●フェイズ16:「決戦前夜」

 連合軍にとって、1944年は勝利の年ではなく敗北の年となってしまった。6月にヨーロッパでの総合反攻作戦のノルマンディー上陸作戦は失敗し、10月末には日本海軍に再び大敗を喫してしまった。一時的ではあるが、二つの戦闘が戦略をひっくり返してしまったのだ。

 イタリア半島への侵攻とセイロン島上陸には成功したが、戦争全体で見た限り戦局に与える影響は限られていた。ドイツに対する大規模な戦略爆撃も、戦争の決定打ではなかった。しかもドイツ軍が遂に使用に踏み切った新世代のロケット兵器(※「V-1」、さらには「V-2」)による報復攻撃によって、イギリス国民の受ける心理的圧迫はむしろ1年前よりも大きく増えていた。
 それでも連合軍は、自分たちがいずれ勝利する事を知っていた。アメリカ合衆国の巨大という言葉すら不足する生産力と国力があれば、物理的に負ける可能性は限りなく低いからだ。
 しかし二度の敗北により、連合軍は焦りを強くする。
 戦争が半年は延びたと言われる連合軍の敗北を後目に、同じ陣営のソ連邦軍が着実に西へ、ヨーロッパへとスチームローラーのように進んでいたからだった。
 ソ連邦軍の反抗は1942年冬以来幾度となく行われ、1943年秋にはドイツ軍に対して完全に優勢を保てるようになっていた。枢軸側が行ったソ連邦に対する援助ルートの途絶も、戦争の決定的な要素とはならなかった。枢軸側の戦争展開によってソ連邦の反撃も数ヶ月から半年の遅れが出たと言われるが、ソ連邦以上にアメリカの進撃が遅れていた。そしてノルマンディー上陸作戦の失敗以後は、東部戦線のドイツ軍が増強され、ソ連邦軍の進撃もその分だけ停滞した。
 だが、遅れただけだった。
 1944年内にはほぼ大戦前の国土を奪回し、さらに東ヨーロッパを急速に「解放」しつつあった。既にドイツとソ連邦では、戦力が違いすぎた。

 ソ連赤軍の進撃に強い焦りを抱いていたのは、ヒトラーを始めとする欧州の枢軸側の人々だけではなかった。
 連合軍に属する自由ポーランド、自由チェコ政府の焦りは強く、さらに自由フランスや西ヨーロッパ、北ヨーロッパ諸国の自由政府も次々に焦る側のグループに加わっていった。
 各自由政府は、自らの祖国がソ連邦に「解放」されて唐突に「人民の代表」が現れ、共産主義化、社会主義化する事を強く恐れていたのだ。既にその兆候は、東ヨーロッパ諸国で見られていた。そして焦りは、イギリス、アメリカにも伝染していった。イギリスは、ドーバーの対岸に赤い国、いや赤いヨーロッパが出来ることを強く警戒し、アメリカはヨーロッパという巨大な富と市場とドイツが持つ様々な最新技術の全てが、赤いロシア人のものになってしまうのではないかと焦ったのだ。
 とはいえ、北大西洋側からの強襲上陸は、気象条件の関係で1945年のどれだけ早くても4月に入らなければ難しいという状況に変化はなかった。こればかりは、物量で覆せるものではなかった。このため代替手段としてイタリア半島での攻勢が強化され、さらに地中海側からの南フランス上陸の可能性が本格的に検討された。だが、どちらも大軍を投じるのが難しい地形だった。
 他方では、ギリシアに対する上陸作戦も急ぎ足で進められ、1944年末頃にソ連邦軍の東欧解放(侵攻)に呼応するという建前で、ギリシアの解放作戦が連合軍の手によって行われた。
 連合軍のヨーロッパでの焦りは、ソ連邦軍の進撃が進むにつれて強まり、中にはナチスなどどうでも良いのでドイツと即時停戦するべきではないかという意見まで出てくるようになる。
 こうした混乱に際して、連合軍の調整はなかなかうまくいかなかった。
 多くはアメリカの政治が影響していた。

