●フェイズ12:「インドでの戦い(2)」

 日本海軍は、自らのセイシェル諸島攻撃に対して、連合軍が必ず阻止に出てくると考えていた。日本軍の戦略目的が、東アフリカ寄りの航路遮断にあるからだ。既にセイロン、アッズと失った連合軍にとって、アフリカ廻りのインド洋の海上交通路を失いたくなければ、迎撃に出なければならない場所だった。
 このため日本艦隊は、インド洋西部に出撃させた艦隊の半数近くを輸送船団撃滅に派遣するも、戦力の最も大きな艦隊をセイシェル方面に留め置いた。
 さらに、敵の強力な迎撃を想定して艦隊を大きく二つに分け、攻略艦隊と前進艦隊とした。まともな戦力がないことが分かっているセイシェル諸島を落とすのは鎧袖一触に等しいので、この時の日本海軍の主な目的は迎撃に出てくる筈の連合軍艦隊の撃滅にあった。日本海軍らしく、艦隊を撃滅して制海権をより確かなものとするのが目的だったとも言えるだろう。セイシェル諸島占領を達成する事でのインド洋封鎖も、実戦部隊である日本海軍関係者の多くにとっては、むしろ補助的な要素でしかなかったのだ。こうした将兵の意識に、日本海軍という組織の特徴と体質を見ることが出来るだろう。
 ケープを出発した連合軍の大船団を執拗に狙ったのも、単に通商破壊戦をしたのではなく、セイシェルへの大規模な増援ではないかとも疑ったからでもあった。

 作戦に際して日本海軍は、まずは偵察を重視した。セイシェル防衛のために出てくる敵艦隊を見付けなければ、それこそ話しにならないからだ。また攻略と迎撃の同時作戦は、通常非常に慎重に行うべきでもあった。
 このために、危険を冒してマダガスカル島に他国に例を見ない高速水上機母艦の《千歳》を派遣したとすら言える。また拠点化したばかりのアッズ環礁からも航続距離に優れた大型飛行艇多数が飛び立ち、前進していた空母機動部隊からも十分な数の偵察機が放たれた。既に各所で戦闘に及んでいる潜水艦も、逐一連合軍艦隊の所在を知らせた。
 一方の連合軍も、作戦のために出来る限りの潜水艦や長距離偵察機を偵察任務で出撃させていたが、成果は芳しく無かった。日本軍が多数放つ航空機のため潜水艦が潜りっぱなしで、しかも攻撃を受ける潜水艦が多かったからだ。数もまったく足りていなかった。偵察機の方も、機体の航続距離の問題と数の少なさから、ほとんど成果は得られなかった。
 それでも最短距離で日本軍が侵攻してくると考えた連合軍は、前衛にイギリスの高速戦艦部隊、後衛にアメリカの空母機動部隊を置いて、日本艦隊に対峙しようとした。そして連合軍としては、日本軍がセイシェルへの空襲を開始した間隙を突いて、横合いから殴りかかろうという算段で動いていた。これ以外、圧倒的優勢な日本艦隊に太刀打ちが難しい為の戦術選択だった。
 しかし、進撃中に潜水艦により貴重な空母を失ったように、この時の連合軍には運がなかった。比較的早期に日本軍の大型偵察機(二式大型飛行艇)に発見されてしまい、作戦開始当初から奇襲は不可能となり強襲となったからだ。しかも日本艦隊は、最初からセイシェルよりも連合軍艦隊が目当てだったため、すぐにも連合軍艦隊への突撃を開始する。
 そして自らの間合いに入るや、すぐにも空母艦載機の出撃を実施した。戦略的にはセイシェル諸島占領は非常に重要なのだが、目に見える敵艦の撃破、撃沈を重要視するのは日本海軍らしいと言えるだろう。
 なお、以下の艦艇が、この時の日本艦隊の布陣となる。

