●フェイズ18:「サイパン沖の栄光」

 4月3日午後10時頃、サイパン島を後にした日本艦隊主力は各所からの緊急電を受ける。内容は、「アメリカの主力艦隊が急速接近中」というものだった。
 これを受けた日本艦隊は、対潜警戒陣形から艦隊戦の為の各戦隊ごとの単縦陣へと変更し、主に北側の海域に電探(レーダー)搭載の駆逐艦数隻と、夜間飛行可能な観測機、偵察機に照明弾を持たせて飛び立たせた。また、この時期は艦艇から陸に上がっていた聯合艦隊司令部は、硫黄島から優れたレーダーを搭載した大型機を離陸させ、アメリカ艦隊の偵察と情報収集に努めた。パラオからも、一晩中追跡出来るようにレーダーを搭載した大型飛行艇が複数機飛んだ。
 この結果、ほぼ西南西に進む日本艦隊の後方から急接近するアメリカ艦隊の存在を正確に察知する事ができた。サイパン近海のアメリカ軍の状況も、より正確に掴むことができた。だがアメリカ側も、勝ち逃げを図る日本艦隊をほぼ正確に捉えていた。
 日本艦隊は何とかやり過ごそうとするも、アメリカ艦隊の猛追でそれも敵わないことが時間と共に明らかになった。
 この時点まで、日本側があまり正確な位置を掴んでいなかったアメリカ主力艦隊の位置は、ハルゼー提督が日本艦隊との対決のためにサイパン沖から呼び寄せたが、3日午後3時の時点ではまだ道半ばだった。このため、日本艦隊が午後7時頃に隊列を再編成して撤退を開始した時点での距離は、約110キロメートルしかなかった。
 何しろこの時のアメリカ艦隊は、夕方までは20ノット、夜になると21ノットもしくは24ノットという戦闘速度に近い燃費を無視した速度で移動していた。午後3時から日本艦隊が本格的に逃走を開始するまでに、100キロメートル以上も距離を詰めていた計算になる。この点が、日本艦隊がサイパン沖に長く滞在し続けたと言われる所以だった。
 対する日本艦隊は、最低でも制空権が得られてタンカーなどが待機するパラオに戻るためには、戦闘速度で何時間も動き続けることは出来ない状態だった。何しろ日本側は、既に数度の戦闘を行った後なので、駆逐艦を中心に残燃料が十分ではなかった。高速での追撃戦を行っているアメリカ艦隊の燃料事情もかなり危なかったのだが、互いに相手の燃料の残量については分からないため選択肢は限られていた。
 加えて日本側は、昼間の激しい戦闘の連続で将兵達は既に疲れていた。水兵達には特別配給の甘味が配給されたりしたが、疲労は明らかだった。
 そして深夜、常識を無視した速度で追撃するアメリカ艦隊主力は、日本艦隊主力の捕捉に成功する。

 日本艦隊でも、このままでは日付の変わった午前1時頃に相対距離3万メートルに達し、あと少しでアメリカ艦隊は電探(レーダー)を使って正確な砲撃してくると予測された。かといって、最も相手から遠ざかれる進路を取っても、このままの速度差だと徐々に追いつかれてしまうのも確実だった。逆に、日本側が先に「丁字」を描いて立ちふさがっても、アメリカ側も進路を変更して同航戦になる可能性が高く、既に傷つき疲弊している日本艦隊にとって長期戦は望むところではなかった。
 そして夜明けになれば、アメリカ側の空母部隊の空襲を受ける可能性が高いとも判断されていた。そうなれば、過去自分たちがしたように、海と空からの同時攻撃で袋叩きにされてしまう。
 主力艦隊全体の指揮をとる第一艦隊司令部は、幕僚内の意見の対立から一時かなりの混乱状態となったが、第二艦隊司令部からの一言が決断を促した。
 「薩摩の退き陣」。
 この言葉は、日本で最も有名な戦闘である「関ヶ原の戦い」の終盤で、敗者の側となった島津(=薩摩)の軍勢が敵を中央突破して逃げのびた故事を現している。
 そして即座に双方の位置と陣形を考慮した日本側は決断する。
 それは、ギリギリまで相手を引きつけた上で一気に反転し、急速に間合いを詰める事で電子装備の不利を切り抜け、そしてすれ違いざまに一度仕掛けて相手を混乱させ、それに乗じて一気に離脱するのだ。
 短時間でも激しい戦闘をすれば、不意の後手に回った追撃側は確実に混乱し、夜間戦闘を一度するとまとまった追撃は難しくなり、その一度の戦闘をやり過ごせば大規模な水上戦闘は以後避けられると考えたのだ。自分たちが負うリスクも少なくなかったが、「このまま何もせず死を待つよりも」という日本人独特の感情が将兵を動かした。

