●フェイズ09:「決戦の結果と戦略の変化」

 1942年4月8日〜10日に行われた一連の大規模水上戦闘は、一般的にはアメリカ軍の作戦目標から「パラオ沖海戦」と呼ばれるが、一部では「西太平洋海戦」とも呼ばれる。また、「パラオ島航空戦」、「西カロリン諸島沖海戦」など、個々の戦場での呼び方をされる事もある。戦闘の規模は、第一次世界大戦の「ユトランド沖海戦」に匹敵するか凌駕する極めて大規模な戦闘だった。何しろ超弩級戦艦だけで、双方合わせて48隻も参加していた。加えて1万トン以上の大型艦艇も45隻参加している。しかも複数の艦隊に分かれて、双方ともに複雑な運動を繰り返した非常に激しい戦闘だった。
 戦闘の結果は、政治の求めから早期のフィリピン救援を行い、準備、戦力、情報、全てが不足する中で無理を押して敵地深くにまで出撃したアメリカ海軍の完全な敗北だった。しかも、惨敗もしくは大敗と言って間違いない戦闘結果に終わった。アメリカ太平洋艦隊は、彼らが侮っていた日本海軍の艦隊と航空隊のほぼ全てが待ちかまえる敵陣に自ら突撃して、進んで包囲殲滅されたようなものだった。
 何故無謀な戦闘を挑んだのか議論になる事も多いが、一般的にはアメリカ側の人種差別に根ざした奢りが根底にあると言われる事が多い。当時のアメリカの一般論では、「日本人は、見た目は立派な軍艦と沢山浮かべたが、しょせんは有色人種だから見かけ倒しだ」と言われることが多く、日本のことを詳しく知っていると自負していたアメリカ海軍の太平洋艦隊ですら、当時の人種偏見の呪縛から逃れることは出来なかったとされる。
 しかし実際は、当時の合衆国政府が戦場での実状を無視し、政治を優先させた為だと分析される事が現代では多い。そして政治の求めで、無理な戦闘をした対価は非常に大きかった。
 アメリカ軍の戦死者、行方不明者、捕虜の総数は、育成に時間のかかる熟練水兵ばかり3万人を越えた。対する日本側の戦死者数は、アメリカ側の10分の1程度でしかなかった。日本海軍にとっての戦闘の終幕は、そこら中でサメに食べられる米軍水兵の救助だったと言われるほどだ。日本軍駆逐艦の中には、自身の乗組員数より多いアメリカ軍水兵を救助している。戦闘後も銃撃して殺すことが多い第二次世界大戦で、この海戦での日本海軍の姿勢は今日でも高く評価されている。
 ではその戦闘の双方の大型艦の最終的な損害を見ておこう。

 ・アメリカ海軍
沈没:
戦艦(14隻)
新型戦艦:
《ロードアイランド》
ダニエルズ・プラン艦(16インチ砲搭載艦):
《アイオワ》《モンタナ》《ノースカロライナ》
《レキシントン》《サラトガ》
《ワシントン》《メリーランド》
14インチ砲搭載艦:
《テネシー》
《ニューメキシコ》《ミシシッピ》《アイダホ》
《アリゾナ》
《オクラホマ》
空母(2隻)
《ヴェスパ》《ヨークタウン》

大破:
戦艦(3隻)
《サウスダコタ》(16インチ砲搭載艦)
《メリーランド》(16インチ砲搭載艦)
《ネヴァダ》(14インチ砲搭載艦)
空母(1隻)
《エンタープライズ》