 ・遣印艦隊
戦艦:《富士》《阿蘇》《石鎚》《大雪》
重巡:2隻 大型軽巡:2隻 1個水雷戦隊

 ・第一航空艦隊
空母:《雲龍》《飛龍》《蒼龍》
軽空母:《隼鷹》《飛鷹》《龍驤》《瑞鳳》
高速水上機母艦:《千代田》 軽巡:2隻 1個水雷戦隊

 これとは別に戦艦《大和》を臨時旗艦として戦艦《長門》《加賀》を主力とする第三艦隊が、攻略船団を護衛して少し後ろを航行しており、洋上戦力はセイロン島攻略の時よりも増えていた。しかもこの頃の連合艦隊司令部は、新たに旗艦となった新鋭戦艦《武蔵》と共にシンガポールにまで前進し、前線と後方の連絡も緊密になって、より柔軟な対応が取れるようになっていた。(※《大和》出撃のため、《武蔵》と初めて揃うのはもう少し先となった。)
 日本軍に対して、連合軍は空母《エンタープライズ》《ホーネット》《フォーミダブル》があり、常用機数は合わせて約200機だった。対する日本側は約350機。この頃の日本海軍航空隊の稼働機の、約半数近くに相当する機数だった。そしてこの時期でも、日本海軍の主力戦闘機「ゼロ・ファイター」は、精鋭パイロットの存在もあって非常に有力な戦闘機だった。《ワスプ》が何も出来ないまま、しかも艦載機を抱えたまま沈んだことが、悔やまれた状況だった。
 なおこの段階で、連合軍は艦艇の損害を抑えるため作戦を中止する選択肢も存在した。だが迎撃を完全に諦めた場合、フリーハンドとなった日本艦隊が現在進行形でアラビア方面に移動中の輸送船団とその残骸に、さらなる打撃を与える可能性が非常に高いと考えられていた。また戦略的にも、セイシェルを失うことは可能な限り避けなければならなかった。どちらも旧式戦艦よりも貴重な高速商船の喪失、損耗の増加を意味するからだ。
 さらに、自らの犠牲を省みず1隻でも日本軍艦艇を沈めることは、総合的な戦力の補充能力に劣る日本に対する長期的な打撃になると考えられていた。
 こうして連合軍は、セイシェル諸島を半ばほったらかした日本艦隊との間に、空母艦載機を中心とした戦闘を決定したのだ。

 9月17日に行われた空の戦闘は、連合軍側の奇襲は不可能となり、しかも日本軍の方が先に積極的な戦闘を仕掛けてきたため、連合軍側の強襲すらなくなっていた。戦いは正面からであり、空での戦いはランチェスターの法則に沿って戦力(=数)の違いがそのまま勝敗に結びついていた。
 この戦いで日本の第一航空艦隊は、初期の偵察で偵察機、雷撃機約20機(+水上偵察機12機)、防空に戦闘機約70機を置いて、攻撃隊には第一波135機、第二波117機を飛び立たせた。文字通りの全力出撃だった。
 一方の連合軍艦隊は、航続距離の問題からイギリス軍戦闘機が防空任務にしか使えないので、第一次攻撃隊約70機、第二次攻撃隊60機、偵察任務に急降下爆撃機約20機、防空任務に戦闘機約50機を充てていた。全体の数がやや少ないのは、イギリス軍空母の搭載機数が少なかった為だ。また連合軍側は、攻撃を放つ母艦が2隻だけのため、攻撃隊を中心とする発艦、着艦にどうしても時間がかかった。加えて、攻撃機も非常に旧式で鈍足のため、攻撃隊自体も一塊りと言うわけにはいかなかった。これに対して日本側は、中型、小型艦ばかりの空母群ながら7隻を集中投入する利点を十分に活かしていた。攻撃という点で、日本艦隊は非常に優れていた。
 なお、ほぼ同時に攻撃隊を放つという比較的珍しい状況で、しかも互いに相手を求めて全力で攻撃を実施したという点も珍しかった。両軍の攻撃隊が、空ですれ違い威嚇し合ったほどだった。
 そして何より、複数の空母同士が戦うのはパラオ沖から二度目の事であり、日本側は自信に満ち、アメリカ側は復仇に燃えていた。
 しかし戦力の差は、そのまま戦果の差となった。

 約半数がイギリス軍の「シーファイア」、「シーハリケーン」戦闘機で編成された連合軍防空隊は、第一波で45機も随伴してきた「ジーク(零戦)」隊に圧倒されて、防空任務をほとんど果たせなかった。イギリスが自信を持って送り込んだ「スピットファイア」の艦載機型も、この戦闘での度重なる着艦失敗で戦う前から数が減っている事もあって(12機→9機)、大きな働きをする間もなく自らよりも格闘戦に優れた機体との厳しい戦いを強いられた。防空戦では得意の一撃離脱戦も十分には活かせず、日本側の編隊による格闘戦に翻弄されることとなった。
 そして日本軍攻撃隊により、まずは前方を進んでいたアメリカ軍の空母二隻が集中攻撃を受けた。
 防空のための輪形陣を作る護衛の巡洋艦5隻、駆逐艦8隻が、高角砲のレーダー連動射撃、新型のヴォフォース40mm機銃(機関砲)などセイロン沖とは全く違うほどの弾幕射撃を実施するも、当時練度が極限までに達していた日本海軍母艦航空隊の前には威力不足だった。また新型の防空システム、火砲を持つ艦艇が十分でなく、火砲の密度も高いとは言えないため、阻止能力が不足していた(機銃もまだ28mmが主力だった)。やはり攻撃隊を最も阻止できるのは、司令部から航空管制を受けた十分な数の防空戦闘機だけだった。
 練度が当時世界最高だった日本軍攻撃機の集中攻撃の前に、同じ輪形陣を組んでいた《エンタープライズ》と《ホーネット》は、懸命の回避も叶わず次々に被弾した。水線下に複数の魚雷、飛行甲板に複数の爆弾が命中する事で、戦闘開始から僅か15分でどちらも航空母艦としての能力を完全に失ってしまう。アメリカの艦艇はダメージコントロール(損害極限)の能力が非常に高かったが、短時間の集中攻撃に対しては限界があるし、何より水面からからの攻撃には国の例外なく脆かった。
 そして戦闘機同士の戦いがまだ続いている頃、第一波から30分遅れて日本軍の第二派が襲来する。既に魚雷複数を右側だけに受けて大きく傾いている《ホーネット》(※定説では3本だが、《ホーネット》が受けた損害状況から2発がほぼ同じ場所に命中して4本とする説も根強い。)へのトドメと、後ろの小柄な輪形陣にいた無傷の《フォーミダブル》に攻撃が集中した。そして第二波が雷撃機中心のためどちらも多数の魚雷を被弾し、《フォーミダブル》は装甲空母のトップヘビーが祟って、攻撃を受けてから約1時間後に総員退艦が命令され横転沈没した。連合軍側の制空能力が低下していたこと、輪形陣が乱れていた事も日本軍の攻撃をより効果的なものとしていた。
 それでも《ホーネット》はなかなか沈まず、3時間後にやって来た日本軍の第三波の空襲をさらに受け、1トン級の大型爆弾(800kg爆弾)がボイラーを破壊してこれが致命傷となった。序盤で飛行甲板に大穴が空いていた《エンタープライズ》もさらに攻撃を受けたが、雷撃による致命傷を受けなかったため辛くも生き延び、今回の戦いでも唯一生き延びた空母となった。この2艦については、アメリカ海軍のダメージコントロール能力の優秀性を示すものと言えるだろう。
 しかし連合軍艦隊は、たった一回の戦闘で空母と制空権を失った。

