●フェイズ10:「SE作戦」

 日本軍によるインド侵攻。
 これは歴史的な事件だと認識される事がある。
 1840年の「阿片戦争」以来、初めてアジア勢力がヨーロッパ勢力に対して全面的な攻勢を取った形になるとされるからだ。例え日本軍の直接的な行動が短期間で終わるにしても、歴史の転換点の一つとして十分に数えられるとする意見は少なくない。
 そして日本軍によるインド侵攻の立て役者とされたのが、日本海軍が心血を注いで作り上げた「八八艦隊」だった。「八八艦隊」こそがヨーロッパに対する、今までの屈辱を注ぐための反撃の嚆矢となったからだ。
 なぜ日本海軍や連合艦隊ではなく、この戦争で注目を集めるようになった空母ではなく「八八艦隊」なのか? その理由は、日本とイギリスの戦力差に起因している。またイギリス軍の主に心理的側面が影響している。
 新たな戦力として注目されつつある空母は地上配備の航空隊でも撃退できるが、複合的な護衛部隊(空母など航空隊含む)を伴った戦艦の群だけは撃退が難しいと考えられていたからだ。実際イギリス海軍は、日本海軍が「八八艦隊」のうち1個戦隊を投じるだけなら積極的な迎撃を、2個戦隊もしくはそれ以上ならば、消極的な迎撃もしくは防戦を考えていた。

 もっとも、日本軍の中でインドへの侵攻を熱心に考えていたのは、「八八艦隊」を擁する海軍ではなく陸軍だった。太平洋やオセアニア方面だと自分たちは補助的な役割しか果たせないが、インド亜大陸が舞台なら陸軍に十分な活躍どころがあるというのが、感情面でのかなりの部分を占めていたからだ。無論、日本の国家戦略であるイギリスへの戦略的な攻撃や、中華民国の補給線の完全遮断などといった戦略的要求もあったが、やはり感情面が大きかったと言えるだろう。また消極的な海軍の場合、かなり消去法に近い形でインド作戦に賛同していた。
 日本海軍の主な賛同理由は、東南アジアの油田地帯を中継地、策源地として使えるからだった。何しろ日本海軍とりわけ「八八艦隊」の大型戦艦群は、国内及び近隣で石油の採れない日本にとってかなりの戦略的な「重荷」でもあった。その「重荷」が石油の豊富な場所で活動するのだから、日本政府にとって、そして燃料を消費する海軍自身にとっても非常に好都合だったのだ。無論、アメリカ海軍に大打撃を与えたからこそ可能となった状況ではあるが、そうであるなら尚更状況を利用するべきだという考えが根底にあった。
 そうした面から見ると、日本の天然資源の少なさよりも、日本の戦略性のなさが垣間見える。
 しかし日本の軍事力の総力を挙げるインドへの進軍は、世界戦略的には大きな正解だった。アメリカは海軍が半身不随でイギリスの海軍力も大きく消耗し、同盟国ドイツはエジプトへと迫っているという千載一遇の状況下にあって、インドに日本軍が押しよせる事は、戦争を大きく転換する重要な要素になりうる可能性を持っていた。

