●フェイズ11:「インドでの戦い(1)」

 1942年8月初旬、セイロン島はほぼ日本軍の占領下となり、一部インド・イギリス軍がインド本土に撤退し、セイロン島の戦いは終幕を向かえた。
 そしてここからが、インドにとっての試練の始まりとなった。

 日本海軍は、7月半ばにはセイロン島に大規模な航空隊を進出させ、セイロン島並びインド南端部の制空権獲得を目指すと共に、主に飛行艇や水上機がインド洋の各所に偵察に出るようになる。日本海軍としては、イギリス海軍の反撃を警戒しての事だった。日本もイギリスがインドをどれだけ大切に考えているかを、ある程度は分かっていたからだ。
 この時日本軍はかなり神経質で、敵戦闘機の配備されていそうな拠点にまで、新型飛行艇の「二式大艇」を動員して偵察を実施している。地上でも、日本軍が電探(電波探信儀)と呼んだレーダーの設置も半ば試験段階にも関わらず実施していた。なお艦載用レーダーについても、日本海軍はセイロン島侵攻時の作戦で各種実戦テストを実施しており、セイロン島に配備されたレーダーも艦艇搭載用とほぼ同じものだった。またセイロン島では、イギリス軍が破壊したレーダーサイト、防空センターなどの情報を数多く入手して、その後の研究、開発が大きく進んでもいる。
 しかし日本のレーダー(=電探)は、連合軍のものと比べると大きく劣っていた。

 レーダーの事はともかく、日本軍はセイロン島を起点にして広い範囲、遠い距離まで入念な偵察を実施して、姿を見せなかったイギリス東洋艦隊を捜し求めた。
 偵察には多数の潜水艦も動員され、日本海軍の潜水艦は通商破壊戦と平行してイギリス海軍を捜し求めた。加えて、セイロン島の安定化が進むにつれて、シンガポールから多数の船舶が到着し、出発時に燃料を満載した艦艇の一部も通商破壊戦と敵の捜索にかり出された。ここでは第一航空艦隊に属していた軽空母も1隻が動員されており、日本海軍が多数の戦艦を保有しながらも洋上での航空機機運用を重視していた事を見て取ることが出来る。空母を偵察に使うというのは、この戦争中でも日本海軍しか行っていない事だった。
 そして日本海軍の濃密な偵察によって、当時イギリス軍が「秘密基地」としていたアッズ環礁の一部が拠点化しているのを発見し、急ぎ日本海軍の艦艇が動員される。
 既にアッズにイギリス海軍の大型艦艇はいなかったが、偵察機や潜水艦などは拠点として使用していたし、何より軍事拠点として活用されていた事そのものが重視された。
 アッズ環礁のイギリス軍基地は8月6日に日本軍に発見され、同日イギリス海軍が急ぎ引き払い始める。
 しかし日本海軍の進出の方が少しだけ早く、同7日夜に日本艦隊が到着。残存していたイギリス軍の駆逐艦戦隊と、急行した遣印艦隊の間に戦闘が発生する。
 先行した重巡3隻を中核とする日本艦隊に対して、イギリス海軍は殿(しんがり)を受け持った駆逐艦が4隻あったが、輸送船が逃げるまで踏みとどまったイギリス軍駆逐艦は2隻を失い、残りも損傷しつつも辛うじて後退。しかし任務達成には成功し、日本海軍はもぬけの空となったアッズを艦砲射撃しただけに終わる。輸送船もほぼ全て取り逃がしたので、戦略的にはイギリス海軍の勝利とされている。
 しかしその後すぐにも、日本軍はアッズ環礁を占領して、自らも拠点化を実施した。イギリス軍の破壊も時間不足のため十分ではなく、すぐに基地として使用できたので、日本軍艦艇にとってはまたとない通商破壊戦と偵察の為の次なる拠点を得ることになる。アッズ陥落によって、インド洋の半分が日本軍の手に落ちたようなものだった。

 そして日本軍のアッズ占領で、イギリス軍の尻に火がついてしまう。
 日本海軍の積極的な通商破壊戦の為、喜望峰回りのルートでもエジプトに十分な物資が送るのが難しくなったからだ。インドに対しても同様で、さらに「ペルシャルート」として開設が進められていたソ連邦を物資面で援助するためのルートも危機に瀕した。日本軍の潜水艦は、相手が単独の商船だと浮上して降伏を促すほどの跳梁ぶりだった。
 しかも日本軍は、シンガポールにさらに多数の艦艇を集めており、9月中にもどこか洋上から攻略作戦を実施する事を連合軍も察知する。
 だがこの時、連合軍は日本軍の侵攻先を絞れなかった。
 果たしてどこを攻略するのか。カルカッタ方面はまだ激しい雨期のため可能性は低く、一番可能性が高いのは制空権確保が可能となったインド南端だった。しかし、船や物資の移動から日本軍が準備している陸兵が少ないことが分かると、さらに連合軍は焦りを強めた。インドではない別の場所、恐らくインド洋上のどこかの島嶼を狙っていると判断されたからだ。
 しかも陸軍部隊や準備する物資が少ないので、作戦発動まで日数がない事も、連合軍にとっては問題だった。
 そしてさらに、紅海入り口のアデンに後退したイギリス東洋艦隊だけでは、シンガポールを根城とする日本海軍にまったく太刀打ちが出来なかった。かと言って、イギリス本国や地中海からの引き抜きも、既に限界だった。このためイギリスは、アメリカに泣きつくことになる。
 この時期のイギリスには、同盟国に泣きつくだけの理由があった。