 一方、追う側となったアメリカ艦隊(第34任務部隊)だったが、すでに消耗している日本艦隊の追撃に対して、優越感情よりも一種の焦りがあった。
 日本側が予測した通り、夜明けから戦闘を開始して水上と空からの立体攻撃によって水上戦力の不足を補い、尚かつ敵に混乱を引き起こして確実な勝利を得ようと言う算段だったからだ。よく言われるように、レーダー射撃の優位を利用した夜戦を企図していたわけではない。
 そして夜明けになれば、友軍の艦載機が日本の戦艦群に襲いかかるので、戦艦部隊にとって開戦以来の雪辱を晴らすのがこの夜間しか無かった。だからこそ、ハルゼー提督の言葉を拡大解釈する形で、燃費無視で突進して半ば強引に日本艦隊に追いついてきたのだった。しかも追撃を成功させる為に、最も速力の速い《ミズーリ級》戦艦と重巡洋艦などを集成した「34-2任務部隊」まで編成していた(※当然だが、艦隊編成に関してはハルゼー提督の許可は得ている)。
 そして日本艦隊を水上捜索レーダーで捕捉後、さらに速度を増して距離を詰めた。
 距離5万ヤード(約4万5000メートル)を切った辺りの事だったが、対する日本艦隊は陣形を砲雷撃戦の体形に変更しつつ18ノットの速度で進み続けていた。今や夜でもレーダーで全て筒抜けのため、戦艦の数でこそ劣勢だが、アメリカ側はこの時点で自らが有利な戦闘が行えると考えていた。自分たちの方が新鋭戦艦が多いし、レーダーなど電子技術での優位を確信していたからだ。日本の夜間航空機が多数飛んでいるのは分かっていたが、動きから偵察機だと見抜いていたので大きな脅威とは考えなかった。
 そうして日付が4月4日へと変わろうという頃、アメリカ艦隊先鋒が敵との距離3万ヤードを切る直前に日本側が一斉反転を実施し、突如進路をアメリカ艦隊に向けてきた。
 戦記小説などでは、第34任務部隊指揮官が砲撃開始を今まさに命じようとしていた瞬間、と表現されるタイミングだった。

 この時の第34任務部隊は、《オハイオ級》戦艦、《ミズーリ級》戦艦、《アラバマ級》戦艦の新鋭戦艦11隻と徹底的に近代改装が施された《サウスダコタ級》戦艦3隻の合わせて14隻を有していた。これを二手に分け、戦艦部隊と水雷戦隊の合わせて4つの隊列で日本艦隊を追撃していた。
 これに対して日本側は、2個艦隊に分かれて21隻の戦艦を有しており、これまでの戦闘での脱落艦もごく僅かだったので、重巡洋艦など補助艦艇での数の優位もいまだ保っていた。陣形もアメリカ側と似通っていた。ただし、戦艦の腹の中の砲弾は既に半分如以下に減っており、巡洋艦や駆逐艦の残弾はさらに心許なかった。駆逐艦、巡洋艦の搭載魚雷も、既に半数どころか4分の1を割り込んでいた。つまり半数程度が既に魚雷を撃ち尽くしていた。
 今までの戦闘で撃沈や重大な損害を受けた艦はほとんど無かったが、度重なる戦闘で傷ついている艦は多かった(※既に大きな損害を受けた一部艦艇は、先に離脱して別個に帰投中だった。)。戦闘の連続による乗組員の疲れも大きい。だが、自らは圧倒的勝利した後ため士気は天を突くほど高く、敵主力艦隊への事実上の突撃にさらに士気を高めていた。

 今まで相対速度6〜10ノットだったものが、日本側の突然の反転とその直後からの増速により、相対速度が48〜52ノットとなった。30分で40〜45キロメートルも相対距離が縮まる事になる。距離3万ヤード(2万7000メートル)だったので、20分程度で相対距離はゼロとなってしまう計算だ。
 しかも日本艦隊は、半月ほどの月が煌々と輝いていたとは言え、夜間に単なる一斉回頭ではなく個艦ごとの回頭、つまり旋回頭を艦隊丸ごとで実施して、一気に180度逆向きの陣形を作り上げた。この動きこそが、相手に同航戦を許さない艦隊機動だった。
 まるで軍事演習や観艦式を見るような、非常に高度な技術を必要とする戦術機動であり、アメリカ側(の特にレーダー員と司令部)を呆気にとらせたほどだった。アメリカのレーダー員や伝令は、「敵急速回頭」、「西に転進」と伝えた後、「敵180度転進」と自らの言葉を疑う報告を上げた。
 月光に映された大艦隊が旋回頭する幾何学的な航跡は、アメリカ軍、日本軍双方の観測機から撮影した写真として今も後世に残されている。高感度カメラで撮られたアメリカ側の写真が有名だろう。
 「まるで月夜に舞踏を舞うようだ」と表現された見事な戦闘機動だった。日本海軍でも、日本海海戦に勝るとも劣らない戦術機動だったと誇っている。

