●フェイズ17:「最後の艦隊決戦」

 1945年4月2日、ハルゼー提督率いるアメリカ第38機動部隊は、日本本土に近い北方に対して重点的に偵察網を形成した。そして日本艦隊発見の報告が友軍潜水艦からもたらされると、3群に分かれた合計12隻の高速空母、艦載機総数約800機の巨大な空母機動部隊のうち2群を北寄りに移動させ、サイパン島、テニアン島の制空権獲得を護衛空母群にシフトすると、残るもう一つも北へと移動させた。
 半年前の戦いで4隻の高速空母を失ってもなお、これほどの艦隊を編成できる点に、この当時のアメリカの工業生産力の凄まじさを見ることが出来る。

 発見は、日の出からまだ幾らも時間が経っていない時間で、距離はまだ500海里近く離れていたので、まずは両者の距離を詰めるべくそれぞれ南北に移動する。しかし、午前11時ぐらいになると日本側は進路を東に取り、硫黄島とマリアナ諸島北端を横切るような進路を取る。一見、マリアナ諸島の東側に回ろうとする動きにも見えたが、日本側としては硫黄島で踏ん張っている戦闘機部隊を有効に使うための動きだった。同時に、敵潜水艦の接触を断つため、哨戒圏内から外れるための動きでもあった。
 そしてアメリカ側は、この日の戦闘に及べなくなったり、また薄暮攻撃をしかけて来るかも知れないという警戒感を持った為、ハルゼー機動部隊はマリアナ諸島から大きく南へと移動していく。だが、日本側の行動のため、結局は両者艦載機を放てるだけの距離には至らず、互いの偵察機を相手艦隊上空に一度送り込んだだけで、この日の戦いを終えなければならなかった。両軍共に激しく機動しているため、潜水艦も散発的な偵察報告以外は何も出来なかった。特に日本艦隊は、アメリカ側の想定戦場から外れてしまったので、アメリカ側は潜水艦の再配置で大慌てとなっていた。

 4月3日黎明、日米の機動部隊が本格的に激突する。
 前日夜に両者一旦距離を空けるも、黎明索敵の後の即時攻撃を期して夜のうちに間合いを詰め、ほぼ正面からの戦闘を実施する運びとなった。正面からの空母艦載機同士の戦闘は、マリアナ沖では実質的に一方的だったので、対等の条件での戦いはこれがインド洋以来の戦闘と言える。
 日本側には、硫黄島の戦闘機約80機が大きめの増槽を付けて加わるため、少なくとも戦闘機の数においてそれほどの不利はなかった。アメリカ側も一連の攻撃で消耗していたので、単純な航空機数の差は「日本:アメリカ=590:750」程度で、アメリカ海軍が目指した「攻勢に際して相手の125%の戦力を用意する」という基本ドクトリンを辛うじて上回る程度だった。
 しかも硫黄島に急遽進出してきたのは、日本海軍が機動部隊と共に温存していた制空戦闘を目的とした精鋭航空部隊(第343航空隊)で、「紫電」、「紫電改」、「烈風」といった新鋭機を数多く保有していた。中には、敢えて「ジーク(零戦)」に乗る熟練パイロットもいたと記録されている。また空母部隊も戦闘機の熟練者の比率が高く、戦闘機総数は340機とかなりの戦力な上に、半数以上を「紫電改」、「烈風」としていた(母艦能力の関係で軽空母の多くが新鋭機の搭載に問題があった)。
 攻撃機も20%近くを「流星改」として、数の不足を補う努力が行われていた。ただし1944年12月7日にあった東南海地震のため、日本の航空機の生産工場の多くが被害を受けたため、日本海軍が予定していたほどの新鋭機が確保できず不安も大きかった。
 このため日本側の作戦意図は、アメリカ艦隊を出来る限り北につり上げて、自分たちのテリトリーといえる海域(空域)で戦闘する事だった。既に戦力で負けている以上、戦力がそのまま反映される航空戦での勝機が薄いからだ。一説には、日本の空母機動部隊が「囮」となってアメリカの空母機動部隊を北につり上げたと言われるが、必ずしも正しくない。日本艦隊は、出来る限り優位に戦う算段を立てていただけだった。