 一方の連合軍の空襲だが、まずは攻撃隊とほぼ同数という日本軍の「ゼロ・ファイター」の群の迎撃を受ける。しかし日本側は、無線の活用がなされていないため統一、統制された防空戦闘はできなかった。個々のパイロットの技量に頼った防空戦を展開したため効率が悪く、攻撃を完全に阻止しきれなかった。護衛の「F4F ワイルドキャット」も、2機一組で行う戦術の変更もあってかなり善戦した。
 しかし鈍足の「デバステーター」と新型の「アヴェンジャー」、さらにイギリスの「ソードフィッシュ」混成の雷撃隊は、護衛よりも多い「ゼロ」に完全に捕捉された。しかも結果として五月雨式に攻撃することになったため、日本軍迎撃機に順番に迎撃される事となった。このため、「アヴェンジャー」編隊が魚雷を投棄するように投射して辛うじて待避した以外はほぼ全滅し、辛うじて「ドーントレス」による急降下爆撃が善戦した。
 この攻撃で、軽空母《龍驤》が1000ポンド爆弾を2発を被弾して大破。護衛の駆逐艦2隻が寄り添っての、懸命の消火、復旧作業が行われた。他は至近弾程度の損害で切り抜けた。迎撃機の多さが、日本軍艦隊の防空体制の不備を補った形だった。
 連合軍の第二波もほぼ同様の展開となり、日本軍戦闘機の激しい迎撃の前に連合軍の攻撃隊は攻撃する前から損害を積み重ね、中型空母《蒼龍》への1000ポンド爆弾2発の命中を見たのみで連合軍側は空襲を終えねばならなかった。
 なお、小型の《龍驤》は火災の鎮火に失敗したこともあり、その後さらに被害が拡大。最終的には鎮火不可能となって自沈処分されている。防御力が極めて弱い軽空母とは言え、日本海軍としては初の空母喪失だった。中型空母の《蒼龍》も、延焼や誘爆にこそ至らなかったが、空母特有の可燃物の多さから火災の鎮火には多くの苦労を強いられた。この時の損害の教訓から、日本海軍では艦艇の不燃対策に一定の努力が割かれるようになる。加えて、各艦の防空火器の増強も順次実施されるようになり、空での戦いではレーダーが重要だという認識もかなり持たれた。
 当然だが、飛行甲板を破壊された《蒼龍》は護衛に伴われて後方へと下がり、損害が深刻なため日本本土にまで修理のため帰国している。初期に建造された実験的な大型空母のため、船体を丈夫に作っていた事が幸いした形だった。
 なお、日本艦隊への攻撃に参加したイギリス海軍の「ソードフィッシュ」攻撃機は、参加した12機全てが「ゼロファイター」の餌食となっていた。制空権のない空に、旧式の複葉機で攻撃しようというのが無謀だったのだ。アメリカ海軍でも、この戦いを最後に旧式の「デバステーター」は第一線を去ることになる。