 そして日本艦隊の回頭によって、一瞬にして緩慢な追撃戦が急激な激突へと変化した。そしてその変化に最も翻弄されたのが、アメリカ艦隊の先鋒となっていた「34-2任務部隊」だった。
 《ミズーリ級》戦艦と重巡洋艦を各4隻有する高速艦隊は、本来なら健脚を活かして逃げる日本艦隊を追いかける「猟犬」の役割を果たすはずだった。高性能レーダー(FC射撃用レーダー)に連動した主砲塔は微妙に動き続け、今か今かと砲撃開始を待っていた程だった。しかし日本艦隊は突然くるりと向きを変えて、友軍から突出しつつあった「34-2任務部隊」を左右から挟み込むように突進してきた。
 このため「34-2任務部隊」は、わずか10分程度だが友軍から孤立した状態に陥った。しかも自らの攻撃も、一旦反転離脱するか攻撃するにしても左右どちらの敵を攻撃するかで一瞬の躊躇があった。位置関係や速度が大きく変化したため、砲撃のためのデータも殆ど取り直しとなった。加えて、相手は反航戦を企図しているので、自分たちがT字を描こうとしても逆に進路を変更するだけなので、現状と大きな違いが発生しない事も判断を躊躇させる材料となった。
 また咄嗟の事態に対して、今まで露呈しなかった乗組員全般の練度の不足が行動の遅れとなって現れた。練度の不足は、パラオやインド洋での敗北によるアメリカ海軍全体の熟練水兵不足が原因で、戦艦には優先して熟練兵と優秀な水兵が配置されていたが、急速に戦艦戦力を整えた事が熟練水兵の充足に足かせとなっていた。
 そして何より、突然攻撃を受ける側となった心理的衝撃が大きく、全てが後手後手に回ってしまう。
 そしてそこに日本軍の観測機が落とした照明弾が各所で煌めき、日本艦隊の砲撃が傲然と開始される。生き残った「34-2任務部隊」の将兵が一瞬我を忘れたほど、見事な一斉射撃の開始だったと言われる。
 日本艦隊の陣形は、隊列が完全に逆転していたが、もともと10隻単位も戦艦を一つに連ねる気がなかったので、ほぼ戦隊ごとの各戦艦の隊列は距離2000〜3000メートルを空けて2ないし3つに分かれていた。艦隊決戦陣形となる長い隊列を組まなかったのは、長期戦やアメリカ主力部隊との正面からの戦いを想定していなかった為だった。また、前日の戦いで戦隊ごとの戦いに慣れていた事も、この時の陣形に影響していた。昼間の旧式戦艦相手の砲撃では無様な姿をさらした最新鋭艦の《信濃》(※いまだ艦内に一部工員を乗せ、書類上で竣工、就役した状態だった)も、一連の戦闘で他と遜色ないほどの砲術技量に達していた(※これには疑問も多い)。この戦場で最も旧式ながら歴戦の《金剛》《榛名》も、いまだ意気軒昂だった。

 そして突出した形の「34-2任務部隊」は、日本艦隊の戦艦部隊から集中砲火を浴びることになる。
 それでも大型の高速戦艦を中心としているので相応のカウンターを見舞えるはずだったが、《ミズーリ級》戦艦には戦艦としての大きな欠陥があった。高速戦艦としての設計を重視したにも関わらず、設計上の問題から高速発揮時の航行性能が低く、艦の振動が大きい言われる事も多かった。初期設計の段階で欠陥が分かったため、艦の幅を大きくしてパナマ運河の通過を諦めるなど大きく見直されていたのだが、設計を改めてなおも目に見えない欠陥があったと指摘される事が多い。
 理由はともかく、高速を出している時は砲撃の命中精度が数字で現れるほど悪いのは間違いなかった。加えて、当時のアメリカ戦艦標準のスーパーヘビーシェル(超重量砲弾)の影響もあって、特に遠距離射撃での主砲の散布界(砲弾のばらつき)もかなり悪かった。
 そしてこの時の「34-2任務部隊」は、ほぼ最大速力の速力30ノットで日本艦隊を追撃中だった。当然ながら、この時の戦闘でも命中率の酷さが如実に証明されてしまう。
 日本側が覚悟していた激しい砲撃と損害を殆ど受けることなく、相手側をほぼ一方的に攻撃する事ができた。高速発揮に加えて、当日、戦闘海域の波が比較的高かったことも、アメリカ軍の不利に働いていたからだった。かたや日本海軍にとって、マリアナ諸島近海は自分たちの庭のような海であり、日本海軍の艦艇はこの海で戦うことを第一に設計されていた。中でも大型戦艦は、アメリカ海軍の艦艇よりもはるかに安定性が高かった。しかも乗組員は、マリアナ近海の海に慣れていた。
 この時のアメリカ艦隊の様子を、「ガントレット」や「鋼鉄のミキサー」と呼ぶ事もあるが、それほど多数の砲撃を「34-2任務部隊」は短時間の間に受けることとなった。そしてアメリカ主力艦隊が砲撃を開始するまでの約15分間に、「34-2任務部隊」は戦闘力を完全に喪失していた。損害は戦艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦の例外はなかった。この時の戦闘を、第一次世界大戦のドイツ巡洋戦艦艦隊の「死の騎行」と比較することも多い。
 日本側が敵の撃滅ではなく撃破による自らの離脱を目論んでいたため、個艦ごとに徹底した砲撃を受けることは少なかったが、その反面被弾した艦艇は非常に多かった。その上、多数の砲弾が飛び交ったため、幸運もしくは不運な一弾も1発や2発ではなく、1発の砲弾で轟沈した不運な艦も1隻や2隻ではなかった。
 「34-2任務部隊」が受けた最終的な損害も、戦艦1隻轟沈、1隻大破、2隻中破、重巡洋艦1隻沈没、2隻中破など、戦力としてはほとんど全滅だった。司令部は生き残っていたが、日本艦隊の追撃どころではなくなっていた。艦隊はバラバラになり、各所で離脱する艦、立ち往生する艦が溢れ、夜間と言うこともあって艦隊行動は完全に不可能になっていた。生き残った艦も、救助などで身動きが出来なくなっていた。