 この日のアメリカ空母機動部隊は、猛将として知られるハルゼー提督の精神が乗り移ったかのように、まさに猛り狂った猛牛のようだった。彼にとっては三度目の大規模空母戦だが、前の二回(パラオとインド洋)は惨敗を喫しているので、この時の戦意は非常に高かった。しかも前回もアメリカ軍空母機動部隊は惨敗しているので、艦隊将兵全員が「今度こそ」という気合いに満ちていた。
 山口提督率いる日本艦隊は、当初は多数の新鋭戦闘機を投入することで優位な防戦を展開しつつ、積極的に攻撃隊を放った。前回との違いは、遠距離からの攻撃に拘らず接近戦を挑んだ事だった。これは艦隊を率いる提督の性格の違いとも言われるが、日本軍パイロットの質の低下が影響していた。多くの攻撃機パイロットが練度面で長距離進撃が無理なので、接近戦以外の選択肢が無かったからだ。だが、硫黄島からの戦闘機隊をアテにして大規模な攻撃隊を最初に編成するなど、攻撃は非常に積極的で戦闘の原則にも外れていなかった。実際、300機以上の攻撃隊を最初に放ち、多数の護衛戦闘機によってアメリカ軍が誇る防空網を正面から食い破った。アメリカ艦隊の鉄壁といえる防空網を食い破るには、やはり優秀な戦闘機部隊が最も効果的だった。
 だが戦闘の中盤以後は、アメリカ側が全戦力を投入してきた事で、戦力差もあって防戦一方に押しやられた。アメリカ艦隊の艦載機は全て新型機で、正面から戦うと数の違いがそのまま差となった。
 特に日本側にとって痛かったのは、アメリカ軍と違って大規模な航空管制能力が無かった事だった。このため300機以上揃えた戦闘機のうち、約200機を防空戦に投入したにも関わらず、効率的な迎撃ができずに各所でアメリカ軍攻撃隊の突破を許した。
 ただしアメリカ軍攻撃隊も、苦しい戦闘を強いられた。制空戦闘機の「F6F」は日本の「烈風」に対して多くの面で劣勢で、ようやく空母艦載機として数を揃えた「F4-U」も十分では無かった。対空砲火も、日本艦隊はVT信管もレーダー連動射撃も無かったが、高射装置と連動した高角砲や無数の25mm対空機銃は十分以上に脅威だし、日本海軍独自の装備の多連装ロケット砲によって多くの雷撃機が撃墜、撃破された。
 それでもアメリカ軍の方が数が多く、統制の取れた攻撃を実施しできた。結果、開戦以来ほとんど損害を受けてこなかった日本の航空母艦の、被弾そして沈没が相次いだ。日本側が最後の航空隊(第六次攻撃隊)を放つ午後3時頃には、11隻のうち稼働数は半数以下の5隻というところまで追いつめられてしまう。5隻あったのも、装甲空母に生まれ変わった《扶桑》《山城》がいたからで、《大鳳》を含めた装甲空母群がいなければ日本側の機動部隊は完全に壊滅していただろう。3隻の装甲空母は、傷つきながらも最後まで戦闘力の完全喪失には至らなかったからだ。雷撃を警戒したロケット砲重視の兵装配置も、この時の戦闘では十分に機能して、空母に寄り添って決死の防空戦を展開した護衛の旧式軽巡洋艦などが活躍していた。空母部隊の指揮が初めてだった西村提督も、不退転と言われた態度を示すことで装甲空母《山城》から指揮をとり続けた。
 またアメリカ軍攻撃隊の一部が、戦闘後半になると直衛の《金剛型》《伊勢型》戦艦を狙った事も、日本側空母の生存率を高めていた。戦艦は防御力、対空火力が高く、アメリカ側は復讐を果たすつもりが戦力分散の愚を侵す結果となっていた。しかも、実質的には防空戦艦となっていた《伊勢型》の回避は敵味方双方から「神業」と言われたほど巧みで、かすり傷一つ与えることが出来無かった。熟練の《金剛型》2隻にも、有効な打撃を与えることは出来なかった。逆に激しい対空砲火を受けて、4隻合計で50機以上と言われる撃墜機(着艦後破棄含む)を出していた。結果として、正規空母2隻分の戦力が退役間際の旧式戦艦に翻弄され、有効に活用されなかった計算になる。

