●フェイズ16:「第一次マリアナ沖海戦」

 マリアナ諸島での戦闘は、1944年10月22日に始まる。
 同年9月に電撃的にマーシャル諸島西部のエニウェトク環礁に進出して拠点を構えたアメリカ海軍を中心とする連合軍艦隊は、警戒部隊しか配備されていないトラック諸島に爆撃を実施するなどの牽制攻撃を実施しつつ、急ぎ足場を固めていった。
 一方で、日本側がビアク島方面の陽動にも動かされず、セイロン島方面に動く気配も無いため、自らがイニシアチブを握れるように早期の作戦発動を決意する。

 日本海軍主力が動かなかったのは、連合軍の意図を見抜いていたわけではない。理由を突き詰めてしまえば、日本海軍にとって都合の良い戦場で戦いたかったからだった。そして日本海軍は、十分な迎撃体制が整えられているマリアナ諸島での戦闘を欲していた。絶対国防圏で本当に防備が固められている場所は、マリアナ諸島しかなかったからだ。
 そして日本海軍は、連合軍の動きを察知すると、まずはマリアナ諸島から距離のある第一機動部隊が日本本土から出撃を開始。半日ほど遅れて、シンガポール近辺からパラオまで急ぎ進出していた主力艦隊も動いた。
 一方マリアナ諸島では、アメリカの空母機動部隊の大規模な空襲を皮切りに、激しい航空戦が展開される。本来ならアメリカ海軍は、日本艦隊が他の戦線に拘束されている間に、二三度マリアナ諸島への空襲を実施して基地航空戦力を漸減しておく作戦予定だった。出来るのなら、攻略作戦の三ヶ月前に事前の空襲を実施したいと、強く考えてもいた。
 日本海軍の宣伝通り1000機とはいかないが、数百機の機体が配備されているからだ。しかも、殆どの基地では、航空機用の頑丈な待避壕や洞窟格納庫が多数設置され、さらに数多くの対空装備を持つため短時間での破壊や無力化が難しかった。
 対する連合軍艦隊は、侵攻作戦時に戦力の不足する状況を作り出したくなかったため、初期の空襲以外は徹底したくてもできず、攻撃は中途半端なものとなった。加えて、基地航空隊に続いて空母艦載機を相手にするという戦闘は、1942年春にパラオで同じ事を行い、アメリカ艦隊が惨敗を喫した戦闘と同じ形だったので尚更だった。
 だが、アメリカ軍はこの事態も作戦立案前から想定しており、だからこそ最高速力が18ノット程度の貨物船改造の、本来は船団護衛に使うべき護衛空母を集成した艦隊を連れてきたのだった。
 護衛空母の艦載機は、母艦の大きさと能力双方の限界から元設計が旧式の機体となったが、70%を戦闘機で固めているため揃えている数もあってかなり有力な存在だった。言うなれば、低速の護衛空母群は動く航空基地だった。またマーシャル諸島などには、小さな島々に送り込めるだけの機体を送り込み、マリアナ諸島に対する偵察や爆撃を実施した。ただし護衛空母6隻に対して、護衛が良くて艦隊型駆逐艦3隻、低速の護衛駆逐艦3隻ではいかにも少なく、機動部隊本隊の事実上の支援に限定されていた。また戦艦や空母に優秀で熟練した乗組員が多く割り振られている為、護衛に関連する艦艇の乗組員の能力には疑問も多いと言われていた。