 日本艦隊の突然の行動に対して、急ぎ戦闘加入したアメリカ主力艦隊である「34-1任務部隊」だが、慎重な行動を選ばざるを得なかった。
 短時間での「34-2任務部隊」の壊滅で既に数で二倍の差が開いている為、自らも「鋼鉄のミキサー」に突撃する危険は避けて、距離2万7000メートル(3万ヤード)で日本艦隊を横切る所謂「トウゴウ・ターン」を行い、混乱を避けつつ正確なレーダー射撃を実施しようとした。訓練を重ねたレーダー射撃と夜間という優位を、本来の形で有効活用しようとしたのだった。だがこれも、少し前方で「34-2任務部隊」が陣形を大きく乱した状態で進路を塞いでいたので、万全の体制には遠かった。アメリカ艦隊は東側に少し遠のく形で日本艦隊に接近しなければならず、アメリカ同航戦を形成する機会までが失われていた。
 これに対して日本艦隊は、自らの位置関係もあってアメリカ艦隊に対して予定通り反航する形に進路を取り、日本側が戦隊ごとに機動しているため長時間の砲撃戦とはならなかった。
 日米の主力艦隊の間には、混乱が続き燃えさかる艦艇で溢れる「34-2任務部隊」がいるため、これが一部で遮蔽となると同時に、戦場の一部を照らし出してすらいた。
 日本艦隊の一部には、戦艦数で圧倒的優位に立ったので全面的な攻勢に転じるべきだという意見具申もあった。だが、数は多くても既に損傷している艦があり、乗組員も疲労困憊して、何より砲弾、魚雷も不足している事を司令部は重視し、差し違える可能性もある敵の撃滅よりも、次(朝からの空襲)に備えるための戦闘と離脱を選んだ。また、一度の戦闘で日本艦隊も少なからず陣形の乱れを生じていたので、艦隊司令部は正面からの戦闘よりも戦いつつの離脱を優先とした。
 この時の砲撃戦では、日本側は自らの混乱を最小限とするため戦隊ごとの統制射撃で1隻の目標を狙う傾向をさらに強くした。
 アメリカ側は、レーダー射撃を効率的に行うためまずは自らに近い側の戦艦隊列に砲撃を集中した。アメリカ側の砲火が集中したのは、特に一番アメリカ艦隊に近い第一艦隊の《大和型》戦艦3隻の隊列が砲撃を最も受けることになった。また、進路変更の際に第一艦隊より先行する形になった第二艦隊でも、大戦前まで世界最強だった《富士型》戦艦が主に敵の砲火を受けた。
 だがこの事は、日本側にはむしろ幸いした。《富士型》戦艦は大戦前の就役だが完全な対16インチ砲弾防御を有していた。その上近代改装で、一部装甲を強化したりバルジの装着も実施していた。主砲天蓋も変更して強化しており、装甲の一部は46センチ砲弾にも対応できる防御力を有していた。この強化は、アメリカ側の50口径砲に対応する為のものだった。
 《大和型》戦艦は、この時の砲撃で3隻のうち2隻が実質大破と言われる判定中破の損害を受けたが、1隻たりとも脱落する事がなかった。どの艦も10発以上の50口径16インチ砲弾を受けたが、戦艦とは対応防御といって自らの砲弾に重要区画(バイタルパート)が耐えられるように作られている。《大和型》戦艦の場合は、距離2万から3万メートルから撃ち込まれる自らの46センチ砲弾に耐えることを意味している。実際、バイタル・パートに命中した16インチ砲弾を見事にはじき返している。また幸運にも恵まれ、水線下への大きな損害もなければ、舵やスクリュー、艦橋など司令中枢も破壊されなかった。当然ながら、世界で最も強固な装甲で鎧われたバイタルパートには、1発の進入も許さなかった。平然と航行しつつ有効な反撃までしてくる状況に、砲撃しているアメリカ側が恐怖したほどだった。
 そして《大和型》戦艦の異常なまでのタフネスさにやや隠れがちとなったが、両者共に短くも激しい砲撃戦を実施し、約20分間の砲撃戦で多くの艦が被弾した。