 1944年11月の大統領選挙で、共和党候補のトマス・デューイが当選し、ルーズベルトは失意のまま病床に伏し、アメリカは翌年1月まで政権交代の季節に入った。それでも戦争中のため、臨時措置として多くがそのまま引き継がれることになるが、やはり混乱は避けられなかった。また、デューイ新大統領の指導力も不足しがちで、連合軍内でのイニシアチブはイギリスのチャーチル首相が握ることが多くなった。
 そして、たびたび行われた連合軍首脳とソ連邦の会談においては、ソ連邦のスターリン書記長やモロトフ外相は、ドイツ全土への進撃と占領はナチスに最も多くの損害を受けたソ連邦の義務と権利だと発言。さらには、「解放した」後の東ヨーロッパでの優先権も主張した。ソ連邦側の発言と要求は時間を経るごとに大きくなり、「ソ連邦によるヨーロッパ全土の解放」まで発言するようになる。ソ連邦領内だったが、共産主義者による「フランス人民戦線」などという存在までが表に出てきたりもした。このロシア人の発言に、自由フランスのド・ゴール将軍などは怒り狂ったと言われる。
 そして政権交代したアメリカでは、民主党関係者の多くが政権中枢を去ったが、この中には多数の親ソ連邦派もしくは共産主義シンパ(信奉者)がいた。コミンテルン関係者も数多くいた。後の調査では、明らかにソ連邦に通じている者、つまりスパイもいた。外交を司る国務省の中にも、同種の人間が多数いることも徐々に分かった。極秘中の極秘だった核兵器開発の関係者にすら、ソ連邦や共産党、コミンテルンに繋がる者がいた。共産主義者の事は政権交代期にもある程度分かった為、尚更アメリカ政府は混乱した。
 そしてデューイ自身は良識あるアメリカ人の一人であり、独裁者を仰ぐ一党独裁の国に対して、必要以上に好意的に接する気はなかった。イギリスのチャーチルは、ヒトラーを倒すためなら悪魔とも手を結ぶと言ったが、共産主義は当時は悪魔により近いと思われていた。戦争の帰趨が決まりかけている大事なこの時期では、戦友として親しむよりも異端、異分子として警戒する事の方がより自然だった。
 このアメリカ国内での変化もあって、アメリカとソ連邦の関係はまだ共通の敵がいるというのに急速に悪化していった。
 こうした状況を踏まえて、1945年に入ってアメリカで新政権が本格的に動き始める頃から、連合軍内で戦争の戦略転換について激しい議論が行われた。この時の話しを突き詰めてしまえば、枢軸側諸国は全ヨーロッパの開放と全植民地の放棄、停戦後の各国軍の「無条件降伏」を条件とした即時停戦についてだった。つまり各国政府の無条件降伏には拘らなくなっていた。
 しかし、ドイツ、日本共に、少なくとも表面上はまだ戦う気満々だった。何しろ連合軍の乾坤一擲の反撃を跳ね返したのだから、戦意が高いのも当然だった。加えて無条件降伏を突きつけられたままな以上、連合軍の側からもう一度条件付き停戦もしくは一般的な降伏という話しでも出てこない限り、自らの国家の存亡と民族の尊厳にかけて戦いを止める事は出来なかった。
 ルーズベルトが口にした「無条件降伏」という言葉は、もはや連合軍、枢軸軍の全てにとって呪いの言葉となっていた。喜んでいたのは、スターリンをはじめソ連邦の中枢にいる人々ぐらいだった。
 このため連合軍としては、ドイツと日本の双方に対して自らの軍事的勝利と圧倒的優位な状況を作った上で、ソ連邦軍の足を止めるための即時停戦という方向を作り出さなければならなくなる。
 今までとの大きな違いは、目的が手段となったことだった。
 つまり枢軸側の降伏は、ソ連邦軍の進撃というより膨張を止めるための手段となったと言うことだ。
 後世のアメリカ国内においても、フランクリン・ルーズベルトの評価が二分するのは仕方ないと言えるだろう。