※中破は割愛。ただし、戦艦の残存した5隻の全てが中破。

 ・日本海軍
大破:
戦艦(6隻)
《土佐》《陸奥》
《扶桑》《山城》 
《金剛》《霧島》
軽空母(2隻)
《祥鳳》《飛祥》

中破:
戦艦(8隻)
《大雪》《尾張》《常陸》
《天城》《加賀》《長門》
《比叡》《榛名》

 見ての通り、ツシマ海戦同様に史上希に見るワンサイドゲームだった。
 日本は、判定大破の大損害を受けた艦艇こそ多数出すも、主要艦艇の損失は皆無という結果に終わった。大型艦の中には、損傷が大きかったり火災が酷くて立ち往生した艦もあったが、制空権、制海権を維持していたので友軍の救援で事なきを得て拠点まで曳航された。しかも最も損害の酷い艦でも、1年程度で修理可能だった。そして以前から大型艦を多数保有していたので、修理、整備施設についても何とか対応可能だった。
 対してアメリカは、日本と逆に制海権と制空権を失ったため、作戦に投入した22隻の戦艦のうち14隻もの戦艦を始めとして、総量60万トンもの艦艇を一度に喪失した。沈められた艦艇が多いのは、直接対決で傷ついた所を空襲や潜水艦の雷撃などの追撃戦で沈められた艦艇が多かった為だ。しかも戦艦の半数以上が、自慢の16インチ砲搭載戦艦だった。加えてうち1隻は就役して1年にも満たない新鋭戦艦であり、ダニエルズプランによる強力な戦艦が数多く沈められた事もあって、その衝撃は極めて大きく深刻だった。アメリカでは、《サウスダコタ級》戦艦は撃沈不可能な重防御を誇る不沈戦艦だと、戦前から宣伝されていたからだ。
 アメリカ海軍は、日本海軍に陸軍国家でしかないロシアの海軍と同様の屈辱を受けたのだ。
 しかもアメリカは、既にフィリピンで《レキシントン級》巡洋戦艦を3隻失っているので、開戦以来の戦艦、巡洋戦艦の損失は17隻にも及んでいた。17隻という数だけならばアメリカ軍の戦艦の約半数だが、アメリカ海軍に残された16インチ砲搭載戦艦の数も、新鋭戦艦を含めて7隻にまで減少していた。そのうえ損害を受けて生還した大型艦の半数以上が、修理に時間のかかる魚雷による大きな損害を受け、修理に最大で1年半もかかるものもあった。無傷の戦艦に至っては皆無で、向こう三ヶ月のアメリカ海軍は東海岸に残した戦力価値の低い旧式戦艦以外に戦艦は存在しなくなっていた。
 ロシアのバルチック艦隊同様に、文字通り「全滅」というわけだ。
 空母以下の補助艦艇の損害でも、アメリカ海軍の方が圧倒的に多かった。日本側は駆逐艦、潜水艦を除けば艦艇の損失は少なく、空母の損失はゼロ、大型艦の損失は昼間の戦闘で16インチ砲弾を受け戦闘後自沈した重巡洋艦1隻(加古)と、追撃戦の夜間戦闘で魚雷を受けた大型軽巡洋艦1隻(三隈)だけだった。これに対してアメリカ側は、出撃した三分の二に当たる大型空母2隻、重巡洋艦9隻、大型軽巡洋艦3隻、軽巡洋艦3隻を喪失していた。駆逐艦の損失も、最終的に20隻を超えた。巡洋艦は戦艦の砲撃戦による損失が半数で、残敵掃討時の空襲などによる損失が残り半数だった。駆逐艦の損失についても、撤退途中の撃沈が三分の一を占めていた。
 つまり、制海権のみならず制空権の有無が大きく影響した戦闘結果となった事になる。艦隊戦を生き残っても、空襲でさらに損害を受けた艦艇も多い。何とか生き延びた空母《エンタープライズ》も複数の魚雷と爆弾を受けており、修理にはどれだけ突貫工事しても最低半年はかかる見込みだった。
 アメリカ軍の損害は、相手戦力を侮った上に準備不足のまま敵地の奥深くに侵攻したという、二つが原因していると言って間違いないだろう。
 そしてアメリカ海軍の受けた中で最も深刻だったのが、艦艇の損失よりもセイラー(水兵)の損失、つまり戦死と捕虜、重度の負傷による退役だった。戦死者・行方不明者合わせて3万人という数字は、この頃の海軍全体の平時定員(7万5000人)の40%にも達していた。後遺症や身障者などで退役を余儀なくされた水兵も4000名に達した。しかも失った全てが艦艇乗り組みの水兵(セイラー)だった。つまりアメリカ海軍は、実働面で半身不随に陥った事になる。そして熟練したセイラーの大量喪失は、その後の戦争全期間に渡ってアメリカ海軍を苦しめ続けることになる。
 また艦艇の修理だが、西海岸の施設だけでは全く足りず、この当時は浮きドックなども殆ど無いため、多くの艦を東海岸にまで回航しないと、一度に修理することは難しく、西海岸で順番待ちするにせよ東海岸に回航するにせよ、多くの時間を浪費せざるを得なかった。一度にこれだけの損害を受けることが、想定されていなかったからだ。

