻、大型軽巡6隻、新型駆逐艦も50〜60隻程度なので、十分ではないが相手を上回る数字だった。しかも日本海軍は、開戦以来の連続した作戦で疲弊している筈で、戦場に出て来るであろう戦力は多く見積もっても最大数の80%程度と考えられていた。つまり補助艦艇での圧倒という、アメリカ海軍の前提条件は満たされていた。
 やや不確定なのは、実戦によって脅威が大きいと判明した空母や基地航空隊だが、この点については臨時に各空母の戦闘機比率を可能な限り増やすことで対応されることになった。この頃、空母は所詮補助戦力であるという認識は、各国海軍にとって共通意識だったからだ。補助戦力が不足するため、全ての戦力を投入する日本海軍の方が少数派と言えた。

 なお、大量の補充戦力を受け取ったアメリカ太平洋艦隊は、その後訓練と出撃準備に追われることになる。そして、これがかなりの苦労を伴った。
 なによりアメリカ全艦隊が集まるような訓練は、この10年で一度も行われていなかったので、統一運用に大きな問題があった。故に戦艦部隊は複数の艦隊に分散せざるを得ず、速力の問題もあったため敵補助艦の漸減を目的とした高速偵察艦隊と、主力艦隊二つに再編成された。それでも今までにないほど多数の艦艇がそれぞれの艦隊に属することになったため、統一運用に関する問題は出撃する時点でも解決していなかった。
 出撃拠点としては、準州扱いとなっていた北太平洋上のハワイ諸島が当然の選択肢として選ばれたのだが、ハワイには大艦隊を受け入れるだけの拠点がまだ完成していなかった。
 ハワイの中心となるオワフ島のパールハーバーは、古くからの天然の良港のため1930年代には軍港として潜水艦基地と中規模の艦隊が駐留できるだけの設備は整えられていた。この状態はアメリカ軍全体の予算不足もあって、ランドン大統領の共和党政権下で続いた。ハワイ諸島は、重要だがあくまで中継拠点の一つに過ぎなかった。第二次世界大戦が始まって日本への脅威が言われるようになっても、不景気対策でもある艦艇の建造以外では海軍予算が不足しているため、設備の拡充は後手後手に回っていた。
 艦艇を支援する補給用の軍用タンカーも、海軍の規模そのものを考えると非常に貧弱なままだった(※開戦時で僅か4隻)。給兵艦、工作艦などもほとんど無かった。この状況が激変するのは、1940年晩秋に民主党のルーズベルト政権が出来て翌年1月に実働し始めてからの事だった。だがそれでも、予算が組まれてハワイの大規模な拡張工事が始まるのは、まさに日本との戦争が始まろうという頃だった。補助艦艇についてはさらに遅く、スターク案の通過に伴い豊富となる予算を用いた建造が実働するまで待たなければならなかった。
 このため、ルーズベルト大統領の命令によりハワイに進出したアメリカ太平洋艦隊主力は、アメリカ海軍にあるだけのタンカー、工作艦、各種母船を全てパールハーバーに集めた状態で、辛うじて前線に集中された大艦隊を維持していた。整備や補修はもちろん、大型艦の船底のカキ取りですら最低でも西海岸の乾ドックで行わなければならないため、ハワイに太平洋艦隊の駒を進めたと言っても殆ど形式的な事でしかなかった。しかも西海岸にも、大量の艦艇数に対して整備用ドックの数が不足していた。船を活用した浮きドックも、この頃は計画上にしか存在しなかった。
 これら事は日本海軍も事前に多くを知っており、開戦頭の通商破壊戦にも繋がっている。タンカーの数も足りないので、低速の民間タンカーを多数徴用して、さらにタンカーの一部をパールハーバーで補給用の貯油タンク代わりに使わざるを得なかった。当然だが、効率が下がり危険性は上昇した。
 このため、ハワイと西海岸をアメリカ軍の艦船は、特に開戦時は護衛を伴わずに頻繁に行き来しなければならないため、日本軍潜水艦にとっては格好の餌食だったわけだ。
 実際、アメリカ海軍が受けた損害の殆どは最初の一週間、主に単艦や小数の艦艇で移動している所を狙われている。そして空母《ディスカバリー》は沈められ、戦艦《コロラド》と戦艦《ペンシルヴァニア》は共に魚雷2本を受け、修理に半年以上かかる大きな損害を被っていた。この他、重巡洋艦1隻、大型軽巡洋艦1隻も、同じく単艦での移動中に魚雷を受けて沈んでいた。アメリカ海軍は、日本軍によって戦う前から逆に「漸減」されてしまっていたのだ。また軍艦以外では、民間大型タンカー8隻、軍用タンカー1隻が日本軍潜水艦の餌食となっており、アメリカ軍のフィリピン救援は作戦発動前から躓きの連続だった。
 実際、アメリカ太平洋艦隊の多くの幹部は、性急な対日侵攻作戦の再考や延期をたびたび求めている。司令長官のハズバンド・キンメル提督(海軍大将)は強気の発言を続けていたが、これは前任者のリチャードソン提督が1941年初頭に消極的発言を続けたため解任された事が影響していたと見るべきだろう。
 なお、リチャードソン提督は、就任当初のルーズベルト大統領に命じられたハワイ進出が太平洋艦隊の機能を低下させる上に無茶だとして何度も命令撤回を求め、これが大統領の怒りに触れていた。
 太平洋艦隊は、日本海軍を撃滅するため前に進むしか無かったのだ。