 一方のアメリカ側は、日本側が戦隊ごとによる「統制射撃」を実施したため、11隻中5隻の戦艦に日本艦隊からの砲弾が集中した(※《金剛型》2隻は、規定の方針通りに接近する敵の巡洋艦を、距離1万5000から2万メートルの距離から探照灯照射までして砲撃した。)。このため、夜間での距離を開けた戦闘で命中精度に劣る日本艦隊の砲弾だったが、多少の不利は関係ないほど一部の艦が短時間の間に致命的な打撃を受けていった。しかも日本艦隊は、この頃までにある程度のレーダー射撃能力を得るようになっていたため、夜間戦闘の不利も極端なものではなくなっていた。全ての艦が「二一号」と「二二号」の改良型を搭載し、一部の戦艦、重巡洋艦は「三二号」と呼ばれるかなり高い精度を持つ水上捜索レーダー(※初期のSGレーダー(水上捜索レーダー)以上の性能で、他の照準装置と併用することで砲撃にも限定的に使用可能)を搭載している艦もあった。レーダー開発の促進は、大戦中のイギリスからの技術獲得とドイツとの技術交流の結果だった。
 レーダーの事は、先のサイパン島での戦闘でも立証されていたのだが、この時の「34-1任務部隊」が知るには至らず、アメリカ側は予想以上に日本側の夜間射撃が正確で命中弾が多い事に多くの疑問を感じる事になる。とはいえ、激しい戦闘だったため疑問を感じているどころではなく、各所で多くの損害が発生した。
 加えて日本側には、照明弾を落とす偵察機と観測機がまだ上空に残っていた。多くの艦が被弾しているため、炎による明かりまであった。そして従来の光学照準の戦闘では、歴戦の日本艦隊は世界一の技量を有していた。しかも中には、着弾観測までしている機体(巡洋艦搭載の夜間偵察機)まであったので、命中率はかなりの高率を示していた。
 日本艦隊は、まずはアメリカ艦隊の先頭集団に集中射撃を実施した。砲撃を受けたのは《オハイオ級》戦艦の《オハイオ》《モンタナ》と《アラバマ級》戦艦4隻で、アメリカ型重防御戦艦の完成形とすら称えられた《オハイオ級》も、想定以上の46センチ砲弾の猛威の前には自慢の防御力も為す術が無かった。
 しかも艦隊旗艦である《オハイオ》が《大和型》戦艦3隻の集中射撃を受けて、被弾による故障もあり僅か13分で戦闘不能、指揮統制不能に陥った為、その後アメリカ艦隊は陣形も戦闘も大きく混乱する事になる。アメリカ艦隊がすれ違った後の追撃や戦闘がうまくできなかったのも、旗艦が早々に戦闘力と指揮能力を失ったからだった。急ぎ足の追撃戦を企図した艦隊司令部も、司令室ごと消えて無くなっていた。
 なお《オハイオ》が戦闘力を失ったのは、被弾による損害が原因だったが、同型艦の《モンタナ》は数斉射で主砲の半分が故障などで使えなくなっているので、この点はアメリカが新鋭戦艦の投入を急ぎすぎた弊害だった。建造と実戦配備を急いだことによるハード、ソフト双方の面での影響が大きかったのだ。
 その《モンタナ》も《紀伊型》戦艦4隻の集中射撃を受け、故障も相まって短時間で戦闘力を失ってしまう。特に水面下に命中した1発の砲弾の為、大きく浸水したうえに機関の4分の1が破壊されたので、戦闘中盤からは隊列からも離脱したほどだった。
 アメリカ艦隊で最も戦力価値が高いと言われる事の多い《アラバマ級》各艦も、他の八八艦隊の戦艦群から各艦が戦隊単位での砲撃を受けた艦は、敵を仕留めるよりも生き残ることを優先する戦いを選ばざるを得なかった。
 そして両者が交差を始めるぐらいから、日本側の各戦隊は次の目標に集中した。今度は、後方で隊列を組んでいた「八八艦隊」の本来のライバルである《サウスダコタ級》戦艦などが砲撃を受けた。
 《アラバマ級》や近代改装された《サウスダコタ級》は故障などは殆ど無かったが、想定の二倍以上の砲撃を受ける事までは考えられていなかった。日本艦隊の攻撃対象にされた艦は、1個戦隊からの41センチ砲の集中射撃を受け、日本艦隊に有効な打撃を与えるよりも先に自らが深く傷ついていった。
 なお、アメリカ側に轟沈した戦艦は無かったが、多くを被弾して大破した艦は続出し、何隻かは耐えられず波間に没することとなる。弾薬庫の被弾やボイラー爆発などの轟沈以外で戦艦が沈むことは希で、特にアメリカ海軍はダメージコントロールに優れているのだが、この時の沈没艦は想定以上の砲弾を被弾したと判定されている事が多い。16インチ砲弾を20発も被弾したら、流石の新鋭戦艦もどうしようも無かった。

 だが、日本側も既に多くの艦が被弾して戦闘力が落ちていた事、高速での交差状態で正確な照準が難しかった事、砲弾が不足し始めていた事などから、アメリカ側は前衛艦隊が受けたほどの打撃を被ることは無かった。それでも無傷とは縁遠く、最終的にほぼ全ての戦艦が何らかの損害を受けた。陣形、隊列も大きく乱れ、砲撃戦を終えると一目散に逃げる日本艦隊を追撃することも叶わなかった。
 なお、日本側の戦艦の中には徹甲弾を全弾撃ち尽くした艦もあったし、砲撃のしすぎによる加熱または砲身内の摩耗で命中精度が大幅に落ちていた艦もあった。この戦いでも日本艦隊が勝利したが、それは幸運の上での勝利だった事は間違いない。戦場の女神とは、常に積極果敢な者、勇敢な者に媚びを売るものだからだ。
 そしてこのまま戦い続ければ日本艦隊が完全勝利出来たと言われることもあるが、この時点で日本艦隊は既に限界だった。実際に日本艦隊は、バッファローの群のように突進した戦艦群とは違い、砲弾が残り少なかった巡洋艦、駆逐艦は砲撃戦には極力加わらずに敵巡洋艦、駆逐艦の牽制と自らの回避に専念した。アメリカ側の巡洋艦を主に砲撃していたのも、巡洋艦よりも砲弾を残していた《金剛》《榛名》だった。
 そして最後に、残っていた最後の魚雷を進路妨害を目的として幅広く投射して、さらに殿の駆逐隊が煙幕を展開し、それを戦闘での最後の任務とした。日本艦隊で最後に戦場を去ったのは、最後の魚雷を扇状に投射した駆逐艦《浦風》《磯風》《浜風》《雪風》だった(※しかも1発が巡洋艦に偶然命中している)。