 アメリカ軍が襲来することを前提として、開戦以来2年以上の歳月をかけて綿密に構築されたマリアナ諸島の防衛網は非常に強固だった。数は限られているが機械式の土木作業機械も持ち込まれているため、苦労して滑走路を破壊してもすぐに修復されてしまう始末だった。各所にレーダーも配備されており、多くの機体は待避壕に格納されているため、空襲によって与えられる損害は限られていた。バトル・オブ・ブリテンのような緻密な航空管制は無かったが、それでも他の地域の日本軍とは大違いだった。
 しかも沿岸砲台も島内各所に強固な陣地として構築されているため、上陸部隊が安易に近づく事も出来なかった。
 なお、マリアナ諸島の主要3島(サイパン、テニアン、グァム)に配備されていた日本海軍航空隊は、偵察機や輸送機まで含めるとおおよそ500機だった。これに硫黄島の150機、ヤップ島の50機が加わるので、合わせて700機によって敵の侵攻を正面から受け止める事になっていた(※パラオには、さらに100機近くが駐留していたし、フィリピンなどパラオ近在にもかなりの数が予備として配備されていた。)。空母機動部隊と同等の戦力で、日本海軍は迎撃にかなり自信を持っていた。
 しかし日本軍の予測したよりも、アメリカ艦隊の戦闘力は高かった。
 日本側が新型艦載機をいまだ多数投じられないのに対して、アメリカ軍は「F6F ヘルキャット」、「F4-U コルセア」という新しく優秀な機体を大量に投入していた(※両機体共に、インド戦線で既に姿を見せていた。)。日本側も地上配備では「ジョージ(川西・紫電)」、「サム(三菱・烈風)」を投入していたが、配備が十分に間に合っておらず、過半が開戦時から使用している「ジーク(三菱・零戦)」の改良型だった。
 ただしアメリカ側も護衛空母群の戦闘機は、運用能力の関係で旧式の「F4F ワイルドキャット」(正確には軽量改良型のFM-2)のため、マリアナ諸島の日本軍機が極端に不利という事もなかった(※一部に異論もあり、FM-2は中高度では優秀な戦闘機とも言われる)。しかもこの頃の日本海軍航空隊は、インド戦線をほとんど切り捨てて、主力をマリアナ諸島防衛に投じていた。このため練度の高いパイロットが比較的多く、実戦経験の不足する面があるアメリカ側に対してもかなり互角の戦いが出来た。
 また、マリアナの日本軍航空隊もやられっぱなしではなく、何度かまとまった数で敵艦隊への空襲を実施した。攻撃機も「ベティ(一式陸上攻撃機)」の改良型(三四型)と新型の「フランシス(銀河)」が配備されつつあり、攻撃力も向上していた。小型機も「ヴァル(九九式艦上爆撃機)」、「ケイト(九七式艦上攻撃機)」などに混ざり、新型の「ジュディ(彗星・艦上爆撃機)」、「ジル(天山・艦上攻撃機)」もかなりの数が配備され、進撃速度の速さや行動範囲の広さなどの点で厄介だった。
 マリアナ諸島から護衛空母群に対する空襲は、防空密度が低かったこともあってかなりの成果を収めた。アメリカ艦隊は、護衛空母群でも戦闘機の統制運用を限定的ながら実施したが、護衛空母群は任務が多いのに艦載機総数が十分ではなく、特に自らの防空が十分ではなかったので、そこを突かれた形だった。
 特に100機単位での空襲(=飽和攻撃)には脆く、日本軍攻撃隊は護衛空母1隻を撃沈し、さらに2隻を後退させるほどの損害を与えた。機動部隊本隊に対しては殆ど戦果は無かったが、艦載機の補給作業中の軽空母《プリンストン》が、ジュディが投じた1000ポンド級(500kg)爆弾1発の被弾で自らの艦載機と燃料、弾薬に誘爆して短時間で全艦火だるまとなり、被害が船体にまで及んだためその後友軍によって処分されていた。当初から懸念されていた過積載が徒となった形だった。
 一連の戦闘の結果、アメリカ軍の艦載機の総数は空戦や空爆による損害に加えて母艦もろとも吹き飛んだものも多いので、当初より25%近くを消耗していた。
 対してマリアナ諸島全体での稼働機は、日本本土から第一機動部隊が来援するまでに40%程度を維持しており、まだ辛うじて戦闘力を有していた。
 この時点では、日本の防衛体制は十分に機能していた。