 なお、この戦闘で特に日本軍の航空機が大活躍を示したが、後世言われるほど戦艦の地位が大きく揺らいだわけではなかった。特に戦艦有用論は現場の将兵から多く、これは実際の戦場で戦艦の主砲による戦闘を直に体験した海軍将兵が日米海軍双方で多数に上っていたからだと言われる。
 また一方では、制空権下での艦隊決戦という方向が日米双方で強くなった。特にアメリカ海軍では「88ショック」と言われたほど、日本の「八八艦隊」に対して再評価が下されていた。これは、高い機動性を備えた大型戦艦という日本側の戦艦整備の方針が、結果として数十年先取りした先進性だと考えられたからだ。実際、全体として戦術的な機動性に優れた日本海軍の存在が、戦闘全般にわたる日本海軍の優位を作り出した大きな要因となっている。何しろアメリカ側の旧式戦艦は、艦隊丸ごと逃げたくても逃げられなかったのだ。
 そして何より、この戦闘の衝撃の大きさは、戦いに敗れるも生還した太平洋艦隊司令長官(キンメル大将)の辞職程度では収まりがつかなかった。

 そして「パラオ沖海戦」の結果を踏まえ、アメリカの戦争方針そのものが大きく変更されることになる。補充が短期間では極めて難しい大型艦の大量損失による太平洋での戦力バランスの大きな変化のため、実質的にアメリカ側が日本に対して長期間積極的な行動が取れなくなったからだった。
 東海岸で建造中の大型艦がある程度揃う1944年下半期に入るまで、アジア、太平洋方面では余程の事態が起きない限り「守勢防御」もしくは「攻勢防御」に徹し、まずはヨーロッパでの戦いにより多くの戦力と物資を投じることとなったのだ。
 この結果、アメリカの国力リソース分配は、当初予定の「本国:貸与:アジア:欧州=25:5:15:55」から「本国:貸与:アジア:欧州=25:5:10:60」に変更される。開戦当初の配分から、アジアの「5」が欧州に移された形だ。この「5」という数字は、日本の国力の半分に匹敵するほど巨大な数字であると言えば、重大性が理解できるだろうか。
 日本軍に対しては、日本軍が太平洋方面で余程積極的な侵攻を行わない限り、然るべき時が来るまで防御に徹し、能動的な行動はオーストラリア方面からの規模を限定した航空撃滅戦と潜水艦を用いた通商破壊戦が行われるのみとされた。特に、日本の国力を消耗させる潜水艦作戦は重視される事になった。また、日本陸軍の戦力を吸引するため、資金援助とレンドリースと引き替えに中華民国に攻勢が要請されることになった。そして中華民国への貸与を行うため、インド東部からの支援ルートを新たに作ることも決められた。
 なお、アメリカの圧倒的という以上の国力なら、航空機や戦車、または駆逐艦程度の艦艇ならいくらでもすぐに大量に揃えることが出来るようになりつつあった。実際、参戦から一年の経過を待たずして、武器弾薬に始まりあらゆる物資が生産、供給された。だが、建造に手間のかかる戦艦や大型空母となると、話しは簡単では無かった。加えて現時点では、ドイツ、日本によるアメリカに対する潜水艦を用いた通商破壊戦に対して為す術がなく、そうした苦境もアメリカの国力と戦力の一極集中を生んだ背景の一つとなっていた。
 また忘れてはならないのが、日本の基本的な戦争方針だった。
 日本軍の太平洋方面での戦争方針は、古くからアメリカ以上の「守勢防御」だった。だからこそアメリカ軍は、日本軍の堅い守りの前に敗北したとすら言えた。そして日本軍は、グァム島以外で太平洋の敵国領土に手を出すことはなく、自らの有するマーシャル諸島ですら恒常的な防衛や部隊の駐留を事実上放棄していた。マーシャル諸島には、水上機母艦を事実上の根城とする航空偵察部隊が置かれたぐらいだった。比較的近在のアメリカ領となるウィーキ島にも、予防的な空爆以外で手は出していない。
 アメリカ軍が進めば「八八艦隊」が出張ってくるが、日本軍の側から太平洋側に押し出してくる可能性は殆ど無かった。オーストラリア、ニュージーランドが懸念した南太平洋方面への侵攻の可能性も、極めて低いと判断されていた。
 だからこそアメリカは、安心してヨーロッパに戦力を集中出来た。そしてさらに、今後日本軍がインド方面に侵攻する公算が高かったため、イギリスを直接援護するためにもヨーロッパに戦力と物資を注ぎ込むべきだと考えられた。なお、最後の点は、アメリカにとって地球の反対側にあるインドにおいて、アメリカ軍は基本的に日本軍と本格的に戦う気がなかったとも言える。
 ただし、パラオでの戦闘の詳細がかなり詳しくアメリカ市民の間に広がった為、民心安定の為にも向こう三ヶ月から半年程度は、既存の健在な艦艇の多くを日本軍の侵攻が無いと知りながらも太平洋方面に配備せざるを得なかった。ハワイや西海岸には、かなりの数の陸軍部隊や沿岸砲兵、航空隊も半ば訓練のような形で配備された。この事をアメリカ海軍自身は、「アローン・フォニー・ウォー(孤独なインチキ戦争)」と呼んでいた。