 この頃、北アフリカ戦線の尻にも火がついていた。1942年5月に要衝トブルクがロンメル将軍の見事な手際によって陥落し、恐るべきドイツ・アフリカ軍団は6月には事実上のエジプト最終防衛線であるエル・アラメインに到達した。
 しかも悪いことに、ロンメル将軍は6月の小規模な攻勢に失敗すると、その後自らの補給線の有利を見越して、友軍の兵力充実に時間を割くことになる。そしてドイツ軍の攻勢は、8月末から9月初旬だと連合軍では考えられていた。
 しかもこれだけでなく、地中海の中間に位置するマルタ島は、連合軍全体での航空母艦の不足で航空機の輸送が難しいため、依然として苦境が続いていた。このため、枢軸側の海上輸送は円滑に進み、逆に連合軍側の地中海航路はほぼ途絶状態だった。このため北アフリカ、特にエジプトのイギリス軍は、補給と補充に事欠いていた。そして残る補給路は喜望峰を回る東アフリカ航路だったのだが、それを今度は日本軍が断ち切ろうとしていた。
 実際、5月からインド洋での活動を本格化させた日本海軍は、主にインドを行き来する船舶に対する通商破壊戦を実施するのだが、一部の潜水艦が東アフリカ航路も狙った。こちらの方が敵の護衛艦や上空の航空機がないため、潜水艦の活動に向いていたからだ。当然だが、エジプトに送り込まれる兵器、弾薬、物資、そして増援部隊を積載した船が損害を受けていた。同時期に開設されたソ連邦を援助するペルシャに向かう輸送船も、かなりの損害を受けていた。双方ともに、輸送計画自体も大きく輸送力を低下させた。輸送量の低下は、船舶の損害以上にこの頃の連合軍の戦略にかなりの悪影響を与えたほど大きかった。
 基本的に東アフリカ航路に回せる護衛が少なく、日本海軍の大型戦艦を警戒して大規模な船団を組めない事から、日本海軍の通商破壊部隊は我が世の春を謳歌していた。通商破壊戦には、この頃既にドイツが運用を諦めていた仮想巡洋艦までが動員されていた。

 5月以後、インド洋では毎月10万トンから15万トンの連合軍船舶が主に日本軍の手によって沈められており、それ以上の物資が海の藻屑と消えていた。物流網の混乱による間接的な損害は、沈む船以上に大きかった。何しろ、インド洋にあった600万トンもの連合軍船舶の交通が妨害されていた事になるからだ。
 しかも日本海軍は、南インドに対する航空撃滅戦を展開しつつ、哨戒機、飛行艇を最大で東アフリカ沿岸にまで飛ばすため、ドイツ軍のように欺くことも難しいし、場合によっては丸腰の船が不意の空襲を受けることもあった。インドでは、中部のボンベイやハイデラバートまでが日本軍の空襲圏内で、ドイツ軍とは全く間合いの違う日本軍相手に、戦力の限られたイギリス軍は少ない戦力で苦戦を強いられていた。
 しかも雨期の続く北東部でも、5月以後は主に日本陸軍の航空隊が、連日の豪雨の合間を突いて航空撃滅戦を展開するようになり、6月には初のカルカッタ空襲すら実施された。この空襲は、インド民衆にイギリスの支配の終わりを予感させ、反イギリス感情を高める効果があった。何しろ、イギリス総督府周辺が激しく爆撃されていたのだ。
 このためイギリス軍は、北東部と南部双方でのかなり不利な航空撃滅戦を行わねばならず、インド駐留の航空戦力は夏にはほぼ枯渇していた。本国などからの補給や補充が十分ではないし、もとから現地に配備されていた部隊や機材が消耗してしまっていたからだ。
 イギリスがアメリカに「強い支援」を求めたのも、当然と言えば当然の状況だったのだ。