 ここで少し、この頃の日本軍機についてもう少し触れておこう。
 日本海軍は、戦争になるまで「八八艦隊」を中心とする戦艦群の建造と維持に多くのリソースを取られているため、他の兵器にしわ寄せがいった。航空機も例外ではなく、平時の航空機開発は常に制約があった。同じく予算のしわ寄せを受けた陸軍は無理にでも開発を行ったが、海軍ではそうもいかなかった。
 この結果、日本海軍は局地戦闘機と呼ぶ基地配備の迎撃用戦闘機(重戦闘機)の開発を事実上諦め、戦艦群の維持の代償という少しおかしな陸海軍の政治的取引もあって、陸軍の開発した「トージョー(二式戦)」、「トニー(三式戦)」を仕様を改めて一部導入していた。
 そして海軍自らの戦闘機は、艦上戦闘機を一種の万能戦闘機として導入した。これは「ジーク(零戦)」が大成功したためで、すぐにも「サム(三菱・烈風)」の開発を始める。だが格闘戦を重視するか速度性能を重視するかでなかなか結論が出ず、設計の遅れから開発までもが遅れた。この結果「烈風」は、当初予定より半年ほど遅れて1944年に入ってようやく量産が開始されたところだった。そして一時期「烈風」の早期実戦配備が危ぶまれたため、保険として水上戦闘機として開発されていた機体の陸上機化を急いで行い、海軍初の重戦闘機となる「ジョージ(川西・紫電)」を開発した。どちらも2000馬力級の空冷エンジンを搭載し、アメリカ軍の「F6F ヘルキャット」や「F4U コルセア」と同程度の能力を持つ優秀な機体だった。マリアナ諸島に一部配備されていた機体は、これら二機種だった。(※海軍型の「トージョー(二式戦)」も姿を見せている。)

 話しが少し逸れたが、マリアナ諸島への空襲後にアメリカ軍は、またしても以前と同じ選択を迫られていた。
 万全の体制な訳ではない性急な作戦で、相手が最も強固に防衛するストロング・ポイント(要衝)に侵攻し、制空権の確保に大きな不安を感じていたのだ。つまり、このまま戦い続けるか、一度撤退するかの二者択一を迫られる事となった。幸いパラオの時と違って、まだ時間があった。
 そしてここでハワイに進出していた太平洋艦隊司令部は、一つの提案をアメリカの中枢に実施する。
 今回のマリアナ諸島に対する作戦は、セイロン島での円滑な作戦の為の日本海軍主力を引きつける大規模な陽動作戦であり、また今後の本格的なマリアナ諸島攻略のための前哨戦でしかないと、時期を見て公表するというものだ。セイロン島作戦は、日本海軍主力さえいなければ成功が約束されたような作戦なので、市民に対する説明も容易となる。
 日本海軍はマリアナ近海に殺到しつつあるが、上陸部隊の到着していない今なら撤退も容易い。このまま事態が推移すると、翌日には是が非でも作戦を続けざるを得なくなってしまう。
 そして恐らくは、日本軍の相対的優位な制空権のもとでの艦隊決戦が発生する。制空権が得られないまま戦えば、艦隊戦で不利なばかりか、サイパン島攻略を始める上陸船団の数万の将兵を失う可能性も出てくる。しかも艦隊の中核の担う戦艦戦力では、依然としてアメリカ海軍(連合軍)の方が不利だった。
 理性としては、ここで一度退いて2〜3ヶ月程度の時間を置いて、改めて侵攻作戦を行うべきだった。回復力では、アメリカが断然勝っているからだ。3ヶ月あれば、新規の大型艦艇を数隻迎え入れる事もできる。そしてマリアナ諸島の攻略は戦略性が高く、賭博性の高い作戦は回避するべきだった。
 だが、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、彼にとっての後がない為、作戦続行を命令した。理由として、規定の作戦の変更は難しいと説明されたが、後世の評価はルーズベルト個人の思惑だというのが通説だ。ただし上記した内容は、作戦立案段階でも議論されていた事なので、前線での短期的な作戦の齟齬だけで今更戦略レベルでの変更も難しいというのが実状だった。
 それでも作戦に一部修正を認め、上陸船団は戦況が有利になるまでエニウェトクに一時留め置き(ただし最大48時間の猶予しかない)、まずはマリアナ諸島近海に集結する日本艦隊を最優先で撃滅するように改めて命令を下した。
 今の時点で、アメリカというより目前に迫った大統領選挙に必要なのは、マリアナ諸島を奪うことではなく、2年半前に惨敗を喫した日本海軍を撃破することだったからだ。
 この命令に従い、アメリカ艦隊は西への移動を開始。マリアナ諸島から少し距離を置いて、日本艦隊を引き寄せる動きを取り始める。前線の艦隊も、目的を一つに絞ったことで勝利の可能性が高まると士気も上がった。
 なお、上陸船団を支援する艦隊も後方に留め置かれる事になり、マリアナ諸島近海は機動性の高い艦隊だけとされた。ここで上陸支援任務の予定だったイギリス艦隊が問題となったが、イギリス側の要望により前線に留め置かれ、アメリカ海軍の主力艦隊と行動を共にすることになる。