 対するアメリカ側は、防空戦ではさらに洗練された高い防空能力を発揮して、日本軍機の激しい攻撃を耐え抜いた。それでも日本側が仕掛けた初期の飽和攻撃は有効で、アメリカ軍の誇る防空網を強引に食い破った。アメリカ軍インターセプターの損害も、初期の段階で無視できないレベルに達した。
 その後も日本軍機は執拗に攻撃し、空母機動部隊はねばり強く攻撃隊を放ったため被弾は相次ぎ、アメリカ軍空母の被弾は半数以上の7隻に及んだ。だが、優れたダメージ・コントロールもあって、12隻の空母のうち3分の2の8隻が稼働状態で、損失も被弾に弱い軽空母1隻が沈んだに止まっていた。爆弾の直撃2発を受けて実質中破した空母《ハンコック》などは、損傷から2時間である程度の航空機運用能力を回復している。
 しかし、過剰なほど出撃を繰り返した艦載機の損害は、ハルゼー艦隊の予測よりもかなり大きかった。日本側の優れた迎撃機とロケット砲を含む激しい対空砲火、着艦の失敗、損傷した母艦での破壊などによって、約半数の攻撃機、爆撃機を失っていた。攻撃隊が、旧式戦艦と装甲空母に気を取られ過ぎたことも誤算だった。
 それでも空母と空母の戦いは、完全にアメリカ側の勝利だった。総合的な国力に裏打ちされた力の差が、はっきりと出た戦いとなった。アメリカ側としては、機動部隊に最後のトドメを刺し、近くにいるであろう日本の主力艦隊の半数を叩くべく、偵察の網を広げつつあった。何しろハルゼー提督の手元には、3日黎明までに呼び寄せた《オハイオ級》戦艦を含む主力艦隊の姿もあったからだ。航空戦の泰斗であるハルゼー提督は、全て自らの手で決めてしまう積もりだったのだ。

 しかしこの時、マリアナ諸島近海にいるアメリカ全軍にとって、まったくの予想外の事態が発生していた。

 4月3日午後3時15分、スプレイグ提督率いる第77-1護衛空母群は、突如大遠距離からの艦砲射撃を受ける。二線級の艦艇ばかりのためレーダー性能が悪く(新型の生産はともかく、配備が遅れがちだった)、レーダーが装備された位置も低く、また連日の戦闘で各艦のレーダーの感度が下がっていた為、レーダーによる敵の発見と日本艦隊の砲撃開始はほぼ同時だった。
 アメリカ艦隊は、自らの思いこみによって日本艦隊の奇襲攻撃を許したのだ。
 攻撃を受けた護衛空母群は、マリアナ海域に展開していた連合軍艦隊の中でも最も南西に位置していた艦隊で、これを日本艦隊が戦艦の主砲によって攻撃した事になる。
 そして距離3万メートルからの攻撃を実施したのが、日本海軍の第二艦隊(正確には《富士型》戦艦)だった。第二艦隊は、猛将と言われる角田提督によって率いられた日本海軍の誇る高速艦隊で、今まで連合軍の艦船を何隻も餌食にしてきた強力な艦隊だった。そしてその艦隊は、今度は護衛空母とはいえ空母の群を新たに餌食とした。
 《富士型》《天城型》など高速戦艦ばかり10隻を中核とする日本艦隊は、敵空母の主力が北方に存在することを味方からの各種連絡から知っており、目の前の敵が鈍足、装甲なしの商船改造空母と分かっていたので、最初から鳥打ちのように軽艦艇用に開発された対艦榴弾(三式弾)を用いて脆弱な空母を一方的に攻撃、破壊した。随伴する軽巡洋艦4隻も、発射速度の速い6.1インチ砲多数を装備するため、こうした戦闘には向いていた。
 しかもこの時、護衛空母群はサイパン島の攻撃の狭間で、すぐに出せる攻撃機、爆撃機はなく、しかも格納庫には補給しやすくするため搭載弾薬が置かれている事が多かった。攻撃隊発着間際の次ぐらいに悪いタイミングだった。
 しかも付近の天候は穏やかで、スコール雲もほとんど無く見通しも良かった。アメリカ側の目視発見が無かったのは、友軍からの各種情報を信じすぎていた事からくる一種の油断だと言えるだろう。
 第二艦隊司令部は、艦隊を解いて戦隊単位での最大戦速を命じ、同時に1隻も逃すなと麾下の艦隊をけしかけた。そして突然の日本艦隊の出現に混乱する護衛空母群は、慌てて進路を反転するも皮肉にも風下に向かって進路を取らざるを得ず、カタパルト発進するにしてもすぐに用意できる機体が無かった。日本海軍独特の天然色の水柱が次々に吹き立つ中で、けっきょく殆ど艦載機を放つことも出来ずに、短時間の間に6隻全てが沈められてしまう。中には飛び込んだ榴弾がはじけて爆沈した艦、甲板に並び始めた艦載機が破片で誘爆して火だるまになった艦など非常に悲劇的最後を遂げた艦が多く、戦死者90%以上という悲劇的結果を残すことになる。
 この護衛空母群を守っていた貧弱な排水量と装備しかない駆逐艦6隻も、空母を守るため健気に戦闘を行うも、優勢という以上の日本艦隊からアウトレンジの袋叩きにあって空母の後を追った。