 そして、戦闘後も多くの戦力を維持していた日本の第一航空艦隊は、空母部隊より前を進んでいたもう一つの艦隊に対する四度目の空襲を行う。
 この艦隊は、イギリス海軍の特徴的な外観を有する戦艦《ネルソン》《ロドネー》《ハウ》、アメリカ海軍の戦艦《ヴァージニア》、巡洋戦艦《レンジャー》の合計5隻を中心とした強力な高速打撃艦隊で、状況に応じて日本海軍にトーゴースタイルの艦隊決戦を挑むべく前進していた。相手戦艦が世界最強の高速戦艦戦隊の《富士型》4隻と言うことも偵察で分かっていたので、空母同士の戦いが始まる頃は非常に積極的で、増速して日本艦隊との距離を詰めていた。
 しかし航空戦での惨敗を受けて、連合軍艦隊全体が午前中に後退を決意する。連合軍の高速打撃艦隊も、日本軍の編隊がやって来るまでに進路を反転していた。そこに100機以上の日本軍艦載機が襲来する。
 この時期の連合軍艦艇は、空母部隊だけでなく全体的に初戦の頃より防空能力が大きく向上していた。特にアメリカ海軍は、初期型のレーダー連動射撃が可能となり、ヴォフォース40mm機銃の一般的な搭載が始まっていたため、防空能力は今までに比べると格段に向上していた。
 しかし制空権がないという致命的な不利のため、日本の艦載機群は十分に敵の陣形を見定めてから、思い思いの方角から攻撃を開始する。主に狙われたのは、イギリス海軍の《ネルソン級》3隻だった。独特の形状(砲塔配置)から見た目で目立つし、イギリス側の方が対空砲火が甘かったからだ。何しろイギリス海軍の40mm8連装機関砲は、大柄な機銃のため搭載数が少なく、しかもよく故障した。またイギリスが、同クラスを十年以上海軍の象徴としていた事も、心理面で日本軍機の攻撃を引き寄せる事になった。
 既に相手戦闘機がいないことが分かっていたので、戦闘機の数は少なく攻撃機は各種合計90機近くいた。第一航空艦隊としては、少し時間をずらして機体数を増やし、万全の体制で戦艦の単独撃破を図ろうという魂胆だった。前は旧式戦艦だが、16インチ砲搭載艦を沈めることで、今度こそ戦艦部隊の鼻をあかそうという思惑だった。こうした競争心は、どこの国の海軍にもある事だった。
 歴戦の第一航空戦隊所属機が隊列先頭の《ネルソン》、新参の多い第二航空戦隊所属機が《ハウ》を狙った。《ネルソン》は司令官ソマーヴィル提督の座乗艦でもあった。
 この攻撃で巧みな包囲空襲を受けた《ネルソン》は奮闘及ばず被弾が相次ぎ、魚雷4本、爆弾4発を受けて大破してしまう。魚雷は右側の前半分に集中して3本命中し、応急注水しても傾きが完全に復元出来ない為、主砲射撃は不可能となり速力も大きく落ちた。《ハウ》の方は少しマシだったが、魚雷2本、爆弾3発を受けて中破。雷撃のため速力もかなり落ちていた。砲撃戦は辛うじて可能だが、発電力の低下によるレーダー能力の低下、光学型の測距装置の故障で統一射撃が不可能になっていた。

 日本軍艦載機の攻撃は、午後4時頃にさらにもう一度行われ、今度はアメリカ海軍の《レンジャー》が狙われた。古くから知られている流麗な姿の巡洋戦艦は見た目にも目立つし、日本軍の間に巡洋戦艦は装甲が薄いので損害を与えやすいという思惑があったからだ。一部が既に損傷している《ネルソン》と《ハウ》に向かうも、攻撃隊の60%以上が《レンジャー》を狙った。
 最高速力33ノットの高速を誇る《レンジャー》は、高速発揮能力は高いのだが優美と言われる長い船体を持つ代償として、自慢の高速を発揮すると運動能力(旋回性能)がかなり悪くなった。転舵の際の旋回半径も大きかった。そこを熟練した日本軍艦載機に突かれ、初手こそ回避するもその後次々に被弾。最後は雷撃機6機の攻撃のうち5発が、片舷に命中してしまう。最終的な被弾総数は800kg航空魚雷11本、250kg徹甲爆弾4発に達した。しかも右舷に8本も魚雷を受けたため大きく傾き、動力も失われた為もはや救う手だてはなく、日本軍攻撃隊が去る頃には総員退艦が命令されていた。
 《ネルソン》と《ハウ》も運動性が大きく落ちていた為さらに被弾し、両艦とも沈みこそしなかったが、既に100キロ以下の距離に迫っている日本艦隊から逃げることは不可能だった。そして残存艦艇に、強力な日本艦隊を阻止する力はなかった。
 ここで連合軍艦隊司令部は、人命優先を決意。無謀な砲雷撃戦よりも、撤退が難しい損傷艦艇の自沈処置を決断する。
 双方が望んだはずの戦艦同士の砲撃戦は一度も行われることなく、連合軍の惨敗という形で戦闘の幕が降りる事になる。
 日本海軍第二艦隊がイギリス軍が残した《ネルソン》と《ハウ》に近づいた頃、両者とも既にキングストン弁が抜かれて既に甲板が波に洗われており、捕獲する事も不可能だった。日本艦隊が見た高速で動く敵艦艇も、《ネルソン》と《ハウ》の最後の乗組員を乗せた駆逐艦の遁走する姿だった。
 ここで日本艦隊は、何もしないことは相手に対して失礼ではないかという意見が通り、儀礼的に一度の一斉射撃を実施。それを沈み行く敵に対する手向けとした。戦後美談として語られることの多い情景だったが、こうした行動に当時の日本軍全体の心理的余裕を見て取ることが出来る。