 10月24日、ついに日本艦隊は、空母機動部隊、戦艦部隊それぞれがマリアナ諸島北西並びに西方海上へと進出した。
 旗艦《大和》《大鳳》など各艦のマストには、必ず勝利しろという意味合いを示す「Z旗」が翩翻と翻った。かつてのツシマ沖海戦と42年春のパラオ沖海戦でも掲げられた信号機で、日本の命運を賭けた戦いの時にだけ掲げられる旗でもあった。

 パラオを出撃した「八八艦隊」を中核とする強大な主力艦隊は、そのままマリアナ諸島目指して許す限りの速力で突進した。本土から南下してきた、まだこの時点でもパラオ以後の世界最強のタイトルホルダーを持つ空母機動部隊は、マリアナ基地群と共同で大量の索敵機(偵察機)を放ち、アメリカの空母部隊を探した。制空権さえ奪ってしまえば、自分たちが負けるわけがないという自負が漲った動きで、各艦隊は非常に活発に活動していた。
 アメリカ側も多数の偵察機や潜水艦を放っていたが、日本の第一機動部隊との距離がまだ開いていた事と、予想以上に多かった対潜哨戒機の動きと、何より日本艦隊が自らの制空権内で激しい機動を続けていたため、なかなか捕捉できなかった。しかもアメリカ軍が作戦を急いだため、潜水艦の展開数も十分ではなかった。
 そして両者共に、なかなか相手を見付けることが出来なかった。日本側はアメリカ艦隊がもっと西に位置しているという前提で偵察機を放っており、アメリカ側は偵察密度の問題と日本側の予測を越えるほどの積極的な動きのため捉えられずにいた。
 そうした中で、敵艦隊を発見したのは日本側だった。
 日米の差は、日本軍側の自軍勢力圏と迎撃という二つの重要な要素による偵察網の濃さの差がもたらしたものだった。またアメリカ、イギリスによる多数の連合軍艦隊が、比較的広い範囲で展開していた事(15〜20海里間隔)も日本側の発見につながっていた。
 しかし距離と時間が問題だった。
 距離は、互いの空母機動部隊本隊から約300海里。時間は午後3時。北回帰線に近いので、日没はだいたい6時頃。つまり後三時間で太陽が没してしまい、黄昏の残滓を考えても通常の空襲が難しい時間だった。しかも帰投は確実に夜になってしまう。空母艦載機が攻撃を行える状態では無かった。
 事実アメリカ側は、日本軍の高速偵察機「彩雲」に最初に発見された時点でも、今日の航空戦は既にないという判断を下していた。(※アメリカ軍が、日本軍艦載機の行動半径をもう少し小さく見ていた点も重要だ。偵察機もマリアナ諸島から飛んできたと考えていた。)
 だが、日本側には強い焦りがあった。日本側は、アメリカ艦隊がマリアナ諸島に対する初期の航空戦での損害に懲りて、一時的であれ撤退しようとしているのではないかと考えたのだ。そしてマリアナ諸島の航空隊が受けた損害も大きく、ここでアメリカ海軍の艦艇を1隻でも多く沈めておかなければならないと判断していた。アメリカには二の矢、三の矢と無限にあるが、日本がつがえられる矢は常に一本しかないからだ。
 戦力の増強と補充が難しい日本側には、「次はない」という危機感が強かった。
 かくして小澤提督に率いられた日本海軍第一機動部隊は、全戦力を投入した薄暮攻撃を決意する。
 攻撃隊は母艦からの発艦の関係で二波に分かれるが、母艦への帰投が難しい場合はマリアナ諸島各島への着陸を許していた。また艦隊もこのまま前進を継続し、帰投を楽にするため少しでも相手との距離を詰めることにした。幸い風向きは、ほとんど進行方向だった。別行動で進んでいた主力艦隊も、燃料と速力の許す限り敵艦隊に向けての突進を続けた。日本艦隊主力の位置は、日本側の焦りがもたらす過剰な前進速度のため、アメリカ海軍が想定していた場所よりもずっと東に移っており、アメリカ軍は事前配置した潜水艦ですらこの事を知ることが出来なかった。日本艦隊は、自らの焦りからアメリカ軍の偵察網をすり抜けていたのだ。
 なお、第一機動部隊の稼働可能な艦載機総数は約630機。日本海軍の方針もあって約半数が戦闘機。このうち120機が完全な直援機(迎撃戦闘機)になるので、約500機を攻撃に放てることになる。しかし薄暮攻撃、夜間着艦という高い技量を必要とする戦闘のため、未熟なパイロットは攻撃隊から外され、最終的に飛び立った機体数は第一波324機、第二波128機の合計452機となった。
 攻撃隊の規模は、日本海軍が放った今までで最大の数字だった。第一波が非常に多いのは、大型、中型空母のほとんどが飛行甲板に多くの機体を露天搭載していたからで、簡単に戦力増強できる点も空母の大きな魅力と言えるだろう。
 ただし、機動部隊の決断が急だった事などから、マリアナ諸島各地からの攻撃は行われなかった。行われていれば、さらに大きな戦果があったと言われる事も多いが、既に攻撃力の多くを消耗していたし、実質的に知らせを受けた時点から攻撃隊を準備しなければならないため、物理的に不可能だった。(※ただし、一部の攻撃隊が夜間攻撃の準備を行い、実際出撃した。)