 対する日本海軍だが、開戦時の日本海軍内にも、すぐにもアメリカ太平洋艦隊が来援するのではないかという心理的圧迫は確かに強かった。しかし物理的要素から、小規模もしくは中規模以上での奇襲的攻撃以外は考慮する必要がない冷静に判断としていた。この心理的安心を得るために、堀提督は海軍の枠を越えた総合的な軍事演習すら行った。
 また何かあった場合の責任は、堀連合艦隊司令長官自らが責任を取ると言い切った事もあり、念のため主力の第一艦隊をパラオに進める他は、ほとんどの戦力を東南アジアに集中した。東南アジア侵攻の主力となるのは、高速戦艦で編成された第二艦隊と、巡洋艦と水雷戦隊を主力とする第三艦隊だった。
 また、主要な空母を集中した艦隊が開戦までに編成されていたが、これは敵地での制空権確保を目的として航空機を集中運用する事と護衛の補助艦艇の節約のためでもあった。同艦隊は「第一航空艦隊」と呼ばれ、開戦当時日本海軍が保有する有力な航空母艦のほぼ全てが集中された、当時としては極めて特殊で革新的な艦隊だった。
 艦載機総数は常用で240機程度で、この頃のアメリカ海軍の大型空母3隻を集中させた場合とほぼ同規模だった。この艦隊は、開戦当初フィリピンのアメリカ軍攻撃に参加した後も東南アジア各地を転戦し、柔軟性のある航空支援によって日本軍快進撃の立て役者となった。ただしこの情報を当時の連合軍、アメリカ軍は存在を十分に知り得ていなかった。さらには、かなり軽視していた。日本海軍は、基地航空隊も同じ機体を運用するので、どちらかよく分からない場合が多かったからだとされているが、当時蔓延していた人種差別の心理が根底にあったからだ。
 そして圧倒的な戦力を用いた日本海軍は、東南アジアで連合軍が予想しなかった早さで進撃したのだが、それでも消耗は避けられなかった。この場合の消耗とは、長期間の連続する実戦に伴う疲弊の事であり、損害による沈没や要修理の事ではない。3月初旬で東南アジア作戦を完全に終了した日本海軍としては、最低半月、出来れば一ヶ月程度の整備と乗組員の休養期間が必要だった。このため、アメリカ軍の初動に対して日本海軍の動きは大きく出遅れる事となる。