 実際の日本軍の行動だが、日本陸軍のインド侵攻は早くも1942年3月中頃から作戦案として具体化されつつあった。また4月一杯を目処に、ビルマ作戦の当面の完了が目指されていた。4月一杯が目処とされていたのは、ビルマからインドのベンガル地方にかけては4月末頃から約半年間、凶暴な雨期に突入するからだった。その間まともな軍事作戦は難しく、膠着状態に陥らざるを得なくなる。それまでに、進めるだけ進んでしまおうというわけだ。しかも現地イギリス軍が総崩れの様相を呈しているとあっては、日本軍としては進むのが当然だろう。日本にとっての戦争の発端とも言える中華戦線など、当の陸軍すらほとんど見ていなかった。
 話しが少し逸れたが、日本陸軍は3月中頃から東南アジア作戦で使用した戦力の半分程度を投じたインドへの本格的侵攻を準備し始める。日本海軍がアメリカ海軍に勝利した4月中頃から状況は具体化へと急速に進み、同月末までにインド侵攻は日本の戦略的な目標に定められた。
 そして日本軍は、相手の防備が整わないうちに進めるだけ進むという、ある意味合理的な、逆の視点から見るとかなり危うい戦術を好んだ。日本の戦争は全てそうした状態で成功を収めていたからでもあるし、実際当時のアジアにあった連合軍は非常に脆かったからだ。ヨーロッパもしくはアメリカからの大規模な増援前に決定的な勝利を得て、盤石な橋頭堡や占領地を得ておきたいというのは、感情的には非常に正しいと見るべきだろう。
 そうした感情のまま、日本陸軍は日本海軍に対してインド作戦の準備と実行を迫る。
 しかし日本海軍は、4月半ばにようやく主要な艦艇が日本本土に戻ったばかりで、すぐに次の行動に移れるわけが無かった。無傷の艦艇でも最低限の補給と乗員の休養が必要だったし、大勝利したとはいっても損害が皆無でも無かったからだ。だが日本海軍には、自らのさらなる勝利の積み重ねという野心があった。加えて、戦えば勝つという奢りと慢心があった。
 開戦以来方々で連合軍艦隊をうち破り、ついにはアメリカ海軍との「決戦」に「大勝利」を飾ったのだ。現時点での日本国内での陸海軍の勢力争い、政治争いの優位は完全に海軍にあった。しかし、インドを日本陸軍が占領すれば、現時点での日本海軍の優位も危うくなる。それを回避するには、イギリス海軍の主要戦力を撃滅する必要が日本海軍にはあった。
 この動機こそが、日本海軍がインドに大軍を進める大きな感情的理由になっていた。
 数年後に破滅が待っているかも知れないが、それまでは国内での争いを疎かにすることは出来なかった。否、数年後に破滅するからこそ、最も輝ける今という瞬間の争いに負けるわけには行かなかったと言うべきだろう。
 そして海軍にとっての切り札こそが、「八八艦隊」だった。

 インドへの侵攻に際して、日本海軍は3つの大きな艦隊の準備を考えていた。既存の「第二艦隊」と「第一航空艦隊」と、もう一つが「南遣艦隊」を大幅に戦力拡充した「遣印艦隊」だ。
 「第二艦隊」がイギリス海軍と戦い、「遣印艦隊」と「第一航空艦隊」が印度への侵攻を行い、その後の通商路、敵海上交通路の破壊など広範な任務を行うのだ。さらに潜水艦によって編成された「第六艦隊」は、主要作戦海域をアメリカ西海岸やハワイからインド洋へと大きくシフトすることになった。
 「第六艦隊」の大きな移動は、42年春頃からアメリカ海軍が対潜水艦戦術と戦力を徐々に向上させていたので、無視できない損害が出るようになっていた為と、中継点を置けない遠隔地での活動に日本海軍が限界を感じていたためだった。潜水母艦《大鯨》など潜水母艦群がいかに大活躍しても、日本という国家がアメリカ西海岸に意味のある軍事力を展開するには限界があったのだ。このため、以後太平洋方面での潜水艦作戦は、ハワイ方面の偵察と監視、嫌がらせ程度の通商破壊戦が中心となる。
 そしてインドへの実際の戦力派遣だが、まずは「パラオ沖海戦」で損害の軽かった「第二艦隊」の中からさらに無傷もしくは傷の浅い艦艇を中心に抽出した艦艇が、随時シンガポールに進出を開始する。5月中頃までには進出を完了し、現地で補給と訓練を行いつつ作戦の準備入った。この中核戦力は《天城型》《愛宕型》の4万トン級の高速戦艦が合わせて4隻で、これだけでイギリス東洋艦隊を圧倒できる戦力だった。そしてさらに二ヶ月以内に「遣印艦隊」と「第一航空艦隊」も投入し、圧倒的戦力でインド洋を一気に制圧する積もりだった。
 しかも5月中頃からは、既にシンガポールやペナン、ジャワ島のジャカルタなど各地に進出していた戦力を用いて、ベンガル湾やインド洋東部での通商破壊戦を開始。潜水艦、水上艦、航空機を用いた立体的作戦によって、インド防衛に躍起になっていたイギリス軍の海上交通網に大混乱を引き起こしていた。
 加えて、日本海軍の航空集団である「第十一航空艦隊」から、第24、第25の2個航空戦隊がインドネシアのスマトラ島から延びる形にあるニコバル諸島、アンダマン諸島に設営された基地への進出を始めていた。ニコバル諸島からインド南端のセイロン島まで、最短で約1200キロメートル。日本海軍の長大な航続距離を誇る双発攻撃機なら、十分に往復が可能な距離にあった。二つの航空戦隊は常に1個が前線に配備され、もう1個は日本軍の策源地であるシンガポール近辺で補充と休養、訓練に当たる予定になっていた。つまり日本海軍は、インド洋での継続的な航空撃滅戦に着手したのだ。