 午後5時45分頃、アメリカ艦隊が自らの防空隊を収用している頃、艦隊主力から少し離れたピケットラインに位置していた駆逐艦が、未知の大規模な編隊を捕捉する。数は次々に増え、そのうちレーダースコープの一部が真っ白となった。機械の故障や電子妨害の為ではなく、余りにも捉えた機体の数が多かった為だった。
 この時点でアメリカ側の艦載機のほとんどは、収用のため艦隊上空にまで戻っており、アメリカ海軍が苦労して作り上げた高度な防空の傘は殆ど無くなっていた。各母艦に収用された機体も、既に半数以上に上っていた。いまだ飛んでいる機体の多くも、既に燃料の多くを消費していた。
 そしてがら空きとなった空を、日本の艦載機が当時世界で最も速い洋上での進撃速度で突き進んだ。
 この時までにアメリカの空母機動部隊は、高速空母7隻、艦載機数は予備機を組み立てても450機近くに低下していた。マリアナ諸島への攻撃で撃墜された機体は30機程度だったのだが、《プリンストン》沈没による大量損失と、各母艦への着艦時の事故で損傷破棄が多かったからだ。残る艦載機のうち200機以上が戦闘機だったが、午後6時頃空中にあった機体数は50機程度しかなく、しかも燃料が大きく減っている機体が多かったし、飛んでいる高度もおおむね低かった。
 また50海里ほど離れた位置に、護衛空母群の2群が損傷艦を労りながら、機動部隊よりもゆっくりと移動していた(※艦隊巡航速度は、わずか12ノット程度しかない)。こちらも約200機の稼働機のうち半数以上が戦闘機だが、既にその殆どが各母艦に降りていた。
 さらに、両者の中間から少し西側に、戦艦部隊が2群に分かれて陣取っていた。本来なら日本艦隊と雌雄を決するため前に位置していたのだが、この状況ではほとんど囮か殿の状態だった。
 日本軍の大編隊は、途中視界に入った戦艦の群は無視した。まずは制空権を得るための空母が目標だと命じられていたし、アメリカ軍が撤退しようとしている場合に優先すべき目標は空母だったからだ。戦艦を狙っても良いのは、余力がある場合に限られていた。戦艦ならば「八八艦隊」や《大和型》が確実に撃滅出来るという自信が、この時の判断となっていた。
 しかし全ての機体が、優先攻撃目標とされていた高速空母群を攻撃したわけではなかった。最終的には全体の約30%、約140機の機体が、少し離れた場所で発見されていた護衛空母群を攻撃していた。各機動群ごとの編隊で進撃した為と、夕闇が迫っていたため見誤ったのだ。