 その頃アメリカは、何をしていたのだろうか。
 4月に海軍がパラオ沖で壊滅的打撃を受けて以後の戦略方針の変更で、太平洋方面のアメリカ軍は完全な守勢防御態勢に入り、活発な活動も見られなくなった。そして艦隊が壊滅したので、民心を安定させる意味でもハワイや西海岸の防備に一定程度の努力を割かなくてはならなかった。加えて、国内に閉じこもっているわけにもいかなかった。オーストラリアが、異常なほど日本に対する恐怖心を抱いて、支援や援軍がないと日本との単独停戦もあり得ると半ば脅してきていたからだ。
 このため、日本軍が攻めくる気配がないビスマーク諸島やニューギニア島の一部に、実質的な価値の低い基地を設営して航空隊を進め、八八艦隊にひどく怯えるオーストラリアを安心させた。ビスマーク諸島の一角には、潜水艦の前線中継点も建設された。
 とはいえ、日本軍はカロリン諸島にすらまともに軍事力を配備していないし、仮に連合軍がカロリン諸島を攻撃するにも、距離がありすぎるため偵察以上の戦闘はほとんどなかった。重爆撃機を使えば攻撃は可能だが、数が少ないため嫌がらせ以上の意味はなかった。それに流石に日本軍も最低限の防空戦闘機程度は、カロリン諸島主要部(チューク諸島(日本名トラック諸島)など)に配備していた。
 アメリカ軍としては、修理の終わった艦艇を集めてカロリン諸島辺りなら攻め込むことは可能だが、それは日本海軍に新たな生け贄を差し出す行為に等しいと考えられていた。アメリカ軍としては、日本軍がソロモン諸島に侵攻してくるか、オーストラリア本土が侵攻でも受けない限り、なけなしの艦隊を出すわけにもいかなかった。ビスマーク諸島も、日本軍が侵攻してきた場合は放棄する予定だった。
 一部には、日本軍をインドから引き離すため中部太平洋で限定攻勢を取るべきだという意見もあったが、危険が大きすぎると考えられ実施に移されることも無かった。
 このため、オーストラリア方面に展開するも半ば手持ちぶさたとなった現地連合軍は、オーストラリアの北西部、ダーウィンにかなりの規模の航空隊を展開した。そして、対岸のティモール諸島に展開する日本軍との間に、小規模な航空撃滅戦を開始する。しかし当初は「B-25」を始めとする中型の爆撃機しかなく、戦闘機では航続距離が怪しいものが多かったので、空襲も散発的にならざるを得なかった。そして戦闘機の護衛が少ないため、損害の方も大きかった。
 この状況が改善するのは1943年に入ってからの事で、ようやく「P-38 ライトニング」戦闘機と「B-17E フライング・フォートレス」が一定数配備される事で、限定的な航空作戦が可能となったためだった。
 このためティモール方面の日本軍は、基本的に襲来する爆撃機を撃退する防空戦に終始し、連合軍にとっては損害ばかりの目立つ戦場となった。

 また一方でアメリカ軍は、夏頃からオーストラリア南西部の中心都市パースのフリーマルトンに潜水艦の拠点を構え、インド洋の日本艦船に対する通商破壊戦を開始していた。しかし、アメリカ海軍の機材の不備のため戦果ははかばかしくなかった。
 これはハワイやアリューシャン列島のダッチハーバー、オーストラリア東部のブリズベーン、南西部パース(フリーマルトン)を拠点とする潜水艦部隊も同様で、とにかく開戦から一年半近い間、アメリカ海軍の潜水艦の攻撃はほとんどうまくいかなかった。多くの理由は、故障が日常的だった魚雷のためだった。
 しかも日本海軍は、極めて大規模な「航路帯防衛方式(戦法)」による対潜水艦防衛戦を仕掛けるべく、東シナ海、南シナ海を中心に着々と準備を整えていた為、同方面に進出したアメリカ軍潜水艦は大きな損害を受けるようになっていた。
 各海峡に多くの機雷(機雷堰)、旧式の哨戒機、一部の海峡部のみ護衛艦艇(ほとんどは旧式艦)を配備することで、島で囲まれた海を自らの「内海化」する戦法だ。そして「海上護衛総隊」という統一された意思があったため、機材や物量に大いに不足はありながらも、かなりの効果が上がっていた事になる。インド洋でも、主なセイロン=ニコバル諸島間の航路も、双方の島から哨戒機を多数飛ばしてしまえば、あとは手頃な規模の船団と護衛艦艇で、潜水艦の活動はかなり封じられていた。
 そして日本軍に対するアメリカ軍の当面の能動的行動は、潜水艦による通商破壊戦と限られた地域と規模の航空戦だけだった。
 戦略を変更したアメリカ海軍としては、当面はこれで十分だと考えていた。今は国力に劣る日本に対する嫌がらせで十分で、余力は全てドイツに注ぐべきだと考えていたからだ。

 そしてアメリカは、本国で準備を進めていた。
 具体的には、1942年9月から10月に北アフリカに上陸する事だった。内政的には選挙対策(中間選挙)だったが、戦争全体として見た場合は、枢軸側に大きな楔を打ち込み北アフリカのドイツ軍を牽制するためだった。また、「第二戦線」を開けと何度も言ってきていたソビエト連邦ロシアに対する一定程度の回答ともなる。
 しかし作戦の為には、この時点で稼働状態にあるアメリカ海軍艦艇のほとんどを投じなければならなかった。4月の日本海軍に対する敗北は、それほど大きな損害をアメリカ海軍に与えていたのだ。