 アメリカ艦隊の追撃を強引に突破した日本艦隊だが、幸いにも致命傷を受けた大型艦はなかった。戦闘時間が両方合わせて30分に満たないので、いかにレーダー射撃を行っても1隻当たりの戦艦が相手に命中させられる砲弾に限りがあった。しかも日本側はアメリカ側の二倍の数の戦艦があり、多くの艦は通常砲戦距離での16インチ砲弾に耐えられるだけの強固な防御力を有していた。この戦いでは「旧式」と評価される事もある「八八艦隊」の各戦艦も、過剰なほどの近代改装による防御力の強化によって、上面から降り注いだ16インチ砲弾を実質的に弾くほどの防御力を発揮している。後に「八八艦隊」の各戦艦の改装図面を見たアメリカ海軍の技術将校が、「鋼鉄のペチコート」と呼んだほどだ。
 なお、ヘビーシェルと言われる重量弾を打ち出す50口径16インチ砲は確かに強力で、砲弾が重いだけに命中すれば破壊力は大きいが、中距離以上の命中精度には問題があった。この点、日本側の選択した45口径砲の方が、総合的には妥当な判断だったと言われる事も多い。突出した性能はないが、どの距離でも安定した命中率と破壊力を長時間発揮できるという評価だ。今まで同様、この戦いでもその事は立証されたような形となり、後世において低進弾道性と貫通力に優れた長砲身砲は、遠距離射撃には不向きだと言われるようになる(※無論、評価は様々だ)。
 また一部で言われた、アメリカ新鋭戦艦の主砲発射速度の速さだが、よほど接近しないのなら、見越し射撃でも行わない限り効果を発揮することは難しい。捜索レーダーだと観測しながら砲撃を行うので、乱戦だとほぼ使えない。射撃レーダーを用いても、一般的には光学系の測距装置と併用する事になるし、アメリカでも当時の最新鋭でないと見越し射撃はほぼ不可能だった。夜間となれば尚更だ。機械に熟練した水兵が少なかった事も、この時の戦闘に影響していた。結局この戦いでも、装填速度の差は特に大きな役割を果たさなかった。

 交差後、日本側の雷撃と自らの損害もあって、アメリカ艦隊は日本艦隊が180度ターンをしたあとの追撃戦がまともに出来なかった。アメリカ側に出来たのは、損傷で速力を大きく落とした一部の日本艦艇の掃討ぐらいで、その数も極めて限られていた。
 そして何より、夜間の追撃戦が組織的に出来るほどの統制が既に難しくなっていた。
 こうして第二次世界大戦最後の砲雷撃戦は、再び日本艦隊の戦術的な勝利で幕を閉じたのだが、日米の艦隊決戦はまだ続いていた。
 度重なる戦いを経て後退中の日本主力艦隊に対して、怒り狂ったハルゼー提督の空母機動部隊が襲いかかったからだ。

 4月4日黎明、戦場からの離脱を続ける日本主力艦隊は、パラオへの道半ばにあった。
 これに対して、いまだ約60%の戦闘力を残していたハルゼー提督の機動部隊は(夜間の機体修理と整備で稼働機を増やしていた)、黎明索敵も行わずにいきなり攻撃隊を日本艦隊の概略方向に向けて解き放った。
 この時ハルゼー機動部隊は、修理や組み立ても合わせて約500機の艦載機数を維持し、このうち約200機が各種攻撃機だった。そして母艦は8隻が健在なので、一度に約半数を放つことが出来た。
 実際、第一次攻撃隊は各母艦15機〜30機の約160機で編成され、同攻撃隊に対して総司令官のハルゼー提督は「必ず戦艦を沈めろ」と強い語気で命令していた。致命的ミスを犯したハルゼー提督としては、せめて敵戦艦をいくらか沈めておかなければ立場がないからだが、感情的には自らを「コケ」にした日本艦隊への復讐心から出た言葉だという表現が多い。