 散発的な防空戦闘機のインターセプトと、今までにないほど濃密な対空砲火をかいくぐり、インドでの消耗から1年以上かけて再建された日本海軍の空母艦載機の群が、こちらも再建されたばかりのアメリカ軍の空母機動部隊へと襲いかかった。
 アメリカ艦隊の上空に残った「F6F」戦闘機も果敢に迎撃に出たのだが、数に勝る日本側の制空戦闘機部隊の献身的な制空戦闘に拘束され、ほとんど攻撃隊を捉えられなかった。しかも相手が「烈風」だと、逆に撃墜、撃破されるケースが多かった。ただでさえ強力な「烈風」のパイロットに熟練者が多かったからだ。
 都合450機のうち約150機が戦闘機だったので、300機が各種攻撃機になる。攻撃機の内訳は、ほとんどが「ジュディ(彗星・艦上爆撃機)」と「ジル(天山・艦上攻撃機)」で、母艦規模の関係でこれら2機種が搭載できない一部の軽空母が仕方なく「ヴァル(九九式艦上爆撃機)」や「ケイト(九七式艦上攻撃機)」搭載していたたので、攻撃隊にそれなりの数を見ることができた。またごく小数だが、最新鋭の「グレイス(流星・艦上攻撃機)」が加わっていた(※第一航空戦隊所属の六〇一航空隊の一部だけが装備)。新型機は今までの機体よりも速度面で速いため、アメリカ軍が迎撃出来る時間が以前よりも限られた。そして新鋭機を十分運用できる大型の母艦を多数揃えられた事が、この時の日本軍の有利をより強くさせていた。《扶桑型》の改装には賛否両論あるが、パラオでの戦いの後から中型空母を一から建造していたら、この戦いに間に合わなかった可能性も高く、そして2隻合わせて120機の存在は非常に大きかった。

 アメリカ軍戦闘機は、上空にあったのが約50機。慌てて緊急発進に成功したのが約30機。日本側の方が、数において約二倍あった。しかも随伴してきた戦闘機の約半数は熟練者がかなりを占める新型の「サム(烈風)」だったため、アメリカ側の戦闘機の殆どが「F6F」に対しても十分互角に戦える状態だった。その上、アメリカ側の方が基本的に低空だった事、編隊を組む余裕のない機体が多かった事などから、アメリカ軍のインターセプターは実力通りの戦闘力は発揮できなかった。低空での格闘戦は、日本軍艦載機が有利だった。
 そして難なくアメリカ艦隊上空にたどり着いた日本軍攻撃機約300機のうち、約120機が必殺の魚雷を抱いていた。そして夕闇に紛れ、対空砲火をかわすため低空で艦隊へと突撃した。急降下爆撃機は、編隊ごとに思い思いの方角から集団で飛び込んでいった。数の少ないアメリカ側の防空戦闘機は、戦闘機隊がほぼ完全に押さえ込んでいた。撃ち漏らしたインターセプトも、最後まで護衛についていた戦闘機隊が阻止して、攻撃隊の進撃路を切り開いた。
 そして眼前に、濃密な輪形陣を敷くアメリカ海軍が再建したばかりの空母機動部隊が展開していた。
 攻撃は日本軍攻撃隊にとって極めて過酷なものとなった。
 当時の技術の粋を集めたアメリカのシステマティックな防空網は、今までにないほど濃密で正確だったからだ。しかし日本軍機は、空が爆煙で黒く染まる地獄のような対空砲火の中を、仲間が落とされながらも敵艦に肉薄して次々に攻撃を命中させていった。
 鉄壁と宣伝された機動部隊上空で制空権を奪われる重大な失態を侵したアメリカ軍は、優れたレーダー連動射撃、VT信管、無数の機銃により濃密な対空弾幕を形成した。だが、甲板より低い高度を進む雷撃機には効果が低かった。それに飽和攻撃となった敵の進撃を、対空砲火だけで防ぐのは不可能だった。この時受けた攻撃が、戦後にアメリカ海軍に革新的な防空システムを作らせる大きな切っ掛けになった程だった。一方では、航空機を防ぐのはやはり航空機だという認識も持たれた為、この戦争で示された制空権を取る戦闘が正しいという考えを補強する事にもなった。アメリカ海軍が、長い間制空戦闘機に拘ったのもこのためだ。