 そして護衛空母の1群が殲滅されようという時、マリアナ諸島近海のアメリカ軍は方々でパニック状態に陥っていた。
 原因の一つは空からの攻撃で、グァム島を飛び立った日本軍攻撃隊が、歴史的悪名すら残す攻撃を実施したからだった。
 「神風特別攻撃隊」と呼ばれ、同攻撃隊の攻撃方法は言わずと知れた自爆攻撃だった。
 壊滅状態のマリアナ諸島の航空隊が半ば独自に判断した事とされているが、海軍、聯合艦隊でも事前に了承された作戦だったので、完全に組織的な攻撃だと言える。ただし、疑問を呈する声も少なくない。一般論としては、基地航空隊の攻撃力が壊滅して、回復できる見込みが今後極めて少ないので実施されたと言われる。また、この時点で空母部隊の実質的な壊滅が各所に伝わっていたので、その事が尚一層決断を促したと言われる。しかしアメリカ軍も、十分な制空権を確保できていないこの時の戦いでは、時期尚早もしくは不要だったという論だ。
 だが一方で、攻撃は非常に有効に機能しているし、アメリカ軍にパニックを起こさせたのも事実であり、何より当時の日本海軍航空隊の状況からはやむを得ないと言われる事が多い。戦艦など大型艦が健在でも、それだけでは戦争は出来ないからだ。
 自爆攻撃には攻撃隊の一部の約20機が参加し、主に日本第二艦隊と接触したのとは別の護衛空母群に襲いかかった。この結果、護衛空母3隻が相次いで被弾し、うち1隻が搭載していた燃料や弾薬に誘爆を起こして呆気なく沈没した。そして何とか生き残った護衛空母も、上陸船団の護衛を放り投げて全力で戦場からの待避に移った為、この瞬間サイパン島に犇めいていた上陸部隊と船団は空から丸裸になってしまう。
 護衛空母群としては、ハルゼー艦隊が戦闘機の傘を投げかけられないほど遠ざかっているとは考えていなかったのだが、大規模な作戦にありがちな相互連絡のミスだった。またこのミスは、ハルゼー艦隊が第3艦隊で太平洋艦隊に属し、サイパン島近海の艦隊が第7艦隊で支援のため陸軍の指揮下にあったことが強く影響していた。このためハワイの太平洋艦隊司令部が事態を理解するのが遅れ、さらに対応も後手後手に回ったのだ。
 そして大作戦だけに各所に連合軍艦隊がいたのだが、その中心部に日本の主力艦隊、第一艦隊が突然のように姿を現す。