 戦略の変更に伴い、幾つか大きな変更が行われた。
 その中で露骨だったのが、ソ連邦へのレンドリースの大幅な減少だった。アメリカはノルマンディー、マリアナでの大敗の穴埋めのため、一時的にアメリカ軍もしくはイギリス軍へのリソース配分を増やすためだと、見るのも嫌になるほどの詳細で膨大な資料を送りつけた上で説明した。実際のところ、一部においては事実だった。当然、ソ連邦側は猛抗議したが、アメリカは自らの決定を覆さなかった。自国優先は、当たり前のことだからだ。
 レンドリースの変更にソ連邦は激怒し、スターリンは赤軍に対してドイツ、ヨーロッパへの進撃速度の上昇を「いかなる犠牲を払おうとも」という強い言葉によって命令した。また秘密裏に、対日戦の準備も急ぎ始めさせた。ソ連邦、ロシア、そしてスターリンが歴史的な栄光を掴むためには、洋の東西で勝利を得ることが必要だと、少なくとも独裁者スターリンが考えていたからだ。
 またアメリカでの兵器生産での変化は、ドイツと日本を戦略的にではなく短期戦術的にうち破る為の兵器の生産に重点が置かれた。このためヨーロッパ方面では、費用対効果の低い重爆撃機(戦略爆撃機)の生産が減らされ、戦術用の機体と大規模強襲上陸に必要な武器や道具の急速な増産が行われた。このため、ボーイング社の株価が大暴落したりもした。日本に対しては、とにかく艦艇の建造促進が促させるため、今まで以上に大型艦艇の建造が急がれることとなった。また日本向けの大型艦では、半年以内に完成し実戦配備可能な艦にリソースを集中し、他は二の次とされた。指定された建造中の艦艇は、3交代24時間操業の上にさらに他から引き抜いた工員を増員した。
 圧倒的物量を用いた安定した戦争運営を行ってきたアメリカだったが、もはやなりふり構っている場合ではなかったという事になるだろう。
 戦争は、政治へと急速に動きつつあったからだ。

 連合軍は、東西双方での次なる「決戦」の前に、行える限りの反撃を各所で実施した。
 ドイツに対しては、地中海方面での活発な活動と強襲上陸作戦で、1945年6月までにコルシカ島、サルディニア島が比較的容易く攻略された。イタリア戦線は本格的に北イタリアに移り、地中海側にドイツ軍の多くを引きつけた。そしてコルシカ島が連合軍の手に帰したことで、形の上では連合軍はフランスに上陸した事になった。ド・ゴール将軍も形式的にコルシカ島に至り、フランス全土を一日も早く解放すると宣言した。
 爆撃機の生産が減少した戦略爆撃も短期的には強化され、本来なら対日戦に使用する予定だった「B-29 スーパーフライングフォートレス」がヨーロッパに回され、ドイツ空軍が新たに繰り出してきたジェット戦闘機と死闘を演じた。ただしドイツに対する爆撃は、次の上陸作戦を目指すという目的のもと、ドイツ軍が少しでもソ連邦軍を引き留められるように仕組まれていた。
 一方日本に対しては、まずは既に上陸しているセイロン島の完全奪回が急がれた。こちらは11月内にはほぼ完了し、守備していた日本軍3個師団の僅かな残存戦力が山岳部に逃げのびて、細々としたゲリラ戦を行う程度にまで制圧された。日本陸軍はもっと長い期間の戦闘が可能と考えていたが、連合軍の戦力は日本側の予測を大きく上回っていた。セイロン島の戦いの結果に対して、ある程度の自信を持っていた日本陸軍はかなりの衝撃を受けていた。