 だが、アメリカ軍の戦略に対して、イギリスが泣き言うと共に修正を求めてきた。イギリスの言葉を突き詰めてしまえば、ソ連邦よりもエジプトよりも先にインドを何とかしてくれ、と言うことになる。
 そしてもう一つの事件が、アメリカに戦略修正を行わせることになる。
 もう一つの事件とは、1942年7月4日〜7日の間に、北大西洋航路を突っ切ってソ連邦に援助物資を届けようとした「PQ-17船団」が壊滅的打撃を受けた事だ。戦艦《テルピッツ》を中心とするドイツ海軍の大規模な船団襲撃に対し、イギリス海軍が過剰反応して船団を解いて、その後襲撃、Uボート、陸からの航空機による襲撃などにより、34隻あった船団の輸送船のうち全体の80%にあたる27隻が沈められる。ドイツ側の損害は僅かな数の航空機だけで、ドイツ側の完全勝利だった。
 しかもドイツ海軍は、その後も船団を襲撃しやすいノルウェーに陣取ったため、十分な艦艇のない連合軍は当面北大西洋航路の封鎖を決定した。これが護衛空母の投入を早める事になるが、この時点ではアメリカ、イギリスは混乱していた。
 これでソ連邦を支援するルートは、当面ペルシャルートだけとなるが、こちらも日本海軍の通商破壊戦によって大きな損害を受けている上に、「八八艦隊」を警戒して大規模な船団を組めないでいた。護衛空母など投入し、これが日本に判明したら大規模な艦隊を差し向けてくるのは確実だと考えられていた。
 またこれは連合軍全体の戦略的環境なのだが、開戦以来の日本の快進撃と通商破壊戦により多くの船舶が失われ、ドイツのより強力な通商破壊戦を合わせると、少なくともアメリカの船舶が大きく逼迫している時期だった。
 開戦時1200万トンの船舶を持っていたアメリカは、参戦から僅か三ヶ月で170万トンを越える船舶を失った。さらに損害は続き、半年間の累計は250万トンに達した。しかも開戦からしばらくはアメリカの造船業界は大恐慌からの再建途上で、まだ船の量産を本格化していなかった。1942年初夏の頃は、アメリカが最も船舶の不足に悩んでいた時期でもあったのだ。当然というべきか、本国近海やイギリス航路以外に回せる船は少なく、また船舶を護衛する艦艇も大きく不足していた。
 そして1942年は、ドイツ軍による通商破壊戦のピークだった。
 主にドイツ海軍が沈めた船舶の総量は、一年間で実に600万トン。毎月50万トン沈めていたことになる。日本海軍も、堀悌吉長官の指導のもとで通商破壊戦を熱心に行い、開戦初期の東太平洋と1942年半ば以後のインド洋での作戦展開により、一年間の間に約220万トンの連合軍船舶を沈めている。日独合わせると毎月68万トンの船が沈んでいる事になり、連合軍の当時の船舶供給量を大きく上回っていた。そして大きな減少に見舞われた船舶量に対して、連合軍(=英米)全体で使いどころが協議され、その結果イギリス航路(北大西洋航路)を最優先として、その時の船舶総量と各航路の危険度に伴って変動することになる。結果としてソ連邦向け援助船団が大きな影響を受け、次いでいずれ奪い返せることが分かっている地中海航路が切り捨てられた。それでもイギリスは、インドに向かう航路だけは減らしたり閉ざす気はなく、アメリカに泣きつく事になる。

 1942年夏頃、アメリカ海軍は一定程度損害から回復していた。
 大型艦は、修理中や改装中を含めて以上になる。

 新型戦艦:
《ヴァージニア》
 16インチ砲搭載戦艦:
《サウスダコタ》《インディアナ》《マサチューセッツ》
《メリーランド》《コロラド》
 巡洋戦艦:
《レンジャー》
 旧式戦艦:
《カリフォルニア》
《ネヴァダ》《ペンシルヴァニア》
《ニューヨーク》《テキサス》
《ワイオミング》《アーカンソー》《フロリダ》《ユタ》
 空母:
《エンタープライズ》《ホーネット》《ワスプ》

 このうち、16インチ砲搭載戦艦のほとんどが、長期の修理を半ば利用して大規模近代改装中だったので、実際の戦力はかなり限られていた。
 その上、稼働状態の旧式戦艦の半数以上は北大西洋上での船団護衛にかり出され、太平洋には実質的にほとんど戦力が置かれていないと言う異常な状態になっていた。いかに日本海軍がアメリカの重要拠点に攻めてくる可能性がほとんどないとは言っても、大胆すぎる戦略方針と言えるだろう。
 そして当時のアメリカは、自らの戦略に従って北アフリカ作戦の準備を進めており、ほぼ全ての大型稼働艦艇を大西洋側に集めていた。さらにイギリスの求めもあって、「インド航路防衛」を早期反抗よりも優先度を引き上げ、北アフリカ作戦に用いる予定だった戦力のうち、主要艦艇のほとんどと編成が完了して間もない海兵隊の第一師団をインド洋に向ける決定を行う。
 そうして8月中頃、南アフリカのケープにアメリカ海軍の洋上機動戦力の殆どが進出したのだが、敵に対して戦力が十分とはいえなかった。
 新型戦艦《ヴァージニア》、巡洋戦艦《レンジャー》、空母《エンタープライズ》《ホーネット》《ワスプ》を中核としていたが、補助艦艇も不足していたからだ。開戦以来、日本海軍に沈められた大型艦艇は、戦艦、巡洋戦艦だけで17隻、ほか空母4隻、重巡洋艦11隻、大型軽巡洋艦5隻に上っている。このため日本に対して優位だった筈の重巡洋艦は7隻、大型軽巡洋艦も4隻にまで減少していた。既存戦力の総数が、日本と変わらない数な上に質が劣っていた。
 しかも、事実上の戦時建造艦艇は全て建造中で、大型艦については当分完成しそうにもなかった。しかも限られた戦力から、北大西洋航路を防衛する艦艇を割いた上で、唯一の機動戦力であるケープ(南アフリカ)の艦隊に回されていた。他に艦艇を見渡しても旧式の《オマハ級》軽巡洋艦があるだけで、新型艦は駆逐艦以外は早くても1943年春にならねば1938年度計画艦ですら就役する見込みはなかった。
 このためケープに随伴してきた巡洋艦は、重巡洋艦5隻、大型軽巡洋艦2隻だった。これでも最大規模の派兵であり、この頃のアメリカ海軍にはもう予備の艦艇すらなかった。長期作戦で消耗すれば、傷ついたり沈まなくても戦力が低下していくという最悪に近い状況だった。
 そして紅海方面のアデンに後退していたイギリス東洋艦隊は、16インチ砲搭載戦艦の《ネルソン》《ロドネー》《ハウ》、R級戦艦の《リヴェンジ》《レゾリューション》《ラミリーズ》、装甲空母《フォーミダブル》、他巡洋艦3隻、駆逐艦11隻で編成されていた。イギリス海軍としては、これ以上絞り出すことが不可能な戦力だった。
 このため植民地に動員をかけ、オーストラリアの巡洋艦を根こそぎアメリカ艦隊に合流させ、戦力を補完する事となった。
 しかもこの状態での最大の問題は、アメリカ艦隊とイギリス艦隊が二カ所に完全に分離して展開しているという点だった。