 伊藤提督率いる第一艦隊の中核となる《大和》《武蔵》《信濃》の超超弩級戦艦3隻と、「八八艦隊」の半数を抱える戦艦部隊の前に絶望的心境で立ちふさがったのは、サイパン島の友軍支援を急遽中止して配置についた、旧式戦艦で編成されたオンデンドルフ提督率いる第71任務部隊だった。
 艦隊のうち、大型軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻が他の任務で戦場に間に合わず、戦艦だけでなく補助艦艇の面でも不利だった。
 しかも二線級の旧式戦艦5隻と日本海軍の最精鋭艦隊の戦艦11隻では、戦う前から結果は見えていた。主砲口径などの総合的な戦力差は、単純に見ても三倍以上あった。加えてアメリカ艦隊の後ろには、完全なパニック状態に陥った上陸部隊と上陸船団数百隻が団子状態になっていたため、アメリカ側が逃げることも出来ないし、正面から相手を止めるしか無かった。周辺には護衛の為の護衛駆逐艦なども多数展開していたが、混乱を何とか統制しようとしているため、オルデンドルフ艦隊への手助けも無理だった。
 しかも天候は穏やかで、所々に小規模なスコール雲があるだけだった。所属する戦艦の一部は徹底した近代改装で強化されていたが、相手が悪すぎた。
 オルデンドルフ提督は、今まで大西洋と太平洋の双方で功績を挙げてきた有能な提督だったのだが、出来ることは時間稼ぎしかなかった。
 しかも、別方向から同じぐらいの大戦力を抱える日本第二艦隊がサイパン島方面に突撃しつつある報告も受けていた。
 第71任務部隊にとっての頼みの綱は、近在で同じく支援と護衛任務に就いていたイギリス太平洋艦隊と、そして各所に展開している筈の空母群が有する艦載機だった。
 しかし戦闘開始直前に、戦闘海域に急行しつつあるイギリス太平洋艦隊以外の援軍が期待できず、さらに日本軍の別働隊(第二艦隊)が南西から凄まじい勢いで突撃しつつあるという報告までもたらされてしまう。
 この時、ハワイにあったアメリカ太平洋艦隊司令部は、「ハルゼー艦隊はどこにアリや?」という電文を発している。その後に付けられた、本来なら暗号傍受対策の「全世界は知らんと欲す」という何でもない筈の無作為文と共に有名になった電文だ。
 しかし、電文一つで艦隊がマリアナ近海に戻って来られるわけがなく、「魔女の釜」となったマリアナ諸島近海では、その後夕刻に至るまで日本艦隊による一方的な殺戮劇が繰り広げられることになる。

 任務を完遂しようとした第71任務部隊は、相手にたいした損害を与えられず大型艦全てが短時間のうちに沈められてしまう。しかもイギリス艦隊との合流を待つだけの時間が無かった。待っていたら、船団を戦闘に巻き込む可能性があった。
 相手が船団を目指して突撃し、しかも敵と船団の距離が近いため、目の前に立ちふさがって全力で迎撃せざるをえなかった。そして、無傷の圧倒的多数の敵を前にして、昼間の正面からの戦いでは戦力が不十分なため時間稼ぎにもならなかった。
 戦闘ではレーダーなど電子技術の優位が頼みの綱だったが、この時の日本艦隊は「三二号電探(改二型)」、「二二号電探(改五型)」などドイツからの技術も活用した新型レーダーを装備する艦が多数含まれるなど、電子技術格差が最も縮まった状態だった。実際日本艦隊の戦艦群は、電探(レーダー)を使用したかなり正確な射撃を混乱する旧式戦艦群に浴びせかけている。それ以前に晴れた昼間では、電子技術の優劣は戦闘に極端な影響を与える要素では無かった。
 《メリーランド》《コロラド》《カリフォルニア》《ネヴァダ》《ペンシルヴァニア》の旧式戦艦5隻は、ワンランク以上格上の戦艦2〜3隻が統制射撃を実施して総天然色の水柱で包み込まれ、2万メートル程度の中距離から次々に命中弾を浴びせられ、水雷戦隊が煙幕を展開するより先に撃破されてしまった。《メリーランド》が《大和型》3隻、他の戦艦が《紀伊型》《加賀型》《長門型》各2隻から砲撃を受けている。合わせて16隻もの戦艦同士の戦闘は、10斉射、15分程度で実質的に決着がついた。アメリカ側戦艦5隻は、大破後に駆逐艦の魚雷で沈められた艦が半数あったが、短時間の砲撃戦だけで戦闘力を喪失していた。
 そして残る艦艇も、随伴する巡洋艦、水雷戦隊の攻撃を受けて、さらに戦艦を仕留めた41cm砲の釣瓶打ちによって、阻止どころか逃げる間もなく短時間で撃破された。アメリカ側水雷戦隊は、突撃を砲撃で乱されて散々に被弾した為、統制の採れた雷撃は出来ず、逆に日本側の第十戦隊から受けた雷撃によって壊滅した。
 オルデンドルフ艦隊が最初から回避運動を優先しつつ戦闘を引き延ばしていたら結果が変わっていたとも言われるが、鈍足の戦艦では避ける戦闘を行うことそのものが難しく、多少の時間は稼げただろうが敵に損害を与えることもなく全滅したとも言われている。また日本艦隊がアメリカ艦隊と船団に近づきすぎていたので、艦隊での回避運動をする余地は最初から無かった。この戦いでは、パラオでの敗北以後に徹底的に近代改装された《メリーランド》《コロラド》は、随伴艦の影響もあってせっかくの特性を発揮する事も出来なかった。
 そして、とにかく多くの艦が轟沈や短時間での沈没だったため、犠牲者も非常に多かった。この時の様子を、後方で増援に向かってその後も生き残ったアメリカ軍艦艇が、「圧倒的だ」と無線で悲鳴を発したほどだった。無論だが「圧倒的」なのは、日本艦隊の方だった。
 このため、イギリス艦隊が急ぎ救援に駆けつける前に戦闘が決してしまう。