 1942年2月15日のシンガポール陥落は、戦争の一つのターニングポイントとなった。日本の快進撃の象徴であると同時に、連合軍の強い焦りを呼び込んだからだ。
 事実、ルーズベルト大統領は、自らの海軍に対して日本軍への積極的な攻勢と、可能ならばフィリピン救援を強く求めた。
 開戦から既に三ヶ月が経過し、いまだ具体的行動に出られないでいた海軍に対する焦りと苛立ちが具体的行動となって現れた形だったが、だからこそアメリカ太平洋艦隊も動かざるを得なかった。
 アメリカ太平洋艦隊の第一目標は、マーシャル諸島のどこかの環礁の占領。マーシャル諸島の全てを占領するのではなく、フィリピンに向かうための最初の中継拠点を得るのが主な目的だった。
 そして幸いと言うべきか、日本軍はマーシャル諸島を偵察用の拠点として以外では事実上の軍事的空白地帯にしているため、拠点の占領そのものは若干の海兵隊があれば事足りると考えられていた。
 問題は日本海軍の動きだったため、マーシャル諸島への侵攻と平行して、陽動を兼ねて空母の一部を日本の領土深くに切り込ませ、奇襲的な空襲を実施することになった。この作戦には、開戦以前から積極的行動を求め続けていた空母指揮官のハルゼー提督は喜んだと伝えられているが、彼の勇躍といえる大胆な攻撃は日本海軍に大きな衝撃を与えることになった。
 3月初旬、空母《エンタープライズ》を中心とする小規模な任務群を率いたハルゼー提督は、まずは大胆にも日本領のマーカス島(南鳥島)を空襲、一撃で平べったい小さな島の基地を破壊し尽くすと、その後も大胆に進撃を続けて硫黄島へと殺到した。当時硫黄島は、マリアナ諸島の中間拠点として飛行場が整備されていたが駐留部隊(航空隊)はないため、日本軍はこちらもいいように蹂躙されてしまう。
 同方面の防備を担当していた日本海軍としては、日本領の辺境であれ攻撃を受けたとして面子丸つぶれだった。このため連合艦隊を率いる堀悌吉提督への非難が高まったが、堀提督はいずれ襲来してくるアメリカ太平洋艦隊を必ず撃退してみせると政府・軍首脳部の集まる会議場(※大本営の全体会議)で訴えた。そして彼の意見を、当時軍令部総長だった山本五十六提督なども支持したため、とにかく東南アジアからの艦隊の引き上げと、整備、補給、乗組員の休養など急ぎを進めることとなった。
 そして、こちらは日本海軍が想定した通り、アメリカ海軍の大部隊がついに動きだし、3月7日にマーシャル諸島の西側にあるエニウェトク環礁がほぼ無血で占領された。完全に無血ではなかったのは、日本海軍が警戒配備に就かせていた潜水艦とアメリカ海軍との間に戦闘が起きていたからだった。
 そしてアメリカ軍が環礁内に入り、早速前線拠点化するための工事が開始された。

 アメリカ軍の次の目標は、可能ならばグァム島の奪回。
 しかしグァム島のあるマリアナ諸島方面には、日本の有力な航空戦力(100機規模)が既に展開していることが分かっていた。遊撃戦を行ったハルゼー提督も、可能ならばマリアナ諸島の攻撃を行おうとしたが、偵察段階で容易ならざる規模の航空戦力が駐留していることを確認して、自らの戦力不足のためやむを得ず引き下がっていた。
 そしてグァム島以外となると、次はパラオ諸島ということになる。その向こうにはフィリピンがあるので、むしろこちらの方が本命だった。しかしパラオも厳重に防備されていたし、日本海軍の艦艇もかなりの数がパラオ諸島に集結しているのは分かっていた。
 ただし、この時アメリカ軍が電撃的に太平洋を進撃していれば、日本海軍はフィリピンの道を一旦は明け渡さざるを得なかった可能性が高かった。東南アジアでの戦闘はほぼ終了していたが、多くの艦とその乗組員は連続した作戦と任務のため疲弊していた。日本海軍は、手すきの艦から順番に整備と補給を進めて前線に配備し直していたが、全てを終えるには一ヶ月程度が必要だった。
 しかしこの時のアメリカ海軍は、進みたくても進めなかった。
 ハワイからエニウェトク環礁に続々と艦隊は集結していたが、前線への補給が思うに任せなかったからだ。