 対するイギリス軍だが、日本軍の侵攻を少しでも遅らせるためにインドへの戦力移動を急いだが、その姿は賭け事でチップをどんどん載せていく様に似ていた。両者がチップを載せ合っている間は均衡が取れるが、一度崩れると一方の決定的敗北を呼びかねない危険をはらんでいた。しかし攻める気十分な日本軍に対して、イギリス軍は心理的に追いつめられていた。ドイツとの戦いでもあまり見られなかった状態だが、それもその筈で、イギリスが制海権を巡る争いでこれほど窮地に陥った事例は、それこそ17世紀半ばの「英蘭戦争」にまで遡らなければならないだろうからだ。
 そして追いつめられているだけに、この頃のイギリス軍、正確にはイギリス海軍には大型艦の余剰戦力がなかった。本国近辺ではドイツ本国で整備と休養、そして訓練を終えたドイツ海軍のほぼ全力が、いよいよ活動を活発化させようとしていた。戦艦《テルピッツ》を中心に、巡洋戦艦2隻、装甲艦2隻、重巡洋艦1隻という侮れない戦力だ。動きを抑制するためには、イギリス海軍も本国艦隊に同程度の艦艇を必要としたし、1942年に入ってから始められたムルマンスクを目指すソ連への援助船団の間接的な護衛としても、本国艦隊の重要性は極めて高まっていた。加えて船団には直接の護衛艦艇も必要であり、護衛戦艦にはアメリカ海軍の艦艇もある程度動員できたが、ドイツ海軍を完全に抑える為には多数の高速戦艦と偵察力と制空権を確保するための空母が英本土北部には必要だった。一方地中海でも、イタリア海軍が変な欲をかかない程度の戦力を置いておく必要があった。マルタ島が沈黙した状態の地中海の戦力は、ジブラルタル海峡とアレキサンドリアに必要だ。その上で、インド洋に大規模な戦力を派遣しなければならなかった。
 イギリス海軍は苦心した末、チャーチル首相の決断もあって、以下のような戦力配分とすることを決する。

 ・本国艦隊(スカパ・フロー):戦艦《キングジョージ五世》《デューク・オブ・ヨーク》、巡洋戦艦《レパルス》《タイガー》、空母《ヴィクトリアス》
 ・地中海艦隊(アレキサンドリア):戦艦《ウォースパイト》《マレーヤ》
 ・H部隊(ジブラルタル):戦艦《ロイヤル・ソヴェリン》、空母《ハーミーズ》
 ・東洋艦隊(アッズ):戦艦《ネルソン》《ロドネー》《ハウ》、《リヴェンジ》《レゾリューション》《ラミリーズ》、空母《フォーミダブル》
 ・北大西洋上での船団護衛用戦力:旧式戦艦《アイアン・デューク級》4隻、アメリカ海軍の旧式戦艦群など
 ・《アンソン》は長期修理中。《クィーン・エリザベス》《ヴァリアント》はアレキサンドリアで大破着底中。