 夕闇迫る海上では、空を黒く染め上げるほどの弾幕が打ち上げられた。アメリカ艦隊のそこかしこでは、爆炎があがり水柱が奔騰した。一方で多くの日本軍機が、ある機体は目的を達した後に、またある機体は目的半ばにして流星のように落ちていった。アメリカ軍の迎撃は熾烈を極め、空母を守るために魚雷の進路に割って入った巡洋艦までが出た。
 不意を打たれたとはいえ、アメリカにとっても負けるわけにはいかない戦いだったからだ。
 しかしこの戦いは、薄暮攻撃、飽和攻撃の二つを合わせて行った日本海軍の勝利だった。
 アメリカ軍が再建した空母機動部隊は、ほぼ全てが戦争が始まってから就役した艦艇で固められていたが、艦隊中枢部に陣取る空母は次々と被弾し、そして戦闘力を失っていった。
 対空砲の射程圏外から観測していた複数の日本軍の「彩雲・艦上偵察機」は、軍事専門家から特上の観覧席と言われる事もある神の視点での報告を艦隊司令部に送り続けた。
 薄暮攻撃による日本軍の最終集計は、攻撃機の半数近い損失の代償として、全体の約9%、28発の命中弾(直撃弾のみ)を得て終了した。さらに自爆突入機も3機出ていた。これはアメリカ軍最終的な集計結果で、日本軍はもっと大きな戦果が出て、一時は完全にアメリカ軍空母機動部隊を撃滅したと判断した程だった。薄暮だったため、優秀な偵察機要員が冷静に観測していても誤認が多かったからだ。
 命中弾のうち11発が魚雷で、多くが低速で対空密度が格段に低い護衛空母群で発生していた。また至近弾もかなりの数に達し、至近での水中爆発で数隻の艦艇を損傷させている。加えて、損傷した自爆機の3機の突入が加わるため、アメリカ軍艦艇の損害はさらに増えた。
 そして対価の代償として得た戦果は、《エセックス級》空母《フランクリン》大破、《イントレピット》中破、《インディペンデンス級》軽空母《ベロー・ウッド》と《カウペンス》の撃沈、護衛空母3隻撃沈、護衛空母2隻大破、軽巡洋艦1隻大破、駆逐艦1隻撃沈、駆逐艦1隻大破という大戦果だった。
 防御が無きに等しい商船改造の護衛空母は、1〜2発の被弾で沈むか大破した。《インディペンデンス級》軽空母は過積載による誘爆こそ無かったが、やはり1万トン程度の艦艇では耐えられる攻撃には限界があった。《エセックス級》は流石の頑健さを示したが、魚雷による被弾には弱く《フランクリン》がほとんど動けない状態に追い込まれた。
 そして、前日の軽空母《プリンストン》と護衛空母1隻の撃沈、護衛空母2隻撃破の戦果を加えると、アメリカ海軍の空母機動部隊はほぼ壊滅状態となる。
 航空機運用可能な健在な母艦は、初期の半数を下回る大型2隻、軽空母1隻、護衛空母4隻にまで減少していた。艦載機数も、多く見積もっても250機程度にまで減少していた。戦力的には、作戦開始前の30%程度の数字でしかない。軍事的な表現では、全滅や壊滅と言われる損害度合いを越えていた。
 こうなっては空母以外が無傷でも作戦続行は難しく、ましてや日本艦隊を引きつけての艦隊決戦どころではなく、作戦はそのままなし崩しに全面的に中止となった。制空権のない戦いなど、近代戦では成立しないからだ。