 続いてインド北東部でも、圧倒的な軍団を揃えた連合軍が、現地日本軍に対する本格的な反撃を開始した。
 戦闘が激化したのは1945年1月半ばからで、この時までに日本軍は海路で苦労して増援や物資を運び込み、新型戦車部隊を含む戦車師団1個(戦車第二師団)を含む10個師団その他を含め50万人に増えていた。これにインド国民軍が最低でも30万人加わり、ベンガル湾からヒマラヤ山脈までの緩やかな戦線を形成していた。
 これに対して連合軍の前線には、イギリス・インド軍を中心にしたイギリス軍14個師団などと、アメリカ軍6個師団があった。アメリカ軍は第一騎兵師団など精鋭師団も含んでおり、全師団が事実上の機械化師団という強力な編成だった。
 そしてアメリカ軍は、非常に冷酷な戦闘に徹した。
 今まで現地イギリス軍、日本軍共に、現地住民に対しては出来る限り「配慮」した戦闘を心がけていたため、都市など人口密集地を戦場とする事を避け、場合によっては住民が待避するまで暗黙の了解で一時休戦する事すらあった。要するに、両者ともインド民衆を本格的に敵に回した時の面倒を嫌ったからに過ぎないのだが、インド戦線とは本来そう言うどこか前時代的な戦場だった。
 しかしアメリカ軍は、日本軍を攻撃するという目的の為に容赦なく、住民に対しては一応警告は行うが、今までのような悠長な戦闘はしなかった。また航空機による対地攻撃も大幅に強化されたため、日本軍のいる近在の住民への被害は激増した。
 「勝つ」以外の後のことを考えていない戦闘にイギリス軍は否定的だったのだが、もはや連合軍としてなりふり構わないという状況が、インドでもロシア戦線のような容赦のない地獄のような戦闘が行われることになる。日本側も戦闘が不利になるにつれてなりふり構わなくなった。このため市街戦も頻発して、今までとは桁違いの数で一般住民にも多くの被害が発生した。
 戦後、インドがアメリカを嫌うのもこのためだし、日本が莫大な事実上の戦時賠償をインド(+バングラディシュ、スリランカ、ネパール)に実施したのも当然と言えるだろう。

 そして連合軍の激しい攻勢を受けた現地日本軍は、戦闘開始前こそ「最低でも3年は戦える」と豪語していたのが、どれほど抵抗しても一ヶ月半月で戦線らしきものは崩壊した。その後は、主力部隊が何とかヒマラヤ山脈方面などの山間部や、亜熱帯の深いジャングルへ落ち延びることになる。日本側から見て「決戦」とでも呼ぶべき戦闘も一部で行われたが、殆どの場合連合軍が圧倒的な勝利をおさめた。
 戦車同士の機械化戦は、装備の差からほとんど話しにもならなかった。北アフリカでは、ドイツ軍のタイガー戦車に手も足も出なかったM4シャーマン中戦車も、日本軍戦車に対しては重戦車並の活躍を見せた。ただし、日本軍が投入した三式砲戦車と呼ばれる一式戦車のシャーシにヴォフォース社の75mm砲(無断コピー品)を搭載した対戦車自走砲は、太平洋戦線で主力だったM4シャーマン中戦車の初期型よりも優秀だった(※M4でも3インチ砲搭載型だと、火力はほぼ互角となる。)。しかも待ち伏せ戦法を多用したため、米軍戦車が思わぬ苦戦を強いられる場面も見られた。日本軍指揮官(重見少将)の名から「シゲミ」と呼ばれ、アメリカ軍戦車兵からも恐れられた。
 ただし日本軍新型戦車の数は限られており、アメリカ軍の苦戦は限られた戦術的な事象でしかなかった。米軍の苦戦は、多くは日本側が強固な陣地を構築し、それを米軍が突破しなければならない場合だけだった。日本陸軍の陣地構築は、非常に巧みだった。
 また民衆を味方に付けたインド国民軍は、後方での攪乱や補給線の寸断、サボタージュなどで大きな力を発揮し、アメリカ軍に日本軍よりも手を焼いたと言わせる程だった。
 そしてインド東部で50万の日本軍がほとんど為す術もなく消えようとしている頃、日本に対する海からの攻勢が実施される。