 開戦時のアメリカ海軍の軍用タンカーの数は、僅かに4隻だけだった。アメリカ自身は約1200万トンの商船を保有し、多くのタンカーを有してはいたが、多くがメキシコ湾岸で採掘された石油とその精製物をアメリカ各地に運ぶため、経済効率を重視した鈍足の民間用タンカーばかりだった。残りも大西洋航路用のタンカーだった。
 しかも軍用タンカーのうち1隻は、開戦から一週間と経たずに日本軍潜水艦の雷撃で沈められていた。
 加えて、アメリカ海軍といえば長い航続距離を有していると考えられがちだが、実際はそうでもなかった。旧式戦艦は10ノットの巡航速度で8000海里の航続距離があったが、世界最大の広さを誇る太平洋の広さは半端ではない。しかもアメリカ海軍の旧式戦艦は、燃料を多く消費する16ノットという速い速度で進めば、航続距離は5000海里程度になってしまう。対して日本海軍の場合は、ほぼ全ての戦艦が16ノットで8000海里程度の航続距離を持っていた。駆逐艦ですら4000海里を有する、巡洋艦のような航続距離を持っていた。つまりアメリカ海軍の戦艦は、大食いの割に足が短いのだ。巡洋艦の航続距離はアメリカ海軍が日本海軍の同種の艦艇を圧倒していたが、アメリカ海軍の艦艇が航続距離が長いという話しは、この辺りの情報から出てきていると考えられる。
 話しが少し逸れたが、とにかく前線のアメリカ海軍の艦艇は燃料補給に苦労していた。ハワイでは開戦少し前から巨大な重油備蓄設備の建設が始まっていたが、この時点では基礎工事の最中で、全く備蓄機能を持っていなかった。数万トン程度の備蓄設備はあったが、22隻の戦艦を中心に100隻を越える艦隊に対しては全く足りていなかった。しかもこの設備は、基本的に潜水艦用に建設されていたもので、重油ではなく軽油を主に備蓄していた。
 結局アメリカ軍は、徴用した民間の鈍足タンカー多数を運用することになるが、速力と補給の双方で効率が非常に悪く、また徴用が中途半端な数だったため補給には思いの外時間がかかることになる。速度が遅い船で船団を組んだ為、日本軍潜水艦の襲撃もたびたび受け、損害も数多く出ていた。しかも日本海軍は、鈍足のタンカーを優先して攻撃した。故に、後方の海上交通にも、多数の駆逐艦などを配備しなければならなくなっていた。
 このためアメリカ太平洋艦隊司令部では、日本海軍と雌雄を決するのは十分な燃料がエニウェトク環礁に集中できる4月中頃と想定していた。