 そしてすぐ後、イギリス艦隊が望まない状態で戦闘海域へと突入した。
 形としては日本艦隊と船団の間に割って入ったので、タイミングとしては悪くなかった。欲を言えば、もう20〜30分違っていればオルデンドルフの旧式戦艦部隊との連携した戦闘も可能だった。実際イギリス艦隊は、これほど短時間でオルデンドルフ艦隊が殲滅されるとは予想だにしていなかった。しかも戦場では混乱した情報しか得られないため、イギリス艦隊は友軍との連携を期して魔女の釜となっていた戦場に突入する。
 この突撃は後世からの批判も多いが、イギリス艦隊が取った行動によってアメリカ側の残存艦艇の撤退がスムーズに行えた点は評価できるだろう。
 しかし日本艦隊としては、各個撃破の好機を掴んだも同様だった。実際、戦艦《大和》に座乗する伊藤提督は、十分な心理的余裕をもってイギリス艦隊への攻撃指示を出している。
 もちろん、日本艦隊としては船団撃滅が最優先で、イギリス艦隊は邪魔なだけだったが、将兵としては輸送船より戦艦を相手にしたいという欲求の方が大きく、日本第一艦隊は勇躍するように新たな敵に対する隊列を組み上げていった。
 イギリス太平洋艦隊は、事態が分かるようになっても、輸送船団の為に時間を稼ぐ事を十分に理解していたので、不利を承知で戦闘態勢を整え、そして日本艦隊を少しでも自分たちに引きつける艦隊運動を取りつつ砲雷撃戦に入った。だが目の前でアメリカ艦隊が呆気なく壊滅する様を見せつけられている為、士気が高いとは言えなかった。
 このため、いざ戦闘を開始するも最初から全ての面で不利で、時間をほとんど稼ぐ事が出来ないまま、自らの戦艦の多くが大きく損傷した時点で速力を活かしての待避を選択せざるを得なかった。
 そしてイギリス艦隊は、それぞれの艦がが多数の日本艦隊の艦艇から攻撃を受けたため、多くの損害を出した。
 新開発の16インチ砲と4万3000トンを越える排水量で欧州随一の座をイギリスに取り戻した巨大戦艦も、日本海軍が今時大戦に切り札として送り込んだ46cm砲と、極度に熟練した41cm砲の前には力不足だったのだ。
 しかも《ネルソン級》の《ロドネー》《アンソン》の16インチ砲弾は、17000メートルの距離で《大和型》ばかりか《紀伊型》戦艦の装甲に砲弾が弾かれていた。これは日本海軍が一種の重量砲弾(九一式徹甲弾、一式徹甲弾)を使用していたのと対照的に、《ネルソン級》の16インチ砲は少し軽量な砲弾を使用し、さらに《紀伊型》が過剰なほど近代改装を施して重装甲に包まれていたからだった。
 打倒「八八艦隊」を目指して太平洋に送り込まれた新鋭戦艦の1隻の《コンカラー》は、3斉射目の距離2万4500メートルから降り注いだ18発(交互射撃のため27発全弾ではない)のうち2発が命中し、そのうち1発がバイタルパートを完全に打ち抜いてボイラー爆発を起こして行き足を失い、その後短時間の間に集中射撃を受けて沈んでいる。もっとも同じ状況の場合、《大和型》以外が耐えることは物理的に不可能な打撃なので(《オハイオ級》でもほぼ同様)、《コンカラー》にとっては相手にした敵そのものが不運すぎたと言えるだろう。
 同型艦にしてネームシップの《ライオン》は、《紀伊》《尾張》の集中射撃を受けて数発を被弾したが、こちらは新鋭艦特有の初期故障による戦闘力喪失の方が大きな痛手で、《紀伊》に実質1斉射しかできず失意の後退となっていた。