 一方の日本海軍だが、パラオでの海戦から四ヶ月が経過すると、「八八艦隊」の多くが修理や長期整備を完了し、順次占領した油田が再稼働し始めたシンガポール(昭南)へと進出していた。
 一部の艦艇は日本本土やパラオなどに配備されてアメリカへの抑止力となるが、10月までに主要戦力の七割以上がシンガポールに進出する予定だった。日本海軍も、アメリカ同様に太平洋をがら空きにしているに等しい状態だった。
 このため「太平洋のフォニー・ウォー」と呼ばれたほどだった。
 なお、この頃の日本の戦艦には、新たに《大和型》戦艦の《武蔵》が戦列に加わっていた。このため戦艦の総数は24隻となる(※《扶桑》《山城》は空母に改装中。)。この時期に「八八艦隊」で長期修理中なのは《土佐》《陸奥》なので、差し引きして16隻の大型戦艦が戦線投入可能となった。重巡洋艦も8隻、大型軽巡洋艦も4隻投入できたので、戦艦戦力が大きい分だけ日本海軍が大きく有利だった。
 加えて、秋の作戦には「第一航空艦隊」はさらに中型の改装空母《飛鷹》を迎え入れ、《祥鳳》も戦列復帰して戦力を充実させていた。結果、母艦数8隻、艦載機数は350機を越えていた。このため、一部軽空母が通商破壊戦に投じられていたのだった。
 以上のように、この時期の日本海軍は、相対的に見て世界最強の存在だった。
 そして巨大な戦力を用いて行われる作戦が「SS作戦」であり、セイシェル諸島の攻略だった。セイシェルを占領して陸攻(=中型攻撃機)を配備し、インド洋に完全に「蓋」をするのが主な戦略目的だった。日本軍としては、ドイツ軍がエジプトを取り、自らがインド洋を完全に封鎖することでインドを完全に干上がらせ、乾期に入ってすぐにインドへの本格的な地上侵攻を開始して、自らの戦争を圧倒的優位に持ち込もうという計画だった。戦略的には非常に健全と言えるだろう。

 日本軍が、シンガポールにではなくセイロンに一定規模の陸戦部隊と輸送船団を集めているという情報を受けて、連合軍が動き始めた。アデンのイギリス艦隊は、臨時の空軍基地を各所に設けたソマリア沿いを南下した。アメリカ、オーストラリアの連合艦隊は、ケープを出発してアフリカ東海岸を通過し、マダガスカル島の間にあるモザンビーク海峡を抜ける。アメリカ軍としては、万が一の日本軍空母機動部隊の空襲を警戒しての事だった。空母三隻には艦載機を満載していたが、それでも数は予備を含めて280機。母艦数の多い日本艦隊に劣ることが分かっていたからだ。
 なお、この時の米豪連合艦隊は、大きく2つに分かれていた。1つは空母と高速戦艦による機動部隊。もう一つが、巡洋艦が中心になって護衛する約50隻からなる大規模なコンボイ(護送船団)だった。船団はアラビア半島沖合で3つに分かれ、スエズ、ペルシャ湾、そしてインド北西部を目指す予定だった。さらにアメリカ艦隊は途中で護衛任務から離脱し、イギリス艦隊と合流しセイシェルにやって来る日本軍を撃退する作戦へとシフトする予定だった。
 かなり複雑な作戦と言えるだろう。
 だが、急ぎ集めた大規模な船団だけに航行速度は遅く、イギリス艦隊がアデンから出撃したのも出迎えと途中からの護衛のためだったが、日本海軍を牽制もしくは陽動できないかという側面の方が強かった。いまだ窮状が続くイギリスとしては、明日のセイシェルも大事だが、今日の輸送船団の方が大事だったのだ。
 しかし日本軍も、南アフリカのケープに大艦隊と大船団が入っていることは、無線傍受やドイツからの情報と合わせて察知していた。日本軍潜水艦も、最大進出範囲として喜望峰辺りまで出張って連合軍の動きを監視していた。既に、ドイツ海軍との洋上ランデブーにも成功し、双方の潜水艦の本国訪問も複数回実施されているほどだった。この時も、太平洋とインド洋の境目で、日本とドイツの潜水艦がランデブーしている。
 そしてその潜水艦に、連合軍艦隊は足下を掬われることになる。