 またアメリカ政府も、日本軍のインドへの大幅な戦力移動を受けて、国民への説明の後に戦力の再配置を開始する。そして夏までには、イギリスの救援のために海軍に残余する主要な稼働戦力をインド洋に向けられるようにした。同時にアメリカは、年内にはヨーロッパ方面での限定的な反撃の準備を急速に進めていく事になる。しかし現状でのアメリカ軍には、主に主要海軍艦艇という面で戦力が枯渇しており、潜水艦を用いた通商破壊戦も何故か振るわないため、日本に対して何も出来ないに等しかった。少なくとも、夏までにインドに侵攻する日本海軍の迎撃は、イギリス海軍単独で行わなければならなかった。

 イギリス軍が恐れる日本軍だが、先にも書いたように日本陸軍の準備は早くも3月中頃から始まっていた。セイロン島攻略の為に準備が進められた戦力は、主に東南アジア、マレー半島の作戦で使用された部隊だった。さらなる作戦の分を合わせて、第2師団、第5師団、第38師団、第48師団で、他、第1挺身団(空挺部隊)、戦車旅団、重砲部隊などが準備された。また4月一杯までビルマで活動中だった部隊は、第18師団、第33師団、第55師団、第56師団などで、同方面のイギリス軍、雲南方面の中華民国軍を完全に撃破。激しく長い雨期の到来までに、同地域を完全に安定化させていた。
 他に、陸軍航空隊では、ビルマ方面には第5航空集団が展開し、東南アジア作戦を行った第3航空集団がセイロンへの進出を予定して準備が進められた。そしてセイロン進出後には、二つの航空集団をまとめて一つの航空軍を編成する予定だった。
 こうした状況で5月初旬に正式にセイロン島侵攻部隊に指定されたのは、3個師団だった。着上陸作戦に慣れ自動車両も多い第5師団、歴戦の第38師団、軽自動車化師団として編成された機動力に優れた第48師団になる。他、第一挺身団(空挺部隊)、戦車旅団、重砲部隊などを含めると、10万を越える大規模な戦力となる。それだけ日本陸軍がセイロン作戦、ひいてはインド侵攻に力を注いでいる証拠だった。
 しかし、海軍の「準備不足」により、日本陸軍が求めていた作戦実施日は遅れてしまい、まだ海軍との協議後に決まった作戦でも、輸送船舶の関係から第38師団と一部支援部隊は第二波の船団で運ぶことになった。
 しかし海軍が故意に作戦を遅らせていたわけではない。海軍としても、状況の許す限り作戦の早期発動に努力していた。
 陸軍が3月半ばに作戦準備を始めたのに対して、海軍は4月半ばにアメリカ海軍と世紀の大決戦を実施していたのだから、次の行動に対する準備が遅れるのは当然だった。
 通常日本軍の場合、遠方への大軍投入には約三ヶ月程度の準備期間を必要としていたので、陸軍としては予定をさらに少し前倒しして6月初旬の作戦決行を目論んでいた。しかし期日までに海軍が動員できた戦力では、限定的行動しか出来なかった。このため日本陸海軍両者の協議の結果、6月末の作戦発動となった。これでも海軍としては無理を押した作戦期日だったが、一日でも早い作戦発動の必要性があったため無理を押し通した。
 無理を押したのは、日本軍の多くが予測した以上にアメリカの戦時体制への移行が早かった事と、イギリス軍がかなり無理をしてインドに兵力を振り向けていたからだった。そして戦力が限られる日本軍としては、相手に防備の時間、準備の時間を与えない事こそが侵攻の重要な要素だった。
 そして他の戦線の動きもあって、日本軍のセイロン侵攻はさらに早められることになる。他の戦線とは、北アフリカのロンメル将軍が5月に要衝トブルクを遂に陥落させエジプトになだれ込んだ事と、同じくドイツ軍が同5月にソ連軍の侵攻に対して大きな打撃を与え、6月内に再び大規模な侵攻作戦を開始すると見られた事だった。
 「SE作戦」と名付けられた日本軍のセイロン島侵攻作戦は、6月22日に作戦発動し、順調に進めば25日には上陸作戦そのものが実施される予定が組まれた。
 戦闘の主軸となる海軍は、この日までに艦隊をマレー方面のシンガポール、ペナン、ジャワ島のジャカルタに進め、一斉に動き始めた。
 以下が、この時の主要艦艇となる。