 一方日本軍だが、日本の戦争方針を決定する「大本営」は、アメリカ太平洋艦隊の撃滅、自軍戦力の残存という極めて大きな前提条件をクリアーしたため、本来の守勢防御方針を太平洋に限定して、本格的なインドへの進軍を決意する。
 日本の主な戦略目的である、インド洋への進軍によるイギリス、中華民国の降伏(もしくは戦争からの脱落)を狙っての事だった。
 インドを失えば、イギリスは自らの「帝国」を維持できなくなる。インドから中華奥地の支援ルートを絶たれれば、工業力に欠ける中華民国も絶ち枯れとなってしまう。そしてイギリスを追いつめれば、ドイツが勝利する可能性が高まる。これこそが、国力に限りのある日本の戦略方針だった。
 しかも、アメリカ軍という強大な敵ではなく、片手をドイツに縛られたイギリスを相手にするという、敵の弱いところを突くという戦争の理にも叶った行動だった。アメリカがインド洋に来るにしても、インド洋はアメリカにとって最も遠い場所だった。距離と補給という要素で日本が有利だった。
 そして日本には、強大なアメリカ海軍を正面からうち破った強大無比といえる「八八艦隊」を中心とする大艦隊があり、その行く手を阻む者は少なくとも1942年4月中頃の時点では皆無だった。この時期の「八八艦隊」は、間違いなく20世紀の「アルマダ(無敵艦隊)」だった。

 しかし日本海軍自身は、少しばかり混乱が見られていた。
 「八八艦隊」を中心とする戦艦が戦力の中核となってアメリカ海軍に勝利したが、航空機の果たした役割が予測や想定を遙かに超えて大きかったからだ。しかも、海戦後に聯合艦隊司令長官を長とする大規模な兵棋演習(オペレーション・リサーチ)をしても、似たような結果になる事が証明された。
 そして相手が旧式とは言え、航空機単独で作戦行動中の戦艦を撃沈しているのだから、日本海軍の受けた衝撃は小さくなかった。この場合、相手にやられたアメリカ側の衝撃と衝撃に対する対処の幅は大きいように考えられるのだが、アメリカ海軍の場合は戦艦を用いた戦いでも大敗していることの方が心理面で重視され、現在進行形の軍備計画を極端に変更する事はほとんどなかった。
 一方の日本軍は、戦艦は戦艦としての地位と価値はそのままながら、ある一つの日本軍の負い目が、航空機の地位を大きく向上させることになる。それは、日本海軍の補助艦艇不足だ。特に巡洋艦の数ではアメリカやイギリスに対して大きく劣勢のため、不足する戦力を航空機で補完しようと言う事になる。実際先の戦闘でも、旧式戦艦のほとんどが相手戦艦ではなく、まずは補助艦艇に対して激しく攻撃を行うことで自らの欠点をカバーしていた。また、これからますます強大化するアメリカ海軍に対向するためにも、補助艦艇の充実は必要と判断された。
 それに加えて、この戦争が始まってからの航空機の活躍は、戦力増強の大きな理由になっていた。
 このため、何とか戦闘を生き延びるも艦橋や主砲など艦の上部構造物の多くを破壊された旧式戦艦の《扶桑》《山城》を、一年から一年半かけて本格的な航空母艦に改装することが決められた。この時撤去される両艦の主砲の一部は、主砲塔が幾つか破壊された《伊勢型》《金剛型》に移設されたり、さらに余剰した砲身など多くの装備が予備部品として備蓄された。
 他にも、「空母補助艦」として建造していた水上機母艦や大型客船など様々な艦艇の多くを、計画通り順次空母に改装することになった。
 また、これは可能ならばという条件付きだったが、速力に劣る戦艦を機関換装や艦尾延長などにより速力を大幅に向上させる大改装も、具体的な計画が練られる事になった。加えて、当面多数の戦艦が必要なくなったので、順次修理や整備の時に改装を施し、来るべき次の戦いに備えることになった。これは、浪費しすぎた燃料の節約も兼ねている。何しろ日本海軍は、「平時の一年分」と言われるほどの貴重な燃料を、一回の戦闘で消費していた。
 また、長期的にはともかく、短期的にやるべきことも多かった。一日でも早くインドへと進み、イギリスの喉元を締め上げなければならないからだ。
 このためと言うべきか、日本軍の次の行動は早かった。