 しかし日本海軍は、前線のアメリカ軍に対しては偵察だけを重視し、アメリカ軍の伸びた補給線に対して潜水艦による襲撃を繰り返していた。
 さらにこの時、伊号潜水艦の丙型と呼ばれる2隻の重攻撃型潜水艦に搭載された「甲標的」と言われる小型潜水艇2隻が、艦隊集結と遠征準備、さらには拡張工事の続くパールハーバー軍港に侵入した。
 工事と大規模な作戦のため多くの船が出入りするので、警戒の薄かった湾内奥で雷撃を実施し、2隻の大型船を撃破した。このうち1隻が、前線での空母への補給のため、重油とガソリンを合わせて搭載した大型タンカーだったため、大量の高オクタンガソリンを着火剤として大規模な海上火災が発生。短時間で周辺に停泊していた艦艇も火災の巻き添えとした。さらに近くにいた艦艇用弾薬を満載した臨時給兵艦(ようするに普通の大型貨物船)が誘爆して大規模な爆発が発生してしまう。1000トン以上の火薬や弾薬、砲弾などが短時間の間に爆発したため爆破の規模は非常に大きく、隣接する船ばかりかパールハーバーに大きな被害を及ぼすだけでなく、燃えた破片がホノルル市街にまで飛んできた程だった。
 大規模なオイル火災と弾薬の誘爆はフォード島との間の狭い場所に広がり、中には軍艦が爆発炎上する事態にもなった。さらにタンカーの炎上は、延焼の形で他にも3隻で起きて厄介な重油火災となった。多数のタンカーが、備蓄タンク代わりに燃料を満載して狭い湾内に停泊していたのが原因だった。
 結果として、小型潜水艦の放った魚雷4本だけで極めて大規模な港湾火災へと発展した。
 これが「パールハーバー炎上」だった。
 この時のパールハーバー軍港の火災では、23隻の外洋船舶の他にも、災害場所近くにいたオマハ級軽巡洋艦の《ミルウォーキー》と4隻の駆逐艦、3隻の潜水艦などが復旧不可能な損害を受けた。さらに破棄となった数とほぼ二倍の艦船が損害を受け、軍人、軍属の戦死者、行方不明者の総数2400人を出す大災害となった。突然の大空襲を受けるよりも大きな打撃を被った、と報告書に記載されたほどの惨状だった。
 そして、完全損失となった約20万トンの艦船の損害も無視できなかったが、パールハーバー軍港そのものが丸焼けになって機能を著しく低下させ、前線への補給能力を一時的に失った事の方が戦略的な意味でより大きな損害だった。
 加えて、大規模な拡張工事中だった港湾機能もかなりが損害を受け、工事関係の船や機材、人員の損害も合わせて、長期的視点でも軍港機能の低下と拡張工事の大幅遅延をもたらすことになる。
 日本海軍は嫌がらせ程度の攻撃を企図した積もりだったが、結果は戦争を半年長引かせたと言われる程だった。

 パールハーバーでの惨事のため、既にエニウェトク環礁に進出していたアメリカ太平洋艦隊司令部では撤退すら議論された。だが、当面前線で駐留が続けられるだけの燃料が確保されていた事と、ワシントンからの強い命令もあって、むしろ当座の燃料があるうちに攻勢が前倒しにされることになる。
 攻勢には反対論も出たのだが、日本海軍は東南アジア方面での大規模な作戦を終えたばかりで迎撃体制が十分でない事と、既に敵地に攻め込んでいる以上、むしろ積極的に攻めるべきだという意見が慎重論を上回った。

 エニウェトク沖合を無音潜行により生き延びることで張り付いていた潜水艦から、「アメリカ太平洋艦隊動く」の報告が日本の中枢に発せられたのは、1942年4月5日の事だった。
 これに対して、東南アジア方面から急ぎ引き上げて日本本土で整備と再編成を続けていた日本海軍主力は、アメリカ海軍の準備に合わせる形で自らの準備を急ぎ、敵が動き出すと同時に緊急の全力出撃を開始。合わせて、パラオ諸島に既に進出している艦隊にも出撃命令が下された。
 日本側が想定していた戦場は、マリアナ諸島沖合だった。アメリカが、自国領であるグァム島の奪回に出てくると見ていたからだ。だがアメリカ海軍は、日本海軍を撃滅後、一気にパラオ諸島を攻略し、5月までにフィリピンとの連絡路を確保する積もりだった。そのための物資や船については、半分以上がパールハーバー軍港で船と共に灰になっていたが、代わりの船と物資が他を犠牲にする形で東海岸から送り出され、西海岸で急ぎ準備されつつあった。
 こうした両者の思惑の違いがあるため、戦場は錯綜することになる。



●フェイズ06:「パラオ沖海戦(1)」