 連合軍の作戦目標は、再びマリアナ諸島に設定された。
 マリアナ諸島以外で日本本土を直接空襲できる飛行場を建設できる場所が西太平洋上にない以上、連合軍はまずはここを攻めざるを得なかった。フィリピンを攻めるというプランもあったが、日本を滅ぼすだけの時間はなく、屈服させる事が目的となっていたのでフィリピン侵攻が採用される事は無かった。
 しかしマリアナでは一度失敗しているため、連合軍の行動は前回よりもはるかに周到だった。
 前哨戦と言える戦いは実質的に1945年2月に始まり、アメリカ軍の空母機動部隊による一撃離脱の反復攻撃が何度も実施され、一度は数隻の高速戦艦を用いた艦砲射撃も実施された。また、半ば牽制作戦だったが、ニューギニア方面からの航空撃滅戦も強化された。潜水艦を用いた前線拠点の封鎖作戦も、より徹底された。
 さらに日本全体に対する海上交通線破壊のために、危険を冒して多くの潜水艦が、いまだ航路帯戦法で厳重に守られている両シナ海へと入った。
 この連合軍の攻撃に対して、日本軍というより日本海軍はほとんど為す術が無かった。東南アジアとの海上交通路は何とか保たれていたが、既に前線に近いモルッカ諸島方面からは対潜水艦部隊が引き上げていた。だが対潜水艦戦は、依然としてアメリカ軍の30%以上の犠牲というスコアで推移しているだけ、まだ善戦している方だった。前線が破られない限り、日本の南方航路はもう一年程度は何とか維持されるからだ。
 しかしマリアナ諸島は、もう限界だった。
 大量の武器弾薬、食料と共に強固な陣地に籠もったまま敵を待ちかまえる日々を送る地上部隊はともかく、航空隊が壊滅状態に追い込まれていた。フィリピンから増援や補充を送り込みやすいパラオ諸島はまだ大丈夫だが、3月末の時点で日本本土から1000キロほどしか離れていない硫黄島すら、制空権が維持できないほど戦力が低下していた。航空機用の防空壕などのおかげで地上での被害は限定されていたのだが、戦闘での損害を埋め合わせる前に次々とアメリカ軍が襲いかかってくるため、稼働機数は編成上の10%にも満たない状態に追い込まれた。特に、補充が難しいパイロットの消耗が激しかった。
 そして、たびたび押しよせるアメリカ艦隊を撃退するはずの日本海軍の空母機動部隊は、10月末のマリアナ沖海戦での損害から立ち直れていなかった。約半数が失われた航空機の損失は何とか補充できたが、搭乗員の手当が難しかった。航空母艦に離発着できて戦闘をこなせなければならない搭乗員の数が、既に日本海軍では貴重となっていたからだ。しかも、なまじ母艦が多数あるため、短期間のうちに全ての母艦に搭乗員を充足することは、1945年に入った時期の日本海軍では既に実現不可能だった。弓はあっても、つがえるべき矢が無くなっていたのだ。
 10月末の戦闘で約700機分いた搭乗員も、根こそぎ集めたに等しい数で、1945年春の時点でも最低限の事が出来る搭乗員の数は500機分程度しかいなかった。うちベテランの数は、戦闘機隊を中心に3割程度でしかなかった。このため日本海軍では、航空母艦のうち軽空母の何隻かを艦隊から外し、有力な艦艇(=航空隊)に搭乗員を再配置していた。また、危険分散も兼ねて母艦ごとの過積載も取りやめていた。
 むしろ幸いと言うべきか、この間新たな航空母艦の就役はなかったので、1945年春の時点での第一機動部隊に属する母艦数は、大型又は中型は6隻と変わらないが軽空母が5隻に減っていた。外された4隻は一時的に海上護衛総隊に回され、客船改装の護衛空母に代わって対潜母艦として活用されるようになっていた。だが、日本国内で徐々に深刻かしつつあった燃料問題もあるので、実質的には活動をほとんど南洋に限定されていた。
 また、これに伴い艦隊の再編も行われ、空母機動部隊は2群に再編成して、より多くの艦艇を主力艦隊である第一、第二艦隊へと充当した。制空権の維持と航空機による敵艦隊撃滅が望み薄な以上、自慢の「八八艦隊」と《大和型》戦艦で侵攻してくる敵を粉砕してしまおうという事だった。この方針に従い、旧式戦艦の艦隊動員も実施された。