 1942年4月中頃、日本海軍の各艦艇は桜舞い散る日本本土に戻り、国民の前に凱旋を果たした。「ツシマ海戦」の勝利に匹敵する勝利、しかも世界最大の国力を持つアメリカに対する圧倒的な勝利と言うことで、この時の日本人の熱狂は非常に大きかった。政府、軍も戦闘の詳細については出来るだけ早く、そして可能な限り正確に国民広く伝え、各鎮守府、工廠に帰投した艦艇を日本国民は熱狂的に出迎えた。
 この時点で日本海軍と「八八艦隊」は新たな伝説となった。また最新鋭戦艦《大和》も、この時初めて国民の前に公にされ、国民の士気をさらに煽った。
 この時が日本海軍の絶頂だったと言われることが多い。
 そして戦争はこれで終わりではなく、むしろますます戦線は広がりを見せていた。
 日本にとっての総力戦は、まさに始まったばかりだった。

 この時期、日本軍は陸軍主導でインドの玄関口にして東南アジア最西に位置するビルマでの作戦を進めていた。
 ビルマのイギリス軍(多くがインド兵)は、日本軍の果敢な攻撃の前に総崩れの様相を呈しており、4月末頃から非常に激しい雨期に突入するまでにビルマの主要部は日本軍の手に帰することになる。
 そしてビルマ作戦とほぼ平行して、インドネシアから北西方向に伸びている、ニコバル諸島、アンダマン諸島に対する軍事作戦も、静かに進められていた。
 二つの島々はアジア側からのインド洋の玄関口であり、航続距離の大きな航空機ならインド半島やセイロン島を往復することも出来る位置にあった。しかし余剰戦力のない連合軍は、同地域にほとんど戦力を置いておらず、半ば無血で日本軍の手に帰した。
 この時期同諸島に進出したのは、日本軍の小規模な海軍陸戦隊と、水上機部隊、それに航空基地を設営するための工兵隊(設営隊)だけだった。周辺海域には、「南遣艦隊」と呼ばれる小規模な艦隊が、支援活動と通商破壊戦のため活動していたが、規模は当時のイギリス東洋艦隊と似たような規模でしかなかった。
 そうした状態の中、日本の大本営でインド作戦が決定される。
 海軍の圧倒的な勝利に焦った陸軍が、インド解放を自らの手で行うことで国民の支持を得て政治的優位も得ようとした為とも言われている。しかし、この時期の迅速な進撃には一定の価値があった。アメリカは戦争の立ち上がりざまに蹴倒された格好で、イギリスはインドに本格的に戦力を振り向けるほどの余力が無かったからだ。
 戦争はいまだドイツの圧倒的優位だと考えられていたし、ここに日本海軍の大勝利が加われば、連合国側の受けるプレッシャーは極めて大きかった。日本軍の迅速な行動と進撃は、そうした心理を突いた形になったのだ。
 日本陸軍は、4月一杯でビルマ作戦を終えると、すぐにも次の作戦を準備した。作戦目標は、インド半島の先にあるセイロン島。ここを奪って、インド侵攻の本格的な橋頭堡とするのが当面の目的だった。またセイロン島は、日本海軍にとっても望むべき場所だった。インド洋の制海権と制空権を得るために、是非とも必要だったからだ。そして大戦略面でも、様々な要素から出来る限り早いセイロン侵攻作戦が立案、実行される事となった。
 このため日本海軍の各艦艇は、パラオ沖から戻るが早いか、健在な艦艇を抽出した新たな艦隊編成が始まり、日本本土での補給と休養もそこそこに、日本軍の一大拠点となったシンガポールを目指した。