 ・第二艦隊
戦艦:《赤城》《高雄》《愛宕》(※《天城》修理中))
重巡:2隻 大型軽巡:2隻

 ・第一航空艦隊
空母:《雲龍》《飛龍》《蒼龍》
軽空母:《隼鷹》《龍驤》《瑞鳳》 
高速水上機母艦:《千代田》

 ・遣印艦隊
戦艦:《紀伊》《駿河》
戦艦:《加賀》(※《土佐》修理中)
戦艦:《伊勢》《日向》
重巡:3隻

 ・他、
 第十一航空艦隊から第24航空戦隊、第25航空戦隊
 第六艦隊の作戦中の2個潜水戦隊
 海上護衛総隊から抽出の護衛戦隊

 以上、圧倒的な戦力であると同時に、世界的に見ても野心的かつ電撃的、そして何より先進的な編成の渡洋侵攻部隊だった。
 既に東南アジア地域で大規模な渡洋侵攻を実施した実績を持つ日本海軍だからこそ編成できた部隊であり、教訓を反映させたより強力な編成となっていた。
 作戦参加艦艇だけでも80隻あり、艦載機を中心に航空機も500機以上が参加していた。勝利に乗じているため兵士達の士気も高く、また練度も最高潮に達していた。日本軍にとっては文字通り黄金期であり、短い夏の始まりだった。
 なお、最低限の補足を入れるなら、「遣印艦隊」は「第一艦隊」を事実上再編成したものだった。第一艦隊から欠けている艦艇は、パラオでの傷を癒すため戦列を離れている場合が殆どで、連合艦隊旗艦《大和》を除いてこの時の第一艦隊の稼働戦力のほぼ全力だった。「第一航空艦隊」は、同じくパラオで損傷した《祥鳳》《飛祥》を欠いたが、新たに《隼鷹》が加わっていた。《隼鷹》は建造途中の大型客船を改装した航空母艦で基準排水量2万4000トンとかなり大型で、艦載機数も中型空母に匹敵する有力艦だった。このため第一航空艦隊の実質戦力は、パラオ沖海戦とほぼ変わらない、予備機を含めて約300機の艦載機数を誇っていた。航空機の有効性も分かったため、護衛戦力も少ない台所事情から若干だが増やされていた。
 侵攻する日本艦隊の順番は、既にインド洋全域に散っている第六艦隊の潜水艦を除けば、第二艦隊が先鋒となる。続いて半日ほどの誤差を置いて第一航空艦隊が続き、さらにその30海里後ろを遣印艦隊が進み、さらに1日のタイムラグを空けて攻略船団が続くことになっていた。
 日本海軍の予定では、攻略船団がセイロン島沖合に姿を見せる頃には、セイロン島近辺の制海権と制空権は自らの手に握られている筈だった。そして日本海軍がやや楽観的な予測を立てている通り、この時の日本艦隊の戦力は相対的に見て圧倒的だった。
 当時セイロン島には、3個師団を中心とした6万の地上部隊、200機の航空機のイギリス軍が展開していた。インド全体だと他にも多くの戦力があったのだが、ビルマ国境方面の防備を疎かにすることは出来ず、今後起きるであろうインド内での混乱を見越した兵力配置も必要だった。また一部のインド師団は、北アフリカでドイツ軍と戦っていた。
 このため、侵攻を受けることが分かり切っているセイロン島の防備はどうしても限られていた。それでも、「スピットファイア」戦闘機や「マチルダII」戦車を始め、かなりの有力な兵器が増援として送り込まれていた。既存の航空戦力についても、インドで割ける事の出来る限界まで集められていた。
 また、インド洋中央に位置するイギリス軍の「秘密基地」であるアッズ環礁には、東洋艦隊の戦艦《ネルソン》《ロドネー》《ハウ》、《リヴェンジ》《レゾリューション》《ラミリーズ》と空母《フォーミダブル》、重巡洋艦2隻などの大艦隊が待機していた。
 イギリス側の作戦としては、まずはセイロン島の戦力で日本軍を受け止め、地上部隊がセイロンに上陸を開始するまさにその瞬間に、横合いから奇襲的に海軍が攻撃し、強引に身動きが取れない筈の上陸船団と地上部隊を粉砕する構想を練っていた。上陸部隊さえ船団に乗っている時に粉砕してしまえば、強大な艦隊がいくらいても意味がないからだ。しかし、直前で日本海軍自慢の「八八艦隊」を相手にしなければならないことは覚悟していたので、戦艦部隊は二分して進撃させて一方が「八八艦隊」を止めている間に、もう一方が船団を艦砲をもって撃滅するつもりだった。積極果敢なイギリス海軍らしい作戦と言えるだろう。