 午前6時半頃、何とか対空陣形(輪形陣)を取った日本艦隊上空に、早くもアメリカ軍艦載機の群れが襲来する。
 160機のうち約110機が攻撃機だったが、戦艦撃沈を厳命されていたので集中攻撃を決める。そして彼らが選んだのが、上空から非常に目立つ3隻の大型戦艦を中心とした第一艦隊だった。《大和型》戦艦は世界最大の戦艦であり、他の艦に比べて艦幅が広く、日本戦艦の中では主砲配置などが独特のため、上空からも目立っていた。しかし日本艦隊も同級を艦隊の中心に据えており、左右を「八八艦隊」各艦が固め、さらに駆逐艦や巡洋艦が不完全ながらも輪形陣を組んでいた。
 そしてアメリカ軍編隊の攻撃開始と共に、一斉に回避機動と対空弾幕の形成を実施したのだが、日本艦隊の弾幕は弱かった。
 この時までに日本の各艦艇は、日本海軍としては出来る限りの対空装備を施してこの戦いに及んでいたのだが、今までの激しい戦闘で多くが損傷したり兵員が傷ついていた為、実際火網を形成出来たのは無傷だった場合の60%程度でしかなかった。しかも日本側の精一杯はアメリカと比べるとかなり劣り、加えてアメリカ軍機は日本機に比べると非常に丈夫な為、日本側の対空砲火で撃墜された機体の数は、最終的に20数機に過ぎなかった。
 日本の機動部隊との戦果の違いは、機動部隊に随伴した艦艇に防空駆逐艦など防空戦に特化した艦艇が多かった為だ。
 しかしアメリカ軍艦載機は、日本艦隊に対して攻撃を実施する前に、一つの試練をくぐらなければならなかった。対空用砲弾でもある「零式榴弾」による洗礼だ。
 この時日本艦隊の大型艦にいまだ欠損や脱落はなく、主砲の80%以上が使用可能だった。
 これら日本軍艦艇から、距離約20キロメートルの時点で一斉砲撃が実施された。砲撃の瞬間、アメリカ軍艦載機のパイロット達は戦艦の「愚かな砲撃」をあざ笑っていた。しかし約1分後、その笑顔は完全に引きつることになる。何しろ200発以上の大型砲弾が一斉に眼前で炸裂したのだ。砲弾は時限信管のため正確に編隊前や編隊中で炸裂したものは限られていたのだが、全てが見当はずれではなかった。面制圧、空間制圧を目的とした統制弾幕射撃は、アメリカ軍編隊のかなりを捉えた。それでも命中率は5%にも満たなかったが、この攻撃で約5%に当たる9機が撃墜され13機が損傷して後退離脱を余儀なくされた。編隊も混乱し、その後も集団で固まると危険だと考えられたため、集中攻撃にも乱れが生じた。
 この後すぐにアメリカ軍艦載機は編隊を解いたので、二度目の主砲弾による対空弾幕は殆ど効果が無かったが、次からは6.1インチ砲、6インチ砲、5インチ砲、10センチ砲が火を噴き始める。距離が近づくと、日本海軍が標準装備する無数と表現出来るほどの25mm機銃が火蓋を切った。艦の中には、対空ロケットを発射するものもあった。そしてその火炎地獄の中をアメリカ軍艦載機はくぐり抜け、魚雷や爆弾を日本軍艦艇に見舞った。
 また爆弾や魚雷は、回避によってかなりの確率で避けることが出来るのだが、この時の戦いも同様だった。
 なお、この時主に狙われたのは、各戦艦隊列の後方を進んでいた《信濃》、《尾張》、《長門》だった。このうち《長門》以外は既に中破程度に傷ついており、対空砲火もかなり衰えていた。 
 そして約100機の攻撃機は、《信濃》に約50機、他には約20〜30機とアメリカ側の母艦グループにほぼ分かれて攻撃したため、極端な集中攻撃とはならなかった。加えて、数が減ったとはいえ戦艦群の濃密な弾幕に晒されたため、アメリカ側の攻撃も有効なものは少なかった。
 またアメリカ軍編隊が狙った戦艦は、敢えて各隊列の後方に位置していた。これはどの艦も対空火力が他の艦よりも強化され、さらに火器の損傷が比較的軽微だったからだ。これは第一艦隊だけでなく第二艦隊も同様だった。ちなみに、《長門》は八八艦隊の戦艦で最初に高角砲の近代改装を受けた戦艦で対空能力が他より高く、《信濃》は日本の戦艦で最高の対空能力を誇る戦艦だった。このためアメリカ軍の攻撃は、いっそう振るわなかった。
 それでも狙われた各艦に魚雷1〜2本、爆弾数発が命中し、魚雷2本を受けた《信濃》は今までの損害も重なって最高速力が22ノットにまで低下していた。このまま攻撃が続けば、日本艦隊はなぶり殺しだった。
 アメリカ軍攻撃隊も、「攻撃は有効」と打電している。