 一連の戦闘での最終的な結果は、日本軍が軽空母1隻、軽巡洋艦1隻などを失ったのに対して、連合軍は戦艦6隻、空母3隻、他多数を喪失。輸送船舶も35万トンを失った。艦艇と合わせると損害は60万トンにも上る。日本海軍にとってはパラオ沖海戦以来の大勝利であり、戦略物資を満載した輸送船の戦果が多い事からパラオ以上の勝利だと判定する研究者も多い。日本側が勝利に驕るのも、当然と言えば当然だったのかもしれない。
 しかし日本海軍の第一航空艦隊は、栄光と多大な戦果の代償として、多くのベテランパイロットを失った。このため、戦力の再編成に苦労し、その後の戦争の推移もあって戦闘力を大きく低下させることになる。

 一連の「モザンビークの悲劇」、「ソコトラの虐殺」、そして「セイシェル諸島沖海戦」によって、インド洋での日本軍の優位はより確かなものとなった。
 パラオ沖の勝利からこの時の勝利の期間を、日本海軍の黄金時代と言うこともあるほどだ。
 なおセイシェル諸島は、総督府のあるマヘー島に増強大隊規模の戦闘団が上陸したのをはじめ、陸軍の1個混成旅団と海軍の特別陸戦隊1個大隊によって、ほぼ戦闘することなく陥落した。守るべきものも少ないし、いずれは放棄する予定だったので、上陸した部隊も一部装備と陸戦隊を残して転進したような場所だった。
 その後日本軍は、連れてきた船舶に積み込んでいた機材で、一応は破壊されていた飛行場、泊地、水上機基地を使える程度に再建し、以後インド洋封鎖のための最前線として活用していく。
 セイシェル諸島から東アフリカのケニア沿岸まで約1500キロ。大型機はともかく、戦闘機が往復できる距離ではない。加えて、連合軍がケニアにまで大型機を持ち込んで円滑に運用するには、非常に大きな負担が伴う。戦闘機でも似たような状況だった。このため、以後現地はごくまれに嫌がらせの爆撃を受ける以外、日本軍の拠点として有効に活用されることになる。
 そしてセイシェル諸島、アッズ環礁、セイロン島、ニコバル諸島をつなぐ線によって、日本軍によるインド封鎖は完成する。陸攻(中型攻撃機)と潜水艦、そして強大な水上艦艇によってインドを封じ、日本軍にとっては半ばついでに紅海、ペルシャ湾に向かうルートも封鎖した。
 これに対して連合軍は、まずは南アフリカのケープにアメリカ軍が中心となって展開し、その後陸路(空路)でイギリス領ケニアへと一部の部隊を送り込んだが、規模は常に限られていた。いかに機械化が進んだからと言って、インフラのないアフリカを横断するような補給路を海を使わず設定することは、この頃の連合軍には無理があった。そして連合軍にとっては、東アフリカよりも先に北アフリカこそ問題化していた。

   ◆

 1942年6月以後、北アフリカというよりもエジプトが危機に瀕していた。そしてドイツのロンメル将軍は、日本軍のインド洋での攻勢と、その海戦の結果を聞いて自らの攻勢を決意する。連合軍の大船団が物資を届ける事無く壊滅した今こそ、千載一遇の機会と判断したのだ。
 マルタ島が依然として機能不全のため、連合軍は地中海の補給路がほとんど使えず、枢軸側は補給拠点としての港湾機能を持つトブルクを落としたことも重なって、今までにないほど円滑な補給が受けられるようになっていた。しかも連合軍は、インド洋に日本軍が雪崩れ込んだため、東アフリカ航路すら危機に瀕し、そして9月半ば遂に途絶してしまった。9月の海戦で海の藻屑と消えた兵器や物資の総量も、40万トンという当時としては途方もない量だった。
 ちなみに9月に日本軍が沈めた船団には、弾薬や燃料、各種物資の他に「スピットファイア」戦闘機200機、「M4 シャーマン中戦車」300両など優秀な兵器が多数積載されていた。またイギリス軍の1個機甲旅団も、兵士と装備ごと殆どが海の藻屑と消えていた。

 話しが少し逸れたが、1942年8月当時のエジプトにいたイギリス軍は、イギリス軍全体の方針であるインド防衛のため戦力が不足していた。インド師団のほとんどを回す事ができず、代わりにオーストラリア師団を動員しようとしたが、日本軍の通商破壊戦もあってあまりうまくいっていなかった。オーストラリア政府が、日本軍の潜水艦から完全に守れる保障を求めたりもしたからだ。実際、オーストラリア兵1個大隊が大型船と共に沈められたりもした。
 英本土からの増援も同様に危険で、こちらは無理を押して増援を送り込んでも、まずはインド増援が優先されていた。しかもエジプトでの武器、弾薬の補給そのものも細っていたので、エルアラメインの守備にも事欠く有様だった。ロンメル軍団の機動力を封殺するための地雷にも事欠いていた。
 この事はドイツ側にも見透かされ、ドイツ・アフリカ軍団は7月までに一度大規模な補給を受けるとエル・アラメインに対して攻勢を行う。この攻撃はエル・アラメインの突破にこそ失敗するも、イギリス軍の兵力不足をさらに逼迫させ、ドイツ軍は一部要地の奪取にも成功していた。
 そして9月半ば、多数の新型戦車など十分な補給を受け取ったロンメル将軍は、窮地に追い込まれたイギリス軍に対して遂に全面攻勢に移った。
 この攻撃にエジプトを防衛していたオーキンレック将軍は耐えきれず、迂回突破によって包囲殲滅される前にエル・アラメインからの全面的な後退を決定。
 その後ドイツアフリカ軍団は、イタリア軍を中心にした部隊が周辺で最大の港湾都市のアレキサンドリアを包囲し、主力の機甲部隊は一気にエジプト中枢部のカイロを突いた。そして平地の大都市という地形的に防衛線を敷くことが出来なかったイギリス軍は、カイロを守ることもできずさらに後退。ドイツ軍は、そのままナイル川を渡ってスエズ運河に到達した。