 「昭南」。この名は日本がシンガポールに対して与えた新たな名であり、この戦争の間日本の公式文書ではシンガポールを昭南と記す事になる。そして昭南は、この戦争の全期間において日本軍の最重要拠点であり続けた。
 当時シンガポール(=昭南)は、イギリスの東洋支配の象徴として、東南アジアで最も開発された港湾都市だった。そして戦争中は、日本にとっての東南アジア最大の物資集積拠点となり、インド進軍のための兵站拠点となった。しかも付近には豊富で上質な油田と製油施設があり、連合軍の脅威からも極めて遠いため、特に日本海軍にとっての安住の地とすら言える環境を戦争の全期間に渡って提供し続けることになる。
 また昭南には、イギリスが戦争前までに全長350メートルにも達する巨大ドック(整備用)を始めとする大規模な港湾施設を建設しており、日本海軍が拠点とするための設備も非常に整っていた。その上日本海軍は、昭南やその近辺に工作艦などを送り込み、昭南の港湾機能、修理補修機能も大幅に増強していた。しかもイギリスは、戦争直前に浮きドック船まで持ち込んでおり、これも日本軍に無傷で捕獲されるばかりか、その後複製艦まで建造され、そして昭南に持ち込まれている。
 戦争中の昭南の軍港地区は、「昭南鎮守府」と通称で呼ばれたほどだった。さらに1942年9月からは、日本海軍の実戦部隊である連合艦隊旗艦が司令部と共にやって来たため、名実共に日本海軍最大の拠点となった。昭南の市街には、日本本土から料亭など各種慰安施設までが進出し、日本の一部が再現されたようですらあった。
 そして日本を発つ船は、兵士と武器弾薬、現地で必要なあらゆる加工品を満載して昭南に向かい、昭南を旅立つ時には東南アジア各地で取れた石油、石油精製物、ボーキサイト、鉄鉱石、錫、亜鉛、生ゴム、キニーネ、農作物など各種原料資源を満載して日本へと戻っていった。空船となるのは、日本本土を旅立つタンカーぐらいで、インドへと進軍することで日本の戦争経済は非常に効率よく運営されることにもなった。南太平洋やオーストラリア方面を主戦場としていたら、こうはいかなかっただろう。
 また豊富な石油を、日本海軍の視点から見ると半ば無尽蔵に使えるという状況のため、日本海軍は敢えて必要のない艦艇まで昭南方面に派遣して、現地で訓練を行い、多くの艦艇がついでとばかりにインドでの戦いにかり出されていく事になる。

 そして日本軍の本格的なインド侵攻を受ける事になったイギリス軍だが、とにかく戦力が不足していた。特に海軍の大型艦艇の不足が深刻だった。
 開戦時の「国王陛下の海軍」は、戦艦、巡洋戦艦を新旧合わせて22隻、各種空母を5隻保有していた。大型艦保有数ではアメリカ、日本両海軍に劣るようになっていたが、16インチ砲装備の4万トン級戦艦《アドミラル級》4隻を有するなど、ヨーロッパでは圧倒的な戦力を有していた。その上1937年度計画で戦艦3隻、空母1隻、38年度計画で戦艦3隻、空母2隻を計画。そして1942年春までに戦艦3隻、空母3隻が完成していた。
 しかしイギリスは日々の戦闘の中で損害を重ね、特に1941年晩秋から初冬にかけての損害が酷かった。
 箇条書きにすると以下のようになる。

 41.11.13 Uボートにより、空母《アークロイヤル》撃沈
 41.11.25 Uボートにより、戦艦《バーラム》撃沈
 41.12.10 マレー沖で、戦艦《プリンス・オブ・ウェールズ》、巡洋戦艦《レパルス》撃沈、戦艦《アンソン》大破
 41.12.18 アレキサンドリアで、イタリア軍の人間魚雷により戦艦《クイーンエリザベス》《ヴァリアント》着底