 1942年6月22日黎明、イギリス側の予測よりも1日早く、日本軍艦載機の群がセイロン島を空襲した。空襲は、セイロン島の中心都市コロンボと島の東側にある港町トリンコマリーに対して行われた。二つの都市の近辺にはイギリス空軍も戦力を集中しており、日本軍としてはまずは敵の空軍力と残存する海軍力を奪おうという算段だった。
 そして空襲の規模そのものは、イギリス空軍の予測を大きく上回っていた。艦載機ばかりでなく、双発の地上機多数が含まれていたからだ。加えて、予想より数の多かった日本軍艦載機の戦闘機の戦闘力も、イギリス軍の予測を大きく上回っていた。
 当時セイロン島には、「フェアリー・フルマー」戦闘機、「ホーカー・ハリケーン」戦闘機を中心に約120機が配備されていた。マレー半島での戦訓を受けて、「F2F バッファロー」など性能面でどうしようもない戦闘機を排除した布陣で、虎の子の「スピットファイア」も1個大隊約30機が展開していた。ハリケーンの一部とスピットファイアは、本来なら北アフリカに送られる予定の機体と搭乗員達だった。パイロットの中にはバトル・オブ・ブリテンを戦い抜いた猛者もおり、日本軍を今度こそ叩き落とす気概に燃えていた。
 対する日本海軍は、空母艦載機に搭載する戦闘機の数を以前よりもさらに増やしていた。新鋭の《隼鷹》は搭載機の半数以上が戦闘機で、全体でも50%を越えていた。つまり約150機の戦闘機(全てジーク(=零戦))をもって、短時間のうちにセイロン島の制空権を奪う積もりだった。しかも日本軍の空襲には、遠路飛来した双発機約80機も参加しており、黎明を期して行われたコロンボに対する空襲の規模は200機に達していた。

 コロンボには、セイロン島全体の半数以上の70機の戦闘機が集結していたし、英本土で威力を発揮したレーダー(RDF)と優れた航空管制能力も一部が導入されていた。しかしこの時の戦いでは、少なくとも広域航空管制はあまり意味が無かった。日本軍の大編隊が、艦載機、双発攻撃機双方ともに、時間を合わせてコロンボ上空に殺到したからだ。
 この時までに現地イギリス空軍機は全機各飛行場を発進し、トリンコマリー近辺の航空隊も急ぎ駆けつけつつあった。これに対して日本側は、約120機の艦載機と80機の双発攻撃機が攻撃に参加していた。艦載機のうち約半数が、既に各所で勇名を馳せていた「零式艦上戦闘機(ジーク)」だった。
 日本側も、事前に飛び立った水上偵察機からの報告で強襲を予測していたため、両者正面からのぶつかり合いとなる。
 そして真っ先に始まった戦闘機同士の制空権獲得競争は、すぐにも一方的様相を示した。日本海軍最精鋭を謳われるパイロットの操る「ジーク」は、この当時まさに圧倒的であり、「スピットファイア」はともかく「ハリケーン」に対しては圧倒的だった。性能の低い戦闘爆撃機の「フルマー」ではほとんど相手にもならず、数で勝るイギリス軍はすぐにも劣勢に追いやられた。当初予定していた日本軍攻撃機に対する迎撃は、ほとんど出来なかった。
 そして日本軍の攻撃が一段落する約30分後、今度は日本軍艦載機の第二波が到着する。そしてほぼ時を同じくして、トリンコマリーを発進したイギリス軍戦闘機隊も、コロンボ上空へと到達しつつあった。
 今度の日本軍攻撃隊は、約80機。うち約30機が戦闘機だった。増援で駆けつけたイギリス軍は、戦闘機ばかりが約20機。本来は50機全てを投入したかったが、トリンコマリーつまりセイロン島東部の防衛もがら空きにするわけにはいかない為だった。
 イギリス側の増援は全て「ハリケーン」。やはり精鋭パイロットの操る「零戦」には劣勢で、撃墜される戦闘機の多くはイギリス側だった。