 尚、日本艦隊の配置は、大きく二つに分かれていた。
 「大食らい」の戦艦群は、マリアナでの戦いを何も出来ずに終えると、ほとんど戦争中の母港といえるシンガポール近くのリンガ泊地に引き返さずに、一旦機動部隊と共に本土に戻る。大量の艦艇をシンガポールで整備するには限界があったためと、出来る限りの増強工事を実施するためだった。第一機動部隊も日本本土へと戻り、急ぎ航空隊の再編成作業に入った。
 そして主に対空装備の増強を行った戦艦群は、最低限の燃料だけ積み込むと再び戦争中最大の拠点としていたシンガポール方面へと旅だった。20隻以上の戦艦を中心とする大艦隊を長期間本土に留め置く事の長期的リスク(燃料資源問題)が懸念されたためだった。
 なお、この当時の日本本土には、まだ連合艦隊が一度や二度、全力で戦闘に及ぶだけの石油が辛うじて蓄えられていた。インド侵攻を主眼に置いてシンガポールを攻守どちらの場合でも物流の拠点とした事と、海上護衛総隊の努力、さらにはアメリカの戦争姿勢のお陰だった。大食らいの戦艦群が、長らくシンガポールを根城としていた事も大きな助けとなっていた。
 1945年春に日本が抱える船舶の総量も、懸命の造船もあって辛うじて400万トン台を維持していた。この当時海上護衛総隊の幹部(大井篤(当時中佐))が発言した、「あと一年しか戦えない」という言葉にも一定の根拠があったのだ。
 そして、20隻以上の戦艦を内地(日本本土)に長期間置いておけるほど石油事情はよくもないので、1945年2月頃のインドでの戦線崩壊に対する増援を送るという名目的な計画のもとで、多くの戦艦が兵器の増設などの改装を終えると、大戦中の本拠地としていたシンガポール近辺へと戻っていったのだ。
 そして、日本軍が張った強固な防衛線を今度こそ突き崩すべく、アメリカ軍の大艦隊が襲来する。

 両者の主要艦艇と編成の概要を見てから戦闘を見ていこう。

 ・日本海軍連合艦隊
 ・第一機動艦隊(第一群)(250機):(山口中将)
空母:《大鳳》《雲龍》
空母:《飛龍》《蒼龍》
軽空母:《龍鳳》
戦艦:《比叡》《霧島》
軽巡洋艦:《大淀》《阿武隈》《那珂》
防空駆逐艦:4隻 駆逐艦:10隻

 ・第一機動艦隊(第二群)(260機):(西村中将)
空母:《扶桑》《山城》
軽空母:《隼鷹》《飛鷹》
軽空母:《千歳》《千代田》
戦艦:《伊勢》《日向》
重巡洋艦:《那智》《足柄》
軽巡洋艦:《五十鈴》《長良》《多摩》
防空駆逐艦:5隻 駆逐艦:3隻 護衛駆逐艦:4隻

 ・第一艦隊:(伊藤中将)
戦艦:《大和》《武蔵》《信濃》
戦艦:《駿河》《常陸》《紀伊》《尾張》
戦艦:《加賀》《土佐》《陸奥》《長門》
重巡洋艦:《鳥海》《摩耶》《妙高》《羽黒》
軽巡洋艦:《阿賀野》《能代》 駆逐艦:14隻

 ・第二艦隊:(角田中将)
戦艦:《富士》《阿蘇》《石鎚》《大雪》
戦艦:《天城》《赤城》《高雄》《愛宕》
戦艦:《金剛》《榛名》
大型軽巡洋艦:《熊野》《鈴谷》《利根》《筑摩》
軽巡洋艦:《矢矧》《酒匂》 駆逐艦:12隻

(※《飛翔》《祥鳳》《瑞鳳》《日進》は、鈍足の客船改装空母に代わって船団護衛に従事。)

 ・アメリカ太平洋艦隊:(ハルゼー大将)
 ・第38任務部隊(3個機動群)(820機):
 大型空母:(6隻)
《エンタープライズ》
《エセックス》《イントレピット》《タイコンデロガ》《ハンコック》《ベニントン》
 軽空母:(6隻)
《ベロー・ウッド》《モントレー》《ラングレー》《カボット》《バターン》《サン・ジャシント》
軽巡洋艦:6隻 防空巡洋艦:4隻 駆逐艦:46隻

 ・第34任務部隊:(戦艦14隻)(リー中将)
戦艦:《オハイオ》《モンタナ》
戦艦:《ミズーリ》《アイオワ》《ニュージャージ》《ウィスコンシン》
戦艦:《アラバマ》《オレゴン》《デラウェア》《ジョージア》
戦艦:《ヴァージニア》
戦艦:《サウスダコタ》《インディアナ》《マサチューセッツ》
重巡洋艦:4隻 駆逐艦:18隻