 9月15日、南アフリカ方面からの進撃で先駆けを務めていたアメリカ軍機動部隊は、突如浮遊機雷原に突入した。少なくとも当時のアメリカ艦隊はそう考え、艦隊司令長官のフレッチャー提督は直ちに対機雷戦を命令した。
 破壊の規模が潜水艦魚雷に比べて大きく、また魚雷航跡を発見したという報告が無かったためだ。だが実際は、この頃モザンビーク海峡に通商破壊戦のため展開していた日本軍潜水艦の放った魚雷の仕業だった。
 攻撃したのは《伊15》《伊19》で、潜水艦用の魚雷としては連合軍のものよりはるかに遠距離からも攻撃出来るため、日本海軍は連合軍の厳重な警戒網を避けるため、この時期の攻撃は遠距離からのものが増えていた。大規模な船団や艦隊相手なら、これでも戦果が望める可能性が十分にあるからだ。
 そして丁度アメリカ艦隊は対潜水艦警戒航行の過程で進路変更に入った為、《伊15》の放った魚雷6本は虚しく、そして誰も気付かないまま過ぎ去っていったのだが、別方向から雷撃を実施した《伊19》の魚雷6本がアメリカ艦隊のど真ん中を通過した。魚雷は、空母《ワスプ》に3本、重巡洋艦《アストリア》と駆逐艦《マハン》に1本が次々に命中していった。そして艦隊を組んでいるため被雷時間は少しの間隔があり、また一定距離があるため、アメリカ艦隊は魚雷ではなく機雷の被害だと考えたのだ。
 なお、《ワスプ》は魚雷の衝撃でガソリン庫が誘爆し、ガソリン用配管を通じて短時間のうちに全艦に火災が延焼。その後全艦火だるまとなった。そして敵中という事も考慮され、何もしないまま味方の魚雷で処分された。また当初は沈没を免れた駆逐艦《マハン》も、自力での待避中に沈没した。《アストリア》も損害が思いの外大きくて事実上大破し、護衛の駆逐艦1隻に伴われてケープへと引き返した。しかも《アストリア》は、その後キール(龍骨)が歪んでいる事が判明し、1年以上の戦線離脱を余儀なくされた。
 しかもその後、《伊15》が放った魚雷が射程距離ギリギリで後方の船団のど真ん中へと偶然と必然の結果として到達し、大型輸送船2隻、中型輸送船1隻に命中した。このうち大型船1隻が大破してケープに引き返し、大型、中型各1隻が沈没した。このうち弾薬運搬船だった大型輸送船は一瞬で大爆発し、誘爆は数百メートル離れて航行していた別の輸送船にまで被害を及ぼした。

 日本軍潜水艦の攻撃は、その後も別の潜水艦グループによって夜に入っても行われた。しかも、大西洋から追いかけていたドイツ軍の大型潜水艦までが襲撃に参加していた。だが、ここは大西洋ではなく、日本海軍が我が物顔で動き回るインド洋だった。襲撃は水面下からだけではなかった。
 まずはアメリカ軍の重巡洋艦に搭載されたばかりのSCレーダーが、多数の飛行物体を捕捉する。
 やって来たのは日本海軍の水上機群で、「零式水上偵察機」9機による夜間爆撃だった。爆撃は高度を取ったほとんど形式的なもので、日本海軍の目的は潜水艦の攻撃を支援だった。このため搭載していたのはほとんど照明弾で、その夜のうちは断続的に飛来して高々度から照明弾を落としては去っていった。
 その間アメリカ軍からは、空母部隊から戦闘機が無理矢理発艦したが、当時のレーダーによる誘導では海上での夜間戦闘は無理があった。このため離陸した4機は、敵を捕捉できないばかりか、着艦ができないため無為に消耗することになった。
 そして一晩中照らされる船団に対して、付近の日本軍潜水艦、ドイツ軍潜水艦が殺到する。最初の小規模な空襲と照明弾投下に伴う混乱を突いて、2隻の潜水艦が混乱する連合軍艦隊をあざ笑うように全力での雷撃を実施。その後もさらに3隻が加わり、まるでドイツ海軍の群狼戦法のような戦いが行われた。戦闘終盤には、後方から水上航行で追いついてきた《伊19》も加わっていた。この戦闘で放たれた魚雷の数は50本を越えた。
 結果、連合軍は輸送船9隻、駆逐艦1隻を喪失。輸送船3隻損傷。日本海軍は航空機1機、潜水艦1隻を失った。
 なお、日本軍の水上機による空襲は、ヴィシー・フランス政府が統治するマダガスカル島から行われたものだった。現地総督府と話しを付けた日本軍が、高速水上機母艦《千歳》を秘密裏に進出させ、この時の空襲となったのだった。ここ数ヶ月の戦いで煮え湯を何度か飲まされていた日本軍が一計を案じた訳だが、結果として大成功を納めたという事になるだろう。
 この戦いの結果、連合軍は自らの予測通り日本軍とマダガスカルのヴィシー・フランスが通じている事を受けて、その後マダガスカル島攻略を行うことになる。しかし問題はその後の事ではなく、この時の現在である輸送船団の問題だった。
 道半ばにも達していないのに、連合軍は船団の30%を失っていた。この事に対して、イギリスはアメリカが相変わらず対潜水艦戦術が劣っていると感じたが、アメリカはそもそも目的の異なる二つの作戦をほぼ同時に行うという事に大きな不満を持った。
 それでも連合軍による輸送船団の護衛は続けられ、その後アメリカ軍機動部隊は予定通り船団護衛から離脱。日本艦隊を待ち受けるべく、伏在ポイントへと移動した。一方の護送船団は、イギリス軍の《R級》戦艦を中核とする艦隊と合流。その後各地へと進んでいく事になる。