 ドイツ軍のスエズ到達は9月24日。感激したヒトラー総統は、既に元帥となっていたロンメル将軍にさらに上位の勲章を授与し、参加した将兵の多くにも勲章を乱発した。
 これでドイツ軍と日本軍が手を結べばさらに脅威となるのだが、スエズ運河の東側はイギリス軍が保持していたし、紅海も辛うじて連合軍のものだった。そもそも枢軸側に、両者が握手するまで進撃する為の具体的なビジョンが全く無かった。ドイツ軍は、ほとんどロンメル将軍のスタンドプレーによる無茶続きの進軍だったし、日本軍の主な目的はインドをイギリスから切り離すことだった。互いに、相手との連絡は「確保できたらいい」程度のものでしかなかった。アラブ地域への進撃の準備も、兵力も用意していなかった。
 それに、そもそも日本には、インド洋を完全制圧して中東でドイツ軍と握手できるだけの国力と軍事力が無かった。兵站面から見ても、インド洋の遮断ですらかなりの重荷だった。本来、日本の攻勢限界点は、セイロン島か精々アッズ環礁までだった。セイシェルは進みすぎていたのだ。
 しかし、日本軍が勢いのままにズタズタに切り裂いたインド洋での連合軍の補給路は、他の戦線にも大きな影響を与えつつあった。
 インド洋が事実上封鎖されたことで、エジプトのイギリス軍がドイツ軍に敗退を余儀なくされた。これは今まで触れてきた通りだ。さらにイギリスは、インドが事実上孤立した。インドには動員したインド兵が山のようにいたのだが、装備の多くは旧式のままで本国などからの航空機も届けられないため、夏の間に制空権はほとんど奪われていた。陸上部隊も弾薬や燃料の不足のため、鉄道以外で機動的に動ける部隊は僅かとなっていた。
 アメリカ軍は、重爆撃機ならば空路で物資などを送り届けられるとして、贅沢なインド補給作戦を始めていたが、流石に直接飛ぶことはカタログデータ上で出来るだけで、実際には無理だった。アフリカ中部のケニア辺りを中継するにしても、まずはケニアに燃料などの物資を船で運び込んで拠点を強化しなければならなかった。そしてケニア方面まで行くと、優勢な日本軍が通商破壊戦を行っているため、この頃の連合軍にはほとんど手が出せなかった。
 それでも連合軍は、高速船舶を動員したり軍艦を使うなどして各所への補給を実施し、インド洋東部の各所で通商破壊戦を行う日本軍との戦闘を頻発させた。
 日本艦隊は潜水艦、航空機だけでなく、艦艇も戦隊単位で投じてくるため、連合軍にとって非常に脅威だった。中でも、軽空母1隻〜2隻を含む通商破壊艦隊は、全ての面で同方面の連合軍の脅威の筆頭で、連合軍艦船は多くの損害を受けることとなった。この頃日本海軍は、《祥鳳》《瑞鳳》と《隼鷹》《飛鷹》による二つの軽空母戦隊を2ヶ月交代でセイロンやアッズから出撃させて、連合軍船舶を狩っていた。また、八八艦隊に属する大型戦艦やようやく戦列復帰した金剛型戦艦などまでが、駆逐艦数隻と伴いアラビア海に2隻単位で戦隊を組んで通商破壊戦と言う名の巡洋艦狩りに出撃した。
 連合軍にとって、アラビア海の海上補給路は悪夢のような有様だった。このため西インド洋とアラビア海は、連合軍の艦船によって海底が敷き詰められた「アイアン・ボトム・シー(鉄底海)」と呼ばれたりもした。
 また、もう一つの戦線が影響を受けていた。
 ドイツとソ連邦を中心とする東部戦線だ。