 そして約一時間後、ほぼ同規模の第二次攻撃隊約140機が飛来したが、今度は日本側が反撃に転じた。といっても、艦砲や対空砲を有効に使ったというわけではない。アメリカ軍が編隊を攻撃体形への変更中、朝にヤップ島を飛び立った戦闘機隊約60機が、太陽の中から逆さ落としでアメリカ軍攻撃機に襲いかかったのだ。日本軍が、強引にヤップに援護の戦闘機隊を進出させていたことが功を奏した形だった(※日本軍のヤップの航空隊は、二度目のマリアナ侵攻前に一度壊滅している。)。
 この時アメリカ軍編隊は、第一次攻撃隊が戦闘機によるインターセプトを全く受けなかった事に油断し、制空隊の戦闘機の多くも攻撃隊と共に機銃掃射をしようと高度を落としていた。そこに日本軍戦闘機がより上空から奇襲の形で襲いかかったため、一撃で多くの機体が撃墜されることになる。その後は乱戦となったが、機先を制され体制が整わないアメリカ側の攻撃は大きく乱れた。スキを突いての小規模編隊ごとの攻撃が主体となり、初期の目的だった集中攻撃はもはや叶わなかった。
 しかも、ここでも日本側は戦闘機の半数近くを「紫電」や「紫電改」、「烈風」など強力な機体としていたので、残りのアメリカ軍の「F6F ヘルキャット」では制空権確保が難しかった。「F4-U コルセア」でも「烈風」と互角で、数も十分では無かった。アメリカ側の攻撃機のかなりも撃墜されたり、攻撃しないまま弾薬の投機を余儀なくされた。実際の攻撃は攻撃機のうちの20%程度(約20機)しか行えず、日本側艦艇に数発の命中や至近弾を得ただけで終わらなければならなかった。そして主目標とされた戦艦とはタフネスなものだった。

 しかもその頃、ハルゼー機動艦隊も予想外の苦境に追い込まれていた。
 散々に攻撃したので後退したと思っていた日本軍空母部隊の残存艦隊が、後退することなく追撃戦を実施し、数十機ながら空襲をしかけていたのだ。その上、松田提督を臨時指揮官として、機動部隊に随伴していた旧式戦艦の戦艦《比叡》《霧島》《伊勢》《日向》、重巡洋艦《那智》《足柄》を中心にした臨時の水上打撃艦隊を編成し、その臨時の打撃艦隊は前日の夕方に機動部隊から分かれて夜間も進撃を続けていた。アメリカ側が気付いた時には距離は既に100海里もなく、アメリカ側の機動部隊が捕捉される可能性も十分にあった。
 この時の日本艦隊は、猛将と言われたハルゼー提督よりも勇敢だった。
 戦闘は、日本側の航空攻撃の多くは撃退されたが、攻撃機を準備中の大型空母の《ベニントン》は魚雷を抱いたままの自爆機の突入によって、出撃準備中の多数の艦載機に搭載していた魚雷、爆弾、そして高純度燃料が次々に誘爆した。そして敵の追撃が懸念された事もあって早期に総員退艦が命令されたが、あまりに激しい火災のため戦死者1000名を数えるほどの大損害を受けてしまう。
 また同様に、軽空母の《バターン》も被弾時に自らの艦載機のため火だるまとなり、先の戦闘で被弾していたのと、艦の規模が小さかったこともあって踏みとどまれず波間に没した。
 他にも大型空母の《タイコンデロガ》が被弾し、こちらも一部で誘爆が発生して、作戦期間中の航空機発着能力を完全に喪失していた。パラオ方面に逃げる日本の主力艦隊への攻撃のための攻撃隊編成の合間を突かれた為、アメリカ軍の空母は自らの弾薬、燃料によって次々に火だるまとなった。
 これでアメリカの稼働状態の高速空母は総数5隻、艦載機総数も帰還途上の機体を含めて実質的に300機程度にまで低下してしまう。
 そして日本艦隊が北方から迫るため、進路を風向きに逆らって南に進めるより他無く、カタパルトを使用しても艦載機の発着に大きな支障が出た。
 それでもハルゼー提督はパラオへと逃げる日本艦隊への攻撃を続行しようとしたのだが、それは叶わなかった。
 この段階でハワイの太平洋艦隊司令部が、敵艦隊への攻撃ではなく、サイパン島で壊滅した友軍の援護と撤退をマリアナ諸島近辺にいる全ての艦艇に命令したからだ。
 実際、上陸部隊、上陸船団が殲滅されたサイパン島では、日本軍守備隊による重砲射撃などで被害がさらに拡大しており、一刻も早く島から離れる為にも支援が必要だった。

 アメリカ軍の攻勢は、4月4日の午前中に完全に終了した。
 追撃されていた日本艦隊が、勝利の凱歌ならぬ安堵のため息をもらしたのは、その日の午後を回ってからだった。

 その後、激闘を終えた日本艦隊は、それぞれパラオもしくは日本本土に何とか帰投した。損傷艦は非常に多かったが、主要艦艇の生還率は80%以上に達していた。何と言っても、25隻投入された戦艦全てが無事帰投した事は、現代戦史上で一つの奇跡と言われており、マリアナでの日本海軍の勝利と栄光を印象づけた。
 アメリカ軍は、サイパン島からの砲撃、硫黄島方面から続く日本軍の空襲の合間を縫って、日本軍の激しい反撃が続くサイパン島で拾えるだけの友軍を収容し、残存部隊の引き上げとマーシャル諸島のエニウェトク環礁またはハワイまでの撤退を実施した。
 アメリカ軍は、水上艦隊は修理すれば辛うじて作戦続行できる程度に残っていたが、強襲上陸支援艦隊と上陸部隊が全滅したので、日本との戦争の根本がへし折られる事となった。
 前回と違い、既に戦略的な優位があるためエニウェトク環礁はアメリカ側が保持し続けたが、もはや戦争自体が大きく転換したことは、多くの人々が感じている事だった。


●フェイズ19:「終幕に向けて」