 別の場所では、護衛空母群を粉砕後に退路をふさぐ形で迂回、そして突進してきた日本第二艦隊に対して、巡洋艦を中心とした小規模な護衛艦隊(船団護衛と艦砲射撃任務部隊)が絶望的な心境で日本艦隊の前に立ちふさがった。
 だがこちらも、回避機動で時間稼ぎをする間もなく遠距離から散々に撃ち込まれ、鎧袖一触といえる状態で粉砕されていた。もう少し進路をジグザグに取るなどの戦術を取っていればと言われる事もあるが、日本側がサイパン島という大洋の上では点でしかない場所を目指しているため、連合軍はその前に正面から立ち塞がざるを得なかった。迎撃に出た護衛駆逐艦の一部も同様で、しかもディーゼル駆動の艦が半数以上を占めていたので、煙幕展開すら十分に出来なかった。
 そして護衛の戦闘艦艇が命を賭して稼いだ時間は、あまりにも少なかった。
 連合軍側の主要な戦闘艦艇がいなくなると、あとは榴弾を用いた本当の殺戮戦となる。しかも第一、第二艦隊がサイパン島を挟み込むように突進してきたので、周辺で混乱していた船団は逃げることもままならず、十字砲火を浴びることになった。この戦闘では、連合軍が選んだ上陸箇所が島の西側と言う点が(上陸に適した砂浜はサイパン島の北西部にしかない)、日本側の攻撃を容易にし、逆にアメリカ船団の撤退を難しくしていた。
 戦闘は「サイパン・ジェノサイト」という言葉がアメリカ側の公文書に残されているほどで、いまだ船の上で上陸を待っていた1個師団を含め、4個師団と多数の独立部隊を合わせて約10万の陸兵、各種艦船に乗っていた約3万の将兵(水兵)の80%以上が、夕刻までの僅か数時間の内にMIA(行方不明=戦死)のリスト入りした。サイパン島に上陸した部隊に至っては、艦砲射撃と同時にサイパン全島の火砲及びテニアン島の長距離重砲の集中砲撃も行われた。そしてその後日本軍全軍による総反攻によって、僅かな生き残りも全軍降伏の憂き目を見ることになる。総司令官のアイケルバーガー将軍は、既に上陸していた事が幸いして待避壕で日本軍の捕虜となったが、彼が率いた精強な軍団はリヴァイアサンと化した日本艦隊の砲火に食い尽くされてしまった。
 そして一連の殺戮から正気に戻った日本艦隊は、アメリカの空母部隊に翌朝捕捉されない為、サイパン島からの友軍の万歳三唱に見送られつつ急ぎ日が没しつつある方向への待避を開始する。

 しかし日本海軍は、少しばかり血に酔いすぎていた。
 電文に怒り狂ったハルゼー提督が反転と救援を命じたアメリカ側の主力艦隊が、復仇を誓った艦隊が、急ぎ足でサイパン近海、しかも日本側が待避ルートに使うであろう進路を目指して残燃料を無視して突き進んでいたからだった。
 日本側の引き上げがもう2時間程度早ければ、これからの戦いが起きることも無かったかも知れない。


●フェイズ18:「サイパン沖の栄光」