 ・第71、第72任務部隊:(オンデンドルフ小将)
戦艦:《メリーランド》《コロラド》
戦艦:《カリフォルニア》《ネヴァダ》《ペンシルヴァニア》
重巡洋艦:2隻 大型軽巡洋艦:3隻 駆逐艦:18隻

 ・第73任務部隊(3個機動群)(440機):
護衛空母:18隻 護衛駆逐艦:18隻
 ・第74任務部隊
重巡洋艦:1隻 大型軽巡洋艦:2隻 駆逐艦:26隻

※他、船団護衛部隊など多数。

 イギリス太平洋艦隊:
戦艦:《ライオン》《コンカラー》
戦艦:《ロドネー》《アンソン》
大型軽巡洋艦:2隻 駆逐艦:8隻

※双方ともに潜水艦、後方の支援部隊は割愛。

 両軍の編成は、基本的に第一次マリアナ海戦と似ている。違いは、アメリカ側が多数の艦艇を新たに投入している点になるだろう。特に最新鋭の《オハイオ級》戦艦の《オハイオ》と《モンタナ》は、16インチ砲12門を搭載した基準排水量6万トンを越える巨大戦艦で、他の同型艦の資材と人員を割いてまでして優先し、この時の戦場に間に合わせていた。《オハイオ級》は装甲厚、間接防御力も今までのアメリカ型戦艦の完成形と言われるほど充実しており、日本の《大和型》戦艦に匹敵するか凌駕するほどの防御力を誇っていた。
 日本側も似たような状態で、《大和型》戦艦の《信濃》を何とかこの時の戦いに間に合わせていた。このため日本海軍では、他の大型艦艇(空母や巡洋艦)の建造が大きく遅れたほどだった。(※同じ《大和型》の戦艦《甲斐》の建造も急がれていたが、建造が進んでいた《信濃》の建造を優先した為に艤装中ばな上に、実質的な資材不足に陥って建造が停滞していた。)
 そして日米双方の海軍は空母を戦略の主軸に置くようになっていても、やはり最後は戦艦を用いなければ勝敗を決することは出来ないと考えていた事が非常に興味深いと言えるだろう。日米両海軍は、戦争の最後まで戦艦を「決戦兵器」と認識していたのだ。

 1945年4月1日、アメリカ海軍を中心とする連合軍の大艦隊が、何度目かのマリアナ諸島空襲を実施する。規模は今までで最大で、マリアナ諸島各地は戦力を温存するために防空壕に籠もることしか出来ない有様だった。
 この時点で日本側は、今回もアメリカの一撃離脱(ヒットエンドラン)戦法なのか、本格的な侵攻なのかを決めかねていた。だが、1945年2月頃から再びエニウェトク環礁などに連合軍の多くの艦艇が停泊していることも掴んでいたし、数ヶ月前からハワイにかなりの規模の陸軍部隊を載せた大輸送船団が入っている事も、ある程度掴んでいた。かなり優秀な無線傍受も、アメリカ軍の侵攻が近いことを伝えていた。
 このため日本海軍は、シンガポール(リンガ泊地)にいた主力艦隊を再びブルネイ、そしてパラオに進める事を決め、日本本土の艦隊も出来る限り艦載機を集めて出撃体制を整えた。
 そして翌2日、サイパン島から突然出現した敵主力艦隊に艦砲射撃されたという情報を受けて、敵の本格的侵攻と判断。さらにその日の夕方、偵察活動に徹するする事で生きながらえていた第六艦隊の伊号潜水艦の1隻から、大輸送船団がマーシャル諸島を出発した知らせを受ける。
 アメリカ側も、各所で日本艦隊が迎撃の為に出撃したことを掴んでいたが、情報は少しあいまいだった。日本側が、艦隊出撃の直前に大量の対潜哨戒機や対潜水艦戦隊(小艦隊)を出して、味方の進路を切り開いていたからだ。戦争中盤頃からアメリカ軍潜水艦を苦しめていた主に旧式機を活用した対潜哨戒機は、パラオ諸島、硫黄島にも臨時に進出して、付近のアメリカ軍潜水艦を制圧して回っていた。加えて、日本本土から硫黄島に戦闘機などの増援部隊も出しうる限り送り込んでいた。このため、日本側に対して先制攻撃の機会を伺っていたアメリカ艦隊も、情報不足から迂闊には北上できないでいた。
 なお、この戦いに際してアメリカ側は、既に日本軍の基地航空隊の殆どを壊滅もしくは封殺したので、日本艦隊に対する戦闘は積極的に行うことに決めていた。
 過去二回の戦いでは、初戦で日本側の基地航空隊との戦闘で予想以上に消耗し、そこをすぐに駆けつけてきた日本艦隊の積極的な攻撃によって敗北していた。このため今回は、自らの大戦力に驕ることなく、十分な準備攻撃を実施した後に、本格的な侵攻作戦を実施していた。そしてさらに、まずは日本側の空母機動部隊を、敵が逃げてもどこまでも追いかけるぐらいの気持ちで戦闘に望んでいた。そして全艦隊の総司令官であり、空母機動部隊を自ら率いていたハルゼー提督(大将)は、まずは日本の空母機動部隊を完膚無きまでに「叩きのめす」積もりでいた。彼の持論で言えば、他の艦艇は取るに足らない敵に過ぎず、「八八艦隊」も同様だと言うことになる。彼の意見が極端だったとしても、制空権を得ることは何よりも重要だった。