 その3時間後、日本軍艦載機が再びコロンボ上空に現れた。数は約100機。既に数では初期の半数を切ったイギリス側に対して、あまり大きな消耗は見られなかった。
 日本軍艦載機の空襲はその後さらにもう一度行われ、コロンボのイギリス空軍は基地共々ほぼ壊滅状態に陥ってしまう。戦闘機の稼働機については、もはや当初の20%程度しか残っていなかった。
 そしてその頃、セイロン島南西海上でも戦闘が発生していた。
 前衛艦隊として突出して敵を探し求めていた日本海軍の第二艦隊が、日本軍の予想以上に早い侵攻で移動の遅れたイギリス艦艇と半ば遭遇の形で戦闘に突入したからだ。
 セイロン島のコロンボから急ぎ出撃したのは、重巡洋艦の《ドーセットシャー》《コーンウォール》の2隻。他に潜水艦を警戒するために駆逐艦が1隻随伴していたが、それで全部だった。対する日本艦隊は、第二艦隊のほぼ全力。一部駆逐艦が偵察のため散らばっていたが、《天城型》戦艦3隻と重巡《妙高》《羽黒》、大型軽巡《熊野》《鈴谷》と水雷戦隊の半分だった。しかも日本艦隊側が、南西に位置してイギリス軍艦艇の退路を塞ぐ形になっていた。その上日本側は、水上偵察機で先にイギリス軍艦艇を発見しており、一方的という以上の優位にあった。イギリス軍艦艇にはレーダーが装備されていたが、劣勢を覆す要素とはならなかった。
 このためイギリス軍艦艇は、日本軍偵察機の接触を受けると、まずは南方へと遁走。しかしその後、前方に多数の煙(第二艦隊の煤煙)を見付けて大混乱に陥る。既にコロンボ空襲の報告も全軍に飛んでいた。結局、進路を大きく変えて、北西方向へと遁走することを決意する。艦隊の集結しているアッズへ向かう事が無理なので、インド南部西海岸のコーチンやボンベイに逃げ込もうという算段だった。
 しかし問題があった。速力だ。《コーンウォール》は31.5ノット、《ドーセットシャー》も32ノット強程度が最大速度なのに対して、日本側の巡洋艦や駆逐艦はどれも35ノットの発揮が可能だった。戦艦ですら、最高29ノットで突進できる。
 しかも悪い事に、イギリス側が日本艦隊を発見した直後から、日本戦艦群が牽制を目的として距離3万メートルの遠距離からゆっくりしたペースで砲撃を開始していた。当然と言うべきか、上空には偵察機に加えて着弾観測機が陣取っていた。
 その後イギリス海軍の小さな艦隊は、出来る限り努力を重ねて遁走したが、結局大口径砲弾に翻弄されて距離を稼ぐどころか距離は確実に詰められた。そして3時間にわたる追撃戦の後に日本艦隊に完全に捕捉され、約30分の戦闘の後に全滅の憂き目を見ることになる。
 だがこの戦闘は、戦略的には無駄ではなかった。
 日本第二艦隊は戦闘で燃料を使いすぎたため、補給のため一旦後方に下がり、その後の捜索を中断していたからだ。そして、もし第二艦隊がその後も南西方向に進んでイギリス艦隊を探していた場合、この時点で日本軍にアッズ環礁が見つかっていた可能性があった。だからこそ、戦略的に意味のある戦闘だったのだ。