 だが護送船団は、その後も日本軍の執拗な襲撃に晒された。
 ソマリア半島沖では、セイロン島から長駆飛来した「一式陸攻」1個大隊による夜間攻撃も受けた。しかも、連合軍が恐れに恐れていた、「八八艦隊」の襲来も受けてしまう。
 この時襲来したのは、新設の第八艦隊だった。第二艦隊の再編成と各戦艦の戦列復帰に伴って設立されたもので、戦艦《天城》《赤城》《高雄》《愛宕》、軽空母《祥鳳》、重巡洋艦《鳥海》、軽巡洋艦2隻、1個水雷戦隊を擁していた。主な任務は大規模通商破壊戦で、日本海軍がセイシェル作戦に力を傾けている間に、連合軍が強力な護衛艦隊を伴った大規模輸送作戦を行うという前提でアラビア海深くを作戦海域としたため、強力な編成が取られたものだった。後方には、駆逐艦を護衛に付けた高速タンカーも待機する周到さだった。
 そして友軍からの情報、自らの艦載機による情報によって敵の正確な位置を掴み、敵の進路に立ちふさがるようにこの時、連合軍船団の前に姿を見せた。時間にして、9月17日午前9時23分だった。
 連合軍で最初に日本艦隊を発見したのは先導を務めていた駆逐艦で、レーダーによる発見だった。先導艦からの距離はおおよそ45キロ。本隊まではさらに9キロ離れていた。この時船団は、30数隻の各種輸送船やタンカーと、14隻の護衛艦艇で編成されていた。護衛隊は、本隊と護衛隊に分かれ、船団を護衛する本隊は駆逐艦などの対潜水艦艦艇、護衛隊は戦艦《リヴェンジ》《レゾリューション》《ラミリーズ》と駆逐艦4隻で編成されていた。
 日本側も、後方に軽空母とその護衛に駆逐艦2隻を残し、戦艦と水雷戦隊の半分、重巡洋艦と残りの駆逐艦による艦隊に分離。船団の両翼から包囲するように接近を試みた。そして連合軍側は、船団の右側つまり東側に戦艦部隊の護衛隊がいたのだが、こちらに日本軍の高速戦艦群が突撃し、それよりもさらに速い速度で巡洋艦部隊が大船団を目指した。また、イギリス側に発見されるまで空母《祥鳳》の艦載機は出し控えていたが、艦隊の突撃開始と共に準備済みの艦載機の発艦を開始。念のための直援6機を除く、第一波12機(戦闘機3、雷撃機9)、第二波9機(戦闘機3、雷撃機6)を随時発進させる。
 この時点で連合軍の船団司令部は、船団の解散と全ての護衛艦艇が盾になることを命令。アデンなどには緊急の救援要請が出されたが、航空機の不足する各基地が出せる攻撃隊は殆どなく、時間がかかる上に距離の問題から攻撃機だけという不安ばかりの多い状態だった。
 あとは個々の輸送船の判断に任されていたのだが、5列、30隻以上の輸送船が船団を解いておのおのの方向に逃げるには、逃げ出すまでにかなりの時間が必要だった。しかも、敵から少しでも離れるため回れ右をする船が多いので尚更だった。
 そして時間を稼がなければならない護衛部隊は、有力な日本艦隊に向けて突撃を開始。大英帝国海軍らしい、実に雄々しい姿だったと言われる。
 単純に時間で見ると、日本艦隊が輸送船団に追いつくまでに1時間半が必要となる。しかし戦艦だと20キロ、巡洋艦でも10キロの距離まで近づけば有効な砲撃ができるし、一方輸送船も本格的に逃げ始めるので、差し引きやはり1時間半程度で捕捉できる。日本側が最大射程で砲撃を開始した場合、時間は30分程度も短くなる。

 前進したイギリス艦隊と日本艦隊の戦闘はそれよりも早く、午前10時を前にして会敵となった。
 日本艦隊は、イギリス艦隊を斜めに陣取る形で前進。丁度カタカナの「イ」の字で、理想的な形だった。砲撃開始は、日本海軍の基準からは遠い距離2万5000メートル。艦隊速力は戦艦としては破格の早さの26ノット。イギリス側は日本より少し遠い距離3万ヤード(約2万7000メートル)で射撃開始の予定で、速力は21ノット。数の差は、日本側が4隻で41センチ砲が40門でイギリス側が3隻で、38.1センチ砲24門とイギリス側が圧倒的に不利だった。個艦ごとの排水量差、性能差も大きな開きがある。さらに護衛の駆逐艦も、日本側が2100トン級の新鋭大型駆逐艦(《陽炎型》)で固めているのに対して、イギリス側が雑多で個々の性能も劣っていた。
 正面から戦えば勝敗の結末は明らかなので、イギリス側は駆逐艦による煙幕展開と自らのレーダー射撃に活路を見いだしていた。しかし日本側は、おのおのの大型艦が観測機を既に出していた。しかも《祥鳳》の戦闘機3機によって、イギリス側が放った観測機は次々に撃墜され、制空権は日本側が握った。
 そうした状態でイギリス艦隊が先に砲撃を開始するが、日本艦隊はこの段階では戦隊最大速度で突進を開始。《天城型》は28ノットでの戦隊航行が可能なので、イギリス側から見ると巡洋艦の隊列が突進してくるように映ったと言われる。そして相手の速度が戦艦としては速すぎることもあり、イギリス側が先に砲撃開始した優位はほとんど無かった。すぐにも日本軍は砲撃を始め、しかも急速に間合いを詰めた。近迫猛撃の実演が、インド洋でも再現されようとしていた。
 この時イギリス側は、回避に専念して時間を稼ぐ戦術も考えられたが、その場合日本艦隊がイギリス艦隊を無視して船団に突進する可能性も考えられた為、相手に損傷を与えて攻撃を断念させる戦術が取られた。