 連合軍によるソ連邦への援助は、7月に北大西洋航路が一時的に中止され、同じ頃からインド洋も危機的状況となり9月の大規模な補給作戦も完全に失敗した。その後も主に単独または小規模の船団が東アフリカ沿いに出されていたが、日本軍潜水艦が闇夜を突いてかなりの数を沈めていた。日本軍水雷戦隊や巡洋艦戦隊と、日本軍が「ワシントン急行」と呼ぶ連合軍の小規模護衛船団との戦闘も何度か発生した。長距離進出が可能な日本軍の陸上攻撃機や大型飛行艇は、この頃のインド洋では死を呼ぶ使者として、連合軍将兵から何よりも忌み嫌われていた。そして小規模輸送では効率が悪いのだが、セイロンやアッズで待機する日本艦隊が殺到するであろう大船団はインド洋では組めない。
 しかも連合軍は、ソ連邦よりも先にインドか中東に物資や援軍を送り込もうとしたので、この時期のソ連邦への物的援助はほとんど途絶していた。長距離飛行可能な航空機と航空機に積載できる軽くて嵩張らないエンジンプラグや真空管などが、北極方面各所から一部送られていただけだった。この頃は、まだシベリアルートと呼ばれる、アラスカ=アリューシャン列島=カムチャッカ半島=オホーツク海を経由するルートは、日本軍が危険すぎるため開設されていなかった。また気象面から見ても、夏以外の北太平洋は危険すぎた。
 そして連合軍がこの頃ソ連邦に送り届けていた援助物資は、北極海経由で送られる航空機を別にすると、高性能無線機、真空管、エンジンプラグ、そして輸送トラックが大きな比重を占めていた。戦車や大砲ならソ連邦でも大量生産できるが、上記のものはソ連邦での大量生産が難しかったからだ。トラックならソ連邦でも大量に作られていたが、巨大なソ連邦軍に対して酷く不足していたし、何より機械的な信頼性など性能が段違いだった。
 そして恐らくは、百万トン以上の援助物資をソ連邦に送る事ができなかった為、1942年夏から翌年春ぐらいまでのソ連邦軍の戦闘にかなりの影響を与えたと考えられている。
 その典型例が、「スターリングラードの戦い」だった。

 ドイツ軍による1942年6月22日からの大規模な攻勢に対して、ソ連邦軍は頑健に抵抗した。多くは死守戦術からの転換による結果だったが、同年5月の攻勢時の惨敗がウソのような変貌ぶりだった。そして11月19日には、市街戦の続くスターリングラード方面で遂に大規模な反攻作戦を実施した。
 この反撃は、連合軍全体で見ても初めての大規模反撃だった。
 作戦は当初順調に伸展し、スターリングラードのドイツ第六軍などを包囲した。別働隊は、コーカサスのドイツ軍を包囲しようとした。しかし、この反攻の時点で輸送車両が不足し、一部兵力の参加を見合わせたり進撃が徒歩となった部隊も出ていた。前線への補給でも、車両の不足のため最初から齟齬が出ていた。加えて前線の兵器の充足率でも、大きな影響が出ていたと言われている。
 それでもスターリングラードのドイツ軍は包囲出来たのだが、その後のドイツ軍の反撃でもソ連邦軍の動きは鈍った。重砲の砲撃は無線機不足から的確さを欠き、車両不足から軍の移動と集中も遅れた。ソ連邦赤軍の誇るT-34も、無線機不足も重なって相変わらず無為に撃破されていた。連携の取れない軍隊など、どれほど巨大でも烏合の衆に過ぎなかった。
 このためドイツ軍のマンシュタイン将軍の苛烈で巧みな反撃作戦は成功を収め、ドイツ第六軍は半数程度にまで減らされるも包囲網からの脱出に成功した。しかもここで、ソ連邦軍は恐らくは指導者スターリン書記長の命令によって強引な反撃を実施したため、ドイツ軍の逆襲を受けて大きな損害を受けていた。さらに続いたドイツ軍の反撃に対しても、ソ連邦軍は各所で混乱して撃破すらされた。そしてコーカサス方面から急ぎ引き返したドイツ軍主力も完全に取り逃がし、さらにはドイツ軍の反抗を受けて、せっかく奪い返した地域のかなりをまた奪われることとなった。翌年春には、再び大きな戦術的敗北も喫した。
 1942年冬から翌年春にかけてのソ連邦軍の反抗は、結果として大きな成功をおさめるも、どこも同じような有様だった。攻勢を受けているドイツ軍がイニシアチブを握ることが殆どで、攻勢に出たソ連邦軍は相変わらず撃破され、そしてドイツ軍は自らの望むように後退して戦線を整理した。以前との違いは、安易に包囲殲滅されなくなった事ぐらいだとすら言われた。戦場での絶対数の違いが、ソ連に戦略的勝利を掴ませていたのだ。
 故にソ連邦軍は、英米がもっと多くの兵器や物資を寄越していればドイツ軍を取り逃がすことは無かったと責任転嫁したのだが、後世の冷静な目で見てもそれはある程度正しかったと判断せざるを得ない。輸送に欠かせないトラック、各部隊間の連携のために必要な高性能無線機、車両や航空機に欠かせないエンジンプラグなどが十分にあれば、戦いもまた違った形になった可能性は十分にある。
 しかしドイツ軍が有利だったのかといえば、そうでもない。
 何よりもまず、アメリカ合衆国が1942年春以後にヨーロッパにより多くの努力を傾けることになっていた。このため、夏辺りからはドイツ軍が主に空から受ける圧力が高まっていた。具体的には、イギリス本土からの戦略爆撃だ。
 とはいえ、まだこの頃は連合軍の戦略爆撃の規模は限られていた。アメリカ軍も戦略爆撃を開始したばかりで、何もかもが足りていなかった。戦略爆撃自体も、効率の良い攻撃方法では無かった。しかし以後のドイツは、防空戦のために多くの努力を傾けなければならなくなり、徐々に降り積もる損害と負担が生産にも影響を与えるようになる。
 そして何より、ドイツ軍、ヒトラー総統にとって、スターリングラードでの戦略的な敗北とソ連邦軍の反抗は大きな衝撃となった。このためヒトラーは、しばらく軍の作戦に対しての干渉を弱め、ドイツ軍は戦線の再構築を合理的に進めることが出来た。
 この中で問題となったのが、エジプト戦線だった。

