■源平合戦と義経探索

 西暦11世紀後半、ユーラシア大陸の東部辺境にあった日本列島では、この地域独自の封建的主従関係を持った新たな支配階層である『武士』が台頭。源氏と平氏という二つの勢力に分かれて、今後の日本の覇権を争っていた。ただし天皇という旧時代の祭祀的色合いを残した権威的支配者が存在したまま争いが行われた事に、日本という特殊な地域の政治事情がかいま見えてくる。同時に日本という民族社会全体が、他の地域や国家から隔離されていた事の何よりの証拠とも言えた。
 源平の勢力争いは、平清盛という優れた指導者を得た平氏がまずは我が世の春を謳歌する。だが清盛の死と共に、極めて短期間で平氏は衰退。逆に源氏は勢力を盛り返して対抗し、ついには源氏と平氏は全面対決に至る。
 戦況は、貴族化して衰退・内部腐敗していた平氏の半ば自滅という形で推移するが、地方で力を蓄えていた源氏も決定打にはいまいち欠けていた。
 そうした時、源氏宗家の中から戦争の天才、源義経が現れる。ただし彼は、旧弊に捕らわれない代わりに政治と儀礼に欠けるところがあり、にも関わらずかなりの名誉欲があった。そして遂に、屋島の合戦前に兄頼朝の不興を買って総司令官を解任される。なまじ中途半端な反論をしたために京の都への帰還も許されず、高野山への隠遁を言い渡されてしまう。
 しかも源義経は高野山入りをよしとせずに、主従共々は旧知の奥州藤原氏へと隠遁する。事実上の逃亡に激怒した頼朝であったが、当面は平氏との対決が優先されるため放置するより他なかった。
 そして戦争の天才(戦術の天才)を失った源氏軍だったが、源義経を欠いたことは結局平氏の寿命を少しだけ延長しただけの変化に終わる。平氏は結局陸でどんどん勢力図を塗り替えられた末に制海権を失って、追いつめられた先の太宰府にて息絶えた。勝利した源氏は、日本での権力の象徴となる三種の神器の奪回にも成功した。一部の平氏が海外逃亡したとも見られたが、根無し草にできることはないと源氏は判断した。
 その後日本中央での権力を確立した源頼朝は、弟義経が隠遁した北陸の奥州藤原氏に対して強く出る。この頃奥州藤原氏は、約百年間の間事実上半独立状態であったため、日本の中央にとっても侮れない勢力となっていた。しかも日本史上、経済重心が二つ存在した形での勢力分割という構図は今まで存在していなかっただけに、源氏の受けていた圧力は大きな者だった。
 そしてこれに奥州二十万騎に義経の軍事的才幹が加われば、奥州藤原氏は中央に十分対抗できると考えられていた。もっとも「二十万騎」という言葉は完全な誇張であり、当時の奥州にそれだけの軍事力を抱える人口も国力もなかった。仮に根こそぎ動員ができたとしても、数万の単位の兵士が揃えられるかどうかだった。この二十万という数字は、当時の関東より北で総動員(総人口の一割の動員)を行っても実現できるかという数字である。騎という言葉が表す騎馬の数など、百分の一の2000騎もあれば良い方だろう。当然だが、軍事組織、兵站などの未発達だった当時、数字通りの軍事力を揃えることなど夢物語でしかない。
 しかしそれは日本列島全般も同じであり、奥州藤原氏は容易ならざる敵手であった事は間違いない。当時の日本列島全体で見ても、総人口は1000万人程度だったのだ。
 そして義経主従は隠遁からずっと源氏の圧力が強まる事に対して準備しており、頼朝側も容易に奥州藤原氏に攻め込むわけにはいかなかった。また四代目の泰衝に代替わりしていた奥州藤原氏も、軍事の権限の多くを義経主従に移していた。強大となった源氏に対して、軍の効率化と指揮系統の一本化は至上命題だったからだ。だが一方では、義経らに従う者が増えていたため、政治的取引として頼朝から提示された義経らの排除も叶わず、奥州藤原氏は中央との対決姿勢を強めた。
 それでも源頼朝は、力を蓄え政治的地盤の強化に務め、ついに1189年泰衝に義経追討を命令。これに泰衝が完全に怯えてしまい、自ら義経を暗殺することでの保身を画策する。
 不意に味方から攻められた義経らは、何とか泰衝を退けるも次が戦えないまでに消耗した。彼らが整えた軍も、内部分裂を引き起こして機能しなくなってしまう。そして進退窮まった義経一派は、奥州から蝦夷(北海道)の奥深くへと落ち延びていった。軍船数隻を用いて日本海を北上したと言われており、多数の武器と種籾、製鉄器具、農耕器具、多数の砂金を有した彼らの数は数百名に及ぶと言われている。
 その後奥州藤原氏は頼朝によって呆気なく滅ぼされ、1192年に奥州藤原氏討伐のため征夷大将軍を受けた源頼朝が、日本史上初の封建政権となる鎌倉幕府が成立させた。

 その後鎌倉幕府は、蝦夷深くへの探索を継続して行った。義経の生存と反撃を恐れたからだ。しかも義経は、頼朝が掴んでいる限りでも既に嫡子が生まれており、彼と彼の子孫が自らと取って代わることを恐れた。特に頼朝一族を抱える事で権勢を握った北条氏の恐怖と焦りは大きく、大規模な北方探索が執念深いというレベルで行われた。
 そうした中で、日本人とアイヌの接触が広く発生する。当初は突発的に、そしてその後は継続的な交易関係が発生していった。また鎌倉幕府は、そうしたアイヌとの接触によって義経らの消息を掴もうとした。そして彼らの努力はいくらか報われ、アイヌの一部で義経の足跡を掴むことになる。義経らは農業や様々な日本本土の優れた技術を蝦夷南部及び南東部のアイヌ氏族に教えており、数年間滞在していた部族も存在していた事が分かった。
 ただし義経主従は、アイヌの協力で丈夫で大きな船を建造するとこれに乗り込み、東の海へとこぎ出していったと、アイヌの長老は幕府の役人に答えた。
 これを丸飲みしなかった鎌倉幕府は、その後も蝦夷での継続的な探査とアイヌの内定を進めるも、結局義経らを発見することはできなかった。一部では東の海ではなく奥蝦夷(樺太)から大陸北部へと逃れたとも観測されたが、その後の行方は知れなかった。
 そしていつまで経っても日本人の前に姿を現さない義経らに、人々はいつしか関心を失っていった。気づいてみると、どう考えても義経は死んでいる時期になっていた。
 なおこの時の鎌倉幕府役人の足跡は、樺太島北部から千島列島にまで及んでおり、日本人の手で行われた最初の計画的な北方探索ともなった。かなり詳しい地図も、鎌倉幕府の手によって作られた。また、荒れた北方の海での航海のために可能な限り高性能な船の建造が行われ、その時建材として現地蝦夷の丈夫な木材が注目されることになる。これはその後、既に始まっていたアイヌとの貿易を活発にさせ、蝦夷の木材がアイヌの手によって幕府に朝貢(交換貿易)される端緒となった。


●元寇