 距離2万メートル辺りから日本艦隊の砲弾が命中し始め、恐らく2番砲塔近く上面から弾薬庫を打ち抜かれたと見られる《レゾリューション》が一撃で轟沈。《フッド》同様に、水柱が収まる中で船体が二つに折れるジャックナイフの状態で沈んでいった。近代改装されていない旧式戦艦は甲板装甲が薄いのだが、そこを突かれた形だった。逆にイギリス艦艇の放った42口径15インチ砲は、距離2万メートルでは高速戦艦として最高水準と言われる《天城型》のバイタルパートを貫くことが出来なかった。
 残る《リヴェンジ》《ラミリーズ》は果敢に砲撃行ったが、今度は2対1の不利を強いられた為、次々に41センチ砲弾を高い落下角度から被弾した。日本軍がさらに接近して距離1万7000メートルを切る頃には《リヴェンジ》は大破漂流、《ラミリーズ》も戦闘力を喪失していた。この時のイギリス艦隊は、日本艦隊を損傷させる事を狙ってあえて正面からの対決を選んだが、完全に裏目に出ていた。確かに日本軍の《天城型》も損害は受けたが、せいぜいが小破で戦闘続行は十分に可能だった。
 駆逐艦同士の戦いも、日本がイギリスより多くの砲火を浴びせかけて混乱させ、そこに突撃して雷撃戦をしかける事で戦闘を優位に展開した。
 イギリス側は最後まで阻止行動を続けたが、戦艦の砲撃が駆逐艦に向けられるようになると流石に撤退を余儀なくされた。
 この戦場でイギリス海軍は、戦艦3隻、駆逐艦2隻を失う。生き残った駆逐艦2隻も、酷く損傷していた。

 一方、重巡洋艦《鳥海》《青葉》《古鷹》、軽巡洋艦《天龍》《夕張》、大型の甲型駆逐艦3隻が突撃した戦闘だが、こちらのイギリス軍は《ダイドー級》軽巡洋艦の《ナイアド》、様々な駆逐艦4隻、その他護衛艦3隻で編成されていた。その他の3隻に対艦攻撃能力は殆どないため、船団近くでの煙幕展開や牽制行動が命じられ、イギリス側は5隻による阻止行動となった。戦力差はこちらでも日本が有利だった。
 だが、イギリス側のねばり強い戦いのため2時間近く戦闘が続き、優位だった日本側にも相応の損害が発生した。
 そしてイギリス海軍の護衛部隊は、海軍精神の発露と言うべき戦闘で多くの時間を稼いだのだが、空からの攻撃は防げなかった。護衛艦艇のいなくなった解散したばかりの船団、まばらな対空砲火しか打ち上げない乱れに乱れた船団に対して、《祥鳳》の攻撃隊が思うがままに攻撃を実施する。
 2ないし3機でそれぞれ輸送船を狙い、6隻の輸送船に航空魚雷を命中させた。しかも船団を解き始めた時、その外側で後ろの方の船を優先的に狙ったため、船団を解散する動きはさらに混乱した。しかも、日本軍の戦艦部隊がようやく船団追撃に移り、巡洋艦部隊がいまだ戦闘中の午前中、もともと船団の近くにいた《祥鳳》は3度目の攻撃隊を送り出した。もう魚雷がないので水平爆撃となって与えた損害も低下したが、ようやく散開し始めた船団に対して、さらに混乱を与えることになる。
 そしてこの段階で、戦艦部隊がようやく輸送船団の最後尾を捉えて砲撃を開始する。
 その後日本艦隊は、午後3時頃には全ての戦闘力を残している艦艇が、散り散りとなった連合軍輸送船団の真ん中で破壊を振りまいた。戦闘は日が没するまで続き、日本側の駆逐艦などは砲弾を撃ち尽くしてしまうほどだった。さらに追いついてきた潜水艦も、Uターンしてきた輸送船を何隻か沈めた。
 この戦闘の結果、南アフリカ出発当初54隻で船団を編成していた連合軍側は、勇敢で機転を効かした輸送船のうち10%(6隻)がアデンなど目的地に到達した他は、目的を達することが出来なかった。最終的に沈んだ船は38隻、約35万トンに上った。数多くの高速発揮可能な優秀な大型船舶が失われた事は、この頃の連合軍にとって大きな打撃となった。
 なお、この輸送船団攻撃は、近代海戦史上最も成功した艦艇による輸送船団攻撃とも言われることとなる。

 一方、輸送船団が最終行程に入ろうという頃、セイシェル諸島での戦火が激しく燃えさかっていた。


●フェイズ12:「インドでの戦い(2)」