 ロンメル将軍は、9月末にスエズに達した。カイロ陥落後も精力的に活動し、現地イギリス軍はスエズの東側の近東とナイル川上流、紅海沿岸へと逃れた。そして当時のヒトラーは、ロンメル将軍が求めた中東への進撃の許可を与え、物資を運ぶ枢軸側船舶は今度はアレキサンドリアへと至るようになる。
 しかし、現地イギリス軍が完全に壊滅したわけではなかった。陸軍部隊のかなりが、スエズ東岸などに撤退することが出来た。アレキサンドリアのイギリス地中海艦隊も、エルアラメインが突破されると、本国からの命令でアレキサンドリアを脱出。ジブラルタルを目指した逃避行を開始する。脱出した主な戦力は、戦艦《ウォースパイト》《マレーヤ》、軽巡洋艦3隻、駆逐艦13隻などだった。そして地中海の枢軸側の戦力が、マルタ島近辺とエジプトに集中していたため、イギリス艦隊はシチリア島近辺で一度空襲を受けて相応の損害を被るも、致命的な損害を受けずにジブラルタルに逃れることが出来た。(※ただしアレキサンドリアで大破着底していた《クイーン・エリザベス》《ヴァリアント》は枢軸軍に捕獲されている。)
 だがこれで、地中海の連合軍艦隊はなくなった。
 このため枢軸側は、この時点では東部戦線も押しているという要素があったため、東部戦線のドイツ軍とロンメル将軍をペルシャで合流させるという壮大な戦略構想を描くようになっていた。合わせて、トルコに対する枢軸側での参戦も促した。その中で効果があったのが、レバノン、シリアの統治を名目上続けていた現地のヴィシー・フランス勢力に対してだった。彼らは、ロンメル将軍がカイロを占領すると、ドイツ軍の受け入れと枢軸側の参加を表明した。小数のイタリア艦隊に護衛された数隻の大型輸送船から、急ぎ輸送されたドイツ軍1個旅団が上陸。その後続々と近東方面に枢軸軍が増えることになる。
 これでスエズ東岸方面のイギリス陸軍は挟撃された状態となり、既に現地イギリス空軍が勢力を大きく減退させていた(機体や物資もそうだが、拠点に事欠いていた)事も重なって、イギリス軍はさらなる後退を余儀なくされた。とはいえ鉄道網が不十分な当時の近東で大規模な移動は難しく、また補給も東アフリカ沿岸から紅海を通る細々としたルートが生きているだけなので、十分な補給と増援を得ることも難しかった。
 補給と増援に関してはイギリスも最大限の努力を傾けていたのだが、主に日本軍の通商破壊戦のために数十万トンの船舶と物資を失い、近東のイギリス軍のもとに届けられる物資と増援は僅かな量でしか無かった。
 一方では、枢軸側は紅海を完全に制圧するだけの戦力がないので、日本軍とドイツ軍が航空機以外で握手をするという情景にまでは至らず、戦線は半ば膠着状態へと移行する。
 ヒトラーはペルシャ(イラン)までの進撃を求めていたが、11月19日にロシア戦線の状況が一変するとロンメル将軍に対しての補給は極端に減少し、「ドイツ・アラビア軍団」と改名されたロンメル将軍は、緩やかな前進を余儀なくされた。
 それでも現地ヴィシー・フランス軍の案内でシリアの東端まで至り、海上補給路もレバノンのベイルートまで延ばされ、イラク国境を突破。復旧させた鉄路を用いてイラク北東部のモスールを包囲し、現地に籠もるイギリス軍の敗残部隊と睨み合いとなる。ここで流石のロンメル将軍も補給が途絶え、身動きが取れなくなったのだった。 
 現地には鉄道も敷設されていたので、北アフリカほど補給の維持は難しくなかったが、肝心の物資が来なければ話しにならなかった。
 一方のイギリス軍も、この時期中東どころではないというのが本音だった。まだまだ元気な日本軍が、インドで次なる攻勢を開始していたからだ。

 なお1942年秋からしばらくは、セイロン島を飛び立った日本軍の大型機(※二式大艇や陸攻がほとんど)が、何度かドイツ軍占領下のエジプトを訪問している。さらにヨーロッパにまで進んだ日本軍機もあり、この時の模様は枢軸勝利の象徴として主に宣伝用フィルムにも残されている。インド洋に日本軍が溢れてからは、潜水艦を用いて大西洋を横断する直接交流も何度か行われた。中には、連合軍の制海権下にある紅海を横断してエジプトに赴いた潜水艦もあった。
 そして主にドイツ軍から日本軍に対して、新兵器の図面や一部現物が金塊などとのバーターで供与されている。この技術の中には、レーダーやジェット戦闘機、核兵器に関する技術資料などが含まれていた。



●フェイズ13:「戦争の大転換」