 作戦中止の決定にもワシントンではかなりの時間を要し、最後はキング海軍長官がルーズベルト大統領に「太平洋艦隊が全滅しても構わないのか」と語気も荒く詰め寄ったと言われている。
 しかし撤退するにしても、損傷した艦艇の半数程度は魚雷も受けており、中には速力が大きく低下している艦もあった。そして日本艦隊主力が急速に迫っていることが友軍潜水艦からの情報として伝わると、魚雷複数を受けて大きく損傷していた大型空母《フランクリン》と護衛空母1隻は、キングストン弁を抜いた上に友軍駆逐艦の魚雷によって早急に海没処分される事となった。これでこの戦闘でアメリカ海軍が失った空母数は9隻にもなった。
 しかし艦隊の再編成や損傷艦を庇いつつの後退、そして夜間での作業の為、撤退が遅れた。
 一方で、追撃に移った日本艦隊も問題があった。
 攻撃を一方的といえるほど大成功させた第一機動艦隊だが、出撃機体の半数を失った上に、残り半数のかなりがマリアナに着陸していた。しかも夜間収用のため電波を出して探照灯(サーチライト)で飛行甲板を照らした為、比較的近くにいた1〜2隻のアメリカ軍潜水艦を呼び寄せることになり、緊張を強いられる艦載機隊の収用のため多くの時間を割かねばならなかった。米潜水艦からの損害を受けることは無かったが、失った時間の価値は大きかった。
 そこで追撃は西からサイパン近海へと突き進む戦艦部隊に託されたが、距離にして200海里(370キロ)以上離れていた段階で、連合軍艦隊が南東方向へと撤退を開始した。東ではなく南東なのは、マリアナ諸島からなるべく離れる為だった。18ノットで進んだとしても11時間もかかる距離で、仮に動かなかった場合でも夜明けだった。そして夜明けになれば双方ともに空襲を警戒しなければならず、日本の主力艦隊も例外では無かった。護衛の軽空母は随伴していたが、相手は正規空母複数を抱える艦隊なので、慎重さは必要だった。このためアメリカ艦隊の「逃亡」が本格的だと分かると、日本艦隊も進撃速度を調整して、まずは艦隊の合流を急いだ。アメリカ艦隊の動向が、一時的な後退と再編成の可能性も十分に予測されたからだ。
 サイパン島からはレーダーを積んだ偵察機の発進も追加で行われ、周辺海域の潜水艦も偵察活動を活発化させた。

 そして翌朝夜明け、マリアナ諸島近海に進出した日本艦隊の前には、静かさを取り戻した海が広がるだけだった。
 圧倒的戦力を有する日本の主力艦隊が急ぎ戦場に着いたが、海には僅かな漂流物しか漂っておらず強大だった筈のアメリカ艦隊は完全に撤退した後だった。
 日本艦隊が見た敵は、沈没した艦艇から脱出するも置いてけぼりを喰らったアメリカ軍水兵数名のみだった。
 もっと激しい戦いを予測していた日本側としては少し拍子抜けとなったが、アメリカ軍の侵攻作戦は日本軍が2年間かけて準備した分厚い壁に、正面からぶつかる形で敢えなく失敗するという結果に終わった。この戦いは、結果として2年前のパラオと同種の戦いであり、敵空母を多く仕留めた上で主力艦隊が温存できた日本にとってはより有効に戦術が機能したと結論づけられるだろう。米軍としては、選択肢が全くない中での愚かな作戦であり戦闘だったと結論づけられている。また別の結論としては、余程の事が無い限り、全ての戦力をぶつけて、さらにすりつぶし合うような戦闘は発生しないということだった。
 そして、マリアナ諸島を巡る最初の戦闘はこれでほぼ終わりとなったが、結果はさらに大きな波紋を投げかけることとなる。

 マリアナ諸島での戦闘から約半月後に行われたアメリカ大統領選挙で、今度こそ再選を狙っていた現職大統領で民主党候補のフランクリン・ルーズベルトが落選し、野党共和党候補のトマス・デューイが当選したのだ。
 選挙直前に、再び日本海軍にアメリカ海軍が惨敗した事が選挙民の強い感心を呼び、それが投票に大きな影響を与えたのだった。
 そしてアメリカでの政権交代は、戦争終結にまでその後大きく影響を与えていく事になる。
 この事件をもって、マリアナ沖海戦は二重の意味で日本の戦略的勝利と言われることもある。



●フェイズ16:「決戦前夜」