 マリアナ諸島への上陸そのものも、日本に最も近いサイパン島への上陸作戦が4月2日夕刻の艦砲射撃によって開始され、夜のうちに日本軍が砂浜の沖に敷設した機雷や障害物が強引に撤去された。そして4月3日黎明から、サイパン島南西部に広がる砂浜に対して2個師団を用いた強襲上陸作戦が決行された。
 対する日本の現地守備隊は、水際撃滅を目指して構築された強固な陣地から激しい砲火を集中させた。アメリカ側も、沖合に展開する全ての艦艇による艦砲射撃、護衛空母群れの艦載機による空襲、エニウェトクに進出した陸軍の重爆撃による爆撃など、あらゆる攻撃を実施した。そして、日本軍が開戦以来陣地構築に努めていたサイパン島の縦深のある防御陣地は極めて強固で、駐留部隊も強力だった。アメリカ軍が艦砲射撃と爆撃で十分潰したと思っていた火砲も、ほとんどが生き残って激しい砲火を浴びせてきた。大型砲、長距離砲もかなりの数が持ち込まれており、島からの反撃で被弾するアメリカ軍艦艇も続出した。短時間だが、砂浜に上陸した部隊と沖合の船団が分断される事態すら発生した。
 このためアメリカ軍上陸部隊は、海岸線の小さな橋頭堡で釘付けとなり損害も積み重なった為、早くもその日の午後には第二波だった陸軍師団の投入を決意した。そして初日の夕刻には日本軍の反撃も下火となり、海岸沿いの狭い橋頭堡には多数のアメリカ軍将兵が溢れかえる事になる。チャランカノアと呼ばれた街のある砂浜は文字通り血で染まり、海は血によってオレンジ色になったと言われるほどで、戦後はオレンジピーチと名を改めている。
 そしてアメリカ側の犠牲を省みないような激しい攻撃に対して、流石の日本軍部隊もジリジリと橋頭堡を明け渡していた。

 一方、日本側の反撃の切り札となる日本海軍は、今回もパラオと日本本土からの二手に分かれて進撃する事になる。しかも主力艦隊には、軽空母が1隻も付けられ無かったため、制空権の確保に大きな不安を持っていた。このため本土から進撃する機動部隊は、硫黄島近海まで敵艦隊をつり上げて、基地航空隊の支援が受けられるように戦う事を目指した。そして主力艦隊は、制空権の空白地帯となったマリアナ諸島に突撃して敵主力艦隊を殲滅し、さらにサイパン島に上陸した敵部隊、サイパン島沖合にいる輸送船団を殲滅しようと目論んでいた。このため各艦は、規定よりも多い砲弾を搭載していた。
 そしてこの作戦を成功させるため、主力艦隊はパラオ出撃後に一旦北方に進路を取り、この時複数のアメリカ軍潜水艦が送った報告が、日本艦隊が合流を目指しているとアメリカ軍に予測させる事になる。それが戦術的に正しかったからだ。
 そして事態は、日本側が望んだ以上に展開していく。



●フェイズ17:「最後の艦隊決戦」