 合わせて戦艦・巡洋戦艦5隻沈没(又は着底)、1隻大破、空母1隻沈没となる。加えて、開戦以来、戦艦1隻、巡洋戦艦1隻、各種空母2隻を失っている。その上、損害を受けて修理中の艦艇もあり、日々の戦闘や船団護衛による消耗を合わせると、稼働戦力、特に余剰となる戦力は酷く不足していた。新鋭空母の《イラストリアス》は、1941年1月10日に爆弾6発を被弾。その後応急修理だけで運用が続けられ、1941年末になってようやくアメリカ東海岸で修理中という有様だった。
 このため、1942年春頃の額面上でのイギリス海軍の大型艦稼働戦力は、戦艦・巡洋戦艦17隻、空母3隻となっていた。もう少し細かく見ると、戦艦は新鋭の《キングジョージ五世級》2隻、《アドミラル級》4隻(1隻大破)、《クィーンエリザベス級》2隻、《R級》4隻、旧式の《アイアン・デューク級》4隻、巡洋戦艦2隻となる。空母は、旧式小型の《ハーミーズ》と装甲空母の《ヴィクトリアス》《フォーミダブル》の3隻だけだ。
 この戦力で、北海のドイツ海軍、地中海のイタリア海軍を押さえ、さらにインド洋に来寇する日本海軍を迎え撃たなくてはならない。しかもこの時期のイギリス海軍には悲報が続いていた。
 特に大きな悲報だったのが、1942年4月中旬にアメリカ海軍がパラオで日本海軍に歴史的な大敗を喫した事件だった。これで日本を遮る者が当面いなくなった事を意味したからだ。
 しかもアメリカは、アメリカの民心を安定させるために、アメリカ大西洋艦隊の大型艦のかなりを一時的に太平洋(正確には西海岸やハワイ)に配備しなければならなかった。
 おかげで、同年4月に予定していたマルタ島への補給作戦に、空母《ワスプ》は作戦参加を急遽取りやめてしまい、イギリス海軍も空母が不足したため、結果としてマルタ島への航空機の供給は中途半端な状態となった。空母以外の船舶を用いた輸送も実施されたが、多くが失敗した上に成功した機数だけでは大いに不足していた。
 そして、もともとイギリス海軍の空母が不足していたため、航空機の補給が滞りがちだったマルタ島は、以後しばらくほぼ沈黙を余儀なくされてしまう。当然だが、地中海での補給合戦は枢軸側優勢になり、北アフリカのドイツ軍は強化され、イギリスは地中海を突破する補給を減らし、喜望峰周りでの面倒な補給を余儀なくされていた。
 以上のような状態が、1942年春の時点での海から見たイギリス軍の状態だった。そしてイギリス海軍は、最低でも7月まではアメリカ海軍もアテにはできず、独力でインド洋に襲来する強大な「八八艦隊」を迎え撃たなくてはならなかった。

 しかしイギリス軍は、戦力がないと嘆いてはいなかった。
 まずは、5月初旬予定のマダガスカル作戦(※ヴィシー政府からの奪回を目的。北部要衝の占領のみを予定)の無期延期を決定した。合わせて、同作戦に投入予定の3個師団をインド防衛に転用を決定した。このうち1個師団をセイロン島に、他の2個師団は今後インド民衆に混乱が広がらないように治安維持のために各要地に分散配備した。また、航空機を中心にして出来る限りの武器、弾薬がインドに急ぎ送り込まれることになり、この補給はロンメル将軍に苦しめられている北アフリカよりも優先されることになった。この中には、アメリカのレンドリースでもたらされた武器弾薬もかなり含まれていた。
 インドこそがイギリスの力の根元であり、スエズよりもインドの方が重要なのは自明の理だったからだ。それに、スエズが仮に奪われても一時的だと割り切っていた節が強かった。逆にインドの場合は、日本軍のインド本土侵攻を許した場合、インドで独立の機運が高まって自らの支配体制が揺らぐことが確実視され、その後が大変な事が分かり切っている為、可能な限り日本軍をインドに入れない努力が行われることになったのだ。

●フェイズ10:「SE作戦」