 そして翌日、前日とほぼ同じ規模の攻撃隊が、トリンコマリーへと襲いかかった。既に半数を大きく切っていたイギリス空軍に対向できる戦力はなく、力戦敢闘したという記録だけを残すことになる。その間イギリス軍は、近くにいる筈の日本艦隊、特に空母機動部隊(第一航空艦隊)を探し求めたのだが、イギリス軍機が辛うじて発見したのは、大型戦艦3隻を中核とする第二艦隊だけだった。しかも第二艦隊は、艦砲射撃を行うつもりなのかセイロン島に大きく接近していた。
 ここでイギリス軍は、決断を迫られていた。
 発見したのが前衛艦隊なのは確実だった。後ろには、空母機動部隊と本隊の戦艦部隊、攻略部隊がいるはずだった。残る時間は多く見積もってもあと2日程度。しかし制空権は既になきに等しく、制海権についても怪しい状態に陥りつつあった。
 つまり決断とは、国王陛下の海軍がセイロン島を見捨てるか、全滅を覚悟して賭けに出るかだった。
 しかしこの決断は、簡単に下せるものではなかった。
 セイロン島を奪われれば、その後インド洋での制海権の多くを失い、イギリスの戦争運営と戦争経済に深刻な影響が出る可能性が極めて高かった。またインドの一部が奪われ、今後インド南部が日本軍の空襲を受けることになれば、インド民衆の動きがどうなるか予測が付かなかった。最悪インド全土が争乱状態となり、多くの戦力と努力を日本軍に関わらずインドに注がなくてはならなくなる。
 逆に、船団撃滅を目指して艦隊を東に向けた場合、制空権を得ることが難しいことを合わせると、最悪日本艦隊に袋叩きに合う可能性があった。それでも戦艦数隻の犠牲でインドが守られるなら、という意見が当初は大勢を占めた。しかしこの時、艦隊司令のソマーヴィル提督は艦隊の待避を決定する。
 制空権を失ったことで既に大勢が決したと判断し、インドでの海での戦いは今後も続くので、ここで貴重な大型艦を失う訳にはいかないというのが主な理由だった。

 かくしてセイロン島を巡る大規模な海上戦闘は不発のまま終わり、その後日本軍は圧倒的戦力でセイロン島への上陸作戦に取りかかることになる。日本軍もイギリス艦隊を探し求め、その後もかなりの警戒感を示したのだが、遂にイギリス艦隊の姿を見ることはなかった。イギリス軍艦艇との戦闘は皆無では無かったが、全て日本側の一方的な戦いであり、最大の戦果もセイロン島から逃げ損ねた重巡洋艦ぐらいだった。
 日本軍による上陸作戦は予定通り6月25日に開始され、その日の黎明から上陸予定地点の海岸線に対して戦艦5隻による艦砲射撃が開始される。陸軍の上陸自体は翌日の26日に開始され、ほとんど何の抵抗を受けることもなく、日本軍はセイロン島に第一歩を示した。場所はトリンコマリー近くの海岸で、速やかにトリンコマリーを攻略し、その後コロンボ方面に転進。出来る限り短期間でセイロン全島を占領する予定だった。
 そしてセイロン島での戦闘は、概ね日本軍の優位で進んだ。制空権の有無が勝敗を大きく分けた。イギリス側は、重装甲の「マチルダII」戦車を十数両投入して局所的な反抗すら実施して日本軍に大きな損害を強いたが、重装甲の戦車も日本兵の自殺攻撃紛いの爆雷攻撃と空襲の前に敢えなく破壊された。(※ただし、この戦闘での教訓から、日本陸軍では強力な戦車の開発が大幅に促進される事になる。)
 トリンコマリーに日本軍の航空機が展開するようになると、事態は一層日本軍優位となった。一週間後には日本軍の増援部隊も上陸を始め、もはや地上での単純な戦力差でもイギリス軍が不利だった。
 結局、セイロン島での戦闘は1ヶ月程度で終了し、イギリス軍の一部がインド本土に撤退する時の戦闘が、セイロンでの最後の戦いとなった。その後も、内陸の山岳地帯で小規模なゲリラ戦も行われたが、大勢には影響のないものだった。


●フェイズ11:「インドでの戦い(1)」